キミの秘密も愛してる

 七月に入って、気温はうなぎ登りに上がり、毎日暑い日が続いていた。
 今年の最高気温は、毎日のように記録が塗り替えられている。
 
「さすがに暑いね……」
 口に出すとなおさら暑くなるような気がして、ずっと黙っていた本音がついつい出てしまった。
 
 隣を歩く海君は、
「帽子も被らないで歩いてるからだよ……」
 自分が被っていた赤いキャップを私の頭に被せる。
 
 帽子から少し香った海君の匂いが、まるで自分の全身を包んでしまったような気がして、私は大慌てで、胸の鼓動をごまかすように口を開いた。
「海君だって……! 帽子被って来たのなんてひさしぶりじゃない。初めて二人で海に行った時以来だよ」
 
 彼はちょっと笑って、
「そろそろ被っとかないと、俺の場合、暑さにやられて倒れるからね……」
 冗談とも本気ともつかないことを言う。
 
(またそんなこと言って!)
 笑いながら言い返そうとした言葉は、喉のあたりでつかえて止まってしまった。
 
 今朝の、調子の悪そうな様子の海君を思い出す。
 それから、いつだったか海君から病院の匂いがしたこと。
 怒って歩き去る私を、海君が追いかけてこなかった時の、演技とは思えなかった顔色の悪さ。
 そして、しばらく会えなかった間に偶然見かけた、海君に良く似た具合の悪そうな人。
 
 いろんなことが、フラッシュバックのように一気に私の脳裏に甦って、そしたらもう、笑顔を作ることさえできなくなってしまった。
(……海君?)
 
 突然湧いた疑惑に、私の全身が緊張する。
 体中から冷たい汗が噴き出してきそうに、おそろしく力が入っている。
 
(そんなはずない……そんなはずないじゃない……!)
 いくら否定しようとしても、私の心からその思いが消えてくれない。
 
 だから、彼に尋ねた。
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 きっと海君がいつものように私をからかっただけで、すぐにあの悪戯っぽい笑顔を見せてくれるんだ。
 
 きっと早とちりな私の、笑っちゃうようなかん違い。
 ――なかば祈るように、そう思っていた。
 
 だけど海君は、肯定も否定もせず、例の曖昧な笑いを浮かべて私の顔を見た。
 
 その瞬間、このことは私の中で大きな意味を持って、忘れられない不安になってしまった。
(海君がこういう笑い方をしたら……もうこれ以上は聞かないでくれってことだ……!)
 
 ドキリと胸が鳴る。
 自分に関して知られたくないことの時に、海君はこんな笑い方をする。
 
 ただ漠然と、何の根拠もない疑問のつもりだったのに、体調について海君に尋ねるのはタブーなんだと、その時、私の心には刻みこまれてしまった。


 
 一度気になり出したら、そのことばかりが気になって、どうしようもなくなってしまう。
 私は小さい頃からそんな子で、よくボーっとしては、周りに迷惑をかけた。
 
 何も考えていないわけではない。
 一つのことを考えて考えて、他のことには頭がまわらなくなるだけ。
 
 海君の体調に疑問を持ったあの日から、私はまさにその典型の状態に陥ってしまった。


 
「……真実……ちょっと聞いてる?」
 隣に座る愛梨に小声で囁かれて、講義中に慌てて我に返ったのは、もう何度目だろう。
 いつの間にか教授の話は、私の開いたページの三ページ先まで進んでいた。
 
「う、うん。大丈夫……」
 反射的にそうは返事したけれど、実際私がその時考えていたのは、やっぱり海君のことだった。
 
(今までも……ひょっとして、具合が悪かったのかな?)
 とてもそうは見えなかったけれど、私の人を見る目には我ながら自信がない。
 それに海君にしてみたら、単純な私の目をごまかすことなんて、ごくごく簡単かもしれない。
(……これが海君の秘密?)
 
 ひとりで考えていると不安ばかりが大きくなる。
 何も教えてもらえないから。
 尋ねる術を私は持たないから。
 
 ――嘘だ。
 本当はわかっている。
 
 私がハッキリと、「ねぇ海君……どこが悪いの?」と聞いてしまえば、海君はちゃんと本当の答えをくれるはずだ。
 彼は決して嘘はつかない。
 それがたとえ自分にとって不都合なことでも。
 ――でも、そうすることは怖い。
 
(この漠然とした不安は何……?)
 万に一つもそんなことはないと自分でも思っているのに、確かめることが怖い。
(だってもし……本当だったら? ……命に関わるようなたいへんな病気だったら?)
 ――嫌だ。
 そんなこと、信じたくない。
 海君にもしものことがあるかもしれないなんて、そんな事実、今の私にはとても受け入れられない。
 
(こんなに……こんなに大事なんだ……)
 改めて、自分の中での彼の存在の大きさに驚かされた。
(ほんの少しの不安も受け入れたくないほどなんだ……)
 私の中に芽生えた途方もなく大きな想いは、とっても不安定でぎこちなくて、そのくせ私の全てを占領してしまいそうに、熱く重かった。


 
 昼休み。
 カフェテリアでみんなでテーブルを囲んでいる間も、私は頬杖をついたままボーッとしていた。
 
 海君のことを、ああでもない、こうでもないと一人で考え過ぎて、すっかり疲れてしまった。
 そんな私を元気づけようとでも思ったのか、貴子が唐突に口を開く。
 
「恋は盲目だからな。あんがい一歩引いて見たほうが、気がつくことってのもあるもんだよ……」
 さも当然というように、したり顔で頷く貴子を、愛梨が呆れて見つめている。
 
「貴子……いったいいつ、そんな恋を経験したのよ……?」
 かなり重要な点をついたその質問に、花菜は懸命に笑いをこらえながら私の顔を盗み見た。
 あんまりそんな気分じゃなかった私も、思わず笑ってしまう。
 
「私の経験なわけないだろ。愛梨……お前はもっと本を読め」
 貴子はさも当然とばかりに、堂々と胸を張ってそう言い放った。
 愛梨は頭を抱えた。 
「そんなことだと思った! ……べつに本で調べなくっても、私は実体験からそのへんのところはよーくわかってます……!」
 
 もう我慢できなくなって、私と花菜はクスクスと笑いだした。
 
 貴子と愛梨は、興味のあること、向いている方向がまるで真逆だ。
 恋や遊びやおしゃれや流行や、楽しいことが大好きな愛梨と、着るものにも食べものにもまったく頓着せず、勉強一筋、将来の目標に向かってまっしぐらの貴子。
 
 その二人がこうして一緒にいることに、周りの人たちはよく首を傾げる。
 きっかけは愛梨と仲が良かった私と、貴子と仲が良かった花菜が仲良くなったこと。
 それでできた四人組。
 
 でもなかなか個性的で、それぞれがそれぞれを刺激しあって、いい関係を築いていると思っているのは私だけではないはず。
 毎日一緒にいても、ちっとも飽きるということがない。
 
「まあまあ……二人とも真実ちゃんが心配なのはきっと一緒なんだから……いっそのこと本人に、ここ二、三日いったいなんでため息ばっかり吐いているのか、聞いてみたら……?」
 ニコニコと笑いながら花菜が二人の仲裁をしてしまうのは、あまりにもいつもどおりだったけど、突然話の矛先を向けられて、私は正直あせった。
 
「え? ……私!?」
「そう」
 花菜の笑顔はますます輝いた。
 
 その笑顔と向き合うたびに、うらやましく思わずにはいられない。
 もし私が花菜みたいに気が利いていたら、海君の体調にだってもっと早く気づけていただろうし、今頃こんなに悩むこともなかったはずだ。
 
 日頃は心の中でだけくり返していたその思いを、ついつい口に出してしまった。
「私も、花菜みたいに大人で、よく気がつく人間なら良かった……」
 
「えっ?」
 一瞬目を見開いてから、花菜はまたニコニコといつも以上の笑顔になり、まるで海君みたいに、私の頭を抱き寄せた。
 
「そんなことないよ。ほんっと真実ちゃんにはかなわないって、私思うもん」
「…………?」
 それはいったいどんな時にだろう。
 私はぜひとも花菜に尋ねてみたかったのに、
「そうだな。真実は変化球なしの、一本勝負だからな」
 貴子が、わかりやすいんだか、まわりりくどいんだかよくわからない例えをして、
「大丈夫だよー。それが真実の良い所ところだって、少なくとも海君はちゃんとわかってるからー」
 愛梨が自信満々に言い切るから、すっかりタイミングを逃してしまう。
 
「それとも何? 真実ったら、海君以外にも好きな人がいるの?」
 愛梨に唐突にそう問いかけられて、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「いない! いるわけないよっ!」
 私のその反応に、三人はそれぞれにとてもおかしそうに笑いだした。
 
「真実はそのままでいいよ」
 笑いながらではあったけれど、貴子に自身満々にそう言われて、私はそんなものなのかと、半信半疑のまま頷いた。


 
「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を並んで、私のアパートまでの道を歩きながら、海君は唐突にそんなことを言った。
 
 ドキリと高鳴った胸をごまかすように、
「ベ、別にないよ」
 と私は笑ったけれど、その笑顔がうつろだってことは、自分でもわかってた。
 
 海君はクスリと笑いながら、
「本当に?」
 と私の顔をのぞきこむ。
 
 海君に隠しごとをするのは難しい。
 私は考えていることがすぐに顔に出てしまうし、海君は、こと私に関しては、超能力でもあるんじゃないかと思うくらい勘がいい。 
 
 でもこの間からずっと心に抱えている、彼の体調に関する疑問を、口に出す勇気はまだ私にはなかった。
 だから懸命に、海君の真っ直ぐな瞳から目を逸らす。
 
「本当に……なんにもないよ……」
 正直自分でも、
(もう少しごまかしようがあるでしょ。これじゃバレバレだよ)
 と思う。
 
 案の定、海君にはまったく通用しなかったらしい。
 
「何?」
 私の返事なんて無視で、軽く首を傾げてさらに聞いてくる。
 
「な、何が?」
 必死でがんばる私に、
「真実さんが俺に聞きたいこと……ううん、ひょっとしたら、言いたいことかな……?」
 余裕の笑顔でニッコリと畳みかける。
 
(うう……やっぱり海君にはかなわない……!)
 俯いた私はそれでもがんばった。
 
「べ、別に何もないよ……」
 海君が隣でクスリと笑った気配がした。
 と思ったら次の瞬間、繋いでいた手を引き寄せられて、あっという間に彼の腕の中に抱きしめられていた。
 
「え? ちょ……海君?」
 何も答えてはくれない笑顔が、真っ直ぐに私の顔に近づいてくる。
 
 鼻と鼻が触れてしまいそうなくらい近い距離で、海君はもう一度、
「何?」
 と私に問いかけた。
 
 ――もう。もう耐えられるはずがない。
 
 ついそのまま目を閉じてしまいそうになる自分を懸命に自制しながら、私は降参の声を上げた。
「わかった。言うから……ちゃんと海君に聞きたかったことを言うから……!」
 泣き出してしまいそうだった。
 
 海君は鮮やかに笑って、私を抱きしめていた腕を解く。
 その笑顔があまりにもおかしそうだったんで、半分からかわれていたんだということに、私はやっと気がつく。
 
(もうっ! さては、私を脅かして面白がってただけね!)
 けれど、時すでに遅し。
 開放されてフーッと息を吐く私を、海君は真っ直ぐに見つめて待っている。
 
 彼とした約束は必ず守ると、私はずっと以前に自分で決めた。
 だから何か言わなければと改めて彼の顔を見上げて、本当に困った。
 
(どうしよう……何を聞こう?)
 実は海君は、私が内心困っていることまで、お見とおしなのかもしれない。
 どんな質問が返ってくるのか、興味津々といった顔で、私の次の言葉を待っている。
 
(「海君、どこが悪いの?」ってだけは聞けない……絶対聞けない……答えを貰うのが怖いから……)
 その思いばかりが強くて、私は無心で口を開いた。
 
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 本当に本当の本当は、ずーっとずーーっと心のどこかに引っ掛かって、気になってどうしようもなかったことが、思わず口をついて出てしまった。
 
(な、何言ってるの! 私!)
 慌てて両手で口を塞いだ。
 動転して、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
 
 海君は予想もしなかった私の問いかけに、不意を突かれてポカンとしている。
 その顔を見ていたら、ますます恥ずかしくなってきた。
 
(なんでこんなこと言っちゃうんだろう! せいいっぱい気にしてないフリしてるのに! 年上らしくしようとしてるのにっ! これじゃ、海君の口から女の子の名前が出てきただけで、私動揺します、しまくりですって、言ってるようなものだよ!)
 もうこの場から逃げ出してしまおうとする私の腕を、海君はしっかりとつかんでいる。
 
 そうしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 考えこんでいた海君は、ようやくその答えに行き着いたらしい。
 ニヤリと嬉しそうに笑った。
 
 どうやらあの日のことを思い出したらしい。
 ――彼の携帯に電話がかかって来たあの日。
 
「ああー……あの時か!」
 納得したように何度も頷いてから、私の顔をのぞきこんだ。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
「し、してないよっ!」
 
 慌てて言い返したって、きっと言い訳にしか聞こえない。
 私が慌てれば慌てるほど、海君をますます笑わせることになるだけだ。
 
(でも、それにしたって……なんでそんなに嬉しそうに笑うのよ! こっちは恥ずかしくって、情けなくって、今すぐいなくなりたいくらいなのに!)
 
 すぐにでも駆けだしそうな私を知ってか知らずか、海君は掴んだ腕を離してくれない。
 とびきり上機嫌な笑顔で、瞳を艶やかに輝かせながら、私にゆっくりと顔を近づけてくる。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 
 悪戯っぽく笑いながら、そんなに近くから見つめられたら、もう急いで頷くしかない。
「信じる! 信じるから放して!」
 
 焦って叫んだ私に、海君はニッコリ笑って、そのまま軽くキスをした。
 
 目を瞑る間もない一瞬の出来事に、抗議の言葉も出なくて、呆然と立ち尽くす私の目の前で、ちょうどその時、海君の胸ポケットでタイミングよく問題の携帯が鳴りだす。
 
 反射的に海君の体を押しやって、私は彼から一歩離れるように飛びのいた。
 
 ふっと小さく笑った海君は、携帯に表示された名前だけ確認すると、あからさまにその電源を切った。
 
「えっ! 出ないの?」
 思わず叫ぶ私に、
 
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 と海君は飛びっきりの笑顔を見せる。
 だけど――
 
「しないわよ!」
 あまりのことに、私はゆっくりと彼の笑顔に見惚れている暇もなかった。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 涙が浮かんできそうな思いで、私は必死に叫んでいるのに、海君の笑顔は崩れないどころか、ますます嬉しそうになる。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 この上なく幸せそうな笑顔で、そんなドキドキするようなことを言ったって、私はときめいたりしない。
 ――なんてただの強がりだ。
 
 最高にドキドキする胸を抱えたまま、私はついに海君を置き去りにして、一人歩きだした。
 
「真実さん待って」
 あいかわらず笑いまじりの声だけが、私を追いかけてきた。
「ねえ真実さん。待ってよ」
 言葉だけで追いかけてくる海君を、私は今回ばかりは絶対にふり返らないと心に誓う。
 
(待たない! そんな……笑いながら呼んだって、絶対に待たない!)
 私は黙ったままさらに足を速める。
 
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
 いくら頼まれたって、海君が決して走って追いかけてはこないってわかってたって、そう簡単にはもう止まれない。
 これは私の意地だ。
 
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
 ふいに海君の声音が変わり、しかもその声が、立ち止まったように聞こえたけれど、
 
(そんな手には乗りません!)
 私はかまわず歩き続けた。
 
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
 
(見ません!)
 心の中で思いっきり意地悪に返事をして、そのまま歩き続ける。
 真っ直ぐに前を見たまま、わき目もふらずに歩き続ける。
 
 だけどしばらくするとだんだん不安になってきて、私の歩く速度は自然とどんどん落ちていく。
 あれっきり聞こえなくなってしまった海君の私を呼ぶ声に、本当はたまらなく不安が募る。
 
 だって私は知っている。
 懸命に気づかないフリを続けているけれど、海君の体調が常に万全の状態ではないことを、頭のどこかでもうわかってる。
 
 だからちょっとしたこと、ほんの些細なことにも、たまらなく不安になる。
 真っ青な顔をして、眉根をギュッと寄せていたあの日の海君の顔が、どうしようもなく頭をチラつく。
 
(まさか……! ひょっとして……?)
 不安に駆られて、もうどうしようもなくて、のろのろとなっていた足をついに止めた私は、いつの間にかすぐうしろに来ていた海君に、両肩をガシッと掴まれた。
 
(……よかった。具合が悪くなったわけじゃなかったんだ……)
 ホッとした瞬間、そのまま体をクルリと反対向きにされる。
 
「えっ? 何?」
 真正面から向きあうかたちになった海君は、笑い含みの視線だけで、私に道路脇の壁に貼られたポスターを示した。
 
 それまで彼の言葉を軽く聞き流していただけだった私は、その時になって初めて、彼が私に見せようとしてくれていたものに気がついた。
 
 壁に何枚も貼られたポスター。
 目に飛びこんできたのは深い深い藍色。
 
『海――私の心に残るふるさと』
 
 そこに書き連ねられていた文字に、思わず隣に立つ海君の顔を見上げた。
 
「これって真実さんとおんなじ思いなんじゃないの? ……ね、おもしろいでしょ?」
 目が眩みそうなくらいに鮮やかに笑った海君に、思わずつられて笑い返してしまった。
 
(だめだ……負けちゃう……)
 どんなに怒っていても、意地を張っていても、どうやら私は海君の笑顔には勝てないようだ。
 初めからわかっていたこと。
 これ以上はいくら意地を張ったって無意味なだけ。
 
 私はため息を吐いて、海君に一歩近づいた。
(みっともなくって……悔しくって……でも、もういいよ。どうでもいいや、そんなこと……)
 
 今、隣にいてくれるこの笑顔を、もっとしっかり見つめなきゃもったいない。
 海君と一緒にいられるこの時を、もっと大切にしないと、――私はきっと後悔する。
 
 どうして急にそんなふうに思うようになったのかと訊かれれば、それはもう、悪い予感に追われる本能だったとしか答えようがないけれど、私はその時確かにそう感じていた。
 そしてそれが自分にとって一番大切なことだと判断した。
 そんな決心をせずにはいられないくらい、海君の笑顔は眩しくて――どこか儚かった。


 
「これって写真展みたいだよ……?」
 ポスターを指でなぞるようにしながら、書かれている文字を読んで、海君は私をふり返る。
 
「真実さんは、海が好きでしょ?」
 
 私が『海』と名づけた彼に、改めてそんなことを尋ねられると、思わず言葉に詰まる。
 けれども、それは確かに本当のことだったので、私は黙ったまま頷いた。
 
「これ、一緒に見に行こうか?」
 にっこり笑って海君は私に提案する。
 私もちょうど、そうできたらいいな――なんて思っていたところだったので、もう一度こっくりと頷く。
 
「真実さんは、本当に海が好きだもんね?」
 からかうようなその口調にはさすがに反論しておかなくちゃと、口を開きかけたが、彼の顔を見上げたら、何も言えなくなった。
 
 海君はこの上なく優しい瞳で、私を見つめていた。
 なんだか切ない。
 
「どうしたの?」
 てっきり私から怒りの反撃が来るだろうと想定して、わざとからかい気味に話していたらしい海君は、少し意外な顔をする。
 
 その顔に微笑みかける。
 なんでもないという意味で笑う。
 でも私の心の均衡は、すでに大きく大きく傾きつつあった。


 
 海君と一緒に行ったその写真展は、表通りから少し入った裏路地の、あまり目立たないギャラリーでおこなわれていた。
 
 場所的にはとても狭く、他にお客の姿もない。
 ほんの気持ち程度の観覧料を支払って、私たちは手を繋いだまま、その藍色に囲まれた空間に入った。
 
 ごく普通の、海の写真だった。
 大きさ的にはかなり大きな作品になるのかもしれない。
 一枚一枚が壁一枚分くらいの大きさで、大迫力で迫ってくる。
 
 そこに写っているのは、南の島のため息が出るような青い海ではない。
 沢山の小さな漁船が浮かぶ海。
 どちらかと言えば暗い深いその色。
 すぐ近くに迫る、無数の対岸の島。
 
 それらに囲まれた小さな切れ切れの海には、生活の匂いがする。
 かもめの声と、蒸気船の汽笛の音。
 人々の声とそれを全て飲みこむ波の音。
 
 目を閉じればいつでも私の耳に残っている大切な故郷の音が、一気に甦って、私は息をするのもやっとだった。
(どうしよう……涙が出そうだ……!)
 
 繋いでいた手にも思わず力が入ってしまったけれど、海君はそんな私の手を、負けないくらいの強さで握り返してくれた。
 
「真実さんはどうして、俺を『海』って呼ぶことにしたの?」
 囁くように問いかけられて、仰ぎ見たその顔は、とても優しい顔だった。
 初めて会ったあの夜から、海君はずっとそんな表情で私を見つめてくれている。
 だから――。
 
「なんだか優しい気持ちになれたから……私がずっと帰りたいと思っていた、あの故郷の海と同じに……すごく懐かしくって、離れたくないような感じがしたから……ふふっ……会ったばっかりだったのにこれって変だね……」
 
 小さく笑った私の頭を、海君がそっと引き寄せた。
「ありがとう。すっごく嬉しい」
 
 声が震えてた。
 私もそっと、自分から海君の胸に頭を預ける。
「こっちこそありがとう……本当にいつもいつもありがとう……」
 
 涙声になった私の頭に、海君が大きな手を載せる。
 撫でるように、そっと優しく私の短い髪を梳く。
「真実さん……夏休みになったら故郷に帰りなよ」
 
 海君にはどうして、いつも私の考えていることがわかってしまうんだろう。
 それが恥ずかしい時も、悔しい時もたくさんある。
 でもそれ以上に、本当に泣きたいくらいに嬉しくなる瞬間がある。
 
 どうしようもなく救われる。
 心から安心する。
 こんなに自分をわかってくれる相手が隣にいてくれるなんて、まるで夢の中の話みたいだ。
 
(でも夢じゃない……)
 髪に触れる大好きな長い指に体じゅうの神経を集中させながら、私は自分に言い聞かせるように何度も確認する。
(夢なんかじゃない……だけど目を閉じてもう一度開いた時に、彼がまだここにいてくれる保証はどこにもない……)
 
 胸が苦しい。
 最初っからわかっていて、受け入れているつもりだったことが、今はもうこんなに胸に痛い。
 
 いなくなってしまうのかもしれない。
 海君は、本当にもうすぐ私の傍からいなくなってしまうのかもしれない。
 この恋は幻みたいな恋だったんだと、私はその時、改めて思い知るのかもしれない。
 
(辛いよ……悲しいよ……でもこの瞬間、海君が隣にいてくれることが、それが私の今の幸せの全てだから……!)
 まだ分からない先のことを憂えて、落ちこんでいく気持ちを私はふり切った。
 
「うん、そうする。ひさしぶりに家に帰ってみる……」
 笑顔で頷いた私に、海君も笑顔になった。
 
「またこっちに帰ってくる時には、俺が迎えに行くよ。どこまでだって……真実さんのお迎えが俺の仕事だからね」
「うん」
 嬉しくて幸せで、そしてちょっぴりおかしくって、私は笑った。
 
「真実さんが大好きなその『海』を、俺も見に行くから……」
「うん」
 私もあの風景を海君に見せたいと思った。
 私の大好きな景色を、匂いを、音を、一緒に感じてほしいと思った。
 
 そうしたら聞けるかもしれない。
 私が疑問に思って、不安に思っていること全部、あの場所でなら海君に尋ねることができるかもしれない。
 
 それでたとえどんな答えが返ってきたとしても、それを受け止めることができるかもしれない。
 
 そう思うと少しだけ安心して、肩の力が抜けたような気がした。
 ずいぶんひさしぶりに、考えごとをせずに、今日は眠りにつける気がした。
 
 ホッとため息を吐く私を、海君が優しく見下ろしている。
 誰よりも何よりも愛しい瞳で笑っている。
 だから私はそっと背伸びして、その頬にキスする。
 
「真実さん?」
 驚いて私を見つめ返した海君を、本当の意味で初めて驚かすことができたと、なんだか嬉しくなった。
 


 あなたのことを想う時、自然と浮かんでくるのが私の本当の笑顔。
 作りものなんかじゃない本物の笑顔。
 
 あなたと出会うまでは知らなかった。
 あなたがいないと思い出せない。
 
 だからどうかもっと傍にいて。
 くり返しくり返し私に思い出させて。
 
 できることなら永遠に――。
 どうか私の傍にいて。
 
 お願い――。
 ひさしぶりに故郷へ帰ろうと決めた夏休みの前には、大学の前期試験が待ちかまえていた。
 出席日数が足りなくて今年はもう無理と諦めた講義は別として、せめて愛梨たちが出席にしてくれていた講義ぐらいは、単位を落とさないようにがんばらなければ――。
 でないと、ひさしぶりすぎてただでさえ敷居の高い実家に、帰ることなんてとてもできそうにない。
 
(海君とあの海に行くためにも……とりあえず今は、試験勉強をがんばる!)
 試験も間近に迫る頃になって、私はようやく学生らしい気分で意気ごんだ。


 
 私の部屋の小さなテーブルの上には乗りきらないぐらいの、テキストやプリントやルーズリーフの山。
 それらに埋もれるようにして、必死に頭を捻っている私を横目に、貴子は優雅にコーヒーを飲んでいる。
 
「……それで? 試験中は会わないでおこうとでも決めたのか?」
 突然、なんの前置きもなくそう問いかけてくるから、私は内心ドキリとする。
 
「うん。まあ……そんなところ」
 プリントの山の下から消しゴムを探すことに集中しているフリをしながら、なんでもないように返事する。
 
『ゴメン、真実さん……俺、またしばらく会いに来れないや……』
 ある日の帰り道、少し寂しそうに笑って、海君は私に向かって手をあわせた。
 
(どこに行くの? 病院?)
 まさかそんなふうには聞けなくて、言えない言葉を飲みこんで、 
『うん、いいよ。私だって試験勉強しないといけないんだし……ちょうどいいよ』
 と私は笑った。
 
 せいいっぱいの努力。
 多少無理があるのは自分でも承知の上。
 きっと海君だってそう思ったに違いない。
 
 それでもがんばって、なんとか気持ちを切り替えようと努力しているのに、貴子はわざと大袈裟にため息を吐いてみせる。
 
「なんだそれは……成績が下がんないように、試験中は我慢って……中学生かあいつは……?」
 あまりにも意地悪な言い草に、私は思わずムッとした。
 
 その瞬間、私のベッドにゴロリと横になっていた愛梨が、援護の声を出してくれる。
「別にいいじゃない……実際、そのほうが試験に集中はできるんだし……」
 
 貴子は白けたように横目で愛梨を見たものの、もう一度私を見て、意味深に瞳を輝かせた。
「まあ、いいさ。……そのほうが私が真実を独占できるわけだし……なんなら、代わりに一緒に寝ようか?」
 
 怪しげな微笑を浮かべてじっとこっちを見つめるもんだから、私はせっかく見つけた消しゴムを、貴子に向かって投げつけなければならなくなる。
「ばかっ!」
 
 ひょいと、私のささやかな攻撃を避けながら、
「えっ? ひょっとしてまだだった?」
 貴子はニヤリと笑った。
 
「貴子!」
 私はせいいっぱいの非難を声にこめて叫んで、今度は何を投げつけてやろうかと、手近にあるものをキョロキョロと確認する。
 
「ハハハハッ。冗談だよ。冗談。いいから、もう何も投げんな……勉強する道具がなくなる」
 お腹に両手を当てて、たまらないとでも言いたげに上半身を折り曲げて笑う貴子を見ていると、海君を思い出した。
 
(もうっ! すぐに私で遊ぶんだから!)
 
 ベッドの上の愛梨が、今更レポート作成のために読んでいる本をパタリと閉じて、もう一度口を挟んでくる。
「貴子……あんたさ……最近『真実が好き』っていう冗談が、洒落にならなくなってきてるんだけど……?」
 
 貴子はサラサラの長い髪をかきあげて、尚更大きく破顔した。
「そうか?」
 その艶っぽい表情と仕草でさえ、なぜだか海君と重なる。

「別に、洒落でもなんでもないからな……」
 呟く貴子の言葉はあえて聞こえないフリをして、私は、机にきちんと座って書きものをしている花菜に、救いを求める視線を投げた。
 
 花菜は、承知したとばかりにニッコリ笑った。
「真実ちゃんにとっては、たとえ誰だって、海君の代わりにはなれないわ。残念だったわね……貴ちゃん!」
 
 あまりにもストレートで、実にわかりやすい見解。
 毒気を抜かれたように、貴子は押し黙り、愛梨もクスクス笑いながら自分のやるべき作業へと戻った。
 
 しかし、そうなることを望んで花菜に意見を求めたはずの私自身まで、真っ赤にならずにはいられないセリフ。
 
(それは確かにそうなんだけど……そんなに海君を好きなことが、周りにもバレバレなのかな私……?)
 上目遣いに見上げた花菜の顔は、私たちの中では一番童顔で一番あどけないのに、今日も満々の自信にあふれていた。
 
「そうよ。絶対にそうなのよ!」
 とでも言いたげな実に頼りになる笑顔には、もう腹をくくるしかなかった。
 
(はい。確かにそのとおりです……私は海君が大好きです。誰も代わりになんてなれません……!)
 
 この上なく恥ずかしいその言葉は、まちがいなく私の本心を言い当てていた。


 
 前期試験の期間中も、私たちは毎日四人で集まって、試験勉強に励んでいる。
 取っている講義はそれぞれ違うし、試験の方法も内容もさまざまなので、みんなで集まって勉強することにあまり意味はないのだが、それでも一緒にいることは楽しかったし嬉しかった。
 
 一年生の頃は、よくこんなふうに四人で勉強した。
 くだらないおしゃべりに時間を費やしてばかりだったけれど、それが何より楽しかった。
 なのにいつの間にか四人バラバラになって、一緒に勉強なんてとてもできなくなって。
 それなのに二年経った今、またこうして集まっている。
 
 こんな日がもう一度訪れるなんて、少し前までは思いもしなかった。
(ほんとに、夢みたいだよ……)
 
 現実であることを確認するように、私が一人一人の顔をそっと見渡していると、
「ちゃんと勉強しろ」
 というふうに、部屋の向こうから貴子が真っ直ぐに私を見つめてくる。
 
 その隙のない視線に、また海君を思い出す。
 私は慌てて、テーブルの上に視線を戻した。
 
「でも正直……腹が立つんだよね……そうは思わない真実?」
 休憩という名の息抜きを、本日何度目か声高らかに宣言した愛梨は、ベッドに転がった体勢のまま、隣に座っている私の顔を見上げた。
 
「こっちはこんなにがんばって勉強してるのに……貴子ってば、遊んでるだけなんだもん……!」
 愛梨はひどく不満そうな視線を、貴子に向ける。
 
 俯いて何かに目を通していた貴子は、そんな愛梨に向かって敢然と顔を上げた。
「何を言っている! 私だってじゅうぶん忙しいんだ。どうせしばらくは誰も料理なんてする余裕ないだろうから……どこで夕食を調達してこようかを、今悩んでいる真っ最中だ!」
 
 愛梨に向かって、郵便受けに入っていたお弁当屋さんのチラシを突きつけた貴子に、
 「あんたが作ればいいんでしょう!」
 愛梨は掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
 だがしかし――。
 
「本当にそれでいいのか?」
 表情も変えずにそうと言い放たれると、言葉に詰まってしまうらしい。
 
「うっ……!」
 苦境に立たされた愛梨に、花菜が追い討ちをかけた。
「そうよね。せっかく勉強してもおなかを壊して大学に行けなかったら、なんにもならないものね」
 
(輝くような笑顔で、なんて凄いことを言うの!)
 私は思わず愛梨と顔を見あわせたのに、当の貴子はまったく気にしていないようだった。
 
「そうだ! 私の作ったものを食べるなんて……そんなの私が一番嫌だ!」
 大威張りで言い切ってしまう。
 
 愛梨は深くて大きなため息を吐いてから、再び本を取り上げてページを開いた。
「これじゃあ無駄に時間を浪費するだけだから、私、試験勉強再開するわ……」
「そうしろ。そうしろ」
 腕組みしながらもっともらしく頷く貴子を見て、私と花菜は顔を見あわせて笑った。

 
 
 貴子は私たちの学部の中でも一・二を争う成績の良さだ。
 
『試験なんて、普段の講義をある程度聞いていれば特別に勉強する必要もない』
 なんて聞く人が聞いたら本気で頭にきそうなことも、真顔で言ってくれる。
 
 私は貴子の毒舌には慣れているし、それが事実だということもじゅうぶんわかっている。
 でも自分自身にはやっぱり貴子みたいな余裕はないわけで、非難の声を向けたくなる愛梨の気持ちも良くわかる。
 
「ねえ……貴子は本当に何もしなくていいの?」
 思わず確認してしまうと、
「する必要はないな。レポートは全部提出したし、ノートはその都度まとめておいた。今更復習するような事柄も、別にない」
 貴子は顔色ひとつ変えず、何杯目かのコーヒーをすすりながら、そう答えてくれた。
 
「う、うらやましい……」
 呟かずにはいられなかった。
 
 いくら貴子だって、受けている講義の数は私とそう変わらないのだ。
 ただ飲みこみが早いということ。
 能力が高いということ。
 要領がいいということ。
 その違いが大きな差を生む事実を、貴子の傍にいるとしみじみと実感させられる。
 
「貴子だったら、将来はなんにだってなれるんだろうな……」
 テーブルに頬杖をつきながらボンヤリと呟いた瞬間、貴子の鋭い目がキラッと光った。
「真実はひょっとして……何かなりたいものがあるのか?」
 改めて尋ねられるとなんだか恥ずかしくなる。
 
「どうしてもこれになりたい!」
 という強い意志なんかではないけれど、
「こうなれたらいいのにな」
 と思っている職業だったら、私には小さな頃からずっと思い描いている夢がある。
 
「うん」
 少し照れ臭くて俯く。
 
 すかさず貴子が茶々を入れた。
「『お嫁さん』……ってのが答えだったら、あいつよりは私のほうが早く叶えてあげられるからな……?」
 
 真剣な眼差しに、私は大急ぎで手近にあった辞書を持ち上げて、投げつけるポーズをした。
「だから! ……そんなこと別に考えてません!」
 
 必死に叫ぶ私を見て、再びハハハハッと声を上げて笑い出した貴子の顔に、悔しいけれどまた海君の面影が重なった。


 
『真実ちゃんは大きくなったらなんになりたいのかな?』
 
 そういった質問にだったら、まるでそれしか答えを知らないかのように、小さな頃からくり返し何度も返してきた答えがある。
 
 他の人が聞いたら、たいしたことない夢なのかもしれない。
 けれど私にとっては大切な夢。
 それを叶えるためだけに、故郷を出て一人暮らしを始めた。
 
『短大ぐらいでいいんじゃない?』
 そうくり返す高校の担任や両親を説得して、大学も受験した。
 
(一度はもう諦めるしかないと思った……もう叶えられるわけないと思った……でも私はまたここにいる。みんなと一緒に笑ってる。だから努力次第では……叶うかもしれない……!)
 
 そう思えることがどんなに幸せなことか、決して忘れてはいけないと、私はもう知っている。
 
「真実ちゃんは司書になりたいんだよね」
 私が口を開くより先に、ニッコリと答えてしまった花菜の声に、貴子の切れ長の鋭い目が、驚いたように見開かれた。
 
「そうなのか?」 
「あんた、知らなかったの?」
 呆れたように聞き返す愛梨に、貴子は真顔で頷く。
 
「初耳だ」
 私も、てっきり貴子は知っているものだとばかり思っていたので、かなりビックリした。
 
「だって……最初の新歓コンパの時からずっとそう言ってたじゃない?」
 コロコロと笑う花菜に、貴子もうっすらと笑みを返す。
 
「ああ。そんなもの行ってないからな」
 そう言われればそうだと、私はハッとした。
 
 貴子は他人とのつきあいに、時間もお金もかけない主義だ。
 みんなと仲良くなるためだけに、わざわざお金を出して飲み食いするコンパなんて、常々
「まったく意味がわからない」
 と一刀両断にしていた。
 
『コンパ』と聞けば、たとえどんな用事があったって、いくつ同じ日に重なったって、顔を出さずにはいられない愛梨とは実に対照的で、二人が
「よく仲良くなったわね?」
 と不思議がられる所以の一つである。
 
 その愛梨は、世話好きで子供好きな自分の特性をよく理解していて、
「私がならなきゃ誰がなるの?」
 と、『幼稚園教諭』になることを、とうの昔に決めている。
 
 しっかり者の花菜はと言えば、
「うーん。安定と将来のことを考えれば……やっぱり公務員かな……?」
 と、ここでもいかにも彼女らしい進路選択を披露してくれた。
 
(あれ? ……でもそういえば……貴子は自分の将来をどんなふうに考えてるんだったっけ?)
 
 私がその疑問にたどり着いたと同時に、愛梨と花菜もこちらを見た。
 どうやら二人の思いも同じだったらしい。
 
 私たちの疑問を的確に察知したらしい貴子が、腕組みをしながらおもむろに口を開く。
「私は大学に残るんだよ。教育方面からだけじゃなく、もっと心理学を学びたいって思ってるし、まだまだ調べたいことも、知りたいことも山ほどある。下手すりゃ、一生研究だ。まっ、そうすると図書館とは切っても切れない縁だから……真実とはずーっと一緒ってことで……」
 
 なんでそこで私が出てくるのかはよくわからないが、とりあえず私たち四人は、それぞれこれから先やりたいことが決まっているのだということは確認できた。
 
 目標がある人間は強いし、たくましい。
 たとえこの先、道は別れていくとわかっていても、それまでの間は一緒にがんばることができる。 
 
 みんなに会えて良かったと心から思った。
 この街に来て、本当に良かったと思った。
 
(それはやっぱり……彼にも出会うことができたから……!)
 
 結局、どんなに他のことを考えようとしても、私の思考は海君へと繋がっていく。
 何をしてても、誰といても、最終的には彼のことを思う自分をまざまざと自覚せずにはいられない。
 
(これってかなりまずい状況……だよね?)
 そんなことは自分でもわかっていた。
 
 だけど、カーテンの隙間から見える月が珍しく輝いていて、そんな風景でさえも、
(海君、知ってるかな? 教えてあげたいな……)
 と思わずにはいられない。
 
 これは果たして、純粋な愛情なんだろうか。
 それとも最早、私があんなに憎み恐れていた、歪んだ執着に近いのだろうか。
 
 どちらにしても、
「会えない時にこそ、どれだけ相手のことが好きだか思い知らされる」
 ってことを、身を持って証明できるような、私の毎日だった。
「いいかげん腹が減ったから……何か買いに行くか……」
 独り言のように呟きながらしぶしぶと重い腰を上げた貴子を、私も愛梨も花菜も、
「いってらっしゃーい」
「私たちにも何か買ってきてねー」
「気をつけて」
 それぞれの課題から顔も上げずに、声だけで送り出す。
 
 ようやく試験も半分以上の日程が過ぎ、私たち四人の期間限定の共同生活も、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
 
 私の試験の手ごたえは、バッチリだったり。
 心もとなかったり。
 さまざまではあったけど、一つ終わるごとに、
(これで海君と会える日がまた近づいた……!)
 と、それだけを楽しみに、とにかくがんばった。
 
 なんという不純な動機。
 それでもやる気が出たんだから、これでいいんじゃないだろうか。
 今までただなんとなく受けてきた試験よりも、内容だってずっと頭に残っている。
 
(だから……いいんだもん!)
 言い訳するかのように考えていた時、てっきりもう買い物に出かけたとばかり思っていた貴子が、突然私の前に歩いてきた。
 
「やっぱり真実が行ってこい」
 ぬっと差し出された財布に、思わず目が点になる。 
「えっ?」
 いったいどういうことだろうと、目の前に立つ貴子の顔を見上げた。
 
 これまで買いものはずっと、
「私は試験勉強する必要がない」
 と宣言している貴子が、引き受けてくれていた。
 口は悪いけれど、本当は優しくて頼りになる貴子が、めずらしく不満も言わず、毎日私たちのために食料調達に出かけてくれていたのだ。
 
 そのことを、
(貴子にばっかり迷惑かけて悪いな)
 と申し訳なく思っていたのは、きっと私ばかりではないだろう。
 でもまさかこんなふうに、ふいに自分にふられるとは思ってもいなかった。
 
「……私?」
 問いかけながら立ち上がると、貴子は大真面目な顔でうんうんと頷く。
「そう、真実。私は今日はもう出かけたくない。でもお腹は減ったから、真実が行ってこい」
 額面どおりに言葉だけを聞くと、ずいぶんと身勝手な内容だが、これまでがこれまでだったから、不思議と腹は立たなかった。
 
「う、うん。わかった」 
(明日のテストに持ちこむノートは一応まとめ終わったし……今ならまあ大丈夫かな?)
 
 私が貴子に差し出された財布を受け取った瞬間、愛梨がさっと手を上げた。
「それじゃあ、私も気分転換について行きまーす」
 
 貴子は足音もさせずにスススッと愛梨の前に移動して、すかさず頭上から無情な声をかけた。
「愛梨はダメだ。明日のテストはほとんど持ちこみ不可だろ。明日までに丸暗記しないといけないノートが、まだこんなに残ってる」
 他ならぬノートの提供主に、分厚いノートの束片手にズバリと痛いところを指摘されて、愛梨は「うっ!」とうめきながらテーブルの上に突っ伏した。
 
「いいよ。いいよ。私が一人で行ってくるから……」
 急いでドアに向かって歩きだすと、
「ゴメンね、真実ちゃん」
 花菜もすまなそうに声をかけてくる。
 
「うん、大丈夫。行ってくるね」
 ニッコリ笑ってふり返ると、貴子が少し離れた場所から私をじっと見ていた。
 何かを含んだような意味深な視線にどこか違和感を覚えたけれど、私は細かいことは気にせずに、そのままアパートの部屋を出た。
 
「気をつけろよ」
 背後からかけられた貴子のぶっきらぼうな声が、私を見送ってくれた。


 
 特に上着なんか着なくても、じゅうぶんに暖かい真夜中。
 夏の夜は、気が向いた時にフラッと出かけることもなんだか簡単だ。
 
 今夜の月も眩しいくらいに綺麗。
 けれどその月の光のせいなのか、それとも何時までも消えることを知らない街の灯りのせいなのか、降るように見えるはずの星は、夜空のどこにも見えない。
 
 目を閉じると瞼の裏に浮かんでくるのは、百八十度に広がる夜空を全て埋め尽くすように輝いていた無数の星々。
 ――故郷の星空。
 
(故郷に帰ったら、またあの星空を見上げよう……そしてきっと、海君にも見せてあげよう……!)
 また自然と彼のことを思った。
 
 心地良い夜風を頬に感じながら、夜空へと向けていた視線を何気なく地上へと戻したその時、
 ――道の向こうに信じられない光景を見た。
 
 目を閉じていったい何を思っているんだろう。
 壁に寄りかかるようにして立っている人影。
 
(どうして……!)
 
 心臓が跳ね上がる。
 驚きと同時に、またどうしようもない心配で胸が痛くなる。
 
 もともと白い頬が、また少し白くなったように見えた。
 でも私に気がついて、ちょっと驚いたように笑った顔は、やっぱり屈託がなくって、眩しい太陽のようで、いつも変わらない。
 ――私の大好きなあの笑顔だ。
 
「海君!」
 疑問も驚きも、難しいことは何もかも投げ捨てて、私は彼に駆け寄った。
 ひさしぶりに会う大好きな人に駆け寄った。
 
「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」
 年下のくせに余裕たっぷりで、いつも私をからかってばかりの海君は、そんなことを言って悪戯っ子のように笑う。
 言葉のわりには、私を見つめる目が、優しい、切ない色をしていると思ってもいいだろうか。
 
「そ、そんなこと……」
 と、かすかな抵抗を試みようとしても、
「あるでしょ?」
 と真顔のままやりこめられることは、もう嫌というほどわかっている。
 
 だからもう、そんなことはどうでもいい。
 それよりも、――夢にまで見そうに会いたかった人が本当に会いに来てくれた――それだけでいい。
 
「うん、会いたかった」
 私が素直に自分の気持ちを認めたなら、
「俺もだよ」
 海君だってきっと、私の欲しい言葉を聞かせてくれるのだから。
 
(いつだって「自分が」じゃなくって、「真実さんが」なんだから……!でもそれでもいい……会えただけでいい……)
 胸が張り裂けそうな思いで、そう結論づけ、私はいつになく彼の首に自分から腕をまわした。
 
「……真実さん?」
 ちょっと驚いたように。
 でも次の瞬間にはしっかりと私を抱き返してくれる腕が愛しい。
 
(「ずっと、ずっと会いたかった」って本当の気持ちを言ったら……やっぱり、「俺もだよ」って言ってくれるのかな?)
 その返事を聞くためになら、会えない間私がどれぐらい海君のことを思っていたのか、隠しごとなんてなんにも残らないぐらい、全て教えてしまってもいいと思った。
 
「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」
 しっかりと私を抱きしめて髪に顔を埋めていた海君が、しばらくたったら囁くように私の耳元でそう告げた。
 笑いをこらえたような、私をからかう時のような、独特の声。
 いぶかしげにその顔を見上げてみると、視線だけで、うしろを見てみろと示してくれる。
 
(やっと会えて本当にすっごく嬉しかったから……もう恥ずかしいなんて飛び越えちゃって……私だってずっとこのままでもいいかななんて思ってたのに……いったい何?)
 ちょっとムッとしながらふり返って見てみると、私の部屋の道路に面した小さな窓に、三つの顔が並んでいた。
(愛梨! 貴子! 花菜!)
 
 慌てて海君の首にまわしていた腕を下ろす。
 笑いをかみ殺しながらわざと私を放そうとしない海君の体も懸命に押しのけて、私は敢然と三人に向き直った。
 
「ど、ど、どうしてっ……!?」
 驚きと恥ずかしさのあまり、上手く言葉も出てこない。
 
 そんな私に向かって、貴子はニヤリと笑う。
「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」
 
 愛梨は笑顔でぶんぶんと両手を振る。
「海君! 真実はまだ一応試験中だから……! そこのところよろしくねー」
 海君はその言葉に、律儀にもちょっと頭を下げてみせる。
 
「真実ちゃん……よかったね……!」
 花菜だけはまともなことを言ってるようにも聞こえるが、しょせんやってることは愛梨と貴子と一緒なのだ。
 
「な……何を……? なんで……?」
 私はと言えば、どうしても言葉が上手く出てこない。
 真っ赤になって口をパクパク動かすしかない私と、その隣に立つ海君の顔を見比べながら、愛梨はニッコリ笑った。
「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」
 
(愛梨……)
 こんな状況下でも、その言葉だけはなんだか心にしみた。
 
「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」
 花菜も小首を傾げてニッコリと笑う。
 
(花菜……)
 
「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」
 意地悪く笑った貴子に、海君はふわりと笑った。
 
「はい。肝に銘じます」
 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げる。
 
「ちょっと、貴子!」
 非難の声だけは、無理やりしぼり出そうとしなくても、スラスラと口から出てくるから不思議だ。
 
 ハハハハッと大きな声で笑った貴子は、窓の向こうに消えた。
 愛梨も花菜もそれに続いて、私の部屋の小さな窓には、もう誰の影も映らなくなる。
 それでも私は、すぐには動きだすことができなかった。
 
(そっか……貴子は海君がいることに気がついたから、わざわざ私に買いものを頼んだんだ……!)
 そこまでは、簡単に想像がついた。
 私をビックリさせようと思って、それを敢えて教えてくれなかったことも。
 それだけだったら、貴子の友情に感謝してもいいくらいなのに――。
 
(でもどうして、三人並んで窓からのぞいてるのよっ!)
 もし私が逆の立場だったなら、迷わずにそうしたであろうことは、この際置いておく。
 
(そりゃあ……私がわき目もふらずに海君に飛びついたのがいけないんだけど……)
 そんなことはわかってる。
 だけど嬉しかったんだから仕方がない。
 夢じゃないだろうかって、泣きそうになるくらい――本当に嬉しかったんだから。
 
 でも、今、少し冷静になってきたら、さすがにさっき自分が取った行動が、ちょっと恥ずかしくなってきた。
 しかも変なふうに邪魔が入ったものだから、今さらさっきみたいな体勢にもう一度戻ることは、とてもできそうにはない。
 まだ体に残ってる私を抱きしめる海君の腕の感触が、少し寂しくて切なかった。
 
「じゃあとりあえず……貴子さんのご注文の品でも買いに行こっか?」
 迷うことなく私の右手を取った海君の左手は、ひんやりと冷たかった。
 
「……海君?」
 思わず呼びかけてしまってからハッとした。
 
(具合が悪いんじゃない? 体調が良くないんじゃないの?)
 そんなことはとても聞けないから、もう一つ心に浮かんだ疑問を、すぐさま問いかける。
 
「いつからあそこで待ってたの?」
 海君はちょっと困ったように、小さく首をすくめた。
 
「うーん……いつからかなあ……?」
 その返事に、妙に胸がザワザワした。
 
「もしかして……ずっと待ってたの?」
 肯定も否定もしない海君は、顔は前に向けたまま視線だけ私に投げて、うっとりしそうなほど艶やかに笑った。
 
(……やっぱりそうなんだ!)
 胸がぎゅっと痛んで、私は俯くことしかできなかった。
 
「ゴメンね……ありがとう」
 そんな私を見て、海君は実に満足そうに笑う。
 
 からかうように、そしてちょっと照れたように小さな声で、
「真実さんが寂しがってるような気がしたからさ……」
 もう一度さっきと同じセリフを、彼はくり返した。
 
「そんなに長い時間待ってたわけじゃないよ……真実さんが俺がいなくても楽しくやってるんなら、それはそれでいいからさ……」
 
 夜の町を手を繋いで歩きながら、海君はポツリポツリと話をしてくれる。
 
 こんなに暖かい夜に、こんなに冷たい彼の指先が気になる。
 月明かりの中、あまり顔色が良くないように見える横顔も、心配で胸が苦しくなる。
 
 だけどそれでも来てくれた。
「しばらく来れない」って言ってたのに来てくれた。
 これ以上の嬉しいことなんてあるだろうか。
 
 あんまり考えてると泣きだしてしまいそうだったので、私は顔を上げた。
 いつもの笑顔が私を見下ろしていた。
 だけど――。
 
「俺がいなくても真実さんが元気なら……本当はそれが一番いいからさ……」
 冗談っぽくそう言って笑った海君の瞳は、微笑む口元とは裏腹に決して笑ってなどいなかった。
 この上なく悲しそうな色をしていた。
 
 ドキリと胸が鳴って、繋いでいた手にも思わず力が入ってしまう。
(……海君?)
 
 それはいったいどういう意味だろう。
 言葉どおり、私が寂しがってないならそれでいいという意味だろうか。
 それとも、本当は自分なんかいないほうがいいという意味だろうか。
 それとも――。
 
 考えれば考えるだけ、胸が締めつけられるように痛くなってきて、
「海君……どうしたの?」
 聞かずにいられなかった。
 
 私を見つめる瞳はいつものように優しかったけど、でも確かに今までとは違う何かの色を帯びているような気がした。
 だから――。
 
「何かあったの?」
 尋ねずにはいられない。
 
「うん? 別に何もないよ……?」
 まるでずっと前から用意してあったような口先だけの返事は、とても彼の本心とは思えない。
 
 でも、
(本当は何かあったんでしょ?)
 と重ねて尋ねることは、私にはできなかった。
 私にはそんな権利がない。
 その事実が改めて心に刺さる。
 
(問いただせたらいいのに……!)
 そう思わずにはいられなかった。


 
 私が苦しい時、彼がいつも心を救ってくれるように。
 困った時、彼がいつも助けてくれるように。
 私も彼を救うことができたならどんなにいいだろう。
 
 私で役に立つことがあるのならば、どんなことでもやる。
 喜んでやるのに。
 
 悔しいけど私は、彼のために何かができるような、――そんな存在じゃない。
 
 だから溢れ出しそうになった想いは、胸の奥に無理やり封じこめた。


 
 そっと見上げると、月明かり中、海君がまるで今にも消えてしまいそうに悲しい瞳で私のことを見つめていた。
 さっきの彼の言葉と相まって、その姿はまるで幻のよう――今にも私の前からいなくなってしまいそうだった。
 
 そう思うと、胸が苦しくてたまらなくて、思わずその頬にそっと手を伸ばす。
 
「急にいなくなったりしないよね?」
 心に浮かんだ不安をそのまま口に出してしまった私に、海君は目を奪われそうなくらい艶やかに笑った。
 
「そんなことはしないよ」
 私を腕の中にぎゅっと抱き寄せて、
「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」
 耳元で小さく囁いた。
 
 思いがけない言葉に、私の心臓は、確かに一瞬止まった。
 
 大慌てで見上げた海君の顔は、いつもの悪戯っぽい笑顔だった。
 大きな月を背に、ニッコリ笑って私を見下ろしている。
 
 はりつめていた緊張の糸が、私の中でプツンと切れる。
 全身から力が抜けて、今にも崩れ落ちてしまいそうになる。
 ドキドキともの凄い勢いで、今さらのように心臓が脈打ち始めた。
 
(いつもみたいに……私をからかったんだよね?)
 少しだけ唇をかみ締めた。
 
 こんなことぐらいで緊張に全身が震えるくらい、私は彼を想っている。
 もう会えなくなるなんて想像もしたくないと、私の体中が叫んでる。
 
(それなのに、こんな意地悪を言うなんて……!)
 いつものように、「海君!」と怒る気になれないどころか、悔しくて悲しくて、私は涙が浮かんできそうだった。
 
 黙ったまま俯いた私を、海君が慌てて抱きしめる。
「ゴメン、真美さん」
 
 涙が溢れ出す。
 そんな顔は絶対に見せたくなんかないから、私は顔を上げない。
 
「ゴメン」
 海君は何度も謝ってくれたけど、さっきの言葉を訂正してはくれなかった。
 
『嘘だよ。俺はいなくなったりしないよ』とだけは言ってくれなかった。
 
 そのことが何よりも悲しかった。
 
(海君は嘘を吐かない。私を安心させるための優しい嘘だって……絶対に吐かないんだ……)
 そう信じているから、私にはわかってしまった。
 
(そっか……あれはきっと本気の言葉なんだね……いつか、私にちゃんと「サヨナラ」を言って……それから本当に私の前からいなくなってしまうんだね……)
 
 それが遠い未来のことなのか、すぐ明日のことなのかはわからない。
 だけど、自分のことは自分で決める海君が、そうと決めた時に私達の恋は終わる。
 
 それはきっとまちがいない事実なんだということを、私はその時、確信した。
 俯いたまま、いつまでも顔を上げない私に、海君が呼びかける。
「真美さん」
 泣きたいくらいに優しい声で、そっと呼びかける。
 
 だから胸に抱いた悲しい確信は自分だけの胸にしまって、私は顔を上げた。
 そこには優しい声に負けないくらいの優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
 
「真美さんが寂しがってるんじゃないかって思って会いにきたのに……余計に悩ませちゃったね……」
 申し訳なさそうに苦笑する海君に、私は涙の跡も乾かないままに笑いかけた。
 
「ううん……本当に会いたかったから嬉しかったよ」
 これ以上海君を困らせたりしないように、余計な心配させなくていいように、せいいっぱいの笑顔で微笑みかけた。
 
 私の言葉に心底ホッと安心したように、海君の瞳が輝きだす。
「うん。俺もだよ」
 いつもの笑顔へと、徐々にその表情が変化していく。
 
 その様子を、一瞬でも長く見ていたいと思った。
 いつかわからない未来に不安を感じるよりも、今は私を見つめる彼に、ただ見惚れていたいと思った。
 
 だから海君の笑顔につられるように、私ももう一度、今度は心から笑うことができた。
 
「みんなにお願いされたから……真実さんに元気をあげないと……」
 すぐ近くから私を見つめる海君の瞳に、いつものように悪戯っぽい光が宿る。
 でもそれにも増して今夜は、なんだか切ないような、熱に浮かされたような、熱い感情が渦巻いているように見える。
 
 そんな瞳で見つめられたら、たまらなくドキドキしてもうどうしようもない。
 逃げ出したいような、このまま捕まってしまいたいような、危うい感情。
 
「……と言うより、俺に元気をちょうだい」
 そう言って笑いながら大好きな瞳が近づいてくるから、私は目を閉じて、何もかもを彼に任せる。
 
 海君がいったいどんな秘密を抱えているのか。
 私たちの恋をいつ終わらせるつもりなのか。
 
 胸が痛むようなことは全部考えることを放棄して、ただ目を閉じた。
 そっと背中に手を廻して、ただその体を抱きしめる。
 
(こうしてたら急にいなくなったりできないよね……? 次に目を開けた時には消えてたなんて……そんなことにはならないよね?)
 
 思わず力が入ってしまう彼を抱きしめる両腕に、自分で言い訳しながら、私はぎゅっと固く目を閉じた。
 覆い被さるように私の上に降りてきた彼の唇と、私の唇が触れる瞬間、芽生えるのは胸を締めつけられるような感情。
 
(……愛してるよ)
 それは本当に、人の心に生まれる他のどんな感情よりも、傷つきやすくて脆くて、痛いものだと思った。
 
 

 好きだと思う気持ちだけで全てが選べるのなら、人生はどんなに簡単なものだろう。
 楽しいものだろう。 
 
 でもそれだけでは駄目だから、いろんなことを考えて、気にして、疑って、悩んで、そして気持ちはどんどん絡まっていく。
 
 でももう元には戻せないくらい絡んだものの中に、見つかるものもあるから。
 そこでしか生まれないものもあるから。
 ――きっと全てが余計なまわり道じゃない。
 
 私はそのことを知っている。
 狂おしいくらいにこの胸でわかっている。


 
「また会いに来るよ。真実さんが寂しくないように……」
 笑いながら夜の街に消えていく背中に、痛いくらいの切なさを感じながら見送っていたら、ふいにうしろから声をかけられた。
 
「真実。私の買いものは……?」
 私はふり返らずに、うしろ手で、海君と一緒に行ってきたコンビニの袋をそっと声の主に差し出す。
 
「サンキュ」
 短く言って受け取って、貴子はそのまま私と一緒に真夜中の舗道に立ち尽くした。
 
 角を曲がって見えなくなる最後の瞬間、海君が軽く頭を下げたのは、きっと貴子に対してだ。
 
「不思議な奴……」
 あまりにも的を得た貴子の表現に、私はクスリと苦笑した。
 
「ちょっと変わってる……ってぐらいじゃ済まされないぞ……?」
 私の顔色をうかがうようにチラリと向けられる視線から、逃げるように私は目を逸らす。
 
「携帯を使えばいつだって話ができる、連絡も取れるこのご時世に、出てくるまで外で待ってるか……ずいぶんアナログな恋だな……」
 
 薄く笑いながら、ポンと私の頭を軽く叩いた貴子は、海君が携帯を持っていることをしらない。
 だからこんな回りくどいことをやっている私たちを、ほほえましく笑っているけれど、そうじゃないとわかっている私には、その言葉は少し辛かった。
 
(本当は海君に携帯の番号を聞けば、いつだって声が聞けるんだよね……会いたくなったら、連絡できるんだよね……だけど……)
 
 それはしてはいけないことなんだと、私は思ってる。


 
 最初から納得しているつもりだった。
 何も聞かない。
 何も知らなくていい。
 ただ一緒にいるだけでいい。
 ――それがこの恋の条件。
 
 だから、私は彼にちゃんと名前も聞かなかったし、何も知らなくても平気なフリをずっと続けてきた。
 でも、一緒にいればいるほど、好きになればなるほど、私はどんどん欲ばりになってしまう。
 
 会えないと寂しい。
 苦しい。
 傍にいたい。
 ずっと一緒にいたい。
 
(こんな思いはきっと海君の邪魔になるだけなのに……海君を苦しめるだけなのに……)
 
 わかっているから言えない。
『あなたをもっと知りたい』
 なんて、私には絶対言えない。


 
「そんな寂しそうな顔するな」
 鋭い目をちょっと優しくして、貴子は私を見下ろして笑った。
 
 私も無理に笑い返した。
 心配させないように。本当の気持ちを気づかれたりしないように――。
 
「もうひとがんばりで、試験も終わり。そしたらどうせまた、毎日イチャつくんだろ?」
 わざと意地悪そうに唇の端をほんの少しだけ持ち上げて笑う貴子に、私は驚きの声を上げる。
 
「イ、イチャつくって……!」
 貴子はそんな私を置き去りに、スタスタと歩きだす。
 
「さっさと帰るぞ。愛梨と花菜が待ってる。話を聞かせてもらうんだって楽しみにしてるからな……どうせ面白い進展なんて、真実にはないに決まってるのにな……」
 笑い含みに早口で話しながら、大きな歩幅で歩くその背中を、私は必死で追いかけた。
 
「ど、どういう意味よ!」
「もちろん、言葉どおりの意味だよ? それともなんだ……? ついに中学生並みから、高校生並みに進展したのか?」
「貴子!」
 
 口では叫びながらも、故意にか偶然にか貴子が私の気持ちを引き上げてくれたことに、感謝していた。
 
 胸はまだズキズキと痛かったけれど、不意に現われて去っていった海君と同じように、頬を撫でる風が暖かくて心地よい、優しい夜だった。
 優が五つ、良が八つ、可が三つ、そして不可が三つ。
 三ヶ月近く大学を休んだにしては、かなり良かったのではないだろうか。
 来年、他のみんなが就職活動にがんばっている頃に、下級生と一緒に受けなければならない講義があるにしろ、思ったよりは私の三年前期の成績は落ちこまなかった。
 
 いつものカフェテリア。
 今期最後の営業日に、私たちはアイスコーヒーで祝杯を上げた。
 
「ひとえに……愛梨と貴子と花菜のおかげであります……!」
 うやうやしく頭を下げた私に、
「そうだろう、そうだろう」
 と腕組みして頷く貴子を、軽く肘でつつきながら花菜は笑った。
 
「良かったね……なんとか追試もなしで済みそうだね」
 そのことには本当にホッとして、私だって思わず笑いが零れる。
「そうなの……! みんなと一緒に夏休みに入れて、本当に良かった……!」
 
「……だったら、こんなにさっさと実家に帰らなきゃいいのに……」
 不満そうに呟いた愛梨は、ちょっと膨れっつらだ。
「お盆前になったらどうせ私だって帰るんだからさ……前みたいに一緒に帰れば良かったのに……」
「ごめん……」
 
 同じ県出身の愛梨とは、確かに彼女の言うとおり、以前はよく一緒に帰省していた。
 長い道中、手持ち無沙汰で一人で新幹線に乗っているよりは、隣に愛梨がいてくれるほうが断然いいことは私だってわかっていたが、今回だけは愛梨と予定をあわせることはしなかった。
 
「まっ、そう言うなよ。やっと、彼氏とお泊り旅行なんだから」
 ニヤリと笑った貴子に、
「貴子!」
 と叫びながら私がふり上げたこぶしは、あっさりとかわされてしまう。
 
 けれどその代わりに、花菜がちょっと真面目な顔で、貴子を諌めてくれた。
「貴ちゃん……真実ちゃんが故郷に帰るんで寂しいのはわかるけど、いい加減にしないとそろそろ本気で嫌われるよ……?」
 
 ほんの少し眉をひそめて私のほうを見た貴子に、私は今がチャンスとばかり何度も何度も頷いてみせた。
 フッとため息をつきながら肩をすくめ、貴子は私から視線を逸らした。
 
(やった! 勝った!)
 心の中で拍手をする私に、愛梨がカラカラとグラスの氷をストローでかき混ぜながら聞いてくる。
「ねぇ……でも、海君を実家に連れて行くの? ……本当に?」
 
 私は大慌てて両手を顔の前でぶんぶん振った。
「違う。違う。そういうことじゃないの!」
 
 もちろんあの秘密だらけの海君が、そんな自分の存在を主張するようなことをわざわざするはずがない。
 私だって別にそんなことがしたいわけじゃない。
「ただ、帰りに迎えに来てくれるの! それだけなの!」
 
 そう――ただ束の間、あの懐かしい場所に一緒にいてほしいだけ。
 一緒に見てほしいものがあるだけ。
 理由は単純に、いつもとまったく変わらないのだ。
 
 でもそんなこととは知らない三人は、それぞれに顔を見あわせながら、懸命に私にフォローの言葉をかけてくれる。
「大丈夫だよ。海君落ち着いてるから、あんまり年の差は感じさせないよ?」
「そうそう、真実がなんとも頼りないから……尚更な」
「うん。お似あいだよ。とっても」
 
(そんなことじゃないんだけど……)
 と思いつつも、みんなの言葉は温かくて、なんだか心に染みた。
 思わず小さく笑みが零れる。
 
(なんでみんなそんなに一生懸命なの? これじゃまるで、親に交際を反対された二人を励ましてるみたいだよ……?)
 
 これからもずっと海君と一緒にいれるのならば、ひょっとするといつかは、本当にそんな日が来るのかもしれない。
 でも私にはそんなことは想像もできなかった。
 
 なぜだろう。
 私は最初から知っていた。
 そんな日は決して来ないってことを、心でも頭でもなく、本能で理解していた。
 
(海君はきっと……私とずっと一緒にいるつもりはないよ……だから私には名前だって教えてくれない……どんなに私が「好きだ」と言ったって、彼自身もそう思ってくれてたって、何度キスしたって……それだけは絶対に、これから先も変わらない……!)
 
「……真実、大丈夫?」
 自分では笑っているつもりだったのに、いつの間にか涙が溢れてしまっていたことに、愛梨の呼びかけで私はやっと気がついた。
 
「気にするな。誰がなんて言ったって、真実がどんなにあいつのことが好きで、あいつがどんなに真実のことを大切に思っているのかは、私がちゃんと保証してやるから……!」
 普段では考えられないほどに、貴子の言葉が心強く優しい。
 
 的を外しているようで、私の本当の気持ちにちゃんと励ましを与えてくれている。
 でも――。
 
(苦しいよ……ちゃんと未来を夢見れる恋じゃないのに、こんなに好きになって……もう苦しくてたまらない……!)
 一度溢れだしてしまった涙はなかなか止めることができなかった。
 
 隣に座っていた花菜が、そっと腕を伸ばしてきて私を抱きしめる。
「大丈夫。きっと海君も、真実ちゃんの気持ちわかってくれてるから」
 優しく髪を撫でながら囁いてもらった言葉に、私はうんうんと頷いた。
 
 本当にそうならどんなにいいだろう。
 でも本当にそうなら、私はどんなに彼にとって重荷になっているだろう。
 
 そんなことは嫌なのに。
 困らせたくなんかないのに。
 これじゃあどんどん海君にとって、迷惑な存在になっていくばかりだ。
 
「……ゴメンね。ありがとう」
 今ここで私を心配してくれているみんなに。
 そして長いことずっと苦しめていたかもしれない大好きな人に。
 謝って感謝することしか、私にできることはもうなかった。
 
(ゴメン……ゴメンね。海君)
 幸せと申し訳なさの間で傾きかけた心の均衡は、もう二度と同じ位置に戻ることはないように思われた。


 
『飛行機だったら一時間。新幹線で三時間。高速バスだったら五時間』
 大学のある街から、私の故郷までの距離をそう表現したら、海君にお腹を抱えて笑われた。
 
「もうっ! どうせ私は田舎ものですっ!」
 いつものように怒って歩きだした私を、海君もいつものように言葉だけで追いかけてくる。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
 その言葉が、余裕たっぷりの普段の彼と比べたら、ずいぶんと急いでいるように聞こえた。
 だから――。
 
『行く前から帰る話をするなんて……そんなに私と離れるのが寂しい?』
 なんてからかってみようと思ったのに、ふり返って海君の顔を見たら、なんだか言葉に詰まってしまった。
 
(夏の太陽を背に受けて、私に向かって眩しいくらいに笑っているこの人と、離れたくないのは私だ……他の誰でもない、私のほうなんだ……!)
 痛いくらいにそう自覚してしまったから、身動きさえできなくなった。
 
 海君がいつも私をからかう時に言う、『俺と会えないと真実さんが寂しがるから』――それは確かに本当のことだったんだと、思い知った。
 
(ずっと一緒にいたい……本当はいつも傍にいたい……)
 そんな本心なんて、とても口に出して言えるはずがない。
 
 俯いてしまった私に、
「そんな顔しないで……」
 ゆっくりと歩み寄ってきた海君は、そっと手を差し伸べてくれる。
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
 優しく頭を撫でられながら、わざとそんなふうに言って挑発されても、もう
「そんなことない!」
 とこれまでのように負けん気を起こせない。
「うんそうだよ」
 なんて素直に認めて、その胸に顔を埋めてしまいたくなる。
 
 まるで、海君がこれまでくり返し言っていた
『真実さんは俺が好きだから』
『俺と会えないと寂しがるから』
 という言葉に、魔法をかけられてしまったみたいだった。
 
(意地を張るのは馬鹿らしいって……そんな時間はもったいないんだって……私気づいてしまったよ……海君!)
 
 胸が張り裂けそうだった。
 
 海君が自分のことを何も教えてくれないこと。
 それが二人で過ごす時間が永遠ではないことを意味しているんなら、残された時間はいったいあとどれぐらいなんだろう。
 
 私にはわからない。
 いつどこで、海君がこの恋を終わりにするつもりなのか、私にはまったくわからない。
 当たり前のようにこうして二人で一緒に過ごす時間は、ひょっとしたらもういくらも残っていないのかもしれない。
 ――そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
 
(今だけの幸せにひたっていてもいいのかな……? こうしてただ、海君の優しさに甘えていてもいいのかな……?)
 不安に押しつぶされそうになりながらも、私に今できることは、想いに身を任せることしかない。
 
 私は黙ったまま、海君の胸に頬を押し当てた。
 Tシャツ一枚越しの体温。
 温かい。
 そう意識すると、急に恥ずかしくなって、慌てて体を離そうとする。
 
 でも海君はそんな私にクスリと笑って、わざと胸に抱きしめてしまった。
 やっぱりかすかに彼からは――病院の匂いがした。
 
(ゴメンね……きっと無理ばっかりさせてるね……)
 ズキリと胸が痛みながらも、私は自分の腕をそっと海君の背中にまわす。
(本当に大好きだよ。離れたくないよ。でもこの温かさも、優しさも、永遠に私のものにはならないんだね。悲しいけれど、それは無理なんだね……それは……どうして?)
 
 知りたいけれど知りたくない。
 その答えを聞いてしまったら、本当にこの瞬間が永遠ではなくなってしまう。
 だから――。
 
(お願い。もう少しだけ……ほんのもう少しだけでいいから、こうしていてね……私の傍にいてね……)
 私は彼を抱きしめる腕に、せいいっぱいのわがままと想いをこめた。


 
 もしも今、何か一つだけ願いが叶うと言われたならば、私はまちがいなく海君との未来を願うだろう。
 傍にいたいと願うだろう。
 
 でもその願いだけは、決して叶えられることはない。
 
 だっていくら私が望んでも、――海君はそれを望まない。
 
 どうしてだろう。
 なぜなんだろう。
 
 尋ねることすらできない私は、ただひたすらに刹那の幸せだけを繋ぎあわせる。
 ――そう、まるで何かに急かされるかのように。


 
「じゃあ一週間後……! 必ず迎えに行くから!」
 笑顔で手を振る海君に見送られて、夏休み三日目の朝、私は故郷へと向かう新幹線に乗った。
 
「ひさしぶりにに、帰ろうと思うんだけど……」
 と母に連絡を取ったら、有無を言わさずに送られてきた切符だった。
 
「何かあったんじゃないかって心配してたけど……元気なら良かった」
 電話の向こうで心からホッとしたような母の声には、心が痛んだけれど、積もる話は故郷に帰ってからすればいいと思った。
 
 叱ってもらって、励ましてもらって、またこの街に送りだしてもらおう。
 いつでも私のことを心配してくれている人が、そこにいるということを、私はきっと二度と忘れないと思う。
 ――海君があの夜見つけ出して、すくい上げてくれた、私の本当の気持ちと一緒に。
 
 だから私はそれらを全部心に抱えて、これからも夢に向かって歩いていく。
(それがきっと海君への、一番の『ありがとう』になる……!)
 
 あっという間に見えなくなるホームで、大きく手を振っている彼の姿を、それでもずっと見つめながら、私はそんなことを思っていた。
 どんどん遠くなって、小さな点になって、終いには見えなくなっても、いつまでもいつまでもふり返って見ていたかった。
 
(大丈夫。またすぐに会える……今はまだ会える……!)
 必死になって自分で自分に言い聞かせないと、前を向く勇気も出ないくらいの切なさだった。
 
 飛ぶように過ぎていく窓の外の景色に視線を移して、やっとのことで前を向いて座り直す。
 まるで心の一部を、あの駅のホームに置いてきたようだ。
 虚無感と脱力感で、放心したように、どさっとシートにもたれかかる。
(こんなことじゃ、駄目だな……)
 
 情けない。
 みっともない。
 ギュッと目をつむって何度も頭を振った。
 
(大好きな故郷に帰るんだから……あの海をまた見れるんだから……私を待ってくれている人がいるんだから……!)
 楽しみをいくつもあげ連ねて、なんとかして寂しい気持ちを紛らそうと、私はかなり必死だった。
 
(うん。帰ったら絶対にあの丘に行こう! 大好きだった服を着て、大好きだった帽子を被って……私の秘密の場所にも行こう! そしたら海君と一緒じゃなくっても、楽しかった頃のことを、少しは思い出せるかもしれない……!)
 なんだか愚かしいくらいの小さな抵抗だった。
 
 たとえ彼がいなくても、幸せな気持ちになれることを証明しようという私のその行為は、まるで海君がいなくなったあとの準備を、今から必死になっておこなっているかのようだった。
 窓から見える景色が飛ぶように過ぎて行く新幹線じゃ、外の空気なんて感じることができるはずない。
 それなのに、遥か遠くに見覚えのある風景が見え始めたら、その途端、海の匂いがしたような気がした。
 
 少し古びた懐かしい駅のホームでは、母が私を待っていた。
 新幹線から降りてきた私の姿を見るなり、
「ちょっと痩せたんじゃないの?」
 と不満そうに眉を寄せる。
 
(これでもニヶ月前よりは、まともに食事するようになったし……かなり太ったんだけどな……)
 私は心の中でだけ苦笑して、
「お母さんは、またちょっと太ったみたい」
 と憎まれ口を叩いた。
 
 母は笑いながら、
「失礼ね」
 ポンと私の背中を押す。
 
 黙ったままじっと見つめる私と視線があうと、次の瞬間、豪快な笑顔がはじけた。
(よかった……いつもとなんにも変わらないや……)
 
 それが嬉しかった。
 最後に会ったのは半年以上も前だから、本当は不安でたまらなかった。
 これまでどおりに母が出迎えてくれて、心からホッとした。
 
 母と半年も会わないなんて、昔だったらとても考えられないことだった。
 お母さん子だった私は、小さな頃はいつも母のうしろばかりついてまわっていた。
 大きくって優しい、世界中で一番大好きな背中。
 
 大学に進学して一人暮らしを始めてからも、休みになるとすぐに実家に帰っていたし、母とはしょっ中電話をしていた。
 そんな私が突然連絡もつかず、帰ってもこなくなって、母はいったいどんな気持ちでいたんだろう。
 どんなに心配したんだろう。
 
 今度会ったら真っ先に怒られるって、そう覚悟して帰ってきたのに、私の顔をよくよく眺めた母は、
「うん、良かった。いい顔してるね……」
 なんて、すっかり安心したように頷いてしまう。
 
 その言葉に胸が痛んだ。
 たぶんニヶ月前の傷だらけの私じゃ、こんなふうに笑ってはもらえなかった。
 きっと心配させてしまっただろう。
 
 ううん。
 そもそもこんなに普通に、ここに帰ってくることができなかったかもしれない。
 ――ひょっとするともう二度と。
 
 そう考えると、また胸が熱くなった。
 
 私には、まだまだ海君に感謝しないといけないことがたくさんあるはずだ。
 あの夜、彼が私の前に現れて、太陽の下に引っ張り出してくれて、闇の中に飲みこまれてしまいそうだった私の世界は一変した。
 こんな私をあんなに大切にしてくれて、いつでも傍にいてくれたから、今の私がある。
 
(ありがとう……)
 何度心の中で感謝しても、海君には届くはずもないのに、思わずにいられない。
 
「……真実」
 母と並んで駐車場まで歩いて行ったら、懐かしい我が家の車の中に、父の姿もあった。
 
「お父さん!」
 それ以上はなんて言ったらいいのだか、まるで言葉が出てこない。
 
(今日って平日だよね……仕事は?)
 
 父は表情を変えないまま、照れたようにそっと右手を上げる。
 おかえりと言ってくれているようなその仕草が嬉しくって、目頭が熱くなった。
 
 こんなに家族に愛されて、大切にしてもらっていることを、私はもう二度と忘れてはいけないと、心から思った。


 
 新幹線の駅から私の家がある町までは、車で三十分の距離だ。
 荷物を父が積みこんでくれている間に、私はバスの運行表を確認しておく。
 ――一週間後、海君が迎えにきてくれた時のために。
 
(本当はお父さんに、こんなふうに駅まで送ってきてもらってもいいんだけど……)
 助手席に乗りこんでシートベルトを締めながら、運転席の父にそっと目を向ける。
(海君のこと、なんて説明したらいいのかわかんないしなあ……)
 苦笑する私を乗せて、父の車はゆっくりとスタートする。
 生真面目な様子でハンドルを握る父の横顔を、私は何も言わず、しばらく眺めていた。
 
 知らない男が娘を迎えに来た。
 それも見るからに年下の男。
 それなのに娘はこの上なく嬉しそうな顔で、さっさと行ってしまう。
 
(そんなことになったら、お父さんはなんて言うんだろう……どうするんだろう……?)
 面白半分に想像して笑うことができるのは、それがきっと現実にはならないとわかっているからだ。
 私は父の顔から目を離して、進行方向に向き直った。
 
(この人が私の大好きな人ですなんて……紹介もできないよ。だって私は海君の本当の名前だって知らないもん……)
 自分で考えておいて、ズキリと胸が痛んだ。
 
 最近妙にこういうことが多くなった。
 さすがにそろそろ限界なのかもしれない。
 
『何も知らなくていい。傍にいるだけでいい』
 という建前と、海君を想う私の気持ちの大きさが、とうの昔に釣りあわなくなってきている。
 
(今さら他の名前で呼ぼうにも……私にとって彼は「海君」以外の誰でもないけど……)
 苦笑交じりにそう思った時、ずっと遠くに鈍い色に輝く水面が見えた。
 
(海だ!)
 そう思っただけで、心が弾んで走り出したいくらいの気持ちになれるのが、今は嬉しい。
 
 小さな頃から愛していた風景は、やっぱりどんな時でも、私に安らぎと喜びの気持ちを与えてくれる。
 不安定な心理の時だからこそ、もう一度この景色を目にすることができて、本当によかったと思った。
 
「ねぇお父さん……私、いつものところから歩いて帰ってもいいかな?」
 私の問いかけに、横顔の父は黙ったまま頷く。
 
 代わりに母が、呆れたように笑った。
「きっとそう言うだろうと思った! あんただけよ。あの坂を歩いて家に帰りたいなんて言うのは……!」
 
「ふふっ、そうだろうね……」
 思わず私も笑ってしまう。
 
 真っ直ぐに前を見つめたままの父の横顔も、微かに笑った気がした。


 
 私の生家は、長い坂を上った丘の上に建っている。
 港のすぐ近くから始まるその坂は、かなり急な傾斜で、二十メートル近くも続くかなりきつい坂だ。
 そこを上った先に家があるなんて、下からでは到底見えないくらいの高さ。
 
 上りきって家の前に立つと、そこからは今度は逆に、遥か下方の港全体を見下ろすことができた。
 
『心臓破りの坂』と家族で呼んでいるその坂は、確かに毎日上り下りするには、かなり辛いもので、父も母も二つ年上の兄も、いつも車で往復している。
 だけど、息を切らせて歯を食いしばって上らなければならないその坂が、私は子供の頃から大好きだった。
 
「真実……どうせあんた、あんまり体動かしてないでしょ? 運動不足の体に、あれはきっついわよー」
 母のおどしにも負けず、私はニッコリ笑った。
 
「うん。でもまあ、のんびりと行くよ……」
 父の車はいつの間にか、短い道が複雑に入り組んだ懐かしい港町にさしかかっていた。
 
 坂を登るには、私なりに作ったいくつかのルールがある。
 無理はしないこと。
 邪魔になる荷物は持たないこと。
 それから時々立ち止まって、海を見下ろすこと――。
 
 そうすると、がんばって上ったぶんだけ見える景色がどんどん広がっていって、家に着く頃には、私の大好きな光景が、視界いっぱいに広がることになる。
 その感動と喜びを感じるためなら、またがんばろうといつだって思えるのだった。
 
(もう半年以上もこの風景を見ないで生きていられたなんて……自分が信じられない……!)
 私は坂を三分の二ぐらい上ったところで、やっぱりそこも自分で休憩ポイントと決めている大きな石に腰かけ、もうかなり下になった視界いっぱいの海を眺めた。
 
 傾きかけた夕日に照らされてキラキラと水面が輝いている今の時間は、私の大好きな時間の中の一つだ。
 
 高く低くなる波の動きにあわせて、煌めく水面の様子は、いくら眺めていても飽きることはない。
 夕方になっても衰えることを知らない真夏の太陽は、ジリジリと西の空から照りつけ、噴きだした汗は額からも背中からも流れ落ちて、少しぐらい休憩してもとても止まりそうにはない。
 でも今はそんなことさえ、なんだか懐かしかった。
 
 何百回。
 いや何千回。
 この坂を登っただろう。
 そして、この大好きな海を眺めただろう。
 
 いつかこの風景を一緒に見てほしい人が現われる。
 そんな女の子らしい感傷に、胸をときめかせた日々。
 今ここに、その大好きな人はいないけれど――。
 
(いつか本当に……ここに一緒に来れたらいいのに……)
 大きな石に腰掛け、空を仰ぎながらそう思った。
 思うだけで、涙が溢れた。
 
 最近の私はどうも涙もろくていけない。
(なんでこんなに切ないんだろう……? 海君のことを思うと……どうしてこんなに胸が痛いんだろう……?)
 
 私はもう一度、海へと視線を戻す。
 涙で霞む海が、夕日を受けて煌めく。
 深い色、優しい色。
 いろんな色が混じりあって、溶けあって、他にはない色を作っている。
 その複雑で、どうにも私を魅了せずにはいられない色は、やっぱり私の大好きな海君の、あの瞳の色に似ていると思った。


 
「お前、ちゃんと勉強してるのか? 遊んでばっかりいるんじゃないだろうな……」
 あまりにも私に何も聞かない父と母の分を補うかのように、夕方仕事から帰ってきた兄は、矢継ぎ早にいろんな質問をくり返した。
 
 この春に大学を卒業して地元の企業に就職した兄は、この港町から毎日一時間をかけて、少し大きな町へと通勤している。
 
「入社したばっかりだからとか言って、いつも帰りは夜中なのに……真実が帰ってきたって教えたら、飛んで帰ってくるんだから……!」
 からかうように笑う母に、兄はしかめっ面をしてみせる。
 
「うるさいな! てっきりまた、愛梨ちゃんを連れてきたと思ったんだよ! 真実一人だったら、こんなに急いで帰ってくるんじゃなかった……」
 照れたようにふて腐れる兄に、私は抗議の声を上げた。
 
「ひっどい! お兄ちゃん」
 そんな私たちを、母がまた豪快に笑いながら見た。
 
 ひさしぶりに家族四人で囲んだ夕食の食卓。
 黙ったまま私の向かいの席に座っている父も、本当は嬉しそうなのが雰囲気だけでわかる。
 
 十八年間、私を包み、育ててくれたいつもの環境に、何事もなくスーッと戻ってこれたことが、まるで夢のようだった。
 
 今思い返してみれば、ニヶ月前までのどうしようもない私も、実はそんなに最悪の状態ではなかったのかもしれない。
 自分さえしっかりとして、ちゃんと前を向いていれば、すぐに元の道に修正できた程度のまちがいだったのかもしれない。
 
 でも私は弱虫で、どうしようもない甘ったれで、いろんなことに絶望して、何か行動を起こす前から、全てを諦めかけていた。
(全部自分が蒔いた種なんだよ……きっと幸哉のせいだけじゃない……!)
 
 それをこれからも忘れてはいけない。
 決してもう二度と、あんな状態には落ちこまないという決意をこめて、心のどこかに残しておかなければいけない。
 
 私は弱いから。
 すぐにまちがいを起こすから。
 誰よりも強くしっかりと、大切なことを心に刻みこむしかないんだ。
 
 私はそのためにここに帰ってきた。
 自分がどんなに愛されているか。
 大切にされているかを、決して忘れないようにするために帰ってきた。
 
 だからどんなに憎まれ口を利いたって、小さな頃からずっと私を守ってくれていた兄に、本当は感謝の気持ちでいっぱいだ。
 だけど――そうなんだけど――。
 
「ちょっとお兄ちゃん! それ私のぶんでしょ! いい年して妹のおかず取らないでよ!」
「うるせっ! 無理やり仕事切り上げて帰ってきてやったんだから、少しくらいサービスしろ!」
「別に頼んでないし……それにこれって、私のためにお母さんが作ってくれたのに……!」
「ふふーん。悔しかったらもっとちょくちょく食べに帰ってくるんだな! ……あっ! だけど、一人で来んな! 今度帰ってくる時は、ちゃんと愛梨ちゃんも一緒だぞ? 忘れんな!」
「お兄ちゃん!」
 
 小さな頃からちっとも変わらない私たちのやり取りを、母はハハハッと笑いながら見ている。
 父は「いつものことよ」と眉一つ動かさない。
 そんな当たり前のことが、たまらなく嬉しかった。
 兄の意地悪も、憎まれ口も、あまりにも以前と変わってなくって、本当は泣きたいくらいに懐かしかった。
 だから――。
 
「……真実?」
 兄が思わず、箸でつかんでいたから揚げを落としてしまうくらい唐突に、私の涙は零れた。
 
「なっ、なんだよ! そんなに食べたかったのかよ……わかった返す! 返すよほらっ!」
 私の涙にからっきし弱くて、すぐに降参してしまう癖まで、兄は小さな頃から全然変わっていない。
 
「なんなのよあんたたちは……いい年して、おかずの取りあいで喧嘩なんかして……!」
 さっきまで笑って見ていたくせに、どちらかが分が悪くなった途端、突然母親らしく仲裁を始める母も、全く昔のままだ。
 
「……隆志」
 いつだって本当の本当は私の味方の父は、迫力のある声で、ただ、兄の名前だけを呼んで、
「ちえっ」
 兄が降参して、喧嘩は終わり。
 
 いつもと同じだ。
 いつだって一緒だ。
 そう思えば思うほど、私の涙は止まらなかった。
 
「おい。真実、泣くなよ。俺が叱られるだろ」
 まるで小学生のように途方にくれて、隣に座る私の頭に手を載せてくる兄は、いくつになっても、どんなに離れて暮らしていても、やっぱりいつだって私の『お兄ちゃん』だった。
 いつもうしろをくっついてくる妹を、口では文句言いながらもきっと待っていてくれた 『お兄ちゃん』だった。
 
「うん。うん……」
 泣きながら頷く私に、
「話ならいくらだって、俺があとで聞いてやるから……とりあえず飯食ってからにしろ……」
 本当はいつだって優しいその声で、なだめるように、あやすように、私の背中を撫でてくれた。


 
「だいたいなあ……お前はあまりにも真面目に考え過ぎなんだよ……単位の一つや二つ落としたって、別に……」
「三つ」
「おおっ、三つか……まあ、来年がんばりゃいいだろ……俺だって落としまくりだったけど、こうしてちゃんと卒業できたわけだし……!」
 
 何を偉そうに自慢しているんだか――。
 兄は私の部屋の勉強机の椅子に、反対向きに腰掛けて、私の悩みを聞いてくれている。
 
 夕食が終わってすぐ、自分の部屋に引きこんだ私に、
「何があったんだ? 兄ちゃんに話してみろ」
 と兄が迫り、
 私は苦し紛れに、
「ちょっと今回の成績が悪かったから……」
 と嘘をついた。
 
 それは実際、嘘でもなかったが、三ヶ月も大学をサボっていたわりには、けっこういい成績だったと自分の中では納得していたので、本当は悩んでなどいなかった。
 しかし――。
 
『妹の相談に乗る』という使命に燃え、真剣に語り出してしまった兄を、どうやって止めればいいのだろう。
 兄は自分の失敗談まで引っ張り出して、私を励まそうとしてくれる。
 
「いいか? ようは単位さえ取れれば、お前の欲しがってる司書の資格は取れるわけだから……ここは授業内容よりも、どれだけ楽に単位が取れるかを重視して、選択科目を選んでだな……」
 自分の四年間の大学生活で培った知識と処世術で、困っている妹の窮地をなんとか救ってやろうと、もう必死だ。
 
(お兄ちゃんごめん……本当は私、そんなに困ってないんだよ……)
 心の中で手をあわせながら、私は素直に兄のアドバイスを受け続けた。
 
「とにかく! まあ、あんまり気にすんな。父さんだって母さんだって、お前の成績に別に期待なんかしてないんだから……!」
 励ましているんだか、けなしているんだかよくわからないセリフを最後に残して、兄は私の部屋を出て行った。
 
 それと入れ替わるようにして、今度はしばらくして母がやって来た。
「ねえ真実……困ったことがあったら、すぐに言ってくるんだよ……?」
 私のベッドの上に並んで腰をおろしながら、母はいつもの豪快な感じとはうって変わった様子で、しんみりと呟いた。
 
「真実はすぐに我慢するから……嫌なことがあったって、無理して笑って……抱えきれなくなるまで誰にも言わずに我慢するから……いつか破裂しちゃうんじゃないかって、心配だよ……」
 
 まさか母が、私のことをそんなふうに思ってくれているとは思わなかった。
 思わずまた涙が浮かんで来てしまう。
 
「どうしようもなくなる前に言うんだよ……? 私だって、お父さんだって、お兄ちゃんだって……みんなあんたの味方なんだから……」
 
 うん。
 うん。
 と私は何度も頷いた。
 
 誰にも言えなくて、一人で抱えこんで、私が悩んでいた時のことを、母はまるで知っていたかのようだった。
 何もかもお見とおしで、それでも私を叱ったり責めたりしないで、全て包みこんでくれるかのようだった。
 
「お母さん……」
 抱きつく私を、あたりまえのように抱きしめてくれる。
 
 今では私より背も小さくなって、抱かれている私のほうが、大きくなってしまったけれど、
(お母さんはやっぱりお母さんなんだ……)
 優しさをかみ締めるように、私はそっとそう思った。
 
 物心つく前から私にとって一番安心できる場所だった母の腕の中は、大好きな海君の腕の中と同じように、やっぱり私にとってはどこよりも安らげる、居心地のいい場所だった。
 あくる日。
 仕事に出かける兄と、パートに行く母を見送った私は、父と二人で家に残ることになった。
 『ひさしぶりに娘が帰ってくるから』という理由で、父は平日にもかかわらず、わざわざ休みを取ってくれたのらしい。
 
「なんだよ! ……こんな時ばっかり早く帰ってくるんだからって……昨夜お袋、俺のことはさんざん笑ったくせに……親父のほうがもっと凄いじゃないかよ……!」
 朝早く、朝食も食べるか食べないかで出かけていった兄の悪態には眉一つ動かさず、父はいつものようにどっしりと食卓の自分の席に座り、静かに新聞に目を落としている。
 
 私の前に朝食のおかずを次々と並べながら、母は、
「今日一日、お父さんのことをヨロシクね……」
 となんだか嬉しそうに笑った。
 父は少しきまり悪そうに、ゴホンとひとつ咳払いをした。
 
 母がバタバタと出かけていってからすぐに、私は母に頼まれた洗濯や掃除に取りかかった。
 やることがあるというのは嬉しいものだ。
 体を動かしていると、いろんなことを忘れられる。
 どこにいても、何をしてても、本当は私の心をつかんで放さないあの悪い想像から、ほんの少しの間だけでも逃れられる。
 
「ええっ? こんなに綺麗にしてくれたの!」
 と母が喜んでくれる顔を見たくて、私は懸命にがんばった。
 
 普段はそんなこと思いつきもしない縁側の雑巾がけを、ひととおりやり終えた時、ふと庭に目を向けると、そこ立つ父の背中が目に飛びこんで来た。
 
(そうだった……! お父さん私のためにわざわざ、仕事を休んでくれたんだったのに!)
 そう思うと、大掃除まがいの念入りな掃除に一日を費やしてしまうのは、なんだか申し訳ない気がした。
 
「お父さん、どっか出かけようか?」
 エプロンを外しながら声をかけると、庭木に水を撒いていた父が、ホース片手にゆっくりとふり返る。
 
「どこに行くんだ?」
 最初からそのつもりだったわけではないのに、私の口は迷うことなく、
「お墓参り」
 と答えた。
 
 いつもあまり表情の変わらない父の目が、煌く水しぶきのすぐ横で、とても嬉しそうに輝いた気がした。
 
 我が家のお墓は、家と同様、長い坂の上に建っている。
 この町自体が海岸に沿って長く伸びるように拓けた町だから、繁華街から少し抜けた場所となると、自然と山の丘陵を段々重ねに無理やり開拓した場所になるのは、仕方がない。
 
 家も畑もお墓も、全てが斜めに折り重なるように続いていて、山肌をビッシリと埋め尽くすような坂の町。
 だけどこの風景が、私は大好きだった。
 
 父の車の助手席に座って、お墓のある坂の上り口まで来たら、私はおずおずと父の横顔に声をかけた。
「お父さん……私ね……」
 
 言いかけた言葉は、父の
「わかっている」
 という短い返答に遮られる。
 
 父はそのまま車を道路脇に停め、家から持ってきたお添えの花を片手に、車から降りた。
 
「ここからは歩いて行くから、私だけ降ろして」
 と言うつもりだった私は、どうやら父も私につきあってくれるつもりらしいことに驚いた。
 
「お父さんも歩いて登るの?」
 父は黙ったまま頷くと、黙々と坂を上り始めた。
 
 私は慌てて、その広い背中を追いかけた。

 
 
 家へと続く坂の何倍も長いお墓への坂は、角度も急な上に舗装もされていない、砂利道だ。
 
「あそこに行くと車が汚れんだよな……」
 と兄がぼやくとおり、車に乗っていても体がガタガタと揺れるようなかなりの悪路で、つづら折りになった道を、何度も何度も右へ左へ折り返して進んでいかなければならない。
 
 でもこの道も、家へと続く坂道同様、私には大好きな道だった。
 
「どうしても歩いて上りたいなんて……本当に変な子だよ……」
 母に笑われ、兄に呆れられながらも、私は何度もこの道を歩いた。
 
 車で登った時の何倍も何十倍も時間がかかってしまって、ようやくお墓にたどり着いた時には、車で来た他のみんなはとっくにお参りを済ませて、帰るところだったなんてこともしょっちゅうだった。
 
「お前さあ……いったい何しに来てんだよ……?」
 兄の非難の声もまったく気にならないほど、坂を上りきったあとの私は、いつも上機嫌だった。
 
 登ったことがない人には、きっといくら言ったってわからない。
 クタクタに疲れながら、それでもがんばってがんばって、てっぺんまで上りきった時に、ふり返るとどんな景色が私の目の前に広がっているのか。
 
 ――そんな素敵なこと。
 やったことがない人には、絶対教えられない。
 
「お兄ちゃんも歩いて登ってみてよ! そしたら、きっとわかるよ!」
 意気揚揚と誘いをかける私に、兄はこれ以上はないほど嫌そうな顔を向ける。 
「嫌だ。別にそんこと事……知らなくっていい……!」
「えー? そんな事言わずにー」
「やだったらやだ!」
 
 兄だけじゃなく、父だって母だって、私の誘いを上手い具合にかわして、これまで私につきあって、この坂を歩いて登ってくれたことはなかった。
 
 それなのに今日の父は、いったいどういう風の吹き回しだろう。
 
(いったいどうしたの……お父さん?)
 声に出して問いかける間も与えず、どんどん遠去かっていくうしろ姿を、おいてきぼりにならないように、私は夢中で追いかけた。
 
「母さんが……昔はよく、こうやって歩いて上ってたなあ……」
 私のほうをふり返りもせず、突然口を開いた父の言葉を一言だって聞き逃すまいと、私は急いで隣に並ぶ。
 
「お祖母ちゃんが?」
 問い返してみると、父はやっぱり前を向いたまま、静かに頷いた。
 
「ああ。ここにお墓を建てようって決めたのは母さんだからな。年を取るとお墓参りも大変になるからって反対したのに、決局聞き入れてくれなかった……『私なら大丈夫』って……実際、足が不自由になる前までは、本当に毎日長い時間かけて、自分の足で歩いて上ってたからなぁ……凄いもんだと思った……」
 
 普段はどちらというと寡黙な父が、いつになく饒舌に語ってくれることが嬉しくて、私は余計な口は挟まず、ただ静かに父の言葉に耳を傾けた。
 懐かしい祖母のうしろ姿を追うようにして、父は今、この坂を上っているのかもしれない。
 
「真実もお祖母さんと一緒で、歩いて登るのが好きなんですよって報告したら……きっとどんなことよりも喜んでくれるんだろうな……」
 
 その祖母も十年前に他界して、今はこの坂の上のお墓で、祖父と仲良く眠っている。
 
 実は私は、祖母とのやり取りの中で、このお墓に関して、父も知らないあることを知っていた。
 今日初めて、一緒に歩いて坂道を登ってくれたことへのお礼として、それを父にも教えてあげてもいいと思った。
 
「お祖母ちゃんがどうしてこの坂の上にお墓を建てたかったのか……私、その理由を知ってるよ」
 長い坂道を歩き続けてすっかり息が上がってしまっていた私は、大きく肩で息をくり返しながら、父の背中を見つめてそう言った。
 
 すると、これまでずっと前ばかりを向いていた父が、初めて私のほうをふり向いた。
 
「お祖母ちゃんが生きてる頃に、こっそり教えてもらったんだ……」
 ちょっぴり自慢げに、私は胸を張った。
 
「お父さんにもあとで教えてあげるね……」
 私と同じように額に汗をかいて大きく息を切らした父は、私の顔をしっかりと見つめながら、ひどく嬉しそうに頷いた。


 
 坂を上りきって、遥か眼下に深い色の海を見下ろしながら、私は祖父と祖母が眠るお墓に手をあわせた。
 
 さすがに夏の暑い時期に、これだけの距離を歩いて上るのは無謀だったようで、流れ落ちる汗はなかなか止まらない。
 ちょっと痛くなったふくらはぎは、私の日頃の運動不足をものがたっていた。
 
 長いこと、私の目の前で、立ち尽くしたまま手をあわせている父も、私と同じように汗だくで、まだ荒い息を吐いている。
 
 でも妙な達成感というか。
 高揚感というか。
 いつものお墓参りとは違う何かを、感じてくれているらしいのは確かだった。
 
(よかった……)
 まるで親と子が逆転したかのように、私はそんなことを思う。
 祖母からの伝言を受けているから、ついついそんな気持ちで父のことを見てしまうのかもしれない。
 
 ようやくお参りが終わって私のほうをふり返った父は、目線だけでうながして、私を墓地の外れの木製のベンチへと移動させた。
 
 そこは墓地の中でも、景色を眺めるには一番の特等席だった。
 大きな木の根元にあって、ちょうどその梢が木陰を作ってくれている。
 座ったままで海が見下ろせるし、下から吹き上げてくる風の通り道で、他の場所より涼しかった。
 
「ああー……気持ちいいー」
 両足を投げ出すようにしてベンチに腰掛けた私の隣に、父も座って、ハンカチで額や首筋の汗を拭う。
 その後も無言のまま、長い時間ただ海を見下ろしている横顔に、私のほうから話しだすのを静かに待ってくれているんだと感じた。
 
 私は祖母から聞いた話を、父に伝え始めた。
 
「ここってね……お祖父ちゃんが戦争に行く時に、お祖母ちゃんがお祖父ちゃんの乗った船を見送った丘なんだって……無事に帰ってくることを祈って、その後も願掛けみたいに毎日登った丘なんだって……そして、お祖父ちゃんが帰ってくるっていう日には、一番に船が見つけられるように……ドキドキしながら待った丘なんだって……すっごく嬉しそうに笑いながら、大事そうに教えてくれたなぁ……」
 
 小さな頃に何度か、くり返し聞かせてもらった祖母の思い出話を、私は真っ直ぐに海を見つめたまま、父に語った。
 できるだけ祖母の言葉そのままに――。
 
 父は短く「そうか」と言ったきり、私と同じように、ただ真っ直ぐ海を見ている。
 
 まるで小さなミニチュア模型のように、遥か眼下に広がっている港町が、私の――そして父の生まれ育った町だった。
 
 我が家は海に直接関係のある仕事ではないけれど、港町に住んでいる以上、海とは密接な関係にある。
 食卓に上る新鮮な海の幸。
 車のエンジン音よりも聞きなれた漁船の汽笛。
 賑やかな浜の声。
 
 私の日常にとって、海は切っても切れないものだ。
 だから海を見ているだけで、自然と心が落ち着いていく。
 
 穏やかな目で海を見下ろす父も、ひょっとしたら私と同じ気持ちなのかもしれない。
 
「目を閉じるとね。なんだか……お祖母ちゃんが見てた風景が、目に浮かぶような気がするんだ……大好きな人がもうすぐ帰ってくる。そのドキドキワクワクする気持ちだって、わかる気がするんだ……ここで待ってたら、私にもいつかそんな人が現われるんじゃないかなんて、夢みたいな話……昔はよく考えたなぁ……」
 
 懐かしいばかりの思い出を、目を閉じて思い浮かべていた私に、それまで口をつぐんでいた父が、唐突に尋ねた。
 
「それで……? 現われたのか? お前がそんなふうに思える人は……」
 
 胸がズキリと痛んで、その瞬間私は、「うん」とも「ううん」とも言えなかった。
 仕方がなく、父に向かってただ曖昧に微笑む。
 
 そうしておいて初めて、いつも海君がどんな気持ちで、私にそんな対応をくり返していたのかが、わかった気がした。
 
(そっか……言いたくても言えない言葉をのみこんでいたんだね……)
 
 それはなんて辛いことだろう。
 苦しいことだろう。
 
 彼は私と出会ったほんの最初の時から、ずっとこんな気持ちを抱えていたんだ。
 ――それなのにいつだって優しく、私のことを見つめてくれていた。
 
 考えれば考えるほど、胸が痛くて、涙が浮かんできそうだった。
 
 眉根をギュッと寄せて、必死に泣くのを我慢する私に、父が語りかける。
「お前が……卒業してもあの街に残りたいんだったら……別にそれでも構わないんだぞ……?」
 
 静かな声だった。
 父の言葉は言外に、『もし一緒にいたい人があの街にいるんだったら、そのまま留まってもかまわない』と私に許しを与えてくれている。
 
 そのことはよくわかる。
 でも私は、すぐに首を横に振った。
 
「ううん。やっぱり私はここに帰ってくるよ。私には……やっぱりこの風景が一番大事だもん……」
 
 それは確かに私の本当の心だった。
 でもそれと同時に、どんなに望んでも叶いそうにない願いに、自分から背中を向けようとする行為でもあった。
 
(私の好きな人とは、このまま一緒にいることなんてできないんだよ……どんなに好きでも……大切でも……この恋はきっといつか手放さないといけない……!)
 
 しかもそれは、そう遠い未来じゃないだろうということに、私は確信を持っている。
 
 私の苦悩に満ちた表情を、父がどんなふうに解釈したのかはわからない。
 けれど――。
 
「だったら……ここに帰ってくればいい……!」
 当然のように私の頭を撫でてくれた大きな手が、小さな子供の頃と同じように、とても温かく、とても頼もしく感じて、泣きたいくらいに嬉しかった。
 懐かしい友達と会ったり。
 小さい頃から慣れ親しんだ景色を見てまわったり。
 私の故郷での日々は、飛ぶように過ぎていった。
 
 どんなに距離的に離れていても、時間が経っても、そこに帰ってくるだけで、スーッと元いた場所に帰っていける。
 故郷というのは、本当に不思議なところだ。
 
「今日は私の秘密の場所に行ってくるね……」
 朝からいそいそと準備に励み、まだ午前中の早い時間にわざわざ大袈裟に宣言して出かけようとした私に、日曜日で家にいた兄が、
「なんだよそれ! 秘密でもなんでもないじゃないか……!」
 と意地悪く叫ぶ。
 私は最高のしかめっ面をしてみせた。
 
「お昼には帰って来るんだろう?」
 台所に立ったまま、背中で話しかけてきた母は、昼食にも私の好きなものを出そうと、今日も朝から頭を捻ってくれている。
 
 そんな生活もいよいよ明日で終わりだ。
 だから今日のお昼も夕食も、心置きなく味わって帰らなければ。
「もちろん! 帰ってくるよ!」
 
 何年も前に買ったつばの広い白い帽子と、白いワンピース。
 お気に入りの服に身を包んだ私は、
「行ってきます」
 と、新聞に目を落としたままの父にもう一度声をかけた。
 
 小さく頷いてくれる様子を確認して、玄関を出る。
 
 明日には、大学のある街に帰るとはとても思えない。
 まるで何年も続くなんでもない日常のごく当たり前のひとコマのような、日曜日の朝だった。


 
 小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、私は海岸沿いの堤防をずっと歩いた。
 もともとが漁業のためだけの港だから、堤防はとても高くて、水面は遥かに低い。
 
 釣りをするにはもってこいだけれど、子供が水遊びをするような浜はどこまで歩いてもまったくなくて、小さな頃、港に遊びにきた私は、
「海で泳ぎたいのに!」
 と駄々をこねては母を困らせた。
 
 そんな私の手を引いて、長い長い時間歩いて父が連れていってくれたのが、私の『秘密の場所』だった。
 
 父に教えてもらったのだし、兄も一緒に行っていたんだから、私だけが知っている場所ではないのだが、いくつになってもそこはやっぱり気持ち的には『私の秘密の場所』だった。
 
 普通の道路からは行けない。
 堤防をずっとずっと歩いて行くしかたどり着く方法がない。
 岩に囲まれた小さな小さな砂浜。
 
 だから、私以外の人はきっと知らないと思う。
 もし万が一知っていても、わざわざ行かないと思う。
 
 兄だって子供の頃に一回行ったっきり、
「あんな遠いところに……誰が行くか!」
 と私の誘いを断り続けている。
 
(だからやっぱり……私の秘密の場所なんだもん)
 
 港からも、町からも、確実に遮断されたその小さな砂浜を私はひさしぶりに訪れ、あまり広くはない空間のちょうどど真ん中に膝を抱えて座った。
 
 大好きな海が、手を伸ばせば届くくらいの距離に広がっている。
 
 あまり広い砂浜ではないのに、不思議なことにこの場所は潮の満ち引きによって、なくなることがない。
 大きな岩に囲われているからだろうか。
 それとも、実際には沖のほうの海とは繋がっていないのだろうか。
 
 どちらにしろ、まるで世界から切り離されているかのように、静かで、いつも変わらずここに存在している。
 
 目の前には海。
 見上げれば大岩に切り取られたような青い空。
 背後には数メートルも高い位置に、私の降りてきた堤防からの階段の降り口。
 
 完全な周りからの孤立は、いつもここに来るたび、私に自分の心を見つめ直す時間を与えてくれ、、落ちこんだ心にもう一度立ち上がる勇気を蓄えさせてくれた。
 
(私は今……本当に幸せだよ……?)
 自分に確認するように、心の中だけで呟く。
 
(大学にまた通えるようになって……友だちも家族もいてくれて……夢に向かって確実に前向きに歩いてる……)
 
 確かにそうだ。
 少し前の私が望めるはずもなかったものを全て、今の私は手にしている。
 
(これ以上……何を望むっていうの?)
 
 それは傲慢だ。
 どうしようもないわがままだ。
 
 両手で顔を覆って、私はそのままうしろにゴロンと砂浜に仰向けに倒れた。
 頭から落ちた帽子が、風に煽られて、少しだけコロコロと転がっていく。
 
 ちょうど私が転がった位置からは、太陽が大岩の陰に隠れて、海よりも青い空だけが、箱庭のような形に切り取られて見えるだけだった。
 
 真っ白な雲が一つ、じいっと見つめていると、かなりのスピードでその小さな空を通り抜けていく。
 
 時間はこんなにも駆け足だ。
 過ぎ去った雲のあとには、次々と色も形も違う雲が続いていくように、私の時間も、この先ずっと止まることなく流れていく。
 
(その中には、きっと新しい出会いだってあるはずだ……)
 
 それは素晴らしいことじゃないだろうか。
 素敵なことじゃないだろうか。
 これまで何度も何度も私の心を救ってくれた、未来への希望や夢なのに、どうして今はこんなに用を成さないんだろう。
 どうしてこんなに色褪せて見えるんだろう。
 
(他の誰かなんていらない! ……いらないのに!)
 私の心は、どうしてこんなに頑ななんだろう。
 
(ここに来れば、少しは割りきれると思ってた……)
 なのにどうして、涙は次から次へと頬を流れ落ちていくんだろう。
 
 砂に吸いこまれていく涙と一緒に、叶わない願いも、苦しい想いも、いっそなくなってしまえばいいと思った。
 ここに全て置いて帰らなければ、本当に自分の心が壊れてしまうように思えた。
 
 だから両手を空にさし伸べて、私はなりふりかまわずに泣くことにした。
 
 空っぽになるくらい泣いて泣いて泣いて。
 海君へのどうしようもない想いを、全部この場所に置いていこうと心に誓った。


 
 それからどれぐらいの時間が経ったのかはわからない。
 ただ泣き疲れてしまって、いつの間にか砂浜に寝転んだまま眠ってしまっていたことだけは確かだった。
 
 太陽の位置が少し移動して、私の顔に直接当たるようになっていたから、目が醒めてもすぐに目を開くことはできない。
 代わりにゆっくりと思考を巡らす。
 
 体中に照りつける日光の熱さから考えると、太陽はきっとまだ高い。
 お昼に帰る約束の時間を過ぎて、兄が怒りながら迎えに来ていないところを見ると、そんなに長い時間眠りこんでいたわけでもないようだ。
 
(よかった……)
 胸を撫で下ろして、ひとまず太陽の当たらない位置に、目を瞑ったまま移動しようかと考えた時、真っ赤に燃えるようだった瞼の裏の色が、突然かげった。
 
(えっ? そんなはずない!)
 慌てて目を開けようとした私は、その時ふいにすぐ近くに人の気配を感じた。

(……誰? お兄ちゃん?)
 眩しさに耐えながら、やっとの思いで薄く目を開いた瞬間、そこに幻を見たと思った。
 あまりにも根を詰めて考えすぎて、遂に自分の頭が壊れてしまったかと思った。
 
 大好きな人の顔がそこにある。
 誰よりも何よりも大好きなあの笑顔が、優しく私を見下ろしている。
 
(……嘘……でしょ?)
 声も出せず、ただ目を見開くばかりの私に、綺麗な瞳が近づいてくる。
 
「真実さん……迎えに来たよ」
 まちがいないその声が耳に響いて、彼のてのひらが私の頬を包んだ瞬間、あんなに泣いて泣いて、全部捨てきったと思った感情が、あっという間に私の心を埋め尽くしてしまった。
 
(海君!)
 どんなにダメだと思っても、彼に向かって腕を伸ばす自分の体を、自分で止めることができなかった。

 
 
「どう? 一日早く来てみました……」
 並んで砂浜に腰を下ろしながら、海君は笑ってそう言った。
 
 迎えに来てくれるという海君に、私は自分の実家の住所を教えていた。
 だから海君がこの町にいること自体はそんなに不思議ではないが、いったいどうして私の秘密の場所に来れたんだろう。
 それも今このタイミングで。
 
 あまりにも驚き過ぎて、なんだか上手く言葉が見つからない。
 
 じっと砂浜を見つめたまま、(どうして? どうして?)と必死に考え続けている私の顔を、海君はのぞきこんだ。
「びっくりした?」
 
 今の私の心を一言で言ってしまうと、つまりそういうことだったので、私は素直に頷いた。
 海君はとても満足そうに微笑んで、悪戯っ子みたいな顔でもう一度笑った。
 
「愛梨さんが……どうせ帰省するんだからって一緒に連れてきてくれたんだ。真実さんのとっておきの場所だからって、ここを教えてくれた……!」
 そう聞いて、私はやっと全てのことに納得がいった。
 
(そっか! 愛梨……!)
 ようやく目の前の海君が幻なんかではないと、確認できた気分だった。
 
 愛梨は私と同じこの県の出身だから、よく一緒に帰省したし、お互いの家に遊びに行ったこともある。
 この場所にも、愛梨だったら以前連れて来たことがあった。
 
「そうか……愛梨か……」
 納得したようにうんうんと頷きながらも、私は内心、心の中で、(困ったな)と思っていた。
 
 海君がこの町に来たら、この場所に連れてこようとは思っていた。
 そしてこれまで聞きたくても聞けなかったことを、勇気を出して尋ねてみようと思っていた。
 
 でもそれらは全部、私の心の中で、明日の予定だったのだ。
 
 今日のうちに、自分の気持ちに区切りをつけて、明日はどんな話でも大きく受け止められるような私になっているつもりだった。
 
 実際にそうなれていたかどうかはわからない。
 だけど少なくとも自分ではそのつもりだった。
 
 それなのに海君は来てしまった。
 予定よりも一日早く、私の前に現われてしまった。
 
 それが嬉しくてたまらないことは事実だけど、困っていることも事実だ。
 
 今の私じゃきっと受け止めきれない。
 きっと海君を困らせることになる。
 だけどゆっくり心の準備をしている時間が――私たちにはもうない。
 
「海君……」
 震える声で呼びかけた私に、彼はいつものように、首を傾げて瞳だけで返事する。
 
(何?)
 
 本当のことを教えてもらったら、その時私たちの関係はどうなるんだろう。
 
 海君は自分のことを話したがらない。
 それを無理に聞き出すということは、こんなに好きで、傍にいたいと思う人を、失ってしまうことに繋がったりはしないんだろうか。
 
(恐い……)
 
 思いあぐねて勇気が出せない私は、その時ふと、あることに思い当たった。
 そしてまるで逃げるように、そのことのほうを口にした。
「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」
 
 海君は、「ああ」というように破願する。
 
 目の前で私を見つめてくれるのは、私の大好きな笑顔。
 この笑顔をもう見れなくなるなんて――やっぱり私には耐えられない。
 
「真実さん、何で帰るつもりだった?」
 
 どんな表情も心に焼きつけておこうとするかのように、ただただ海君の顔をじっと見つめるばかりの私に、突然頭を使うようなことを問いかけたって、咄嗟に答えが出てくるはずがない。
 
「えっと……たぶん新幹線かな……?」
 しばらく考えた末に、苦しい答えをようやく搾り出せた私に、彼は見惚れるくらいに笑って、一枚のチケットを胸ポケットから出した。
 
「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰ってきなって、貴子さんがくれたんだけど……」
 そう言って、海君が見せてくれたのは、この町の隣の町から出ているフェリーの予約券だった。
 夜中にその町を出て、明け方早くに、大学のある街に到着するかなり大きな旅客船。
 
「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」
 感心するばかりの私に、海君がニッコリと問いかける。
 
「真実さん、乗ったことあるの?」
 私は首を横に振った。
 
 フェリーは寝ている間に移動ができるし、とても便利だけれど、一人ではなんだか寂しいような気がして、私は今まで利用したことがなかった。
 それに大部屋に見ず知らずの人たちと一緒に眠るというのも、なんだか気が引ける。
 
(周りに気兼ねしなくてもいいように個室もあるけど、一人では贅沢だし……)
 そこまで頭を巡らして、
(まさか!)
 と息をのんだ。
 
 海君の手から奪い取るようにそのチケットを取って、印字されている文字に改めて目を凝らす。
(やっぱり!)
 
 そこにははっきりと「一等洋室」と書かれていた。
 
(やっぱり個室だ! 海君と二人で……? もうっ、貴子ったら……いったいどういうつもりなんだろう……!)
 
 貴子の例の『世の中全部、自分の思いどおり』というような顔が頭に浮かんで、思わずチケットを握りつぶしそうになった私の手から、海君が間一髪それを取り戻した。
 
「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備まにあいそう?」
「海君! 乗るつもりなの!」
 叫んだ私に、海君はハハハハッとお腹を抱えて笑いだす。
 
「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」
 当たり前のように聞き返されると、なんと答えていいのかわからない。
 
「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」
 言いよどむ私の髪を海君はクシャッとかき混ぜて、鮮やかに笑った。
 
「心配しなくても大丈夫だよ……何もしやしないから!」
「そうじゃなくって!」
 
 思わず真っ赤になって、こぶしを握りしめて叫ぶ私に、海君が真顔で問いかける。
「じゃあ何?」
 
 改めて聞き返されても、なんとも答えることができない。
 海君と二人きりになることを、私が意識して意識して、意識し過ぎてるだけだから――。
 
「いいよ……それで帰る……」
 俯いて呟いた私を、海君はまたおかしそうに笑った。
 
(もう好きに笑って……! どうぞ気の済むように笑って……!)
 悔しくって俯く私の頭を、海君がまたポンと優しく叩く。
 
「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」
 悪戯っぽい顔をして、わざとそんなことを言ってみせる海君に、私は慌てて何度も首を横に振る。
 
「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」
「そうだろうね」
 おかしそうに笑った海君の瞳は、笑っていなかった。
 
 見ているこっちの胸が痛くなるくらいに、悲しい色をしていた。
 
『いつまでも二人で一緒にいるのなら、そんな日も来るかもしれないけれど……』
 
 いつか、胸が痛いくらいにそう思ったことがあったのを思い出す。
 海君もそう思ったんじゃないだろうか。
 ひょっとしたら私たちは、同じ、叶うことのない願いを抱えているのじゃないだろうか。
 
(ダメだ……今そんなことに気がついたら、きっと海君の前で泣いてしまう……私にはもう……いろんなことが限界すぎる……)
 
 だから私は目を逸らした。
 いつだって見つめられたらそれだけで幸せで、ずっと見ていたいと思っていた海君の綺麗な瞳から、そっと目を逸らした。
 
 なんて簡単なことなんだろう。
 なんて微かな動きだけで、私たちの世界は完全に隔てられてしまうんだろう。
 
 もうわからない。
 彼の考えていることも、彼の抱えている痛みも、目を逸らしてしまった私には何も伝わってこない。
 
 それはなんて寂しいんだろう。
 なんて悲しいんだろう。
 こんなにすぐ傍にいるのに、何もわからない関係なんて――そんなの絶対に、私が望んだ愛じゃない。
 
 見えない何かに抗うかのように、私はもう一度海君の瞳を見つめた。
 私が目を逸らしていた間も、きっと一瞬も揺るがなかったであろう真っ直ぐなその目を見つめ返した。
 
(失くしたくない! 失くしたくないよ……! 他にはなんにも要らないから……海君だけ傍にいて欲しいのに……!私の願いは、本当にただそれだけなのに……!)
 
 我慢できずに、私は彼に向かって手を伸ばした。
 その手を待ち構えていたように、海君がしっかりと掴む。
 
「真実さん……ゴメンね……」
 いつものように謝って、私のことを抱きすくめるから、それに負けないくらいの強さで私も彼を抱きしめ返す。
 
「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」
 
 何を口に出して、何を黙っていたらいいのか。
 言葉の境界線さえ、私の中ではもう危うかった。