七月に入って、気温はうなぎ登りに上がり、毎日暑い日が続いていた。
 今年の最高気温は、毎日のように記録が塗り替えられている。
 
「さすがに暑いね……」
 口に出すとなおさら暑くなるような気がして、ずっと黙っていた本音がついつい出てしまった。
 
 隣を歩く海君は、
「帽子も被らないで歩いてるからだよ……」
 自分が被っていた赤いキャップを私の頭に被せる。
 
 帽子から少し香った海君の匂いが、まるで自分の全身を包んでしまったような気がして、私は大慌てで、胸の鼓動をごまかすように口を開いた。
「海君だって……! 帽子被って来たのなんてひさしぶりじゃない。初めて二人で海に行った時以来だよ」
 
 彼はちょっと笑って、
「そろそろ被っとかないと、俺の場合、暑さにやられて倒れるからね……」
 冗談とも本気ともつかないことを言う。
 
(またそんなこと言って!)
 笑いながら言い返そうとした言葉は、喉のあたりでつかえて止まってしまった。
 
 今朝の、調子の悪そうな様子の海君を思い出す。
 それから、いつだったか海君から病院の匂いがしたこと。
 怒って歩き去る私を、海君が追いかけてこなかった時の、演技とは思えなかった顔色の悪さ。
 そして、しばらく会えなかった間に偶然見かけた、海君に良く似た具合の悪そうな人。
 
 いろんなことが、フラッシュバックのように一気に私の脳裏に甦って、そしたらもう、笑顔を作ることさえできなくなってしまった。
(……海君?)
 
 突然湧いた疑惑に、私の全身が緊張する。
 体中から冷たい汗が噴き出してきそうに、おそろしく力が入っている。
 
(そんなはずない……そんなはずないじゃない……!)
 いくら否定しようとしても、私の心からその思いが消えてくれない。
 
 だから、彼に尋ねた。
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 きっと海君がいつものように私をからかっただけで、すぐにあの悪戯っぽい笑顔を見せてくれるんだ。
 
 きっと早とちりな私の、笑っちゃうようなかん違い。
 ――なかば祈るように、そう思っていた。
 
 だけど海君は、肯定も否定もせず、例の曖昧な笑いを浮かべて私の顔を見た。
 
 その瞬間、このことは私の中で大きな意味を持って、忘れられない不安になってしまった。
(海君がこういう笑い方をしたら……もうこれ以上は聞かないでくれってことだ……!)
 
 ドキリと胸が鳴る。
 自分に関して知られたくないことの時に、海君はこんな笑い方をする。
 
 ただ漠然と、何の根拠もない疑問のつもりだったのに、体調について海君に尋ねるのはタブーなんだと、その時、私の心には刻みこまれてしまった。


 
 一度気になり出したら、そのことばかりが気になって、どうしようもなくなってしまう。
 私は小さい頃からそんな子で、よくボーっとしては、周りに迷惑をかけた。
 
 何も考えていないわけではない。
 一つのことを考えて考えて、他のことには頭がまわらなくなるだけ。
 
 海君の体調に疑問を持ったあの日から、私はまさにその典型の状態に陥ってしまった。


 
「……真実……ちょっと聞いてる?」
 隣に座る愛梨に小声で囁かれて、講義中に慌てて我に返ったのは、もう何度目だろう。
 いつの間にか教授の話は、私の開いたページの三ページ先まで進んでいた。
 
「う、うん。大丈夫……」
 反射的にそうは返事したけれど、実際私がその時考えていたのは、やっぱり海君のことだった。
 
(今までも……ひょっとして、具合が悪かったのかな?)
 とてもそうは見えなかったけれど、私の人を見る目には我ながら自信がない。
 それに海君にしてみたら、単純な私の目をごまかすことなんて、ごくごく簡単かもしれない。
(……これが海君の秘密?)
 
 ひとりで考えていると不安ばかりが大きくなる。
 何も教えてもらえないから。
 尋ねる術を私は持たないから。
 
 ――嘘だ。
 本当はわかっている。
 
 私がハッキリと、「ねぇ海君……どこが悪いの?」と聞いてしまえば、海君はちゃんと本当の答えをくれるはずだ。
 彼は決して嘘はつかない。
 それがたとえ自分にとって不都合なことでも。
 ――でも、そうすることは怖い。
 
(この漠然とした不安は何……?)
 万に一つもそんなことはないと自分でも思っているのに、確かめることが怖い。
(だってもし……本当だったら? ……命に関わるようなたいへんな病気だったら?)
 ――嫌だ。
 そんなこと、信じたくない。
 海君にもしものことがあるかもしれないなんて、そんな事実、今の私にはとても受け入れられない。
 
(こんなに……こんなに大事なんだ……)
 改めて、自分の中での彼の存在の大きさに驚かされた。
(ほんの少しの不安も受け入れたくないほどなんだ……)
 私の中に芽生えた途方もなく大きな想いは、とっても不安定でぎこちなくて、そのくせ私の全てを占領してしまいそうに、熱く重かった。


 
 昼休み。
 カフェテリアでみんなでテーブルを囲んでいる間も、私は頬杖をついたままボーッとしていた。
 
 海君のことを、ああでもない、こうでもないと一人で考え過ぎて、すっかり疲れてしまった。
 そんな私を元気づけようとでも思ったのか、貴子が唐突に口を開く。
 
「恋は盲目だからな。あんがい一歩引いて見たほうが、気がつくことってのもあるもんだよ……」
 さも当然というように、したり顔で頷く貴子を、愛梨が呆れて見つめている。
 
「貴子……いったいいつ、そんな恋を経験したのよ……?」
 かなり重要な点をついたその質問に、花菜は懸命に笑いをこらえながら私の顔を盗み見た。
 あんまりそんな気分じゃなかった私も、思わず笑ってしまう。
 
「私の経験なわけないだろ。愛梨……お前はもっと本を読め」
 貴子はさも当然とばかりに、堂々と胸を張ってそう言い放った。
 愛梨は頭を抱えた。 
「そんなことだと思った! ……べつに本で調べなくっても、私は実体験からそのへんのところはよーくわかってます……!」
 
 もう我慢できなくなって、私と花菜はクスクスと笑いだした。
 
 貴子と愛梨は、興味のあること、向いている方向がまるで真逆だ。
 恋や遊びやおしゃれや流行や、楽しいことが大好きな愛梨と、着るものにも食べものにもまったく頓着せず、勉強一筋、将来の目標に向かってまっしぐらの貴子。
 
 その二人がこうして一緒にいることに、周りの人たちはよく首を傾げる。
 きっかけは愛梨と仲が良かった私と、貴子と仲が良かった花菜が仲良くなったこと。
 それでできた四人組。
 
 でもなかなか個性的で、それぞれがそれぞれを刺激しあって、いい関係を築いていると思っているのは私だけではないはず。
 毎日一緒にいても、ちっとも飽きるということがない。
 
「まあまあ……二人とも真実ちゃんが心配なのはきっと一緒なんだから……いっそのこと本人に、ここ二、三日いったいなんでため息ばっかり吐いているのか、聞いてみたら……?」
 ニコニコと笑いながら花菜が二人の仲裁をしてしまうのは、あまりにもいつもどおりだったけど、突然話の矛先を向けられて、私は正直あせった。
 
「え? ……私!?」
「そう」
 花菜の笑顔はますます輝いた。
 
 その笑顔と向き合うたびに、うらやましく思わずにはいられない。
 もし私が花菜みたいに気が利いていたら、海君の体調にだってもっと早く気づけていただろうし、今頃こんなに悩むこともなかったはずだ。
 
 日頃は心の中でだけくり返していたその思いを、ついつい口に出してしまった。
「私も、花菜みたいに大人で、よく気がつく人間なら良かった……」
 
「えっ?」
 一瞬目を見開いてから、花菜はまたニコニコといつも以上の笑顔になり、まるで海君みたいに、私の頭を抱き寄せた。
 
「そんなことないよ。ほんっと真実ちゃんにはかなわないって、私思うもん」
「…………?」
 それはいったいどんな時にだろう。
 私はぜひとも花菜に尋ねてみたかったのに、
「そうだな。真実は変化球なしの、一本勝負だからな」
 貴子が、わかりやすいんだか、まわりりくどいんだかよくわからない例えをして、
「大丈夫だよー。それが真実の良い所ところだって、少なくとも海君はちゃんとわかってるからー」
 愛梨が自信満々に言い切るから、すっかりタイミングを逃してしまう。
 
「それとも何? 真実ったら、海君以外にも好きな人がいるの?」
 愛梨に唐突にそう問いかけられて、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「いない! いるわけないよっ!」
 私のその反応に、三人はそれぞれにとてもおかしそうに笑いだした。
 
「真実はそのままでいいよ」
 笑いながらではあったけれど、貴子に自身満々にそう言われて、私はそんなものなのかと、半信半疑のまま頷いた。


 
「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を並んで、私のアパートまでの道を歩きながら、海君は唐突にそんなことを言った。
 
 ドキリと高鳴った胸をごまかすように、
「ベ、別にないよ」
 と私は笑ったけれど、その笑顔がうつろだってことは、自分でもわかってた。
 
 海君はクスリと笑いながら、
「本当に?」
 と私の顔をのぞきこむ。
 
 海君に隠しごとをするのは難しい。
 私は考えていることがすぐに顔に出てしまうし、海君は、こと私に関しては、超能力でもあるんじゃないかと思うくらい勘がいい。 
 
 でもこの間からずっと心に抱えている、彼の体調に関する疑問を、口に出す勇気はまだ私にはなかった。
 だから懸命に、海君の真っ直ぐな瞳から目を逸らす。
 
「本当に……なんにもないよ……」
 正直自分でも、
(もう少しごまかしようがあるでしょ。これじゃバレバレだよ)
 と思う。
 
 案の定、海君にはまったく通用しなかったらしい。
 
「何?」
 私の返事なんて無視で、軽く首を傾げてさらに聞いてくる。
 
「な、何が?」
 必死でがんばる私に、
「真実さんが俺に聞きたいこと……ううん、ひょっとしたら、言いたいことかな……?」
 余裕の笑顔でニッコリと畳みかける。
 
(うう……やっぱり海君にはかなわない……!)
 俯いた私はそれでもがんばった。
 
「べ、別に何もないよ……」
 海君が隣でクスリと笑った気配がした。
 と思ったら次の瞬間、繋いでいた手を引き寄せられて、あっという間に彼の腕の中に抱きしめられていた。
 
「え? ちょ……海君?」
 何も答えてはくれない笑顔が、真っ直ぐに私の顔に近づいてくる。
 
 鼻と鼻が触れてしまいそうなくらい近い距離で、海君はもう一度、
「何?」
 と私に問いかけた。
 
 ――もう。もう耐えられるはずがない。
 
 ついそのまま目を閉じてしまいそうになる自分を懸命に自制しながら、私は降参の声を上げた。
「わかった。言うから……ちゃんと海君に聞きたかったことを言うから……!」
 泣き出してしまいそうだった。
 
 海君は鮮やかに笑って、私を抱きしめていた腕を解く。
 その笑顔があまりにもおかしそうだったんで、半分からかわれていたんだということに、私はやっと気がつく。
 
(もうっ! さては、私を脅かして面白がってただけね!)
 けれど、時すでに遅し。
 開放されてフーッと息を吐く私を、海君は真っ直ぐに見つめて待っている。
 
 彼とした約束は必ず守ると、私はずっと以前に自分で決めた。
 だから何か言わなければと改めて彼の顔を見上げて、本当に困った。
 
(どうしよう……何を聞こう?)
 実は海君は、私が内心困っていることまで、お見とおしなのかもしれない。
 どんな質問が返ってくるのか、興味津々といった顔で、私の次の言葉を待っている。
 
(「海君、どこが悪いの?」ってだけは聞けない……絶対聞けない……答えを貰うのが怖いから……)
 その思いばかりが強くて、私は無心で口を開いた。
 
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 本当に本当の本当は、ずーっとずーーっと心のどこかに引っ掛かって、気になってどうしようもなかったことが、思わず口をついて出てしまった。
 
(な、何言ってるの! 私!)
 慌てて両手で口を塞いだ。
 動転して、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
 
 海君は予想もしなかった私の問いかけに、不意を突かれてポカンとしている。
 その顔を見ていたら、ますます恥ずかしくなってきた。
 
(なんでこんなこと言っちゃうんだろう! せいいっぱい気にしてないフリしてるのに! 年上らしくしようとしてるのにっ! これじゃ、海君の口から女の子の名前が出てきただけで、私動揺します、しまくりですって、言ってるようなものだよ!)
 もうこの場から逃げ出してしまおうとする私の腕を、海君はしっかりとつかんでいる。
 
 そうしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 考えこんでいた海君は、ようやくその答えに行き着いたらしい。
 ニヤリと嬉しそうに笑った。
 
 どうやらあの日のことを思い出したらしい。
 ――彼の携帯に電話がかかって来たあの日。
 
「ああー……あの時か!」
 納得したように何度も頷いてから、私の顔をのぞきこんだ。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
「し、してないよっ!」
 
 慌てて言い返したって、きっと言い訳にしか聞こえない。
 私が慌てれば慌てるほど、海君をますます笑わせることになるだけだ。
 
(でも、それにしたって……なんでそんなに嬉しそうに笑うのよ! こっちは恥ずかしくって、情けなくって、今すぐいなくなりたいくらいなのに!)
 
 すぐにでも駆けだしそうな私を知ってか知らずか、海君は掴んだ腕を離してくれない。
 とびきり上機嫌な笑顔で、瞳を艶やかに輝かせながら、私にゆっくりと顔を近づけてくる。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 
 悪戯っぽく笑いながら、そんなに近くから見つめられたら、もう急いで頷くしかない。
「信じる! 信じるから放して!」
 
 焦って叫んだ私に、海君はニッコリ笑って、そのまま軽くキスをした。
 
 目を瞑る間もない一瞬の出来事に、抗議の言葉も出なくて、呆然と立ち尽くす私の目の前で、ちょうどその時、海君の胸ポケットでタイミングよく問題の携帯が鳴りだす。
 
 反射的に海君の体を押しやって、私は彼から一歩離れるように飛びのいた。
 
 ふっと小さく笑った海君は、携帯に表示された名前だけ確認すると、あからさまにその電源を切った。
 
「えっ! 出ないの?」
 思わず叫ぶ私に、
 
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 と海君は飛びっきりの笑顔を見せる。
 だけど――
 
「しないわよ!」
 あまりのことに、私はゆっくりと彼の笑顔に見惚れている暇もなかった。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 涙が浮かんできそうな思いで、私は必死に叫んでいるのに、海君の笑顔は崩れないどころか、ますます嬉しそうになる。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 この上なく幸せそうな笑顔で、そんなドキドキするようなことを言ったって、私はときめいたりしない。
 ――なんてただの強がりだ。
 
 最高にドキドキする胸を抱えたまま、私はついに海君を置き去りにして、一人歩きだした。
 
「真実さん待って」
 あいかわらず笑いまじりの声だけが、私を追いかけてきた。