「真実ちゃん! 学校来たんだね」
 正門前で私の姿を見つけた花菜は、大きな丸い目をさらに丸くした。
 
「うん」
 ニッコリと笑い返した私の顔と、隣に並ぶ海君の顔を見比べて、花菜自身も笑顔になる。
「それに海君も帰ってきたんだ……よかったね……!」

 海君は黙ったまま頭を下げると、ずっと繋いでいた私の手を花菜の前にさし出した。
 その手を今度は、花菜が受け取る。
「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……」
 
 いつも変わらない笑顔が、ほんの少しだけ真剣みを帯びた表情になった。
「絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もうあわせない……!」
 
「……花菜」
 私は花菜の首に腕を廻して、小さな彼女を抱きしめた。
 
 嬉しかった。
 大好きな海君に守られて、優しい仲間に守られて、私はいつも一人じゃない。
 だからまた歩き出せる。
 どんなに辛いこことがあったって、ずっと前を向いていられる。
 
「じゃ。帰りに待ってるから」
 手を振る海君に頷いて、私は花菜と共に一歩を踏みだそうとした。
 でもできない。
 隣の花菜が、海君のほうを見たまま動いてくれない。
 
(……花菜?)
 さっきまでは確かにいつものように笑っていたのに、彼女はもう、なんとも表情の読めない顔をしている。
 花菜は時々、――ふいにこんな顔になる。
 
「……どうしたの?」
 首を傾げた私の顔を、花菜が真っ直ぐにふり返った。
 その目があまりにも真剣だった。
 
「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」
 さりげない花菜流の気配り。
 それは私にはとても真似できないことだ。
 
 花菜は本当に相手をよく見ていて、小さなことにだっていつも一番に気がつく。
 女の子らしい花菜の、とても素敵な長所。
 そんな花菜だから、私たちの中でも一番友だちが多いし、笑顔の可愛い外見と相まって、男の子からもとっても人気がある。
 それは友人として、私にとってもいつもは自慢の種だ。
 ――でも今は、他ならぬ海君のことだったから、ドキリとどうしようもなく胸が跳ねた。
 
「大丈夫です」
 私より先に海君が口を開いた。
 前髪をかき上げながら、いつものように笑ってる。
 
 でもその笑顔が、どことなく今までと違う気がする。
 どこがどうとは上手く言えないけれど、ひさしぶりに会ったら、また少し白くなっていた顔色を見た時に感じたのと同じ、なんだか不安な気持ち。
 
(……海君?)
 その不安がなぜだかとても重要なことのような気がして、私は海君の顔を仰ぎ見る。
(どこか調子が悪い……? やっぱりさっき急ぎすぎた……?)
 今すぐ尋ねたかったのに、口を開きかけた瞬間、背後から私たちを呼ぶ声がした。
 
「真実ー! 花菜ー!」
 元気よく叫びながら、愛梨が走ってくる。
 
 海君の姿を見つけて、愛梨はさらに嬉しそうに声を上げた。
「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」
 
 その勢いとパワーに、すっかり気を削がれてしまった。
 愛梨が現われただけで、いつも周りの空気は一変してしまう。
 その上――
 
「すっごく寂しがってたもんねえー」
 わざわざ海君の前でそんなことを言いだすから、今は何よりも先にそれを止めなければならなくなる。
 
「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」
 
 ダメだ。
 海君はもう、悪戯っ子みたいな顔でこっちを見てる。
 瞳だけで、「そうなの?」なんて、いかにも面白そうに私に問いかけてくる。
 
 こうなったらもういくらごまかそうとがんばったって、私のことなんて何もかもお見とおしなのに。
 それなのに愛梨は、
「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」
「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」
 花菜まで一緒になって、話に輪をかけるのをやめてくれない。
 
 私はもう、二人の腕をつかんで引っ張って、海君から遠ざけるしか道がなくなってしまった。
「じ、じゃあ行ってくるね……」
 大急ぎでそれだけを言って、二人を引きずるようにして歩きだした私を、海君は一生懸命笑いをこらえて見送っている。
 
 その顔をチラッとふり返って見ながら、
(……本当だ)
 と思った。
 
 懸命にいつもどおりを装っているけれど、その顔色はさっきまでよりもっと透きとおるように白くなっている。
(本当に大丈夫かな……)
 
 心配しながら早足で歩き続ける私から、愛梨も花菜も腕をそっと引き抜いた。
 クスクスと笑いながら、
「まったく真実ったら照れちゃって……」
 なんてからかうから、
「愛梨が急にあんなこと言い出すからでしょう!」
 それに応戦することで、私の頭はいっぱいになってしまう。
 
(しょうがない……海君には帰りにちゃんと聞いてみよう……)
 本人に問いただすことを、私はその場では諦めた。
 でも、「大丈夫です」と花菜に返事した時の、海君のハッとしたような表情はなぜだか頭から離れなくて、ふとした折に、その日何度も頭の中に甦った。


 
 講義棟に入るとすぐに、ずっと前のほうから貴子が私たちを見つけて、歩み寄ってきた。
「真実」
 
 自分より先にアパートを出たはずなのに、あとから大学にやってきた私に向かって、貴子はニヤリと笑う。
「遅かったな」
 
 私だけにわかるその微笑の意味に、私は大慌てで手を左右に振った。
「別に! 別になんでもないわよ! 普通にゆっくり歩いたら、貴子より遅くなっただけなんだから……!」
 
 その反応は、どうやら貴子の思いどおりで、しかも大満足の出来だったらしい。
「まだ何も言ってないだろ」
 唇の端を吊り上げて、例の意味深な笑いをしてみせる。
 
 これ以上は、何を言っても貴子を面白がらせることになるだけだと諦めて、私は口を噤んだ。
 そんな私に貴子はすっと真面目な表情になって、一枚の紙切れをさし出す。
 
「真実。掲示板にこれが貼ってあった」
 大学側から、私たち学生への連絡に使われる連絡票だった。
『教育学部教育学科三年白川真実さん』と宛名書きされたその用紙には、『至急、学生課まで』と書いてあった。  
 私は思わず貴子の顔を見上げた。
「貴子……これ掲示板から剥いできたの?」
 
 貴子は「もちろん」という表情で頷いた。
 
「あんたねー。本人以外は触っちゃダメなのよー」
 愛梨が呆れたように忠告した内容は、もちろん貴子だってよくわかっているはずだ。
 だけど、それでも――。
 
「真実をこれ以上晒しものにできるか……」
 私のことを思ってやってくれた。
 それぐらい私にだってわかってる。
 
「今から行くの?」
 花菜に聞かれたので、私は頷いた。
 
 きっと、昨日の幸哉の件でいろいろと聞かれるのだろう。
 説明のため、どうせいつかは行かなければならないのだから、いっそのこと、早いほうがいい。
 
「うん。今から行ってくる」
 歩み出そうとした私の前に、愛梨が立ち塞がった。
 
「私も行く」
「でも……もう講義だって始まるし……」
 言い淀む私に、貴子がきっぱりと言い切る。
「一人で行かせるわけにはいかないな」
 私の肩を抱くようにして、管理棟へと向かい始める。
「一緒に行かせて……ね?」
 腕をつかんで私の顔をのぞきこんだ花菜に、私は心からホッとして頷いた。
 
 ――本当は不安でたまらなかった。
 どんな話があるのか。
 幸哉と私はどうなるのか。
 大学側が何を考えているのか。
 これからどうしたらいいのか。
 
 一人きりじゃ不安と罪悪感でいっぱいになって押し潰されてしまうに違いないから、皆がついてきてくれるのなら、こんなに心強いことはない。
 
「……ありがとう」
 俯きながら歩きだした私の頭を、貴子がポンと叩いた。
 その感触を温かく思いながら、やっぱり三人がいてくれるんなら、私はどんなことだって乗り越えていけると実感した。


 
「白川さん? ……ああ……中にどうぞ」
 学生課の窓口に行って名前を名乗ると、応対に出てくれた事務員さんに、中に入るよう促された。
 
「お友達も一緒でいいわよ」
 言われるままに、愛梨たちもそのまま私についてくる。
 
 案内された場所には、学生課課長の姿と、名前は知らないけれど明らかに他学部の教授らしい人物の姿があった。
 
 椅子に腰掛けるよう促されて、四人で並んで座る。
 みんなが私を挟んで、両側から守るような体勢をとってくれたことが、心強かった。
 
 課長は待ちかねていたかのように、早速、
「岩瀬幸哉君のことなんだが……」
 と話を切りだす。
 
(警察でしたような話を、ここでもしなくちゃいけないんだろうか……?)
 正直、もう忘れてしまいたいようなことを、思い出すのは辛かった。
 
 覚悟を決めるように、両手を拳にして膝の上で握りしめていた私は、
「大学を自主退学したよ」
 課長の言葉に、しばらく呆然とした。
 
「……退学……?」
 たっぷり数十秒は経ってから、ゆっくりと呟いた私に、課長は力強く頷く。
 
「そう。こちらから話をする前に、今朝、彼のほうから連絡があったんだ」
 
(幸哉!)
 驚いて目を瞠る私に、課長はもう一度頷いた。
 
(ひょっとして……昨日の騒ぎのせいで? ……私のせいで?)
 両手で口を覆った私に向かって、慌てて課長の隣の教授らしい人物が口を開く。
 
「いや……実を言うと彼はかなり以前から、そのつもりだった……昨年かなり単位を落として、卒業までに何年かかるかわからない。それぐらいならいっそ……って、私も以前から、相談を受けていた……」
 
 どうやらその人が、幸哉の在籍していた法学部の教授なんだということは、だいたい予想がついた。
「だから、君が気にするこことはないよ……」
 教授は私の気持ちを取り成すかのように、優しく言ってくれた。
 でも――。
 
「正直、残念じゃないって言ったら嘘になる。でも警察沙汰にまでなった以上……彼が望んでいた司法の道に進むのは難しいし……私も引き止めきれなかった……」
 少し残念そうに、白髪混じりの初老の教授は俯く。
 
「大学側としても、彼をこのままにしておくわけにもいかなかった……」
 隣に座る学生課課長も、苦渋の選択だったというふうだ。
「もちろん君のほうは、これからも今までどおり、大学に通っていいんだから……」
 励ますように笑いかけてもらっても、私はなんとも答えることができない。
 
 結局、昨日のことは幸哉一人が悪者になって、私はまるで被害者扱いだ。
 確かに事実だけ見れば、それが正しいのかもしれない。
 でも私の心情的には、幸哉と私のどっちが悪いのか――どちらとも言えない、曖昧なところが多すぎる。
 
(幸哉を最終的に追い詰めたのは、私かもしれない……)
 そう考えると、幸哉の退学は私にとって、諸手を上げて喜べるようなことではなかった。
 
 言葉も出ない私に代わって、貴子が課長たちに返事をしてくれる。
「そうですか。わざわざありがとうございました」
 
 慌てて私も、頭を下げた。
「教えていただいて、ありがとうございました」
 
 課長と教授は少し顔を見あわせてから頷いて、「じゃあ、これで」と、私たちがその部屋から退室することを促してくれた。


 
 学生課のあった管理棟から、講義が行なわれる講義棟へと向かいながら、私たちは無言だった。
 その沈黙を一番最初に破ったのは愛梨。
「本当に……退学したんだね……」
 
 私はなんだか体に力が入らなくて、まるで雲の上を歩いているような気分だった。
 ぶるぶると全身が震えだすのを感じる。
(幸哉!)
 
 彼が学んでいたのは法学部――。
『弁護士か検察官になりたいなんて……俺のガラじゃないかな……?』
 出会ったばかりの頃、照れたように笑った顔をふいに思い出した。
 
(幸哉には夢があった……やりたいことがあった。それを私が奪ってしまったことにはならないだろうか? 私のせいで幸哉の将来が……!)
 苦しい胸に手を当てて、今更どうしようもないことを考えていると、心のずっと深い所から自分でもよくわからない感情がこみ上げてきて、思わず涙が浮かびそうになる。 
 
 でもその時、
「真実、そんな顔しちゃダメだよ」
 すぐ傍から、貴子の凛とした声が聞こえた。
 
「あんたがそうだと、いつまでたっても岩瀬は立ち直れないよ。あんたのことを諦めきれないよ」
 今まで私が何度もくり返してきた過ちを、貴子はまるで全部知っているかのようだ。
 知ってて戒めてくれているようだ。
 
「思い出はもう忘れたほうがいいよ……真実には今、もっと大切な人がいるでしょう?」
 愛梨に囁かれて、私の胸はどうしようもなく痛んだ。
 
 ――いつも胸に抱えているのは海君への想い。
 目を閉じれば浮かんでくるのは海君の笑顔。
 
「……終わった恋はちゃんと手放さなきゃ……ね? 真実ちゃん……」
 言い含めるような、優しい花菜の声が心に染みた。
 
 そう。
 私はとっくに決心したはずだ。
 ――もう幸哉のことで後悔はしないと。
 
 私がいくら同情しても、幸哉は救われない。
 それどころかどんどんダメになっていってしまう。
 
 自分が幸せだから、『幸哉も』なんて……私が望めることじゃない。
 そんなまちがいを犯すと、また海君を傷つけることになる。
 
 迷いを断ち切るように頭を軽く振って、私は顔を上げた。
「うん。わかってる……もう後悔はしない……私はもう、うしろはふり返らない……!」
 
 強く心に刻むように毅然と宣言した私を、花菜がそっと抱きしめた。
 その花菜の腕ごと、愛梨が抱きしめる。
 貴子が頭にそっと手を載せてくれて、私は、文字どおり、みんなの優しさに包まれた。
 
(ありがとう……みんな!)
 すぐに一番大切なことを見失って、感情に流されてしまいそうになる私を、支え、導き、励してくれる仲間がいてくれる。
 ――そのことが、本当にありがたかった。


 
 放課後。
 校門のところで私を待つ海君の姿を見つけたら、こっそりと近づいて、顔色を確認せずにはいられなかった。
 
 門の影から気づかれないように盗み見て、
(朝より良くなってる! ……いつもと同じぐらいだ……!)
 そのことにホッと胸を撫で下ろす。
 
 その瞬間、全然気づいていないものと思っていた海君が、ふり向きざますっと真っ直ぐに私に目を向けた。
「そんなところで何してるの? 真実さん?」
 
 私は飛び上がるほどに驚いた。
「なんで? なんでわかったの?」
 
「わからないわけないじゃない」
 自信たっぷりの満面の笑顔で答えた海君は、いつもと同じだ。
 まちがいない。
 だから私は、今朝胸に沸いた疑問をふり払うかのように、首を左右に振った。
 
(よかった……!)
 何度でも何度でも、安堵のため息をく返さずにはいられない。
 それほど私にとって、海君はかけがえなく、何にも代え難い存在だった。
 
 歩み寄った私の頭に、彼は手を伸ばして、長い指で私の髪をさらさらと優しくと梳く。
「真実さん」
 甘い声で呼ばれて、とろけそうな気持ちで顔を見上げると、海君は笑いを含んだ瞳で、視線だけで私の背後を示した。
 
「えっ、何?」
 ふり返った私は、自分のすぐうしろに愛梨と貴子と花菜の姿を見た。
 
 慌てて飛び退くように海君の傍から離れる私の肩を、
「校門前で、イチャついたらダメだよー」
 からかうように笑った愛梨が、ポンと叩きながら通り過ぎる。
 
 チラッと海君の顔を見た花菜は、
「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」
 私が感じたのと同じことを感じたようで、小声で囁いてくれる。
 
 貴子は私には目もくれず、真っ直ぐ海君に歩み寄った。
「岩瀬は退学したぞ」
 
 前置きも詳しい説明もない貴子の短い言葉に、海君はペコリと頭を下げる。
 
 貴子は満足げに腕組みして頷いて、そのまま彼と私の横を足早に通り過ぎた。
「真実……門限は六時だからな」
 
 捨てゼリフのように、そう言って去っていった貴子に、私は慌てて叫び返す。
「な、何言ってるの!?」
 
「ハハハッ」
 海君がお腹を抱えて笑い出して、愛梨も花菜も笑う。
 
 私は懸命に、
「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」
 笑いながら遠くなる貴子の背中に叫び続けた。