キミの秘密も愛してる

 宣言したとおり、海君は本当にその次の日から、私のところに来なくなった。

「私はどうってことないよ」という強がりと、「少しは一人でもがんばらなくちゃ」という独立心から、私は海君がいない間に引っ越しをした。
 
  手伝いに来てくれたみんなには、
「あれっ? 海君は?」
 と散々聞かれたけれど、 
「何か用事があるみたい」
 となんでもないようにさらっと答えた。
 
「女の子から電話がかかってきて、どうやらその子のところに行ったみたい。しばらく私のところには来れないんだって」
 なんて、絶対に言えない。
 
 可哀相なんて思われたくなかったし、自分だってそう思いたくなかった。
 貴子に、「そんな男はやめておけ!」と叫ばれたくもない。
 
 でも、これまで毎日一緒にいた海君と会わないということは、寂しいというよりも、不満というよりも、なんだか不思議な感じだった。
 
 朝、大学に行こうと思って玄関のドアを開ける。
 ――道の向こうに、海君の姿はない。
 
 大学から帰る時、正門の前で、思わず明るい色の少しクセがかった髪を探す。
 ――やっぱり、海君はいない。
 
 思わずため息が出てしまうほどの、喪失感。
 
(このまま、もう会えなかったりして……)
 根拠の無い不安でさえ、打ち消すことができない。
 
(だって私たちには、確かなものなんて何もないんだもん……)
 改めてそのことを、思い知らされたような気分だった。


 
 前期も終わりに近づいた大学の講義は、そろそろまとめの時期に入っている。
 半分以上講義に出ていなかったんだから、こんな時こそしっかりと遅れを取り戻さないといけないのに、私の頭の中には常に海君のことしかない。
 教授の声は頭のどこかを素通りしていくばかりで、私は気がつけばいつも、窓から空ばかりを眺めている。
 
(あーあ、悔しいな……)
 ペンを持ったままの右手で頬杖をついて、軽く頭を振る。
 ――払っても払っても浮かんでくるのは不安な気持ちだった。
 
 誰がどれくらい誰のことを思っているのかなんて、結局は比べようもないから、安心もできないし、油断もできない。
 
(私が思うくらいに、海君は私のことを好きなのかな? ……本当はもっと好きな相手が、他にいたりしないかな?)
 考えれば考えるほど、何の根拠もない不安はあとからあとからからどんどん湧いてくる。
 
(こんなはずじゃなかったのになあ……)
 講義に集中しようとするけれど、頭の中では、情けない思いばかりが大きくなる。
 
 これ以上頭と体が別々の作業を続けることに無理を感じて、私は諦め、ペンを机に置いた。
 もう一度、講義室の窓から見える青い空を見上げてみる。
 
 海君がいない間に、空は日一日とその色を濃くしているようだった。
 
(もうすっかり夏だな……)
 二人で行ったあの初夏の海は、今頃たくさんの人でごった返しているんだろう。
 
(もう一度、二人で行けるかな……? 今度はあの砂浜を、手を繋いで歩けるかな……?)
 私をふり返る海君の笑顔を思い出すだけで、胸が締めつけられるように痛くて、どうしようもなかった。
 
(誰かを好きになるって、こんなに大変なことだったかなあ……?)
 目を細めて、太陽を見上げる。
 私にとって海君は、この光よりも眩しい存在。
 
 頭をひねって、いくら記憶をたどってみても、こんなに大きな想いを抱えたことは、今までなかった気がする。
 
(まさか、『こんなに好きになったのは初めて』なんて嘘っぽいセリフ……本気で頭に浮かぶ日が来るなんて、思わなかったよ……!)
 
 自嘲するように、降参するように、私は講義そっちのけでいつまでも空を眺めていた。
 その向こうに思い出す海君のことをいつまでも考えていた。


 
「ねえ……やっぱりおかしいって……!」
 アイスコーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら、愛梨は組んでいた足を左右組替えて、声高らかに主張する。
 
 かなり丈の短いそのスカートを、眉をひそめて見ていた貴子も、チラリと私に視線を流しながら、うんうんと頷いた。
「私も同感だ」
 
「でも……何かわけがあるのかもしれないでしょ……?」
 私の代わりに返事してくれる花菜は、今日もみんなのお皿におかずを取り分けている。
 昼食時のお給仕役は、もう彼女以外には考えられない。
 
「だってあんなに毎日来てたんだぞ?」
「それがパッタリって……ねえ?」
 花菜のフォローも虚しく、それでも貴子と愛梨は私に問いかけるような視線を向ける。
 
「絶対おかしいって……!」
 確信するように頷かれて、私は正直、たいへん困っていた。
 
 いつものカフェテリア。
 私が作ったお弁当にプラスコーヒーという形で、私たちは四人は今日も遅めの昼食を取っていた。
 
 近くなった試験の話や、私が急いで詰めこまないといけない講義の内容。
 今年はもう諦めるしかなくて、来年にまわさないといけない単位の話。
 ――話題はたくさんあるはずなのに、なぜかみんなの話は、すぐに海君のことへと流れていく。
 
 海君が私のところに来なくなってから、十日が経っていた。
 
 それまでが毎日毎日、正門の前で私を待っていてくれただけに、みんなの疑問が尽きることはない。
「ねえ……なんで海君来なくなっちゃったの?」
 
 いくら聞かれても、自分自身その答えを知らない私には、小さく首を傾げて、
「さあ……」
 と答えることしかできない。
 
 みんなは私が何かを隠していると思っているのかもしれないが、本当に私には、
「わからない」
 としか答えようがなかった。
 
「ま、いいさ。真実のことだったら、私がちゃんと守るし……」
 引っ越しして、同じアパートの住人になった貴子は、長いサラサラの髪を耳にかけながら、わざと意味ありげな含み笑いをする。
 
 貴子の真正面に座っていた愛梨は、綺麗に手入れされた眉をほんの少しだけ上げて、
「へえ……ひょっとしてそうじゃないかと思ってたけど、やっぱり貴子ってそうだったんだ……」
 同じく意味深な言い方をした。
 
 私はわけがわからず、隣に座る愛梨の顔をのぞきこむ。
「どういうこと?」
 
 でも愛梨はニヤニヤと笑っているばかりで、何も答えてくれない。
 貴子も同様。
 首を捻るばかりの私を見かねて、花菜がそっと耳打ちしてくれた。
「つまり……貴ちゃんは、真実ちゃんが好きってことよ」
 
(…………?)
 私だって貴子の事は大好きだ。
 それをどうしてこんなに、こそこそと話さなければならないんだろう。
 
「それが……どうかしたの?」
 首を傾げながら言いかけて、ようやくみんなの何か含みのある表情の原因に思い当たった。
 
(え? でも、まさか……?)
 疑惑の思いで目を向けた貴子は、なんとも言えない真剣な表情で、私のことを見つめている。
 
「ええええええっ!?」
 悲鳴を上げて、椅子を倒しながら私が立ち上がった瞬間、三人は申しあわせたように、お腹を抱えて大笑いを始めた。
 
「嘘だよ。嘘」
「もう……冗談に決まってるでしょ!」
「真実ちゃんダメだよー。そんなに簡単になんでも信じちゃー」
 
 楽しそうに笑い転げる三人を前に、私は真っ赤になって叫んだ。
「もうっ! 私はみんなのおもちゃじゃないのよっ!」
 
 こぶしを握りしめて叫んだ途端、私をからかってばかりいた海君の顔が、一瞬、チラッと頭をかすめた。
 
 悪戯っ子みたいな顔。
 私を見つめる笑いを含んだ瞳。
 嬉しそうな満面の笑顔。
 
 悔しいくらいにあまりにも脳裏に焼きついていたから、私はぶるぶると頭を振って、その面影を追い払う。
 
(別に平気だもん……海君がいなくっても、私はどうってことない……!)
 
 わざわざ自分に言い聞かせているあたりが、もう全然平気ではないのだけれど、私はそれでもまだ、強がりを貫きとおす。
 
(……負けないもの!)
 
 海君の秘密にも。
 彼を恋しがる自分自身にも。
 ――その強がりがいったいいつまで持つのかは、もはや微妙な段階だった。


 
 大学からの帰り道。
 みんなと一緒に買い物に行った時、一度だけ海君によく似た人を見かけたと思った。
 
 歩いていた私たちと、すれ違うように反対向きに走り抜けて行ったタクシー。
 初めて会った夜に、海君がタクシーから降りて来たことを思い出して、私はドキリとした。
(……まさかね?)
 
 一瞬だけ見えた、後部座席の人が海君に見えた。
 
 でも、背もたれに体を預けるようにして寄りかかる姿。
 堅く閉じた目。
 透きとおるほどに白い顔。
 ――その全てが、私の知っている海君とはあまりにもほど遠い。
 
(そんなわけないか……)
 そう結論づける。
 でも何かが心に引っかかる。
 
(あれ? ……でもあんなふうに、あまり顔色のよくない海君を……私、どっかで見たことなかったっけ?)
 
 細い記憶の糸を必死にたどろうとした。
 その時――
 
「真実ー、何してるの? 置いてっちゃうよー?」
 私を呼ぶ愛梨の声がした。
 
 さっきまで四人で並んでいたはずなのに、気がつけばいつの間にか、私だけが取り残されている。
 慌てて追いかけ始めたら、考えごとは中断せずにいられない。
 
「ははーん。あいつのことを考えてたな?」
 貴子がわざと意地悪に、唇の端をほんの少しだけ上げるようにして笑うから、
「そっ、そんなことないわよ……」
 それに対抗するように、答えずにはいられない。
 海君について考えることを、放棄せずにはいられない。
 
「本当かー?」
「本当だもん!」
 大急ぎで走ってみんなに追いつく。
 
(本当に私は平気なんだから! 海君がいなくたってどうってことないんだから!)
 
 私の虚しい悪あがきは、自分だけじゃなく三人にもきっと、もう筒抜けだった。
 ちょっと気を抜いてボーッとしていようものなら、
「ほら、またあいつのことを考えてる」
 なんて貴子が私をからかう。
 呆れたようにため息を吐いて、
「それで……本当はどうしてこなくなったんだ?」
 何度も何度もくり返した質問を、また私に投げかける。
 
「さあ……?」
 他に答えようはないのかというくらいその返事をくり返した結果、さすがに貴子も飽きたらしく、最近では海君のことには、あまり触れなくなった。
 
「まあ、気にするな……たとえあいつがいなくても、真美の世界は別に終わったわけじゃない……」
 実に彼女らしいスケールの大きな言い方で、これはひょっとして私を慰めようとしてくれているのだろうか。
 頭をぽんぽんと軽く叩かれる。
 
 本当なら一人で帰ることになるはずだった放課後。
 同じアパートの住人になった貴子が一緒に帰ってくれるというのは、私にとって嬉しいかぎりだった。
 もちろん――「貴子が実は私をそういう意味で好きだった」なんて冗談は抜きにして――。
 
 私は夕食を二人ぶん作っては、毎日のように貴子の部屋に遊びにいった。
 貴子は美人でテキパキしているわりには、勉強意外に気がまわらない人だから部屋は散らかり放題だ。
 私は、休んでいた間の講義の内容を教えてもらうお礼も兼ねて、足繁く貴子の部屋に通い、掃除や洗濯にも励んだ。
 
「なんか……お嫁さんでももらった気分だな……」
 貴子は例の意味深な笑いを浮かべて、私の顔を見る。
 私も今ではすっかりその冗談にも慣れてしまって、
「貴子だったら絶対出世しそうだし……お嫁になるのもいいかもしんない!」
 なんて笑って返す余裕も出てきた。
 
 二人で笑いながら、勉強して、食事して、どうでもいいような話をする。
 おかげで海君を気にすることも、幸哉を思い出すこともかなり少なくなって、貴子にはいろんな意味で、感謝の気持ちいっぱいだった。


 
 だけど、ある日の午後。
 早めに講義が終わって、いつものようにカフェテリアでお茶していた時。
 なんの話の弾みでか、貴子に、
「真実……なんなら年下の彼氏の代わりに、夜も私が一緒に寝ようか?」
 なんて言われて、思わず叫んでしまった。
 
「海君と私は、そんな関係じゃないわよっ!」
 
 一瞬、私以外の三人の動きが止まる。
 
「ええええええっ!!」
 
 息をあわせたかのように三人が一斉に叫んで、私たちはカフェテリア中の学生たちから注目を浴びた。
 
 そのあまりの大声にびっくりして、
(え? 何? 今、私、そんなに変なこと言った?)
 私は自分の発言を、もう一度ゆっくりと思い出してみなくてはならなかった。
 
「だって……あんなに毎日ベタベタしてたんだよ。てっきりそうだって思うじゃない……ねえ?」
 私の顔色を伺うようにおずおずと。
 でも言いたいことはしっかり口にする愛梨に、私は顔から火が出そうな思いになる。
 
「最近の高校生は進んでるからな……まさかそんなんじゃないなんて思わないだろ?」
 遠慮を知らない貴子には、いつもの感謝の気持ちもどこへやら、一発ゲンコツで殴ってしまおうかしらと、思わずこぶしを握りしめる。
 
「私もね。海君の真実ちゃんを見る目は、見てるこっちが恥ずかしくなるくらい優しいから、てっきり二人はそういう関係だとばっかり思ってたんだよね……」
 花菜の言葉を借りるならば、三人は三人とも、「私と海君はかなり親密な関係だ」と思っていたのらしい。
 
 私は怒りを通り越して、もうすっかり脱力してしまって、テーブルにバタンとつっぷした。
 「本当にそんなんじゃないのよ……」
 
 伏せた頭の上から、愛梨の声が降ってくる。
「じゃあ……最悪の場合。これっきり海君が来なくなっても、真実は大丈夫だよ……」
 
 なんとなく慰められている雰囲気は伝わるのだが、言われた意味がよくわからない。
 私は愛梨のいる方向に顔を向けた。
「なんで?」
 
 頭を上げる気力さえなく、目線だけを上げた私を、貴子が勝ち誇ったように腕組みしながら見下ろしている。
「お姉さまにそういうお相手してもらうのが目的だった高校生に、真実が騙された挙句、捨てられたんじゃないってことになるだからだろ」
 
 まさに歯に衣着せぬ言い方に、私は飛び起きた。
「なによそれ!」
 
「真実ちゃん、大丈夫。大丈夫だよきっと……」
 慌てて間に割って入った花菜のフォローも、今回ばかりはなんだかまとが外れているような気がする。
 
「もうっ! ほんとに違うんだから!」
 それがみんなの冗談なんだと、私をからかっているだけなんだということは、ちょっぴりわかっているが、だからといって気は収まらない。
「本当にそんなんじゃないんだから……!」
 悲鳴のように叫んだ私に、その時、誰かが背後から声をかけた。
 
「ひさしぶり。元気そうだな……」
 
 ――言葉どおり、本当にひさしぶりなその声を聞き、まるで金縛りにあったかのように、私は全身が硬直した。
 
 ふり返ると背後に幸哉が立っていた。
 
 午後の眩しい太陽が射しこむガラス張りのカフェテリア。
 室内は汗ばむほどの気温のはずなのに、私の背中には冷たいものが流れ落ちる。
 
 一瞬の硬直のあと、ひきつるように自分の表情がこわばっていくのが、自分でもよくわかる。
 真っ直ぐに私を見つめる幸哉の顔つきに、自然と体が震えた。
 
(なんだか……少しやつれた……?)
 
 きっと気のせいではない。
 どちらかというと大柄で、がっしりした体つきだった幸哉の頬が、病的なほどにこけている。
 そのくせ目ばかりがギョロッと光っていて、その大きな目で、穴のあくほど私を正視している。
 
 その目の奥の光に、言いしれない恐怖を感じて、私は思わず一歩後ろに下がった。
 
 ガタガタガタッと椅子を鳴らして、愛梨も貴子も花菜も立ち上がる。
 幸哉から私を守るように、三人が私を取り囲もうとしたその瞬間、――幸哉が私に手を伸ばした。
 
 ガシャーンと響き渡った大きな音は、とっさに逃げようとした私が、倒してしまったテーブルの音。
 
 カフェテリアにいた学生たちが、いっせいに私たちのほうをふり返った。
 
 幸哉はあんなに私を殴ったけれど、学校で手を上げたことは一度もなかった。
 学校ではあくまでも仲のいい恋人同士。
 けれど幸哉の狭いアパートに帰ると、支配する者とされる者。
 そのギャップが苦しくて、悲しくて、私の幸哉に対する気持ちはどんどん醒めていった。
 
 その幸哉が、みんなの視線が集まる中、そんなことはまったくおかまいなしに、私に手を上げる。
「どうしたんだよ、真実?」
 躊躇なくその大きな手を、私に向かってふり下ろす。
 
 バシーンと大きな音が鳴って、何が起こったのかもわからなかったけれど、気がついたら私は、カフェテリアの床にうつ伏せで倒れていた。
 
 シーンと静まり返る周りの学生たちと、
「ちょっと! 何すんのよ!」
 と叫びながら幸哉に詰め寄る愛梨と貴子。
 
 私は花菜に助け起こされながら、必死で声をふり絞った。
「やめて! 二人ともダメ!」
 
 幸哉が普通の精神状態だとはとても思えない。
 その証拠に、近くにいた男の子に止められながらも、目は私から一瞬も放さず、「真実! 真実!」と叫びながら近づいてこようとする。
 
(もう止めて!)
 私は首を振った。
 
 私を傷つけることになんの意味があるんだろう。
 そうすることで、私よりもっと何倍も心に傷を負っていくのは幸哉自身なのに――。
 
 できることなら、その傷を癒してあげられる存在になりたかった。
 傷つけあうのではなく、労わりあえるような関係になりたかった。
 
「……やめて」
 私の言葉は涙でくぐもって、叫び続ける幸哉の耳にはきっと届かない。
 
「真実! 真実! 俺は絶対に別れない!」
 幸哉の言葉だけを聞いていたら、ごく普通の恋人同士の恋の修羅場にも見えるだろうか。
 
 でも、もの凄い力で周りの人間をふりきりながら、私に駆け寄ろうとする幸哉は、とても普通などではない。
 床に膝をついて、よつんばいのまま進んで、座りこんでいる私ににじり寄る。
 
 立ち上がって逃げ出そうとした私は、手首をつかまれて引きずり戻され、幸哉の腕の中に捕まった。
 全身の骨が軋みそうなくらいに、強く強く抱きしめられた。
 
「やめて! やだっ!」
 必死に叫ぶ。
 
 でも幸哉はそんなこと、まったくおかまいなしで、
「真実。真実」
 と私の頭に頬を寄せる。
 
(嫌っ!)
 本能的にそう感じて、必死に抵抗するけれども、どうすることもできない。
 
「ちょっと! やめなさいよ!」
 愛梨や貴子に止められても、周りの学生たちがひきはがしに入ってくれても、幸哉は私を胸に抱えこむように抱きしめたまま、放そうとはしない。
 
 そのあまりの強さに、全身を貫く激痛に、――視界が霞む。
 
(……海君)
 こんな時でも、瞼を閉じると目の前に海君の笑顔が浮かぶ。
 
(……会いたいよ)
 どんなに強がってみたって、私の本当の願いは結局それなんだと、改めて思い知らされた。
 
「真実! 真実!」
 狂ったように叫ぶ幸哉の声がだんだん遠くなっていく。
 それに反してどんどん強くなる腕の強さに、私は意識を手放した。
 
 ――気がついた時には、医務室のベッドの上だった。

 
 
「たいへんだったわね……」
 週に何度か、決められた曜日にだけ医務室に勤務している学校医の先生の言葉を、私はぼんやりとした意識の中で、ひとごとのように聞いていた。
 
「……よかった。気がついて……」
 泣くのをこらえたような愛梨の声がするほうへ、ゆっくりと顔を向ける。
 
 その私の様子に、愛梨も貴子も花菜も学校医の先生も、そこにいた全員がホッとしたように息を吐いた音が聞こえた。
 
 私を見下ろす人たちの顔を一人一人確認しながら、私は心の中で首を傾げた。
(ええっと……私、どうしたんだっけ?)
 
 一瞬、どうして自分がここで寝ているのか、いったい何があったのかが思い出せなくて、不安になる。
(私……どうしたんだったっけ?)
 
 ぼんやりと保健室の天井を見上げた。
 その瞬間、幸哉のギラギラと光る目が、脳裏に甦った。
 
(私!)
 常軌を逸した、幸哉のもの凄い力に、自分が屈服したことを思い出した。
 
(あれから……幸哉はどうなった?)
 みんなに尋ねるようとするのに、声が出ない。
 喉のあたりにひどい痛みを感じる。
 
(……何?)
 そっと喉に手を押し当ててみると、
 
「しゃべらない方がいいわ。酸欠になって意識を失うくらい絞められていたんですもの……」
 先生が、労わるように優しく忠告してくれた。
 
(絞められた?)
 私の疑問に答えるかのように、この上なく厳しい表情をした貴子が頷く。
 
「岩瀬が真実を放さなくて……誰も助け出せなくて……そうしているうちにあいつがいきなり……!」
 言葉を飲みこんで悔しそうに俯いた貴子に代わって、花菜が続きを語った。
 
「真実ちゃんの首を絞めたの。周りにいたみんなで、なんとか途中で止めることはできたけど……ごめん、真美ちゃん。遅かったね……苦しかったね……」
 花菜の声は、涙で震えてた。
 
「ごめん真実……もし何かがあっても、きっと守れるつもりでいたんだけど……なんにもできなかった……!」
 苦しそうに表情を歪める愛梨に、私は必死で首を横に振った。
 
(そんなことないよ……こっちこそごめん……!)
 本当に辛そうな表情で私を見つめる三人に、悲しい思いをさせてしまったことが悔しかった。
 
 実際のところは、どちらが先かわからない。
 ――私が気を失ったのが先か。
 幸哉が首を絞めたのが先か。
 
 けれど、騒ぎを聞いた大学の職員の人たちが駆けつけた時には、ちょうど幸哉は私の首にまわした手に、最大の力をこめるところだったらしい。
 
 大人数で幸哉は取り押さえられ、私は助け出された。
 幸哉はそのまま身柄を拘束され、連絡を受けてやってきた村岡さんに引き渡されて、警察署に連行された。
 
「たぶんもう……大学には来れないんじゃないかな……」
 花菜の言葉は、幸哉が退学処分になりそうだということを、遠回しに告げている。
 
「それどころか即効刑務所行きだろ。真実に近寄らないようにって警告だって出てたのに、そんなことまったくおかまいなしだ! どう考えたって、あれは普通じゃない!」
 もともと幸哉のことを嫌っていた貴子の言葉は、花菜以上に手厳しい。
 
 全部私のために言ってくれてるということがわかる。
 だから、私は静かに頷く。
 
「……でも、岩瀬泣いてたよ……」
 愛梨の小さな呟きに、ドキリとした。
 
「真美が気を失って動かなくなったあと、他の人に助け出されて運ばれていくまでずっと、『真実! 真実!』って、子供みたいに泣いてた……」
 愛梨は真っ直ぐに私の顔を見ていた。
 それは怒っているような、哀しんでいるような、不思議な表情だった。
 
(……幸哉!)
 両手で顔を覆おうとして、私はそうできない自分に気がつく。
 腕も首もとても痛くて動かすことができない。
 
 そこだけではない。
 背中も腰も足も、ほぼ全身が、ズキズキと痛む。
 
「ウッ」と声にならない声を上げて、それでも右手を持ち上げた私に、 
「そうとうな力で圧迫されてたのよ。今はまだ無理はしないで……」
 離れたところから見守るように私たちを見つめていた学校医の先生が、優しく諭してくれた。
 
 私は顔の上にかざした自分の右手首を見てみた。
 幸哉の指の跡がハッキリと残っている。
 
 私を放すまいとして、幸哉が抵抗した跡。
 必死で自分のほうに引き寄せようとした跡。
 
(幸哉……!)
 涙が零れた。
 
 そんな私を労わるように、花菜がそっと頭を撫でてくれる。
「もう大丈夫。大丈夫だから……ね」
 
「もうあいつは二度と真実の前には現れない。私たちが近づけさせない!」
 貴子はぷいっと横を向いたまま、怒ったように断言する。
 
 全てが私のため。
 ――でも私の涙は止まらない。
 
 私がどうして泣いているのか。
 その本当の理由は、きっと誰からも理解してはもらえないだろう。
 
(幸哉……)
 そっと心の中でくり返し名前を呼ぶ。
 
(ゴメンね)
 一度も本人には言えなかった言葉。
 そしてこれからも言うつもりはない言葉。
 
(愛せなくて……ゴメンね)
 ずっと心の中に閉じこめていた懺悔の気持ちを、涙と一緒に今、全部流してしまえるのならと思った。
 
 体中が悲鳴をあげるようなこの痛みが、幸哉の愛情の強さだというんなら、私のほうはいったいどれぐらいの想いを、彼に返すことができていたんだろう。
 
 いくら、「好きだ」と言葉にしても信じてもらえない気持ち。
 どんなに傍にいても、疑われる心。
 だったらそれはもう本当に、私の想いが足りなかったのかもしれない。
 
 幸哉が言ったように、「真実が悪い。俺はこんなに愛してるのに、お前はちっとも俺を愛していない」――そういうことだったのかもしれない。
 私にはわからなかったけれど、幸哉にはそれがわかったのかもしれない。
 
(自分の想いよりもずっと軽い……ずっと小さな相手の想い……)
 
 それがどんなに辛いことか。
 苦しいことか。
 ――今の私ならわかる。
 
 自分のほうを向いてほしくて、でも何を言っても、何をしても、それが叶わない時の気持ちは、どんなに救われないだろう。
 
 私の知らないところで幸哉がどんなに傷ついて、どんなに苦しんでいたのか、私には結局わからない。
 ――わかってあげられないまま終わる。
 
(幸哉……)
 でも不幸な私たちの関係を、このまま続けることはもうできない。
 これ以上幸哉を追い詰めてはならない。
 
 何もしてあげられない私が傍にいても、幸哉はもっと不幸になるだけだ。
 傷つくだけだ。
 それに――
 
『もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!』
 
 私にとって何にも替えがたい海君の言葉が、心にしっかりと焼きついている。
(海君……!)
 
 そう。
 ――この痛いくらいの想いが、幸哉が私に求めたもの。
 そして私が幸哉に与えることができなかったもの。
 
(海君!)
 あの夜突然私の目の前に現れた年下の男の子が、全部奪っていってしまった。
 
(海君!)
 どうしようもないくらい、私の心を埋めつくしてしまった。
 
(……会いたいよ!)
 新しく湧き出した違う意味の涙が、もう溢れて止まらない。
 
「真実……」
 どこまで私の心を察してくれたのか。
 間近で私を見つめる愛梨の瞳も、この上なく辛くて、切ない色だった。
(海君がいなくてよかった)
 
 大学からの帰り道。
 貴子に支えられるようにして歩きながら、私は彼と出会ってから初めて、本当に心からそう思った。
 
 こんな姿は見せられない。
 心配をかけたくない。
 海君はきっと「俺がいなかったから」って自分を責めるから、気にしてほしくない。
 重荷になりたくない。
 
『真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそのこと俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!』
 
 月明かりの中。
 私にそう告げた海君の、冷たいくらいの表情と、いつもと違う低い声を覚えている。
 
(そんなこと考えさせちゃいけない……! 私のせいで海君を変なふうに傷つけちゃいけない……!)
 
 全身を襲う激痛と、心にまだ残る恐怖。
 幸哉への懺悔の想い。
 どんなものよりも、私にとって一番大切なのは、やっぱり海君を想う気持ちだった。

 
 
 ――それなのに、彼は現れた。
 
 ふいに歩くのをやめて立ち止まってしまった私に、貴子がいぶかしげに呼びかける。
「真実? どうした?」
 
 真っ直ぐに前を見て、息をのんで立ちすくむ私の視線を追って、貴子も前を向く。
 でも貴子にはまだきっとわからない。
 広い舗道を行き交う人々の中、ずっとずっと遠くからこちらに向かって歩いてくる姿。
 
(……ああ、ひさしぶりだ……)
 そう思うだけで、胸がちぎれそうに痛い。
 
 周りをゆっくりと眺めながら、まるで羽が生えているかのように軽い足取りで、彼は私たちに近づいてくる。
(迎えに来てくれたんだね……)
 
 いつもより少し早く大学を出た私たちとは、ちょうど途中で出会うくらい正確な時間。
「送るよ」と何度も何度も言ってくれた優しい声が、耳の中でこだまする。
 
(あーぁ……本当は今度会う時は、すました顔をして「あら、ひさしぶりね?」なんて言うつもりだったのになぁ……)
 
 どんな人ごみの中でも。
 どんなに離れていても。
 私にはきっと見つけられるたった一人の人が、どんどんこちらに近づいてくる。
 
(海君がいなくても平気だったって顔して……少しは焦らせてみたかったのになぁ……)
 
 そんなことぐらいで、あの余裕たっぷりの笑顔が崩れるとは、私自身も思ってはいないけれど――。
 
「……あれ? ひょっとして……」
 貴子が声を上げたのと、彼が私に気がついたのがちょうど同時だった。
 
「真実さん!」
 眩しいくらいに笑って手を振る姿。
 
(ああ、声が聞けた……)
 そんな些細なことが、涙が出るほどに嬉しい。
 
 出ない声の代わりに、上がらない腕の代わりに、私はせいいっぱいに笑顔を作った。
 ――それは出会った夜に、他ならぬ彼が、私に思い出させてくれたものだった。
 
(海君……)
 溢れんばかりの想いをこめて笑うことだけが、今の私にできるせいいっぱいだった。
 
 私の様子がおかしいことに気がついて、
「……真実さん? どうかした?」
 足を速めて、近づいて来る海君の姿と、
「もう! 遅いんだよ。少年!」
 必死に私の体を支えながら、怒ったように投げかけられる貴子の言葉。
 
(ふふっ、意地悪言わないであげてよ……)
 そっと貴子に笑いかけた瞬間、私の体から力が抜けた。
 
「真実!」
 慌てて受け止めようとしてくれた貴子よりも早く、私たちの間に海君が走りこんできた気がした。
 私がずっと待っていたその腕に、しっかりと抱き止められた気がした。
 
 でもそれを確認することができない。
 瞼がもう開かない。
 すぐ近くで、誰かが私を呼んでいる気がするけれど、なんだか耳もよく聞こえない。
 
(私……どうなるのかな?)
 不思議と不安はなかった。
(まあいいか……海君に会えたから……)
 思わずニッコリ笑いたくなる。
 
 最後に私の大好きな笑顔を見た。
 私を呼ぶ声を聞いた。
 
(だから、まあいいや……)
 それだけで、私はじゅうぶんすぎるくらい幸せだった。
 そう思える相手が、いてくれるということが、たまらなく嬉しかった。
(ありがとう。海君……)
 優しい腕の中、私の意識は白く弾けて、混濁していった。


 
 夢を見た。
 暖かくて幸せな夢だった。
 私の傍に海君がいてくれる。
 
「真実さん」
 優しい声で、私の名前を呼んでくれる。
 指先にいつも繋いでいた海君の指の感触を感じる。
 
(嬉しいな……)
 絡めた指先から、幸せが駆けのぼってくる。
 感覚だけでも沸きあがってくる愛おしさ。
 だけど――
 
(どうして、顔が見えないんだろう?)
 ふと疑問に思う。
 海君の優しい声からすると、私の大好きなあの笑顔で、きっと見つめてくれているはずなのに――。
 
(どうして見えないの?)
 すぐにハッと気がついた。
(目を開けなくちゃ!)
 夢の中、私は固く目を瞑っている。
 
(目を開けなきゃ、見えるわけないじゃない!)
 自分でもおかしくなって、決心する。
 ううん、それほどたいしたことではない。
(目を開けよう……!)
 改めてそう思っただけ。
 
 ちょうどその時、
「真実さん」
 と海君が私を呼ぶ声が、もう一度聞こえた。

 
 
 目を開くと、私を見下ろす海君の顔が見えた。
 私の大好きな曇りのない真っ直ぐな瞳。
 華奢な輪郭。
 白い頬。
 
 どうしても彼に触れたくて、私は手をさし伸べた。
 あんなに痛くて、私の言うこことを聞いてくれなかった腕が、なんとか持ち上がる。
 
(ひょっとしたら、これはまだ夢かもしれない……)
 その思いが、私を大胆にさせた。
(夢だったら……少しくらい本音を言ってもかまわないよね?)
 
 私は海君の頬にそっとてのひらを当てて、その感触を肌で感じながら、
「会いたかったよ」
 と囁いた。
 
 海君は少し笑って、私のその手に、自分の手を添えた。
「俺もだよ」
 
 優しいその声が。
 私の手を包む海君の大きな手の感触が。
 夢にしてはやけにリアル過ぎはしないだろうか――。
 
(夢……だよね?)
 そう思った瞬間、海君のうしろから、とてつもなく不機嫌な声がした。
 
「いちおう、私もここにいるんだけどね……なに? 真実、気がついたの?」
 貴子だった。
 ベッドの上に横たわる私を、ひざまずいて見守る海君のうしろから、のぞきこむように貴子も見ている。
 
 そういえば、天井の模様が私が新しく引っ越した部屋の天井と似ているような気がする。
 壁紙も。
 しかも貴子まで、今ここにいるということは――。
 
(夢じゃなくって、現実じゃないの!)
 私は飛び起きようとして思い止まった。
 さすがにまだそんなには、体は機敏に動いてくれないらしい。
 
「痛っ」
 代わりに声が出て、少しホッとする。
 と同時に、とてつもなく恥ずかしくなった。
 
(どうしよう……やっぱり夢じゃないよ!)
 その証拠のように、私の動揺に気づいた海君は、とてつもなくおかしそうに笑っている。
 
「海君?」
 一縷の望みをかけて、見上げた笑顔は、
「うん。なに?」
 ますます綻んだ。
 
『穴があったら入りたい』とは、まさにこういう時の心境をいうのではないだろうか。
 私は途方に暮れた。
 
(この手! ……この手をいったいどうしたらいいの?)
 海君の頬に添えた自分の右手を恨みがましく見上げる。
 海君は絶対面白がっている。
 頬に添えられた私の手を、絶対に放すもんかと握りしめている。
 
 貴子は貴子で、
「真実も大丈夫そうだし、お邪魔になるのもなんなんで……じゃ、私はそろそろ帰ろっかな……」
 と、あてつけがましく立ち上がる。
 
(待って貴子! 行かないで!)
 すぐに言えないのは、やっぱり喉に少し違和感があるせい。
 そして、私を見つめる海君の瞳に、今まで以上にドキドキが止まらないせい。
 
 玄関まで歩いてから、貴子はゆっくりとこちらを振り返った。
「おい。相手は怪我人なんだから、無茶するなよ少年。真実の悲鳴が聞こえたら、私がすぐに飛んでくるからな」
 海君に向かって、牽制とも挑発とも取れることを言い放つ。
 
「貴子!」
 必死に声をふり絞った私を、海君は半ば抱き起こすように抱きしめて、
「はい。約束はできないけど、努力はします」
 ニッコリ笑いながら返事した。
 その声が、笑顔に反してあまりにも真剣過ぎる。
 
「海君!」
 何か言ってやりたいんだけど、言葉が出てこない。
 
 そんな私に海君は優しく笑いかける。
 だから尚更何も言えなくなる。
 
 貴子は海君の返事と、私に対する態度がいたくお気に召したらしい。
「よし。じゃ後はよろしく!」
 後ろ手に手を振りながら、さっさと部屋から出て行ってしまった。
 
 バタンとドアの閉まる音に、私の心臓は跳ね上がる。
(よろしくって……ちょっと貴子!)
 
 困り果てて見上げた海君は、まだ笑っている。
 思わず、
「海君は……まだ帰らないの……?」
 と尋ねて、
「うん。今日はひさしぶりだし……もう少し傍にいるよ……」
 と答えられ、余計にどうしようもなくなった。
 
 ずっと会いたかった。
 本当は聞きたいこともたくさんあった。
 でも、二人きりの狭い部屋で、こんなに寄り添っていたら、顔もまともに見れないし、話もできない。
 
 それに、私のどうでもいい質問なんかより、海君のほうこそ私に聞きたいこことがあるはずだ。
 それなのに、彼は何も言わない。
 貴子が部屋を出て行ったのを見送った体勢のまま、ずっと私をただ抱きしめている。
 
(何か言ったほうがいいのかな?)
 沈黙に耐えかねて、その顔を仰ぎ見る。
 いつの間にか貴子がいた時の穏やかな笑顔は消えていて、海君はひどく真剣な顔をしていた。
 どこを見ているのか。
 何を考えているのか。
 私には本当にはわからない。
 
 だからたまらない気持ちで、私はそっと呼びかける。
「……海君」
 
 海君はゆっくりと私に顔を向けた。
 目の前に迫った綺麗な瞳は、まるで泣いているようだった。
 それぐらい悲しい色をしていた。
 
「……海君」
 もう一度呼びかけた私に、彼は小さく笑って、私の体をそっとベッドの上に横たえた。
 肩まで布団を掛け直してくれる。
 
 その様子があまりにも悲しげだったから、思わず言葉が、口をついて出てしまった。
「海君は何も悪くないよ……」
 
 きっといろんなことを気にして、自分を責めているだろう海君を、辛い思いから開放してあげたくて、たまには先回りして言ってみたつもりだった。
 
 だけど海君はちょっと驚いた顔をしたあと、小さく首を横に振る。
「でも……ゴメン……」
 
 その辛そうな顔が、苦しそうな声が、私の胸をどんどん痛くする。
「海君が謝ることは、なにもないんだよ……?」
 
 心からそう思う。
 でも私のどんな言葉も、彼の心を軽くすることはできない。
 
「でも……守ってあげられなかったから……」
 詫びるように、後悔するように、海君は私の髪を指先でそっとすく。
 その心地いい感触にひたってしまいたくて、私はそっと目を閉じた。
 
「ありがとう。でも大丈夫……海君がそんなふうに思ってくれてるだけで、私は本当に幸せだから……」
 海君の指が触れる頭へと、髪へと、体中の神経が集中していくのが自分でもわかる。
 
「大丈夫だよ……私は大丈夫だから心配しないで……ね?」
 どうか気にしないでほしいと思った。
 傷つかないでほしいと思った。
 
(私のせいで傷つかないで……!)
 いつかの夜。
 こっそり祈ったことを思い出す。
 
(どうか幸せを……私よりも海君に幸せを……!)
 たった一つの願いを何度も心の中でくり返す私に、海君が囁いた。
 
「でも……できるつもりでいたんだ……せめて真実さんを守るくらいは、俺にもさせてもらえるんじゃないかって……勝手にそう思い上がってた……!」
 
 海君の言葉に、なんだか不思議なニュアンスを感じて、私は目を閉じたまま頭をめぐらす。
 
「俺はこんなにも無力だ。ちっぽけで、何も望めない存在だ。だけどたった一人だけ、真実さんのためにだけは、何かができるんじゃないかと思ってたのに……きっと俺はそのために生まれてきたんだって、ようやく胸をはって言えるって思ってたのに……!」
 
 海君の言葉は、私を守れなかったことを懺悔しているというよりも、そうすることができなかった自分の無力さに絶望しているように聞こえた。
 
(そんなに苦しまないで……)
 涙が零れそうになる。
 
 秘密だらけの海君が、何に悩み、何に傷ついているのか、本当のところは私にはわからない。
 けれど、それが自分の無力さを嘆いているのならば――それはまちがいだ。
 
「私は、何度も何度も助けてもらったよ……? 海君のおかげで、今の私があるよ……?」
 うまく彼に伝わるだろうか。
 喉は痛めているし、涙声だ。
 
 でも、今、伝えないといけない。
 恋の駆け引きとか、年上のプライドとか、私と海君の間には、最初からそんなもの、存在しない。
 本当の気持ちしか、伝えあっていない。
 だから、どんな時でも、ちゃんと伝えなければ。
 自分の思いを言葉にしなければ。
 
「海君がいなかったら今の私はいないよ。だから海君は無力なんかじゃない……いつだって海君がいてくれるおかげで、私はこうやって笑えるんだから……」
 そして、目を閉じまませいいっぱいの笑顔を作ったつもりだった。
 
 ずっと私の髪を撫でていた海君の手が止まる。
 どうしたんだろうと不安になる。
(うまく伝わらなかった? それとも私は……何か思い違いをしている?)
 
 たまらず閉じていた目を開けると、ビックリするぐらいすぐ近くに海君の綺麗な瞳があった。
 瞬きさえできずに驚いて見上げる私に、その瞳はもっと近づいてくる。
 
(海君?)
 破裂しそうな胸の鼓動に耐えきれず、もう一度目を閉じた私は、息がかかるくらいすぐ近くで、海君の声を聞いた。
 
「……ありがとう真実さん。何も望めないってわかっていても……やっぱり俺は、真実さんだけは望まずにいられない……できるなら俺のものにしてしまいたい……」
 
 眩暈がした。
 甘くて切ない感情に、もう溺れてしまってもいいと思った。
 でもその瞬間、すぐ近くにあったはずの海君の気配が、フッと私の上から遠去かる。
 
(えっ? ……海君?)
 思わず目を開けた私は、彼がさっきまでいた場所に、また座り直したことを確認した。
 
(今のは……どういう意味だったの? どういうこと……?)
 呆然とせずにはいられないくらい、私たち二人の距離はもう開いてしまっている。
 頭の中では疑問が渦を巻く。
 その答えは、まるで見当もつかない――。
 
(でも海君……その瞳を見たら私にはわかるんだよ……)
 決して目を逸らそうとはせず、離れた場所から真っ直ぐに私を見ている海君を私も見つめ返す。
 
(何があるの? 私から遠去からないといけないどんな理由があるの? 本当にそれが大切なら……それをこれからも守りたいと思っているんなら……そんな目で私を見ないで! そんな願うような、請うような瞳で……私を見つめないでよ……!)
 私は全身の力をふり絞って、そっとベッドの上に起き上がった。
 
「真実さん!」
 驚いたように海君が私の名前を呼んだけれど、大丈夫だ。
 体の痛みなんかより今は心のほうが何倍も痛い。
 私は静かに、自分の顔を海君に近づける。
 
(そう……これくらい。これくらいの距離にさっきはいたはず……そうでしょう?)
 私の声に出さない問いかけに、海君は少し頷いた。
 私の頬におそるおそる左手を添える。
 
「でも、真実さん……本当に俺には、そんな権利ないんだよ……真実さんに触れる資格なんてないんだよ……」
 
 その声が震えていると思った。
 いつも余裕たっぷりの海君が、本気で何かを恐れていると思った。
 
 だから私は、ふっと体の力が抜けた。
 いっぱいいっぱいに張り詰めていた緊張を、
「もういいや」と思って、自分で解いた。
 
「権利とか資格とか……よくわからないけど、そんなものは私のほうにこそないと思う。海君が気にすることじゃないよ。でもなんだか意識しすぎちゃうから……やっぱりいつもみたいに戻ろう……? さっきのは聞かなかったことにするから、海君も忘れて……!」
 
 一生懸命平静を装いながら、それでも本気でそう思って笑ったのに、海君は、
「でも俺は真実さんに触れたい。俺のものにしてしまいたい。その気持ちだって本当なんだ……」
 真剣な眼差しで、また蒸し返す。
 
 悪びれもせず堂々とした言い方が、いつもの海君に戻ったみたいに思えて、私はちょっとホッとした。
 だから今度は心から笑うことができた。
 
「海君。言ってることがめちゃくちゃだよ……!」
 いつもみたいに髪をかき混ぜてしまおうと、そっと柔らかい髪に手を伸ばしたのに、私の手をつかんで、海君は私を胸の中に抱きしめてしまった。
「……海君?」
 彼の顔を見上げた私の上に、海君の綺麗な瞳が近づいてくる。
 ――今度は迷うことなく真っ直ぐに。
 
(目に見えない何かと戦う決意をしたの? それとも、もういいやって投げ出してしまった?)
 問いかける間もなく、海君の唇は私の唇に重なった。


 
 流れこんでくるような狂おしいほどの感情に、泣きそうになったと言ったら、彼はどうするんだろう。
 いつものように、「ゴメン」って謝るのか。
 それとも、もっと幻のような夢を見せてくれるのか。
 
 どちらにしても、すぐには目を開けたくなかった。
 目を閉じたまま、百年の眠りについてしまったお姫様のように、できれば永遠に、この瞬間の中に自分を閉じこめてしまいたかった。


 
 長いキスのあと。
 
「ゴメン。真実さん……」
 海君が本当に謝るから、私は思わず笑ってしまう。
 
(そう言えば海君は、いっつも私に謝ってばかりだ……!)
 本当に謝らないといけないのは、私のほうなのに――。
 
 だから私は何も答えず、海君の頬にそっと手を添える。
 そして少し笑って、その頬に軽くキスをする。
 ――海君が何を気にしているのか知らないけれど、「私だって共犯だよ」の思いをこめて。
 
 海君は少し驚いて、でもすぐに眩しいくらいにニッコリと笑って、改めて私を抱きしめ直した。
 
「ゴメンね。真実さん」
 あいかわらず謝っているので、やっぱり笑わずにはいられない。
 
「もう……! 笑ってるくせに、何がゴメンなのよ……?」
 ちょっぴり意地悪を言ってみても、海君は全然へこたれない。
 
「これからのことを先に謝ってんの。真実さん怪我してんのに、悪いからさ……」
 妙に艶っぽい笑みを浮かべながら、私をドキドキさせるようなことを言う。
 
「それって……どういう意味かな……?」
 思わず逃げ腰になる私の耳元で、海君は囁く。
 
「お願いだから、貴子さんの助けだけは呼ばないでね」
 ドキリと胸がどうしようもなく跳ねた。
 
(それって……それって、どういう意味……?)
 私はよほど慌てた顔をしていたらしい。
 真剣な表情をずっと崩さずにがんばっていた海君は、遂におなかを抱えて笑いだした。
 
 その途端、私はやっと、ハッと気がついた。
「もう! また、からかったのね!」
 私の怒りの叫びに、海君はますます笑い転げる。
 
(もうっ! もう知らない!)
 私はベッドに横になると、頭まで布団を引き被った。
 
「ゴメン。真実さん、ゴメン……!」
 海君は謝ってくれているけれど、笑いながら言ったって、許してなんかやるもんか。
 
(年下のクセに、ほんとにいつも! いつもいつも……!)
 悔しくって丸くなる私を、海君が布団ごとそっと抱きしめる。
 
「ご要望があるなら、続きはまた今度。真実さんが元気になってから是非!」
 笑い混じりでそんなことを宣言されたって、
「うん。お願いします」
 なんて言うわけがない。
 
 それがわかっていて、海君はますます笑い転げる。
 
(いつまでもひとりで笑っていなさい!)
 布団の中で貝のように押し黙ったまま、私は心の中でせいいっぱいに叫んでいた。


 
「真実さんを望むのは俺のわがままだ」
 海君がそう思うのなら、私が海君を望むのだって、私のわがままだ。
 
「真実さんに触れたのが俺の罪だ」
 海君がそう言うのなら、私だって同罪だ。
 
(何が怖いの? 何を恐れるの?)
 いくら尋ねても、きっと私には教えてもらえない。
 
 でも彼にできないのなら、私から手をさし伸べればいいと思った。
 その結果、私が傷つくことを彼が恐れているんなら、そんなことはないと、くり返し伝えればいいと思った。
 
 だから苦しまないでほしい。
 一人で傷つかないでほしい。
  
 ――私はここにいる。
 いつだって海君の隣にいるんだから。
 一晩ぐっすりと眠ったおかげで、全身の痛みもだいぶ楽になったし、喉の調子もかなり良くなった。
 とはいえ、右手首には幸哉の指の跡がハッキリと残っているし、腫れた左頬は、確かに見た目あまり良くない。
 
(今日は大学どうしようかな……?)
 ベッドに横になったまま、天井を見てそんなことを考えていると、海君の顔が浮かんできて、たまらなくドキドキする。
 首を振っていくら打ち消そうとしたって、昨日と同じこの光景を見上げている限り、完全に忘れることなんてとてもできそうにない。
 
(このままここで寝てたら、今度は熱が上がるかも……!)
 私はベッドからむっくり起き上がった。
(やっぱり大学に行こう)
 まだかなり時間に余裕があることを確認して、立ち上がる。
 
(平常心だよ。平常心……)
 自分に言い聞かせるかのように何度も何度も唱えているあたり、もうとっくに平常心なんかじゃないのだけど、油断すると天まで上って行ってしまいそうな自分の心を、地上に繋ぎ止めるのに私は必死だった。
 
(本当だったら…とてもこんな気分で向かえる朝じゃないはずだった……)
 昨日の幸哉の姿を思い出す。
 ゾクリと背筋が冷える。
 
(でも海君のおかげで、なんだかずっと昔の話みたいだ……)
 私よりよほどしっかりしている彼の事だから、ひょっとしたらそれが狙いだったかもしれない。
 私が幸哉のことで変に悩んだり落ち込んだりしなくていいように、自分のペースに巻きこんでいってくれたのかもしれない。
 
 でも、こっちまで胸が痛くなるほど悲しげだった表情も、必死に自分の中の何かと戦っていた真剣な顔も、きっとあれは海君の本当の姿だ。
 
 無理をさせたかもしれない。
 ううん。
 これまでだってずっと、無理ばかりさせているのかもしれない。
 
 だから私は忘れない。
 顔をあわせるのが恥ずかしいとか、いつになく緊張するとか、当面の自分の感情にいくらとまどっても、海君に対する感謝だけは忘れない。
 
(ありがとう、海君)
 いつだって私のことを救ってくれる彼に感謝する気持ちだけは、絶対に忘れないでいようと思った。


 
 トントントン
 私のノックにゆっくりとドアを開けた貴子は、いつもの彼女からは想像もつかないいくらい、びっくりした顔をした。
「うおっ! 真実!? なんで……?」
 
 ぷっと吹き出しそうになった心を必死に抑えて、私は右手に持っていたお皿をさし出す。
「朝ご飯……たくさん作ったから、今日も一緒に食べよう」
 
 勝手知ったる人の部屋とばかり貴子の部屋に入りこんで、中央にある小さなテーブルの上に、持ってきた皿を置く。
 呆然と立ったままの貴子にはかまわず、勝手にお箸やお皿を並べて、私はいつものように朝食の準備をした。
 
 まだ寝ている最中だったらしい貴子は、その間に顔を洗って、長いサラサラの髪を簡単にうしろでまとめる。
 まるで昨日までと同じにクルクルと働く私を、ゆっくりとふり返って、貴子は苦笑いした。
 
「てっきり今日は休むと思ってた」
 いつもよりいくぶん優しいその声に、私はふり返らず、お茶碗にご飯をよそいながら返事する。
「うん。そうしようかとも思ったんだけど……思ったより元気になったから……」
「うん。そうみたいだ」
 心なし、貴子の声がなんだか嬉しそうだった。
 
「でも、今日は私のところには来ないと思ってたんだよ」
 自分の向かいに腰を下ろした貴子にお茶碗を手渡しながら、私は首をひねった。
「えっ? ……どうして?」
 貴子はお茶碗を目の高さまで上げて、どうもと言わんばかりに私に軽く頭を下げてから、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
 
「彼氏が泊まってったんだろ? 当たり前じゃないか」
 ボッと火がついたように頬が熱くなって、私は慌てて俯いた。
「う、海君は昨夜すぐに帰りましたっ!」
「へっ?」
 
 貴子らしくない間の抜けた反応に、思わず顔を上げる。
 眼鏡の向こうの鋭い瞳が、信じられないというように、大きく見開かれていた。
「本当に?」
「う、うん。そうだけど……それがなにか……?」
 
 首を傾げる私に向かってはあっと大きなため息をつくと、貴子は手にしたばかりだったお箸とお茶碗を、もう一度テーブルに戻した。
「せっかくお膳立てしてやったのに……! なんだ……もっと思いっきりのいい奴だと思ったんだがな……?」 
「………………!」
 言葉も出せずぽかんと口を開く私の目の前で、貴子は軽く曲げた人差し指を細い顎に当て、何かを考えこむようなポーズを作る。
 
「だが待てよ……昨日の真実の状態を考えると、優しい奴……もしくは常識のある奴とも言えるわけか……」
 まるで彼女が専攻している心理学の実験データを分析する時のように、海君の行動について、いったいなんの考察をまとめようとしているのだろう。
 
 知らず知らずのうちに握りしめていた私のこぶしが、ぶるぶると震え始めた。
「貴子……?」
 まさかと思って呼びかけてみると、貴子は我に返ったかのように私に視線を向け、もっともらしく頷いてみせる。
「ああ真実……大丈夫だ。まだチャンスはある。私がきっと、もっといいシチュエーションを作ってみせるから……!」
 
 自身満々に胸を張る姿に、思わず叫んでしまった。
「結構です!」
 思いっきり叫んで、ドンッと音をさせてテーブルを叩いた途端、貴子がぶぶっと吹き出した。
「冗談だよ! 冗談!」
 
 お腹を抱えて笑い出したその反応が、腹の立つことに、なんだか海君とよく似ている。
 いつもいつも、隙あらば私をからかおうとする海君と、まるでそっくり。
 
「もうっ! 貴子!」
 ハハハッと笑い続ける姿を見ながらため息をついて、次の瞬間、ギョッとした。
 このアパートに越してきてから、私は貴子と一緒に大学に登校している。
 こうして朝食まで共にすれば、そのまま一緒に登校するのは自然の流れだ。
 
 でも昨日、海君がまた現われた。
 私のところに来なくなる前まで、毎日そうしていたように、きっと今日からは私を迎えにきてくれるはずだ。
 ――昨夜「また明日」と小さな約束を残して彼は帰っていったのだから。
 
(じゃあひょっとして……これから貴子と海君と三人で大学に行くの?)
 なんだか変な組みあわせあという前に、私にとってそれはかなりたいへんな事態だ。
(だってそれじゃあ……私、ずうっとからかわれっぱなしじゃない!)
 青くなりそうな思いで箸を握りしめる私に、先に食べ始めていた貴子が、チラリと意味ありげな視線を向ける。
 
「真実。早く食べろ。彼氏が迎えにくるぞ」
 
(絶対! 絶対! からかう気満々だよ!)
 泣きそうな気持ちで自分が作った朝食を食べ始めた私を、必死に笑いをこらえながら貴子が見ていることは、嫌というほどよくわかっていた。


 
 予想どおり。
 大学に出かける準備をして、いつもの時間にドアを開けると、道路の向こうの塀に寄りかかるようにして、海君は私を待っていた。
 
「おはよう」
 ニッコリと笑いかけてくる笑顔は、見事なまでにいつもどおりだ。
 目があった瞬間に、顔から火が出そうな気持ちになった私とは、まるで違う。
 
(昨日あんなことがあったのに……こんなにドキドキしてるのは、ひょっとして私だけ……?)
 胸がチクリと痛む。
 私のそんな思いなんかまるで気がつかないかのように、海君は今日も余裕たっぷりの顔で笑っている。
 
「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」
 それなのに、私のうしろからやってきた貴子には、なぜかキリッと居住まいを正して、礼儀正しく挨拶する。
「おはようございます。貴子さん」
「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」
「はい」
 
 海君の見事な変貌ぶりに、私は理不尽さを感じずにはいられなかった。
(だって貴子には敬語なんだもの……)
 それに引き換え私のことは、面白がってからかってばかり。
 
 私の複雑な心境とは裏腹に、貴子はさも満足げに頷く。
「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」
 海君はニコリと笑って貴子に小さく頭を下げると、さっと私の手を取った。
 
「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」
 手を引かれながらもふり返って叫ぶ私に、貴子はため息を吐いて肩をすくめてみせる。
「誰がそんな野暮なまねするか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」
 さっさと行けとばかりに、私たちを手で追い払う。
 
「行こう」
 私の手を引き、いつになく海君は駆け出した。
「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」
 海君はふり向いて真っ直ぐに私の顔を見ながら、艶やかな笑みを浮かべる。
「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」
 途端に心臓が跳ね上がった。
 悪戯っぽい瞳で私を見下ろす海君と、ニヤリと笑いながら私たちを見送っている貴子を、交互に見比べてみる。
 
 やっぱりどう考えても似ている気がする。
 その二人に挟まれて登校しなくてもよくなったことは、私としてはホッとするところだ。
 だけど――
 
(うん? ちょっと待って……海君、今、なんて言った……?)
 手を引かれるままに駆けながら、頭の中では必死に彼の言葉を思い返してみる。
 
『早く二人きりになろうと思って』
 
 途端、ドキリとどうしようもなく胸が跳ねた。
 
 昨日、二人っきりだった私の部屋。
 海君の頬に触れた感触。
 指を絡めて繋いだ手。
 すぐ近くで見た綺麗な瞳。
 そして――
 
 息が止まりそうだった。
 
(今は……今だけは、いっそ貴子が一緒にいてくれたほうがいい気がする!)
 あまりのドキドキに、私が倒れてしまわないために――。
 
 でも助けを求めるようにふり返る私を、貴子は例の唇の端をほんの少しだけ上げた笑顔で見送る。
 
 カッと頭に血が上った。
(すべてお見とおしってわけね! 私が動揺するのも! 貴子に助けを求めるのも! ……その上であえて、助けてなんかくれなくって、笑って見てるだけで……つまりはそういうことね!)
 
 私が今初めて気づいた、朝から海君と二人きりになってしまうドキドキのシチュエーションぐらい、きっと貴子には初めから予定どおりだったんだ。
 
(貴子の馬鹿!)
 心の中で叫ぶ私に向かって、貴子はいよいよ唇の端を吊り上げて、それはそれは嬉しそうに笑う。
 まるで「この世の全ては、私の予定どおり。思いどおり」とでも言いたげな笑顔だった。
 

 
 人ごみの中をかきわけるようにして、もの凄いスピードで、海君は私の手を引いて歩いた。
「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」
 息を切らしながら抗議する私に、海君はふり返らずに、はっきりとした声だけで返事する。
 
「ダメ。早く行ったほうがいい」
 弾むような明るい調子の声だったけど、繋いだ手はいつもよりかなり強い。
 ぐいぐいと引っ張って歩かれるのに、私はついて行くのがやっとで、海君がどれだけ今まで私にあわせて歩いてくれていたのかを知った。
 
 あまりにも早く歩きすぎて、大学の始業時間までまだ時間が余ってしまって、私たちは結局、大学の近くの公園で時間を潰すことになった。
 カラカラになった喉を潤そうと、自販機で買った飲み物を手に、二人並んで公園のベンチに座る。
 
 私はすぐにペットボトルのふたを開けて飲み始めたけれど、海君は片手にペットボトルを持ったまま、反対の手を自分の胸に当てて、しばらく俯いたまま地面を見つめていた。
 息を整えるように、大きく深呼吸をくり返すその様子に、
(そういえば前にもこんなことがあった……)
 私はふと思い出した。
 
 初めて二人ででかけたあの海で、水をかけあってはしゃぎまわったあと、海君はやっぱりこんなふうに、しばらくじっとしていた――。
  あの時は、『運動不足だよ』とからかった私に、海君は『本当に』と笑って答えてくれたんだったけど、今思い返してみれば、その様子は少し普通じゃなかったように思う。
 
 今だってそうだ。
 よくはわからないけれど、海君は自分の何かを懸命に普通の状態に持っていこうとがんばっているように見える。
 
(呼吸……かな? でも、どうして……?)
 理由なんて全然わからないけど――あまりにも急ぎすぎた――そのことがいけなかったんじゃないかという気がして、
「そんなに急がなくてよかったのに……」
 思わず言葉が口から出てしまった。
 
 海君は体は前屈みのまま、顔だけを私に向けた。
 薄く笑ってはいたけれど、その瞳は真剣だった。
「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」
 
 ズキリと胸が痛んだ。
(そっか……幸哉のことを警戒してくれてたんだ……)
 
 考えてみれば当たり前の答えだったのに、私はまったくそのことを失念していた。
 だけど海君はちゃんと考えていてくれて、私のために、きっと彼にとってはあまり良くないほどに急いでくれた。
 
 それがどういうことなのか。
 本当の意味は私にはわからない。
 けれど、なんだか申し訳ない。
 
「ゴメンね。海君」
 うな垂れる私の頬に、海君が冷たい指先でそっと触れた。
 そのまま私の顔を上向かせて、自分のほうに向ける。
 
 少し顔色の悪い海君は、それでも毅然と顔を上げて、前髪をかき上げながら、私に向かって笑った。
「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」
 鮮やかな笑顔に、軽い眩暈さえ感じる。
 
 海君は大きく息を吐くと、ベンチの背もたれに体を預けるように座り直し、ようやく私と肩を並べた。 
「何だってやるよ……俺は!」
 強い決意を秘めたようなその声が、私の胸を打った。
 
 私はいつだって守られてばかりで。
 助けられてばかりで。
 今だって彼が何を考えているのか、何と戦っているのかさえ教えてはもらえない。
 
 それは初めからわかっていたことだ。
 私が秘密だらけの海君を受け入れるかぎり、仕方のないこと。
 でもやっぱり、胸が痛い。
 
 俯いた私の心を軽くするかのように、海君がベンチの背もたれにもたれて、空を仰ぎながら呟く。
「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」
 
 ペットボトルを額に当てるみたいにして目を閉じている海君は、小さく笑っている。
 その蒼白な横顔に視線が釘づけになってしまう自分を、必死に追い払って、私は無理になんでもないような声を出した。
「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」
 
 海君はハハハッと笑い出した。
「それはそうかも!」
 
 あまりにもあっさりと同意されてしまって、自分で言ったにもかかわらず、私は少しムッとする。
 さっきまでの深い感謝の気持ちと、申し訳ないような思いはどこへいったのか。
 何か言い返してやろうと、目を閉じたままの海君の顔を軽く睨む。
 
「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な普通の高校生じゃない!」
 私の棘のある声に、海君は目を開けて、いかにも面白そうに眉を片方上げてみせた。
「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」
 
 その返事に私はますますムッとした。
「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」
 
 海君はいかにも嬉しそうに、声を立てて笑う。
「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」
 
(なんですって!?)
 最大級の非難の言葉は、なんとか声に出さずに飲みこんだ。
 でも気持ちのほうはまったく納得がいかない。
 この怒りを海君にぶつけないで抑えるには、かなりの努力が必要そうだ。
 
(そりゃあ確かに、海君から見たらどうしようもない私だろうし……いつも迷惑ばっかりかけてるし……! 自分でも「ああ私って、年上らしくないなあ」って思ってる……思ってるよ! でもこんな私と海君だから、違和感もなく一緒に居られるんだよ? ……もし海君が、「俺、お姉様についていきます」ってふうに、年下らしかったら……私じゃどう接していいのか、きっとわからないよ?)
 
 だから私たちはこれでいいんだ。
 しっかり者の海君とどこか頼りない私。
 
 ――そんなことは自分でもわかってる。
 わかってるけど、何かが、どこかが、妙に悔しい。
 
「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶのよ?」
 本当に他意はなく、悔し紛れで放った言葉だった。
 なのにその途端、海君は水を得た魚のように元気になった。
 
「ああ、それはね……」
 妙に艶やかに大人っぽく笑いながら、私の顎に手をかける。
 
「う、海君……?」
 思わず身を引こうとする私の耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。
 
「俺が真実さんの名前を呼びすてで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」
 もの凄く意味深な言葉に、心臓が口から飛び出してきそうなくらいドキドキする。
 それなのに海君は、そんなことにはまったくおかまいなしだ。
 
「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」
 真っ直ぐなその瞳が、怪しげな色に揺らめくから、私はもう、何をどうしたらいいのだか全然わからない。
 
「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」
 大慌てでぶんぶんと手を振る私を見て、海君はやっぱり大笑いし始めた。
 
(もういいよ……どうぞ好きにからかって……いくらでもからかって……! もう緊張しすぎちゃって……怒る気力もないよ……)
 脱力して俯く私に、海君は笑いながら斜めに顔を近づけて、まるでかすめ取るみたいに、そっとキスしてしまった。
 
「海君!」
 さすがにそこまでは予想外で、声を上げて驚いた私に、
「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいのか、ちゃんと態度で示すことにした。真実さんがそうすることを許してくれたって、俺は勝手に解釈してるんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」
 眩暈がするほど魅力的な笑顔で、急にそんなことを言われても、なんと答えていいのかなんてまるでわからない
 
(だめだ……こんなんじゃまともに顔も見れないよ……!)
 俯く私の頬に手を添えて、海君が上向かせる。
 もう一度、私の大好きな瞳が真っ直ぐに近づいてくる。
 
「違ってる?」
 間近で囁かれて、私は降参するかのように目を閉じた。
「ううん……違わない」
 そっと優しく、海君は私に口づけた。
 
 彼の気配が顔の近くからすっかり消えてしまってから、私は恐る恐る目を開く。
 満面の笑顔が私を見下ろしていて、泣きそうな気持ちになった。
 
「よし。じゃあ、学校に行こっか」
 海君はまるで何事もなかったかのように明るく笑いながら、真っ赤になって俯く私の目の前に、左手をさし出す。
 その大きな手を見ていたら、なんだかもうつまらない意地はどうでもよくなった。
(だって……絶対にかなわないや……)
 
 悔しいも、恥ずかしいもとおりこして、私じゃ一生かかっても海君にはかなわない。
 だから、ついて行くしかない。
 さし出されたこの手を、迷うことなく握り返すしかない。
 
 ――だってそれが私の一番望んでいること。
 嬉しいことなんだから。
 
 自分に言い訳するように、開き直るように考えながら、私は海君の手を掴んだ。
 顔を上げてみたら、私の大好きなあの笑顔が、朝の煌めくような太陽を背に、私をこの上なく優しい眼差しで見下ろしている。
 
 心の中でこっそりため息を吐いた。
(ねぇ海君。また一つ、忘れられない光景が増えちゃったよ……)
 諦めにも似た気持ちで、目を細めて、私は彼の笑顔と太陽の眩しさを、瞼に焼きつけた。
「真実ちゃん! 学校来たんだね」
 正門前で私の姿を見つけた花菜は、大きな丸い目をさらに丸くした。
 
「うん」
 ニッコリと笑い返した私の顔と、隣に並ぶ海君の顔を見比べて、花菜自身も笑顔になる。
「それに海君も帰ってきたんだ……よかったね……!」

 海君は黙ったまま頭を下げると、ずっと繋いでいた私の手を花菜の前にさし出した。
 その手を今度は、花菜が受け取る。
「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……」
 
 いつも変わらない笑顔が、ほんの少しだけ真剣みを帯びた表情になった。
「絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もうあわせない……!」
 
「……花菜」
 私は花菜の首に腕を廻して、小さな彼女を抱きしめた。
 
 嬉しかった。
 大好きな海君に守られて、優しい仲間に守られて、私はいつも一人じゃない。
 だからまた歩き出せる。
 どんなに辛いこことがあったって、ずっと前を向いていられる。
 
「じゃ。帰りに待ってるから」
 手を振る海君に頷いて、私は花菜と共に一歩を踏みだそうとした。
 でもできない。
 隣の花菜が、海君のほうを見たまま動いてくれない。
 
(……花菜?)
 さっきまでは確かにいつものように笑っていたのに、彼女はもう、なんとも表情の読めない顔をしている。
 花菜は時々、――ふいにこんな顔になる。
 
「……どうしたの?」
 首を傾げた私の顔を、花菜が真っ直ぐにふり返った。
 その目があまりにも真剣だった。
 
「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」
 さりげない花菜流の気配り。
 それは私にはとても真似できないことだ。
 
 花菜は本当に相手をよく見ていて、小さなことにだっていつも一番に気がつく。
 女の子らしい花菜の、とても素敵な長所。
 そんな花菜だから、私たちの中でも一番友だちが多いし、笑顔の可愛い外見と相まって、男の子からもとっても人気がある。
 それは友人として、私にとってもいつもは自慢の種だ。
 ――でも今は、他ならぬ海君のことだったから、ドキリとどうしようもなく胸が跳ねた。
 
「大丈夫です」
 私より先に海君が口を開いた。
 前髪をかき上げながら、いつものように笑ってる。
 
 でもその笑顔が、どことなく今までと違う気がする。
 どこがどうとは上手く言えないけれど、ひさしぶりに会ったら、また少し白くなっていた顔色を見た時に感じたのと同じ、なんだか不安な気持ち。
 
(……海君?)
 その不安がなぜだかとても重要なことのような気がして、私は海君の顔を仰ぎ見る。
(どこか調子が悪い……? やっぱりさっき急ぎすぎた……?)
 今すぐ尋ねたかったのに、口を開きかけた瞬間、背後から私たちを呼ぶ声がした。
 
「真実ー! 花菜ー!」
 元気よく叫びながら、愛梨が走ってくる。
 
 海君の姿を見つけて、愛梨はさらに嬉しそうに声を上げた。
「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」
 
 その勢いとパワーに、すっかり気を削がれてしまった。
 愛梨が現われただけで、いつも周りの空気は一変してしまう。
 その上――
 
「すっごく寂しがってたもんねえー」
 わざわざ海君の前でそんなことを言いだすから、今は何よりも先にそれを止めなければならなくなる。
 
「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」
 
 ダメだ。
 海君はもう、悪戯っ子みたいな顔でこっちを見てる。
 瞳だけで、「そうなの?」なんて、いかにも面白そうに私に問いかけてくる。
 
 こうなったらもういくらごまかそうとがんばったって、私のことなんて何もかもお見とおしなのに。
 それなのに愛梨は、
「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」
「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」
 花菜まで一緒になって、話に輪をかけるのをやめてくれない。
 
 私はもう、二人の腕をつかんで引っ張って、海君から遠ざけるしか道がなくなってしまった。
「じ、じゃあ行ってくるね……」
 大急ぎでそれだけを言って、二人を引きずるようにして歩きだした私を、海君は一生懸命笑いをこらえて見送っている。
 
 その顔をチラッとふり返って見ながら、
(……本当だ)
 と思った。
 
 懸命にいつもどおりを装っているけれど、その顔色はさっきまでよりもっと透きとおるように白くなっている。
(本当に大丈夫かな……)
 
 心配しながら早足で歩き続ける私から、愛梨も花菜も腕をそっと引き抜いた。
 クスクスと笑いながら、
「まったく真実ったら照れちゃって……」
 なんてからかうから、
「愛梨が急にあんなこと言い出すからでしょう!」
 それに応戦することで、私の頭はいっぱいになってしまう。
 
(しょうがない……海君には帰りにちゃんと聞いてみよう……)
 本人に問いただすことを、私はその場では諦めた。
 でも、「大丈夫です」と花菜に返事した時の、海君のハッとしたような表情はなぜだか頭から離れなくて、ふとした折に、その日何度も頭の中に甦った。


 
 講義棟に入るとすぐに、ずっと前のほうから貴子が私たちを見つけて、歩み寄ってきた。
「真実」
 
 自分より先にアパートを出たはずなのに、あとから大学にやってきた私に向かって、貴子はニヤリと笑う。
「遅かったな」
 
 私だけにわかるその微笑の意味に、私は大慌てで手を左右に振った。
「別に! 別になんでもないわよ! 普通にゆっくり歩いたら、貴子より遅くなっただけなんだから……!」
 
 その反応は、どうやら貴子の思いどおりで、しかも大満足の出来だったらしい。
「まだ何も言ってないだろ」
 唇の端を吊り上げて、例の意味深な笑いをしてみせる。
 
 これ以上は、何を言っても貴子を面白がらせることになるだけだと諦めて、私は口を噤んだ。
 そんな私に貴子はすっと真面目な表情になって、一枚の紙切れをさし出す。
 
「真実。掲示板にこれが貼ってあった」
 大学側から、私たち学生への連絡に使われる連絡票だった。
『教育学部教育学科三年白川真実さん』と宛名書きされたその用紙には、『至急、学生課まで』と書いてあった。  
 私は思わず貴子の顔を見上げた。
「貴子……これ掲示板から剥いできたの?」
 
 貴子は「もちろん」という表情で頷いた。
 
「あんたねー。本人以外は触っちゃダメなのよー」
 愛梨が呆れたように忠告した内容は、もちろん貴子だってよくわかっているはずだ。
 だけど、それでも――。
 
「真実をこれ以上晒しものにできるか……」
 私のことを思ってやってくれた。
 それぐらい私にだってわかってる。
 
「今から行くの?」
 花菜に聞かれたので、私は頷いた。
 
 きっと、昨日の幸哉の件でいろいろと聞かれるのだろう。
 説明のため、どうせいつかは行かなければならないのだから、いっそのこと、早いほうがいい。
 
「うん。今から行ってくる」
 歩み出そうとした私の前に、愛梨が立ち塞がった。
 
「私も行く」
「でも……もう講義だって始まるし……」
 言い淀む私に、貴子がきっぱりと言い切る。
「一人で行かせるわけにはいかないな」
 私の肩を抱くようにして、管理棟へと向かい始める。
「一緒に行かせて……ね?」
 腕をつかんで私の顔をのぞきこんだ花菜に、私は心からホッとして頷いた。
 
 ――本当は不安でたまらなかった。
 どんな話があるのか。
 幸哉と私はどうなるのか。
 大学側が何を考えているのか。
 これからどうしたらいいのか。
 
 一人きりじゃ不安と罪悪感でいっぱいになって押し潰されてしまうに違いないから、皆がついてきてくれるのなら、こんなに心強いことはない。
 
「……ありがとう」
 俯きながら歩きだした私の頭を、貴子がポンと叩いた。
 その感触を温かく思いながら、やっぱり三人がいてくれるんなら、私はどんなことだって乗り越えていけると実感した。


 
「白川さん? ……ああ……中にどうぞ」
 学生課の窓口に行って名前を名乗ると、応対に出てくれた事務員さんに、中に入るよう促された。
 
「お友達も一緒でいいわよ」
 言われるままに、愛梨たちもそのまま私についてくる。
 
 案内された場所には、学生課課長の姿と、名前は知らないけれど明らかに他学部の教授らしい人物の姿があった。
 
 椅子に腰掛けるよう促されて、四人で並んで座る。
 みんなが私を挟んで、両側から守るような体勢をとってくれたことが、心強かった。
 
 課長は待ちかねていたかのように、早速、
「岩瀬幸哉君のことなんだが……」
 と話を切りだす。
 
(警察でしたような話を、ここでもしなくちゃいけないんだろうか……?)
 正直、もう忘れてしまいたいようなことを、思い出すのは辛かった。
 
 覚悟を決めるように、両手を拳にして膝の上で握りしめていた私は、
「大学を自主退学したよ」
 課長の言葉に、しばらく呆然とした。
 
「……退学……?」
 たっぷり数十秒は経ってから、ゆっくりと呟いた私に、課長は力強く頷く。
 
「そう。こちらから話をする前に、今朝、彼のほうから連絡があったんだ」
 
(幸哉!)
 驚いて目を瞠る私に、課長はもう一度頷いた。
 
(ひょっとして……昨日の騒ぎのせいで? ……私のせいで?)
 両手で口を覆った私に向かって、慌てて課長の隣の教授らしい人物が口を開く。
 
「いや……実を言うと彼はかなり以前から、そのつもりだった……昨年かなり単位を落として、卒業までに何年かかるかわからない。それぐらいならいっそ……って、私も以前から、相談を受けていた……」
 
 どうやらその人が、幸哉の在籍していた法学部の教授なんだということは、だいたい予想がついた。
「だから、君が気にするこことはないよ……」
 教授は私の気持ちを取り成すかのように、優しく言ってくれた。
 でも――。
 
「正直、残念じゃないって言ったら嘘になる。でも警察沙汰にまでなった以上……彼が望んでいた司法の道に進むのは難しいし……私も引き止めきれなかった……」
 少し残念そうに、白髪混じりの初老の教授は俯く。
 
「大学側としても、彼をこのままにしておくわけにもいかなかった……」
 隣に座る学生課課長も、苦渋の選択だったというふうだ。
「もちろん君のほうは、これからも今までどおり、大学に通っていいんだから……」
 励ますように笑いかけてもらっても、私はなんとも答えることができない。
 
 結局、昨日のことは幸哉一人が悪者になって、私はまるで被害者扱いだ。
 確かに事実だけ見れば、それが正しいのかもしれない。
 でも私の心情的には、幸哉と私のどっちが悪いのか――どちらとも言えない、曖昧なところが多すぎる。
 
(幸哉を最終的に追い詰めたのは、私かもしれない……)
 そう考えると、幸哉の退学は私にとって、諸手を上げて喜べるようなことではなかった。
 
 言葉も出ない私に代わって、貴子が課長たちに返事をしてくれる。
「そうですか。わざわざありがとうございました」
 
 慌てて私も、頭を下げた。
「教えていただいて、ありがとうございました」
 
 課長と教授は少し顔を見あわせてから頷いて、「じゃあ、これで」と、私たちがその部屋から退室することを促してくれた。


 
 学生課のあった管理棟から、講義が行なわれる講義棟へと向かいながら、私たちは無言だった。
 その沈黙を一番最初に破ったのは愛梨。
「本当に……退学したんだね……」
 
 私はなんだか体に力が入らなくて、まるで雲の上を歩いているような気分だった。
 ぶるぶると全身が震えだすのを感じる。
(幸哉!)
 
 彼が学んでいたのは法学部――。
『弁護士か検察官になりたいなんて……俺のガラじゃないかな……?』
 出会ったばかりの頃、照れたように笑った顔をふいに思い出した。
 
(幸哉には夢があった……やりたいことがあった。それを私が奪ってしまったことにはならないだろうか? 私のせいで幸哉の将来が……!)
 苦しい胸に手を当てて、今更どうしようもないことを考えていると、心のずっと深い所から自分でもよくわからない感情がこみ上げてきて、思わず涙が浮かびそうになる。 
 
 でもその時、
「真実、そんな顔しちゃダメだよ」
 すぐ傍から、貴子の凛とした声が聞こえた。
 
「あんたがそうだと、いつまでたっても岩瀬は立ち直れないよ。あんたのことを諦めきれないよ」
 今まで私が何度もくり返してきた過ちを、貴子はまるで全部知っているかのようだ。
 知ってて戒めてくれているようだ。
 
「思い出はもう忘れたほうがいいよ……真実には今、もっと大切な人がいるでしょう?」
 愛梨に囁かれて、私の胸はどうしようもなく痛んだ。
 
 ――いつも胸に抱えているのは海君への想い。
 目を閉じれば浮かんでくるのは海君の笑顔。
 
「……終わった恋はちゃんと手放さなきゃ……ね? 真実ちゃん……」
 言い含めるような、優しい花菜の声が心に染みた。
 
 そう。
 私はとっくに決心したはずだ。
 ――もう幸哉のことで後悔はしないと。
 
 私がいくら同情しても、幸哉は救われない。
 それどころかどんどんダメになっていってしまう。
 
 自分が幸せだから、『幸哉も』なんて……私が望めることじゃない。
 そんなまちがいを犯すと、また海君を傷つけることになる。
 
 迷いを断ち切るように頭を軽く振って、私は顔を上げた。
「うん。わかってる……もう後悔はしない……私はもう、うしろはふり返らない……!」
 
 強く心に刻むように毅然と宣言した私を、花菜がそっと抱きしめた。
 その花菜の腕ごと、愛梨が抱きしめる。
 貴子が頭にそっと手を載せてくれて、私は、文字どおり、みんなの優しさに包まれた。
 
(ありがとう……みんな!)
 すぐに一番大切なことを見失って、感情に流されてしまいそうになる私を、支え、導き、励してくれる仲間がいてくれる。
 ――そのことが、本当にありがたかった。


 
 放課後。
 校門のところで私を待つ海君の姿を見つけたら、こっそりと近づいて、顔色を確認せずにはいられなかった。
 
 門の影から気づかれないように盗み見て、
(朝より良くなってる! ……いつもと同じぐらいだ……!)
 そのことにホッと胸を撫で下ろす。
 
 その瞬間、全然気づいていないものと思っていた海君が、ふり向きざますっと真っ直ぐに私に目を向けた。
「そんなところで何してるの? 真実さん?」
 
 私は飛び上がるほどに驚いた。
「なんで? なんでわかったの?」
 
「わからないわけないじゃない」
 自信たっぷりの満面の笑顔で答えた海君は、いつもと同じだ。
 まちがいない。
 だから私は、今朝胸に沸いた疑問をふり払うかのように、首を左右に振った。
 
(よかった……!)
 何度でも何度でも、安堵のため息をく返さずにはいられない。
 それほど私にとって、海君はかけがえなく、何にも代え難い存在だった。
 
 歩み寄った私の頭に、彼は手を伸ばして、長い指で私の髪をさらさらと優しくと梳く。
「真実さん」
 甘い声で呼ばれて、とろけそうな気持ちで顔を見上げると、海君は笑いを含んだ瞳で、視線だけで私の背後を示した。
 
「えっ、何?」
 ふり返った私は、自分のすぐうしろに愛梨と貴子と花菜の姿を見た。
 
 慌てて飛び退くように海君の傍から離れる私の肩を、
「校門前で、イチャついたらダメだよー」
 からかうように笑った愛梨が、ポンと叩きながら通り過ぎる。
 
 チラッと海君の顔を見た花菜は、
「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」
 私が感じたのと同じことを感じたようで、小声で囁いてくれる。
 
 貴子は私には目もくれず、真っ直ぐ海君に歩み寄った。
「岩瀬は退学したぞ」
 
 前置きも詳しい説明もない貴子の短い言葉に、海君はペコリと頭を下げる。
 
 貴子は満足げに腕組みして頷いて、そのまま彼と私の横を足早に通り過ぎた。
「真実……門限は六時だからな」
 
 捨てゼリフのように、そう言って去っていった貴子に、私は慌てて叫び返す。
「な、何言ってるの!?」
 
「ハハハッ」
 海君がお腹を抱えて笑い出して、愛梨も花菜も笑う。
 
 私は懸命に、
「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」
 笑いながら遠くなる貴子の背中に叫び続けた。
 七月に入って、気温はうなぎ登りに上がり、毎日暑い日が続いていた。
 今年の最高気温は、毎日のように記録が塗り替えられている。
 
「さすがに暑いね……」
 口に出すとなおさら暑くなるような気がして、ずっと黙っていた本音がついつい出てしまった。
 
 隣を歩く海君は、
「帽子も被らないで歩いてるからだよ……」
 自分が被っていた赤いキャップを私の頭に被せる。
 
 帽子から少し香った海君の匂いが、まるで自分の全身を包んでしまったような気がして、私は大慌てで、胸の鼓動をごまかすように口を開いた。
「海君だって……! 帽子被って来たのなんてひさしぶりじゃない。初めて二人で海に行った時以来だよ」
 
 彼はちょっと笑って、
「そろそろ被っとかないと、俺の場合、暑さにやられて倒れるからね……」
 冗談とも本気ともつかないことを言う。
 
(またそんなこと言って!)
 笑いながら言い返そうとした言葉は、喉のあたりでつかえて止まってしまった。
 
 今朝の、調子の悪そうな様子の海君を思い出す。
 それから、いつだったか海君から病院の匂いがしたこと。
 怒って歩き去る私を、海君が追いかけてこなかった時の、演技とは思えなかった顔色の悪さ。
 そして、しばらく会えなかった間に偶然見かけた、海君に良く似た具合の悪そうな人。
 
 いろんなことが、フラッシュバックのように一気に私の脳裏に甦って、そしたらもう、笑顔を作ることさえできなくなってしまった。
(……海君?)
 
 突然湧いた疑惑に、私の全身が緊張する。
 体中から冷たい汗が噴き出してきそうに、おそろしく力が入っている。
 
(そんなはずない……そんなはずないじゃない……!)
 いくら否定しようとしても、私の心からその思いが消えてくれない。
 
 だから、彼に尋ねた。
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 きっと海君がいつものように私をからかっただけで、すぐにあの悪戯っぽい笑顔を見せてくれるんだ。
 
 きっと早とちりな私の、笑っちゃうようなかん違い。
 ――なかば祈るように、そう思っていた。
 
 だけど海君は、肯定も否定もせず、例の曖昧な笑いを浮かべて私の顔を見た。
 
 その瞬間、このことは私の中で大きな意味を持って、忘れられない不安になってしまった。
(海君がこういう笑い方をしたら……もうこれ以上は聞かないでくれってことだ……!)
 
 ドキリと胸が鳴る。
 自分に関して知られたくないことの時に、海君はこんな笑い方をする。
 
 ただ漠然と、何の根拠もない疑問のつもりだったのに、体調について海君に尋ねるのはタブーなんだと、その時、私の心には刻みこまれてしまった。


 
 一度気になり出したら、そのことばかりが気になって、どうしようもなくなってしまう。
 私は小さい頃からそんな子で、よくボーっとしては、周りに迷惑をかけた。
 
 何も考えていないわけではない。
 一つのことを考えて考えて、他のことには頭がまわらなくなるだけ。
 
 海君の体調に疑問を持ったあの日から、私はまさにその典型の状態に陥ってしまった。


 
「……真実……ちょっと聞いてる?」
 隣に座る愛梨に小声で囁かれて、講義中に慌てて我に返ったのは、もう何度目だろう。
 いつの間にか教授の話は、私の開いたページの三ページ先まで進んでいた。
 
「う、うん。大丈夫……」
 反射的にそうは返事したけれど、実際私がその時考えていたのは、やっぱり海君のことだった。
 
(今までも……ひょっとして、具合が悪かったのかな?)
 とてもそうは見えなかったけれど、私の人を見る目には我ながら自信がない。
 それに海君にしてみたら、単純な私の目をごまかすことなんて、ごくごく簡単かもしれない。
(……これが海君の秘密?)
 
 ひとりで考えていると不安ばかりが大きくなる。
 何も教えてもらえないから。
 尋ねる術を私は持たないから。
 
 ――嘘だ。
 本当はわかっている。
 
 私がハッキリと、「ねぇ海君……どこが悪いの?」と聞いてしまえば、海君はちゃんと本当の答えをくれるはずだ。
 彼は決して嘘はつかない。
 それがたとえ自分にとって不都合なことでも。
 ――でも、そうすることは怖い。
 
(この漠然とした不安は何……?)
 万に一つもそんなことはないと自分でも思っているのに、確かめることが怖い。
(だってもし……本当だったら? ……命に関わるようなたいへんな病気だったら?)
 ――嫌だ。
 そんなこと、信じたくない。
 海君にもしものことがあるかもしれないなんて、そんな事実、今の私にはとても受け入れられない。
 
(こんなに……こんなに大事なんだ……)
 改めて、自分の中での彼の存在の大きさに驚かされた。
(ほんの少しの不安も受け入れたくないほどなんだ……)
 私の中に芽生えた途方もなく大きな想いは、とっても不安定でぎこちなくて、そのくせ私の全てを占領してしまいそうに、熱く重かった。


 
 昼休み。
 カフェテリアでみんなでテーブルを囲んでいる間も、私は頬杖をついたままボーッとしていた。
 
 海君のことを、ああでもない、こうでもないと一人で考え過ぎて、すっかり疲れてしまった。
 そんな私を元気づけようとでも思ったのか、貴子が唐突に口を開く。
 
「恋は盲目だからな。あんがい一歩引いて見たほうが、気がつくことってのもあるもんだよ……」
 さも当然というように、したり顔で頷く貴子を、愛梨が呆れて見つめている。
 
「貴子……いったいいつ、そんな恋を経験したのよ……?」
 かなり重要な点をついたその質問に、花菜は懸命に笑いをこらえながら私の顔を盗み見た。
 あんまりそんな気分じゃなかった私も、思わず笑ってしまう。
 
「私の経験なわけないだろ。愛梨……お前はもっと本を読め」
 貴子はさも当然とばかりに、堂々と胸を張ってそう言い放った。
 愛梨は頭を抱えた。 
「そんなことだと思った! ……べつに本で調べなくっても、私は実体験からそのへんのところはよーくわかってます……!」
 
 もう我慢できなくなって、私と花菜はクスクスと笑いだした。
 
 貴子と愛梨は、興味のあること、向いている方向がまるで真逆だ。
 恋や遊びやおしゃれや流行や、楽しいことが大好きな愛梨と、着るものにも食べものにもまったく頓着せず、勉強一筋、将来の目標に向かってまっしぐらの貴子。
 
 その二人がこうして一緒にいることに、周りの人たちはよく首を傾げる。
 きっかけは愛梨と仲が良かった私と、貴子と仲が良かった花菜が仲良くなったこと。
 それでできた四人組。
 
 でもなかなか個性的で、それぞれがそれぞれを刺激しあって、いい関係を築いていると思っているのは私だけではないはず。
 毎日一緒にいても、ちっとも飽きるということがない。
 
「まあまあ……二人とも真実ちゃんが心配なのはきっと一緒なんだから……いっそのこと本人に、ここ二、三日いったいなんでため息ばっかり吐いているのか、聞いてみたら……?」
 ニコニコと笑いながら花菜が二人の仲裁をしてしまうのは、あまりにもいつもどおりだったけど、突然話の矛先を向けられて、私は正直あせった。
 
「え? ……私!?」
「そう」
 花菜の笑顔はますます輝いた。
 
 その笑顔と向き合うたびに、うらやましく思わずにはいられない。
 もし私が花菜みたいに気が利いていたら、海君の体調にだってもっと早く気づけていただろうし、今頃こんなに悩むこともなかったはずだ。
 
 日頃は心の中でだけくり返していたその思いを、ついつい口に出してしまった。
「私も、花菜みたいに大人で、よく気がつく人間なら良かった……」
 
「えっ?」
 一瞬目を見開いてから、花菜はまたニコニコといつも以上の笑顔になり、まるで海君みたいに、私の頭を抱き寄せた。
 
「そんなことないよ。ほんっと真実ちゃんにはかなわないって、私思うもん」
「…………?」
 それはいったいどんな時にだろう。
 私はぜひとも花菜に尋ねてみたかったのに、
「そうだな。真実は変化球なしの、一本勝負だからな」
 貴子が、わかりやすいんだか、まわりりくどいんだかよくわからない例えをして、
「大丈夫だよー。それが真実の良い所ところだって、少なくとも海君はちゃんとわかってるからー」
 愛梨が自信満々に言い切るから、すっかりタイミングを逃してしまう。
 
「それとも何? 真実ったら、海君以外にも好きな人がいるの?」
 愛梨に唐突にそう問いかけられて、私は慌ててぶんぶんと首を横に振った。
「いない! いるわけないよっ!」
 私のその反応に、三人はそれぞれにとてもおかしそうに笑いだした。
 
「真実はそのままでいいよ」
 笑いながらではあったけれど、貴子に自身満々にそう言われて、私はそんなものなのかと、半信半疑のまま頷いた。


 
「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を並んで、私のアパートまでの道を歩きながら、海君は唐突にそんなことを言った。
 
 ドキリと高鳴った胸をごまかすように、
「ベ、別にないよ」
 と私は笑ったけれど、その笑顔がうつろだってことは、自分でもわかってた。
 
 海君はクスリと笑いながら、
「本当に?」
 と私の顔をのぞきこむ。
 
 海君に隠しごとをするのは難しい。
 私は考えていることがすぐに顔に出てしまうし、海君は、こと私に関しては、超能力でもあるんじゃないかと思うくらい勘がいい。 
 
 でもこの間からずっと心に抱えている、彼の体調に関する疑問を、口に出す勇気はまだ私にはなかった。
 だから懸命に、海君の真っ直ぐな瞳から目を逸らす。
 
「本当に……なんにもないよ……」
 正直自分でも、
(もう少しごまかしようがあるでしょ。これじゃバレバレだよ)
 と思う。
 
 案の定、海君にはまったく通用しなかったらしい。
 
「何?」
 私の返事なんて無視で、軽く首を傾げてさらに聞いてくる。
 
「な、何が?」
 必死でがんばる私に、
「真実さんが俺に聞きたいこと……ううん、ひょっとしたら、言いたいことかな……?」
 余裕の笑顔でニッコリと畳みかける。
 
(うう……やっぱり海君にはかなわない……!)
 俯いた私はそれでもがんばった。
 
「べ、別に何もないよ……」
 海君が隣でクスリと笑った気配がした。
 と思ったら次の瞬間、繋いでいた手を引き寄せられて、あっという間に彼の腕の中に抱きしめられていた。
 
「え? ちょ……海君?」
 何も答えてはくれない笑顔が、真っ直ぐに私の顔に近づいてくる。
 
 鼻と鼻が触れてしまいそうなくらい近い距離で、海君はもう一度、
「何?」
 と私に問いかけた。
 
 ――もう。もう耐えられるはずがない。
 
 ついそのまま目を閉じてしまいそうになる自分を懸命に自制しながら、私は降参の声を上げた。
「わかった。言うから……ちゃんと海君に聞きたかったことを言うから……!」
 泣き出してしまいそうだった。
 
 海君は鮮やかに笑って、私を抱きしめていた腕を解く。
 その笑顔があまりにもおかしそうだったんで、半分からかわれていたんだということに、私はやっと気がつく。
 
(もうっ! さては、私を脅かして面白がってただけね!)
 けれど、時すでに遅し。
 開放されてフーッと息を吐く私を、海君は真っ直ぐに見つめて待っている。
 
 彼とした約束は必ず守ると、私はずっと以前に自分で決めた。
 だから何か言わなければと改めて彼の顔を見上げて、本当に困った。
 
(どうしよう……何を聞こう?)
 実は海君は、私が内心困っていることまで、お見とおしなのかもしれない。
 どんな質問が返ってくるのか、興味津々といった顔で、私の次の言葉を待っている。
 
(「海君、どこが悪いの?」ってだけは聞けない……絶対聞けない……答えを貰うのが怖いから……)
 その思いばかりが強くて、私は無心で口を開いた。
 
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 本当に本当の本当は、ずーっとずーーっと心のどこかに引っ掛かって、気になってどうしようもなかったことが、思わず口をついて出てしまった。
 
(な、何言ってるの! 私!)
 慌てて両手で口を塞いだ。
 動転して、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でもよくわかる。
 
 海君は予想もしなかった私の問いかけに、不意を突かれてポカンとしている。
 その顔を見ていたら、ますます恥ずかしくなってきた。
 
(なんでこんなこと言っちゃうんだろう! せいいっぱい気にしてないフリしてるのに! 年上らしくしようとしてるのにっ! これじゃ、海君の口から女の子の名前が出てきただけで、私動揺します、しまくりですって、言ってるようなものだよ!)
 もうこの場から逃げ出してしまおうとする私の腕を、海君はしっかりとつかんでいる。
 
 そうしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 考えこんでいた海君は、ようやくその答えに行き着いたらしい。
 ニヤリと嬉しそうに笑った。
 
 どうやらあの日のことを思い出したらしい。
 ――彼の携帯に電話がかかって来たあの日。
 
「ああー……あの時か!」
 納得したように何度も頷いてから、私の顔をのぞきこんだ。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
「し、してないよっ!」
 
 慌てて言い返したって、きっと言い訳にしか聞こえない。
 私が慌てれば慌てるほど、海君をますます笑わせることになるだけだ。
 
(でも、それにしたって……なんでそんなに嬉しそうに笑うのよ! こっちは恥ずかしくって、情けなくって、今すぐいなくなりたいくらいなのに!)
 
 すぐにでも駆けだしそうな私を知ってか知らずか、海君は掴んだ腕を離してくれない。
 とびきり上機嫌な笑顔で、瞳を艶やかに輝かせながら、私にゆっくりと顔を近づけてくる。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 
 悪戯っぽく笑いながら、そんなに近くから見つめられたら、もう急いで頷くしかない。
「信じる! 信じるから放して!」
 
 焦って叫んだ私に、海君はニッコリ笑って、そのまま軽くキスをした。
 
 目を瞑る間もない一瞬の出来事に、抗議の言葉も出なくて、呆然と立ち尽くす私の目の前で、ちょうどその時、海君の胸ポケットでタイミングよく問題の携帯が鳴りだす。
 
 反射的に海君の体を押しやって、私は彼から一歩離れるように飛びのいた。
 
 ふっと小さく笑った海君は、携帯に表示された名前だけ確認すると、あからさまにその電源を切った。
 
「えっ! 出ないの?」
 思わず叫ぶ私に、
 
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 と海君は飛びっきりの笑顔を見せる。
 だけど――
 
「しないわよ!」
 あまりのことに、私はゆっくりと彼の笑顔に見惚れている暇もなかった。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 涙が浮かんできそうな思いで、私は必死に叫んでいるのに、海君の笑顔は崩れないどころか、ますます嬉しそうになる。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 この上なく幸せそうな笑顔で、そんなドキドキするようなことを言ったって、私はときめいたりしない。
 ――なんてただの強がりだ。
 
 最高にドキドキする胸を抱えたまま、私はついに海君を置き去りにして、一人歩きだした。
 
「真実さん待って」
 あいかわらず笑いまじりの声だけが、私を追いかけてきた。
「ねえ真実さん。待ってよ」
 言葉だけで追いかけてくる海君を、私は今回ばかりは絶対にふり返らないと心に誓う。
 
(待たない! そんな……笑いながら呼んだって、絶対に待たない!)
 私は黙ったままさらに足を速める。
 
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
 いくら頼まれたって、海君が決して走って追いかけてはこないってわかってたって、そう簡単にはもう止まれない。
 これは私の意地だ。
 
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
 ふいに海君の声音が変わり、しかもその声が、立ち止まったように聞こえたけれど、
 
(そんな手には乗りません!)
 私はかまわず歩き続けた。
 
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
 
(見ません!)
 心の中で思いっきり意地悪に返事をして、そのまま歩き続ける。
 真っ直ぐに前を見たまま、わき目もふらずに歩き続ける。
 
 だけどしばらくするとだんだん不安になってきて、私の歩く速度は自然とどんどん落ちていく。
 あれっきり聞こえなくなってしまった海君の私を呼ぶ声に、本当はたまらなく不安が募る。
 
 だって私は知っている。
 懸命に気づかないフリを続けているけれど、海君の体調が常に万全の状態ではないことを、頭のどこかでもうわかってる。
 
 だからちょっとしたこと、ほんの些細なことにも、たまらなく不安になる。
 真っ青な顔をして、眉根をギュッと寄せていたあの日の海君の顔が、どうしようもなく頭をチラつく。
 
(まさか……! ひょっとして……?)
 不安に駆られて、もうどうしようもなくて、のろのろとなっていた足をついに止めた私は、いつの間にかすぐうしろに来ていた海君に、両肩をガシッと掴まれた。
 
(……よかった。具合が悪くなったわけじゃなかったんだ……)
 ホッとした瞬間、そのまま体をクルリと反対向きにされる。
 
「えっ? 何?」
 真正面から向きあうかたちになった海君は、笑い含みの視線だけで、私に道路脇の壁に貼られたポスターを示した。
 
 それまで彼の言葉を軽く聞き流していただけだった私は、その時になって初めて、彼が私に見せようとしてくれていたものに気がついた。
 
 壁に何枚も貼られたポスター。
 目に飛びこんできたのは深い深い藍色。
 
『海――私の心に残るふるさと』
 
 そこに書き連ねられていた文字に、思わず隣に立つ海君の顔を見上げた。
 
「これって真実さんとおんなじ思いなんじゃないの? ……ね、おもしろいでしょ?」
 目が眩みそうなくらいに鮮やかに笑った海君に、思わずつられて笑い返してしまった。
 
(だめだ……負けちゃう……)
 どんなに怒っていても、意地を張っていても、どうやら私は海君の笑顔には勝てないようだ。
 初めからわかっていたこと。
 これ以上はいくら意地を張ったって無意味なだけ。
 
 私はため息を吐いて、海君に一歩近づいた。
(みっともなくって……悔しくって……でも、もういいよ。どうでもいいや、そんなこと……)
 
 今、隣にいてくれるこの笑顔を、もっとしっかり見つめなきゃもったいない。
 海君と一緒にいられるこの時を、もっと大切にしないと、――私はきっと後悔する。
 
 どうして急にそんなふうに思うようになったのかと訊かれれば、それはもう、悪い予感に追われる本能だったとしか答えようがないけれど、私はその時確かにそう感じていた。
 そしてそれが自分にとって一番大切なことだと判断した。
 そんな決心をせずにはいられないくらい、海君の笑顔は眩しくて――どこか儚かった。


 
「これって写真展みたいだよ……?」
 ポスターを指でなぞるようにしながら、書かれている文字を読んで、海君は私をふり返る。
 
「真実さんは、海が好きでしょ?」
 
 私が『海』と名づけた彼に、改めてそんなことを尋ねられると、思わず言葉に詰まる。
 けれども、それは確かに本当のことだったので、私は黙ったまま頷いた。
 
「これ、一緒に見に行こうか?」
 にっこり笑って海君は私に提案する。
 私もちょうど、そうできたらいいな――なんて思っていたところだったので、もう一度こっくりと頷く。
 
「真実さんは、本当に海が好きだもんね?」
 からかうようなその口調にはさすがに反論しておかなくちゃと、口を開きかけたが、彼の顔を見上げたら、何も言えなくなった。
 
 海君はこの上なく優しい瞳で、私を見つめていた。
 なんだか切ない。
 
「どうしたの?」
 てっきり私から怒りの反撃が来るだろうと想定して、わざとからかい気味に話していたらしい海君は、少し意外な顔をする。
 
 その顔に微笑みかける。
 なんでもないという意味で笑う。
 でも私の心の均衡は、すでに大きく大きく傾きつつあった。


 
 海君と一緒に行ったその写真展は、表通りから少し入った裏路地の、あまり目立たないギャラリーでおこなわれていた。
 
 場所的にはとても狭く、他にお客の姿もない。
 ほんの気持ち程度の観覧料を支払って、私たちは手を繋いだまま、その藍色に囲まれた空間に入った。
 
 ごく普通の、海の写真だった。
 大きさ的にはかなり大きな作品になるのかもしれない。
 一枚一枚が壁一枚分くらいの大きさで、大迫力で迫ってくる。
 
 そこに写っているのは、南の島のため息が出るような青い海ではない。
 沢山の小さな漁船が浮かぶ海。
 どちらかと言えば暗い深いその色。
 すぐ近くに迫る、無数の対岸の島。
 
 それらに囲まれた小さな切れ切れの海には、生活の匂いがする。
 かもめの声と、蒸気船の汽笛の音。
 人々の声とそれを全て飲みこむ波の音。
 
 目を閉じればいつでも私の耳に残っている大切な故郷の音が、一気に甦って、私は息をするのもやっとだった。
(どうしよう……涙が出そうだ……!)
 
 繋いでいた手にも思わず力が入ってしまったけれど、海君はそんな私の手を、負けないくらいの強さで握り返してくれた。
 
「真実さんはどうして、俺を『海』って呼ぶことにしたの?」
 囁くように問いかけられて、仰ぎ見たその顔は、とても優しい顔だった。
 初めて会ったあの夜から、海君はずっとそんな表情で私を見つめてくれている。
 だから――。
 
「なんだか優しい気持ちになれたから……私がずっと帰りたいと思っていた、あの故郷の海と同じに……すごく懐かしくって、離れたくないような感じがしたから……ふふっ……会ったばっかりだったのにこれって変だね……」
 
 小さく笑った私の頭を、海君がそっと引き寄せた。
「ありがとう。すっごく嬉しい」
 
 声が震えてた。
 私もそっと、自分から海君の胸に頭を預ける。
「こっちこそありがとう……本当にいつもいつもありがとう……」
 
 涙声になった私の頭に、海君が大きな手を載せる。
 撫でるように、そっと優しく私の短い髪を梳く。
「真実さん……夏休みになったら故郷に帰りなよ」
 
 海君にはどうして、いつも私の考えていることがわかってしまうんだろう。
 それが恥ずかしい時も、悔しい時もたくさんある。
 でもそれ以上に、本当に泣きたいくらいに嬉しくなる瞬間がある。
 
 どうしようもなく救われる。
 心から安心する。
 こんなに自分をわかってくれる相手が隣にいてくれるなんて、まるで夢の中の話みたいだ。
 
(でも夢じゃない……)
 髪に触れる大好きな長い指に体じゅうの神経を集中させながら、私は自分に言い聞かせるように何度も確認する。
(夢なんかじゃない……だけど目を閉じてもう一度開いた時に、彼がまだここにいてくれる保証はどこにもない……)
 
 胸が苦しい。
 最初っからわかっていて、受け入れているつもりだったことが、今はもうこんなに胸に痛い。
 
 いなくなってしまうのかもしれない。
 海君は、本当にもうすぐ私の傍からいなくなってしまうのかもしれない。
 この恋は幻みたいな恋だったんだと、私はその時、改めて思い知るのかもしれない。
 
(辛いよ……悲しいよ……でもこの瞬間、海君が隣にいてくれることが、それが私の今の幸せの全てだから……!)
 まだ分からない先のことを憂えて、落ちこんでいく気持ちを私はふり切った。
 
「うん、そうする。ひさしぶりに家に帰ってみる……」
 笑顔で頷いた私に、海君も笑顔になった。
 
「またこっちに帰ってくる時には、俺が迎えに行くよ。どこまでだって……真実さんのお迎えが俺の仕事だからね」
「うん」
 嬉しくて幸せで、そしてちょっぴりおかしくって、私は笑った。
 
「真実さんが大好きなその『海』を、俺も見に行くから……」
「うん」
 私もあの風景を海君に見せたいと思った。
 私の大好きな景色を、匂いを、音を、一緒に感じてほしいと思った。
 
 そうしたら聞けるかもしれない。
 私が疑問に思って、不安に思っていること全部、あの場所でなら海君に尋ねることができるかもしれない。
 
 それでたとえどんな答えが返ってきたとしても、それを受け止めることができるかもしれない。
 
 そう思うと少しだけ安心して、肩の力が抜けたような気がした。
 ずいぶんひさしぶりに、考えごとをせずに、今日は眠りにつける気がした。
 
 ホッとため息を吐く私を、海君が優しく見下ろしている。
 誰よりも何よりも愛しい瞳で笑っている。
 だから私はそっと背伸びして、その頬にキスする。
 
「真実さん?」
 驚いて私を見つめ返した海君を、本当の意味で初めて驚かすことができたと、なんだか嬉しくなった。
 


 あなたのことを想う時、自然と浮かんでくるのが私の本当の笑顔。
 作りものなんかじゃない本物の笑顔。
 
 あなたと出会うまでは知らなかった。
 あなたがいないと思い出せない。
 
 だからどうかもっと傍にいて。
 くり返しくり返し私に思い出させて。
 
 できることなら永遠に――。
 どうか私の傍にいて。
 
 お願い――。
 ひさしぶりに故郷へ帰ろうと決めた夏休みの前には、大学の前期試験が待ちかまえていた。
 出席日数が足りなくて今年はもう無理と諦めた講義は別として、せめて愛梨たちが出席にしてくれていた講義ぐらいは、単位を落とさないようにがんばらなければ――。
 でないと、ひさしぶりすぎてただでさえ敷居の高い実家に、帰ることなんてとてもできそうにない。
 
(海君とあの海に行くためにも……とりあえず今は、試験勉強をがんばる!)
 試験も間近に迫る頃になって、私はようやく学生らしい気分で意気ごんだ。


 
 私の部屋の小さなテーブルの上には乗りきらないぐらいの、テキストやプリントやルーズリーフの山。
 それらに埋もれるようにして、必死に頭を捻っている私を横目に、貴子は優雅にコーヒーを飲んでいる。
 
「……それで? 試験中は会わないでおこうとでも決めたのか?」
 突然、なんの前置きもなくそう問いかけてくるから、私は内心ドキリとする。
 
「うん。まあ……そんなところ」
 プリントの山の下から消しゴムを探すことに集中しているフリをしながら、なんでもないように返事する。
 
『ゴメン、真実さん……俺、またしばらく会いに来れないや……』
 ある日の帰り道、少し寂しそうに笑って、海君は私に向かって手をあわせた。
 
(どこに行くの? 病院?)
 まさかそんなふうには聞けなくて、言えない言葉を飲みこんで、 
『うん、いいよ。私だって試験勉強しないといけないんだし……ちょうどいいよ』
 と私は笑った。
 
 せいいっぱいの努力。
 多少無理があるのは自分でも承知の上。
 きっと海君だってそう思ったに違いない。
 
 それでもがんばって、なんとか気持ちを切り替えようと努力しているのに、貴子はわざと大袈裟にため息を吐いてみせる。
 
「なんだそれは……成績が下がんないように、試験中は我慢って……中学生かあいつは……?」
 あまりにも意地悪な言い草に、私は思わずムッとした。
 
 その瞬間、私のベッドにゴロリと横になっていた愛梨が、援護の声を出してくれる。
「別にいいじゃない……実際、そのほうが試験に集中はできるんだし……」
 
 貴子は白けたように横目で愛梨を見たものの、もう一度私を見て、意味深に瞳を輝かせた。
「まあ、いいさ。……そのほうが私が真実を独占できるわけだし……なんなら、代わりに一緒に寝ようか?」
 
 怪しげな微笑を浮かべてじっとこっちを見つめるもんだから、私はせっかく見つけた消しゴムを、貴子に向かって投げつけなければならなくなる。
「ばかっ!」
 
 ひょいと、私のささやかな攻撃を避けながら、
「えっ? ひょっとしてまだだった?」
 貴子はニヤリと笑った。
 
「貴子!」
 私はせいいっぱいの非難を声にこめて叫んで、今度は何を投げつけてやろうかと、手近にあるものをキョロキョロと確認する。
 
「ハハハハッ。冗談だよ。冗談。いいから、もう何も投げんな……勉強する道具がなくなる」
 お腹に両手を当てて、たまらないとでも言いたげに上半身を折り曲げて笑う貴子を見ていると、海君を思い出した。
 
(もうっ! すぐに私で遊ぶんだから!)
 
 ベッドの上の愛梨が、今更レポート作成のために読んでいる本をパタリと閉じて、もう一度口を挟んでくる。
「貴子……あんたさ……最近『真実が好き』っていう冗談が、洒落にならなくなってきてるんだけど……?」
 
 貴子はサラサラの長い髪をかきあげて、尚更大きく破顔した。
「そうか?」
 その艶っぽい表情と仕草でさえ、なぜだか海君と重なる。

「別に、洒落でもなんでもないからな……」
 呟く貴子の言葉はあえて聞こえないフリをして、私は、机にきちんと座って書きものをしている花菜に、救いを求める視線を投げた。
 
 花菜は、承知したとばかりにニッコリ笑った。
「真実ちゃんにとっては、たとえ誰だって、海君の代わりにはなれないわ。残念だったわね……貴ちゃん!」
 
 あまりにもストレートで、実にわかりやすい見解。
 毒気を抜かれたように、貴子は押し黙り、愛梨もクスクス笑いながら自分のやるべき作業へと戻った。
 
 しかし、そうなることを望んで花菜に意見を求めたはずの私自身まで、真っ赤にならずにはいられないセリフ。
 
(それは確かにそうなんだけど……そんなに海君を好きなことが、周りにもバレバレなのかな私……?)
 上目遣いに見上げた花菜の顔は、私たちの中では一番童顔で一番あどけないのに、今日も満々の自信にあふれていた。
 
「そうよ。絶対にそうなのよ!」
 とでも言いたげな実に頼りになる笑顔には、もう腹をくくるしかなかった。
 
(はい。確かにそのとおりです……私は海君が大好きです。誰も代わりになんてなれません……!)
 
 この上なく恥ずかしいその言葉は、まちがいなく私の本心を言い当てていた。


 
 前期試験の期間中も、私たちは毎日四人で集まって、試験勉強に励んでいる。
 取っている講義はそれぞれ違うし、試験の方法も内容もさまざまなので、みんなで集まって勉強することにあまり意味はないのだが、それでも一緒にいることは楽しかったし嬉しかった。
 
 一年生の頃は、よくこんなふうに四人で勉強した。
 くだらないおしゃべりに時間を費やしてばかりだったけれど、それが何より楽しかった。
 なのにいつの間にか四人バラバラになって、一緒に勉強なんてとてもできなくなって。
 それなのに二年経った今、またこうして集まっている。
 
 こんな日がもう一度訪れるなんて、少し前までは思いもしなかった。
(ほんとに、夢みたいだよ……)
 
 現実であることを確認するように、私が一人一人の顔をそっと見渡していると、
「ちゃんと勉強しろ」
 というふうに、部屋の向こうから貴子が真っ直ぐに私を見つめてくる。
 
 その隙のない視線に、また海君を思い出す。
 私は慌てて、テーブルの上に視線を戻した。
 
「でも正直……腹が立つんだよね……そうは思わない真実?」
 休憩という名の息抜きを、本日何度目か声高らかに宣言した愛梨は、ベッドに転がった体勢のまま、隣に座っている私の顔を見上げた。
 
「こっちはこんなにがんばって勉強してるのに……貴子ってば、遊んでるだけなんだもん……!」
 愛梨はひどく不満そうな視線を、貴子に向ける。
 
 俯いて何かに目を通していた貴子は、そんな愛梨に向かって敢然と顔を上げた。
「何を言っている! 私だってじゅうぶん忙しいんだ。どうせしばらくは誰も料理なんてする余裕ないだろうから……どこで夕食を調達してこようかを、今悩んでいる真っ最中だ!」
 
 愛梨に向かって、郵便受けに入っていたお弁当屋さんのチラシを突きつけた貴子に、
 「あんたが作ればいいんでしょう!」
 愛梨は掴みかからんばかりの勢いで叫んだ。
 だがしかし――。
 
「本当にそれでいいのか?」
 表情も変えずにそうと言い放たれると、言葉に詰まってしまうらしい。
 
「うっ……!」
 苦境に立たされた愛梨に、花菜が追い討ちをかけた。
「そうよね。せっかく勉強してもおなかを壊して大学に行けなかったら、なんにもならないものね」
 
(輝くような笑顔で、なんて凄いことを言うの!)
 私は思わず愛梨と顔を見あわせたのに、当の貴子はまったく気にしていないようだった。
 
「そうだ! 私の作ったものを食べるなんて……そんなの私が一番嫌だ!」
 大威張りで言い切ってしまう。
 
 愛梨は深くて大きなため息を吐いてから、再び本を取り上げてページを開いた。
「これじゃあ無駄に時間を浪費するだけだから、私、試験勉強再開するわ……」
「そうしろ。そうしろ」
 腕組みしながらもっともらしく頷く貴子を見て、私と花菜は顔を見あわせて笑った。

 
 
 貴子は私たちの学部の中でも一・二を争う成績の良さだ。
 
『試験なんて、普段の講義をある程度聞いていれば特別に勉強する必要もない』
 なんて聞く人が聞いたら本気で頭にきそうなことも、真顔で言ってくれる。
 
 私は貴子の毒舌には慣れているし、それが事実だということもじゅうぶんわかっている。
 でも自分自身にはやっぱり貴子みたいな余裕はないわけで、非難の声を向けたくなる愛梨の気持ちも良くわかる。
 
「ねえ……貴子は本当に何もしなくていいの?」
 思わず確認してしまうと、
「する必要はないな。レポートは全部提出したし、ノートはその都度まとめておいた。今更復習するような事柄も、別にない」
 貴子は顔色ひとつ変えず、何杯目かのコーヒーをすすりながら、そう答えてくれた。
 
「う、うらやましい……」
 呟かずにはいられなかった。
 
 いくら貴子だって、受けている講義の数は私とそう変わらないのだ。
 ただ飲みこみが早いということ。
 能力が高いということ。
 要領がいいということ。
 その違いが大きな差を生む事実を、貴子の傍にいるとしみじみと実感させられる。
 
「貴子だったら、将来はなんにだってなれるんだろうな……」
 テーブルに頬杖をつきながらボンヤリと呟いた瞬間、貴子の鋭い目がキラッと光った。
「真実はひょっとして……何かなりたいものがあるのか?」
 改めて尋ねられるとなんだか恥ずかしくなる。
 
「どうしてもこれになりたい!」
 という強い意志なんかではないけれど、
「こうなれたらいいのにな」
 と思っている職業だったら、私には小さな頃からずっと思い描いている夢がある。
 
「うん」
 少し照れ臭くて俯く。
 
 すかさず貴子が茶々を入れた。
「『お嫁さん』……ってのが答えだったら、あいつよりは私のほうが早く叶えてあげられるからな……?」
 
 真剣な眼差しに、私は大急ぎで手近にあった辞書を持ち上げて、投げつけるポーズをした。
「だから! ……そんなこと別に考えてません!」
 
 必死に叫ぶ私を見て、再びハハハハッと声を上げて笑い出した貴子の顔に、悔しいけれどまた海君の面影が重なった。


 
『真実ちゃんは大きくなったらなんになりたいのかな?』
 
 そういった質問にだったら、まるでそれしか答えを知らないかのように、小さな頃からくり返し何度も返してきた答えがある。
 
 他の人が聞いたら、たいしたことない夢なのかもしれない。
 けれど私にとっては大切な夢。
 それを叶えるためだけに、故郷を出て一人暮らしを始めた。
 
『短大ぐらいでいいんじゃない?』
 そうくり返す高校の担任や両親を説得して、大学も受験した。
 
(一度はもう諦めるしかないと思った……もう叶えられるわけないと思った……でも私はまたここにいる。みんなと一緒に笑ってる。だから努力次第では……叶うかもしれない……!)
 
 そう思えることがどんなに幸せなことか、決して忘れてはいけないと、私はもう知っている。
 
「真実ちゃんは司書になりたいんだよね」
 私が口を開くより先に、ニッコリと答えてしまった花菜の声に、貴子の切れ長の鋭い目が、驚いたように見開かれた。
 
「そうなのか?」 
「あんた、知らなかったの?」
 呆れたように聞き返す愛梨に、貴子は真顔で頷く。
 
「初耳だ」
 私も、てっきり貴子は知っているものだとばかり思っていたので、かなりビックリした。
 
「だって……最初の新歓コンパの時からずっとそう言ってたじゃない?」
 コロコロと笑う花菜に、貴子もうっすらと笑みを返す。
 
「ああ。そんなもの行ってないからな」
 そう言われればそうだと、私はハッとした。
 
 貴子は他人とのつきあいに、時間もお金もかけない主義だ。
 みんなと仲良くなるためだけに、わざわざお金を出して飲み食いするコンパなんて、常々
「まったく意味がわからない」
 と一刀両断にしていた。
 
『コンパ』と聞けば、たとえどんな用事があったって、いくつ同じ日に重なったって、顔を出さずにはいられない愛梨とは実に対照的で、二人が
「よく仲良くなったわね?」
 と不思議がられる所以の一つである。
 
 その愛梨は、世話好きで子供好きな自分の特性をよく理解していて、
「私がならなきゃ誰がなるの?」
 と、『幼稚園教諭』になることを、とうの昔に決めている。
 
 しっかり者の花菜はと言えば、
「うーん。安定と将来のことを考えれば……やっぱり公務員かな……?」
 と、ここでもいかにも彼女らしい進路選択を披露してくれた。
 
(あれ? ……でもそういえば……貴子は自分の将来をどんなふうに考えてるんだったっけ?)
 
 私がその疑問にたどり着いたと同時に、愛梨と花菜もこちらを見た。
 どうやら二人の思いも同じだったらしい。
 
 私たちの疑問を的確に察知したらしい貴子が、腕組みをしながらおもむろに口を開く。
「私は大学に残るんだよ。教育方面からだけじゃなく、もっと心理学を学びたいって思ってるし、まだまだ調べたいことも、知りたいことも山ほどある。下手すりゃ、一生研究だ。まっ、そうすると図書館とは切っても切れない縁だから……真実とはずーっと一緒ってことで……」
 
 なんでそこで私が出てくるのかはよくわからないが、とりあえず私たち四人は、それぞれこれから先やりたいことが決まっているのだということは確認できた。
 
 目標がある人間は強いし、たくましい。
 たとえこの先、道は別れていくとわかっていても、それまでの間は一緒にがんばることができる。 
 
 みんなに会えて良かったと心から思った。
 この街に来て、本当に良かったと思った。
 
(それはやっぱり……彼にも出会うことができたから……!)
 
 結局、どんなに他のことを考えようとしても、私の思考は海君へと繋がっていく。
 何をしてても、誰といても、最終的には彼のことを思う自分をまざまざと自覚せずにはいられない。
 
(これってかなりまずい状況……だよね?)
 そんなことは自分でもわかっていた。
 
 だけど、カーテンの隙間から見える月が珍しく輝いていて、そんな風景でさえも、
(海君、知ってるかな? 教えてあげたいな……)
 と思わずにはいられない。
 
 これは果たして、純粋な愛情なんだろうか。
 それとも最早、私があんなに憎み恐れていた、歪んだ執着に近いのだろうか。
 
 どちらにしても、
「会えない時にこそ、どれだけ相手のことが好きだか思い知らされる」
 ってことを、身を持って証明できるような、私の毎日だった。
「いいかげん腹が減ったから……何か買いに行くか……」
 独り言のように呟きながらしぶしぶと重い腰を上げた貴子を、私も愛梨も花菜も、
「いってらっしゃーい」
「私たちにも何か買ってきてねー」
「気をつけて」
 それぞれの課題から顔も上げずに、声だけで送り出す。
 
 ようやく試験も半分以上の日程が過ぎ、私たち四人の期間限定の共同生活も、もうすぐ終わりを告げようとしていた。
 
 私の試験の手ごたえは、バッチリだったり。
 心もとなかったり。
 さまざまではあったけど、一つ終わるごとに、
(これで海君と会える日がまた近づいた……!)
 と、それだけを楽しみに、とにかくがんばった。
 
 なんという不純な動機。
 それでもやる気が出たんだから、これでいいんじゃないだろうか。
 今までただなんとなく受けてきた試験よりも、内容だってずっと頭に残っている。
 
(だから……いいんだもん!)
 言い訳するかのように考えていた時、てっきりもう買い物に出かけたとばかり思っていた貴子が、突然私の前に歩いてきた。
 
「やっぱり真実が行ってこい」
 ぬっと差し出された財布に、思わず目が点になる。 
「えっ?」
 いったいどういうことだろうと、目の前に立つ貴子の顔を見上げた。
 
 これまで買いものはずっと、
「私は試験勉強する必要がない」
 と宣言している貴子が、引き受けてくれていた。
 口は悪いけれど、本当は優しくて頼りになる貴子が、めずらしく不満も言わず、毎日私たちのために食料調達に出かけてくれていたのだ。
 
 そのことを、
(貴子にばっかり迷惑かけて悪いな)
 と申し訳なく思っていたのは、きっと私ばかりではないだろう。
 でもまさかこんなふうに、ふいに自分にふられるとは思ってもいなかった。
 
「……私?」
 問いかけながら立ち上がると、貴子は大真面目な顔でうんうんと頷く。
「そう、真実。私は今日はもう出かけたくない。でもお腹は減ったから、真実が行ってこい」
 額面どおりに言葉だけを聞くと、ずいぶんと身勝手な内容だが、これまでがこれまでだったから、不思議と腹は立たなかった。
 
「う、うん。わかった」 
(明日のテストに持ちこむノートは一応まとめ終わったし……今ならまあ大丈夫かな?)
 
 私が貴子に差し出された財布を受け取った瞬間、愛梨がさっと手を上げた。
「それじゃあ、私も気分転換について行きまーす」
 
 貴子は足音もさせずにスススッと愛梨の前に移動して、すかさず頭上から無情な声をかけた。
「愛梨はダメだ。明日のテストはほとんど持ちこみ不可だろ。明日までに丸暗記しないといけないノートが、まだこんなに残ってる」
 他ならぬノートの提供主に、分厚いノートの束片手にズバリと痛いところを指摘されて、愛梨は「うっ!」とうめきながらテーブルの上に突っ伏した。
 
「いいよ。いいよ。私が一人で行ってくるから……」
 急いでドアに向かって歩きだすと、
「ゴメンね、真実ちゃん」
 花菜もすまなそうに声をかけてくる。
 
「うん、大丈夫。行ってくるね」
 ニッコリ笑ってふり返ると、貴子が少し離れた場所から私をじっと見ていた。
 何かを含んだような意味深な視線にどこか違和感を覚えたけれど、私は細かいことは気にせずに、そのままアパートの部屋を出た。
 
「気をつけろよ」
 背後からかけられた貴子のぶっきらぼうな声が、私を見送ってくれた。


 
 特に上着なんか着なくても、じゅうぶんに暖かい真夜中。
 夏の夜は、気が向いた時にフラッと出かけることもなんだか簡単だ。
 
 今夜の月も眩しいくらいに綺麗。
 けれどその月の光のせいなのか、それとも何時までも消えることを知らない街の灯りのせいなのか、降るように見えるはずの星は、夜空のどこにも見えない。
 
 目を閉じると瞼の裏に浮かんでくるのは、百八十度に広がる夜空を全て埋め尽くすように輝いていた無数の星々。
 ――故郷の星空。
 
(故郷に帰ったら、またあの星空を見上げよう……そしてきっと、海君にも見せてあげよう……!)
 また自然と彼のことを思った。
 
 心地良い夜風を頬に感じながら、夜空へと向けていた視線を何気なく地上へと戻したその時、
 ――道の向こうに信じられない光景を見た。
 
 目を閉じていったい何を思っているんだろう。
 壁に寄りかかるようにして立っている人影。
 
(どうして……!)
 
 心臓が跳ね上がる。
 驚きと同時に、またどうしようもない心配で胸が痛くなる。
 
 もともと白い頬が、また少し白くなったように見えた。
 でも私に気がついて、ちょっと驚いたように笑った顔は、やっぱり屈託がなくって、眩しい太陽のようで、いつも変わらない。
 ――私の大好きなあの笑顔だ。
 
「海君!」
 疑問も驚きも、難しいことは何もかも投げ捨てて、私は彼に駆け寄った。
 ひさしぶりに会う大好きな人に駆け寄った。
 
「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」
 年下のくせに余裕たっぷりで、いつも私をからかってばかりの海君は、そんなことを言って悪戯っ子のように笑う。
 言葉のわりには、私を見つめる目が、優しい、切ない色をしていると思ってもいいだろうか。
 
「そ、そんなこと……」
 と、かすかな抵抗を試みようとしても、
「あるでしょ?」
 と真顔のままやりこめられることは、もう嫌というほどわかっている。
 
 だからもう、そんなことはどうでもいい。
 それよりも、――夢にまで見そうに会いたかった人が本当に会いに来てくれた――それだけでいい。
 
「うん、会いたかった」
 私が素直に自分の気持ちを認めたなら、
「俺もだよ」
 海君だってきっと、私の欲しい言葉を聞かせてくれるのだから。
 
(いつだって「自分が」じゃなくって、「真実さんが」なんだから……!でもそれでもいい……会えただけでいい……)
 胸が張り裂けそうな思いで、そう結論づけ、私はいつになく彼の首に自分から腕をまわした。
 
「……真実さん?」
 ちょっと驚いたように。
 でも次の瞬間にはしっかりと私を抱き返してくれる腕が愛しい。
 
(「ずっと、ずっと会いたかった」って本当の気持ちを言ったら……やっぱり、「俺もだよ」って言ってくれるのかな?)
 その返事を聞くためになら、会えない間私がどれぐらい海君のことを思っていたのか、隠しごとなんてなんにも残らないぐらい、全て教えてしまってもいいと思った。
 
「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」
 しっかりと私を抱きしめて髪に顔を埋めていた海君が、しばらくたったら囁くように私の耳元でそう告げた。
 笑いをこらえたような、私をからかう時のような、独特の声。
 いぶかしげにその顔を見上げてみると、視線だけで、うしろを見てみろと示してくれる。
 
(やっと会えて本当にすっごく嬉しかったから……もう恥ずかしいなんて飛び越えちゃって……私だってずっとこのままでもいいかななんて思ってたのに……いったい何?)
 ちょっとムッとしながらふり返って見てみると、私の部屋の道路に面した小さな窓に、三つの顔が並んでいた。
(愛梨! 貴子! 花菜!)
 
 慌てて海君の首にまわしていた腕を下ろす。
 笑いをかみ殺しながらわざと私を放そうとしない海君の体も懸命に押しのけて、私は敢然と三人に向き直った。
 
「ど、ど、どうしてっ……!?」
 驚きと恥ずかしさのあまり、上手く言葉も出てこない。
 
 そんな私に向かって、貴子はニヤリと笑う。
「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」
 
 愛梨は笑顔でぶんぶんと両手を振る。
「海君! 真実はまだ一応試験中だから……! そこのところよろしくねー」
 海君はその言葉に、律儀にもちょっと頭を下げてみせる。
 
「真実ちゃん……よかったね……!」
 花菜だけはまともなことを言ってるようにも聞こえるが、しょせんやってることは愛梨と貴子と一緒なのだ。
 
「な……何を……? なんで……?」
 私はと言えば、どうしても言葉が上手く出てこない。
 真っ赤になって口をパクパク動かすしかない私と、その隣に立つ海君の顔を見比べながら、愛梨はニッコリ笑った。
「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」
 
(愛梨……)
 こんな状況下でも、その言葉だけはなんだか心にしみた。
 
「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」
 花菜も小首を傾げてニッコリと笑う。
 
(花菜……)
 
「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」
 意地悪く笑った貴子に、海君はふわりと笑った。
 
「はい。肝に銘じます」
 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げる。
 
「ちょっと、貴子!」
 非難の声だけは、無理やりしぼり出そうとしなくても、スラスラと口から出てくるから不思議だ。
 
 ハハハハッと大きな声で笑った貴子は、窓の向こうに消えた。
 愛梨も花菜もそれに続いて、私の部屋の小さな窓には、もう誰の影も映らなくなる。
 それでも私は、すぐには動きだすことができなかった。
 
(そっか……貴子は海君がいることに気がついたから、わざわざ私に買いものを頼んだんだ……!)
 そこまでは、簡単に想像がついた。
 私をビックリさせようと思って、それを敢えて教えてくれなかったことも。
 それだけだったら、貴子の友情に感謝してもいいくらいなのに――。
 
(でもどうして、三人並んで窓からのぞいてるのよっ!)
 もし私が逆の立場だったなら、迷わずにそうしたであろうことは、この際置いておく。
 
(そりゃあ……私がわき目もふらずに海君に飛びついたのがいけないんだけど……)
 そんなことはわかってる。
 だけど嬉しかったんだから仕方がない。
 夢じゃないだろうかって、泣きそうになるくらい――本当に嬉しかったんだから。
 
 でも、今、少し冷静になってきたら、さすがにさっき自分が取った行動が、ちょっと恥ずかしくなってきた。
 しかも変なふうに邪魔が入ったものだから、今さらさっきみたいな体勢にもう一度戻ることは、とてもできそうにはない。
 まだ体に残ってる私を抱きしめる海君の腕の感触が、少し寂しくて切なかった。
 
「じゃあとりあえず……貴子さんのご注文の品でも買いに行こっか?」
 迷うことなく私の右手を取った海君の左手は、ひんやりと冷たかった。
 
「……海君?」
 思わず呼びかけてしまってからハッとした。
 
(具合が悪いんじゃない? 体調が良くないんじゃないの?)
 そんなことはとても聞けないから、もう一つ心に浮かんだ疑問を、すぐさま問いかける。
 
「いつからあそこで待ってたの?」
 海君はちょっと困ったように、小さく首をすくめた。
 
「うーん……いつからかなあ……?」
 その返事に、妙に胸がザワザワした。
 
「もしかして……ずっと待ってたの?」
 肯定も否定もしない海君は、顔は前に向けたまま視線だけ私に投げて、うっとりしそうなほど艶やかに笑った。
 
(……やっぱりそうなんだ!)
 胸がぎゅっと痛んで、私は俯くことしかできなかった。
 
「ゴメンね……ありがとう」
 そんな私を見て、海君は実に満足そうに笑う。
 
 からかうように、そしてちょっと照れたように小さな声で、
「真実さんが寂しがってるような気がしたからさ……」
 もう一度さっきと同じセリフを、彼はくり返した。
 
「そんなに長い時間待ってたわけじゃないよ……真実さんが俺がいなくても楽しくやってるんなら、それはそれでいいからさ……」
 
 夜の町を手を繋いで歩きながら、海君はポツリポツリと話をしてくれる。
 
 こんなに暖かい夜に、こんなに冷たい彼の指先が気になる。
 月明かりの中、あまり顔色が良くないように見える横顔も、心配で胸が苦しくなる。
 
 だけどそれでも来てくれた。
「しばらく来れない」って言ってたのに来てくれた。
 これ以上の嬉しいことなんてあるだろうか。
 
 あんまり考えてると泣きだしてしまいそうだったので、私は顔を上げた。
 いつもの笑顔が私を見下ろしていた。
 だけど――。
 
「俺がいなくても真実さんが元気なら……本当はそれが一番いいからさ……」
 冗談っぽくそう言って笑った海君の瞳は、微笑む口元とは裏腹に決して笑ってなどいなかった。
 この上なく悲しそうな色をしていた。
 
 ドキリと胸が鳴って、繋いでいた手にも思わず力が入ってしまう。
(……海君?)
 
 それはいったいどういう意味だろう。
 言葉どおり、私が寂しがってないならそれでいいという意味だろうか。
 それとも、本当は自分なんかいないほうがいいという意味だろうか。
 それとも――。
 
 考えれば考えるだけ、胸が締めつけられるように痛くなってきて、
「海君……どうしたの?」
 聞かずにいられなかった。
 
 私を見つめる瞳はいつものように優しかったけど、でも確かに今までとは違う何かの色を帯びているような気がした。
 だから――。
 
「何かあったの?」
 尋ねずにはいられない。
 
「うん? 別に何もないよ……?」
 まるでずっと前から用意してあったような口先だけの返事は、とても彼の本心とは思えない。
 
 でも、
(本当は何かあったんでしょ?)
 と重ねて尋ねることは、私にはできなかった。
 私にはそんな権利がない。
 その事実が改めて心に刺さる。
 
(問いただせたらいいのに……!)
 そう思わずにはいられなかった。


 
 私が苦しい時、彼がいつも心を救ってくれるように。
 困った時、彼がいつも助けてくれるように。
 私も彼を救うことができたならどんなにいいだろう。
 
 私で役に立つことがあるのならば、どんなことでもやる。
 喜んでやるのに。
 
 悔しいけど私は、彼のために何かができるような、――そんな存在じゃない。
 
 だから溢れ出しそうになった想いは、胸の奥に無理やり封じこめた。


 
 そっと見上げると、月明かり中、海君がまるで今にも消えてしまいそうに悲しい瞳で私のことを見つめていた。
 さっきの彼の言葉と相まって、その姿はまるで幻のよう――今にも私の前からいなくなってしまいそうだった。
 
 そう思うと、胸が苦しくてたまらなくて、思わずその頬にそっと手を伸ばす。
 
「急にいなくなったりしないよね?」
 心に浮かんだ不安をそのまま口に出してしまった私に、海君は目を奪われそうなくらい艶やかに笑った。
 
「そんなことはしないよ」
 私を腕の中にぎゅっと抱き寄せて、
「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」
 耳元で小さく囁いた。
 
 思いがけない言葉に、私の心臓は、確かに一瞬止まった。
 
 大慌てで見上げた海君の顔は、いつもの悪戯っぽい笑顔だった。
 大きな月を背に、ニッコリ笑って私を見下ろしている。
 
 はりつめていた緊張の糸が、私の中でプツンと切れる。
 全身から力が抜けて、今にも崩れ落ちてしまいそうになる。
 ドキドキともの凄い勢いで、今さらのように心臓が脈打ち始めた。
 
(いつもみたいに……私をからかったんだよね?)
 少しだけ唇をかみ締めた。
 
 こんなことぐらいで緊張に全身が震えるくらい、私は彼を想っている。
 もう会えなくなるなんて想像もしたくないと、私の体中が叫んでる。
 
(それなのに、こんな意地悪を言うなんて……!)
 いつものように、「海君!」と怒る気になれないどころか、悔しくて悲しくて、私は涙が浮かんできそうだった。
 
 黙ったまま俯いた私を、海君が慌てて抱きしめる。
「ゴメン、真美さん」
 
 涙が溢れ出す。
 そんな顔は絶対に見せたくなんかないから、私は顔を上げない。
 
「ゴメン」
 海君は何度も謝ってくれたけど、さっきの言葉を訂正してはくれなかった。
 
『嘘だよ。俺はいなくなったりしないよ』とだけは言ってくれなかった。
 
 そのことが何よりも悲しかった。
 
(海君は嘘を吐かない。私を安心させるための優しい嘘だって……絶対に吐かないんだ……)
 そう信じているから、私にはわかってしまった。
 
(そっか……あれはきっと本気の言葉なんだね……いつか、私にちゃんと「サヨナラ」を言って……それから本当に私の前からいなくなってしまうんだね……)
 
 それが遠い未来のことなのか、すぐ明日のことなのかはわからない。
 だけど、自分のことは自分で決める海君が、そうと決めた時に私達の恋は終わる。
 
 それはきっとまちがいない事実なんだということを、私はその時、確信した。