一晩ぐっすりと眠ったおかげで、全身の痛みもだいぶ楽になったし、喉の調子もかなり良くなった。
 とはいえ、右手首には幸哉の指の跡がハッキリと残っているし、腫れた左頬は、確かに見た目あまり良くない。
 
(今日は大学どうしようかな……?)
 ベッドに横になったまま、天井を見てそんなことを考えていると、海君の顔が浮かんできて、たまらなくドキドキする。
 首を振っていくら打ち消そうとしたって、昨日と同じこの光景を見上げている限り、完全に忘れることなんてとてもできそうにない。
 
(このままここで寝てたら、今度は熱が上がるかも……!)
 私はベッドからむっくり起き上がった。
(やっぱり大学に行こう)
 まだかなり時間に余裕があることを確認して、立ち上がる。
 
(平常心だよ。平常心……)
 自分に言い聞かせるかのように何度も何度も唱えているあたり、もうとっくに平常心なんかじゃないのだけど、油断すると天まで上って行ってしまいそうな自分の心を、地上に繋ぎ止めるのに私は必死だった。
 
(本当だったら…とてもこんな気分で向かえる朝じゃないはずだった……)
 昨日の幸哉の姿を思い出す。
 ゾクリと背筋が冷える。
 
(でも海君のおかげで、なんだかずっと昔の話みたいだ……)
 私よりよほどしっかりしている彼の事だから、ひょっとしたらそれが狙いだったかもしれない。
 私が幸哉のことで変に悩んだり落ち込んだりしなくていいように、自分のペースに巻きこんでいってくれたのかもしれない。
 
 でも、こっちまで胸が痛くなるほど悲しげだった表情も、必死に自分の中の何かと戦っていた真剣な顔も、きっとあれは海君の本当の姿だ。
 
 無理をさせたかもしれない。
 ううん。
 これまでだってずっと、無理ばかりさせているのかもしれない。
 
 だから私は忘れない。
 顔をあわせるのが恥ずかしいとか、いつになく緊張するとか、当面の自分の感情にいくらとまどっても、海君に対する感謝だけは忘れない。
 
(ありがとう、海君)
 いつだって私のことを救ってくれる彼に感謝する気持ちだけは、絶対に忘れないでいようと思った。


 
 トントントン
 私のノックにゆっくりとドアを開けた貴子は、いつもの彼女からは想像もつかないいくらい、びっくりした顔をした。
「うおっ! 真実!? なんで……?」
 
 ぷっと吹き出しそうになった心を必死に抑えて、私は右手に持っていたお皿をさし出す。
「朝ご飯……たくさん作ったから、今日も一緒に食べよう」
 
 勝手知ったる人の部屋とばかり貴子の部屋に入りこんで、中央にある小さなテーブルの上に、持ってきた皿を置く。
 呆然と立ったままの貴子にはかまわず、勝手にお箸やお皿を並べて、私はいつものように朝食の準備をした。
 
 まだ寝ている最中だったらしい貴子は、その間に顔を洗って、長いサラサラの髪を簡単にうしろでまとめる。
 まるで昨日までと同じにクルクルと働く私を、ゆっくりとふり返って、貴子は苦笑いした。
 
「てっきり今日は休むと思ってた」
 いつもよりいくぶん優しいその声に、私はふり返らず、お茶碗にご飯をよそいながら返事する。
「うん。そうしようかとも思ったんだけど……思ったより元気になったから……」
「うん。そうみたいだ」
 心なし、貴子の声がなんだか嬉しそうだった。
 
「でも、今日は私のところには来ないと思ってたんだよ」
 自分の向かいに腰を下ろした貴子にお茶碗を手渡しながら、私は首をひねった。
「えっ? ……どうして?」
 貴子はお茶碗を目の高さまで上げて、どうもと言わんばかりに私に軽く頭を下げてから、ニヤリと人の悪い笑みを浮かべる。
 
「彼氏が泊まってったんだろ? 当たり前じゃないか」
 ボッと火がついたように頬が熱くなって、私は慌てて俯いた。
「う、海君は昨夜すぐに帰りましたっ!」
「へっ?」
 
 貴子らしくない間の抜けた反応に、思わず顔を上げる。
 眼鏡の向こうの鋭い瞳が、信じられないというように、大きく見開かれていた。
「本当に?」
「う、うん。そうだけど……それがなにか……?」
 
 首を傾げる私に向かってはあっと大きなため息をつくと、貴子は手にしたばかりだったお箸とお茶碗を、もう一度テーブルに戻した。
「せっかくお膳立てしてやったのに……! なんだ……もっと思いっきりのいい奴だと思ったんだがな……?」 
「………………!」
 言葉も出せずぽかんと口を開く私の目の前で、貴子は軽く曲げた人差し指を細い顎に当て、何かを考えこむようなポーズを作る。
 
「だが待てよ……昨日の真実の状態を考えると、優しい奴……もしくは常識のある奴とも言えるわけか……」
 まるで彼女が専攻している心理学の実験データを分析する時のように、海君の行動について、いったいなんの考察をまとめようとしているのだろう。
 
 知らず知らずのうちに握りしめていた私のこぶしが、ぶるぶると震え始めた。
「貴子……?」
 まさかと思って呼びかけてみると、貴子は我に返ったかのように私に視線を向け、もっともらしく頷いてみせる。
「ああ真実……大丈夫だ。まだチャンスはある。私がきっと、もっといいシチュエーションを作ってみせるから……!」
 
 自身満々に胸を張る姿に、思わず叫んでしまった。
「結構です!」
 思いっきり叫んで、ドンッと音をさせてテーブルを叩いた途端、貴子がぶぶっと吹き出した。
「冗談だよ! 冗談!」
 
 お腹を抱えて笑い出したその反応が、腹の立つことに、なんだか海君とよく似ている。
 いつもいつも、隙あらば私をからかおうとする海君と、まるでそっくり。
 
「もうっ! 貴子!」
 ハハハッと笑い続ける姿を見ながらため息をついて、次の瞬間、ギョッとした。
 このアパートに越してきてから、私は貴子と一緒に大学に登校している。
 こうして朝食まで共にすれば、そのまま一緒に登校するのは自然の流れだ。
 
 でも昨日、海君がまた現われた。
 私のところに来なくなる前まで、毎日そうしていたように、きっと今日からは私を迎えにきてくれるはずだ。
 ――昨夜「また明日」と小さな約束を残して彼は帰っていったのだから。
 
(じゃあひょっとして……これから貴子と海君と三人で大学に行くの?)
 なんだか変な組みあわせあという前に、私にとってそれはかなりたいへんな事態だ。
(だってそれじゃあ……私、ずうっとからかわれっぱなしじゃない!)
 青くなりそうな思いで箸を握りしめる私に、先に食べ始めていた貴子が、チラリと意味ありげな視線を向ける。
 
「真実。早く食べろ。彼氏が迎えにくるぞ」
 
(絶対! 絶対! からかう気満々だよ!)
 泣きそうな気持ちで自分が作った朝食を食べ始めた私を、必死に笑いをこらえながら貴子が見ていることは、嫌というほどよくわかっていた。


 
 予想どおり。
 大学に出かける準備をして、いつもの時間にドアを開けると、道路の向こうの塀に寄りかかるようにして、海君は私を待っていた。
 
「おはよう」
 ニッコリと笑いかけてくる笑顔は、見事なまでにいつもどおりだ。
 目があった瞬間に、顔から火が出そうな気持ちになった私とは、まるで違う。
 
(昨日あんなことがあったのに……こんなにドキドキしてるのは、ひょっとして私だけ……?)
 胸がチクリと痛む。
 私のそんな思いなんかまるで気がつかないかのように、海君は今日も余裕たっぷりの顔で笑っている。
 
「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」
 それなのに、私のうしろからやってきた貴子には、なぜかキリッと居住まいを正して、礼儀正しく挨拶する。
「おはようございます。貴子さん」
「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」
「はい」
 
 海君の見事な変貌ぶりに、私は理不尽さを感じずにはいられなかった。
(だって貴子には敬語なんだもの……)
 それに引き換え私のことは、面白がってからかってばかり。
 
 私の複雑な心境とは裏腹に、貴子はさも満足げに頷く。
「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」
 海君はニコリと笑って貴子に小さく頭を下げると、さっと私の手を取った。
 
「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」
 手を引かれながらもふり返って叫ぶ私に、貴子はため息を吐いて肩をすくめてみせる。
「誰がそんな野暮なまねするか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」
 さっさと行けとばかりに、私たちを手で追い払う。
 
「行こう」
 私の手を引き、いつになく海君は駆け出した。
「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」
 海君はふり向いて真っ直ぐに私の顔を見ながら、艶やかな笑みを浮かべる。
「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」
 途端に心臓が跳ね上がった。
 悪戯っぽい瞳で私を見下ろす海君と、ニヤリと笑いながら私たちを見送っている貴子を、交互に見比べてみる。
 
 やっぱりどう考えても似ている気がする。
 その二人に挟まれて登校しなくてもよくなったことは、私としてはホッとするところだ。
 だけど――
 
(うん? ちょっと待って……海君、今、なんて言った……?)
 手を引かれるままに駆けながら、頭の中では必死に彼の言葉を思い返してみる。
 
『早く二人きりになろうと思って』
 
 途端、ドキリとどうしようもなく胸が跳ねた。
 
 昨日、二人っきりだった私の部屋。
 海君の頬に触れた感触。
 指を絡めて繋いだ手。
 すぐ近くで見た綺麗な瞳。
 そして――
 
 息が止まりそうだった。
 
(今は……今だけは、いっそ貴子が一緒にいてくれたほうがいい気がする!)
 あまりのドキドキに、私が倒れてしまわないために――。
 
 でも助けを求めるようにふり返る私を、貴子は例の唇の端をほんの少しだけ上げた笑顔で見送る。
 
 カッと頭に血が上った。
(すべてお見とおしってわけね! 私が動揺するのも! 貴子に助けを求めるのも! ……その上であえて、助けてなんかくれなくって、笑って見てるだけで……つまりはそういうことね!)
 
 私が今初めて気づいた、朝から海君と二人きりになってしまうドキドキのシチュエーションぐらい、きっと貴子には初めから予定どおりだったんだ。
 
(貴子の馬鹿!)
 心の中で叫ぶ私に向かって、貴子はいよいよ唇の端を吊り上げて、それはそれは嬉しそうに笑う。
 まるで「この世の全ては、私の予定どおり。思いどおり」とでも言いたげな笑顔だった。
 

 
 人ごみの中をかきわけるようにして、もの凄いスピードで、海君は私の手を引いて歩いた。
「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」
 息を切らしながら抗議する私に、海君はふり返らずに、はっきりとした声だけで返事する。
 
「ダメ。早く行ったほうがいい」
 弾むような明るい調子の声だったけど、繋いだ手はいつもよりかなり強い。
 ぐいぐいと引っ張って歩かれるのに、私はついて行くのがやっとで、海君がどれだけ今まで私にあわせて歩いてくれていたのかを知った。
 
 あまりにも早く歩きすぎて、大学の始業時間までまだ時間が余ってしまって、私たちは結局、大学の近くの公園で時間を潰すことになった。
 カラカラになった喉を潤そうと、自販機で買った飲み物を手に、二人並んで公園のベンチに座る。
 
 私はすぐにペットボトルのふたを開けて飲み始めたけれど、海君は片手にペットボトルを持ったまま、反対の手を自分の胸に当てて、しばらく俯いたまま地面を見つめていた。
 息を整えるように、大きく深呼吸をくり返すその様子に、
(そういえば前にもこんなことがあった……)
 私はふと思い出した。
 
 初めて二人ででかけたあの海で、水をかけあってはしゃぎまわったあと、海君はやっぱりこんなふうに、しばらくじっとしていた――。
  あの時は、『運動不足だよ』とからかった私に、海君は『本当に』と笑って答えてくれたんだったけど、今思い返してみれば、その様子は少し普通じゃなかったように思う。
 
 今だってそうだ。
 よくはわからないけれど、海君は自分の何かを懸命に普通の状態に持っていこうとがんばっているように見える。
 
(呼吸……かな? でも、どうして……?)
 理由なんて全然わからないけど――あまりにも急ぎすぎた――そのことがいけなかったんじゃないかという気がして、
「そんなに急がなくてよかったのに……」
 思わず言葉が口から出てしまった。
 
 海君は体は前屈みのまま、顔だけを私に向けた。
 薄く笑ってはいたけれど、その瞳は真剣だった。
「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」
 
 ズキリと胸が痛んだ。
(そっか……幸哉のことを警戒してくれてたんだ……)
 
 考えてみれば当たり前の答えだったのに、私はまったくそのことを失念していた。
 だけど海君はちゃんと考えていてくれて、私のために、きっと彼にとってはあまり良くないほどに急いでくれた。
 
 それがどういうことなのか。
 本当の意味は私にはわからない。
 けれど、なんだか申し訳ない。
 
「ゴメンね。海君」
 うな垂れる私の頬に、海君が冷たい指先でそっと触れた。
 そのまま私の顔を上向かせて、自分のほうに向ける。
 
 少し顔色の悪い海君は、それでも毅然と顔を上げて、前髪をかき上げながら、私に向かって笑った。
「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」
 鮮やかな笑顔に、軽い眩暈さえ感じる。
 
 海君は大きく息を吐くと、ベンチの背もたれに体を預けるように座り直し、ようやく私と肩を並べた。 
「何だってやるよ……俺は!」
 強い決意を秘めたようなその声が、私の胸を打った。
 
 私はいつだって守られてばかりで。
 助けられてばかりで。
 今だって彼が何を考えているのか、何と戦っているのかさえ教えてはもらえない。
 
 それは初めからわかっていたことだ。
 私が秘密だらけの海君を受け入れるかぎり、仕方のないこと。
 でもやっぱり、胸が痛い。
 
 俯いた私の心を軽くするかのように、海君がベンチの背もたれにもたれて、空を仰ぎながら呟く。
「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」
 
 ペットボトルを額に当てるみたいにして目を閉じている海君は、小さく笑っている。
 その蒼白な横顔に視線が釘づけになってしまう自分を、必死に追い払って、私は無理になんでもないような声を出した。
「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」
 
 海君はハハハッと笑い出した。
「それはそうかも!」
 
 あまりにもあっさりと同意されてしまって、自分で言ったにもかかわらず、私は少しムッとする。
 さっきまでの深い感謝の気持ちと、申し訳ないような思いはどこへいったのか。
 何か言い返してやろうと、目を閉じたままの海君の顔を軽く睨む。
 
「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な普通の高校生じゃない!」
 私の棘のある声に、海君は目を開けて、いかにも面白そうに眉を片方上げてみせた。
「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」
 
 その返事に私はますますムッとした。
「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」
 
 海君はいかにも嬉しそうに、声を立てて笑う。
「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」
 
(なんですって!?)
 最大級の非難の言葉は、なんとか声に出さずに飲みこんだ。
 でも気持ちのほうはまったく納得がいかない。
 この怒りを海君にぶつけないで抑えるには、かなりの努力が必要そうだ。
 
(そりゃあ確かに、海君から見たらどうしようもない私だろうし……いつも迷惑ばっかりかけてるし……! 自分でも「ああ私って、年上らしくないなあ」って思ってる……思ってるよ! でもこんな私と海君だから、違和感もなく一緒に居られるんだよ? ……もし海君が、「俺、お姉様についていきます」ってふうに、年下らしかったら……私じゃどう接していいのか、きっとわからないよ?)
 
 だから私たちはこれでいいんだ。
 しっかり者の海君とどこか頼りない私。
 
 ――そんなことは自分でもわかってる。
 わかってるけど、何かが、どこかが、妙に悔しい。
 
「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶのよ?」
 本当に他意はなく、悔し紛れで放った言葉だった。
 なのにその途端、海君は水を得た魚のように元気になった。
 
「ああ、それはね……」
 妙に艶やかに大人っぽく笑いながら、私の顎に手をかける。
 
「う、海君……?」
 思わず身を引こうとする私の耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。
 
「俺が真実さんの名前を呼びすてで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」
 もの凄く意味深な言葉に、心臓が口から飛び出してきそうなくらいドキドキする。
 それなのに海君は、そんなことにはまったくおかまいなしだ。
 
「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」
 真っ直ぐなその瞳が、怪しげな色に揺らめくから、私はもう、何をどうしたらいいのだか全然わからない。
 
「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」
 大慌てでぶんぶんと手を振る私を見て、海君はやっぱり大笑いし始めた。
 
(もういいよ……どうぞ好きにからかって……いくらでもからかって……! もう緊張しすぎちゃって……怒る気力もないよ……)
 脱力して俯く私に、海君は笑いながら斜めに顔を近づけて、まるでかすめ取るみたいに、そっとキスしてしまった。
 
「海君!」
 さすがにそこまでは予想外で、声を上げて驚いた私に、
「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいのか、ちゃんと態度で示すことにした。真実さんがそうすることを許してくれたって、俺は勝手に解釈してるんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」
 眩暈がするほど魅力的な笑顔で、急にそんなことを言われても、なんと答えていいのかなんてまるでわからない
 
(だめだ……こんなんじゃまともに顔も見れないよ……!)
 俯く私の頬に手を添えて、海君が上向かせる。
 もう一度、私の大好きな瞳が真っ直ぐに近づいてくる。
 
「違ってる?」
 間近で囁かれて、私は降参するかのように目を閉じた。
「ううん……違わない」
 そっと優しく、海君は私に口づけた。
 
 彼の気配が顔の近くからすっかり消えてしまってから、私は恐る恐る目を開く。
 満面の笑顔が私を見下ろしていて、泣きそうな気持ちになった。
 
「よし。じゃあ、学校に行こっか」
 海君はまるで何事もなかったかのように明るく笑いながら、真っ赤になって俯く私の目の前に、左手をさし出す。
 その大きな手を見ていたら、なんだかもうつまらない意地はどうでもよくなった。
(だって……絶対にかなわないや……)
 
 悔しいも、恥ずかしいもとおりこして、私じゃ一生かかっても海君にはかなわない。
 だから、ついて行くしかない。
 さし出されたこの手を、迷うことなく握り返すしかない。
 
 ――だってそれが私の一番望んでいること。
 嬉しいことなんだから。
 
 自分に言い訳するように、開き直るように考えながら、私は海君の手を掴んだ。
 顔を上げてみたら、私の大好きなあの笑顔が、朝の煌めくような太陽を背に、私をこの上なく優しい眼差しで見下ろしている。
 
 心の中でこっそりため息を吐いた。
(ねぇ海君。また一つ、忘れられない光景が増えちゃったよ……)
 諦めにも似た気持ちで、目を細めて、私は彼の笑顔と太陽の眩しさを、瞼に焼きつけた。