愛梨の部屋に転がりこんでから一週間。
 私はようやく、自分の中である決意を固めた。
「やっぱり私……引っ越そうと思うんだ」
 
 大学のカフェテリアで、私たち四人は今日も遅めの昼食を取っている。
 大きな窓から射しこむ光が眩しいくらいの窓際のテーブルが、ここ最近の私たちの指定席。
 朝から早起きして私が作った大きな四人ぶんのお弁当を、今まさに開こうとしていたところだったのに、私の突然の宣言で、一瞬みんなの動きが止まる。
 
「うん。そのほうがいいと思うよ」
 すぐに再び動き始めたのは花菜だった。
 椅子から立ち上がって、お弁当の包みを開き、ニコニコと笑う。
 
 蓋が開けられたお弁当に、愛梨は思わず「わあっ」と歓声を上げてから、改めて私に目を向けた。
「まだ私の部屋に居たっていいんだよ……?」
 心配そうに眉を寄せる愛梨は、いつも優しい。
 でもその優しさにずいぶん甘えてしまっている自分を、私は感じている。
 
 私を受け入れるために、愛梨は一緒に暮らしていた自分の恋人を部屋から追い出した。
 でも夕食や朝食を一緒に食べに、毎日足繁く彼のもとへと通っている。
 学校が終わったらすぐに彼のところへ行って、それからバイトに行って、それでも必ず夜には私が待つ部屋へと帰ってきてくれる。
 一人きりになるのがまだ恐い私のために、夜は必ず傍にいてくれる。
 そんな律儀な愛梨だから、かなり無理をさせてしまっていると思う。
 いくら「だって私は真実が大事だから」と言われたって、これ以上迷惑はかけられない。
 
「でも新しく部屋を探すとなると、けっこうたいへんだよね……。敷金とか礼金とか、お金もかかるもんね……」
 四人の皿に手際よく料理を取りわけながら、花菜は呟く。
 貴子が「なんだそんなことか」と言わんばかりに、ふっと薄く笑った。
 料理を食べるのに邪魔だったらしい髪を耳にかけながら、皿に盛られたばかりのから揚げを一つ、箸でつまみ上げ、花菜に目を向ける。
 
「それは問題ない。私の隣の空き部屋を、もう大家に交渉してある。おんぼろなアパートだから敷金や礼金なんていらないし、家賃もサービスしてくれるってさ」
 さっさと言い終わるとすぐに、から揚げを口の中に放りこんだ。
 
 ほっぺたを膨らませながら、涼しい顔をしている貴子のほうに、愛梨は驚いて身を乗り出す。
「えっなに? 真実が引越ししたいって……貴子は知ってたの?」
 貴子はちょっと優越感に浸ったような顔で、こっくりと頷いた。
「えー、なんでー? どうして私に言ってくれなかったのよー」
 むくれたようにドカッと椅子に座り直した愛梨に、花菜が笑いながら料理の載った皿を手渡す。
「私だって今聞いたばかりだよ……はい。愛ちゃん」
 私はなんだか申し訳ないような気持ちになって首をすくめた。
「ご、ごめんなさい……」
 二つ目の唐揚げを箸でつかんだ貴子は、人の悪い微笑みを浮かべているばかりで、とても助け舟を出してくれそうにはなかった。


 
「真実さあ……引っ越ししたほうがいいんじゃないか……?」
 そう切り出してきたのは貴子からだった。
 
 自分が愛梨の負担になっていることはわかっていたし、だからといって、いつまた幸哉がやってくるかもわからない部屋に帰る決心はなかなかつかずにいた私は、曖昧に頷いた。
「うん。それはそうなんだけど……」
 貴子はサラリと髪を揺らして、私の顔をのぞきこむ。
「やっぱりあの部屋がいいのか?」
 慌てて私は首を横に振った。
「ううん、そういうわけじゃない。でも、部屋を探すのもたいへんだし……お金のこともあるし……」
 
 みなまで言い終わらないうちに、貴子は私の腕をむんずとつかんで歩きだしていた。
「だったらいいところがある。学校にも近いし、ちょっと古いけど、そのおかげで家賃は破格値だ」
 
 連れて行かれた所は、貴子の住んでいるアパートだった。
 ずっと以前に遊びに来たことがある。
 
「隣に住んでたOLのお姉さんが、結婚して出ていったんだ。知らない奴が引っ越してくるよりは、真実のほうがいいなってひらめいて……どうだ? 隣に私が住んでたら、あの最低男だって手出ししにくいぞ……?」
 真剣なのか冗談なのかよくわからない言葉に、私は思わず苦笑がもれた。
 
 貴子は幸哉のことを、はじめっから毛嫌いしていた。
 そのせいで幸哉も、貴子だけは苦手で避けていたことを思い出す。
 
 あまり大きく表情の崩れることはない貴子も、珍しく歯を見せてにっこりと笑う。
「大家に言って部屋は押さえておくから……ここに引っ越して来たらいい」
「うん……」
 私も笑顔で答えたのだった。


 
 しかし問題は、なんといってもお金だ。
「いくら家賃が安いっていったって、やっぱり引っ越し自体にはお金がかかるんだよね……ここは自分で、運べるものだけでも少しずつ運ぶしかないかなぁ……」
 自分が巻いたのり巻きを食べる愛梨の姿を見ながら、(今日はよく巻けたなあ)なんて考えていた私は、ふうっと気の重いため息をついた。
 
 それを聞いた花菜が、目はお弁当に向けたまま、手も忙しく動かしながら、コロコロと笑う。
「あら……? 真実ちゃんだったら、すぐにお金を作れる方法があるでしょ?」 
「えっ?」
 意外なセリフに、私はまじまじと花菜の横顔を見つめた。
 
 愛梨と貴子もお互いに顔を見あわせて、何のことだかわからないといったふうに首を振りあっている。
「何か怪しい方法? 違うよな?」
 探るような視線を向ける貴子に、花菜はあっけらかんと笑った。
 
「もちろん違うわよ。もっと普通の方法……リサイクルショップ!」
「………………?」
 答えを聞いても、どうしてだかよくわからなくて、顔を見あわせあう私たちに、花菜が語ってくれた話はこうだった。
 
「真実ちゃんの要らなくなったバッグや靴を、リサイクルショップに持っていけばいいのよ。服も、以前に真実ちゃんが着てたのはけっこうブランドものばっかりだったから、もし、もういらないんだったら、結構いい値段がつくんじゃない? 引っ越しの荷物も減るし、一石二鳥。ね、簡単な方法でしょ?」
 見事な笑顔に、ただただもう感心するしかなかった。
 
 実際、お金に換金できるどれだけのものがあるのか。
 私はその日の放課後、海君についてきてもらって、ひさしぶりに自分の部屋に帰ってみることにした。
 
 懐かしい気持ちと、恐い気持ちが半々。
(もし幸哉がいたら? またあの時みたいに、部屋がめちゃくちゃになってたら?)
 
 不安に思う気持ちは大きかったけど、繋いだ手が頼もしかった。
 微笑みを含んで私を見つめる海君の視線が、嬉しかった。
 
「大丈夫。俺がついてるよ」
 くり返し囁かれる言葉に、目が眩みそうなくらいの幸せを感じていた。


 
 玄関にはちゃんと鍵がかかっていた。
 そっとドアを開けてみると、締めきっていた部屋の淀んだ空気が、細いすき間から一気に流れ出してくる。
 
 カーテンもちゃんと閉まっている。
 部屋に誰かが入った形跡もない。
 
 緊張のあまりに止めていた息を、私はため息と共にふうっと吐き出した。
(よかった。もう諦めたのかな……)
 それならいいと思ういっぽうで、簡単にそうはならないだろうと確信している私がいる。
 
(そういえば最近……携帯も全然鳴らなかった……?)
 予想外の沈黙はかえって不気味で、不安が心に重くのしかかってくるような気がする。
 
「真実さん大丈夫?」
 気遣ってくれた海君に、黙ったまま頷く。
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
 驚いて見上げた顔は、悪戯っ子みたいな笑顔だった。
 
 私の目を見て、海君はさらに意味深に、ニヤリと笑う。
「そうしよっか?」 
「だ、大丈夫よ!」
 慌てて断りを入れる。
 
 海君がいつだって私をからかおうとしているってことは、いいかげんわかってきた。
 きっとこの後に続くセリフは――あれだ。
 
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
(やっぱり!)
 でもわかっていたのに、まんまと引っかかる自分を止められない。 
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
 ふり上げた私の腕をつかんで、海君は笑いながら私を引き寄せた。
 
 あまりにも体勢が崩れてしまって、倒れそうになる私の体は、海君に両腕で抱き止められる。
「危ないなぁ。気をつけて」
 
 これではもう、どっちが年上なんだか本当にわからない。
 悔しくって私は報復に出た。 
「ごめんね」なんて言ってすぐに離れることもできたのに、あえてそのまま、海君の背中に腕をまわしてみた。
 
「真実さん?」
 たまには海君のとまどう姿だって見てみたくて、ドキドキする胸を必死に我慢しながらそうしたんだったのに、彼は全然平気な様子で、かえって私をギュッと力強く抱き締める。
 心臓が爆発しそうにドキドキして、もう我慢できなくなった。
「う、海君……」
 
 ギブアップの思いで見上げた顔は、やっぱり悪戯っ子みたいな笑顔だった。
 結局私は、自分は海君にはかなわないってことを、再確認しただけだった。


 
 あらためて部屋の押入れやクローゼットの中を探してみると、確かに花菜の言うとおり、たくさんのいらないものが出てきた。
 そのほとんどが、幸哉に貰ったバッグや靴や洋服。
 
 幸哉は私にプレゼントするというよりは、好みの服を着た女の子を連れて歩きたくて、私にいろんななものを買い与えてくれた。
 私がバイトで稼いだお金も、ほとんどは幸哉に取られて、こんなものになっていったんだから、私のものだとして勝手に処分してしまっても、問題はないだろう。
 
 確認するようにその中の一つを、手にとって見てみた。
 かなりヒールの高い華奢なパンプス。
 これはもうきっと、私には必要ない。
 
(うん。ほんとにちょうどいいのかもしれない……)
 大きな紙袋に何袋も、洋服を綺麗に畳んで入れながら思った。
(幸哉と関係あるものの処分にもなるし、前の私と決別する意味でも……これでいい)
 がらんとなってしまったクローゼットがすっきりしたのと同時に、私の心のほうも、さっぱりとしていた。


 
 合計八袋にもなった紙袋を、私は海君に手伝ってもらって、リサイクルショップへと持ちこんだ。
 花菜が言ったとおり、それらの多くはかなり高額で引き取ってもらえ、私は引っ越し代金と少しの貯金を手に入れた。
 
(これで準備はできた。もうすぐ新しい生活が始まるんだ!)
 少し前までは、想像もできなかった毎日に、私は今、暮らしている。
(いくら感謝しても、しきれないなあ……)
 隣を歩く海君の笑顔を見上げて思った。
 
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
 こういう時だけ年上ぶって、余裕の気持ちで笑ってみたのに、海君は笑顔のまま、間髪入れずに、
「じゃあ真実さんがいい」
 と返事する。
 
(負けるもんか!)
 いくらポーカーフェイスを気取ろうと思っても、オタオタして赤面してしまうのはいつも私。
 年下のくせに、すました顔で私をからかうのはいつも海君。
 
「また……! そんなこと言う!」
 今日も何度目か、真っ赤になった私を、海君は余裕の表情で見下ろしている。
 
(たまには『いいよ』って、言ってみようかな? そしたら海君も少しは慌てるかな?)
 こりもせず悔しまぎれにそう思って、隙のないその笑顔を見上げて口を開きかけた時、海君のシャツの胸ポケットから、軽快な音楽が流れた。
 
(携帯……?) 
 思わずじいっと見つめる。
 珍しいなと思った。
 海君が携帯を持ってることは知っているけど、私と一緒にいる時に、それが鳴ったことはこれまで一度もない。
 ――たぶんこれが初めて。
 
 海君は私に少し頭を下げて、背中を向ける。
 相手を確認した様子もなく、軽い調子で、「はいはい」と電話に出たあと、「うっわ、忘れてた!」と大きく叫んだ。
 
 一瞬、何のことだろうとその背中を見上げる。
 彼は私に背を向けたまま、ゆっくりと前髪をかき上げている。
(なんだ……電話の相手に言ったのか……)
 もう一度海君から視線を逸らしながら、私は正直、少し困っていた。
(こんな時って、いったいどうすればいいのかな? 近くにいると、聞き耳立ててるみたいだし、今更離れて行くのも、意識しているみたいで変だし……)
 
 他の人のことだったら、別に気にしない。
 でも好きな人だと話は別だ。
 些細なことが気になってどうしようもない。
 
(海君は私に、自分のことは知られたくなさそうだし……)
 かなり本気で困っていた。
(だって私って、海君の連絡先、何も知らないんだよ……?)
 自分で考えておいて、悲しくなる。
 
 立ち尽くしたままの自分の足に、視線をちょっと落としたその時、何か話しこんでいる様子だった海君の声から、
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 
 なぜかその言葉だけが、バッチリと私の耳に届いてしまった。
 
(……ひとみちゃん?)
 こういうことにだけ過剰に反応するなんて、絶対嫌なのに、
(誰……? 女の子……?)
 私の頭の中からは、もうその言葉が消えてくれない。
 
(だから……だから、絶対に好きになっちゃいけないって思ったのに!)
 たった一言だけで、思考がそこまで飛躍できるのは、恋している時だけの特別な能力かもしれない。
 
 自分自身に対する怒りにも似た、後悔の中、
(こんなことで動揺してるなんて、絶対に海君に知られたくない……!)
 こんな時ばかりむくむくと、年上としてのプライドが頭をもたげる。
 
(海君が秘密だらけなんて、最初からわかってたことだもん……これぐらいどうってことない! 私は平常心!)
 自分で自分に言い聞かせるかのように、何度も心の中でくり返している段階で、もはやすでに『平常心』とはほど遠い。
 
 気持ちとは裏腹に、私の心臓はみっともないくらいの速さでドキドキと脈打っている。
(あー。もう、悔しいよー)
 
 そんな私の目まぐるしいばかりの表情の変化に、あの海君が、気づかないわけがない。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
 
 私の顔をのぞきこむようにして、本気で申し訳なさそうな表情をしながら、手をあわせる海君の顔を見たら、
(あーあ、やっぱりバレバレだ……)
 と感じた。
 
「うん。別にいいよ」
 なんてさらっと笑って言えるようなクールな女に、一度でいいからなってみたい。
 みっともなく笑顔を引きつらせて、「うん」と答えるのがせいいっぱいだなんて、
『私は海君が大好きです。行っちゃったら寂しいです』
 って、自分から告白しているようなものだ。
 
 その上、
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
 と海君に謝られて、クールどころか呆然とした顔になってしまう。
 
 海君はもう、必死で笑いをこらえた顔で私を見ている。
 
(ほんとに百面相。ほんとにみっともない!)
 情けなさと、本当に心からの寂しさで、胸が張り裂けんばかりの思いで、私はやっと返事を口にした。
「うん。わかった」
 
 海君が頭を下げながら、私の髪をかき混ぜる。
「寂しいだろうけどゴメンね」
 
 その時、ほんの少しだけ残っていた私の年上としてのプライドが、奮い立った。
「別に大丈夫だよ?」
 理想どおりに、サラッと言う事が出来たつもり。
 
 でも海君に、
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
 瞳をのぞきこまれながら顔を近づけられたら、ささやかな抵抗も、もうそこで終わりだ。
 
 ――海君の真っ直ぐな瞳に、私は嘘を吐けない。
 
「嘘だよ……寂しいよ……」
 しゅん、とうな垂れた私を、海君は大笑いしながら抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
 
「ちょ、ちょっと海君」
 口では抵抗しながらも、私の両腕もしっかりと、彼を抱きしめ返した。
 
(明日からどこに行くの? ……誰と会うの?)
 まったく気にならないと言ったら嘘になる。
 でも口に出して確認するほどの勇気は私にはない。
 
『何も聞かない、何も知らなくていい』
 
 それが私と海君の暗黙のルールだ。
 それを破った時、私達の関係はどうなるのか。
 海君が何かを言ったわけじゃないけれど、私は怖くて想像だってしたくない。
 
 だから――素朴な疑問。
 ちょっとした疑惑。
 ――そんなことだって、私にとっては全然簡単なことなんかじゃない。
 
 でもどんなに苦しくても、寂しくても、こんな恋しなければよかった、なんて私が思うことはきっとないだろう。
 その結論にだけは、私はきっとたどり着かない。
 だから私は、これから先もきっと、こんな胸の痛みと何度も何度も戦っていくんだ。
 
(あーぁ、馬鹿みたいなのは私のほうだよ、海君……)
 悔しいからせめて、想いの大きさが伝わるように、海君の体を思いきり抱きしめた。
(海君を好きな気持ちは、きっと誰にも負けない。だからこの想いの大きさが、どうか海君に伝わりますように……!)
 願いをこめて、ただ抱きしめた。