「それで? 噂のカレはどこで待ってるんだよ……?」
放課後、海君が待っているであろう正門前へと向かう私に、愛梨ばかりか貴子も花菜もついてくる。
「あのね、海君っていってね。たぶん年下なんだろうけど、なかなかしっかりしてて、これがまたいい男なのよー」
私は海君のことをみんなに話すつもりなんか全然なかったのに、愛梨がぺらぺらっと自慢してくれたおかげで、貴子も花菜もすっかり興味津々になってしまった。
でも――
「高校生なの? 何歳?」
そんなごく当たり前の質問にさえ、私は答えることができない。
照れ臭いとか、もったいぶってるとか以前に、――だって、私も知らないから。
何を聞かれても曖昧に笑ってごまかすしかない。
ニコニコと笑ってばかりの私に、
「別に教えたって減るもんじゃないだろ?」
不機嫌そうに目を向ける貴子には、特に本当のことを知られるわけにはいかなかった。
『海君は自分のことを、私には何も教えてくれない』
なんて貴子が知ったら、
「そんな男とはさっさと別れろ!」
と怒鳴られるに決まっている。
いつも淡々としている貴子が、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて大声で怒鳴るのは、いつだって私のためだ。
それはわかっている。
でも、だから尚更、「また厄介な恋に引っかかったのか……!」と呆れられたくはなかった。
それに――
(海君と私って、恋人同士……じゃないよね……?)
私が海君に感じている――海君が私に示してくれる――強い気持ちには、自信があるけれど、それをなんと呼んでいいのかは、正直私にはわからない。
(海君を私の『恋人』とは呼べない……今はまだ……)
厳しいものから目を背けて、楽なほうに流れようとしている自分のズルさが、どうしようもなく嫌になった。
私は唇を噛みしめる。
「ねえ、真実。あれじゃないの?」
愛梨に呼びかけられて顔を上げてみれば、いつの間にかもう正門がすぐ近くに迫っていた。
「どれ? どこ?」
私を押し退けんばかりの勢いで、門の外に突進して行く三人の後ろ姿を見ながら、私は心の中で海君に手をあわせた。
(ごめん。海君)
海君は愛梨が目ざとく見つけたとおり、やっぱり正門の前で、私を待っていた。
ガードレールに軽く腰かけて、長い足を投げ出しながら私を待っている間、彼はいつもどんなことを考えているんだろう。
私が何時に帰ってくるとか、特に今日みたいな日はちゃんと約束しているわけじゃないから、ひょっとするとずいぶん早くからこの場所で待っていてくれるのかもしれない。
携帯をいじるわけでもなく、本なんかを読むわけでもない。
ただ街や空や通り過ぎる人々に、ゆっくりと視線を向けている海君は、いろんなものからすごく自由な存在のように見える。
何にも縛られない、自由な存在。
――だけどそれは、そんな海君が羨ましいという気持ちと共に、私に不安を呼び起こさせる。
本当はいつ私の傍からいなくなってもおかしくない海君のポジションと、彼の自由な雰囲気があまりにも合致し過ぎるから。
だから――
(いやだ……! いなくなったりしないで……!)
勝手に心の中で悲鳴を上げた瞬間、海君がこちらに視線を向けた。
曇りのない真っ直ぐな瞳が、おそらくは私の姿を見つけて、それはそれは嬉しそうに微笑む。
――何の根拠もない不安なんて、その笑顔を見た瞬間に、頭の中から全部吹き飛んだ。
「あっ! おーい。海くーん!」
ぶんぶんと大きく両手を振る愛梨が、なぜか私よりも先に、海君に駆け寄っていく。
「ちょ、ちょっと……愛梨!?」
慌ててその背中を追うと、いつの間にかもうすでに、海君の目の前には貴子が立っていた。
細身の体の背中までを覆う真っ直ぐな髪を、サラリと耳にかけながら、貴子は海君に問う。
「あんたが真実の海君?」
(ま……『真実の』って……! 貴子!?)
私は顔がカッと赤くなったのが自分でもわかるくらいなのに、どうして海君はあんなに平気なんだろう。
どうしてなんの躊躇いもなくすぐに、
「はい」
と頷いてしまうんだろう。
嬉しいのだか恥ずかしいのだかもうよくわからない感情で、私は真っ赤になって俯いた。
腕組みしたまま、じっと海君を観察していたらしい貴子が、
「よし。合格」
と呟いた声を聞いて、ハッと顔を上げる。
貴子は髪を翻して、そのまま海君の横をすり抜けていくところだった。
思わずポカンとしたまま、その背中を見送ってしまいそうになってから、私はハッと我に返った。
「ちょっと! 貴子!」
貴子は一瞬ふり返って、唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、私に微笑んだ。
――ような気がした。
「うん。いいんじゃないか?」
再び歩きだす貴子を小走りで追いながら、花菜も私にふり返り、笑顔で叫ぶ。
「私もいいと思うっ! 真実ちゃんとっても可愛くなったもん。私は今のほうが、ずっと真実ちゃんらしいと思う」
隣にいた愛梨は、私の顔をまじまじと見つめながら、プッとふき出した。
「確かに! 見た目、まるで高校生みたいだけど……へたしたら海君より年下に見えるけど……!」
ムッとむくれる私に、海君が更に追い討ちをかける。
「ハハハハッ。俺も、そう思ってる!」
「もうっ! 海君!」
こぶしをふり上げるポーズはしてみたものの、空に輝く太陽よりも眩しい笑顔を見ていたら、どうしたってふり下ろす力はみんな、海君に奪われてしまうのだった。
もし今誰かに、「あなたは幸せですか?」と尋ねられたら、私はまちがいなく「はい」と答えるだろう。
諦めかけていた大学に復学して、大好きな友だちに囲まれて、傍には海君がいてくれる。
でもふとした瞬間、――たとえば愛梨がバイトで夜、留守にした時なんかに、どうしようもなく不安な思いが、胸を過ぎる。
(ひょっとして幸哉が私の居場所をつきとめて、ここに怒鳴りこんできたりはしないだろうか?)
考えないようにしようとは思っても、その恐怖はどこまでも私を追いかけてくる。
警察から警告が発せられたことはわかっていた。
大学にいる間はみんなが、登下校の間は海君が、部屋に帰ったら愛梨が、私をいつも守ってくれているということも――。
でもそれでも、私の心の奥深くにある恐怖が、まったく消えてしまうということはない。
いくら「もう大丈夫」と自分に言い聞かせても、悪夢を見て、夜中に飛び起きる夜はなくならない。
人が変わったように激しく私に詰め寄る幸哉の顔。
くり返される暴力と投げつけられるひどい言葉。
グチャグチャに荒らされた私の部屋。
ふとした折に甦るそれらの記憶が、私を戦慄させる。
なのに私の毎日は、まるでそれと相反するかのように、平和で何事もなく、静かに過ぎていった。
海君はあいかわらず、毎日決まった時間になると、私を迎えに来た。
愛梨のアパートの近くで待っていて、大学まで送ってくれる。
放課後はまた、正門のところで待っていて、私を愛梨のアパートまで送り届けてくれる。
まるで当然のように、毎日くり返される、その行動に、
「ねぇ……本当は何者なの?」
愛梨が首をひねるのも無理はなかった。
「ひょっとして学校には行ってないのか?」
貴子は、私自身も前に一度、海君に尋ねたことがある疑問を口にする。
「別にいいじゃない……あんなに真実ちゃんを大切にしてくれてるんだから……それでじゅうぶんでしょ?」
笑いながらみんなに言える花菜は、実は私たちの中で一番大人なのかもしれない。
――でも私自身は、花菜ほどは大人になれないから。
(海君は、あの夜どうして私なんかに声をかけたんだろう……?)
いくら海君が、「俺は俺のしたいようにする」と宣言したからといっても、私にはやっぱり、それが一番の大きな疑問だった。
「……海君」
手を繋いでいつもの道を歩いている最中。
突然呼びかけた私に、隣を歩いていた海君は、ゆっくりと顔を向けた。
汗ばむような陽気の中。
まるで気温を感じさせない涼しい顔。
いつもの笑顔。
いつもの距離。
少し目を見開く動作だけで、(何?)と簡単に聞き返されて、私はたまらないほどドキドキしていた。
(なんて聞いたらいいんだろう……?)
たいした決意もなく、その場その時の感情だけで話をしがちな私は、海君の顔を見ただけで言葉に詰まってしまう。
言葉はよく選ばなければならない。
秘密だらけの彼のルールに反しないように。
ごまかさずにキチンと答えてもらえるように。
――最大限の注意を払って、選び抜かなければならない。
決して人通りの少なくはないこんな道の真ん中で、なんの前置きもなく切り出してしまったことを、今さら悔やんでみてももう遅い。
変な汗が額に浮かんで来そうな気持ちで、私はなんとか言葉をひねり出した。
「どうして初めて会った夜に……私に声をかけてきたの?」
海君はすかさず真剣な顔を作って、私の顔をじーっと真正面から見つめた。
「それはもちろんナンパだよ……可愛い子が歩いてるなって思って……それで…」
いかにも面白そうに言いかけて、私の表情を見て、途中でやめる。
私の頭の上にポンと右手を載せて、少し真面目なトーンに声を切り替えた。
「ゴメン……あまり面白くなかった?」
私は静かに首を横に振る。
その張り詰めたような静かな雰囲気に、海君もようやく、本物の真剣な顔を見せてくれる。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
反対に尋ねられて、私は途方に暮れた。
(どうしてって……どうしてだろう?)
自分自身でもわからなかった。
私が求めているのは、いったい何なんだろう。
海君との出会いにもっともらしい理由を見つけて、それで納得して、いったい何を安心したいんだろう。
何を守りたいんだろう。
名前もわからない。
いつまで一緒にいられるのかもわからなくても、「海君が好きだ」と思ってしまったあの瞬間から、もう全ては始まっているのに――。
どうしようもない想いに、誰よりも自分が引きずられているのに――。
「うん……やっぱりいいや……」
真剣に私を見つめる海君の瞳に笑いかけて、私は繋いだ手にギュッと力をこめた。
(大事なのは私の気持ちだから……私が海君を好きで、一緒にいたいと思うこの気持ちだから……)
私が一人で納得して、歩き出そうとしたその時に、本当に思いがけなく、海君は口を開いた。
「正直……自分でもよくわからないんだ。俺は誰にも必要以上に関わらないって決めてたし……実際今まではそうしてきたし……でも……胸が痛かったから……!」
切れ切れの言葉に、私は思わず足を止める。
今までになく、自分のこことを話してくれる海君の顔を、驚いて仰ぎ見る。
そして――
「海君?」
私を見下ろすその表情に、たまらずドキリとした。
大学からの帰り道。
今、私たち二人は、まちがいなく真昼の雑踏の中にいるのに。
初めて出会ったあの夜からは、すでにたくさんの時間が過ぎているのに。
海君は確かにあの夜の、私が生涯忘れられないであろう笑顔で、私を見つめていた。
「傷ついてる真実さんを見て、どうしようもなかったから……声をかけずにいられなかったから……」
そして自分で言っておいて、今初めて気がついたとでも言うように、フワッと笑う。
「あれ? これじゃやっぱりナンパだ……うん。でもそれだけじゃない……」
かなり強い力で、海君は私を引き寄せた。
腕の中に抱えこんで、私がどこにも逃げれないようにしてから、じっと顔をのぞきこむ。
「一目惚れだよ」
そう言って甘くきらめいた海君の瞳に、思わず眩暈がした。
ごく至近距離から真っ直ぐに見つめられて、私は自分でも気がつかないうちに自然と息を止めていた。
冗談じゃなく本当に、『今この瞬間に死ねたら、どんなに幸せだろう』なんてことまで頭を過ぎった。
なのに当の海君は、私の背中に腕をまわして、悪戯っぽく笑いかける。
「でも……真実さんだってそうでしょ?」
ハッと、私は瞳を瞬いた。
「俺に一目惚れしたでしょ?」
それだけ自身満々で言い切られると、たとえそれが事実であっても、今、とてつもなく幸せな気分に浸っていたとしても、思わず「そんなこと……」と、反発せずにはいられない。
それでも、「ない」とは言い切れず黙りこんだ私に、海君は、
「ある……でしょ?」
ニッコリ笑ってダメ押しする。
(あぁーもう! くやしいっ!)
本当に、海君には全然かなわない。
悔しくって俯く私の頭を、海君がそっと撫でた。
長い指が、短く切りそろえた私の髪をサラサラとすくう。
「……ありがとう」
勝手に決めつけて、その上お礼の言葉まで言ってしまった海君に、私はもう降参した。
上目遣いに見上げた顔が、私の大好きな屈託のない笑顔だったので、もうそれ以上の抵抗は諦めた。
何よりそれはやっぱり、彼の言うように今さらごまかしようのない、事実だったのだから――。
誰かを好きだと思った瞬間に、相手も自分を好きになったなんて、そんな奇跡みたいなことが本当にあるんだろうか。
私の世界から全ての音が消えて、たった一人の声だけが心に響いたあの瞬間。
同じように彼の時間も止まったんだったら、もうそれだけでいい。
他にはもう、なんの保証もいらない。
放課後、海君が待っているであろう正門前へと向かう私に、愛梨ばかりか貴子も花菜もついてくる。
「あのね、海君っていってね。たぶん年下なんだろうけど、なかなかしっかりしてて、これがまたいい男なのよー」
私は海君のことをみんなに話すつもりなんか全然なかったのに、愛梨がぺらぺらっと自慢してくれたおかげで、貴子も花菜もすっかり興味津々になってしまった。
でも――
「高校生なの? 何歳?」
そんなごく当たり前の質問にさえ、私は答えることができない。
照れ臭いとか、もったいぶってるとか以前に、――だって、私も知らないから。
何を聞かれても曖昧に笑ってごまかすしかない。
ニコニコと笑ってばかりの私に、
「別に教えたって減るもんじゃないだろ?」
不機嫌そうに目を向ける貴子には、特に本当のことを知られるわけにはいかなかった。
『海君は自分のことを、私には何も教えてくれない』
なんて貴子が知ったら、
「そんな男とはさっさと別れろ!」
と怒鳴られるに決まっている。
いつも淡々としている貴子が、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて大声で怒鳴るのは、いつだって私のためだ。
それはわかっている。
でも、だから尚更、「また厄介な恋に引っかかったのか……!」と呆れられたくはなかった。
それに――
(海君と私って、恋人同士……じゃないよね……?)
私が海君に感じている――海君が私に示してくれる――強い気持ちには、自信があるけれど、それをなんと呼んでいいのかは、正直私にはわからない。
(海君を私の『恋人』とは呼べない……今はまだ……)
厳しいものから目を背けて、楽なほうに流れようとしている自分のズルさが、どうしようもなく嫌になった。
私は唇を噛みしめる。
「ねえ、真実。あれじゃないの?」
愛梨に呼びかけられて顔を上げてみれば、いつの間にかもう正門がすぐ近くに迫っていた。
「どれ? どこ?」
私を押し退けんばかりの勢いで、門の外に突進して行く三人の後ろ姿を見ながら、私は心の中で海君に手をあわせた。
(ごめん。海君)
海君は愛梨が目ざとく見つけたとおり、やっぱり正門の前で、私を待っていた。
ガードレールに軽く腰かけて、長い足を投げ出しながら私を待っている間、彼はいつもどんなことを考えているんだろう。
私が何時に帰ってくるとか、特に今日みたいな日はちゃんと約束しているわけじゃないから、ひょっとするとずいぶん早くからこの場所で待っていてくれるのかもしれない。
携帯をいじるわけでもなく、本なんかを読むわけでもない。
ただ街や空や通り過ぎる人々に、ゆっくりと視線を向けている海君は、いろんなものからすごく自由な存在のように見える。
何にも縛られない、自由な存在。
――だけどそれは、そんな海君が羨ましいという気持ちと共に、私に不安を呼び起こさせる。
本当はいつ私の傍からいなくなってもおかしくない海君のポジションと、彼の自由な雰囲気があまりにも合致し過ぎるから。
だから――
(いやだ……! いなくなったりしないで……!)
勝手に心の中で悲鳴を上げた瞬間、海君がこちらに視線を向けた。
曇りのない真っ直ぐな瞳が、おそらくは私の姿を見つけて、それはそれは嬉しそうに微笑む。
――何の根拠もない不安なんて、その笑顔を見た瞬間に、頭の中から全部吹き飛んだ。
「あっ! おーい。海くーん!」
ぶんぶんと大きく両手を振る愛梨が、なぜか私よりも先に、海君に駆け寄っていく。
「ちょ、ちょっと……愛梨!?」
慌ててその背中を追うと、いつの間にかもうすでに、海君の目の前には貴子が立っていた。
細身の体の背中までを覆う真っ直ぐな髪を、サラリと耳にかけながら、貴子は海君に問う。
「あんたが真実の海君?」
(ま……『真実の』って……! 貴子!?)
私は顔がカッと赤くなったのが自分でもわかるくらいなのに、どうして海君はあんなに平気なんだろう。
どうしてなんの躊躇いもなくすぐに、
「はい」
と頷いてしまうんだろう。
嬉しいのだか恥ずかしいのだかもうよくわからない感情で、私は真っ赤になって俯いた。
腕組みしたまま、じっと海君を観察していたらしい貴子が、
「よし。合格」
と呟いた声を聞いて、ハッと顔を上げる。
貴子は髪を翻して、そのまま海君の横をすり抜けていくところだった。
思わずポカンとしたまま、その背中を見送ってしまいそうになってから、私はハッと我に返った。
「ちょっと! 貴子!」
貴子は一瞬ふり返って、唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、私に微笑んだ。
――ような気がした。
「うん。いいんじゃないか?」
再び歩きだす貴子を小走りで追いながら、花菜も私にふり返り、笑顔で叫ぶ。
「私もいいと思うっ! 真実ちゃんとっても可愛くなったもん。私は今のほうが、ずっと真実ちゃんらしいと思う」
隣にいた愛梨は、私の顔をまじまじと見つめながら、プッとふき出した。
「確かに! 見た目、まるで高校生みたいだけど……へたしたら海君より年下に見えるけど……!」
ムッとむくれる私に、海君が更に追い討ちをかける。
「ハハハハッ。俺も、そう思ってる!」
「もうっ! 海君!」
こぶしをふり上げるポーズはしてみたものの、空に輝く太陽よりも眩しい笑顔を見ていたら、どうしたってふり下ろす力はみんな、海君に奪われてしまうのだった。
もし今誰かに、「あなたは幸せですか?」と尋ねられたら、私はまちがいなく「はい」と答えるだろう。
諦めかけていた大学に復学して、大好きな友だちに囲まれて、傍には海君がいてくれる。
でもふとした瞬間、――たとえば愛梨がバイトで夜、留守にした時なんかに、どうしようもなく不安な思いが、胸を過ぎる。
(ひょっとして幸哉が私の居場所をつきとめて、ここに怒鳴りこんできたりはしないだろうか?)
考えないようにしようとは思っても、その恐怖はどこまでも私を追いかけてくる。
警察から警告が発せられたことはわかっていた。
大学にいる間はみんなが、登下校の間は海君が、部屋に帰ったら愛梨が、私をいつも守ってくれているということも――。
でもそれでも、私の心の奥深くにある恐怖が、まったく消えてしまうということはない。
いくら「もう大丈夫」と自分に言い聞かせても、悪夢を見て、夜中に飛び起きる夜はなくならない。
人が変わったように激しく私に詰め寄る幸哉の顔。
くり返される暴力と投げつけられるひどい言葉。
グチャグチャに荒らされた私の部屋。
ふとした折に甦るそれらの記憶が、私を戦慄させる。
なのに私の毎日は、まるでそれと相反するかのように、平和で何事もなく、静かに過ぎていった。
海君はあいかわらず、毎日決まった時間になると、私を迎えに来た。
愛梨のアパートの近くで待っていて、大学まで送ってくれる。
放課後はまた、正門のところで待っていて、私を愛梨のアパートまで送り届けてくれる。
まるで当然のように、毎日くり返される、その行動に、
「ねぇ……本当は何者なの?」
愛梨が首をひねるのも無理はなかった。
「ひょっとして学校には行ってないのか?」
貴子は、私自身も前に一度、海君に尋ねたことがある疑問を口にする。
「別にいいじゃない……あんなに真実ちゃんを大切にしてくれてるんだから……それでじゅうぶんでしょ?」
笑いながらみんなに言える花菜は、実は私たちの中で一番大人なのかもしれない。
――でも私自身は、花菜ほどは大人になれないから。
(海君は、あの夜どうして私なんかに声をかけたんだろう……?)
いくら海君が、「俺は俺のしたいようにする」と宣言したからといっても、私にはやっぱり、それが一番の大きな疑問だった。
「……海君」
手を繋いでいつもの道を歩いている最中。
突然呼びかけた私に、隣を歩いていた海君は、ゆっくりと顔を向けた。
汗ばむような陽気の中。
まるで気温を感じさせない涼しい顔。
いつもの笑顔。
いつもの距離。
少し目を見開く動作だけで、(何?)と簡単に聞き返されて、私はたまらないほどドキドキしていた。
(なんて聞いたらいいんだろう……?)
たいした決意もなく、その場その時の感情だけで話をしがちな私は、海君の顔を見ただけで言葉に詰まってしまう。
言葉はよく選ばなければならない。
秘密だらけの彼のルールに反しないように。
ごまかさずにキチンと答えてもらえるように。
――最大限の注意を払って、選び抜かなければならない。
決して人通りの少なくはないこんな道の真ん中で、なんの前置きもなく切り出してしまったことを、今さら悔やんでみてももう遅い。
変な汗が額に浮かんで来そうな気持ちで、私はなんとか言葉をひねり出した。
「どうして初めて会った夜に……私に声をかけてきたの?」
海君はすかさず真剣な顔を作って、私の顔をじーっと真正面から見つめた。
「それはもちろんナンパだよ……可愛い子が歩いてるなって思って……それで…」
いかにも面白そうに言いかけて、私の表情を見て、途中でやめる。
私の頭の上にポンと右手を載せて、少し真面目なトーンに声を切り替えた。
「ゴメン……あまり面白くなかった?」
私は静かに首を横に振る。
その張り詰めたような静かな雰囲気に、海君もようやく、本物の真剣な顔を見せてくれる。
「……どうしてそんなこと聞くの?」
反対に尋ねられて、私は途方に暮れた。
(どうしてって……どうしてだろう?)
自分自身でもわからなかった。
私が求めているのは、いったい何なんだろう。
海君との出会いにもっともらしい理由を見つけて、それで納得して、いったい何を安心したいんだろう。
何を守りたいんだろう。
名前もわからない。
いつまで一緒にいられるのかもわからなくても、「海君が好きだ」と思ってしまったあの瞬間から、もう全ては始まっているのに――。
どうしようもない想いに、誰よりも自分が引きずられているのに――。
「うん……やっぱりいいや……」
真剣に私を見つめる海君の瞳に笑いかけて、私は繋いだ手にギュッと力をこめた。
(大事なのは私の気持ちだから……私が海君を好きで、一緒にいたいと思うこの気持ちだから……)
私が一人で納得して、歩き出そうとしたその時に、本当に思いがけなく、海君は口を開いた。
「正直……自分でもよくわからないんだ。俺は誰にも必要以上に関わらないって決めてたし……実際今まではそうしてきたし……でも……胸が痛かったから……!」
切れ切れの言葉に、私は思わず足を止める。
今までになく、自分のこことを話してくれる海君の顔を、驚いて仰ぎ見る。
そして――
「海君?」
私を見下ろすその表情に、たまらずドキリとした。
大学からの帰り道。
今、私たち二人は、まちがいなく真昼の雑踏の中にいるのに。
初めて出会ったあの夜からは、すでにたくさんの時間が過ぎているのに。
海君は確かにあの夜の、私が生涯忘れられないであろう笑顔で、私を見つめていた。
「傷ついてる真実さんを見て、どうしようもなかったから……声をかけずにいられなかったから……」
そして自分で言っておいて、今初めて気がついたとでも言うように、フワッと笑う。
「あれ? これじゃやっぱりナンパだ……うん。でもそれだけじゃない……」
かなり強い力で、海君は私を引き寄せた。
腕の中に抱えこんで、私がどこにも逃げれないようにしてから、じっと顔をのぞきこむ。
「一目惚れだよ」
そう言って甘くきらめいた海君の瞳に、思わず眩暈がした。
ごく至近距離から真っ直ぐに見つめられて、私は自分でも気がつかないうちに自然と息を止めていた。
冗談じゃなく本当に、『今この瞬間に死ねたら、どんなに幸せだろう』なんてことまで頭を過ぎった。
なのに当の海君は、私の背中に腕をまわして、悪戯っぽく笑いかける。
「でも……真実さんだってそうでしょ?」
ハッと、私は瞳を瞬いた。
「俺に一目惚れしたでしょ?」
それだけ自身満々で言い切られると、たとえそれが事実であっても、今、とてつもなく幸せな気分に浸っていたとしても、思わず「そんなこと……」と、反発せずにはいられない。
それでも、「ない」とは言い切れず黙りこんだ私に、海君は、
「ある……でしょ?」
ニッコリ笑ってダメ押しする。
(あぁーもう! くやしいっ!)
本当に、海君には全然かなわない。
悔しくって俯く私の頭を、海君がそっと撫でた。
長い指が、短く切りそろえた私の髪をサラサラとすくう。
「……ありがとう」
勝手に決めつけて、その上お礼の言葉まで言ってしまった海君に、私はもう降参した。
上目遣いに見上げた顔が、私の大好きな屈託のない笑顔だったので、もうそれ以上の抵抗は諦めた。
何よりそれはやっぱり、彼の言うように今さらごまかしようのない、事実だったのだから――。
誰かを好きだと思った瞬間に、相手も自分を好きになったなんて、そんな奇跡みたいなことが本当にあるんだろうか。
私の世界から全ての音が消えて、たった一人の声だけが心に響いたあの瞬間。
同じように彼の時間も止まったんだったら、もうそれだけでいい。
他にはもう、なんの保証もいらない。