愛梨のアパートまでの道を、海君と手を繋いで歩いた。
私のアパートよりは繁華街から遠い静かな道。
静まり返った住宅街に、私と彼の足音だけが響く。
(この道がどこまでも続けばいいのに……)
一歩先を歩く背中を見つめながら、そんなことを思った。
けれどアパートよりはずっと手前の曲がり角で、うす暗い街灯の下、私を待ってくれている愛梨の姿を見つけたら、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。
「あっ来た! 真実ー!」
大きな声で叫びながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を振る元気な姿は、いつも変わらない。
「愛梨!」
手を振り返す私を海君は見下ろして、ちょっぴり笑った。
まるで自分のことのように嬉しそうな顔。
優しい瞳が「良かったね」と声にならない言葉をかけてくる。
(うん)
私も声に出さないで頷いてから、繋いだ手に力をこめた。
ありがとうの思いをこめて握りしめた。
まさか海君が私を送ってくるとは、さすがに愛梨も予想していなかったらしい。
「こんばんは」
と笑って頭を下げた海君に、ほんのり頬を染めて、かなり慌てている。
「こ、こんばんは」
愛梨の視線がじいっと、私と海君が繋いだ手に注がれているのを感じた。
思わず放そうとした私の手を、海君は自分の手ごと軽く持ち上げて、「はい」と愛梨にさし出す。
「う……海君!」
焦る私にニヤッと悪戯っぽい笑顔を向けると、海君は愛梨の手の上で私の手を放した。
「こっからは交代。よろしくお願いします」
もしうぬぼれてもかまわないならば、私を見つめる海君の瞳はこの上なく優しい。
まるで慈しむように、惜しむことなく注がれる優しい眼差し。
「OK。お姫様は確かに預かるからね」
冗談めかして愛梨が私の手をしっかりと受け取った。
根が陽気な愛梨は、きっとこんなやり取りが大好きだ。
海君のことをかなり気に入ったはずだと、私にはわかる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
いつもと同じ約束を残して、海君は私たちに背を向ける。
すっかり見慣れたその背中を、私はちょっぴり寂しい気持ちで見送った。
「ありがとー! 海君!」
愛梨が私と繋いだ手をぶんぶんと振りながら、大声で叫ぶ。
海君は笑顔でふり返って、もう一度愛梨に頭を下げる。
その背中が遠くの角を曲がって、すっかり見えなくなってから、愛梨は改めて、ポツリと呟いた。
「真実……きっと今度は幸せになれるよ……」
余計なネオンがないおかげで、このあたりは私の部屋がある界隈よりよく星が見える。
愛梨は夜空を見上げながら、独り言のようにくり返した。
「幸せになれる。きっと。海君と一緒だったら……」
胸が痛かった。
「うん。そうかもしれない……」
口ではそう答えながらも、きっとそうはならない予感が私にはある。
海君は私に何も教えてくれない。
あれこれ聞かれるのを好まないのには、きっと何か理由があるはずだ。
私の知らない『何か』。
その『何か』がある限り、あまり夢を見てはいけないと、私は自分に言い聞かせる。
でも今は――少なくとも今この時だけは、また明日来てくれると言った彼の言葉を喜ぼう。
喜んで――幸せな気持ちで、嫌なことも全部忘れて眠りにつこう。
「私……今でも、幸せだよ……」
夜空を見上げながら自然と笑顔になれた私の顔をのぞきこんで、愛梨もぱあっと華やかに笑う。
「それはどうも……ごちそうさま!」
「あははっ」
あんなに嫌なことがあった夜だというのに、私は笑っていた――笑えているのは、海君や愛梨のおかげだということを忘れてはならない。
夜空を見上げながら、二人がいてくれたことに心から感謝した。
「でもさ……警察が動きだしたんだったら、さすがに岩瀬も、もうこれで諦めるんじゃないかな? ……犯罪者にまではなりたくないんじゃない?」
ベッドが一つしかない愛梨の部屋。
私は愛梨のお母さんが田舎からやってきた時用の布団をベッドの隣に敷いて、ベッド上の愛梨と並んで横になっている。
突然出てきた幸哉の名前にドキリとしながらも、できるだけ普通に聞こえるように返事した。
「うん。そうだね」
愛梨は、幸哉が私にふるった暴力の全てを知っているわけではない。
どんどんおかしくなっていく幸哉が、私は怖くてたまらなくて、次第に誰にも言えなくなったから、愛梨だけじゃなく他の誰も、本当のことは知らない。
言うつもりもなかった。
ただ私が一人で耐えていればいいのだと――我慢していればいいのだと、ずっと自分で自分に言い聞かせていた。
でも本当は――
「できたら……もう私のことは忘れてほしい……それで前の幸哉に戻ってほしい……」
口に出して言葉にして、初めて、願いは誰かに届くものなのかもしれない。
「きっと、そうなるよ」
愛梨の返事は、優しい彼女の慰めの言葉であるだけではなく、目には見えない誰かの言葉のようにも聞こえた。
本当に幸哉に変わってほしいと願う私の心が、その時初めて、その誰かに届いたような気がした。
(幸せになって、とはもう願わない……だからどうか……私のことはもう忘れて)
今度こそ、その願いが叶うといいと、私は心から祈った。
「ねぇ真実。せっかくだからさ……明日一緒に大学に行かない?」
もう眠ったのかと思っていた愛梨が、ふいにそう問いかけてくる。
突然だったのに、どうしようなんて迷う間もなく、私の口は勝手に、
「うん。行こうかな」
と答えていた。
しーんと一瞬、部屋の中に静けさが広がる。
ひょっとしたら返事が聞こえなかったのかと、布団から身を起こしてベッドの上の愛梨をのぞきこんだ私はびっくりした。
愛梨はベッドに仰向けに転がったまま、ポロポロと涙を流していた。
「やっと……やっと真実の口からその言葉が聞けた……」
ぐいぐいと手の甲で涙を拭きながら、嗚咽する愛梨の姿に、あっという間に私の視界もかすんで見えなくなる。
面倒見が良くて人情家の、思いやりに満ちたこの親友を、私は今までどれだけ傷つけてきたのだろう。
時と共に誰もが私という存在を忘れて行く中、たった一人でくり返し声をかけてくれるには、いったいどれだけの勇気をふり絞ってくれていたんだろう。
「愛梨……」
ボタボタと涙をこぼしながら呼びかける私の顔を見て、愛梨は泣きながらふき出した。
「ブッ。真実ったら泣き顔ちょっと不細工……そんなんじゃ海君に逃げられちゃう」
涙でぐしゃぐしゃな自分の顔は棚に上げておいて、よく言う。
「愛梨だって! その顔じゃ彼氏に逃げられるわよ……!」
負けずに言い返した私に向かって、愛梨はイーッと顔をしかめてみせた。
「残念でしたー。しょっちゅう喧嘩するから、時男は私のこんな顔ぐらい見慣れますー。今更そんなことくらいじゃ、私たちはどうにもなりませーん」
「………………!」
負けるものかと何か言い返したかったけれど、それ以上はもう何も言えなかった。
海君と出会って一ヶ月にも満たない私じゃ、二年も恋人と一緒に暮らしている愛梨にかなうはずがない。
「ふふふっ」
勝ち誇ったように笑った愛梨は、起き上がっていたベッドの上にもう一度ゴロンと転がった。
私ももう一度、布団に横になって、天井を見上げる。
「真実は変わったなー」
同じように上を見たままの愛梨が、笑いまじりに呟いた。
「そうかな?」
自分では全然そんな気はしなくて。
でもそう言われるとなんだか悪い気もしなくて。
私もついつい頬が緩む。
「変わった。変わった」
おどけたような愛梨の声が――ダメだ。
嬉しくって、もう笑わずにはいられない。
「ふふっ。だとしたら嬉しいな」
笑いながらも素直に気持ちを語ってみると、間髪入れずに愛梨から、鋭い指摘が返ってくる。
「彼のおかげだね」
「うん」
頷いてから私は、そっと目を閉じた。
愛梨が「抱き枕変わりに」と貸してくれた柔らかな手触りのクッションを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
――目を閉じれば浮かんでくるのは、いつだって海君の笑顔。
(あの笑顔の隣にいたい……!)
その思いだけが私を衝き動かす。
「良かったねー……ほんと良かった……」
何度も何度もくり返す愛梨の声が、胸に染みる。
その一つ一つに私は、「うん」「うん」といつまでも返事し続けた。
翌朝、大学へ向かおうと二人で愛梨の部屋を出た途端、、少し離れたバス停に立っている海君の姿が目に飛びこんできた。
私たちの姿を見つけると、遠目にもはっきりとわかるくらいに、ニッコリと微笑む。
「すごい……笑顔が眩しいわ……!」
いつも心の中でこっそりと考えていたことを、愛梨に口に出して言われてしまって、私は思わずふき出した。
「あははっ」
そんな私たちに歩み寄ってきた海君は、ほんの少し目を細めて、いっそう笑顔になる。
「おはよう。楽しそうだね」
「おはよう」
負けないぐらいの笑顔で返事した私の手を、海君はすぐにいつものように捕まえる。
「じゃ行こうか」
「えっ? どこへ?」と聞き返す暇もなく、海君は私の手を引き歩きだした。
そうしながら、あまりにもサラッと、
「行くんでしょ? ……大学」
私がこれから言い出そうとしていたこと、そのものズバリを当ててしまう。
「ど、どうしてっ!?」
大声で叫んだ私をふり返って、海君はかなり意味深な表情で、じいっと私の顔を見つめた。
「真実さんのことなら俺はなんだってわかるから」
私が次に何かを言うまでは、決して崩れないその大真面目な顔は、いつだって私をこの上なくドキドキさせる。
私をからかうのが大好きな海君は、きっと何かを企んでいるんだろうに、私はまたそれにまんまと引っかかって、焦りまくってしまう。
「ど、どうしてっ……?」
海君はもうたまらないとばかりに、大笑いを始めた。
「もちろんただのカンだよ。ゴメン。そんなに素直に俺を信じないでよ……ハハハッ」
悔しい。
海君にはもう、かなわない。
全然かなわない。
「まいったなー。これは本当に本物だわ……!」
感嘆しながら腕組みをする愛梨を、一人置いてはいけないと私は必死でふり返るのに、当の愛梨は早く行けとばかりに、ヒラヒラと手を振る。
「どうぞ私のことは気にしないで。うーん……なんだか二人を見てたら、私も時男に会いたくなって来ちゃった……」
時男とは、私が転がりこんだせいで現在愛梨の部屋を追いだされている、彼女の恋人である。
「これ以上当てられると、ちょっと寂しくなってくるんで……どうぞ私のことは放っておいて下さい……」
冗談めかしてペコリと頭を下げた愛梨に、海君も立ち止まり、大きく体を折り曲げてお辞儀した。
「それでは、これより姫は自分が責任を持ってお預かりします」
「うんうん。いいよ」
「ちょ、ちょっと……姫って……!」
芝居めかしたやり取りが、すっかり気に入ってしまったらしい海君と愛梨は、二人揃って笑いながら、焦る私を見つめている。
優しい思いに満ちた、穏やかな眼差し。
全てが私のためだと、私の気持ちを明るくするためだと、気づいてしまったらまたきっと泣いてしまうだろうから、私はしらんふりりする。
ふたりの優しさに気がつかないフリをする。
「帰りも迎えに行くよ。ここまで送るから、大学どんなだったか、話を聞かせて」
余裕たっぷりで微笑む海君に、たまにはちょっとやり返してみたい気がして、私はわざと問いかけた。
「……それって、もしかして歩いて?」
顔が笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、せいいっぱい真面目な顔を作る。
『俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車に乗るぐらいしかないんで』
なんて、以前笑って言った時の、海君の茶目っ気いっぱいの子供みたいな笑顔を思い出して、ドキドキと反応を待つ。
海君は愛梨が一緒にいることをまったく気にしていないかのように、繋いだ手を強く引いて私を抱き寄せ、ぎゅっと自分の腕の中に抱きこんでしまった。
「もちろんそうだよ。何? もっと他の方法がいいの?」
私の意志をうかがうポーズとはいえ、そんなに近い距離から、瞳をのぞきこまないでほしい。
そんなに真っ直ぐに見られたら、息がかかりそうに近い位置から見つめられたら、ドキドキと心臓が口から飛び出してきそうになる。
どうしようもなく胸が鳴って、平静な顔なんてもうできるわけがない。
「……真実さん」
「な……な、何?」
「トマトみたいに顔が真っ赤だよ」
「…………………!」
ニヤリと笑った海君は、次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
(まったくかなわない! かなうわけがない!)
内心かなり怒っているはずなのに、やっぱり私はそんな彼の笑顔から、一瞬も目を逸らすことができない。
眩しくって、綺麗で、見つめずにはいられない。
「ゴメン。ゴメン。行こっか」
クシャッと私の頭を撫でる大きな手に、心臓を鷲づかみにされたような気分になる。
これではどう考えても私のほうが余裕がない。
その笑顔に、何気ない行動に、どうしようもなくドキドキさせられて、年上の威厳も何もあったものじゃない。
「これは……真実じゃなくっても、やられるわ……」
愛梨の小さな呟きが思いがけず耳に入ってきて、私はますますドキドキする。
赤くなる。
「あっ、またトマト!」
目ざとく見つけてしまう海君を、また喜ばせるばかりだった。
私のアパートよりは繁華街から遠い静かな道。
静まり返った住宅街に、私と彼の足音だけが響く。
(この道がどこまでも続けばいいのに……)
一歩先を歩く背中を見つめながら、そんなことを思った。
けれどアパートよりはずっと手前の曲がり角で、うす暗い街灯の下、私を待ってくれている愛梨の姿を見つけたら、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。
「あっ来た! 真実ー!」
大きな声で叫びながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を振る元気な姿は、いつも変わらない。
「愛梨!」
手を振り返す私を海君は見下ろして、ちょっぴり笑った。
まるで自分のことのように嬉しそうな顔。
優しい瞳が「良かったね」と声にならない言葉をかけてくる。
(うん)
私も声に出さないで頷いてから、繋いだ手に力をこめた。
ありがとうの思いをこめて握りしめた。
まさか海君が私を送ってくるとは、さすがに愛梨も予想していなかったらしい。
「こんばんは」
と笑って頭を下げた海君に、ほんのり頬を染めて、かなり慌てている。
「こ、こんばんは」
愛梨の視線がじいっと、私と海君が繋いだ手に注がれているのを感じた。
思わず放そうとした私の手を、海君は自分の手ごと軽く持ち上げて、「はい」と愛梨にさし出す。
「う……海君!」
焦る私にニヤッと悪戯っぽい笑顔を向けると、海君は愛梨の手の上で私の手を放した。
「こっからは交代。よろしくお願いします」
もしうぬぼれてもかまわないならば、私を見つめる海君の瞳はこの上なく優しい。
まるで慈しむように、惜しむことなく注がれる優しい眼差し。
「OK。お姫様は確かに預かるからね」
冗談めかして愛梨が私の手をしっかりと受け取った。
根が陽気な愛梨は、きっとこんなやり取りが大好きだ。
海君のことをかなり気に入ったはずだと、私にはわかる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
いつもと同じ約束を残して、海君は私たちに背を向ける。
すっかり見慣れたその背中を、私はちょっぴり寂しい気持ちで見送った。
「ありがとー! 海君!」
愛梨が私と繋いだ手をぶんぶんと振りながら、大声で叫ぶ。
海君は笑顔でふり返って、もう一度愛梨に頭を下げる。
その背中が遠くの角を曲がって、すっかり見えなくなってから、愛梨は改めて、ポツリと呟いた。
「真実……きっと今度は幸せになれるよ……」
余計なネオンがないおかげで、このあたりは私の部屋がある界隈よりよく星が見える。
愛梨は夜空を見上げながら、独り言のようにくり返した。
「幸せになれる。きっと。海君と一緒だったら……」
胸が痛かった。
「うん。そうかもしれない……」
口ではそう答えながらも、きっとそうはならない予感が私にはある。
海君は私に何も教えてくれない。
あれこれ聞かれるのを好まないのには、きっと何か理由があるはずだ。
私の知らない『何か』。
その『何か』がある限り、あまり夢を見てはいけないと、私は自分に言い聞かせる。
でも今は――少なくとも今この時だけは、また明日来てくれると言った彼の言葉を喜ぼう。
喜んで――幸せな気持ちで、嫌なことも全部忘れて眠りにつこう。
「私……今でも、幸せだよ……」
夜空を見上げながら自然と笑顔になれた私の顔をのぞきこんで、愛梨もぱあっと華やかに笑う。
「それはどうも……ごちそうさま!」
「あははっ」
あんなに嫌なことがあった夜だというのに、私は笑っていた――笑えているのは、海君や愛梨のおかげだということを忘れてはならない。
夜空を見上げながら、二人がいてくれたことに心から感謝した。
「でもさ……警察が動きだしたんだったら、さすがに岩瀬も、もうこれで諦めるんじゃないかな? ……犯罪者にまではなりたくないんじゃない?」
ベッドが一つしかない愛梨の部屋。
私は愛梨のお母さんが田舎からやってきた時用の布団をベッドの隣に敷いて、ベッド上の愛梨と並んで横になっている。
突然出てきた幸哉の名前にドキリとしながらも、できるだけ普通に聞こえるように返事した。
「うん。そうだね」
愛梨は、幸哉が私にふるった暴力の全てを知っているわけではない。
どんどんおかしくなっていく幸哉が、私は怖くてたまらなくて、次第に誰にも言えなくなったから、愛梨だけじゃなく他の誰も、本当のことは知らない。
言うつもりもなかった。
ただ私が一人で耐えていればいいのだと――我慢していればいいのだと、ずっと自分で自分に言い聞かせていた。
でも本当は――
「できたら……もう私のことは忘れてほしい……それで前の幸哉に戻ってほしい……」
口に出して言葉にして、初めて、願いは誰かに届くものなのかもしれない。
「きっと、そうなるよ」
愛梨の返事は、優しい彼女の慰めの言葉であるだけではなく、目には見えない誰かの言葉のようにも聞こえた。
本当に幸哉に変わってほしいと願う私の心が、その時初めて、その誰かに届いたような気がした。
(幸せになって、とはもう願わない……だからどうか……私のことはもう忘れて)
今度こそ、その願いが叶うといいと、私は心から祈った。
「ねぇ真実。せっかくだからさ……明日一緒に大学に行かない?」
もう眠ったのかと思っていた愛梨が、ふいにそう問いかけてくる。
突然だったのに、どうしようなんて迷う間もなく、私の口は勝手に、
「うん。行こうかな」
と答えていた。
しーんと一瞬、部屋の中に静けさが広がる。
ひょっとしたら返事が聞こえなかったのかと、布団から身を起こしてベッドの上の愛梨をのぞきこんだ私はびっくりした。
愛梨はベッドに仰向けに転がったまま、ポロポロと涙を流していた。
「やっと……やっと真実の口からその言葉が聞けた……」
ぐいぐいと手の甲で涙を拭きながら、嗚咽する愛梨の姿に、あっという間に私の視界もかすんで見えなくなる。
面倒見が良くて人情家の、思いやりに満ちたこの親友を、私は今までどれだけ傷つけてきたのだろう。
時と共に誰もが私という存在を忘れて行く中、たった一人でくり返し声をかけてくれるには、いったいどれだけの勇気をふり絞ってくれていたんだろう。
「愛梨……」
ボタボタと涙をこぼしながら呼びかける私の顔を見て、愛梨は泣きながらふき出した。
「ブッ。真実ったら泣き顔ちょっと不細工……そんなんじゃ海君に逃げられちゃう」
涙でぐしゃぐしゃな自分の顔は棚に上げておいて、よく言う。
「愛梨だって! その顔じゃ彼氏に逃げられるわよ……!」
負けずに言い返した私に向かって、愛梨はイーッと顔をしかめてみせた。
「残念でしたー。しょっちゅう喧嘩するから、時男は私のこんな顔ぐらい見慣れますー。今更そんなことくらいじゃ、私たちはどうにもなりませーん」
「………………!」
負けるものかと何か言い返したかったけれど、それ以上はもう何も言えなかった。
海君と出会って一ヶ月にも満たない私じゃ、二年も恋人と一緒に暮らしている愛梨にかなうはずがない。
「ふふふっ」
勝ち誇ったように笑った愛梨は、起き上がっていたベッドの上にもう一度ゴロンと転がった。
私ももう一度、布団に横になって、天井を見上げる。
「真実は変わったなー」
同じように上を見たままの愛梨が、笑いまじりに呟いた。
「そうかな?」
自分では全然そんな気はしなくて。
でもそう言われるとなんだか悪い気もしなくて。
私もついつい頬が緩む。
「変わった。変わった」
おどけたような愛梨の声が――ダメだ。
嬉しくって、もう笑わずにはいられない。
「ふふっ。だとしたら嬉しいな」
笑いながらも素直に気持ちを語ってみると、間髪入れずに愛梨から、鋭い指摘が返ってくる。
「彼のおかげだね」
「うん」
頷いてから私は、そっと目を閉じた。
愛梨が「抱き枕変わりに」と貸してくれた柔らかな手触りのクッションを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
――目を閉じれば浮かんでくるのは、いつだって海君の笑顔。
(あの笑顔の隣にいたい……!)
その思いだけが私を衝き動かす。
「良かったねー……ほんと良かった……」
何度も何度もくり返す愛梨の声が、胸に染みる。
その一つ一つに私は、「うん」「うん」といつまでも返事し続けた。
翌朝、大学へ向かおうと二人で愛梨の部屋を出た途端、、少し離れたバス停に立っている海君の姿が目に飛びこんできた。
私たちの姿を見つけると、遠目にもはっきりとわかるくらいに、ニッコリと微笑む。
「すごい……笑顔が眩しいわ……!」
いつも心の中でこっそりと考えていたことを、愛梨に口に出して言われてしまって、私は思わずふき出した。
「あははっ」
そんな私たちに歩み寄ってきた海君は、ほんの少し目を細めて、いっそう笑顔になる。
「おはよう。楽しそうだね」
「おはよう」
負けないぐらいの笑顔で返事した私の手を、海君はすぐにいつものように捕まえる。
「じゃ行こうか」
「えっ? どこへ?」と聞き返す暇もなく、海君は私の手を引き歩きだした。
そうしながら、あまりにもサラッと、
「行くんでしょ? ……大学」
私がこれから言い出そうとしていたこと、そのものズバリを当ててしまう。
「ど、どうしてっ!?」
大声で叫んだ私をふり返って、海君はかなり意味深な表情で、じいっと私の顔を見つめた。
「真実さんのことなら俺はなんだってわかるから」
私が次に何かを言うまでは、決して崩れないその大真面目な顔は、いつだって私をこの上なくドキドキさせる。
私をからかうのが大好きな海君は、きっと何かを企んでいるんだろうに、私はまたそれにまんまと引っかかって、焦りまくってしまう。
「ど、どうしてっ……?」
海君はもうたまらないとばかりに、大笑いを始めた。
「もちろんただのカンだよ。ゴメン。そんなに素直に俺を信じないでよ……ハハハッ」
悔しい。
海君にはもう、かなわない。
全然かなわない。
「まいったなー。これは本当に本物だわ……!」
感嘆しながら腕組みをする愛梨を、一人置いてはいけないと私は必死でふり返るのに、当の愛梨は早く行けとばかりに、ヒラヒラと手を振る。
「どうぞ私のことは気にしないで。うーん……なんだか二人を見てたら、私も時男に会いたくなって来ちゃった……」
時男とは、私が転がりこんだせいで現在愛梨の部屋を追いだされている、彼女の恋人である。
「これ以上当てられると、ちょっと寂しくなってくるんで……どうぞ私のことは放っておいて下さい……」
冗談めかしてペコリと頭を下げた愛梨に、海君も立ち止まり、大きく体を折り曲げてお辞儀した。
「それでは、これより姫は自分が責任を持ってお預かりします」
「うんうん。いいよ」
「ちょ、ちょっと……姫って……!」
芝居めかしたやり取りが、すっかり気に入ってしまったらしい海君と愛梨は、二人揃って笑いながら、焦る私を見つめている。
優しい思いに満ちた、穏やかな眼差し。
全てが私のためだと、私の気持ちを明るくするためだと、気づいてしまったらまたきっと泣いてしまうだろうから、私はしらんふりりする。
ふたりの優しさに気がつかないフリをする。
「帰りも迎えに行くよ。ここまで送るから、大学どんなだったか、話を聞かせて」
余裕たっぷりで微笑む海君に、たまにはちょっとやり返してみたい気がして、私はわざと問いかけた。
「……それって、もしかして歩いて?」
顔が笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、せいいっぱい真面目な顔を作る。
『俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車に乗るぐらいしかないんで』
なんて、以前笑って言った時の、海君の茶目っ気いっぱいの子供みたいな笑顔を思い出して、ドキドキと反応を待つ。
海君は愛梨が一緒にいることをまったく気にしていないかのように、繋いだ手を強く引いて私を抱き寄せ、ぎゅっと自分の腕の中に抱きこんでしまった。
「もちろんそうだよ。何? もっと他の方法がいいの?」
私の意志をうかがうポーズとはいえ、そんなに近い距離から、瞳をのぞきこまないでほしい。
そんなに真っ直ぐに見られたら、息がかかりそうに近い位置から見つめられたら、ドキドキと心臓が口から飛び出してきそうになる。
どうしようもなく胸が鳴って、平静な顔なんてもうできるわけがない。
「……真実さん」
「な……な、何?」
「トマトみたいに顔が真っ赤だよ」
「…………………!」
ニヤリと笑った海君は、次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
(まったくかなわない! かなうわけがない!)
内心かなり怒っているはずなのに、やっぱり私はそんな彼の笑顔から、一瞬も目を逸らすことができない。
眩しくって、綺麗で、見つめずにはいられない。
「ゴメン。ゴメン。行こっか」
クシャッと私の頭を撫でる大きな手に、心臓を鷲づかみにされたような気分になる。
これではどう考えても私のほうが余裕がない。
その笑顔に、何気ない行動に、どうしようもなくドキドキさせられて、年上の威厳も何もあったものじゃない。
「これは……真実じゃなくっても、やられるわ……」
愛梨の小さな呟きが思いがけず耳に入ってきて、私はますますドキドキする。
赤くなる。
「あっ、またトマト!」
目ざとく見つけてしまう海君を、また喜ばせるばかりだった。