愛梨に連絡して、その日は彼女の部屋に泊めてもらうことになった。
「大丈夫……居候の彼氏なんかすぐに追い出すから! いつまでだってここにいなさい!」
 携帯の向こうですごい剣幕で叫んでいる愛梨は、「だからあんなに言ったじゃない!」なんて私を責めるような言葉は、決して口にしない。
 その優しさが今は心に染みる。
 
「ありがとう……」
 心からのお礼を言って、携帯を切った。
 
 愛梨のおかげで、ほんの少しだけ気持ちが明るくなったような気がする。
 でも、ドアの向こうで私を待っている海君の背中を見たら、またすぐに泣きそうな気持ちになった。
 
 海君が私の顔を見てくれない。
 それがくり返されるたび、胸の痛みはどんどん大きくなる。
 
 ブランコと滑り台しかない小さな公園に入った海君は、本当にブランコに座ってキーキーと軋む音を立てながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。
 私ももう一つ並んだブランコに腰かける。
 でも、とても漕ぐような気にはなれない。
 
 静かな公園に、海君の座ったブランコの音だけが響いた。
 私たち二人の間には、ただ長い長い沈黙だけが続く。
 
 これから海君がどんな話を切り出すつもりなのか。
 想像しただけで、心が握り潰されそうだった。
 
(どうせサヨナラするんなら早いほうがいい。そうじゃないと、私はどんどん海君を好きになってしまう。望めるはずもない夢ばっかり見てしまう。そうなってからじゃ……きっともっと辛くなる……)
 
 自分に言い聞かせるかのように、そんなことばかりを考える。
 いつの間にか、深く俯いていた頬を、涙が伝って落ちた。
 
「泣かないで」
 海君がふいにそう言って、ブランコから飛び下りた。
 私の傍へとやってくる気配がする。
 すぐ目の前で止まる、見慣れたスニーカー。
 
「泣かないで真実さん」
 頭上から降ってくる声は、胸を締めつけられるくらいに優しかった。
 私の髪にそっと触れた手が、そのまま頬を撫でるようにして涙をすくい取り、肩の位置まで下りて止まる。
「泣かないでよ、真実さん」
 
 まるで壊れものを扱うかのように、優しく抱き寄せられて、もう涙が止まらなくなった。
「ごめんね、海君……」
 何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
 でも――。
 
「ごめんね……ごめんね……」
 涙と一緒にその言葉しか、私の口からは出てこなかった。
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
 胸いっぱいに抱えこんでいた気持ちを全部さらけ出すかのように、ただ謝り続ける私を、ぎゅっと抱きしめて海君は囁く。
 
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
 しゃくりあげるばかりだった私は、息が止まるような思いで、海君の腕の中から彼の顔を見上げた。
 
 月明かりの中。
 確かに海君はいつもとは別人のように、冴え渡った表情をしていた。
 
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
「海君?」
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそ俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
「海君!!」
 息をのんだ私に、海君は実に彼らしくない、形だけの笑い方をした。
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
 
 もう言葉も出てこない。
 彼は本当に私のよく知っている海君だろうか。
 それとも別の誰かだろうか。
 そもそも『海君』という青年は、私が勝手に名づけた、本当には存在しない人物だ。
 
 でも私は知っている。
 
 私の目の前にいるこの彼は、とても太陽の下が似あうこと。
 明るく屈託なく笑うこと。
 私を見つけ出し、暗闇の中から救ってくれたこと。
 ――そして誰よりも優しいこと。
 
 私はそんな彼に憧れて――どうしようもなく好きになった。
 だから――
 
(私のせいで、傷つかないで……!)
 願うような、祈るような気持ちで、その胸にもう一度顔を埋めた。


 
 誰かを大切にしたいという想いは、祈りによく似ている。
 
(どうかこの人が幸せになれますように……)
 
 自分のためならば願いもしないようなことも、その人のためならば、願わずにいられない。
 代償に自分が不幸になってもかまわない。
 そんなことはどうでもいい。
 
(ただこの人が幸せならば……)
 
 出会ってからずっと、私が海君に感じていた想いは、いつだってそんな――祈りにも似た願いだった。


 
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつを許すんだ。結局、許してしまうんだ……ねぇ、そんなにあいつが好き?」
 私を抱きしめたまま、海君は思いもかけないことを言いだす。
 驚いて顔を上げた私は、月の光を背中に受けながら、真っ直ぐに私を見つめている海君と目があった。
 怒ったような、傷ついたような、初めて見る表情だった。
 
「……どうして?」
 彼が言ったことの意味がわからない。
 そんなことがあるはずない。
 
 驚きのあまり目を見開く私を、彼はほんの少し目を細めて見る。
 どんな時だって真っ直ぐなその瞳に、一筋の影が落ちる光景が、たまらなく私の胸を灼く。
 
「私が好きなのは……!」
 彼の両腕をしっかりと掴んで、声を荒げて主張しようとした私の声は、同じように大きな海君の声に遮られる。
 
「俺でしょ! ごめん。わかってる……ちゃんと知っている。でもどこかであいつを許してる真実さんがいる……できることなら、あいつにまともに戻って欲しいと望んでる真実さんがいる……もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
 胸にかき抱くように私を抱きしめて、海君は押し殺したような声で呟く。
 その声が、言葉が、痛いくらいの腕が、私の胸に刺さった。

「そんなはずないじゃない!」
 涙と一緒に溢れだした言葉が、ちゃんと海君に伝わるだろうか。
 こんなに傷つけて、こんなに苦しめて、それでも傍にいて欲しいと願わずにはいられない人。
 
 ――どうやったらもっと、彼に私の想いを伝えられるのだろう。
 
 自分だけが、あの地獄のような日々から抜けだして幸せになるのは、なんだかズルいことのような気がして、私は幸哉にも幸せになって欲しいと願った。
 でもそれは、私の自己満足であり、偽善だ。
 幸哉が私を望むかぎり、幸哉の願いは叶わない。
 絶対に叶わないのだから――。
 
(わかっているのに望んだ。願わずにいられなかった。全部私のわがままだね……)
 どうしようもない思いに、私は海君の腕の中で、固く目を瞑った。
(私のわがままで、海君を傷つけた……!)
 それなのに、まるで誰にも渡さないという意思表示のように、彼は私をきつく抱きしめる。

「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
「海君……!」
 どうしよう、涙が止まらない。
 
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方なんて、そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
 小さな叫びのように、私の耳元で囁かれる言葉は、私だけのものだ。
 私だけに海君が向けてくれた、これ以上ない強い想いだ。
 
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
 一つまちがえれえば彼を奈落の底に突き落としてしまいかねない、それは恐ろしい言葉のはずなのに、嬉しくてたまらない。
 泣かずにいられない。
 
 この言葉は、きっと私の一生の宝物になる。
 この先もしも一緒に歩けない日が来たとしても、海君が私に与えてくれた最高の贈りものになる。
 
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
 その胸に頬を押し当てたまま、くり返し伝える言葉に、彼は長い息を吐き、私の髪に頬を押し当てた。
「うん。真実さん」
 いつものように優しい調子に戻ったその声が、張り裂けそうだった私の心を、そっと優しく包みこんでくれた。