キミの秘密も愛してる

 狭いベッドの上で、肩を寄せあうようにして座って、
「海君、いつから外に居たの?」
「真実さんと別れてからそのままずっと」
 なんて話をしたのを覚えている。
 
 あまりにも近すぎる海君との距離。
 思いがけない返事にも、真っ直ぐに私を見つめてくる瞳にも、いろんな感情が入り混じっているように感じるから、どうしようもなく鼓動が速くなる。
 
「それってストーカーみたいだよ……?」
 緊張するばかりの自分をごまかそうと、わざとふざけて言ってみたのに、大真面目な顔で、
「ある意味、俺はそうだよ」
 と返された。
 
 かえって胸のドキドキが大きくなって、息が止まってしまいそうだった。
(これからいったいどうしたらいいの? どうするって……ど……どうしよう?)
 動揺が激しくなるにつれ、心臓のほうも、もう今にもパンクしそうになっていく。
 その時の私は、確かにそんな状態だったのに――。
 
 サイレンを鳴らしながらやってきたパトカーに、幸哉がそのまま連行されてしまったのかどうかさえ、実は私は覚えていない。
 海君に寄りかかるように座って、息をひそめながら、幸哉が叩き続けるドアの音を聞いているうちに、どうやら眠ってしまったらしかった。
 

 翌朝目が覚めた時には、しっかりとベッドに横になって寝ていて、部屋には海君の姿も、外には幸哉の姿もなかった。
 
(す、すごいよ……私……)
 自分でもかなりびっくりしたし、呆れた。
 
 とにかくいつものように朝食を食べて、バイトにでかける準備をして、家を出る。
(海君……ひょっとしたら今日は来てくれないんじゃないかな……?)
 
 予想に反して、彼はいつもの時間にいつもの場所で待っていてくれた。
  けれど嬉しい気持ちいっぱいで駆け寄った私の姿を見て、少し眠そうな目をパチパチと瞬かせながら、
「真実さん、すごすぎるよ……」
 いつになく大きなため息と共に迎えてくれた。
 
 海君の話によると、私は警察が着くと同時に軽やかな寝息を立て始め、そのあと彼がいくら呼んでも揺さぶっても、ピクリとも起きなかったらしい。
 おかげで駆けつけてくれた警察の人には事情の説明ができず、私はあとで改めて、警察署に行かなければならなくなった。
 
「俺も少し質問されたけど、詳しいことはわかんないし……正直困った……」
 少々うつむき加減のまま、ポツリポツリと昨夜の状況を語ってくれた海君に、私は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい! 前の晩あんまりよく眠れなかったから……だから……海君が来てくれて……それで安心しちゃった……のかな? ……ほんとごめんなさい!」
 言ってて自分でも恥ずかしくなる。
 
「うん。いいよ」
 表情がよく見えないままの海君の耳も、ほんのりと赤くなっている。
 でも上目遣いにしばらくの間見ていても、珍しく目をあわせてくれない。
「…………?」
 不思議に思って尋ねようかとした時、ふいに海君が口を開いた。
 
「いいけど……俺……しばらくは立ち直れそうにない……」
「え?」
 見るからにガックリと肩を落としてみせてから、海君は顔を上げた。
 真っ直ぐな瞳が、少し怒ったように、拗ねたように、私に問いかける。
 
「だって……真実さんが本当に俺を好きだったら、まさかあの状況では眠れないでしょ? 俺なんて、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張してたのに……」
 私は慌てて、手も顔も必死に横に振った。
 
「私だって! 私だって同じだったよ!」
 けれど海君にはまったく信じてもらえない。
 
「いいや。俺が思う『好き』と、真実さんの『好き』は、同じじゃないんだよ……あーくそっ。俺ってほんと馬鹿みたいだ……!」
 いくら私が「違う」と言っても、海君にはまるで通じなかった。
 
「私だってドキドキしてたよ!」
「…………」
「ほんとだってば!」
「…………」
 
 あまりにも話を聞いてもらえないその状況に、自分が悪いにも関わらず、思わず腹が立った。
「もういいっ!」
 感情のままに怒って歩き出し、二、三歩進んだところで、自然と足が止まる。
 朝の清々しい空気の中でこだまするように、以前海君が言っていた言葉が、ふいに耳の奥に蘇った。
 
『俺は追いかけないよ』
 
 途端に不安になって、私は慌ててふり返った。
 ほんのついさっきまで私の心のほとんどを支配していたはずの怒りなんて、完全にどこかに消え去っていた。
 ただ心配で心配でたまらなかった。
 
 思ったとおり――海君はやっぱり私を追いかけず、まださっきの場所に佇んでいる。
 どうやら本当に、追いかけるつもりはないらしい。
 けれど目があった瞬間に、彼が一瞬見せた表情は、深い安堵の表情だったように感じた。
 私が立ち止まってふり返ることを、彼も望んでくれていたように感じた。
 
(じゃあいったいどうして……追いかけないの?)
 尋ねてみればすぐに答えがもらえるかもしれない単純な疑問なのに、私はなぜかそれを海君に訊くことができない。
 
 勘。
 嫌な予感。
 私の本能にも近いものが、意識のずっと奥のほうから、ストップをかけてくる。
 
(いい。何も知らなくてもいい……そばにいてくれれば、それでいい……)
 自分にとって今何が一番大切なのか。自分自身がよくわかっていた。
 
「警察に行くんでしょ? 俺も一緒に行くよ。心配だから」
 固まってしまった私にゆっくりと近づいてきて、海君はまるで何もなかったかのように、私の右手を取る。
 
 まるで当たり前のように、自分の手が彼の手の中に収まって、私はホッと息をついた。
(うん。やっぱり無理だ……変な意地を張って海君を失うなんて……私にはできない……)
 降参して、素直に口を開いた。
「うん。ありがとう。でも、警察に行く前に、寄りたい所があるの……」
 
 私の言葉に、海君はさらりと柔らかな髪を揺らして、首を捻る。
「何?」と問いかけるような視線に、私は昨日決意したことを伝えた。
 
「バイト先に行って、話をしなくちゃ……大学に通うから、もう辞めますって……」
 海君の顔がパアッと明るく輝く。
 
「じゃあ真実さん……本当に大学に戻るんだ?」
「うん」
 誇らしくって、私は胸を張った。
 何もかもを諦めかけていた自分が、今、新しい一歩を踏み出そうとしている。
 それが、たまらなく嬉しかった。
 
 でも、もとはといえば――全ては海君のおかげなのだ。
 彼とであったから、私は、(まだやり直せるかも?)と思った。
 彼の隣に並んでいたいから、(変わりたい!)と思った。
(いくら感謝しても、しきれない……!)
 
 見上げてみた海君の顔は、心から嬉しそうな笑顔で私を見下ろしていて、また少し、いつもより大人びて見えた。
 
(いたずら好きの少年。かと思うと、時々とっても大人。嘘のない人。でも秘密はいっぱい。私をいつも助けてくれる。私の大好きな人。)
 上目遣いにその笑顔を見上げながら、私はその時初めて、
(海君って本当はどんな人なんだろう?)
 と思った。
 
 私が実際に見て、聞いて、触れている海君のことはよく知っている。
 でもその他のことは、何一つわからない。
 
「海君って、本当はいくつなの?」
 思わず口をついて出てしまった言葉に、並んで歩いていた彼が歩みを止めて、私のほうに向き直った。
 
(しまった!)
 なぜだかそんなことも聞いてはいけなかったような気がして、心の中で息をのんだ。
 
 海君はゆっくりと私に腕を伸ばす。
「なんでそんなことが知りたいのかな、この人は?」
 私と繋いだ左手じゃなく右手で、私の鼻を軽くつまんだその顔は、別に怒った様子ではなかった。
 ホッとすると同時に、ちょっと強気になる。
「別に。ただ思っただけ」
 
(ほら、やっぱりちゃんと答えてはくれない……)
 それは最初からわかっていた。
 海君は私に何も教えてくれない。
 名前も、年も、普段は何をしているのかも。
 どこに住んでいるのかさえも。
 
(別に、そんなこと、知らなくてもいい。こうして隣にいてくれるだけでいい……)
 自分に言い聞かせるようにそう思ってはみても、いつもどこかに、釈然としない気分が残っているのも嘘ではない。
 
「それじゃあ、真実さんは? 何歳なの?」
 考えこんでいた私に、海君がふいに問いかけた。
 面白そうに笑って、私の反応を見ているその目が、
(女の人は自分の年なんて答えないでしょ?)
 と言っているような気がして、私はついつい、「負けるものか!」と思ってしまった。
 
「私は二十歳。九月になったら、誕生日が来て二十一歳!」
 ごまかしも隠しもせず、ハッキリと答えてやった。
(どんなもんだ。参ったか)
 妙に勝ち誇った気持ちで見上げた海君の顔は、思っていた以上に動揺していた。
 私から視線を逸らして、右手で前髪をかき上げ、そのままギュッと目を閉じる。
 
「え、何? どうしたの?」
 自分から言っておいて、私はとても不安になった。
「もしかして、ものすごい年の差だった……?」
 ドキドキしながら顔色を探る私に、海君はやっと目を開いて、視線を向けてくれる。
 
「いや、そうでもないよ」
 私の顔を改めて、正面から見つめ直す。
 
「でも、二十歳かあ……」
 その声に少し非難の色を感じて、私はまたムッとした。
 
「悪い?」
 まるで挑むかのように強い口調で言い返すと、海君は小さく笑う。
 急にいつものように曇りのない笑顔になって、
「いや悪くないよ」
 と、とても魅力的に笑ってくれた。
 
 けれど次の瞬間には、その笑顔が見事なまでにひっこんで、キリッと真剣この上ない顔に変貌する。
「でも、絶対俺の家には連れていかない、と今決めた!」
 
「え?」
 語気荒く告げられた言葉の意味がよくわからなくて、思わず間抜けな声が出てしまう。
 
「どうして?」
 改めて聞き直した私に向かって、海君は珍しくちょっと困った顔をする。
 理由は言いたくないような。
 私にも聞いて欲しくないような。
 そんな顔。
 
 いつもの余裕たっぷりの笑顔とはまるで違っていて、その顔はなんだかかなり彼の年相応に見えた。
「どうして?」
 いつまでも答えてくれないから、もう一押し尋ねてみる。
 
 海君は渋々と口を尖らせながら口を開いた。
「兄貴と同じ年なんだよ……だから、ぜえったいに! 会わせない!」
 ますます強い口調で宣言されて、思わず口がポカンと開いた。
「それは……いったいどういう意味に取ったらいいのかな……?」
 
 よけいにわけがわからなくなって、首を捻るばかりの私に、海君はとうとう諦めたみたいに大きく息を吐いた。
「真実さんに、兄貴のほうがいいなんて言われたら、俺、今以上に、もう絶対に立ち直れないよ! ……だから絶対に、絶対に兄貴にだけは会わせない!」
 
 ため息まじりなわりには、妙にハッキリとしたその決意表明に、私は唖然とするしかなかった。
「な……なに言ってるの海君……?……」
 
 また私をからかおうとしているのかと、しばらく見つめてみても、海君の表情はいつまでも真剣そのものだ。
「海君……?」
 その表情の中に、少しふてくされたような色があって、それがたまらなく可愛かった。
 年下のくせにいつも余裕たっぷりの海君が、「絶対! 絶対」と何度もくり返すのが、なんだかおかしかった。
 私の少し尖がっていた気持ちなんて、いつの間にかスーッとどこかへ消えてしまう。
 
「そんなことあるわけないじゃない! 大丈夫だよ……!」
 嬉しくてつい笑わずにいられない私に、グッと顔を近づけて、海君は真剣な瞳で問う。
「兄貴、俺とソックリだよ。きっと、何年後かの俺の姿そのものだよ……?」
 急に目の前に現れた海君の顔にドキドキして、私は息が止まりそうだった。
 
 決して彼が言うように、「そうか。海君にそっくりなのか……」なんて、彼のお兄さんに興味を持ったわけではない。
 それなのに海君は、真っ赤になって絶句してしまった私の顔を見て、
「ほらね」
 とため息を吐くのだ。
 
「ち、違う!『ほらね』じゃないわよ! 全然そんなんじゃないもの!」
 慌てて抗議の声を上げる私に向かって、海君はもう一度、
「絶対に会わせない!」
 とくり返した。
 
 有り得るはずのないことに、ひとりで心配して。
 怒って。
 むくれたように前を見たまま歩き続ける海君は――なんだか可愛い。
 ううん、愛しくてたまらない。
 
 繋いだ私の手はそのまま――放さずに、彼の手の中でしっかりと握られたままだから――余計にそう思う。
「海君」
「うん?」
 私のほうをふり返らずに、言葉だけで返事したその背中に、それでも私はそっと笑いかけた。
「私が好きなのは海君だよ」
 
 あまりにもストレート過ぎただろうか。
 ちょっと驚いたように海君は立ち止まる。
 
 でも大切な言葉は、そう何度も言ってあげない。
 その代わり、繋いだ手にギュッと力をこめる。
「本当だよ」の思いをこめて握りしめる。
 
 負けないくらいの強さが、彼から返ってきた。
 何も言わずにふり返った綺麗な瞳が、静かに私を見下ろしていた――大事なものを見つめるみたいに、ただ優しく。
 
 だから嬉しくなる。
 どんな言葉を貰うよりも、ずっとずっと嬉しくなる。
 
 その時、柔らかい、明るい色の海君の髪をかき乱すように、温かい南風が私達の間を吹き抜けていった。
 
 その風に乗って、なんだか彼から、意外な匂いがしたと私は思った。
 
(薬……消毒薬? ……病院の匂い……?)
 私を見つめる海君の笑顔からは、何もうかがい知れない。
 
 いつもの道。
 いつもの時間。
 いつも一緒の大好きな人。
 
 それは、私にとって本当に大切なものだったから、あらゆる非日常的な事は、今の私の頭の中では、あっという間に排除されてしまう。
 
 ただこの時を嬉しいと思い、楽しいと思う心が今は一番大切。
 だから、心に沸いた小さな疑問は、すぐに消えてしまう。
 
(ううん……きっとなんでもない……)
 海君と並んで手を繋いで歩けること――それがその時の私の幸せの全てだった。


 
 刹那の幸せに溺れる者を、どこかで見張ってくれている冷静な目があるのなら、ぜひ迂闊な私に声をかけてほしかった。
 肩を叩いて気づかせてほしかった。
 
 何も見えない。
 何も考えたくないほどの幸せが、どんなに危険なものなのか。
 どんなに危ういものなのか。
 
 自分ではわからないその愚かさを――誰でもいいからこの時教えてほしかった。
 バイト先のファミレスへ行って、近々辞めることの承諾を貰ってから、私たちはそのまま警察署へと向かった。
 大学へも続いている大通り。
 通い慣れた道のはずなのに、どこかが、何かが違う。
 
 故郷から出て、すでに二年以上を過ごした場所なのに、海君と手を繋いで歩く街は、まるで知らない街のようだった。
 いつもは車の窓から見るともなくぼんやりと見ていた景色が、鮮やかな色彩を伴って、ゆっくりと私の目に飛びここんでくる。
 
「ふーん。こんなところにこんなお店があったんだ……」
「あっ、知らない道を発見! こっちのほうが近道じゃない?」
 目に映る全てが新鮮で、珍しくて、新しい街に引っ越して来たような気さえする。
 
 のんびりとあたりに視線を配りながら、
「ああ、楽しい」
 なんて思わず口に出して言ってしまったから、海君に笑われた。
「真実さん。今からどこに行くのか、本当にわかってる?」
 
 おかしくてたまらないというようなその顔に、
(……はっ! そうだった! 今、私たち警察署に向かってるんだった!)
 ようやく本来の目的を思い出して、バツが悪くなった。
 私は首を縮める。
 
「別に自分が悪いことをしたわけじゃないのにね……どうして『警察』って聞いただけで、こんなにドキドキするんだろうね?」
 苦笑交じりで呟いた言葉に、
 
「え? 真実さんは悪いことしてるじゃない。いつも未成年者を連れまわしてるでしょ?」
 海君はキョトンと目を見開いて私の顔を見た。
 
「ええっ? これって……犯罪なの!?」
 ビックリして、思わず繋いだ手を海君の手ごと目の高さまで持ち上げる。
 
 そんな私を見て、海君はたまらずふき出した。
「ハハッ。そんなわけないじゃん。いくらなんでも、犯罪になるほどには若くないよ、俺。……それに今の見た目から言ったら、真実さんのほうがずっと若くて、かえって俺のほうが犯罪者みたいじゃない……?」
 肩を揺すって大笑いしながらも、海君は余裕たっぷりにそんなことを言う。
 
 私はムスッとむくれた。
 繋いだ手をふり解いて、彼はもうこの場所に置いていくことにする。
 
「待って、真実さん。俺も行くから」
 笑いながら声だけかけたって、待ってなんかやらない。
 
(もう! いっつもいっつも、海君は私をからかってばかり……!)
 簡単にひっかかってしまう自分が悪いのだが、悔しいものだから、前を見てズンズンと歩き続ける。
 
 頑なに彼に向け続ける無言の背中が、私の静かな抗議だった。
 
 でも、それがなんの意味もないことを、私はよくわかっている。
 
「俺は追いかけない」と海君が宣言している以上、私がいくら怒って先に行ってしまっても、それは海君にとってはなんの牽制にもならない。
 それどころか、ひょっとしたら私たちの別れの原因にも成りかねない。
 
 そんな危険を冒してまで、私が一人で先に行くことに意味はない。
 それは私だってわかっている。
 わかってはいるけれど――
 
(じゃあこの悔しさはどうすればいいわけ?)
 誰にともなく、心の中で尋ねずにはいられない。
 
 残念なことに、私は心優しい天使なんかじゃない。
 それどころか、ボーッとしているわりにはすぐにカッとなりがちだから、そんな自分をなんとか落ち着かせるのに、しょっちゅう苦労している。
 努力している。
 
 けれどやっぱりまだまだだ。
 上手く感情のコントロールができる大人になる日は、本当に来るんだろうか。
 
(でも……だけど……)
 そんな自分の短所と戦ってでも、大切にしたい想いを、私は今胸に抱えている。
 どんなものとでも秤にかけることはできない――それほど大切な、かけがえのない想い。
 
 だからやっぱり立ち止まる。
 彼のことをふり返る。
 
 そうすればきっと、またいつものように一緒に歩くことができるはずだ。
 
(本当はわかってる……待っていればゆっくりと追いついてきてくれることも。私の短気を責めもしないで、当たり前のようにまた手を繋いでくれることも。だから私はそんな海君の優しさに甘えて、こんなふうにわがままな行動だってできるんだ……)
 
 ふり返って見てみた海君は、本当にいつものようにさっきの場所に立ち尽くしていた。
 微動だにせず立っていた。
 だけど――。
 
「海君?」
 思わず大きな声で呼びかけずにはいられないくらい、彼の様子はおかしかった。
 まるでいつもどおりではなかった。
 
 ギュッと眉根を寄せて目を閉じ、空を仰ぐように上を向いている。
 もともと色白な顔はますます色を失って、透きとおりそうなほどに蒼白だった。
 
 私は我を忘れて、今歩いたぶんの距離を急いで駆け戻った。
「どうしたの、海君? 大丈夫?」
 
 すっかり慌てきった私の声に、「大丈夫」と答えるように、彼はかろうじて右手をほんの少しだけ持ち上げる。
 
「ねえ、どうかしたの?」
 胸が詰まるような思いで問いかけながら、私は海君の様子を何度も何度も確かめた。
 
 目を開けることも、口を聞くこともできないようで、ただ大きく肩で息をくり返している。
 こめかみを伝って大粒の汗が、次から次へと流れ落ちてくる。
 あまりにも血色の悪い唇。
 
 急にどうしたのか。
 彼にいったい何が起きたのか。
 まるでわからない。
 
「海君! ねえ、大丈夫?」
 叫ぶように名前を呼びながら、私が彼の両腕を掴んだ瞬間、彼がその腕を返すようにして、私を抱きしめた。
 背中までしっかりと包みこむようにまわされたその腕が、いつもと同じように力強い。
 
 彼の胸の中に抱えこまれて、
「……海君?」
 困惑したように顔を上げた私を、海君は眩暈がするほど近くから真っ直ぐに見下ろした。
 
 いたずらっぽく輝く、私の大好きな綺麗な瞳。
 その瞳がみるみる微笑みを帯びていく。
 
「なっなに? ……まさか……! 騙したわねっ!」
 こぶしをふり上げようとした私は、身動きさえできなかった。
 
 海君はクククッと喉の奥で笑いながら、右手で私の頭を自分の胸に押しつける。
 
「ひどいっ! もうっ!」
 力一杯その胸を押し返そうとするのに、びくとも動かない。
 海君は全然私を放してくれない。
 
「ゴメンね、真実さん……でも言ったでしょ? 俺を置いていったらダメだよ……」
 私の髪に頬をつけるようにして呟かれる海君の声は、彼の体を通して伝わってきて、いつもよりずっと近くに聞こえた。
 
 だからその言葉の意味も、いつもよりもっともっと大きな意味を持って、私の心に響く。
 
(そうだね……どちらかが手を放したら、そこでもう私たちの関係は終わりになるんだもんね……一緒にいたいって想いの他は、二人を結びつけるものは何もないんだもんね……)
 
 私の耳に直接、かなり速い速度で海君の鼓動が聞こえてくる。
 そのドキドキの原因が、私の今のこの胸の痛みと、同じならいいなと思った。
 二人で手を繋いで同じ道を、まだまだ歩き続けたいという思いからならいいと思った。
 
「うん……私こそ……ごめんなさい……」
 素直に謝ると、海君は安心したかのように大きく息を吐く。
 長い長い呼吸を、ゆっくりと何度もくり返す。
 
 けれどなかなか落ち着かない彼の心音。
 私はさっきの鬼気迫るような海君の表情を思い出して、小さく笑った。
 
「それにしても……凄い演技力だったよ海君。私すっかり騙されるところだった……」
「そうでしょ?」
 海君はすました声で返事する。
 
 私は少し緩んだ彼の腕の中から抜け出して、ゆっくりと顔を見上げ、「そうだよ、本当にビックリした」と笑おうとした。
 彼の上手な仮病を一緒に笑いあおうとした。
 それなのに――。
 
 私を見下ろしている海君を何気なく見上げたら、言葉が止まってしまった。
(海君?)
 喉が貼りついてしまったかのように、上手く言葉が出てこない。
 
 海君は私を見下ろして、せいいっぱいいつものように笑っているけれど、その顔色も表情も、さっきと変わらずとても調子が悪いように見えた。
(演技……だったんだよね?)
 
 不安にかられる私に、その無理のある笑顔が、パチリと片目をつむってみせる。
「真実さんは騙されやすいから、気をつけないとダメだね」
 余裕の声音で言われた言葉は、茶目っ気たっぷりで、実にいつもの彼らしかった。
 
 その瞬間、条件反射のように思わずムッと口を尖らしてしまう私の中では、胸に湧いた疑問など二の次になってしまう。
「それを海君が言う?」
「ハハハッ。それはそうだね……!」
 
 肩を揺すって大声で笑いだした海君は、いつの間にかもう普段どおりの彼だった。
 私の右手を大きな左手で掴むと、さっきまで歩いていた方向へ向かって、さっさと歩き出す。
 
「せっかく一緒にいるんだからさ。こうしてるほうがいいでしょ?」
 私の大好きな屈託のない笑顔でそんなふうに尋ねられたら、私にはもう、頷くしかない。
 
 なんて単純なんだろう。
 なんて簡単なんだろう。
 
(海君もきっと、そう思ってるんだろうな……)
 ため息まじりに考えながら、彼に手を引かれて、私は警察署までの道を歩いた。
 
 本当にさっきまでの不安や疑問をすっかり忘れてしまっていた。
 
 何が本当で、何が嘘か。
 何が優しさで、何が偽りか。
 
 気づくこともなく、考えることもないような人間だったら、いつだって悩まず、傷つかず生きていけるのに。
 
 でもそれが、引き替えに誰かを傷つけることになるのなら、
 大切なものを失うことになるのなら、
 私は絶対にそんな生き方は望まない。
 
 全てを知りたい。本物を見抜く目を手に入れたい。
 ――ただそれだけを願う。
 警察署の建物内は、独特の冷たい雰囲気に満ちていた。
 思わず尻ごみしてしまいそうな気持ちを勇気づけ、私は受付で名前と用件を告げる。
 すぐに担当の刑事さんがいるという部屋に案内されたが、あいにくと外出中だった。
 そこは大勢の人が忙しく出入りする大きな部屋で、周りにいる刑事さんたちも、気さくに椅子に座ることをすすめてくれて、正直ホッとする。
 取調室なんかでなくて良かった。
 婦警さんがお茶を淹れてくれたことで、緊張でガチガチだった心も、ほんの少し和らいだ。
 
 海君は少し離れた長椅子で、壁にもたれかかって座りながら、私を待ってくれている。
 もの珍しそうにあたりをきょろきょろと見ている様子に、また少し、私の心は穏やかになった。
 
「やあ、お待たせしたね」
 出先から急いで帰ってきてくれたのだろうか。
 来ていた上着を椅子の背に掛けて、私の目の前に腰を下ろした担当刑事さんは、汗だくだ。
 
「ひとまず例の彼を自分の部屋に送ってきたよ。今はまだ顔を会わせないほうがいいと思ったんだが……余計なお世話だったかな?」
 人好きのする笑顔を浮かべているわりに、刑事さんの目は鋭い。
 
 私は慌てて頭を下げた。
「いえ……ありがとうございます……」
「うん」
 様々な書類が積み重ねて置いてある机の上から、一冊のファイルを取り、刑事さんはパラパラとめくる。
 
「一晩ここで頭を冷やして、今はすっかり落ち着いてる。自分がしたことを申し訳なかったとも言ってたし……もうこんなこと、起こさないといいんだが……」
「はい……」
 頷く私に、刑事さんは少し声の調子を変えてつけ足した。
「ただ……こういう問題は、簡単には片づかないことが多いからね……」
 
 私の胸はズキリと痛んだ。
 
「少し詳しく話を聞かせてくれるかな?」
「はい」
 
 それから私は村岡さんというその刑事さんに問われるまま、幸哉との関係について話をした。
 出会った頃のことから、最近の関係に到るまで。
 できる限り詳しく話した。
 順を追って、覚えている限りのことを全て聞いてもらった。
 
 正直、人には聞かれたくない話もあったけど、警察に協力を仰ぐためには、情報提供は不可欠だ。
 村岡さんはまめにメモを取って、私の話をちゃんと聞いてくれた。
 
 私はと言えば、少し離れたところにいる海君が、気になって仕方がなかった。
(できれば海君には聞かれたくない……なんて……私の身勝手だよね)
 またズキリと胸が痛んだ。
 
「実は私たち警察にできることは、そんなに多くはないんだ。岩瀬君――だったかな? 彼に対して、君に近寄らないように警告を出すこと。それに従わない場合には、さらに禁止命令を出すこと。これくらいだ。検挙すれば懲役や罰金も課せられるが、それにはまず先に、キミが彼を告訴しなければならない……」
 
 聞き慣れない言葉の羅列は、まるでテレビドラマでも見ているような気分だった。
 しかしこれは私の現実だ。
 私と幸哉との間の話なのだ。
 
「懲役……? 告訴……?」
 事態の深刻さに、私はただ呆然とするしかなかった。
 
 村岡さんはそんな私を見て、表情をさらに柔らかくする。
 何も知らない小さな子どもを見守るように、どこか悲しそうな目をした。
 
「そこまでおおごとだとは思っていなかったかな? でも彼がやっていることは、あきらかにストーカー行為だよ。法的にも認められている犯罪なんだ」
 諭すように一言一言告げるその口調は、どこか故郷の父を思い出させた。
 
「だけど……!」
 幸哉をそこまで糾弾する権利が、私にあるんだろうか。
 いつまでもダラダラと関係を断ち切ることさえできず、ほんのついこの間まで傍にいた私に。
 
「もちろん君がそれを望まないなら、私たちに強制する権利はない。そこまでやったら、正直、あとには憎しみとか負の感情しか残らないからね。君も彼もまだ若いし、今日の様子だったらしばらく時間を置けば解決するんじゃないかとも思う。あくまで私の意見だがね」
 私の感情をちゃんと気遣ってくれる優しい口調に、頭が下がった。
 
「とりあえず、もしまた何かあったら、すぐに連絡しなさい。私のほうでも、時々彼のことは気にかけておくから……」
 村岡さんは俯いてしまった私の頭をポンと優しく叩くと、目の前に名刺をさし出した。
 
 朗らかな声で、
「大丈夫だよ。君にはちゃんとボディガードもいるようだ……」
 ふり返り、少し離れたところに目を向ける。
 
 顔を上げた私は、いつの間にか海君が真っ直ぐにこちらを見ていたことに気がついた。
 村岡さんに向かってペコリと頭を下げている。
 
「今のところはとりあえず、様子を見よう……そのほうがいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
 せいいっぱいの感謝をこめて、私も頭を下げた。
 村岡さんの言うとおり、時間が解決してくれるのならそれが一番いいと思った。


 
 夕日が空を真っ赤に染める中、海君と手を繋いで家までの道を帰った。
 警察署に向かっていた時とは真逆に、気持ちがどんどん落ちこんでいく。
 夕暮れ時はもの悲しい――海君との別れの時間が近づくから。
 
 どこから来てどこへ帰っていくのか、私にはわからないけれど、いつも今ぐらいの時間になると、「また明日」とニッコリ手を振って、海君は帰ってしまう。
 
 別れ際の約束がある限り、きっと明日も来てくれるんだろう。
 だって海君は約束を破らない。
 でもそれはいったいいつまで続くのか。
 私にはわからない。
 確かな保証は何もない。
 
 寂しい気持ちでちょっと俯きがちに下を向いて歩くと、綺麗に舗装された歩道に、私たちの影が仲良く並んで伸びていくのが見えた。
 けれど実際には、私たちは警察署を出てから一言も話をしていなかった。
 
 まったく口を開かない海君に、
(さっきの話どこまで聞こえたんだろう? 海君はどう思ったかな……?)
 いろんなことが気になっている。
 どうしようもなく胸が痛む。
 
「真実さん」
 ふいに名前を呼ばれてドキリとした。
 
 いつもの声と全然違う、すごく真剣な調子だったから、私は二つ並んだ影法師に目を向けたまま、海君のほうを見ないで返事した。
「何?」
 
 海君は長い時間、何も言わなかった。
 ただ黙って歩き続けるだけ。
 だから私も呼びかけられたことは気にしないで、黙って一緒に歩き続ける。
 
 目が痛くなるほどに見つめ続けた二つの影は、だんだん長くなって、そのうち夕闇にまぎれて見えなくなった。
 
 いくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えて、私のアパートが近づいてくる。
 私の足はどんどん歩くのが遅くなり、そのうちピタリと止まってしまった。
 自然と海君も立ち止まることになってしまう。
 
(もしも、部屋の前で幸哉が待ってたらどうしよう……?)
 心の中で呟いた不安の声が、まるで聞こえたかのように、
 
「大丈夫だよ」
 海君が囁いた。
 
 見上げてみたら、薄闇の中、泣きたくなるくらいに優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
「俺がついてるよ」
 
 短い言葉が嬉しかった。
 けれどそれと同時に不安な心も大きくなる。
 私は首を横に振った。
 
(海君を巻きこみたくない……! 海君をひどい目にあわせるようなことになるのが、一番怖い……!)
 私の思いはきっと海君には通じているだろう。
 だけど彼もまた、静かに首を横に振る。
 
「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」
 強い口調できっぱりと言われて、私はまた俯いた。
 
「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」
 私の不安を打ち消すように、海君が繋いだ手に力をこめた。
「大丈夫。殴りあいになったら、確かに分が悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」
 
 そして、胸ポケットから出したその秘密兵器を、得意そうに私の目の前で振ってみせる。
 ごく普通の携帯電話。
 
「えっ? ……携帯?」
 いぶかしげに見つめる私に、
「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」
 ひどく真面目な調子で、海君は答えた。
 
 その真剣な顔が、言ってることまるでチグハグで、私は吹き出さずにいられない。
「やだもう! 海君ったら!」
 
 海君はそんな私の様子を見て、
「やっと笑ってくれた」
 と、大きなため息を吐いた。
 心の底から安堵したような声だった。
 
「海君……」
 彼がずっと私の様子を気にかけていてくれていたことに、私はこの時初めて気がついた。
 
 そういえば、警察署に入ってからはずっと、不安と恐怖ばかりが心に渦巻いて、私はとても笑うような心境ではなかった。
 その上思い出したくないようなことも思い出さなければならず、聞かれたくない話を海君にも聞かせることになったかもしれない。
 そう思うとやるせなくて辛くて、沈む気持ちばかりが心の中で折り重なっていた。
 
 だけど海君は、その間もずっと私の心配をしてくれてたんだ。
 
 そうわかっただけで、笑顔が自分の中で、何倍にも何十倍にも広がっていくのを感じた。
 
「ありがとう」
 それだけを言って、誰よりも優しい人の顔を見上げる。
 
「どういたしまして」
 海君はいつもどおりに、すました顔でそつなく答える。
 そのことが嬉しくて、また私は笑顔になった。


 
 わざとゆっくりと、歩く速度を遅らせて、たどり着いた私の部屋の前に幸哉の姿はなかった。
 ホッとして、隣に立つ海君の顔を見上げる。
 彼は私と目があった瞬間、いたずらっ子のように笑った。
 
「なんなら部屋の中までついて行こうか?」
 途端、頭の中で、昨日部屋の中で二人きりになってとんでもなくドキドキしたことを思い出した。
 
「い、いいよ!」
 慌てて手を振る私に、
「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」
 海君は前髪をかき上げながら、いかにも意味ありげに笑ってみせる。
 
「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」
 私は大好きなはずのその笑顔に、こぶしを振り上げた。
「いいです! 一人で帰ります!」
 キッパリと宣言して、海君に背を向ける。
 
「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」
 海君がしきりに謝っているけど、聞いてなんかやるもんか。
 
 私は彼の声を無視して、玄関のドアへと手をかけた。
 ――その瞬間。
 
 それがギイッと音をたてて簡単に内側に開いたことで、私の体も思考も凍りついた。
 
「真実さん!」
 海君がすぐに私とドアとの間に入りこんで、自分の後ろに私を庇おうとする。
 
「やだ! 海君!」
 私は彼のシャツをぎゅっと握りしめて、背中に額を押しつけた。
 
「大丈夫だよ」
 彼が用心深く開いたドアの向こうに、人の気配はなかった。
 
 でも、中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
 引出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆる物がひっぱり出され、テーブルも椅子もひっくり返っている。
 
「……どうして…………?」
 しばらく呆然と立ち尽くしたあと、私は海君の後ろから歩み出て、ヨロヨロとした足取りで力なく部屋の中へ入った。
 
 一通り見てまわって、特になくなっているものや、壊されているものはないと確認する。
(ぐちゃぐちゃに荒らされただけ……だよね……?)
 
 それが誰の仕業なのかは、考えなくてもわかった。
 私は唇を噛みしめる。
 
 クローゼットの前に散乱する下着類をかき集めながら、顔を上げないで、
「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」
 とお願いした。
 
「ああ……うん」
 海君はすぐにドアから出て行って、誰かに携帯で連絡を取ってくれているようだ。
 きっと村岡さんだろう。
 
 警察が来る前に、人に見られたら困るものだけでも片づけようと、私は歯を食いしばって必死に涙をこらえながら、ぐちゃぐちゃになった自分の下着を一つ一つ拾い集めた。
 
 学で使うテキストやノート類も、全て残らず鞄と本棚からひっぱり出されていた。
 
 そういえば、幸哉は私が大学に行くことを極端に嫌っていた。
(……破かれたりしてないかな?)
 
 部屋中に散乱するレポート用紙やルーズリーフの山に、絶望的な気持ちで目をやった時、偶然にか、故意にか、ドア近くの紙の山のてっぺんに載せられた私の写真が、目に止まった。
 
 私が自分で持っていた写真ではなかった。
 幸哉に暴力を受けた直後の姿だろうか。
 傷だらけの体を丸めて、死んだように幸哉のベッドで眠っている私。
 
(……こんなの海君に見せられない……!)
 手の中に握りこんだ写真をギュッと握りつぶしながら、私は怒りと悲しみで体が震えるのを感じた。
 
(ひどいよ……! こんなの嫌だ……)
 他にもないか、必死で探し回る。
 床を這いつくばって確認しているうちに、じっと自分に注がれている視線に気がついた。
 おそるおそる後ろをふり返る。
 
 ドアの向こうにいる海君が、真っ直ぐにこっちを見ていた。
 目があった瞬間、今の私と同じくらい、彼もまた泣きそうな顔をしていると思った。
 
(見たんだね。海君)
 それはどんな現実よりも、今の私には受け入れがたい絶望だった。


 
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
 駆けつけてくれた村岡さんはため息を吐いて、とても悲しそうな顔で私を見つめた。
 でもその目の奥には、厳しい光を宿している。
 
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。キミにもよく考えてほしい……」
 残念そうに、それでもキッパリと宣言されれば、私に反論する力はもう残っていない。
 
「はい」
 静かに頷いて、打ちのめされたような思いで胸に手を当てる。
 村岡さんの背後に目を向けて、もう一度海君の顔を見る勇気が、私にはなかった。
 
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私たちがしばらく見張っておくから」
 優しく気遣ってくれる村岡さんに頭を下げる。
 
「ありがとうございます」
 それから村岡さんと、一緒に来ていた刑事さんに手伝ってもらって、簡単に部屋の片づけをした。
 
 海君も、いつの間にか部屋には入ってきたけれど、照明器具やテーブルなんかの大きな物を片づけるばかりで、細かな私のものには手をつけようとはしなかった。
 
 私のほうを見ようともしない彼に、私もわざと背中を向け続ける。
 でも背中越し、ずっと彼の動きばかりを気にしていた。
 
(こっちを見てよ。海君)
 彼がいったい何を考えているのか。
 気になって仕方がない。
 
 いろんな思いが頭の中を駆けめぐって、気を緩めると涙が零れそうになる。
 だから歯を食いしばって、必死に部屋の片づけを頑張る。
 
(何か言ってよ。海君)
 これ以上、彼に何を望めるというのだろう。
 私には、もうどうしようもなかった。
 
「好きだから」という思いだけで傍にいてもらうには、今の私の現実はあまりにも厳しいものだ。
 
 このまま優しさに甘え、自分の感情に溺れていたら、もっと彼を傷つけることになる――きっと。
 
 彼が私に感じてくれている好意は、果たしてそれに見あうほどのものなんだろうか。
 私と同じくらい強いものなんだろうか。
 わからない。
 自信なんて全然ない。
 
 だから私は目を閉じる。
 耳を塞ぐ。
 
 確かめもせずに、彼の前から逃げだしたい衝動に駆られる自分を、これ以上引き止めることなんて、もうとてもできそうにない。
 愛梨に連絡して、その日は彼女の部屋に泊めてもらうことになった。
「大丈夫……居候の彼氏なんかすぐに追い出すから! いつまでだってここにいなさい!」
 携帯の向こうですごい剣幕で叫んでいる愛梨は、「だからあんなに言ったじゃない!」なんて私を責めるような言葉は、決して口にしない。
 その優しさが今は心に染みる。
 
「ありがとう……」
 心からのお礼を言って、携帯を切った。
 
 愛梨のおかげで、ほんの少しだけ気持ちが明るくなったような気がする。
 でも、ドアの向こうで私を待っている海君の背中を見たら、またすぐに泣きそうな気持ちになった。
 
 海君が私の顔を見てくれない。
 それがくり返されるたび、胸の痛みはどんどん大きくなる。
 
 ブランコと滑り台しかない小さな公園に入った海君は、本当にブランコに座ってキーキーと軋む音を立てながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。
 私ももう一つ並んだブランコに腰かける。
 でも、とても漕ぐような気にはなれない。
 
 静かな公園に、海君の座ったブランコの音だけが響いた。
 私たち二人の間には、ただ長い長い沈黙だけが続く。
 
 これから海君がどんな話を切り出すつもりなのか。
 想像しただけで、心が握り潰されそうだった。
 
(どうせサヨナラするんなら早いほうがいい。そうじゃないと、私はどんどん海君を好きになってしまう。望めるはずもない夢ばっかり見てしまう。そうなってからじゃ……きっともっと辛くなる……)
 
 自分に言い聞かせるかのように、そんなことばかりを考える。
 いつの間にか、深く俯いていた頬を、涙が伝って落ちた。
 
「泣かないで」
 海君がふいにそう言って、ブランコから飛び下りた。
 私の傍へとやってくる気配がする。
 すぐ目の前で止まる、見慣れたスニーカー。
 
「泣かないで真実さん」
 頭上から降ってくる声は、胸を締めつけられるくらいに優しかった。
 私の髪にそっと触れた手が、そのまま頬を撫でるようにして涙をすくい取り、肩の位置まで下りて止まる。
「泣かないでよ、真実さん」
 
 まるで壊れものを扱うかのように、優しく抱き寄せられて、もう涙が止まらなくなった。
「ごめんね、海君……」
 何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
 でも――。
 
「ごめんね……ごめんね……」
 涙と一緒にその言葉しか、私の口からは出てこなかった。
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
 胸いっぱいに抱えこんでいた気持ちを全部さらけ出すかのように、ただ謝り続ける私を、ぎゅっと抱きしめて海君は囁く。
 
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
 しゃくりあげるばかりだった私は、息が止まるような思いで、海君の腕の中から彼の顔を見上げた。
 
 月明かりの中。
 確かに海君はいつもとは別人のように、冴え渡った表情をしていた。
 
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
「海君?」
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそ俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
「海君!!」
 息をのんだ私に、海君は実に彼らしくない、形だけの笑い方をした。
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
 
 もう言葉も出てこない。
 彼は本当に私のよく知っている海君だろうか。
 それとも別の誰かだろうか。
 そもそも『海君』という青年は、私が勝手に名づけた、本当には存在しない人物だ。
 
 でも私は知っている。
 
 私の目の前にいるこの彼は、とても太陽の下が似あうこと。
 明るく屈託なく笑うこと。
 私を見つけ出し、暗闇の中から救ってくれたこと。
 ――そして誰よりも優しいこと。
 
 私はそんな彼に憧れて――どうしようもなく好きになった。
 だから――
 
(私のせいで、傷つかないで……!)
 願うような、祈るような気持ちで、その胸にもう一度顔を埋めた。


 
 誰かを大切にしたいという想いは、祈りによく似ている。
 
(どうかこの人が幸せになれますように……)
 
 自分のためならば願いもしないようなことも、その人のためならば、願わずにいられない。
 代償に自分が不幸になってもかまわない。
 そんなことはどうでもいい。
 
(ただこの人が幸せならば……)
 
 出会ってからずっと、私が海君に感じていた想いは、いつだってそんな――祈りにも似た願いだった。


 
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつを許すんだ。結局、許してしまうんだ……ねぇ、そんなにあいつが好き?」
 私を抱きしめたまま、海君は思いもかけないことを言いだす。
 驚いて顔を上げた私は、月の光を背中に受けながら、真っ直ぐに私を見つめている海君と目があった。
 怒ったような、傷ついたような、初めて見る表情だった。
 
「……どうして?」
 彼が言ったことの意味がわからない。
 そんなことがあるはずない。
 
 驚きのあまり目を見開く私を、彼はほんの少し目を細めて見る。
 どんな時だって真っ直ぐなその瞳に、一筋の影が落ちる光景が、たまらなく私の胸を灼く。
 
「私が好きなのは……!」
 彼の両腕をしっかりと掴んで、声を荒げて主張しようとした私の声は、同じように大きな海君の声に遮られる。
 
「俺でしょ! ごめん。わかってる……ちゃんと知っている。でもどこかであいつを許してる真実さんがいる……できることなら、あいつにまともに戻って欲しいと望んでる真実さんがいる……もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
 胸にかき抱くように私を抱きしめて、海君は押し殺したような声で呟く。
 その声が、言葉が、痛いくらいの腕が、私の胸に刺さった。

「そんなはずないじゃない!」
 涙と一緒に溢れだした言葉が、ちゃんと海君に伝わるだろうか。
 こんなに傷つけて、こんなに苦しめて、それでも傍にいて欲しいと願わずにはいられない人。
 
 ――どうやったらもっと、彼に私の想いを伝えられるのだろう。
 
 自分だけが、あの地獄のような日々から抜けだして幸せになるのは、なんだかズルいことのような気がして、私は幸哉にも幸せになって欲しいと願った。
 でもそれは、私の自己満足であり、偽善だ。
 幸哉が私を望むかぎり、幸哉の願いは叶わない。
 絶対に叶わないのだから――。
 
(わかっているのに望んだ。願わずにいられなかった。全部私のわがままだね……)
 どうしようもない思いに、私は海君の腕の中で、固く目を瞑った。
(私のわがままで、海君を傷つけた……!)
 それなのに、まるで誰にも渡さないという意思表示のように、彼は私をきつく抱きしめる。

「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
「海君……!」
 どうしよう、涙が止まらない。
 
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方なんて、そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
 小さな叫びのように、私の耳元で囁かれる言葉は、私だけのものだ。
 私だけに海君が向けてくれた、これ以上ない強い想いだ。
 
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
 一つまちがえれえば彼を奈落の底に突き落としてしまいかねない、それは恐ろしい言葉のはずなのに、嬉しくてたまらない。
 泣かずにいられない。
 
 この言葉は、きっと私の一生の宝物になる。
 この先もしも一緒に歩けない日が来たとしても、海君が私に与えてくれた最高の贈りものになる。
 
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
 その胸に頬を押し当てたまま、くり返し伝える言葉に、彼は長い息を吐き、私の髪に頬を押し当てた。
「うん。真実さん」
 いつものように優しい調子に戻ったその声が、張り裂けそうだった私の心を、そっと優しく包みこんでくれた。
 愛梨のアパートまでの道を、海君と手を繋いで歩いた。
 私のアパートよりは繁華街から遠い静かな道。
 静まり返った住宅街に、私と彼の足音だけが響く。
 
(この道がどこまでも続けばいいのに……)
 一歩先を歩く背中を見つめながら、そんなことを思った。
 
 けれどアパートよりはずっと手前の曲がり角で、うす暗い街灯の下、私を待ってくれている愛梨の姿を見つけたら、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。
 
「あっ来た! 真実ー!」
 大きな声で叫びながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を振る元気な姿は、いつも変わらない。
 
「愛梨!」
 手を振り返す私を海君は見下ろして、ちょっぴり笑った。
 まるで自分のことのように嬉しそうな顔。
 優しい瞳が「良かったね」と声にならない言葉をかけてくる。
 
(うん)
 私も声に出さないで頷いてから、繋いだ手に力をこめた。
 ありがとうの思いをこめて握りしめた。
 
 まさか海君が私を送ってくるとは、さすがに愛梨も予想していなかったらしい。
「こんばんは」
 と笑って頭を下げた海君に、ほんのり頬を染めて、かなり慌てている。
「こ、こんばんは」
 愛梨の視線がじいっと、私と海君が繋いだ手に注がれているのを感じた。
 
 思わず放そうとした私の手を、海君は自分の手ごと軽く持ち上げて、「はい」と愛梨にさし出す。
「う……海君!」
 焦る私にニヤッと悪戯っぽい笑顔を向けると、海君は愛梨の手の上で私の手を放した。
「こっからは交代。よろしくお願いします」
 もしうぬぼれてもかまわないならば、私を見つめる海君の瞳はこの上なく優しい。
 まるで慈しむように、惜しむことなく注がれる優しい眼差し。
 
「OK。お姫様は確かに預かるからね」
 冗談めかして愛梨が私の手をしっかりと受け取った。
 根が陽気な愛梨は、きっとこんなやり取りが大好きだ。
 海君のことをかなり気に入ったはずだと、私にはわかる。
 
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
 
 いつもと同じ約束を残して、海君は私たちに背を向ける。
 すっかり見慣れたその背中を、私はちょっぴり寂しい気持ちで見送った。
 
「ありがとー! 海君!」
 愛梨が私と繋いだ手をぶんぶんと振りながら、大声で叫ぶ。
 海君は笑顔でふり返って、もう一度愛梨に頭を下げる。
 その背中が遠くの角を曲がって、すっかり見えなくなってから、愛梨は改めて、ポツリと呟いた。
「真実……きっと今度は幸せになれるよ……」
 
 余計なネオンがないおかげで、このあたりは私の部屋がある界隈よりよく星が見える。
 愛梨は夜空を見上げながら、独り言のようにくり返した。
「幸せになれる。きっと。海君と一緒だったら……」
 胸が痛かった。
 
「うん。そうかもしれない……」
 口ではそう答えながらも、きっとそうはならない予感が私にはある。
 
 海君は私に何も教えてくれない。
 あれこれ聞かれるのを好まないのには、きっと何か理由があるはずだ。
 私の知らない『何か』。
 その『何か』がある限り、あまり夢を見てはいけないと、私は自分に言い聞かせる。
 
 でも今は――少なくとも今この時だけは、また明日来てくれると言った彼の言葉を喜ぼう。
 喜んで――幸せな気持ちで、嫌なことも全部忘れて眠りにつこう。
 
「私……今でも、幸せだよ……」
 夜空を見上げながら自然と笑顔になれた私の顔をのぞきこんで、愛梨もぱあっと華やかに笑う。
「それはどうも……ごちそうさま!」
「あははっ」
 あんなに嫌なことがあった夜だというのに、私は笑っていた――笑えているのは、海君や愛梨のおかげだということを忘れてはならない。
 
 夜空を見上げながら、二人がいてくれたことに心から感謝した。


 
「でもさ……警察が動きだしたんだったら、さすがに岩瀬も、もうこれで諦めるんじゃないかな? ……犯罪者にまではなりたくないんじゃない?」
 ベッドが一つしかない愛梨の部屋。
 私は愛梨のお母さんが田舎からやってきた時用の布団をベッドの隣に敷いて、ベッド上の愛梨と並んで横になっている。
 
 突然出てきた幸哉の名前にドキリとしながらも、できるだけ普通に聞こえるように返事した。
「うん。そうだね」
 
 愛梨は、幸哉が私にふるった暴力の全てを知っているわけではない。
 どんどんおかしくなっていく幸哉が、私は怖くてたまらなくて、次第に誰にも言えなくなったから、愛梨だけじゃなく他の誰も、本当のことは知らない。
 言うつもりもなかった。
 ただ私が一人で耐えていればいいのだと――我慢していればいいのだと、ずっと自分で自分に言い聞かせていた。
 でも本当は――
 
「できたら……もう私のことは忘れてほしい……それで前の幸哉に戻ってほしい……」
 口に出して言葉にして、初めて、願いは誰かに届くものなのかもしれない。
「きっと、そうなるよ」
 愛梨の返事は、優しい彼女の慰めの言葉であるだけではなく、目には見えない誰かの言葉のようにも聞こえた。
 本当に幸哉に変わってほしいと願う私の心が、その時初めて、その誰かに届いたような気がした。
(幸せになって、とはもう願わない……だからどうか……私のことはもう忘れて)
 今度こそ、その願いが叶うといいと、私は心から祈った。
 
「ねぇ真実。せっかくだからさ……明日一緒に大学に行かない?」
 もう眠ったのかと思っていた愛梨が、ふいにそう問いかけてくる。
 突然だったのに、どうしようなんて迷う間もなく、私の口は勝手に、
「うん。行こうかな」
 と答えていた。
 
 しーんと一瞬、部屋の中に静けさが広がる。
 
 ひょっとしたら返事が聞こえなかったのかと、布団から身を起こしてベッドの上の愛梨をのぞきこんだ私はびっくりした。
 愛梨はベッドに仰向けに転がったまま、ポロポロと涙を流していた。
「やっと……やっと真実の口からその言葉が聞けた……」
 
 ぐいぐいと手の甲で涙を拭きながら、嗚咽する愛梨の姿に、あっという間に私の視界もかすんで見えなくなる。
 面倒見が良くて人情家の、思いやりに満ちたこの親友を、私は今までどれだけ傷つけてきたのだろう。
 時と共に誰もが私という存在を忘れて行く中、たった一人でくり返し声をかけてくれるには、いったいどれだけの勇気をふり絞ってくれていたんだろう。
 
「愛梨……」
 ボタボタと涙をこぼしながら呼びかける私の顔を見て、愛梨は泣きながらふき出した。
「ブッ。真実ったら泣き顔ちょっと不細工……そんなんじゃ海君に逃げられちゃう」
 涙でぐしゃぐしゃな自分の顔は棚に上げておいて、よく言う。
 
「愛梨だって! その顔じゃ彼氏に逃げられるわよ……!」
 負けずに言い返した私に向かって、愛梨はイーッと顔をしかめてみせた。
「残念でしたー。しょっちゅう喧嘩するから、時男は私のこんな顔ぐらい見慣れますー。今更そんなことくらいじゃ、私たちはどうにもなりませーん」
「………………!」
 
 負けるものかと何か言い返したかったけれど、それ以上はもう何も言えなかった。
 海君と出会って一ヶ月にも満たない私じゃ、二年も恋人と一緒に暮らしている愛梨にかなうはずがない。
 
「ふふふっ」
 勝ち誇ったように笑った愛梨は、起き上がっていたベッドの上にもう一度ゴロンと転がった。
 私ももう一度、布団に横になって、天井を見上げる。
 
「真実は変わったなー」
 同じように上を見たままの愛梨が、笑いまじりに呟いた。
「そうかな?」
 自分では全然そんな気はしなくて。
 でもそう言われるとなんだか悪い気もしなくて。
 私もついつい頬が緩む。
 
「変わった。変わった」
 おどけたような愛梨の声が――ダメだ。
 嬉しくって、もう笑わずにはいられない。
 
「ふふっ。だとしたら嬉しいな」
 笑いながらも素直に気持ちを語ってみると、間髪入れずに愛梨から、鋭い指摘が返ってくる。
「彼のおかげだね」
 
「うん」
 頷いてから私は、そっと目を閉じた。
 愛梨が「抱き枕変わりに」と貸してくれた柔らかな手触りのクッションを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
 
 ――目を閉じれば浮かんでくるのは、いつだって海君の笑顔。
 
(あの笑顔の隣にいたい……!)
 その思いだけが私を衝き動かす。
 
「良かったねー……ほんと良かった……」
 何度も何度もくり返す愛梨の声が、胸に染みる。
 その一つ一つに私は、「うん」「うん」といつまでも返事し続けた。


 
 翌朝、大学へ向かおうと二人で愛梨の部屋を出た途端、、少し離れたバス停に立っている海君の姿が目に飛びこんできた。
 私たちの姿を見つけると、遠目にもはっきりとわかるくらいに、ニッコリと微笑む。
 
「すごい……笑顔が眩しいわ……!」
 いつも心の中でこっそりと考えていたことを、愛梨に口に出して言われてしまって、私は思わずふき出した。
「あははっ」
 そんな私たちに歩み寄ってきた海君は、ほんの少し目を細めて、いっそう笑顔になる。
 
「おはよう。楽しそうだね」
「おはよう」
 負けないぐらいの笑顔で返事した私の手を、海君はすぐにいつものように捕まえる。
「じゃ行こうか」
「えっ? どこへ?」と聞き返す暇もなく、海君は私の手を引き歩きだした。
 
 そうしながら、あまりにもサラッと、
「行くんでしょ? ……大学」
 私がこれから言い出そうとしていたこと、そのものズバリを当ててしまう。
「ど、どうしてっ!?」
 大声で叫んだ私をふり返って、海君はかなり意味深な表情で、じいっと私の顔を見つめた。
「真実さんのことなら俺はなんだってわかるから」
 
 私が次に何かを言うまでは、決して崩れないその大真面目な顔は、いつだって私をこの上なくドキドキさせる。
 私をからかうのが大好きな海君は、きっと何かを企んでいるんだろうに、私はまたそれにまんまと引っかかって、焦りまくってしまう。
「ど、どうしてっ……?」
 
 海君はもうたまらないとばかりに、大笑いを始めた。
「もちろんただのカンだよ。ゴメン。そんなに素直に俺を信じないでよ……ハハハッ」
 
 悔しい。
 海君にはもう、かなわない。
 全然かなわない。
 
「まいったなー。これは本当に本物だわ……!」
 感嘆しながら腕組みをする愛梨を、一人置いてはいけないと私は必死でふり返るのに、当の愛梨は早く行けとばかりに、ヒラヒラと手を振る。
 
「どうぞ私のことは気にしないで。うーん……なんだか二人を見てたら、私も時男に会いたくなって来ちゃった……」
 時男とは、私が転がりこんだせいで現在愛梨の部屋を追いだされている、彼女の恋人である。
 
「これ以上当てられると、ちょっと寂しくなってくるんで……どうぞ私のことは放っておいて下さい……」
 冗談めかしてペコリと頭を下げた愛梨に、海君も立ち止まり、大きく体を折り曲げてお辞儀した。
 
「それでは、これより姫は自分が責任を持ってお預かりします」
「うんうん。いいよ」
「ちょ、ちょっと……姫って……!」
 
 芝居めかしたやり取りが、すっかり気に入ってしまったらしい海君と愛梨は、二人揃って笑いながら、焦る私を見つめている。
 優しい思いに満ちた、穏やかな眼差し。
 
 全てが私のためだと、私の気持ちを明るくするためだと、気づいてしまったらまたきっと泣いてしまうだろうから、私はしらんふりりする。
 ふたりの優しさに気がつかないフリをする。
 
「帰りも迎えに行くよ。ここまで送るから、大学どんなだったか、話を聞かせて」
 余裕たっぷりで微笑む海君に、たまにはちょっとやり返してみたい気がして、私はわざと問いかけた。
 
「……それって、もしかして歩いて?」
 顔が笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、せいいっぱい真面目な顔を作る。
 
『俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車に乗るぐらいしかないんで』
 なんて、以前笑って言った時の、海君の茶目っ気いっぱいの子供みたいな笑顔を思い出して、ドキドキと反応を待つ。
 
 海君は愛梨が一緒にいることをまったく気にしていないかのように、繋いだ手を強く引いて私を抱き寄せ、ぎゅっと自分の腕の中に抱きこんでしまった。
 
「もちろんそうだよ。何? もっと他の方法がいいの?」
 私の意志をうかがうポーズとはいえ、そんなに近い距離から、瞳をのぞきこまないでほしい。
 
 そんなに真っ直ぐに見られたら、息がかかりそうに近い位置から見つめられたら、ドキドキと心臓が口から飛び出してきそうになる。
 どうしようもなく胸が鳴って、平静な顔なんてもうできるわけがない。
 
「……真実さん」
「な……な、何?」
「トマトみたいに顔が真っ赤だよ」
「…………………!」
 
 ニヤリと笑った海君は、次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
 
(まったくかなわない! かなうわけがない!)
 内心かなり怒っているはずなのに、やっぱり私はそんな彼の笑顔から、一瞬も目を逸らすことができない。
 眩しくって、綺麗で、見つめずにはいられない。
 
「ゴメン。ゴメン。行こっか」
 クシャッと私の頭を撫でる大きな手に、心臓を鷲づかみにされたような気分になる。
 これではどう考えても私のほうが余裕がない。
 その笑顔に、何気ない行動に、どうしようもなくドキドキさせられて、年上の威厳も何もあったものじゃない。
 
「これは……真実じゃなくっても、やられるわ……」
 愛梨の小さな呟きが思いがけず耳に入ってきて、私はますますドキドキする。
 赤くなる。
 
「あっ、またトマト!」
 目ざとく見つけてしまう海君を、また喜ばせるばかりだった。
 幅の広い舗道がずっと続く先に、レンガ造りの大学の正門が見えてきた。
 私は立ち止まって大きく息を吐く。
 春休みからこっち、一度もくぐることのなかった門だから、まるで入学したあの日のように、緊張と不安の気持ちが入り混じる。
 
「真実」
 少し先を歩いていた愛梨が、ふり返って私を呼んだ。
 それに呼応して、私の手を握っていた海君の手に、ぎゅっと力がこもる。
 
「行こう。真実さん」
 海君は私の手を引いて、先に立って再び歩き始める。
 自然と私も、もう一度踏みだすことができた。
 
 愛梨のところまでたどり着いたら、海君はまるで昨夜と同じように、儀式めいた動作で私の手を愛梨へと引き渡す。
 
 傍から離れる瞬間、
「がんばれ」
 耳元近くでひとことだけ囁くと、私たちに背を向けて、すぐに今来たばかりの道を帰り始めた。
 
「海君!」
 私は思わず呼びかけたけれど、彼は後ろ手に大きく手を振りながら、そのまま行ってしまう。
 
(海君……)
 寂しいような心細いような私の気持ちがわかったかのように、海君は絶妙のタイミングで、ふいにクルリとこちらをふり返った。
 
「ガンバレ!」
 満面の笑顔で大きく手を振りながら、彼が叫んだ言葉に胸が熱くなって、私も必死に両手を振り返す。
(うん。きっとがんばる!)の思いをこめて、振り返す。
 
 海君がもう一度こちらに背を向けたのを合図に、私も大学へ向かって歩き出した。
 離れていてもいつも繋いでいるような右手の感触が、何よりも頼もしかった。
 それは私の、勇気のみなもとだった。


 
「普通な……三ヶ月も講義に出てなかったら、もう名簿から名前が抹消されてるところなんだよ……」
 
 数十分後。
 私は広めの講義室の、後方よりの四人がけの長机の真ん中に座っていた。
 今日はあまりにもひさしぶりだから、大学の様子だけ見てすぐに帰るつもりだったのに、愛梨に「いいから。いいから」と手を引っ張られ、気がつけばしっかりと、本当は一緒に履修していたはずの『心理学』の教室に座っている。
 
「白川真実さん」
 出席を取られる時、しっかりと私の名前も呼ばれたことが驚きだった。
 右隣に座っているのは愛梨。
 左側にはあろうことか、これまで私のぶん、この『心理学』の授業に出席してくれていたという奇特な二人の人物が座っている。
 
 ――同じ教育学部三年の、須崎貴子と瀬戸口花菜。
 
 入学したての頃は愛梨も含めた四人で、よく一緒に行動していたけれど、私が幸哉に束縛されて学校を休みがちになった頃からは、徐々に疎遠になっていた友だちだった。
 特に貴子とは、「もう彼氏とは別れたほうがいい!」「それはできない!」と言いあいになって、それっきり会っていなかったので、てっきり見限られたとばかり思っていた。

 それなのにいくつかの講義で、私の学生証を使って、代わりに出席してれていたのだという。
 私は自分の学生証が手もとになかったことにも、今日気づいたというのに――。
 
「だっていくらなんでも愛梨ひとりじゃ、荷が重過ぎるだろ……?」
 まるで男の子みたいな口のききかたをする貴子は、鋭い目をした理知的な美人だ。
 さらさらストレートの髪を耳にかけながら、眼鏡越しに私の目を真っ直ぐに見つめる。
 
「真実がこのままフェードアウトするとは、私は思ってなかったし……」
 自分で決めた目標に向かって真っすぐに生きている貴子だから、勉強や将来の夢よりも幸哉との恋を選んだ私を、きっと軽蔑していると思っていた。
 まだ友だちだと思ってくれてたなんて、想像もしていなかった。
 
「貴子……」
 思わず涙ぐみそうになった私に、貴子の向こうからひょっこりと顔を出した花菜がぶんぶんと手を振る。
 
「ちょ、ちょっと待って。なんか全部貴ちゃんの手柄みたいになってるけど……私! 真実ちゃんのふりして座ってたのは私よっ!」
 小柄な私よりも更に五センチも背が低い花菜は、栗色の巻き毛を肩に垂らした可愛らしい女の子だ。
 小動物のようなクリクリとした目が印象的で、どんな時でも、私は花菜の笑顔以外の顔を見たことがない。
 
「当たり前だろ。私や愛梨に真実の真似ができるか。チビの花菜が化けるのは当然だ……!」
 花菜とは対照的に、笑顔が想像もつかない貴子に冷たいことを言われても、
「えー。それは確かにそうなんだけどー」
 ニコニコとやっぱり笑っている。
 
 懐かしかった。
 みんなと一緒に普通に大学生していた頃に、時間を超えてポンと帰ってきたようで、本当に嬉しかった。
 
「真実……」
 愛梨の心配そうな声に、慌てて零れ落ちた涙を拭う。
 筆記用具もテキストもそれを入れている鞄も、全部愛梨からの借りものばかりだから、ハンカチがなかなか見つからない。
 ポロポロ涙を流しながら、鞄の中を必死に漁る私に、貴子がスッと自分のハンカチをさし出してくれた。
 
 しっかり者の貴子と、おっとりと可愛らしい花菜。
 華やかで明るい愛梨。
 三人とはこの大学に入学してから知りあった。
 
 きっかけは簡単なこと――名簿順で並んだ入学式の席が、たまたま近かったから。
 だけど、親元を離れて初めて一人暮らしを始めたこの街で、知っている人も誰もいない中、友だちになるのなんて、そんな些細なきっかけでじゅうぶんだった。
 
 性格も見た目も、成績さえ違うのに、いつも一緒の四人。
 何をするにも四人。
 その四人組を壊してしまったのは私だ。
 
「あんな男とつきあうのはやめな」という貴子の忠告に、私が耳を貸さなかったせいで、私たちの仲は終わりになった。
 
 あれから半年。
 懐かしい顔が揃って、私を歓迎してくれていることが嬉しい。
 ずっと私と口もきいてくれなかった貴子が、真っ直ぐに私の顔を見て、
「まったく遅いんだよ……真実は……」
 なんて冷たく言い放ってくれるのが嬉しい。
 
 再び貴子の向こうから、花菜がひょっこり顔を出した。
「ねえ真実ちゃん。これでも貴ちゃんは嬉しくてたまらないんだからね。ずっと『真実はまだか。真実はまだか』って愛ちゃんに催促してたんだから……もちろん私だって嬉しいよ。お帰り真実ちゃん」
 
 余計なことは言うなとばかりに向けられた貴子の冷たい視線も、まったく気にせず、花菜はニコニコしている。
 見ている私まで思わず笑顔になった。
 
 幸哉に殴られた傷が日ごとに増えていく私を、「真実ちゃん大丈夫? 本当に大丈夫なの?」とずっと心配してくれていた優しい花菜。
「平気だよ」と嘘を吐き続けてきたその笑顔に、もう嘘をつかなくてもいいことが、何よりも嬉しかった。
 
「こういうことだから、大人数の講義はほとんど真実も出席にしてある。でもさすがに少人数のは無理だったから、テストでがんばるか、また来年だね……わかってると思うけど、休んでたぶんの授業内容を聞くなら貴子にね。まちがっても私には聞かないで!」
 朗らかに笑いながら、こそこそと小さな声で報告してくれる、大好きな愛梨。
 
 大学に来なくなった私にも、直接連絡を取り続けてくれた愛梨がいたからこそ、私はこの場所に帰ってこれた。
 どんなに感謝したって、とてもしきれない。
 照れたように笑う顔に、本当に頭が下がった。


 
「それにしても良かった……真実の目が覚めて……」
 昼休み。
 特別棟の三階にあるカフェテリア。
 丸いテーブルを挟んで真向かいに座る貴子は、眼鏡越しに、まるで探るように私の表情を観察している。
 
「うん。そうだね」
 素直に頷いた私に、貴子の目の鋭さがほんの少し弱まったように感じた。
 
 幸哉とのことが、辛い思い出ばかりになってしまったのは悲しいが、確かに今の心境は、やっと悪い夢から抜け出せた気分だ。
 貴子の言葉は正しい。
 
「まだしばらくは安心できないけどね……」
 用心深く周囲を見回す愛梨に、取り成すように花菜がコロコロと笑う。
「大丈夫だよ。きっと」
 
 私もそっと、周囲の様子をうかがってみた。
 私たちの大学には、もっとちゃんとした食事ができる食堂が三つもある。
 だけど私が幸哉に会う可能性が少しでも減るようにと、なるべく人が少ないこの場所をみんなが選んでくれた。
 
 昨日あんなことがあったばかりで、幸哉が大学に来ているとは思えなかったけれど、ひょっとしたらと考えると、やっぱり怖い。
 私を守るように、みんなが取り囲んでくれていることが心強かった。
 
 私は、やっと幸哉に別れを切り出せたことを、みんなに改めて報告した。
 幸哉を露骨に嫌っている貴子は、大きなため息を吐いて腕組みをし、何度も頷いた。
 
「当然だ。というか……まだつきあってたのか?」
「うん。この間まで」
 私は曖昧に笑った。
 
「長い間、ご心配をおかけしました」
 テーブルに手をついて頭を下げる私の頭上から、
「うん。ほんとに心配したんだよ」
 花菜の優しい声が降ってくる。
 
(ああ……私にはもう、帰る場所もないって思ってたけど……そんなことなかったんだなぁ……)
 コツンとテーブルの上に頭を置いたまま、みんなの笑顔を見上げていると、胸の奥につかえていたものが、少しずつ溶けていくのを感じた。
 
(またここに帰ってきても良かったんだ……私はまだやり直すことができるんだ……!)
 そのことが何よりも嬉しい。
 
(少しずつでもいい……『彼』の隣にいるのにふさわしい人間に、私はなりたいから……!)
 私の心にはやっぱりいつも、ど真ん中に海君がいた。
「それで? 噂のカレはどこで待ってるんだよ……?」
 放課後、海君が待っているであろう正門前へと向かう私に、愛梨ばかりか貴子も花菜もついてくる。
 
「あのね、海君っていってね。たぶん年下なんだろうけど、なかなかしっかりしてて、これがまたいい男なのよー」
 私は海君のことをみんなに話すつもりなんか全然なかったのに、愛梨がぺらぺらっと自慢してくれたおかげで、貴子も花菜もすっかり興味津々になってしまった。
 でも――
 
「高校生なの? 何歳?」
 そんなごく当たり前の質問にさえ、私は答えることができない。
 照れ臭いとか、もったいぶってるとか以前に、――だって、私も知らないから。
 何を聞かれても曖昧に笑ってごまかすしかない。
 
 ニコニコと笑ってばかりの私に、
「別に教えたって減るもんじゃないだろ?」
 不機嫌そうに目を向ける貴子には、特に本当のことを知られるわけにはいかなかった。
 
『海君は自分のことを、私には何も教えてくれない』
 なんて貴子が知ったら、
「そんな男とはさっさと別れろ!」
 と怒鳴られるに決まっている。
 
 いつも淡々としている貴子が、ポーカーフェイスをかなぐり捨てて大声で怒鳴るのは、いつだって私のためだ。
 それはわかっている。
 でも、だから尚更、「また厄介な恋に引っかかったのか……!」と呆れられたくはなかった。
 それに――
 
(海君と私って、恋人同士……じゃないよね……?)
 私が海君に感じている――海君が私に示してくれる――強い気持ちには、自信があるけれど、それをなんと呼んでいいのかは、正直私にはわからない。
 
(海君を私の『恋人』とは呼べない……今はまだ……)
 厳しいものから目を背けて、楽なほうに流れようとしている自分のズルさが、どうしようもなく嫌になった。
 私は唇を噛みしめる。
 
「ねえ、真実。あれじゃないの?」
 愛梨に呼びかけられて顔を上げてみれば、いつの間にかもう正門がすぐ近くに迫っていた。
 
「どれ? どこ?」
 私を押し退けんばかりの勢いで、門の外に突進して行く三人の後ろ姿を見ながら、私は心の中で海君に手をあわせた。
 
(ごめん。海君)
 海君は愛梨が目ざとく見つけたとおり、やっぱり正門の前で、私を待っていた。
 ガードレールに軽く腰かけて、長い足を投げ出しながら私を待っている間、彼はいつもどんなことを考えているんだろう。
 
 私が何時に帰ってくるとか、特に今日みたいな日はちゃんと約束しているわけじゃないから、ひょっとするとずいぶん早くからこの場所で待っていてくれるのかもしれない。
 携帯をいじるわけでもなく、本なんかを読むわけでもない。
 ただ街や空や通り過ぎる人々に、ゆっくりと視線を向けている海君は、いろんなものからすごく自由な存在のように見える。
 
 何にも縛られない、自由な存在。
 
 ――だけどそれは、そんな海君が羨ましいという気持ちと共に、私に不安を呼び起こさせる。
 
 本当はいつ私の傍からいなくなってもおかしくない海君のポジションと、彼の自由な雰囲気があまりにも合致し過ぎるから。
 だから――
 
(いやだ……! いなくなったりしないで……!)
 勝手に心の中で悲鳴を上げた瞬間、海君がこちらに視線を向けた。
 曇りのない真っ直ぐな瞳が、おそらくは私の姿を見つけて、それはそれは嬉しそうに微笑む。
 
 ――何の根拠もない不安なんて、その笑顔を見た瞬間に、頭の中から全部吹き飛んだ。
 
「あっ! おーい。海くーん!」
 ぶんぶんと大きく両手を振る愛梨が、なぜか私よりも先に、海君に駆け寄っていく。
 
「ちょ、ちょっと……愛梨!?」
 慌ててその背中を追うと、いつの間にかもうすでに、海君の目の前には貴子が立っていた。
 細身の体の背中までを覆う真っ直ぐな髪を、サラリと耳にかけながら、貴子は海君に問う。
「あんたが真実の海君?」
 
(ま……『真実の』って……! 貴子!?)
 私は顔がカッと赤くなったのが自分でもわかるくらいなのに、どうして海君はあんなに平気なんだろう。
 
 どうしてなんの躊躇いもなくすぐに、
「はい」
 と頷いてしまうんだろう。
 嬉しいのだか恥ずかしいのだかもうよくわからない感情で、私は真っ赤になって俯いた。
 
 腕組みしたまま、じっと海君を観察していたらしい貴子が、
「よし。合格」
 と呟いた声を聞いて、ハッと顔を上げる。
 貴子は髪を翻して、そのまま海君の横をすり抜けていくところだった。
 
 思わずポカンとしたまま、その背中を見送ってしまいそうになってから、私はハッと我に返った。
「ちょっと! 貴子!」
 
 貴子は一瞬ふり返って、唇の端をほんの少しだけ持ち上げ、私に微笑んだ。
 ――ような気がした。
「うん。いいんじゃないか?」
 
 再び歩きだす貴子を小走りで追いながら、花菜も私にふり返り、笑顔で叫ぶ。
「私もいいと思うっ! 真実ちゃんとっても可愛くなったもん。私は今のほうが、ずっと真実ちゃんらしいと思う」
 隣にいた愛梨は、私の顔をまじまじと見つめながら、プッとふき出した。
「確かに! 見た目、まるで高校生みたいだけど……へたしたら海君より年下に見えるけど……!」
 
 ムッとむくれる私に、海君が更に追い討ちをかける。
「ハハハハッ。俺も、そう思ってる!」
 
「もうっ! 海君!」
 こぶしをふり上げるポーズはしてみたものの、空に輝く太陽よりも眩しい笑顔を見ていたら、どうしたってふり下ろす力はみんな、海君に奪われてしまうのだった。


 
 もし今誰かに、「あなたは幸せですか?」と尋ねられたら、私はまちがいなく「はい」と答えるだろう。
 諦めかけていた大学に復学して、大好きな友だちに囲まれて、傍には海君がいてくれる。
 
 でもふとした瞬間、――たとえば愛梨がバイトで夜、留守にした時なんかに、どうしようもなく不安な思いが、胸を過ぎる。
 
(ひょっとして幸哉が私の居場所をつきとめて、ここに怒鳴りこんできたりはしないだろうか?)
 考えないようにしようとは思っても、その恐怖はどこまでも私を追いかけてくる。
 
 警察から警告が発せられたことはわかっていた。
 大学にいる間はみんなが、登下校の間は海君が、部屋に帰ったら愛梨が、私をいつも守ってくれているということも――。
 
 でもそれでも、私の心の奥深くにある恐怖が、まったく消えてしまうということはない。
 いくら「もう大丈夫」と自分に言い聞かせても、悪夢を見て、夜中に飛び起きる夜はなくならない。
 
 人が変わったように激しく私に詰め寄る幸哉の顔。
 くり返される暴力と投げつけられるひどい言葉。
 グチャグチャに荒らされた私の部屋。
 
 ふとした折に甦るそれらの記憶が、私を戦慄させる。
 なのに私の毎日は、まるでそれと相反するかのように、平和で何事もなく、静かに過ぎていった。


 
 海君はあいかわらず、毎日決まった時間になると、私を迎えに来た。
 愛梨のアパートの近くで待っていて、大学まで送ってくれる。
 放課後はまた、正門のところで待っていて、私を愛梨のアパートまで送り届けてくれる。
 
 まるで当然のように、毎日くり返される、その行動に、
「ねぇ……本当は何者なの?」
 愛梨が首をひねるのも無理はなかった。
 
「ひょっとして学校には行ってないのか?」
 貴子は、私自身も前に一度、海君に尋ねたことがある疑問を口にする。
 
「別にいいじゃない……あんなに真実ちゃんを大切にしてくれてるんだから……それでじゅうぶんでしょ?」
 笑いながらみんなに言える花菜は、実は私たちの中で一番大人なのかもしれない。
 
 ――でも私自身は、花菜ほどは大人になれないから。
 
(海君は、あの夜どうして私なんかに声をかけたんだろう……?)
 いくら海君が、「俺は俺のしたいようにする」と宣言したからといっても、私にはやっぱり、それが一番の大きな疑問だった。
 
「……海君」
 手を繋いでいつもの道を歩いている最中。
 突然呼びかけた私に、隣を歩いていた海君は、ゆっくりと顔を向けた。
 
 汗ばむような陽気の中。
 まるで気温を感じさせない涼しい顔。
 いつもの笑顔。
 いつもの距離。
 
 少し目を見開く動作だけで、(何?)と簡単に聞き返されて、私はたまらないほどドキドキしていた。
 
(なんて聞いたらいいんだろう……?)
 
 たいした決意もなく、その場その時の感情だけで話をしがちな私は、海君の顔を見ただけで言葉に詰まってしまう。
 
 言葉はよく選ばなければならない。
 秘密だらけの彼のルールに反しないように。
 ごまかさずにキチンと答えてもらえるように。
 ――最大限の注意を払って、選び抜かなければならない。
 
 決して人通りの少なくはないこんな道の真ん中で、なんの前置きもなく切り出してしまったことを、今さら悔やんでみてももう遅い。
 
 変な汗が額に浮かんで来そうな気持ちで、私はなんとか言葉をひねり出した。
 
「どうして初めて会った夜に……私に声をかけてきたの?」
 海君はすかさず真剣な顔を作って、私の顔をじーっと真正面から見つめた。
 
「それはもちろんナンパだよ……可愛い子が歩いてるなって思って……それで…」
 いかにも面白そうに言いかけて、私の表情を見て、途中でやめる。
 
 私の頭の上にポンと右手を載せて、少し真面目なトーンに声を切り替えた。
「ゴメン……あまり面白くなかった?」
 
 私は静かに首を横に振る。
 その張り詰めたような静かな雰囲気に、海君もようやく、本物の真剣な顔を見せてくれる。
 
「……どうしてそんなこと聞くの?」
 反対に尋ねられて、私は途方に暮れた。
 
(どうしてって……どうしてだろう?)
 自分自身でもわからなかった。
 
 私が求めているのは、いったい何なんだろう。
 海君との出会いにもっともらしい理由を見つけて、それで納得して、いったい何を安心したいんだろう。
 何を守りたいんだろう。
 
 名前もわからない。
 いつまで一緒にいられるのかもわからなくても、「海君が好きだ」と思ってしまったあの瞬間から、もう全ては始まっているのに――。
 
 どうしようもない想いに、誰よりも自分が引きずられているのに――。
 
「うん……やっぱりいいや……」
 真剣に私を見つめる海君の瞳に笑いかけて、私は繋いだ手にギュッと力をこめた。
 
(大事なのは私の気持ちだから……私が海君を好きで、一緒にいたいと思うこの気持ちだから……)
 私が一人で納得して、歩き出そうとしたその時に、本当に思いがけなく、海君は口を開いた。
 
「正直……自分でもよくわからないんだ。俺は誰にも必要以上に関わらないって決めてたし……実際今まではそうしてきたし……でも……胸が痛かったから……!」
 
 切れ切れの言葉に、私は思わず足を止める。
 今までになく、自分のこことを話してくれる海君の顔を、驚いて仰ぎ見る。
 そして――
 
「海君?」
 私を見下ろすその表情に、たまらずドキリとした。
 
 大学からの帰り道。
 今、私たち二人は、まちがいなく真昼の雑踏の中にいるのに。
 初めて出会ったあの夜からは、すでにたくさんの時間が過ぎているのに。
 
 海君は確かにあの夜の、私が生涯忘れられないであろう笑顔で、私を見つめていた。
 
「傷ついてる真実さんを見て、どうしようもなかったから……声をかけずにいられなかったから……」
 そして自分で言っておいて、今初めて気がついたとでも言うように、フワッと笑う。
 
「あれ? これじゃやっぱりナンパだ……うん。でもそれだけじゃない……」
 
 かなり強い力で、海君は私を引き寄せた。
 腕の中に抱えこんで、私がどこにも逃げれないようにしてから、じっと顔をのぞきこむ。
 
「一目惚れだよ」
 そう言って甘くきらめいた海君の瞳に、思わず眩暈がした。
 
 ごく至近距離から真っ直ぐに見つめられて、私は自分でも気がつかないうちに自然と息を止めていた。
 冗談じゃなく本当に、『今この瞬間に死ねたら、どんなに幸せだろう』なんてことまで頭を過ぎった。
 
 なのに当の海君は、私の背中に腕をまわして、悪戯っぽく笑いかける。
「でも……真実さんだってそうでしょ?」
 
 ハッと、私は瞳を瞬いた。
「俺に一目惚れしたでしょ?」
 
 それだけ自身満々で言い切られると、たとえそれが事実であっても、今、とてつもなく幸せな気分に浸っていたとしても、思わず「そんなこと……」と、反発せずにはいられない。
 
 それでも、「ない」とは言い切れず黙りこんだ私に、海君は、
「ある……でしょ?」
 ニッコリ笑ってダメ押しする。
 
(あぁーもう! くやしいっ!)
 
 本当に、海君には全然かなわない。
 悔しくって俯く私の頭を、海君がそっと撫でた。
 長い指が、短く切りそろえた私の髪をサラサラとすくう。
 
「……ありがとう」
 勝手に決めつけて、その上お礼の言葉まで言ってしまった海君に、私はもう降参した。
 
 上目遣いに見上げた顔が、私の大好きな屈託のない笑顔だったので、もうそれ以上の抵抗は諦めた。
 
 何よりそれはやっぱり、彼の言うように今さらごまかしようのない、事実だったのだから――。


 
 誰かを好きだと思った瞬間に、相手も自分を好きになったなんて、そんな奇跡みたいなことが本当にあるんだろうか。
 
 私の世界から全ての音が消えて、たった一人の声だけが心に響いたあの瞬間。
 同じように彼の時間も止まったんだったら、もうそれだけでいい。
 
 他にはもう、なんの保証もいらない。
 愛梨の部屋に転がりこんでから一週間。
 私はようやく、自分の中である決意を固めた。
「やっぱり私……引っ越そうと思うんだ」
 
 大学のカフェテリアで、私たち四人は今日も遅めの昼食を取っている。
 大きな窓から射しこむ光が眩しいくらいの窓際のテーブルが、ここ最近の私たちの指定席。
 朝から早起きして私が作った大きな四人ぶんのお弁当を、今まさに開こうとしていたところだったのに、私の突然の宣言で、一瞬みんなの動きが止まる。
 
「うん。そのほうがいいと思うよ」
 すぐに再び動き始めたのは花菜だった。
 椅子から立ち上がって、お弁当の包みを開き、ニコニコと笑う。
 
 蓋が開けられたお弁当に、愛梨は思わず「わあっ」と歓声を上げてから、改めて私に目を向けた。
「まだ私の部屋に居たっていいんだよ……?」
 心配そうに眉を寄せる愛梨は、いつも優しい。
 でもその優しさにずいぶん甘えてしまっている自分を、私は感じている。
 
 私を受け入れるために、愛梨は一緒に暮らしていた自分の恋人を部屋から追い出した。
 でも夕食や朝食を一緒に食べに、毎日足繁く彼のもとへと通っている。
 学校が終わったらすぐに彼のところへ行って、それからバイトに行って、それでも必ず夜には私が待つ部屋へと帰ってきてくれる。
 一人きりになるのがまだ恐い私のために、夜は必ず傍にいてくれる。
 そんな律儀な愛梨だから、かなり無理をさせてしまっていると思う。
 いくら「だって私は真実が大事だから」と言われたって、これ以上迷惑はかけられない。
 
「でも新しく部屋を探すとなると、けっこうたいへんだよね……。敷金とか礼金とか、お金もかかるもんね……」
 四人の皿に手際よく料理を取りわけながら、花菜は呟く。
 貴子が「なんだそんなことか」と言わんばかりに、ふっと薄く笑った。
 料理を食べるのに邪魔だったらしい髪を耳にかけながら、皿に盛られたばかりのから揚げを一つ、箸でつまみ上げ、花菜に目を向ける。
 
「それは問題ない。私の隣の空き部屋を、もう大家に交渉してある。おんぼろなアパートだから敷金や礼金なんていらないし、家賃もサービスしてくれるってさ」
 さっさと言い終わるとすぐに、から揚げを口の中に放りこんだ。
 
 ほっぺたを膨らませながら、涼しい顔をしている貴子のほうに、愛梨は驚いて身を乗り出す。
「えっなに? 真実が引越ししたいって……貴子は知ってたの?」
 貴子はちょっと優越感に浸ったような顔で、こっくりと頷いた。
「えー、なんでー? どうして私に言ってくれなかったのよー」
 むくれたようにドカッと椅子に座り直した愛梨に、花菜が笑いながら料理の載った皿を手渡す。
「私だって今聞いたばかりだよ……はい。愛ちゃん」
 私はなんだか申し訳ないような気持ちになって首をすくめた。
「ご、ごめんなさい……」
 二つ目の唐揚げを箸でつかんだ貴子は、人の悪い微笑みを浮かべているばかりで、とても助け舟を出してくれそうにはなかった。


 
「真実さあ……引っ越ししたほうがいいんじゃないか……?」
 そう切り出してきたのは貴子からだった。
 
 自分が愛梨の負担になっていることはわかっていたし、だからといって、いつまた幸哉がやってくるかもわからない部屋に帰る決心はなかなかつかずにいた私は、曖昧に頷いた。
「うん。それはそうなんだけど……」
 貴子はサラリと髪を揺らして、私の顔をのぞきこむ。
「やっぱりあの部屋がいいのか?」
 慌てて私は首を横に振った。
「ううん、そういうわけじゃない。でも、部屋を探すのもたいへんだし……お金のこともあるし……」
 
 みなまで言い終わらないうちに、貴子は私の腕をむんずとつかんで歩きだしていた。
「だったらいいところがある。学校にも近いし、ちょっと古いけど、そのおかげで家賃は破格値だ」
 
 連れて行かれた所は、貴子の住んでいるアパートだった。
 ずっと以前に遊びに来たことがある。
 
「隣に住んでたOLのお姉さんが、結婚して出ていったんだ。知らない奴が引っ越してくるよりは、真実のほうがいいなってひらめいて……どうだ? 隣に私が住んでたら、あの最低男だって手出ししにくいぞ……?」
 真剣なのか冗談なのかよくわからない言葉に、私は思わず苦笑がもれた。
 
 貴子は幸哉のことを、はじめっから毛嫌いしていた。
 そのせいで幸哉も、貴子だけは苦手で避けていたことを思い出す。
 
 あまり大きく表情の崩れることはない貴子も、珍しく歯を見せてにっこりと笑う。
「大家に言って部屋は押さえておくから……ここに引っ越して来たらいい」
「うん……」
 私も笑顔で答えたのだった。


 
 しかし問題は、なんといってもお金だ。
「いくら家賃が安いっていったって、やっぱり引っ越し自体にはお金がかかるんだよね……ここは自分で、運べるものだけでも少しずつ運ぶしかないかなぁ……」
 自分が巻いたのり巻きを食べる愛梨の姿を見ながら、(今日はよく巻けたなあ)なんて考えていた私は、ふうっと気の重いため息をついた。
 
 それを聞いた花菜が、目はお弁当に向けたまま、手も忙しく動かしながら、コロコロと笑う。
「あら……? 真実ちゃんだったら、すぐにお金を作れる方法があるでしょ?」 
「えっ?」
 意外なセリフに、私はまじまじと花菜の横顔を見つめた。
 
 愛梨と貴子もお互いに顔を見あわせて、何のことだかわからないといったふうに首を振りあっている。
「何か怪しい方法? 違うよな?」
 探るような視線を向ける貴子に、花菜はあっけらかんと笑った。
 
「もちろん違うわよ。もっと普通の方法……リサイクルショップ!」
「………………?」
 答えを聞いても、どうしてだかよくわからなくて、顔を見あわせあう私たちに、花菜が語ってくれた話はこうだった。
 
「真実ちゃんの要らなくなったバッグや靴を、リサイクルショップに持っていけばいいのよ。服も、以前に真実ちゃんが着てたのはけっこうブランドものばっかりだったから、もし、もういらないんだったら、結構いい値段がつくんじゃない? 引っ越しの荷物も減るし、一石二鳥。ね、簡単な方法でしょ?」
 見事な笑顔に、ただただもう感心するしかなかった。
 
 実際、お金に換金できるどれだけのものがあるのか。
 私はその日の放課後、海君についてきてもらって、ひさしぶりに自分の部屋に帰ってみることにした。
 
 懐かしい気持ちと、恐い気持ちが半々。
(もし幸哉がいたら? またあの時みたいに、部屋がめちゃくちゃになってたら?)
 
 不安に思う気持ちは大きかったけど、繋いだ手が頼もしかった。
 微笑みを含んで私を見つめる海君の視線が、嬉しかった。
 
「大丈夫。俺がついてるよ」
 くり返し囁かれる言葉に、目が眩みそうなくらいの幸せを感じていた。


 
 玄関にはちゃんと鍵がかかっていた。
 そっとドアを開けてみると、締めきっていた部屋の淀んだ空気が、細いすき間から一気に流れ出してくる。
 
 カーテンもちゃんと閉まっている。
 部屋に誰かが入った形跡もない。
 
 緊張のあまりに止めていた息を、私はため息と共にふうっと吐き出した。
(よかった。もう諦めたのかな……)
 それならいいと思ういっぽうで、簡単にそうはならないだろうと確信している私がいる。
 
(そういえば最近……携帯も全然鳴らなかった……?)
 予想外の沈黙はかえって不気味で、不安が心に重くのしかかってくるような気がする。
 
「真実さん大丈夫?」
 気遣ってくれた海君に、黙ったまま頷く。
「なんなら俺も、一緒に中に入って手伝おうか?」
 驚いて見上げた顔は、悪戯っ子みたいな笑顔だった。
 
 私の目を見て、海君はさらに意味深に、ニヤリと笑う。
「そうしよっか?」 
「だ、大丈夫よ!」
 慌てて断りを入れる。
 
 海君がいつだって私をからかおうとしているってことは、いいかげんわかってきた。
 きっとこの後に続くセリフは――あれだ。
 
「大丈夫だよ。部屋に二人きりだって、どうせ真実さんはすぐ寝ちゃうんだから」
(やっぱり!)
 でもわかっていたのに、まんまと引っかかる自分を止められない。 
「もうっ! まだそのこと、言ってるの?」
 ふり上げた私の腕をつかんで、海君は笑いながら私を引き寄せた。
 
 あまりにも体勢が崩れてしまって、倒れそうになる私の体は、海君に両腕で抱き止められる。
「危ないなぁ。気をつけて」
 
 これではもう、どっちが年上なんだか本当にわからない。
 悔しくって私は報復に出た。 
「ごめんね」なんて言ってすぐに離れることもできたのに、あえてそのまま、海君の背中に腕をまわしてみた。
 
「真実さん?」
 たまには海君のとまどう姿だって見てみたくて、ドキドキする胸を必死に我慢しながらそうしたんだったのに、彼は全然平気な様子で、かえって私をギュッと力強く抱き締める。
 心臓が爆発しそうにドキドキして、もう我慢できなくなった。
「う、海君……」
 
 ギブアップの思いで見上げた顔は、やっぱり悪戯っ子みたいな笑顔だった。
 結局私は、自分は海君にはかなわないってことを、再確認しただけだった。


 
 あらためて部屋の押入れやクローゼットの中を探してみると、確かに花菜の言うとおり、たくさんのいらないものが出てきた。
 そのほとんどが、幸哉に貰ったバッグや靴や洋服。
 
 幸哉は私にプレゼントするというよりは、好みの服を着た女の子を連れて歩きたくて、私にいろんななものを買い与えてくれた。
 私がバイトで稼いだお金も、ほとんどは幸哉に取られて、こんなものになっていったんだから、私のものだとして勝手に処分してしまっても、問題はないだろう。
 
 確認するようにその中の一つを、手にとって見てみた。
 かなりヒールの高い華奢なパンプス。
 これはもうきっと、私には必要ない。
 
(うん。ほんとにちょうどいいのかもしれない……)
 大きな紙袋に何袋も、洋服を綺麗に畳んで入れながら思った。
(幸哉と関係あるものの処分にもなるし、前の私と決別する意味でも……これでいい)
 がらんとなってしまったクローゼットがすっきりしたのと同時に、私の心のほうも、さっぱりとしていた。


 
 合計八袋にもなった紙袋を、私は海君に手伝ってもらって、リサイクルショップへと持ちこんだ。
 花菜が言ったとおり、それらの多くはかなり高額で引き取ってもらえ、私は引っ越し代金と少しの貯金を手に入れた。
 
(これで準備はできた。もうすぐ新しい生活が始まるんだ!)
 少し前までは、想像もできなかった毎日に、私は今、暮らしている。
(いくら感謝しても、しきれないなあ……)
 隣を歩く海君の笑顔を見上げて思った。
 
「海君、今ならなんでもおごってあげるよ。何がいい?」
 こういう時だけ年上ぶって、余裕の気持ちで笑ってみたのに、海君は笑顔のまま、間髪入れずに、
「じゃあ真実さんがいい」
 と返事する。
 
(負けるもんか!)
 いくらポーカーフェイスを気取ろうと思っても、オタオタして赤面してしまうのはいつも私。
 年下のくせに、すました顔で私をからかうのはいつも海君。
 
「また……! そんなこと言う!」
 今日も何度目か、真っ赤になった私を、海君は余裕の表情で見下ろしている。
 
(たまには『いいよ』って、言ってみようかな? そしたら海君も少しは慌てるかな?)
 こりもせず悔しまぎれにそう思って、隙のないその笑顔を見上げて口を開きかけた時、海君のシャツの胸ポケットから、軽快な音楽が流れた。
 
(携帯……?) 
 思わずじいっと見つめる。
 珍しいなと思った。
 海君が携帯を持ってることは知っているけど、私と一緒にいる時に、それが鳴ったことはこれまで一度もない。
 ――たぶんこれが初めて。
 
 海君は私に少し頭を下げて、背中を向ける。
 相手を確認した様子もなく、軽い調子で、「はいはい」と電話に出たあと、「うっわ、忘れてた!」と大きく叫んだ。
 
 一瞬、何のことだろうとその背中を見上げる。
 彼は私に背を向けたまま、ゆっくりと前髪をかき上げている。
(なんだ……電話の相手に言ったのか……)
 もう一度海君から視線を逸らしながら、私は正直、少し困っていた。
(こんな時って、いったいどうすればいいのかな? 近くにいると、聞き耳立ててるみたいだし、今更離れて行くのも、意識しているみたいで変だし……)
 
 他の人のことだったら、別に気にしない。
 でも好きな人だと話は別だ。
 些細なことが気になってどうしようもない。
 
(海君は私に、自分のことは知られたくなさそうだし……)
 かなり本気で困っていた。
(だって私って、海君の連絡先、何も知らないんだよ……?)
 自分で考えておいて、悲しくなる。
 
 立ち尽くしたままの自分の足に、視線をちょっと落としたその時、何か話しこんでいる様子だった海君の声から、
 
「わかったから。じゃそこで待ってて、ひとみちゃん」
 
 なぜかその言葉だけが、バッチリと私の耳に届いてしまった。
 
(……ひとみちゃん?)
 こういうことにだけ過剰に反応するなんて、絶対嫌なのに、
(誰……? 女の子……?)
 私の頭の中からは、もうその言葉が消えてくれない。
 
(だから……だから、絶対に好きになっちゃいけないって思ったのに!)
 たった一言だけで、思考がそこまで飛躍できるのは、恋している時だけの特別な能力かもしれない。
 
 自分自身に対する怒りにも似た、後悔の中、
(こんなことで動揺してるなんて、絶対に海君に知られたくない……!)
 こんな時ばかりむくむくと、年上としてのプライドが頭をもたげる。
 
(海君が秘密だらけなんて、最初からわかってたことだもん……これぐらいどうってことない! 私は平常心!)
 自分で自分に言い聞かせるかのように、何度も心の中でくり返している段階で、もはやすでに『平常心』とはほど遠い。
 
 気持ちとは裏腹に、私の心臓はみっともないくらいの速さでドキドキと脈打っている。
(あー。もう、悔しいよー)
 
 そんな私の目まぐるしいばかりの表情の変化に、あの海君が、気づかないわけがない。
「真実さんゴメン。俺、今日用事があったんだった……」
 
 私の顔をのぞきこむようにして、本気で申し訳なさそうな表情をしながら、手をあわせる海君の顔を見たら、
(あーあ、やっぱりバレバレだ……)
 と感じた。
 
「うん。別にいいよ」
 なんてさらっと笑って言えるようなクールな女に、一度でいいからなってみたい。
 みっともなく笑顔を引きつらせて、「うん」と答えるのがせいいっぱいだなんて、
『私は海君が大好きです。行っちゃったら寂しいです』
 って、自分から告白しているようなものだ。
 
 その上、
「それと……しばらく会いに来れないかも、ゴメン」
 と海君に謝られて、クールどころか呆然とした顔になってしまう。
 
 海君はもう、必死で笑いをこらえた顔で私を見ている。
 
(ほんとに百面相。ほんとにみっともない!)
 情けなさと、本当に心からの寂しさで、胸が張り裂けんばかりの思いで、私はやっと返事を口にした。
「うん。わかった」
 
 海君が頭を下げながら、私の髪をかき混ぜる。
「寂しいだろうけどゴメンね」
 
 その時、ほんの少しだけ残っていた私の年上としてのプライドが、奮い立った。
「別に大丈夫だよ?」
 理想どおりに、サラッと言う事が出来たつもり。
 
 でも海君に、
「えっそうなの? 俺に会えなくても平気?」
 瞳をのぞきこまれながら顔を近づけられたら、ささやかな抵抗も、もうそこで終わりだ。
 
 ――海君の真っ直ぐな瞳に、私は嘘を吐けない。
 
「嘘だよ……寂しいよ……」
 しゅん、とうな垂れた私を、海君は大笑いしながら抱きしめた。
「うん。俺も寂しいよ」
 
「ちょ、ちょっと海君」
 口では抵抗しながらも、私の両腕もしっかりと、彼を抱きしめ返した。
 
(明日からどこに行くの? ……誰と会うの?)
 まったく気にならないと言ったら嘘になる。
 でも口に出して確認するほどの勇気は私にはない。
 
『何も聞かない、何も知らなくていい』
 
 それが私と海君の暗黙のルールだ。
 それを破った時、私達の関係はどうなるのか。
 海君が何かを言ったわけじゃないけれど、私は怖くて想像だってしたくない。
 
 だから――素朴な疑問。
 ちょっとした疑惑。
 ――そんなことだって、私にとっては全然簡単なことなんかじゃない。
 
 でもどんなに苦しくても、寂しくても、こんな恋しなければよかった、なんて私が思うことはきっとないだろう。
 その結論にだけは、私はきっとたどり着かない。
 だから私は、これから先もきっと、こんな胸の痛みと何度も何度も戦っていくんだ。
 
(あーぁ、馬鹿みたいなのは私のほうだよ、海君……)
 悔しいからせめて、想いの大きさが伝わるように、海君の体を思いきり抱きしめた。
(海君を好きな気持ちは、きっと誰にも負けない。だからこの想いの大きさが、どうか海君に伝わりますように……!)
 願いをこめて、ただ抱きしめた。
 宣言したとおり、海君は本当にその次の日から、私のところに来なくなった。

「私はどうってことないよ」という強がりと、「少しは一人でもがんばらなくちゃ」という独立心から、私は海君がいない間に引っ越しをした。
 
  手伝いに来てくれたみんなには、
「あれっ? 海君は?」
 と散々聞かれたけれど、 
「何か用事があるみたい」
 となんでもないようにさらっと答えた。
 
「女の子から電話がかかってきて、どうやらその子のところに行ったみたい。しばらく私のところには来れないんだって」
 なんて、絶対に言えない。
 
 可哀相なんて思われたくなかったし、自分だってそう思いたくなかった。
 貴子に、「そんな男はやめておけ!」と叫ばれたくもない。
 
 でも、これまで毎日一緒にいた海君と会わないということは、寂しいというよりも、不満というよりも、なんだか不思議な感じだった。
 
 朝、大学に行こうと思って玄関のドアを開ける。
 ――道の向こうに、海君の姿はない。
 
 大学から帰る時、正門の前で、思わず明るい色の少しクセがかった髪を探す。
 ――やっぱり、海君はいない。
 
 思わずため息が出てしまうほどの、喪失感。
 
(このまま、もう会えなかったりして……)
 根拠の無い不安でさえ、打ち消すことができない。
 
(だって私たちには、確かなものなんて何もないんだもん……)
 改めてそのことを、思い知らされたような気分だった。


 
 前期も終わりに近づいた大学の講義は、そろそろまとめの時期に入っている。
 半分以上講義に出ていなかったんだから、こんな時こそしっかりと遅れを取り戻さないといけないのに、私の頭の中には常に海君のことしかない。
 教授の声は頭のどこかを素通りしていくばかりで、私は気がつけばいつも、窓から空ばかりを眺めている。
 
(あーあ、悔しいな……)
 ペンを持ったままの右手で頬杖をついて、軽く頭を振る。
 ――払っても払っても浮かんでくるのは不安な気持ちだった。
 
 誰がどれくらい誰のことを思っているのかなんて、結局は比べようもないから、安心もできないし、油断もできない。
 
(私が思うくらいに、海君は私のことを好きなのかな? ……本当はもっと好きな相手が、他にいたりしないかな?)
 考えれば考えるほど、何の根拠もない不安はあとからあとからからどんどん湧いてくる。
 
(こんなはずじゃなかったのになあ……)
 講義に集中しようとするけれど、頭の中では、情けない思いばかりが大きくなる。
 
 これ以上頭と体が別々の作業を続けることに無理を感じて、私は諦め、ペンを机に置いた。
 もう一度、講義室の窓から見える青い空を見上げてみる。
 
 海君がいない間に、空は日一日とその色を濃くしているようだった。
 
(もうすっかり夏だな……)
 二人で行ったあの初夏の海は、今頃たくさんの人でごった返しているんだろう。
 
(もう一度、二人で行けるかな……? 今度はあの砂浜を、手を繋いで歩けるかな……?)
 私をふり返る海君の笑顔を思い出すだけで、胸が締めつけられるように痛くて、どうしようもなかった。
 
(誰かを好きになるって、こんなに大変なことだったかなあ……?)
 目を細めて、太陽を見上げる。
 私にとって海君は、この光よりも眩しい存在。
 
 頭をひねって、いくら記憶をたどってみても、こんなに大きな想いを抱えたことは、今までなかった気がする。
 
(まさか、『こんなに好きになったのは初めて』なんて嘘っぽいセリフ……本気で頭に浮かぶ日が来るなんて、思わなかったよ……!)
 
 自嘲するように、降参するように、私は講義そっちのけでいつまでも空を眺めていた。
 その向こうに思い出す海君のことをいつまでも考えていた。


 
「ねえ……やっぱりおかしいって……!」
 アイスコーヒーのグラスをストローでかき混ぜながら、愛梨は組んでいた足を左右組替えて、声高らかに主張する。
 
 かなり丈の短いそのスカートを、眉をひそめて見ていた貴子も、チラリと私に視線を流しながら、うんうんと頷いた。
「私も同感だ」
 
「でも……何かわけがあるのかもしれないでしょ……?」
 私の代わりに返事してくれる花菜は、今日もみんなのお皿におかずを取り分けている。
 昼食時のお給仕役は、もう彼女以外には考えられない。
 
「だってあんなに毎日来てたんだぞ?」
「それがパッタリって……ねえ?」
 花菜のフォローも虚しく、それでも貴子と愛梨は私に問いかけるような視線を向ける。
 
「絶対おかしいって……!」
 確信するように頷かれて、私は正直、たいへん困っていた。
 
 いつものカフェテリア。
 私が作ったお弁当にプラスコーヒーという形で、私たちは四人は今日も遅めの昼食を取っていた。
 
 近くなった試験の話や、私が急いで詰めこまないといけない講義の内容。
 今年はもう諦めるしかなくて、来年にまわさないといけない単位の話。
 ――話題はたくさんあるはずなのに、なぜかみんなの話は、すぐに海君のことへと流れていく。
 
 海君が私のところに来なくなってから、十日が経っていた。
 
 それまでが毎日毎日、正門の前で私を待っていてくれただけに、みんなの疑問が尽きることはない。
「ねえ……なんで海君来なくなっちゃったの?」
 
 いくら聞かれても、自分自身その答えを知らない私には、小さく首を傾げて、
「さあ……」
 と答えることしかできない。
 
 みんなは私が何かを隠していると思っているのかもしれないが、本当に私には、
「わからない」
 としか答えようがなかった。
 
「ま、いいさ。真実のことだったら、私がちゃんと守るし……」
 引っ越しして、同じアパートの住人になった貴子は、長いサラサラの髪を耳にかけながら、わざと意味ありげな含み笑いをする。
 
 貴子の真正面に座っていた愛梨は、綺麗に手入れされた眉をほんの少しだけ上げて、
「へえ……ひょっとしてそうじゃないかと思ってたけど、やっぱり貴子ってそうだったんだ……」
 同じく意味深な言い方をした。
 
 私はわけがわからず、隣に座る愛梨の顔をのぞきこむ。
「どういうこと?」
 
 でも愛梨はニヤニヤと笑っているばかりで、何も答えてくれない。
 貴子も同様。
 首を捻るばかりの私を見かねて、花菜がそっと耳打ちしてくれた。
「つまり……貴ちゃんは、真実ちゃんが好きってことよ」
 
(…………?)
 私だって貴子の事は大好きだ。
 それをどうしてこんなに、こそこそと話さなければならないんだろう。
 
「それが……どうかしたの?」
 首を傾げながら言いかけて、ようやくみんなの何か含みのある表情の原因に思い当たった。
 
(え? でも、まさか……?)
 疑惑の思いで目を向けた貴子は、なんとも言えない真剣な表情で、私のことを見つめている。
 
「ええええええっ!?」
 悲鳴を上げて、椅子を倒しながら私が立ち上がった瞬間、三人は申しあわせたように、お腹を抱えて大笑いを始めた。
 
「嘘だよ。嘘」
「もう……冗談に決まってるでしょ!」
「真実ちゃんダメだよー。そんなに簡単になんでも信じちゃー」
 
 楽しそうに笑い転げる三人を前に、私は真っ赤になって叫んだ。
「もうっ! 私はみんなのおもちゃじゃないのよっ!」
 
 こぶしを握りしめて叫んだ途端、私をからかってばかりいた海君の顔が、一瞬、チラッと頭をかすめた。
 
 悪戯っ子みたいな顔。
 私を見つめる笑いを含んだ瞳。
 嬉しそうな満面の笑顔。
 
 悔しいくらいにあまりにも脳裏に焼きついていたから、私はぶるぶると頭を振って、その面影を追い払う。
 
(別に平気だもん……海君がいなくっても、私はどうってことない……!)
 
 わざわざ自分に言い聞かせているあたりが、もう全然平気ではないのだけれど、私はそれでもまだ、強がりを貫きとおす。
 
(……負けないもの!)
 
 海君の秘密にも。
 彼を恋しがる自分自身にも。
 ――その強がりがいったいいつまで持つのかは、もはや微妙な段階だった。


 
 大学からの帰り道。
 みんなと一緒に買い物に行った時、一度だけ海君によく似た人を見かけたと思った。
 
 歩いていた私たちと、すれ違うように反対向きに走り抜けて行ったタクシー。
 初めて会った夜に、海君がタクシーから降りて来たことを思い出して、私はドキリとした。
(……まさかね?)
 
 一瞬だけ見えた、後部座席の人が海君に見えた。
 
 でも、背もたれに体を預けるようにして寄りかかる姿。
 堅く閉じた目。
 透きとおるほどに白い顔。
 ――その全てが、私の知っている海君とはあまりにもほど遠い。
 
(そんなわけないか……)
 そう結論づける。
 でも何かが心に引っかかる。
 
(あれ? ……でもあんなふうに、あまり顔色のよくない海君を……私、どっかで見たことなかったっけ?)
 
 細い記憶の糸を必死にたどろうとした。
 その時――
 
「真実ー、何してるの? 置いてっちゃうよー?」
 私を呼ぶ愛梨の声がした。
 
 さっきまで四人で並んでいたはずなのに、気がつけばいつの間にか、私だけが取り残されている。
 慌てて追いかけ始めたら、考えごとは中断せずにいられない。
 
「ははーん。あいつのことを考えてたな?」
 貴子がわざと意地悪に、唇の端をほんの少しだけ上げるようにして笑うから、
「そっ、そんなことないわよ……」
 それに対抗するように、答えずにはいられない。
 海君について考えることを、放棄せずにはいられない。
 
「本当かー?」
「本当だもん!」
 大急ぎで走ってみんなに追いつく。
 
(本当に私は平気なんだから! 海君がいなくたってどうってことないんだから!)
 
 私の虚しい悪あがきは、自分だけじゃなく三人にもきっと、もう筒抜けだった。