色とりどりのネオンが毒を撒き散らすように輝くから、夜の街は眩しすぎて嫌いだ。
 造り物の灯りは、本物の光よりも鋭くて強い。
 だから、そこから逃れようともがく者を、執拗に絡み止めて放さない。

 
 目には見えない恐怖から逃げるように、足をひきずりながら必死に歩いた。
 ようやく抜け出した幸哉のアパートから、なるだけ早く遠去かってしまいたいのに、体がいうことを聞いてくれない。
 真夜中も近いのにあまり温度の下がらない夏の生温い風に晒されて、殴られた痕が今夜はやけに痛かった。
 
 すれ違う人たちはみんな驚いたように私を避け、そのくせ通り過ぎた後にわざわざもう一度ふり返って、見直して行く。
  飲んだ後らしいサラリーマンが、自分もフラフラと歩きながら、
「姉ちゃん、大丈夫かあ?」
 と声をかけてくるほど、今日は顔もかなり腫れているらしい。
 
(まいったなあ……明日のバイト出れるかな? 今月、もう余裕がないのに……)

  ズキズキと疼き続ける左の上腕の痛みをごまかそうと、右てのひらでギュッと握りしめた。
  ガシャンとわざと大きな音をさせて、公園の緑色のフェンスに背中を預け、少しの間だけ足を止める。
 
(なんだかもう……疲れたな……)

 今この時の状況ばかりではなく、最近の自分を取り囲む何もかもが億劫に思えて、心の中には投げやりな考えばかりが浮かぶ。
 このままフェンスに体重をかけて、ズルズルと座りこんでしまおうかと思った時、私のすぐ横をすり抜けていったタクシーが、少し行き過ぎた場所で、ハザードランプを点けて止まった。
 
(な……に……?)

 後部座席のドアが開いて、中から人が降りてくる。
 
(誰……?)

 高校生くらいの男の子だった。
 街灯に背を向けているから顔ははっきりとは見えないが、長めの髪に細身の体。
 運転手に一言二言声をかけて、真っ直ぐ私に向き直る。
 
「送るよ」
 
 突然呼びかけられて、思わず自分の後ろをふり返った。
  こんな時間にこんな所にいることがまるでそぐわないその少年が、声をかけたのが、まさか自分だとは思わなかった。
 
 彼はそんな私に小さく笑ってもう一度、
「送るよ」
 とくり返す。
 
 何と返事すればいいのか、どう解釈すればいいのか、困惑する。
 少年を置き去りにスタートしていくタクシーを目で追いながら、私は黙ったまま少しだけ首を傾げた。
 
(からかってるの? それとも馬鹿にしてるの?)
 
 次々と通り過ぎていく車のライトに時折全身を照らされながら、少年は微動だにせず立っている。
 なぜだか目が離せない。
 絶対にその他大勢の中に埋もれてしまいそうにはない立ち姿。
 
(……何か言い返さなくちゃ)

 口を開きかけた瞬間、少年が動いた。
 右手で長めの前髪をかき上げながら、ゆっくりと笑う。
 くらりと目が回るような、きっといつまでも頭から離れなくなりそうな、そんな笑顔が、対向する車のライトに照らされて、夜の闇の中であまりにも鮮やかに浮かび上がった。
 
 瞬間――
 耳を覆いたくなるほどひっきりなしに続いていた車の走り去る音も、
 店々から流れてくる騒々しいだけのBGMも、
 道行く人が隣にいる人と、あるいは携帯の向こうの相手とうるさいぐらいに交わしている会話も、
 何もかもが私の世界から消えた。
 
 ただ、彼の声しか聞こえなかった。
 
「送るよ。一緒に帰ろう」
 
(なんて返事をしよう?)という考えが浮かぶよりも早く、自分でも気がつかないまま、私はいつの間にか頷いていた。

 
 大通りから細い路地へと入った私の後ろを、ほんの少しだけ遅れて歩きながら、少年は羽織っていたシャツを脱いだ。
 黙ったままこちらへさし出す。
 
「いいよ……」

 押し返そうとした私の肩に、ふわっとそのシャツは掛けられた。
 
(そっか、傷か……)

 幸哉に殴られて転んだ時にできた傷は、私の左腕ですでに黒い血の塊になりかけていた。
 二の腕が剥き出しになったキャミソール型ワンピでは、もともと隠しようもない。
 さっきからずっとズキズキと熱を持って疼いていることは気になっていたが、あまりにもあちこち傷だらけで、見た目の心配なんか忘れていた。
 
(気遣ってくれたのか……)

「ありがと」

 ほんの少し後ろを歩く、私より頭一つぶんだけ背が高い横顔を、改めてふり返ってみる。
 白い頬。華奢な輪郭。綺麗な良く整った鼻。なんの曇りもない眼。
 明るい色の長めの髪には、全体的に少しだけクセがあるように見えた。
 Tシャツの袖をまくり上げて、ジーンズにスニーカー。
 服装から年齢が判別できる格好ではないが、大学生には少し若いだろう。
 
「高校生だよね?」

 率直に聞いてみたら、すかさず聞き返された。
 
「あなたは違うでしょ?」

 あまりにも真っ直ぐに見つめられたので、思わず視線を逸らした。
 純粋としか言いようのない綺麗な瞳を、真正面に受け止めて、返事を口にすることは苦しかった。
 派手な化粧をして、露出の多い服を着て、こんな夜中にこんなところを傷だらけで歩いているような女は、彼の瞳にはどんなふうに映るんだろう。
 
「私……これでも女子大生だよ……」
 
 少し胸を張るように、そのくせ何かを言い訳するように、呟いた私の言葉に、
「ふーん、そう……」
 興味なさげに返ってきた言葉には、驚きの色も侮蔑の色もなかった。

 
 名前も知らないその少年に主張したとおり、私は四年制大学の三回生に籍を置いていた。 
 三回生だったというよりは、籍を置いていたのほうが、正しい。
 なぜならこの四月に進級してからは、私は一度も大学に登校していなかった。
 日々の生活費と幸哉に渡すお金を用意するためだけに、バイトをいくつもかけ持ちする毎日。
 
(私だって最初はもちろん、こんなつもりじゃなかった……)

 やりたいことがあって、取りたい資格があって、そのためにわざわざ、故郷から遠く離れたこの街まで来た。
 この大学を選んだ。
 それなのにいつの間にか、大学生活からはまったくかけ離れた、その場しのぎの毎日をおくっている。
 
 後悔なんて気持ちは、とっくに捨てた。
 そうじゃないとやってられない。
 遠い故郷では両親が、私が勉強に励んでいることを疑いもせずに、暮らしているんだろうけど、そういうことに思いを巡らすのは、自分が辛くなるだけなので、なるべくやらないようにしている。
  だからやっぱり私は、『大学生』なんて胸を張って言える立場ではないかもしれない。
 
「やっぱり違った。うん……フリーターだな。私」

 不自然な訂正にも、少年は特別驚いた様子もない。
 
「ふうん。そうなんだ」

 あまりにもあっさりと返事されたので、思わずカチンときた。
 
「何よ。何か文句ある?」

 顔を仰ぎ見ながら、語気を荒げて放った質問に、彼は真面目な顔で、真剣に答えた。
 
「何も」

 私を見下ろす瞳には、さっき思ったとおり、一点の曇りもなかった。
 
 瞬間、胸が軋んだ。
 自分がなくしてしまったものへの惜別の思いか、それをまだ持っている彼への憧憬か。
 理由はよくわからないけど、どうしようもない胸の痛みに、私は握りしめた右手を胸に当てて立ち止まった。

「ゴメン。やっぱり、私、大学生……また大学に行きたい」
 
 自分でも何を言っているのかと思う。
 今、会ったばかりの、私の事情も知らない年下の男の子に突然こんなことを言っても、通じるはずがない。
 
(……ほんっとに馬鹿だなあ)
 
 悔しくて、惨めな気持ちで俯いた時、
「うん。そうだろうね」
 少年の穏やかな声が、私の上に降ってきた。
 
 それは、誰にも言えない、聞いてもらえない私の本音を、彼が拾い上げて、認めてくれた瞬間だった。
 彼は、私の隣を次から次へと通り過ぎていく見ず知らずの人たちと何も変わらない。
 たった一人の、ただの人間なのに、私はその時なぜか、自分が世界中の全てに認められたような気がした。
 
「どうしたの?」

 ふいに尋ねられて、自分が泣いていたことに気づいた。
 
(涙なんて……どれぐらいぶりだろう?)

 そんなものは、とっくに枯れたと思っていた。
 何のために自分はここにいるのか。
 何がしたいのか。
 自分自身にもわからない。
 夢も希望も確かに心に抱いていたはずなのに、いつの間にかわからなくなってしまった。
 
 つきあって二年を過ぎた幸哉は、
「お前が悪い! お前のせいだ!!」
 と私を殴る。
 私を否定する言葉しか、投げつけてこない。
 
 幸哉は私のことなんて、きっと本当には好きじゃない。
 気に入ったおもちゃを、傍に置いておきたい子供のように、誰にも私を触らせたくないだけだ。
 誰にも私を取られたくない。
 だから私を大学には行かせない。
 だけど――
 
「……こんなのは、私が欲しかった愛じゃない」

 止まらなくなってしまった涙を必死に隠そうと、両手で顔を覆いながら私が呟いたのは、少年にはまったく関係のない言葉。
 それでも彼は私の横にピッタリ寄り添うように歩きながら、
「うん。そうだね」
 と、本当に夢としか思えない返事をくれた。

 
「大学に入ってすぐのコンパでしりあったんだ。気があってすぐにつきあい始めた。学部が違うから講義は全然一緒にならなかったけど……お互いが選択している講義にもぐりこんだり、一緒にお昼を食べたり……あの頃は楽しかったな……」
 
 会ったばかりの見ず知らずの男の子に、私は身の上話をしている。 
 結局、私のアパートの前まで、彼は歩いて送ってくれて、だけどそんな彼に、気軽に、
「うちに寄ってお茶でもしていく?」
 と声をかけれるような私ではなくて、二階の私の部屋を見上げたまま、二人でガードレールに腰かけて、何ということもない話をした。
 
 こんなところを幸哉に見られたら、本当はどんな目にあわされるかわからない。
 だけど今日のところは、私を存分に殴って、自分のアパートから蹴り出したばかりなので、きっと今頃は満足して、ぐっすりと寝ているはずだ。
 
(だから、私とは何の関係もないこの少年が、酷い目にあわされることはない……)

 誰といても、どんな時でも、結局私にとってはそれが一番の気がかりだった。
 
「でも……あんまり私のこと、信用してくれなくてね。ちょっと男の子と話したぐらいでヤキモチ焼くんだ。最初はそれも嬉しかったけど、あんまり度が過ぎて……ちょっと……怖くなった……」
 
 そっと目を伏せて、自分の膝に視線を落とす。
 黒ずんだような打ち身の痕。
 切り傷、擦り傷、数え切れないくらいの傷痕を、いまさらのように両手を広げて隠した。
 
 でもたぶんこの少年は、そんなことなんて気にしない。
 その証拠に、ほら、まっすぐ前に向けた真摯な視線は、揺らぎもしない。
 
「部屋からも出してもらえなくなって、大学には行けなくなって、でも生活のためのバイトだけは許してくれたから、そのうちバイトが私の全てになっちゃった」
 
 自嘲するように小さく笑い、今はもう遠くなった大学生活を思った。
 仲の良かった友だち。
 必死でついていこうとしていた授業。
 サークル活動にコンパ。
  徹夜で頭を捻ってレポートを書いたり、大変だったこともあったはずなのに、今はその全てが懐かしい。

(……もう戻れない。あの日々には戻れないんだ)
 
 膝の上に置いた両手を、ギュッと握りこぶしに変えたその時、私の話が聞こえているんだかいないんだか、ずっと黙ったままだった少年が、静かに口を開いた。
 
「もしよかったら……俺と、ピクニックに行かない?」
 
 あまりにも唐突すぎる思いがけない言葉に、思わず口がポカンと開く。
 失礼なのは十も承知だが、いぶかしく聞き返さずにはいられない。

「ピクニックって……?」
 
「ええっと……お弁当持ってどっかに行くのって、そう言わないっけ?」

 夜の闇の中でも眩しいくらいに輝く笑顔で、屈託なく尋ねる彼の様子に、たまらず吹き出した。
 
「キミってお坊ちゃま? それとも、見た目よりもっと若いの?」

 けれど笑われたことなんて微塵も気にしていない笑顔を見ているうちに、今度は自分のその笑いが、乾いていくのが手に取るようにわかる。
  私の反応なんてまるで関係なく、熱に浮かされたように、
「俺、ピクニックって行ってみたかったんだよな……お弁当持って、どこかにさ。ねぇ、俺と行かない?」
 楽しそうにくり返す笑顔から視線が外せない。
 
 夢見るような、まばゆいような笑顔に、魂を抜かれてしまったかのように、一瞬たりとも目を逸らせない。
  長い間、暗闇の中で息をしていたような私には、手を触れることさえ許されないような笑顔だった。
 遠い遠い笑顔だった。
 
(だけどもし……もしもよ。私が今、ここで頷いたら……この笑顔ってもっと輝くんじゃない?)

 むくむくと好奇心が頭をもたげた。
 いや、正直に言うと、誘惑に逆らえなかった。
 
(どうせこの顔じゃ、明日のバイトは無理だよね。だったら……)

 心の中でせいいっぱい、自分に言い訳した。
 
「じゃあ、行こうか。一緒にピクニック」

 弾むような調子で、隣に座る人の顔をのぞきこんだ。
 どんな反応が返ってくるのかと、純粋にわくわくしながら。
 
「やったっ。本当に?」

 あっという間に輝きを増して、黒く深い色に染まり始める瞳。
 その綺麗な瞳が、思ったとおり……いや、それ以上の笑顔を伴って、真っ直ぐに私の顔を見つめる。
 
(いつまでも眺めていたい)

 瞬間的に心に浮かんだのが、まぎれもなく私の本心だった。
 だってほら、つられて思わず、自分まで笑わずにいられない。
 ずいぶん長い間、笑ったことなんてなかったはずなのに、こんなにも簡単に。
 
 理由なんて考えるまでもなかった。
 誰に尋ねられても、まちがいなく百点満点を貰えるくらい、その答えには自信があった。
 
(それはね……ほら、笑顔のお手本みたいな顔が、目の前で微笑みかけてくるからだよ)
 
 私が心の中で考えていることなんて何の関係もなく、少年はいつまでもニコニコと笑っている。
 その笑顔を見ていたかった。
 ずっとずっと見ていたかった。
 
「じゃあ、明日迎えに来るよ」
 
 律儀に頭を下げて、夜の街へと帰って行く背中を、小さく手を振りながら見送ったけれども、私は本気でその言葉を信じたわけではなかった。
 
(だって……たぶん冗談だよ。かわいそうな年上のお姉さんを、彼なりに励ましてくれたってことでしょ?)

 冷静に大人ぶった解釈をつけながら、鉄製の外階段をカンカンカンと駆け上がり、二階の自分の部屋へ帰った。
 
(私があまりにも落ちこんでた上に、とうとう泣き出しちゃったもんだから、ちょっと気持ちを明るくしてあげようって、がんばってくれたんだよね?)
 
 汗と涙ですっかり崩れてしまったメイクを、洗面台で一気におとす。
 鏡の中に現れた素顔の自分は、みっともないくらいに左頬を腫らしていた。
  こんな顔の女に、なんのためらいもなく話しかけてきた人がいたなんて、まるで嘘みたいだ。
 でも嘘じゃない。
 そして――彼が残してくれた約束も、きっと嘘じゃない。
 
(信じてるわけじゃない……信じてるわけじゃないのよ……でももしかして、もしかしたら……?)

 薄い生地のワンピースを洗濯機に放りこむと、パジャマ代わりのTシャツを頭から被る。
 そのままゴロンとベッドに横になって、眠ってしまおうかとも思ったが、もう一度起き上がって、サイドテーブルの上の目覚し時計を、いつもよりかなり早めの時間にセットせずにいられなかった。
 実際にベッドに横になって、見慣れた天井を見上げた後も、さっきまでのことを思い出すと気持ちが高ぶって、実はなかなか寝つけなかった。
六時半にセットした目覚ましが鳴るよりも早く起きて、洗面所で顔を洗った。
 昨夜は寝るのが遅くなったし、幸哉が思い切り殴ってくれたおかげで、鏡に映る今日の顔は最悪だ。
 水がしみる頬の傷をそっと撫でながら、
(何やってるんだろう……私)
 と思った。
 
(信じてるわけじゃない、本当に信じてるわけじゃないんだけど……約束したからには、ちゃんと準備だけはしとかないと……ね?)
 
 自分の行動に言い訳しながら、台所に立つ。
 流しの下から出したフライパンをコンロの上に置いて、はたしてこの部屋に、どんな食料が残っていたのかを、冷蔵庫を開けて確認した。
 
(そっか……この間、愛梨が泊まって行ったから、ちょっとした材料くらいなら珍しくあるや……)

 ホッとした。
 使えそうなものを次々と出しながらぼんやりと考える。
 
(大学に入ってすぐの頃は、友達が泊まりに来て、一緒にご飯を食べてくなんてことも、しょっちゅうだったんだけどな……)

 今ではすっかり遠くなってしまったなんでもない平凡な日々が、懐かしく感じられた。

 
 愛梨は入学してすぐにできた友だちだった。
 同じ地方出身ということもあって、よく一緒に遊んだり勉強したりした。
 お互いに彼氏ができて、いつでも二人一緒というわけにはいかなくなってからも、大学では常に行動を共にしていた。
 だから、かなり早い時期に私の傷に気づいて、
『もしかして……?』
 と尋ねたのは、やっぱり愛梨だった。
 
 私は、幸哉のヤキモチが過ぎることと、暴力のことを、あまりおおげさにならないように話した。
 けれど、どちらかというと人情派の愛梨は、かなり激怒した。
 
『そんな奴、さっさと別れなさい!』

 何度、本気で怒られただろう。
 私のためを思って、愛梨はいつも真剣に忠告してくれた。
 
『でも、普段は優しい人なんだよ……それに傍にいないと、やっぱり寂しいから……』

 愛梨の言葉を無視して、ズルズルと幸哉との関係を続けてしまったのは、私の意志の弱さだ。
 次第に大学も休みがちになって、仲の良かった友だちも、一人二人と減っていった。
 そんな中でも、愛梨は、
『今日二限目の講義はほんとおもしろかったー。真実も早く出ておいで』
『あんな男、早く別れちゃいな。また一緒に大学に通おう』
 と、私に連絡をとり続けてくれた。
 必要最低限のことしか書かれていないメッセージは、いつも私の心の支えだった。
 

 その愛梨がこの間、風邪で寝こんだ私を看病しに、ひさしぶりに泊まりに来てくれた。

『絶対絶対、良くなったら学校来るんだよ』

 帰る時、私の両手を握りしめて、くり返してくれた言葉は、愛梨のことを、
『男を連れこんだんだろう』
 と決めつけて、私を二日間自分の部屋から出さなかった幸哉のせいで無駄になってしまったけど、確かに私の心を救ってくれた。
 
「ありがとう、愛梨……」

 あらためて口に出して感謝して、私は彼女が残していった食材を手にした。

 
 一人暮らしを始めるにあたって、家具や電化製品と一緒に、母がいろんな調理器具を揃えてくれていた。
 フライパン一つ取ってみても、それを母と二人で選んだ時のことを思い出す。

(……お母さん)

 今の私の状況で、母を思い出すのは、決して楽なことではない。
 
『お鍋のフタはね、透明のほうが使いやすいんだよ』

 まるで自分のことのように、私の大学入学を喜んでくれた両親に、会わせる顔が今の私にはない。
 実家には昨年の暮れ以来、帰っていない。
 
『たまには、帰っておいで』

 母からのメッセージにも、長い間返事をしていない。
 その事実が、なぜか今日は普段以上に胸に刺さる。

『忙しいんだろうけど、どうしてるのか心配だよ』

 留守電に残された懐かしい声を耳にすると、
(私にはまだ帰る場所があるんじゃないだろうか?)
 と希望を持つこともある。
 でも――。
 
『ゴメン、真実。昨日はどうかしてた。俺が悪かった』

 それと前後して録音されている、私を殴った時とは別人のような幸哉の声を聞くと、いつもふりだしに戻ってしまう。
 弱い私には、弱い幸哉と離れる勇気がない。

(無理だ。帰れない……)

 そして、堂々巡りの地獄の日々は、終わることなく続いていく。

 
(なんだかとってもひさしぶりだ)

 炊飯器でご飯を炊いて、おにぎりを握りながら思った。
 一人暮らしを始めて最初の頃は、こんなふうに自炊していたし、お弁当まで作って、大学に持って行っていた。

『真実の卵焼きおいしいー』

 友達には評判だったし、幸哉にも何度も作ってあげた。
 
『うん、おいしいよ』

 喜んでくれる顔が大好きだった。
 大好きだったはずだった。
 それが、いつからかどこかがズレて、噛みあわなくなって、もうやり直せないところに来ている。
 それがわかっているのに、断ち切ることができない。
 
(私は……まだ、幸哉に何かを期待してるんだろうか?)

 そう思った時、携帯が鳴った。
 呼び出し音のあと、留守番電話に接続される。
 聞こえてきたのは――予想どおり幸哉の声だった。
 
「真実。俺だけど……」

 それだけ言って切れてすぐ、また携帯が鳴り始める。
 表記された名前は、やっぱり幸哉。
 仕方なく私はそれを手に取った。
 
「……もしもし」

 まだそれだけしか口にしないうちに、どこか怯えたような低い声は、性急に問いかけてくる。

「今どこにいる? そばに誰かいるのか?」

 思わずため息が漏れた。

「家だよ……すぐに取ろうとしたんだけど、まにあわなくて留守電になっちゃっただけ……」

 電話の向こうで、幸哉もため息を吐いたのが聞こえた。

「……そうか」

 私の言葉を信じているのか、いないのか。
 とりあえず今日は怒りだすつもりはないようだ。
 
「昨日は悪かったな」

 いつもの決り文句に、
(また始まった)
 冷めた思いで耳を傾けていると、カーテン越しに窓の向こうに、チラリと赤い色が見えた。
 すぐさま窓に駆け寄って、通りの向こうのガードレールを見下ろしてみる。
 そこに確かに彼はいた。
 
 細身のジーンズに、白いパーカー。
 深く被った赤いキャップのせいで顔は良く見えないけれど、細い顎のラインと、キャップから出ている明るい色の少しくせがかった髪が、確かに昨夜の彼のものだった。
 
(本当に来たんだ!)

 どうしてこんなに嬉しいんだろう。
 携帯の向こうの幸哉の不機嫌な声も耳に入らない。
 
「真実。ちゃんと聞いてるのか?」

 気分の変化を気づかれないように、
「うん聞いてる」
 平静を装いながら、急いで、出来上がっていたお弁当を包んだ。
 
「また、俺の部屋に来いよな」

 その言葉には、あえて返事をしないで、
「でも、しばらくはバイトをがんばらないと……」
 と答えた。
 
 自分のせいで私がバイトの一つを首になったことと、今月はもうかなり厳しくなってきた生活費のことを、幸哉もとっさに考えたらしい。

「そうか」

 いつになくあっさりと引き下がった。
 
 私は洗面所へと急ぎ足で向かいながら、パジャマを脱ぐ。

「じゃあ、もう切るね」

 なるべくぶっきらぼうに聞こえないように気をつけたはずなのに、
「ああ」
 幸哉は傷ついたような声を出す。
 ここでいつもは、つい優しい言葉をかけてしまって、すぐにまた幸哉のアパートへ帰ることになってしまうのだが、今日はそのまま電話を切った。
 
(変に思われなかったかな?)

 ちょっと不安になったが、迷っている時間なんてなかった。

(あんなところで待たせてたら、そのほうが問題になっちゃうよ……!)

 急いで服を着て、私は飛び出すように家を出た。

 
 彼は私の姿を見つけるなり、道の向こうからニッコリ笑って手を振った。

(昨夜、暗い中でも思ったんだけど……明るいところで見るとやっぱり……なんて眩しい笑顔なんだろう)

 その笑顔が私に向けられているというのが、どう考えても信じられない。
 
「おっ?……本当に来てくれるとは思わなかった……」

 弾みをつけてガードレールから降り立ちながら、彼が放った言葉に、
「こっちこそ。まさか本当に来るとは思わなかった」
 負けじと言い返す。
 
 キラリと、茶色っぽい目を輝かせながら、
「だって、約束したでしょ?」
 彼は私の顔を真っ直ぐに見つめて、あっさりと言い切った。
 
『約束は必ず守らなくちゃ!』

 そんなことが本気で言えてしまうくらいの綺麗な瞳。
 本当にうらやましいくらいの輝き。
 その瞳に映る私ぐらい、今までの自分とは別人のようでいいと思った。
 
「うん……そうだよね」

 気恥ずかしく思いながらも素直に頷いてみると、すぐさま笑顔で、
「うん」
 と頷き返される。
 くすぐったいくらいの気持ち良さだった。

 
 もうずいぶん長いこと、いつまでも止まないどしゃぶりの雨の中を歩いているようだった。
 出口は見えない。
 終わりはない。
 このまま永遠に。
 
 昨夜までの私は、確かにそんな絶望の中に生きていた。
 なのに今日は、爽やかな朝の風を頬に感じながら、初夏の晴天の下で笑っている。
 まるで今までもずっとそうだったかのように――不自然なほど自然に。
 
 自分でも信じられないくらいの急変化。
 なのになぜだろう。
 昨夜からにわかに弾み始めた気持ちは、時が経つに連れどんどん加速していく。

 
「どこに行こうか? どこに行きたい?」

 隠し切れない喜色をごまかすかのように、口早に問いかけると、
「真実さんは?」
 ちょっと悪戯っぽい色を浮かべた笑顔が、問い返してくる。
 
「どうして私の名前……?」

 目を見開く私に、彼はニヤリと笑い、大事に胸に抱えこんでいたバッグにすっと指を向けた。
 
『一年一組 白川真実』
 
 大きくマジックペンで書いてあるのを発見して、顔から火が出るような思いがする。
 そう、それは私が小学生の頃から愛用しているバッグだった。
 
「こ、これは、違うのよ。ううん、違わないんだけど! ……他にお弁当箱が入りそうなのがなくって……!」

 懸命に事情を説明する私には、一切お構いなしで、彼はお腹を抱えて大笑いし始める。
 
「ハハハハ」

(ひょっとして笑い上戸……?)

 少々怒りまじりに考えずにはいられないくらい、彼の笑いは止まらなかった。
 
(あぁ恥ずかしい! ……情けない! だけどそれにしたって……)
 
 なかなか収まりそうにない大笑い。
 
(……いくらなんでも失礼じゃない? ……もうっ!)

 けれど涙を浮かべて大笑いしている顔は、本当に屈託がなくって、うらやましいくらいに綺麗で、だから口に出して露骨に非難することは、なんだかためらわれた。
 
「ごめん、ごめん……ごめんなさい」

 涙を拭きながらようやく笑い止んだ彼を、軽く睨むくらいで許してあげ、私はささやかな反撃を試みる。

「……じゃあ、あなたの名前は?」

 簡単に答えが返ってくるとばかり思っていたのに、折り曲げていた体をスッと伸ばして、前髪をかき上げながら私の顔を見つめた彼は、なんとも感情が読み取れない不思議な表情へと、笑顔を微妙に変化させた。
 
「うーん、そうだなぁ……真実さんの好きに呼んでかまわないよ……」

(なにそれ?)

 心の中では、かなり驚いていた。

(何か……わけあり?)

 この上なく動揺していた。
 けれど、世間に慣れた年上ぶって、せいいっぱい意地を張って、
「それじゃあ」
 と、何でもないフリをした。
 
(どうせ今日一日遊ぶだけだもんね……名前なんて知らなくてもいいっか……)
 という思いと、
(絶対に私のほうが年上なんだから、ここで舐められるわけにはいかない!)
 という意地が交錯する。
 
 私の思惑なんてどうでもいいことのように、彼は真っ直ぐにこちらを見つめながら、私が次に口を開くのをじっと待っている。

『さあ、どんな名前をつける?』

 とでも言いたげな、いたずらっ子のような、そのくせ妙に余裕を感じさせる不思議なまなざし。
 少々ムッとしながらも、綺麗な瞳が、初夏の太陽を反射して眩しいくらいに煌く様子に見惚れた。
 
 ――ふいに、その瞳の深い色に懐かしい風景が重なる。
 本当はいつでも、私の心から離れないあの海。
 だから――。
 
「……うみ君って呼んでいいかな? ちなみに私が行きたい場所も、海だけど……」

 思わず口をついて出てしまってから、恥ずかしくなった。

(やっぱり『海』なんて、人の名前としてはおかしいよね……?)

 内心ヒヤヒヤしながら、上目遣いで見上げた彼の顔は、予想以上に驚きに満ちていた。
 呆気に取られたようにちょっと開いた口元。
 いっぱいに見開かれた瞳。
 
(え? なに? ……私、そんなに驚くほど変なこと言った?)

 どうしてそれほど驚かれているのか、逆に驚くような反応だった。
 
「……どうしたの?」

 不安に思って尋ねてみると、
「絶対無理だと思ってたのに……すごいな……けっこういいせん行ってる」
 彼は感心したように息をつき、次の瞬間、私に子供のような満面の笑顔を向けてきた。

「うん、今までで一番かも。真美さんすごい!」

 褒められると悪い気はしない。
 しかもこんなに真っ直ぐに賛辞を向けられるのならば、なおさら。
 
(ふーん、『海』が惜しいんだ……いったいどんな名前?)

 首を傾げて、そのまま考えこみそうになった私のバッグを、海君がすばやく取り上げた。
 そのまま、前に立って歩き始める。

「荷物持つよ」

(へぇ……けっこう男らしい……子供なのに)

 さっさと歩き去ってしまいそうな背中を慌てて追いかけ、隣を歩きながら笑い含みに横顔を見上げる。
 
 ――でも真っ直ぐに前を見ているその横顔は、私が思っていたよりも、ずっと大人だった。
 
「何?」

 キラリと輝く綺麗な瞳で、見つめ返されると、思わずドキリとしてしまう。

「ううん……なんでもない」

 私は急いで首を振り、彼から視線を逸らした。
 さっきまで彼が見ていた進行方向に、顔を向け直す。
 そんな自分が、なんだかおかしかった。

(変なの……)

 どうにもおかしかった。
「俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車しかないんだよね」

 照れも気負いもなくあっけらかんと笑う海君は、私を最寄りの駅まで先導して歩いた。

「やっぱり高校生なんでしょ?」

 笑い含みの私の問いかけには、肩を竦めてみせるだけ。
 どうやら答えるつもりはないらしい。
 その表情からは、何の答えも読み取れなかった。
 
(まぁ、いいっか……)

 それでも別にかまわなかった。

(どうせ今日だけだもんね。その後は、もう会うこともないんだから……)

 気づいてみれば、まるで自分に牽制するかのように、私は何度も心の中でくり返している。
 
(ええっと……海に行くには……)

 駅の構内に掲げられた路線図を見上げながら、私が考えているうちに、海君はさっさと切符を買っている。

「え? ええ?」

 二人ぶんの切符をひらひらと振りながら、もう改札に向かっている。

「こっちだよ真実さん」

 ふり向きもしないで、私に声だけをかけるその背中を、慌てて追いかけた。
 
 ホームで待っていた電車にためらいもなく乗りこむと、海君は真っ直ぐに窓際の席へ向かう。
 すぐに腰を下ろして、
「どうぞ」
 自分の隣の席を指差す。
 離れて座るのもなんだか不自然な気がして、私は言われるまま彼の隣に腰を下ろす。
 間髪入れずに、ホームに発車のベルが鳴り響いた。
 ――ジリリリリリリ
 電車が動き出した瞬間、私は思わず感嘆のため息をついた。
 
(すごい。なんてそつがないんだろ。私ひとりじゃ、とてもこうはいかない)

 窓の外のだんだん早くなる景色を、黙ったまま見つめている海君の横顔を、チラッと見てみた。
 
 私はどちらかというと、テキパキと物事がこなせないタイプで、よくぼーっとしていると言われる。

『真美はしょうがないな』

 周りにいる人にはいつも世話ばかりかけている。
 小さな頃は二つ年上の兄のあとを追いかけていたし、一人暮らしを始めてからも、なんだかんだと愛梨に助けてもらった。
 
 そして、幸哉。
 なんでも自分の思いどおりに私を動かそうとする幸哉の行動は、もとは私のこの性格が原因だ。
 自分では何もできない。
 あなたがいないとどうしようもない。
 私の頼りなさを幸哉がそう解釈して、私のためにとやってくれていたことが次第にエスカレートしていった。
 始まりはそうだったのかもしれない。
 
(だけど……でも……)

 一瞬頭に浮かんだ好意的な解釈を、打ち消すように、私は激しく首を振る。

(自分の思いどおりにならないと、殴る。蹴る。そんな権利は幸哉にだってない。いくら、最初は私のためだったとしても……)

 ともすれば情に流されそうになる感情を、必死に理性で押し止める。
 真剣に、自分の中へと意識が向かっていくと、知らず知らずに俯かずにいられなかった。
 膝に額がつきそうなほど、深く体を折り曲げて俯いた私の頭に、その時、海君が乱暴に赤いキャップを被せた。

「何?」

 驚いてふり仰ぐと、
「貸してあげる」
 静かな声が返ってくる。
 帽子の跡がついた自分の髪をかき上げながら、私のほうを見ようともしない、わざとぶっきらぼうな言い方に、素直な言葉が零れ出た。

「……ありがと……」
 
 私の気持ちが落ちこみそうだったのを、感じ取ってくれたのかもしれない。
 窓の外を眺めている横顔からは、やっぱり何を考えているのかはわからないが、そういえば私の顔には、昨日の傷もまだ残ったままだった。

(傷を隠せるように……してくれたの?)

 適当にのっけられたキャップを目深に被り直した。
 なんだか胸が熱くなった。
 
(生意気。年下のくせに、気が利きすぎ……)

 本心ではない悪態を心の中で呟く。
 でもそうでもしていないと熱いものがこみ上げてきそうだった。
 私のことなんてまるで眼中にないように、窓の外の景色に目を向けている年下の少年に、泣かされてしまうなんてなんだか悔しい。

(しかも今日だけ……今日だけしか一緒にいない相手なのに……)

 だからこそなんのしがらみもなく、一番素のままの自分が、ひょっこりと顔を出してしまうのかもしれない。
 そんな自分がまた悔しくて、なのにどこか嬉しくもあって、私はキャップのつばの下で、一人で小さく苦笑しっぱなしだった。
 
(それにしても、キャップの似あう格好してきて良かった……デニムのスカートなんて、何年かぶりだけど……別に変じゃないよね?)

 幸哉は、何から何まで私が自分の思いどおりじゃないと、気がすまなかった。
 幸哉の好きな色で幸哉の好きなデザインじゃないと、洋服も気に入らない。
 ちょっと着てみたいと思って買った服を、まだ新品のうちにビリビリに破かれたこともあった。

(本当は、こういうカジュアルな格好が好きだったんだよね……)

 シンプルなシャツにデニムのスカート。
 足にはスニーカー。
 いつもとはまったく違う自分の格好を、改めて点検してみる。
 
 海に行けたらいいなと思って、それにあうようにしてきたつもりだが、今まで幸哉に強要されていた派手でケバケバしい服より、自分らしい気がした。 

(これがきっと分相応……おかげで今日のメイク時間は、いつもの十分の一だったしね……)

 つけようと思って出したはいいいものの、とてもそんな気になれなくて、洗面台に投げ出してきたマスカラやアイシャドウのことを思い出した。
 なんだか笑えた。
 
 ふと気がつくと、いつの間にか窓から私のほうへと向き直っていた海君も、私の顔を見て笑っていた。
 なんだか余裕たっぷりの微笑に、ドキリと胸が鳴る。

「何?」

 そんな自分に焦りを感じながらも、強気な姿勢は崩さず尋ねると、
「うん、今日の真実さんは昨日より可愛いなと思って」
 海君はあっさりと――実にあっさりと言ってのける。
 
 照れる様子など微塵も感じさせない。
 彼が口にする言葉は、どこまでも真っ直ぐで、誇張も飾りもない。
 
 私の顔をじっと見つめる彼の落ち着き払った態度とは対照的に、私のほうは一人で照れて、焦りまくって、
「と、年下のくせに……生意気言わないでよっ!」
 これ以上表情を観察されないようにと、慌てて俯いた。
 
 海君はくくくっと声を殺して笑いながら、私の頭をキャップの上から叩く。
 その思ったよりも大きなてのひらに、またしてもドキリとする。
 そんな自分は、どう考えても自意識過剰だった。

 
 海水浴にはまだほんの少し早い季節、それでも海岸近くの駅で降りる乗客は多かった。
 そのほとんどがカップルか、学生たちのグループ。

(私と海君は、どんなふうに見えるんだろ……?)

 気にしなくてもいいはずのことを気にしながら、自分より頭一つぶん背が高い背中を、小走りで追いかける。
 
「真実さん。荷物、このへんに置いとくね」

 海君は最初っから、私に気を遣うなんてことはなしに、自分の思うがまま行動している。
 自分の乗りたい電車に乗って、降りたい駅で降り、行きたい方向に歩いて、当たり前のようにふり返って私を呼ぶ。
 そんな行動の何もかもが、しっくりと心地良い。
 昨夜出会ったばかりなのが、まるで嘘のようだった。
 私はすっかり安心しきって、なんの迷いもなく終始彼のあとを追いかけている。
 
 自分の意見や考えをしっかりと持っている人。
 行動力のある人。
 迷いのない人。
 そんな人が私はうらやましい。
 自分がそんな人間ではないので、憧れてやまない。
 
(私一人だったら、今日も一日部屋にいて、幸哉のことを思い出して落ちこむばかりだったと思う……)

 迷いなく波うち際へと向かって行く海君の背中に、私は確かに感謝の気持ちを感じていた。
 

「真実さんもおいでよ」

 靴を脱いで、ジーンズの裾をめくりながら、海君が呼ぶから、私はわざと砂浜に座りこんで、頬杖をつきながら首を振る。

「いい。やめとく」

「どうして?」

 太陽を背に、海君が笑った。
 眩しい光が、彼にはなんて似あうんだろう。
 本音を言うと、その姿を見ていたいだけだが、それを口に出すことはためらわれて、
「だって海君、絶対私に水をかけるでしょ?」
 せいいっぱい大人ぶって答えた。
 
 そんな私を、海君は
「ハハハ」
 と声に出して笑ってから、海水を両手にすくい上げた。

「え……? ちょっと待って……! って、もしかしてっ!」

 私が身構えるより先に、
「それは……絶対するね!」
 私に向かって、その水を放ってよこす。
 
 ザンッ
 
 幸いにも海水は、私の肩をかすめて、砂へと吸いこまれていったけど、
「うーみー君!」
 不意をつかれた私は、抗議の声を上げると同時に、腰を下ろしていた砂浜から立ち上がった。

「なにするのよ! もうっ!」

 急いでスニーカーを脱ぎ捨てて、波うち際へ向かう私に、
「あははっ! ゴメンゴメン!」
 言葉とは裏腹に、彼は第二波、第三波を放ってよこす。

「この悪ガキ!」

 ついに走り出し、応戦し始めた私に、海君はそれでも笑いながら水をかけた。
 何度も何度も、知らない人から見たらおかしいのかと思うくらい、私たちはふざけあって、水をかけあって、大笑いしながらずぶ濡れになった。

 
「……ちょっと休憩」

 水のかけあいの真っ最中に突然そう言うと、海君は本当に砂浜にゴロンと横になる。
 かなりずぶ濡れのままだったから、
「えっ? 砂がついちゃうよ?」
 慌てて忠告したのに、
「いいよ……それより疲れた……」
 腕を目のあたりに押し当てて、まるで太陽から顔を隠すようにして、肩で大きく息をくり返す。
 
(……仕方ないな)

 隣に腰を下ろして、
「おい、運動不足だぞ! 若者!」
 私は笑った。

「……本当に」

 笑い声で答えた海君の顔は、彼の腕に隠れてよく見えなかった。
 でも、口元のあたりが笑みを作っていたから、私はそのまま軽口を続ける。
 
「まだまだこんなもんじゃ、私には勝てないわよ……!」

 海君が腕をずらして、目を細めて私を見上げた。
 眩しいくらいの笑顔の中で、綺麗な瞳が、キラリと光る。

「そうだね。あーあ、真実さん、小さくて痩せっぽちのクセに、パワフルなんだもんなー」

「小さいは余計です……!」

 魅力的な笑顔にわざとしかめ面をしてみせてから、私はさっきまで二人で駆け回っていた波うち際へと視線を向けた。
 
 寄せては返す白波。
 それは私にとって、決して縁遠い存在ではない。

「私は港町で育ったから……海には慣れてるの。海風や海水って、思ったより体力消耗するんだよ……」

 小さな頃、いろんな大人たちから聞かされた海の話。
 それを、さも自分の言葉のように語っている私。
 そんな自分がなんだか照れ臭い。
 
 海君は砂浜からゆっくりと起き上がって、私の隣に座り直し、私が見ている方向に、同じように視線を向けた。
 どこまでも続く水平線。
 青い空と白い雲。
 夏がすぐそこまで来ている。
 
「そっか。いつも遠くから見てるだけじゃ、そこまでわかんなかったな……」

 独り言のような呟きに、私はびっくりして彼の横顔を見つめた。

「えっ? ひょっとして、海に来たの初めてだった?」

 そんな人が果たしているのだろうか――よく考えなくても、自分の質問の滑稽さは、誰よりも自分が一番よくわかっていたが、
「……いいや、何度も来てるよ」
 海君は呆れもせずに、波間に視線を向けたまま小さく笑った。
 
 少し声のトーンを変えて、
「ただ俺が一番多く見ていた景色の中では、海は遠くにほんの少しだけ見えるものだったからさ……」
 彼が呟いた謎かけのような言葉を、私はゆっくりと考察する。

(家の窓とか教室の窓とか、そんなところから遠くに海が見えたってこと……?)

 首を捻り始めた私に、海君はフッと笑いを漏らす。

「……ゴメン。まあ要するに、こんなに楽しいのは初めてってことだよ」

 急に真正面から顔をのぞきこまれて、そんなふうに言われると、なんだか照れてしまう。
 私は俯いて、砂をてのひらですくい上げ、指の隙間からサラサラと落とした。

 海君も同じように砂をつかんで、
「真実さんは、海のそばで育ったから海が好きなんだね」
 もう一度笑う。

 彼の大きな手の、長い指の間から砂が落ちていく様子に、思わず見惚れそうになっていた私は、そんな自分を追い払うように、
「うん、大好き」
 大袈裟に笑って答えて、もう一度顔を上げた。
 
 目があった途端に、海君の綺麗な瞳が、またキラッと光った。

「何が?」

 年下とは思えない、落ち着いた響きのある声で、彼は余裕たっぷりに私に問いかける。

「何がって……だから……海だよ?」

 疑いもせずに即座にそう答えた瞬間、自分を見下ろす笑顔の、本当の意図にやっと気がついた。
 大慌てしてしまう。

「そそそうじゃなくてっ! いや、そうなんだけどっ!」
 
 海君はすぐに、
「ハハハハッ」
 と肩を揺すって大笑いを始める。
 
 彼が私の反応を面白がって、わざと言っているのはよくわかる。
 わかるのに――どうしてこう見事にひっかかってしまうんだろう。

「ああああ、何でこんな名前つけちゃったんだろう!」

 両手で頭を抱えながらぼやく私に、
「……光栄です」
 海君がポンと肩を叩いた。
 
 そしてそのまま立ち上がり、荷物を置きっぱなしにしていたあたりに向かって、砂浜を戻り始める。
 その思ったより大きな背中を見送りながら、私は彼が触れた左肩を、なんとなく右手で握りしめた。
 感覚や意識がその場所に集中しすぎて、熱いようにさえ感じた。

(そんなはずない。……本当に笑っちゃうくらい気にし過ぎだ……)

 苦笑交じりにそう思った時、
 ズキリ
 左腕が痛んだ。
 
(……そうだった。昨日、幸哉にやられた傷があったんだった……)

 唇をかみ締めるようにそう思った瞬間、意識が急速に現実に引き戻される。
 傷が見えないように今日は長袖の服を着てきたけど、
(そう……状況は何も変わってない……私は幸哉から離れられない)
 今まで当然だと思っていたことが、今日はやけに胸に痛い。
 幸哉の存在を、今日だけは忘れていられても、明日からはまた、幸哉に支配された、幸哉に怯える毎日に戻る。

(……嫌だな)

 急にそう感じるようになったのはなぜだろう――少し自由に行動できたからか。
 それとも、別の理由からか。
 少し考えれば、その答えはすぐに出てくるのに、私は考えることを拒否する。

(どうせ何も変わらない……)

 諦めることは簡単だ。
 少なくとも、今の状況をどうにか良くしようと努力するよりは簡単だ。
 自分の膝小僧におでこをくっつけるようにして、膝を抱えて俯いてしまった私を、遠くから海君が呼ぶ。

「真実さーん、お弁当食べようよー。俺、それが楽しみなんだからさー」
 
 初めて聞いたその時から、海君の声は、私を落ち着かなくさせる。
 なんだか胸がザワザワする。
 じっとしていられないくらい心に響くのに、耳に心地良い。
 
 返事もせず、そんなことを考えていたから、
「真美さん?」
 もう一度、呼ばれた。
 
 ふり返って、目を細めて見てみたら、夏の太陽にも負けないくらいの眩しい笑顔が、やっぱり私に向かって微笑んでいた。
 
(いつまでも見ていたい……)

 涙が浮かんできそうなその思いが、正直私の本音だった。
 だけど手を伸ばせば届きそうなその笑顔は、自分には遥かに遠いものなんだということも、私は痛いくらいに自覚していた。

 
 浜辺にビニールシートを敷いて、その上に二人で並んで座った。
 絵に描いたような『ピクニック』の図に、海君はとても満足そうだ。
 
「いいよーこれだよ、これ」

 上機嫌を体いっぱいで表現するように、大きく伸びをしながら青空を見上げるから、私もつられたように空を見る。
 白い大きな雲がいくつも浮かんでいた。
 
「夏の空っていいよね。すっごく気持ち良くって、ずーっと見ていたいくらいだ。でもこうして見ていると、意味もなく泣きたくなってきちゃうんだよな……」
 
 独り言ともつかないその言葉に、思わず小さく息をのんだ。
 子供の頃から私がこっそりいつも思っていたことを、自分じゃない人の口から聞かされて、かなりドキリとした。

(どうして……? 海君?)

 声に出さず視線だけで問いかけると、海君がやっぱり声には出さず瞳だけで返事する。

(……何? 真実さん……?)
 
 胸が苦しくなる。
 こんなことが嬉しくてなんになるというのだろう。
 
(今日だけだよ……一緒にいるのは今日だけ……)

 感情を抑止するための心の声も、時間が経つに連れどんどん頼りなくなってきている。

 いろんな思いをふり払うかのように、私は首を横に振って、作ってきたお弁当の包みを開いた。
 蓋を取って、
「はい、どうぞ」
 海君にさし出すと、
「おおおっ!」
 歓声が上がる。

 内心ホッとしながらも、表面上は少し偉そうに、
「心して食べなさい」
 胸を張ってみせた。
 
 笑いながら手を伸ばした海君の表情が、すぐにもっと嬉しそうに輝きだすから、私はもっともっと嬉しくなる。

「美味しい……美味しいよ、真実さん。うん、天才!」

 決して嘘はつかないだろうと思えるその瞳で、言ってもらえると、
(お世辞だよね?)
 と思いつつも、つい頬が緩んでしまう。
 
「じゃ、もっと食べなさい。ほらこれも」

 にこにこしながら、海君の取り皿に料理をどんどん載っけていく私の姿は、
(……お姉さんを通り越して、これじゃお母さんだよ……)
 自分でも苦笑せずにいられなかった。
 
 本当に無邪気な顔で、「美味しい」と海君は笑ってくれる。
 それが嬉しかった。
 嬉しくてたまらなかった。
 だから、自分が食べるのもそっちのけで、彼の世話を焼いていたんだけど、
「真実さんも食べないとなくなっちゃうよ?」
 笑いながらそう言われて始めて、お弁当箱の中身がかなり少なくなっていたことに気がついた。
 自分のぶんにあんなに作ってきた大好物の卵焼きが、もう全然ない。
 
「ああっ! 卵焼き全部食べたわねっ!」

 年上の威厳も何もあったものじゃない非難の声に、海君はクスッと笑って、
「はい、じゃあ、これどうぞ」
 と、自分が今食べようとしていた卵焼きをさし出す。
 
(ちょっと大人気なかったかな?)

 恥ずかしく思いつつも、今更ひっこみがつかなくて、
「ありがとう」
 と受け取った私に、海君はその綺麗な瞳にいたずらっぽい色を浮かべて、ニヤッと笑った。
 
「俺の食べかけだけどね」
 
 途端、大人のふりも吹き飛んで、私はカーッと頭に血がのぼった。

(それぐらいどうってことないわよ! 全然大丈夫よ!)

 口に出すと余計に意識しているみたいで、心の中だけで必死にくり返す。
 でもいくらごまかそうとしても、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でわかる。
 
(嫌だもう、こんなの……ものすごく意識してるみたいだよ)

 実際、海君もそう思ったのかもしれない。
 その証拠に、私につられたように赤くなって、
「ゴメン」
 とそっぽを向いてしまった。
 
 なんとも言えない空気に、心のどこかがチクリと痛む。

(これじゃあ、中学生の初デートみたいだよ)
 
 懐かしいような、恥ずかしいような感覚に焦りを感じながら、私は
「海君」
 と彼を呼んだ。
 
(このままじゃ、なんだか間が悪いよ)

 年上の自分が何とかしなくちゃと呼びかけたつもりだったのに、ゆっくりとふり返った彼の横顔に、思わず目を奪われた。
 照れたようなさっきまでの顔とはうって変わって、長めの前髪の向こうから私を見つめていた瞳は、ひどく大人っぽい表情をしていた。
 思わずドキリと胸が高鳴って、そんな自分を抑えるのに、必死になる。

(なんだかふり回されっぱなしだ)

 苦笑まじりにそう思った時、
「真実さん、明日も会いに行っていいかな?」
 真っ直ぐな瞳で私の目を見て、海君が尋ねた。
 
 その真摯な声と、言葉の意味にどうしようもなく胸が痛んで、私は俯いた。

(それは……どうだろう? ここでこうしていることさえ、いつ幸哉にバレないとも限らないし。バイトにも行かなくちゃだし。だいいちもう一度会う理由なんて、私たちの間には何もないよ……)
 
 いろんな言い訳が頭の中を駆け巡って、口を開こうとした時、
「俺は、真実さんに会いたい」
 海君の率直な言葉が、私の心にストンと入ってきた。
 思わず俯いていた顔を上げて、彼の顔を見上げる。
 さっきからずっと変わらない、真剣な表情。
 
 その顔を見ていたら、いつの間にか、
「うん、私も海君に会いたい」
 自分の意思とは裏腹に、私の口もそう答えていた。

 
 一緒にいたいからいる。
 会いたいから会う。
 
 そんな当たり前のことに、どうして人は理由をつけたがるんだろう。
 見栄とか建前とか同情とか恐怖とか、いろんなものを取り去ったあとには、真っ直ぐな気持ちしか残らないはずなのに。
 
 正直な気持ちしか。
 それから毎日、海君は朝になると私のアパートの前に現れた。
 長い足を持て余すように、ガードレールに腰掛けて待っていて、部屋から出てきた私を見つけると、
「送るよ」
 と、それはそれは嬉しそうに笑う。
 
 初めて会ったあの夜のように、隣にピッタリ寄り添って歩いて、バイト先のファミレスまで送ってくれた。
 バイトが終わる頃、また夕方、店の前で待っていて、今度は私のアパートまでの道のりを一緒に帰ってくれる。
 歩きながらたわいもないおしゃべりをして、冗談を言って笑いあって、それで家の前まで来たら、
「じゃあ、また明日」
 と帰って行く。
 毎日がそのくり返し。
 
 帰り際の小さな約束がある限り、彼はきっと明日も来てくれるのだろう。
 当たり前のようにくり返される、ひどく当たり前ではない行動。
 
(どうして来てくれるの? 何のために? 何を考えているの?)
 わからないことだらけで、私は何から尋ねていいのか迷う。
 それに、たとえ尋ねたとしても、答えが返ってこないだろうと思っている。
 
「学校は? 行かなくていいの?」
 あいかわらず自分に関する質問には、海君は曖昧な笑いを浮かべるだけで、答えようとはしない。
 今更、「本当の名前は?」とも聞けなくて、私は彼の事を『海君』と呼び続けている。
 
 でも、それで良かった。
 ただ一緒に歩くだけで楽しかった。
 いろんな話をするだけでワクワクした。
 たったこれだけのことで毎日が楽しくて、夢みたいで、だからそのぶん、私は本当は怖くてたまらなかった。
(こんな毎日がずっと続くわけない。私はそんなことを望めるような人間じゃない)
 誰よりも自分自身が、そのことをよくわかっていた。
 

「真実。いるんだろ? 入るぞ」
 まだ夜明け前。
 大きな怒鳴り声と、ガチャガチャと騒がしい物音で、私は深い眠りから無理やりに叩き起こされた。
 体はすぐには動いてくれなかったけれど、
(幸哉だ!)
 頭は一瞬で冴えた。
 
 合鍵を使って幸哉が、私の部屋に勝手に入ってきたところだった。
 急いでパジャマの胸をかきあわせて、ベッドの上に座り直す。
 重苦しい空気をまとって私に歩み寄って来る幸哉が、とても怒っている様子が、暗闇に近い中でもわかるような気がした。
「お前最近、高校生ぐらいの若い男と一緒にいるんだってな」
(やっぱり……!)
 全身から血の気が引く思いがする。
 
(絶対に、海君を傷つけるようなことになったらいけない! 私が守らないといけない!)
 今まで抱いたこともないような強い決意が、私に力をくれた。
「あの子は……そんなんじゃない!」
 自分でも信じられないくらい強くて冷静な声が出た。
 私の静かな迫力に、幸哉も強く言わないほうがいいと感じたらしくて、
「それなら別にいいんだけどさ……」
 らしくもなく口ごもる。
 
(まずは上手くいった……!)
 ホッと胸を撫で下ろすような気持ちになりながらも、内心、私は落ちこんでいた。
 今まで私を四六時中見張っていた幸哉にしては、実際、乗りこんできたのは遅いくらいだったかもしれない。
 どこから聞きつけたのか。
 それとも本当は自分自身の目で見たのか。
 どちらにしても、こうなった以上は今までのようにはいかない。
 
(もう、海君には会わないほうがいい……)
 それは思っていたよりも、胸に痛い決意だった。
 でも仕方がない。
 海君を巻きこむわけにはいかない。
 
 胸の痛みをこらえながら、視線に力をこめ、じっと見つめ続ける私から、
「じゃあ、金貸してくれよ」
 幸哉は逃げるように視線を床に落として呟いた。
 
 話の矛先が変わったことに少しホッとして、私は立ち上がり、幸哉に背を向け、財布の入ったバッグに手を伸ばす。
 その途端、後ろから羽交い絞めにするように抱きすくめられた。
 
「真実、俺を裏切るなよ」
 暗い情念のこもった小さな呻き声に、私は返事をしない。
 その代わりに懸命に手を伸ばして、財布の中からお金を抜き取った。
「はい。今はこれだけしかないわ」
 幸哉の顔の前へと、後ろ手にお金を突きつけて、ようやく腕から開放された。
 前に怪我した左腕がズキズキと痛む。
 
「サンキュ」
 幸哉はさっさと踵を返して、来た時と同じようにわざと大きな音で扉を閉め、カンカンカンと階段の音を響かせて帰っていく。
 
(必要なのは私? それともお金?)
 聞くのも虚しい質問を心の中で何度もくり返しながら、私は幸哉に触れられた体を自分の腕で抱きしめて床に座りこんだ。
 古傷がまた開いたのか、左腕から血が流れ落ちてきて、床に染みを作る。
 
(嫌だ)
 今までは、そんなに強く感じたことのなかった嫌悪感が、心の底から湧いてきた。
(あんな奴に触られた私は嫌だ!)
 どうしてそう感じるようになったのか。
 その答えは考えなくてもわかっている。
 
(こんな私じゃ、海君に会えないよ……!)
 彼はたぶん待っている。
 いつもと同じように、朝になったら私を待って、あのいつものガードレールに腰かけている。
 
(海君。海君。海君!)
 手の跡がつくほどに自分の両肩を握りしめて、私は胸が痛んで仕方がなかった。
 
 朝食を食べる時間を犠牲にしてシャワーを浴びた。
 服を脱ぐと、古い傷痕だらけの体があらわになって、自分でもいたたまれなくなる。
 幸哉に抱きしめられた感触を洗い流すかのように、私は力を入れて体をこすった。
 

「真実さん……今日は朝からなんだかいい匂いだね……」
 
 思ったとおり。
 いつもの時間にいつもの場所で私を待っていた海君は、開口一番そう言った。
 なるべく動揺を悟られないように、
「うん、朝からシャワーを浴びたから」
 答えた私から気まずそうに目を逸らして、彼は首まで真っ赤になる。
 
(いつもは余裕たっぷりなのに、こんな顔もするんだね……)
 思わず笑顔になれた自分に心の中でホッとしながら、それでも今朝何があったのか、やっぱり彼には知られたくないと思った。
 
 私が息を吐くことができる、唯一の大切な時間。
 できれば失いたくなかった。
 だけどこのままではいられない。
 だからせいいっぱい、いつもどおり元気なフリをして、
「何を想像してんの、エッチ」
 と海君の背中を叩いた。
 
(傷つけることは絶対にできない。だからサヨナラするしかないんだ)
 私の心はとうに決まっている。
 考えるまでもなく決まっている。
 
 真っ赤になって俯いていた海君が、その時、私の手を掴んで顔を上げた。
 
「どうしたの?」
 あまりにも真剣な眼差しに、ドキドキする。
 手首を掴んでいる大きな手にドキドキする。
 その動揺を悟られないように、せいいっぱい普通に笑ったつもりだったのに、海君は、うめくように低い声で、
「真実さん、何かあった?」
 と呟いた。
 
 私の心臓はドキリと飛び跳ねたけれど、
「どうして? 何もないよ」
 と普通に答えた。
 答えたつもりだった。
 
 でも、できなかった。
 海君の真剣な瞳に見つめられると、嘘を吐くことが、とてつもない罪のように思える。
 そんな罪を犯したら、もう二度とこの人とは会えなくなるんじゃないかと思える。
 そのほうがいいに決まってるのに。
 彼のためにはきっと、もう会わないほうがいいのに、
(そんなの嫌だよ)
 自分の心を抑えられない。
 
 ポタポタポタ
 と大粒の涙が私の頬を伝って落ちた。
 
 海君は、苦しそうに綺麗な瞳を細めて、
「ゴメン」
 と言った。
 
 返事をしたいのに口を開くことができない。
 もし今、口を開いたら、彼に甘えてしまいそうだった。
 縋りついてしまいそうだった。
 
 何も言わず首を横に振った私に、海君はもう一度、
「ゴメン」
 とくり返した。
 そして乱暴に私を引き寄せて、息もできないくらいに抱きしめた。
「海君」
 涙声の私に、
「ゴメン」
 海君は何度もくり返す。
 
 自然と胸に顔を埋める形になって、そこからそっと見上げると、眩暈がするくらいに近い距離から、彼の真剣な顔が私を見下ろしていた。
 「ゴメン、真実さん。許して」
 海君が謝っているのが今の状況のことだったら、それは私が心のどこかで望んでいたことだ。
 海君が謝る必要はない。
 そうじゃなくて、私が朝からシャワーを浴びた理由を察してしまったことだったら、それは私の、自分でもどうしようもない現実だ。
 やっぱり海君が謝ることじゃない。
 
(気にしなくてもいいんだよ)
 の思いをこめて、私はそっと彼の背中に腕をこまわした。
 温かい体を抱きしめ返す。
 この上なく幸せな気持ちだった。
 
 彼がいったい何者なのか。
 私にはわからない。
 それと同じように、今何を考えているのかも、本当のところはわからない。
 わからないから自分で考えるしかないけれど、こんな時はいくら考えてみても、自分に都合のいい解釈しかできない。
 期待を持つだけ持って、裏切られることは辛い。
 辛い目には散々あってきたと思っても、海君に裏切られるのは、きっと耐えようのない辛さだ。
 
(だから私は考えない。海君が私をどう思っているのかなんて……知りたくない)
 彼を抱きしめる腕の強さに反して、私の心は首を横に振り続けていた。
 
「海君」
 胸に顔を埋めたまま、そっと名前を呼んだ。
 海君は私の頭に頬を寄せたまま、
「嫌だ」
 と言った。
 
 何のことを言っているのかと不思議に思って、頭を上げようとする私を、海君は決して放すまいと、抱きしめる腕に力を入れる。
「海君?」
「だから嫌だ」
 また間髪入れずに返されて、少しムッとする。
 
「何が嫌なの?」
 海君はますます強く、私の頭に自分の頬を押しつけた。
「真実さんが言おうとしていることの答え。俺は嫌だから」
「海君……」
 また涙が零れそうになった。
 
 このままじゃいけないとわかっている。
 幸哉ときちんと話もできない私じゃ、海君のそばにいたって迷惑になるだけだ。
 私と一緒にいても、海君には何もいいことはない。
 それどころか、幸哉が何をするかわからない。
 だから――
 
(もう会わない)
 そう決心して、今日は出てきた。
 
 その決心がわかったとでもいうのだろうか。
 そしてそれを、
「自分は嫌だ」
 と言ってくれているのだろうか。
 
「でも……」
 不安をぬぐいきれず、口ごもる私に、
「俺は、俺のやりたいようにする。明日も明後日もその次も、真実さんに会いに来る」
 海君がくれた言葉は、どんな谷底に突き落とされても、たった一つそれさえ残っていればいいと思える、希望の灯火のようだった。
 
 初夏の爽やかな朝の風の中、私の心の中に、その小さな灯火が確かに点った。
 儚げで頼りない光ながらも、懸命に新しい世界を照らしだそうとしていた。
「今度真実さんが休みの日に、一緒に遊びに行こう」
 と海君と約束した日は、眩しいくらいの晴天だった。
 六月の終わり。
 確かまだ梅雨の真っ最中のはずなのに、もう何日も晴れの日が続いている。
 くっきりと白い大きな雲がいくつも浮かぶ夏色の空の下。
 少し前を歩く頭一つぶんだけ背の高い背中を追いかけて、私は今日ものんびりと歩く。
 
「海君が現れてから、なんだか毎日がいい天気な気がする……」
 思わずもれた呟きに、
「何だよ、それ」
 立ち止まってふり返った彼が、夏の太陽にも負けないくらいの笑顔で笑った。
 
 大袈裟じゃなく本当に目が眩みそうになる。
  そんな自分に負けないように首を振って、
「だって本当だもん」
 強気に言い返す。
 
 夜のネオンが輝く街から、昼の太陽の下へと海君が私を連れだした。
  あの日から、ちゃんと朝食を食べるようになった。
 日づけが変わる前に眠るようにもなった。
 だから――
 
「もうそろそろいいかもしれない……」
 私は、ずっと伸ばしていた髪を切ることにした。

「本当にいいの?」
 美容室のお姉さんは腰まである私の髪を持ち上げて、何度も確認したけれど、
「はい。いいです」
 私はしっかりと頷いた。
 
 幸哉とつきあいだしてから、ずっと伸ばした髪だった。
「真実の長い髪が好きだ」と幸哉は言った。
 だけど
 だから
 パーマが取れて痛んで変色したままになっている髪を、全部切ってしまおう。
 
(それが、私の幸哉との決別の儀式)
 
 そんなたいそうな決意がなされているとは知らず、
「じゃあ、切りますねぇ」
 お姉さんは大声で宣言してから、私の長い髪に大胆にはさみを入れた。
 

 近くの本屋で立ち読みをしながら待っていてくれた海君は、ふと雑誌から目を上げ、私の姿を見た瞬間に、大袈裟なくらいに瞳を見開いた。
「え? ひょっとして真実さん?」
 茶目っ気たっぷりに尋ねられて、思わずムッとする。
 
「ひょっとしてって……どういう意味?」
 彼の読んでいた雑誌を取り上げて、棚へと戻す私に、海君はおかしくてたまらないといった表情で笑いかける。
「だって……それじゃ俺とどっちが年下なんだか、わかんないじゃん……!」
 急に涼しくなった襟足を吹き抜けていく風があまりにも新鮮で、私だって自分でも、
(切りすぎたかな)
 と気にしていた。
 
 そこをズバリと指摘されて、
「私だって、ちょっとやりすぎたかなって思ってるもん!」
 思わず叫んでしまった。
 海君はすぐに肩を揺すって大笑いを始める。
(失礼だな、もう!)
 怒った私は、彼に背を向けて店から出た。
 そのまま足の向いた方向へと歩き出す。
 
「待って真実さん」
 後ろで自動ドアの開く気配がして、私を呼ぶ海君の声が聞こえたけれど、
(笑いながら呼んだって、止まってなんかやらないんだから)
 ますます足を速める私に、海君はようやく笑うのをやめたようだった。
 それでも走って追いかけるなんてことはせずに、大声で叫ぶ。
「待ってくれないと、俺は追いかけないよ」
 
 けっこう距離があるはずなのに、なぜかその声ははっきりと私の耳に届いて、ピタリと足が動かなくなった。
 広い舗道をそれぞれのペースで歩いている人の中で、あっという間に私だけが取り残される。
 通り過ぎて行くたくさんの人々。
 その中に一人佇んでいると、あの夜の、重苦しい気持ちが甦ってくる。
 足をひきずるように、夜のネオンの中を一人歩きながら、
(もう疲れたよ)
 そんなことをくり返し考えていた。
 今にも全てを投げ出してしまいそうな絶望感。
 どうにかなってしまいそうなほどの切迫した思い。
 
(もうあんな私に戻りたくはない。あの夜になんて帰りたくない……!)
 忘れかけていた苦しい思いをもう一度ふり払うかのように、何度も頭を横に振って、私は青い空を見上げた。
(辛くて、悲しくってどうしようもない夜に、私を見つけてくれたのは誰? そこから連れ出してくれたのは誰だった?)
 こみ上げる想いに唇を噛みしめて、私は海君をふり返った。
 
 太陽を背に、その人が立っていた。
 両手をジーンズのポケットにつっこんで、私に投げかけた言葉の重さとはまるで不釣あいに、いつもの調子で笑ってる。
 笑いながらゆっくりと歩いて、私のほうへやってくる。
 
 ふり返った私は、どうやらよほど情けない表情だったらしい。
 海君は瞳をグッと優しくして、ちょっと笑いをこらえたように私のことを見つめる。
 だけど、
「ゴメンね、真美さん。でも本当だから」
 ゆっくりと私に近づいてくるその表情は、近づけば近づくほど、真剣だとわかった。
 
 首を傾げるように、私の顔をのぞきこんで、
「俺と一緒にいるの、もうやめる?」
 彼が尋ねた言葉が、また胸に刺さった。
 考えるより先に、体が動く。
 ほんのさっきまで体が硬直していたはずなのに、海君の質問に必死で首を横に振っている自分がいる。
 どうしようもない想いが、湧き上がる。
 私が抱いてはいけない想いが、心の奥から溢れ出ようとする。
 それを打ち消すように、私はせいいっぱい背伸びして、海君の頭に手を伸ばした。
「何言ってるのよ。可愛いのは海君のほうでしょ」
 
 どさくさに紛れて触った柔らかい髪に、胸が高鳴った。
 笑いながら私の髪をかき混ぜる笑顔を見上げて、 
(……もう駄目だ)
 と思った。
 
 楽しそうに輝く瞳が、すぐ近くから私を見つめる。
 
(大好きだ。どうしよう……)
 涙が出そうなくらいの想いを自覚した。
 
(ホントに馬鹿だな……どうしようもないな……)
 俯くと泣いてしまいそうだったから、私は必死に顔を上げ続けた。
 やんちゃな顔で私の髪をくしゃくしゃにしてしまう海君に負けないように、その髪を力いっぱい触ってやった。
 本当はただ触れていたいだけの気持ちを隠して、両手で思いっきりかき混ぜてやった。
 
「今日は動物園に行きたい」
 
 照れ隠しも兼ねて、強気で主張した私に、
「はい、かしこまりました」
 海君は、わざと神妙な面持ちで頭を下げる。
 
 気がつけば、もうすでに日が高くなりつつあった。
 このままだとせっかく作ったお弁当が、お昼の時間に間にあわなくなってしまう。
 
「じゃあ急ごっか?」
 笑う海君に私は頷いて、晴天の下、一緒に動物園へと向かった。
 頭一つぶん私より背が高い背中を、いつものように、とっても嬉しい気分で追いかけた。

 
「今日も俺の一番の楽しみは、真美さんのお弁当」
 海君は急いで歩きながら、背中を向けたままそんなことを言って、私を喜ばせてくれる。
 
 それなのに、目的地に着いた途端、
「真実さん、あれ見てよ。ほらほら」
 小学生に戻ったみたいなはしゃぎっぷり。
 あっちへこっちへと、動物たちの動きにあわせて、実に忙しく動き回っている。
(いつもは私より大人っぽいくらいなのに、今日はまるで子供みたいだね……)
 私は内心笑いながら、彼に気づかれないようにその姿を飽きることなく見つめていた。
 
 そんな私を知ってか知らずか、海君の
「真実さん、見て見て!」
 は、対象の動物が変わるごとに果てしなく続く。
(うーん……いつも余裕たっぷりの海君自身に、この姿を見せてあげたいなあ……)
 まるで動物の檻から離れようとしない子供を待っているお母さんのように、近くのベンチに腰を下ろした私は、食い入るように動物の入った檻にしがみついている海君を見ていた。
 はしゃぐ背中に、笑いながら声をかける。
「まるで、初めて動物園に来た子供みたいだよ。海君」
 
 その呼びかけに、ふり向いて頷きながら、
「うん。俺、初めてなんだよ」
 と海君は笑った。
 
 思ってもみなかった返事に、思わず、
「えっ? 本当に?」
 と聞き返さずにはいられない。
 
「本当」
 輝く瞳に、少しだけ寂しそうな影が過ぎった。
 
 海君はきっと嘘を吐かない。
 私はそこのことに、なぜか強い確信を持っている。
 だから彼がそう言うのなら、本当に今日が初めてなのだろう。
 
(でも普通、子供の頃に誰だって来たことあるよね? 家族でとか、遠足でとか……それが全然って……)
 考えこんでしまった私に、海君が何か言おうと口を開きかけた時、
 
「ひょっとして真実?」
 後ろから聞き慣れた声がした。
 
 ふり返って見てみると、たくさんの幼稚園児に囲まれた愛梨が立っていた。
 愛梨はどちらかというと華やかな雰囲気の美人で、スタイルもいい。
 いつも流行の服を着て、楽しげにキャンパスを闊歩してて、男子から声をかけられることも多い。
 
 その愛梨が、ノーメークでお下げ髪。
 ジャージの上にアップリケのついたエプロンをして、小さな子供たちに囲まれている。
 
 かたや私は、いつも派手なメイクと服で、大学ではちょっと近寄り難い雰囲気だったと思う。
 長い髪とハイヒールがトレードマーク。
 それなのに今日はジーンズにスニーカー。
 しかも切ったばかりの短い髪。
 
 自然とお互いに笑みが零れた。
「愛梨。ひょっとして教育実習? 誰だかわかんないよ、それ」
 笑う私に、愛梨も、
「真実こそ。どこの高校生カップルかと思ったわよ。彼氏?」
 笑って返して、海君のほうにチラリと視線を流した。
 ドキリと鳴った胸をごまかすように、
「ち、違うわよ。そんなんじゃないわよ」
 大袈裟なくらいに、私は手を振って否定した。
 
 愛梨は、
(本当にそう?)
 表情だけで私に確認してきたけれど、あまりに焦る私の様子に、
「でも、元気そうで良かった」
 と、話を変えてくれた。
 本当に安心したように私を見つめる優しい瞳に、思わず泣いてしまいそうになる。
「愛梨……」
 
 その時、愛梨を囲む子供たちが、
「せんせえ、せんせえ」
 と口々に騒ぎ始めて、彼女は慌てて子供たちに向き直った。
「はいはい、ごめんね」
 
「真実、大学出ておいでよね」
 後ろ姿のまま、私に向かってかけられた言葉に、
「うん」
 私は小さく返事する。
 
「そっちの彼」
 ふいに海君に声をかけた愛梨に、跳ねる胸を懸命に抑えながら、
「海君だよ」
 と私が教えてあげて、愛梨は改めて彼のほうをふり返った。
 
「海君、真実をヨロシクね」
 
 私は大慌てで、
(何言ってるの! ほんとにそんなんじゃないんだから……!)
 愛梨に向かって叫ぼうとしたけれど、それより早く背後から、
「はい」
 と海君の返事が聞こえた。
 
 その潔さ、迷いのなさに胸を衝かれて、また泣きそうな気持ちになる。
 
 縋るような思いで愛梨の顔を見た私に、彼女は
(良かったね)
 とでも言うように満足げに笑って、子供たちと共に行ってしまった。

 
 愛梨と子供たちが手を振って行ってしまっても、私はなかなかベンチから立ち上がる勇気が出なかった。
 ふり返って、海君の顔を見る勇気もない。
(愛梨が変なこと言うから、どんな顔していいのかわからないよ……)
 
 一人で硬直する私に、
「そろそろ、移動しようっと」
 海君は独り言のように言って、私の隣に置いてあったお弁当のバッグを取り上げた。
 ホッとして立ち上がった私は、歩き出した彼の後ろを黙ってついて行く。
(海君が何か話してくれたらいいのに……)
 前を向いてズンズン歩いていく背中を見ながら、そう願った。
 
 だけど海君は何も言ってくれない。
 それどころかふり返ってさえくれなくて、どんどんどんどん歩いていく。
 そのペースに一生懸命ついて行こうとしていたら、だんだん息が切れてきて、さすがに私も、
(何か変だぞ)
 と気がついた。
 
「海君?」
 必死で呼びかけた声に、
「何?」
 返ってきた声が、素っ気ない。
 
(やっぱりそうだ……怒ってる)
 私はため息を吐いた。
 
「海君? 何か怒ってる?」
 率直に聞いてみても、
「別に」
 短い返事しかない。
 
「だって変だよ。どうして一人で先に行っちゃうの?」
 せいいっぱい息を吐きながら話す私に、海君は、
「サルが俺を呼んでるから」
 と答えた。
 
(サル?)
 思わず足を止めた私は、そこからは、どんどん遠ざかっていく背中に、ただひたすら大きな声を出すしかない。
「何よそれ。さっきまで並んで歩いてたじゃない」
 海君の背中は答えてくれない。
「そんなに急いだら、私、ついて行けない」
 泣きそうな声になったと、自分でも思ったその時、彼が立ち止まった。
 
「しょうがないな、はい」
 ふり向きざま、さし出された左手。
 私はちょっと首を傾げる。
(お弁当のバッグは、海君が持ってる。他に荷物はない。だから、もしかして……?)
 
 その瞬間、
「早く繋いで下さーい」
 海君が、まるで園内アナウンスのようにすまして言って、いたずらっ子みたいに笑った。
 その笑顔に、私がどんなにホッとしたかなんて、彼にはきっとわからない。
 だから、
「あと十秒で締め切りまーす」
 の声に、慌てて、
「やだっ、待って!」
 走り出した私を、もっと優しい顔で待っててくれるんだ。
 
 私は急いで、その手を掴んだ。
(どうしよう。この手をずっと放したくないよ)
 切ないばかりの気持ちを感じながら、私は初めて、海君と手を繋いで歩いた。

 
 海君はサル山の前に着くと、本当にサルを眺めたまま、かなり長い時間ずっと立ち尽くしていた。
 手を繋いだままだから、自然と私もそれにつきあって、ずっと立っていることになる。
(何がそんなにおもしろいのかな?)
 そっと横顔を見上げてみると、彼の目は別にサルを見ているわけではなかった。
 
「海君?」
 呼びかけた私に、視線はそのままで問いかけてくる。
「俺は真実さんの何?」
 いつもとずいぶん調子が違う声に、私はハッとした。
 
 私と愛梨のさっきの会話に、海君はひっかかってるんだと、その時初めて気がついた。
(彼氏なんかじゃ……そんなんじゃないって言ったことだ……)
 私は恥ずかしくなって俯く。
 
(だって本当だもの……でも、それじゃいったいなんなんだろう? 私と海君の関係は……?)
 何も答えることができず、俯いたままの私に、海君がやっと視線を向けてくれた。
「ゴメン。答えにくいよね。それじゃ、質問を変える。真実さんは俺をどう思ってるの?」
 聞かれて思わず、息をのんだ。
 なんと答えたらいいのだろう。
 なんて答えることができるのだろう。
 
 思い悩んで黙りこむ私を、海君は目を離さず、ただじっと見下ろしている。
 そんな真っ直ぐな目で――私の憧れる曇りのない瞳で――私を見つめるのは反則だ。
 私には権利も資格もないって、自分が一番良く知っている。
 いくらそう望んでも、それを口に出したらいけないとわかっている。
 
 それなのに、海君の瞳はズルい。
 嘘を許さないその瞳は、私をただの怖いもの知らずに変える。
 
「好きだよ。大好き」
 どうしようもない想いに抗うことができず、搾り出した私の答えに、海君はふうっと息を吐いた。
 私から真っ直ぐな瞳を逸らさずに、繋いだ手に力をこめて、
「俺もだよ」
 確かに呟いた。

 
 誰かを手に入れるのは、失うのよりも怖い。
 今はどんなに大切でも、その先それがどんなふうに変化していくのか。
 一瞬先も安心できない、人の気持ちの変化を、私は知っている。
 その原因を作るのは自分かもしれない。
 ひょっとしたら、何度恋をしても、どんな人を好きになっても、私が私である限り、私の恋はいつも同じ結末にたどり着くのかもしれない。
 
 そんな思いが私を苦しめる。
 一歩を踏み出すことをためらわせる。
 
 だけど自分ではなく、彼のことなら信じられると思った。
 私を真っ直ぐに見つめて語られる言葉には、決して嘘はないと感じた。

 
「真実さん、こっちこっち。ほらあそこに真実さんがいる」
 海君が指差したほうを何気なく見てみると、木々の間に腕の長い黒っぽい動物がぶら下がっていた。
 説明が書いてあるプレートを呼んでみると、『ナマケモノ』の文字。
「こらーっ!」
 怒ってふり上げた右手は、海君と繋いだままになっていて、彼はしてやったりとばかりにニヤッと笑った。
 
(だったら、左手があるのよ!)
 すぐにふり上げた左手も、笑いながらかわされてしまった。
「ほんとにもう!」
 怒った声を出しながらも、本当はどんなことにも腹は立たない。
 笑いながら私を見つめる海君の顔を見るたび、ドキドキが止まらない。
 
 だから私はわざと、冷静さを保った顔を作る。
 最後の抵抗。
 年上の意地。
(負けてなるものか)
 とがんばる。
 本当は、初めて会ったあの夜からどうしようもないほどに彼に囚われていることは、自分でも痛いほどにわかっていた。

「私……大学に行こうかな」
 何の脈絡もない私の話にも、海君は決して驚いたりしない。 
「うん。いいんじゃない」
 まるで私の考えていることが全てわかっているかのように、すぐに返事をしてくれる。
 それは初めて会ったあの夜から変わらずに、ずっと。
 不思議なほど、当たり前に。
 
「その時は俺が送っていくよ」
 当然のように返される言葉に、
「歩いて?」
 思わず一矢報いたくなる。
 
 でも私のそれくらいの問いかけでは、一枚上手な彼の顔色一つ変えることはできない。
 
 真剣な顔で、
「もちろん歩いて。それが無理なら電車かな」
 そう返されるから、私のほうが笑うしかなくなってしまう。
「なにそれ」
「はははっ」
 
 顔を見あわせて、二人で大笑いしながら私は、
(うん。海君がそう言うんだったら、本気でがんばってみよう)
 と思った。
 彼と一緒なら、どんなことだってできる気がした。
 
 でもそのためには、先に片づけなければならない問題がある。
 大好きな海君を守るため。
 そして自分自身の自由を取り戻すため。
 
(戦ってみよう)
 ひさしぶりにそう思えただけで、私にとっては大進歩だった。
 その進歩はまちがいなく、年下のこの男の子が私に与えてくれた。
 
「ありがとう」
 私の言葉に、やっぱり海君は、
「何が?」
 とも聞かずに、当たり前のように、
「こっちこそ、ありがとう」
 と返事する。
 
 余計な言葉が要らないその関係が嬉しくて、私は、繋いだ手にギュッと力をこめた。
 負けないくらい強い力が彼から帰ってきて、またどうしようもないほど嬉しくなった。
 その日、マナーモードにしたままの携帯には、幸哉の留守録が何十件も入っていた。
 着信履歴も軽く五十を超えている。
(まずいな……怒らせたかもしれない……)
 重苦しい気持ちで、画面にズラッと並んだメッセージをスクロールしていた時、ちょうど着信があった。
 
 ひと呼吸置いてから、決心を固め、
「もしもし?」
 恐る恐る出てみると、
「今日はどこにいたんだよ?」
 前置きもなく、突然問いかけてきたのはやっぱり幸哉の怒った声だった。
 
「友達と一緒だった」
 私の返事は耳に入っているのか、いないのか。
「今すぐ俺のアパートに来い。来ないんだったら俺がそっちに行く」
 携帯の向こうの声は、怒りに満ちている。
 
 途端にガクガクと体が震えだす私の体と心に、嫌というほど染みついている恐怖感。
(どうしたら……いいんだろう?)
 携帯を持つ左手もどうしようもなく震えて、懸命に右手で押さえる。
 そうしながら心の中では必死に考える。
(私だって幸哉に話さないといけないことがある。避けては通れない。逃げてばかりもいられない……でも……)
 
 一歩を踏み出すと決めたからには、私にとって最初に越えなければならない壁が幸哉だ。
 けれど実際に会ってみて、私の話がどれだけ幸哉に聞いてもらえるかはわからない。
(力ずくではかなわない……結局いつものようにいうことをきかされる……そんなの嫌だ)
 
 私は意を決して、口を開いた。
「私は行かない。あなたも来ないで」
「はあ?」
 携帯の向こうで、幸哉がギリッと奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
 
「ごめんなさい……幸哉とは、もう終わったと思ってる。本当はずっとそう思ってた……もう会わない……」
 ずいぶん長い時間がかかって、ようやく口にすることができた私の本音に、
「馬鹿なこと言ってんじゃないぞ。俺は絶対に認めない」
 幸哉は想像していたよりは冷静に返事をした。
 
「でも、私はもうあなたのところには行かない……だから私のところにも来ないで……!」
 私のきっぱりとした拒絶に、静かにやり過ごそうとしていたらしい幸哉の怒りは爆発した。
「お前は俺のものだ! これからもずっと!」
 私は懸命に首を振る。
 幸哉に見えはしないとわかっていても、自分の意思表示のためにそうせずにはいられなかった。
「違う! 私は誰のものでもない!」
「真実!」
 
 まだ何かを叫ぼうとする幸哉に、私は、
「さよなら」
 と短く言って通話を終えた。
 すぐにまた鳴り始めるので、着信拒否にした。
 見ているだけで怖いので、クッションの下に押しこんで、新しく付け替えた玄関の鍵が閉まっていることを確認する。
 
 念のために窓の鍵も全部確かめて、ベッドの上で丸くなった。
 肌布団を被って、握りしめた自分の右手を胸にそっと抱きしめる。
 海君と今日繋いで歩いた手だった。
(海君、私に勇気をちょうだい)
 祈るようにそのこぶしを抱きしめた。

 
 思ったより早く、アパートの前に幸哉の車が停まった音がした。
 ガンガンガンとわざと大きな音を鳴らして階段を上がってくる足音と、ドンドンドンと玄関のドアを叩く音。
「真実! 真実! いるんだろ」
 もう夜になろうかという時間なのに、大声で私を呼ぶ声。
 私はたまらず両手で耳を塞いだ。
 
 ドンドンと鳴り止まない音に、
「うるさいぞ!」
 左隣の部屋からは抗議の声が上がる。
 それでも幸哉はドアを叩き続ける。
 
(どうして? こんな人じゃなかったのに……)
 胸が締めつけられるように痛んだ。
 
 まだ優しかった頃の幸哉の穏やかな顔は、今でも私の瞼の裏に残っている。
 大きな体のわりには気が小さいところがあって、私に初めて声をかけた時には、かなりの勇気をふり絞ったんだと、照れ臭そうに笑いながら教えてくれた。
 懐かしい表情。
 
(なんで……こうなっちゃったの……?)
 答えはわからない。
 けれど、全てが幸哉一人の責任だと簡単には言い切れない。
(私が悪いの? 私のせいなの?)
 後ろめたいような、懺悔するような気持ちで一度考え始めると、転がり落ちていく思考は、自分自身でも止められない。
 溢れ出した涙を止めることができないのと同じに――。
 
『お前のせいだ。お前が俺を裏切るようなことをするから、こうなるんだ!』
 くり返し呪いのように心に刻まれた言葉は、私の全てを真っ黒に塗りつぶしていく。
 
(海君、無理だよ)
 涙が零れた。
 
(やっぱり私は、海君と太陽の下を歩けるような女の子には、なれないよ)
 被っていた肌布団を跳ね除けて、私は起き上がった。
 流れる涙を手の甲でごしごしと拭きながら、玄関へと向かう。
 まだ幸哉が叩き続けているドアを、(やっぱり開けよう)と心に決め、手を伸ばしたその瞬間、
「真実さん」
 ドアとは反対側の、窓のほうから、私を呼ぶ声がした。
 
「真実さん」
 とっても小さくて、ドアを叩く幸哉にはきっと聞こえない。
 けれど私には、決してまちがえようのない――その静かな声。
 
(まさか!)
 ドンドンと鳴り続けるドアに背を向けて、私は窓辺へと駆け寄った。
 鍵を開けようかどうしようかとためらう私に、窓に映る白い人影は、
「真実さん。俺だよ」
 もう一度囁いた。
 
 耳に心地良い、よくとおるその声。
 聞き違えようがない。
 
(海君!)
 そっと窓を開けて恐る恐る外を確認した私に、暗闇の中から二本の腕がすっとさし伸べられた。
 私の頭を引き寄せて、痛いくらいに抱きしめる。
 
 すっかり暗くなった窓の外に、一瞬、確かに海君の顔が見えた。
(来てくれたんだ……)
 嬉しくて、ホッとして、そのまま彼に体重を預けそうになって、ふと思い当たる。
 
 私の部屋はアパートの二階。
 この南側の窓には小さなベランダはあるが、階段はない。
 もちろん隣の部屋とだって繋がっていない。
 
「海君……どうやってここに登ったの?」
 呟く私に、彼は夜目にも鮮やかに笑ってみせる。
「ないしょ」
 それから私の耳元に顔を近づけて、声をひそめて囁いた。
「もうすぐ警察が来るから、表の人は引き取ってもらえるよ」
 私を安心させるかのように、にっこりと笑う。
 私もつられて小さく笑った。
 
 そんな私に、海君はキラリと瞳を輝かせて、今までとは少し違う笑い方をする。
「その前に、俺のほうがまるで不審者みたいだから、中に入れてもらってもいい?」
 思わず胸が、ドキリと鳴った。
(海君が私の部屋に来る?)
 なるべく平静を装って、「どうぞ」と返事したつもり。
 海君は「お邪魔します」と律儀に言ってペコリと頭を下げ、私と一緒に部屋へ入った。
 
 玄関ではまだ幸哉が、「真実! 真実!」と叫びながらドアを叩いているけれど、不思議ともう怖くはなかった。
 それよりも今は、窓から射しこむ月光を背に浴びて、昼間よりもなんだか大人っぽい海君が、気になって仕方がない。
 
(どうして来てくれたの? なんでわかったの?)
 聞きたいことはたくさんあるのに、何も口から出て来ない。
(海君と部屋の中に二人きり)
 そのことが、頭がクラクラするくらいに私を緊張させていた。
 
「すごいね。あの人」
 なるべく幸哉のいる玄関から遠くなるようにと、ベッドの上に二人で並んで座って、声を出さないでいいくらいに顔を近づけて話をしているのだから、私の心臓はもうパンク寸前だ。
 それなのに海君は、そんなことはなんでもないかのように平然としているんだから、ちょっぴり腹が立つ。
 
 その上、
「俺、今出て行ったら殺されるかもね?」
 冗談を言って笑う余裕まである。
 
「そうかもね……」
 答えに少し不満が滲んでしまった私の顔を、海君はしげしげと見つめた。
「どうしたの?」
(お願いだから、そんなに至近距離から見ないで……!)
 とはまさか言えなくて、慌てて俯く。
 
 遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「ほら、来たよ」
 私を安心させるかのように、海君は明るく言ってくれたけれど、私は少し複雑な気持ちで玄関のドアを見つめた。
 
「真実! 真実!」
 こぶしを打ちつけるようにしてドアを叩き続ける幸哉には、あのサイレンは聞こえないのだろうか。
(警察だよ、幸哉。もう止めて)
 思わず喉まで出かかった時に、
 
「ダメだよ。真実さん」
 海君のひどく冴えた冷静な声が耳元で響いた。
「真実さんが今ここであいつを許したら、何も変わらないよ」
 私は唇を噛みしめてうつむいた。
 
(それはわかってる。私だってわかってるよ……)
 口に出しては言えなかった言葉の代わりに、海君が続ける。
「俺は忘れないから。真実さんがあいつにどんな目にあわされたか……絶対に忘れないし、許さないから」
 強い口調に驚いて顔を上げてみると、海君はこれまで見たこともないような厳しい顔をしていた。
 氷のように冷たい表情。
 
 それをそのまま私に向けて、
「真実さん。俺が来なかったら、またあいつにドアを開けてたね。そう思ったから俺は来た」
 心に切りこんでくるような言葉を紡ぐ。
「心配でずっと外で見てたけど……真実さんが一人で戦ってるのを、本当は黙って見守ってたかったけど……真実さんがまたあいつに流されるのは、俺だって絶対に嫌なんだ」
 ふいに伸ばされた両手が私の体を包み、有無を言わさず彼のほうへと引き寄せた。
 気がついた時には、私は海君に抱きしめられていた。
 
 痛いくらいの腕の強さが、苦しげな言葉の重みが、海君の真剣さを伝えてくる。
 だから零れる涙にかき消されてしまわないうちに、私は自分の素直な気持ちを言葉にした。
「ごめん……ごめんなさい。海君……」
 返事はせずに、海君は私の背中に廻した腕に、更に力をこめる。
「来てくれてありがとう……」
 感謝の言葉には、私の右の肩口に乗った頭が、少しだけ頷いてくれた。
 
(これ以上大切なものなんて……今の私にはない……!)
 そう思える存在がこうしてすぐ近くにいてくれることが本当に嬉しくて、私は柔らかな海君の髪にそっと頬を寄せた。