色とりどりのネオンが毒を撒き散らすように輝くから、夜の街は眩しすぎて嫌いだ。
 造り物の灯りは、本物の光よりも鋭くて強い。
 だから、そこから逃れようともがく者を、執拗に絡み止めて放さない。

 
 目には見えない恐怖から逃げるように、足をひきずりながら必死に歩いた。
 ようやく抜け出した幸哉のアパートから、なるだけ早く遠去かってしまいたいのに、体がいうことを聞いてくれない。
 真夜中も近いのにあまり温度の下がらない夏の生温い風に晒されて、殴られた痕が今夜はやけに痛かった。
 
 すれ違う人たちはみんな驚いたように私を避け、そのくせ通り過ぎた後にわざわざもう一度ふり返って、見直して行く。
  飲んだ後らしいサラリーマンが、自分もフラフラと歩きながら、
「姉ちゃん、大丈夫かあ?」
 と声をかけてくるほど、今日は顔もかなり腫れているらしい。
 
(まいったなあ……明日のバイト出れるかな? 今月、もう余裕がないのに……)

  ズキズキと疼き続ける左の上腕の痛みをごまかそうと、右てのひらでギュッと握りしめた。
  ガシャンとわざと大きな音をさせて、公園の緑色のフェンスに背中を預け、少しの間だけ足を止める。
 
(なんだかもう……疲れたな……)

 今この時の状況ばかりではなく、最近の自分を取り囲む何もかもが億劫に思えて、心の中には投げやりな考えばかりが浮かぶ。
 このままフェンスに体重をかけて、ズルズルと座りこんでしまおうかと思った時、私のすぐ横をすり抜けていったタクシーが、少し行き過ぎた場所で、ハザードランプを点けて止まった。
 
(な……に……?)

 後部座席のドアが開いて、中から人が降りてくる。
 
(誰……?)

 高校生くらいの男の子だった。
 街灯に背を向けているから顔ははっきりとは見えないが、長めの髪に細身の体。
 運転手に一言二言声をかけて、真っ直ぐ私に向き直る。
 
「送るよ」
 
 突然呼びかけられて、思わず自分の後ろをふり返った。
  こんな時間にこんな所にいることがまるでそぐわないその少年が、声をかけたのが、まさか自分だとは思わなかった。
 
 彼はそんな私に小さく笑ってもう一度、
「送るよ」
 とくり返す。
 
 何と返事すればいいのか、どう解釈すればいいのか、困惑する。
 少年を置き去りにスタートしていくタクシーを目で追いながら、私は黙ったまま少しだけ首を傾げた。
 
(からかってるの? それとも馬鹿にしてるの?)
 
 次々と通り過ぎていく車のライトに時折全身を照らされながら、少年は微動だにせず立っている。
 なぜだか目が離せない。
 絶対にその他大勢の中に埋もれてしまいそうにはない立ち姿。
 
(……何か言い返さなくちゃ)

 口を開きかけた瞬間、少年が動いた。
 右手で長めの前髪をかき上げながら、ゆっくりと笑う。
 くらりと目が回るような、きっといつまでも頭から離れなくなりそうな、そんな笑顔が、対向する車のライトに照らされて、夜の闇の中であまりにも鮮やかに浮かび上がった。
 
 瞬間――
 耳を覆いたくなるほどひっきりなしに続いていた車の走り去る音も、
 店々から流れてくる騒々しいだけのBGMも、
 道行く人が隣にいる人と、あるいは携帯の向こうの相手とうるさいぐらいに交わしている会話も、
 何もかもが私の世界から消えた。
 
 ただ、彼の声しか聞こえなかった。
 
「送るよ。一緒に帰ろう」
 
(なんて返事をしよう?)という考えが浮かぶよりも早く、自分でも気がつかないまま、私はいつの間にか頷いていた。

 
 大通りから細い路地へと入った私の後ろを、ほんの少しだけ遅れて歩きながら、少年は羽織っていたシャツを脱いだ。
 黙ったままこちらへさし出す。
 
「いいよ……」

 押し返そうとした私の肩に、ふわっとそのシャツは掛けられた。
 
(そっか、傷か……)

 幸哉に殴られて転んだ時にできた傷は、私の左腕ですでに黒い血の塊になりかけていた。
 二の腕が剥き出しになったキャミソール型ワンピでは、もともと隠しようもない。
 さっきからずっとズキズキと熱を持って疼いていることは気になっていたが、あまりにもあちこち傷だらけで、見た目の心配なんか忘れていた。
 
(気遣ってくれたのか……)

「ありがと」

 ほんの少し後ろを歩く、私より頭一つぶんだけ背が高い横顔を、改めてふり返ってみる。
 白い頬。華奢な輪郭。綺麗な良く整った鼻。なんの曇りもない眼。
 明るい色の長めの髪には、全体的に少しだけクセがあるように見えた。
 Tシャツの袖をまくり上げて、ジーンズにスニーカー。
 服装から年齢が判別できる格好ではないが、大学生には少し若いだろう。
 
「高校生だよね?」

 率直に聞いてみたら、すかさず聞き返された。
 
「あなたは違うでしょ?」

 あまりにも真っ直ぐに見つめられたので、思わず視線を逸らした。
 純粋としか言いようのない綺麗な瞳を、真正面に受け止めて、返事を口にすることは苦しかった。
 派手な化粧をして、露出の多い服を着て、こんな夜中にこんなところを傷だらけで歩いているような女は、彼の瞳にはどんなふうに映るんだろう。
 
「私……これでも女子大生だよ……」
 
 少し胸を張るように、そのくせ何かを言い訳するように、呟いた私の言葉に、
「ふーん、そう……」
 興味なさげに返ってきた言葉には、驚きの色も侮蔑の色もなかった。

 
 名前も知らないその少年に主張したとおり、私は四年制大学の三回生に籍を置いていた。 
 三回生だったというよりは、籍を置いていたのほうが、正しい。
 なぜならこの四月に進級してからは、私は一度も大学に登校していなかった。
 日々の生活費と幸哉に渡すお金を用意するためだけに、バイトをいくつもかけ持ちする毎日。
 
(私だって最初はもちろん、こんなつもりじゃなかった……)

 やりたいことがあって、取りたい資格があって、そのためにわざわざ、故郷から遠く離れたこの街まで来た。
 この大学を選んだ。
 それなのにいつの間にか、大学生活からはまったくかけ離れた、その場しのぎの毎日をおくっている。
 
 後悔なんて気持ちは、とっくに捨てた。
 そうじゃないとやってられない。
 遠い故郷では両親が、私が勉強に励んでいることを疑いもせずに、暮らしているんだろうけど、そういうことに思いを巡らすのは、自分が辛くなるだけなので、なるべくやらないようにしている。
  だからやっぱり私は、『大学生』なんて胸を張って言える立場ではないかもしれない。
 
「やっぱり違った。うん……フリーターだな。私」

 不自然な訂正にも、少年は特別驚いた様子もない。
 
「ふうん。そうなんだ」

 あまりにもあっさりと返事されたので、思わずカチンときた。
 
「何よ。何か文句ある?」

 顔を仰ぎ見ながら、語気を荒げて放った質問に、彼は真面目な顔で、真剣に答えた。
 
「何も」

 私を見下ろす瞳には、さっき思ったとおり、一点の曇りもなかった。
 
 瞬間、胸が軋んだ。
 自分がなくしてしまったものへの惜別の思いか、それをまだ持っている彼への憧憬か。
 理由はよくわからないけど、どうしようもない胸の痛みに、私は握りしめた右手を胸に当てて立ち止まった。

「ゴメン。やっぱり、私、大学生……また大学に行きたい」
 
 自分でも何を言っているのかと思う。
 今、会ったばかりの、私の事情も知らない年下の男の子に突然こんなことを言っても、通じるはずがない。
 
(……ほんっとに馬鹿だなあ)
 
 悔しくて、惨めな気持ちで俯いた時、
「うん。そうだろうね」
 少年の穏やかな声が、私の上に降ってきた。
 
 それは、誰にも言えない、聞いてもらえない私の本音を、彼が拾い上げて、認めてくれた瞬間だった。
 彼は、私の隣を次から次へと通り過ぎていく見ず知らずの人たちと何も変わらない。
 たった一人の、ただの人間なのに、私はその時なぜか、自分が世界中の全てに認められたような気がした。
 
「どうしたの?」

 ふいに尋ねられて、自分が泣いていたことに気づいた。
 
(涙なんて……どれぐらいぶりだろう?)

 そんなものは、とっくに枯れたと思っていた。
 何のために自分はここにいるのか。
 何がしたいのか。
 自分自身にもわからない。
 夢も希望も確かに心に抱いていたはずなのに、いつの間にかわからなくなってしまった。
 
 つきあって二年を過ぎた幸哉は、
「お前が悪い! お前のせいだ!!」
 と私を殴る。
 私を否定する言葉しか、投げつけてこない。
 
 幸哉は私のことなんて、きっと本当には好きじゃない。
 気に入ったおもちゃを、傍に置いておきたい子供のように、誰にも私を触らせたくないだけだ。
 誰にも私を取られたくない。
 だから私を大学には行かせない。
 だけど――
 
「……こんなのは、私が欲しかった愛じゃない」

 止まらなくなってしまった涙を必死に隠そうと、両手で顔を覆いながら私が呟いたのは、少年にはまったく関係のない言葉。
 それでも彼は私の横にピッタリ寄り添うように歩きながら、
「うん。そうだね」
 と、本当に夢としか思えない返事をくれた。

 
「大学に入ってすぐのコンパでしりあったんだ。気があってすぐにつきあい始めた。学部が違うから講義は全然一緒にならなかったけど……お互いが選択している講義にもぐりこんだり、一緒にお昼を食べたり……あの頃は楽しかったな……」
 
 会ったばかりの見ず知らずの男の子に、私は身の上話をしている。 
 結局、私のアパートの前まで、彼は歩いて送ってくれて、だけどそんな彼に、気軽に、
「うちに寄ってお茶でもしていく?」
 と声をかけれるような私ではなくて、二階の私の部屋を見上げたまま、二人でガードレールに腰かけて、何ということもない話をした。
 
 こんなところを幸哉に見られたら、本当はどんな目にあわされるかわからない。
 だけど今日のところは、私を存分に殴って、自分のアパートから蹴り出したばかりなので、きっと今頃は満足して、ぐっすりと寝ているはずだ。
 
(だから、私とは何の関係もないこの少年が、酷い目にあわされることはない……)

 誰といても、どんな時でも、結局私にとってはそれが一番の気がかりだった。
 
「でも……あんまり私のこと、信用してくれなくてね。ちょっと男の子と話したぐらいでヤキモチ焼くんだ。最初はそれも嬉しかったけど、あんまり度が過ぎて……ちょっと……怖くなった……」
 
 そっと目を伏せて、自分の膝に視線を落とす。
 黒ずんだような打ち身の痕。
 切り傷、擦り傷、数え切れないくらいの傷痕を、いまさらのように両手を広げて隠した。
 
 でもたぶんこの少年は、そんなことなんて気にしない。
 その証拠に、ほら、まっすぐ前に向けた真摯な視線は、揺らぎもしない。
 
「部屋からも出してもらえなくなって、大学には行けなくなって、でも生活のためのバイトだけは許してくれたから、そのうちバイトが私の全てになっちゃった」
 
 自嘲するように小さく笑い、今はもう遠くなった大学生活を思った。
 仲の良かった友だち。
 必死でついていこうとしていた授業。
 サークル活動にコンパ。
  徹夜で頭を捻ってレポートを書いたり、大変だったこともあったはずなのに、今はその全てが懐かしい。

(……もう戻れない。あの日々には戻れないんだ)
 
 膝の上に置いた両手を、ギュッと握りこぶしに変えたその時、私の話が聞こえているんだかいないんだか、ずっと黙ったままだった少年が、静かに口を開いた。
 
「もしよかったら……俺と、ピクニックに行かない?」
 
 あまりにも唐突すぎる思いがけない言葉に、思わず口がポカンと開く。
 失礼なのは十も承知だが、いぶかしく聞き返さずにはいられない。

「ピクニックって……?」
 
「ええっと……お弁当持ってどっかに行くのって、そう言わないっけ?」

 夜の闇の中でも眩しいくらいに輝く笑顔で、屈託なく尋ねる彼の様子に、たまらず吹き出した。
 
「キミってお坊ちゃま? それとも、見た目よりもっと若いの?」

 けれど笑われたことなんて微塵も気にしていない笑顔を見ているうちに、今度は自分のその笑いが、乾いていくのが手に取るようにわかる。
  私の反応なんてまるで関係なく、熱に浮かされたように、
「俺、ピクニックって行ってみたかったんだよな……お弁当持って、どこかにさ。ねぇ、俺と行かない?」
 楽しそうにくり返す笑顔から視線が外せない。
 
 夢見るような、まばゆいような笑顔に、魂を抜かれてしまったかのように、一瞬たりとも目を逸らせない。
  長い間、暗闇の中で息をしていたような私には、手を触れることさえ許されないような笑顔だった。
 遠い遠い笑顔だった。
 
(だけどもし……もしもよ。私が今、ここで頷いたら……この笑顔ってもっと輝くんじゃない?)

 むくむくと好奇心が頭をもたげた。
 いや、正直に言うと、誘惑に逆らえなかった。
 
(どうせこの顔じゃ、明日のバイトは無理だよね。だったら……)

 心の中でせいいっぱい、自分に言い訳した。
 
「じゃあ、行こうか。一緒にピクニック」

 弾むような調子で、隣に座る人の顔をのぞきこんだ。
 どんな反応が返ってくるのかと、純粋にわくわくしながら。
 
「やったっ。本当に?」

 あっという間に輝きを増して、黒く深い色に染まり始める瞳。
 その綺麗な瞳が、思ったとおり……いや、それ以上の笑顔を伴って、真っ直ぐに私の顔を見つめる。
 
(いつまでも眺めていたい)

 瞬間的に心に浮かんだのが、まぎれもなく私の本心だった。
 だってほら、つられて思わず、自分まで笑わずにいられない。
 ずいぶん長い間、笑ったことなんてなかったはずなのに、こんなにも簡単に。
 
 理由なんて考えるまでもなかった。
 誰に尋ねられても、まちがいなく百点満点を貰えるくらい、その答えには自信があった。
 
(それはね……ほら、笑顔のお手本みたいな顔が、目の前で微笑みかけてくるからだよ)
 
 私が心の中で考えていることなんて何の関係もなく、少年はいつまでもニコニコと笑っている。
 その笑顔を見ていたかった。
 ずっとずっと見ていたかった。
 
「じゃあ、明日迎えに来るよ」
 
 律儀に頭を下げて、夜の街へと帰って行く背中を、小さく手を振りながら見送ったけれども、私は本気でその言葉を信じたわけではなかった。
 
(だって……たぶん冗談だよ。かわいそうな年上のお姉さんを、彼なりに励ましてくれたってことでしょ?)

 冷静に大人ぶった解釈をつけながら、鉄製の外階段をカンカンカンと駆け上がり、二階の自分の部屋へ帰った。
 
(私があまりにも落ちこんでた上に、とうとう泣き出しちゃったもんだから、ちょっと気持ちを明るくしてあげようって、がんばってくれたんだよね?)
 
 汗と涙ですっかり崩れてしまったメイクを、洗面台で一気におとす。
 鏡の中に現れた素顔の自分は、みっともないくらいに左頬を腫らしていた。
  こんな顔の女に、なんのためらいもなく話しかけてきた人がいたなんて、まるで嘘みたいだ。
 でも嘘じゃない。
 そして――彼が残してくれた約束も、きっと嘘じゃない。
 
(信じてるわけじゃない……信じてるわけじゃないのよ……でももしかして、もしかしたら……?)

 薄い生地のワンピースを洗濯機に放りこむと、パジャマ代わりのTシャツを頭から被る。
 そのままゴロンとベッドに横になって、眠ってしまおうかとも思ったが、もう一度起き上がって、サイドテーブルの上の目覚し時計を、いつもよりかなり早めの時間にセットせずにいられなかった。
 実際にベッドに横になって、見慣れた天井を見上げた後も、さっきまでのことを思い出すと気持ちが高ぶって、実はなかなか寝つけなかった。