「だから……今日はちょっと用があるから、学校休むんだよ……」
「寝坊したからって、ズル休みするんじゃないでしょうね?」
 電話の向こうの声はすこぶる機嫌が悪い。

「違うって」
「じゃあ用ってなんなのよ……病院?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
 のらりくらりとはぐらかすことで、学校欠席の理由をなんとかごまかそうとしている俺を、お目つけ役のひとみちゃんはやっぱり見逃してくれないらしい。
 
「いいご身分ね……やっと通えるようになったと思ったら、もうサボるわけ?」
「サボるって……」
「違うの?」
「いや……違わない」
 
 受話器を押しつけている左耳に、はあっと大きなひとみちゃんのため息が聞こえた。
 
「いいわよ。『一生君は病院です』とでも言い訳してあげる。だからせめて行き先ぐらいは教えて」
「本当にたいしたことじゃないんだ。ひとみちゃんが学校から帰るよりは絶対に早く帰ってくるし」
「つまり、言いたくないってわけね」
「はい……」
「だったら、最初っからそう言いなさいよ! 私が遅刻しちゃうでしょ!」
 
 ブツンと、俺の返事も聞かずに電話は切られた。
 と虚しい音を立てている受話器を親機のスタンドに戻して、俺は電話に向かって頭を下げる。
 
(ひとみちゃんゴメン)
 ここでいくら謝ってみても、彼女に見えるわけではないし、伝わるわけでもないのだけど、そうせずにはいられなかった。
 
 リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計が指しているのは、七時三十分。
 
 兄貴が片道一時間半もかかる大学に自宅から通学してくれているおかげで、俺はいつもこれぐらいの時間から、家に一人きりになる。
 
『今日こそ、今日こそ早く帰ってくるからな』
 
 十六歳の弟をしっかと抱きしめて出かけていった兄貴を玄関で見送ってから、俺はさっき着替えたばかりの高校の制服を、もう一度私服に着替え直した。
 それから、いつものように自分の家で俺を待っているであろうひとみちゃんに、学校を休む旨の電話をかけたのだった。
 
『学校サボって、出かけます』
 なんてとても言えないから、いろいろと言い訳も考えていたのに、いざひとみちゃんの声を聞いたらそれらは全て吹き飛んでしまった。
 
 上手に嘘をついてひとみちゃんを騙すなんて、しょせん俺にできる芸当ではない。
 だからといって本当のことは話さずに、それでいて嘘はないように、曲がったのこと大嫌いなひとみちゃんを納得させるなんて、なおさら難しい。
 
 さんざん言いよどんで、口ごもる俺に、とうとう痺れを切らして、彼女のほうから問いただしてくれた。
 
『言いたいことがあるんだったら、ハッキリと言いなさいよ! どうせ海里のことだから、言いにくいのをどうやってごまかそうかって、ああでもないこうでもないって、考えてるんでしょ!』
 
 日頃世話をかけてばかりのひとみちゃんに、嘘をつくことがかなりネックになっていた俺は、今日もやっぱり彼女に助けられた。
 
(ゴメン、ひとみちゃん)
 もう一度、今度は彼女の家の方角に向かって頭を下げてから、俺はいよいよ出かける準備を始めた。
 
(本当に待っててくれるのかな?)
 半信半疑のドキドキを抱えて。
 
 昨夜彼女と別れた場所は、俺の家からだと歩いて一時間ぐらいの距離だった。
 
 いくら心ここにあらずの状態だったとは言え、それだけの距離を自分が歩き通したという事実に、俺は少なからず感動している。
 
 体育の授業はいつも見学。
 遠足は俺だけ先生の車に乗せてもらって目的地でみんなと合流。
 仕方がないことだとわかってはいても、他のみんなと同じように行動できないことは、子供心にも寂しかったし、やっぱり悔しかった。
 
 俺の体調を気遣っていろいろと手を貸してくれる周りの人たちには、いつも感謝の気持ちいっぱいだったが、一度そんな人たちの目のないところで、限界までがんばってみたい気持ちがあったのも、嘘ではない。
 
 思いがけずそれを実行する機会とめぐりあって、結果、いろんな人たちを心配させずに済んだことは、まったくもってラッキーだった。
 そのおかげで今日もこうしてこっそりと、徒歩一時間の彼女のアパートまでの距離を、自分の足で歩くことができる。
 
 タクシーを捕まえてアパートの前の道路まで乗りつける行為が、どうしても嫌だったわけではないし、ひとみちゃんの言葉を借りるならば、それはまさに『楽チン』この上ないのだが、今日はなんだか自分の足で歩いて行きたかった。
 
(どうしよう? あんな約束したはいいけど……本当に来てくれるのか?)
 たまらなくドキドキして、不安で、実は回れ右して帰ったほうがいいんじゃないかと何度も心配をくり返す俺には、車で数分の時間じゃ、どうしたって心の準備が間にあわない。
 
 昨日真っ暗な中を無意識に歩いた道を、今日は足に力をこめて意識的にたどってみる。
 特にまちがうような分岐路もなく、難なくたどり着けたその一時間の道程を、それからしばらくの間、自分が毎日歩くようになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
 
 彼女が住んでいる二階建てのアパートは、俺の通う高校とは真逆の方角にあるし、学校では今の時間はおそらく、一時間目がとっくに始まっている頃だ。
 
 高校にようやく通いだしてまだ一ヶ月足らずの俺じゃ、知っている奴にバッタリ出会う可能性なんてほぼ0パーセントなのに、今日は念には念をいれて、帽子を被ってきた。
 
 つばが大きめの赤いキャップを、目の上まで引き下ろして、改めてガードレールに寄りかかる。
 
 黙々と地面を見つめながら一時間の距離を歩いている間は、正直、
(ひょっとしたら昨夜のことは全部夢で、彼女は現実には存在しないんじゃないか?)
 なんて思ったりもした。
 
 だけど、彼女と並んで座って長い時間話しこんだこの場所に、実際こうしてたどり着いた。
 どうやら夢ではなかったようだ。
 
 そう自覚した瞬間、俺の脈拍は一気に急上昇した。
(どうしよう? どうする?)
 
 嬉しいような、焦るような、複雑な気持ちが交錯する。
 ドキドキとヤバイくらいに心臓が鳴りだす。
(くそっ……静まれ……)
 
 俺がなんの答えも見つけられず、自分の弱点と戦っているうちに、古い鉄製の外階段をカンカンカンと鳴らして、小さな人影がアパートの二階から下りてきた。
 
 初夏の暖かい朝日に縁取られて淡い色に輝く長い髪を、フワリと揺らして俺のほうに視線を上げたその人に、なんと声をかけたらいいのかなんて、わかるはずがない。
 
 しかし焦っていたのは俺の頭だけだったようで、俺の顔はその時にはもう勝手に笑顔を作っていたし、右手は彼女に向かってヒラヒラと手を振っていた。
 
「本当に来てくれるとは思わなかった」
 簡単に動き出す口と、ガードレールから降りて彼女に向かって歩きだす両足に至っては、もう本当に自分の体の一部だとはとうてい思えない。
 
 右手に下げていた重そうな荷物を両手に持ち直しながら、俺に向かって歩み寄る彼女は、
「こっちこそ」
 と負けじと言い返す。
 
 その子供みたいな負けん気と、笑顔含みに輝いた黒目がちの大きな瞳が、たまらないくらい魅力的で、俺は目を細めて彼女の顔を見つめた。
 
「だって約束したでしょ」
 その約束が現実のものだったのか危ぶんでいたさっきまでの不安なんて、もう微塵もだなくどこかに吹き飛んでいた。
 
 彼女が本当に来てくれた。
 それ以上の証明なんてあるだろうか。
 これ以上の喜びなんて想像もつかない。
 
「そうだよね」
 昨夜とはまるで別人のように、フワリと簡単に笑顔を見せてくれる彼女に、俺はどうしようもないくらいの嬉しさを持て余していた。
 
「うん」
 どんな言葉にだって即座に反応して、返事をせずにいられないくらい、俺の全身全霊がその人に向かってた。
 
 まるで昨夜の涙が嘘のように、辛いことなんてなんにもないような笑顔で、
「どこに行こうか? どこに行きたい?」
 なんて尋ねられると、
 
(どこへでも、あなたの好きなところに)
 と、よくあるキザなセリフしか頭に浮かばない。
 
(そんなセリフ、恥ずかしくって言えるわけないだろう……)
 天まで舞い上がっていた気持ちが、ようやく本来の位置にまで降りてきてくれて、思考と体の動きとが一致してきた自分を実感する。
 
 恥ずかしくって、面と向かいあうことさえドキドキだった彼女の顔も、ようやく正視できるようになった。
 そうして初めて、彼女が大事そうに胸に抱えているバッグに目が止まる。
  
 手作りっぽい丈夫そうな布地のそのバッグには、片すみに黒いマジックペンで、
『一年一組 白川真実』
 と書かれていた。
 
 思わず心の中でクスリと笑みをもらす。
(可愛い!)
 
 長袖のチェックのシャツに、デニムのスカート姿の彼女は、実際昨夜よりずっと幼く見えた。
 俺の肩までしかない身長を考慮に入れると、失礼を承知で言うならば、俺より年下に見えるかもしれない。
 
 そう思い至った途端どうだろう。
 心に羽でも生えたかのように、俺はすこぶるいい気分になってしまった。
 
 俺より確かに年上のはずのその人をからかうように、
「真実さんは? どこに行きたい?」
 と問いかけてしまう。
 
 予想どおり、彼女は大きな目を、さらに真ん丸にした。
「どうして私の名前……?」
 
 俺は必死に笑いをかみ殺して、せいいっぱい真面目な顔を作って、黙ったまま彼女が胸に抱えるバッグを指差す。
 
 そのバッグに書かれていた自分の名前を確認した途端、彼女の白い顔は細い首筋まで真っ赤になった。
「こ、これは、違うのよ。いや、違わないんだけど、他にお弁当箱が入りそうな手頃なのがなくて!」
 
 慌てて言い訳を始める様子に、笑いをこらえているのが我慢できなくなる。
 自分でもどうしようもないくらいの思いが、湧き上がってくる。
 
(可愛い、すっげえ可愛いよ!)
 叫び出したいくらいの気持ちを、俺は笑うという行動にすり替えた。
 
 お腹を抱えて、「ハハハハ」と笑いながら、
(こんなに笑ったことが、今までにあっただろうか?)
 なんて考えた。
 
 答えはもちろんノーだ。
 だって今までは彼女がいなかったんだから。
 まだ出会えていなかったんだから。
 
 あんまり笑いすぎて彼女の機嫌を損ねてしまわないように、
「ゴメン」
 涙を拭き拭き謝ったけれど、心は今までにないくらい幸せに満たされていた。
 小さくむくれている彼女には悪いけど、これ以上はないくらい俺はハッピーだった。
 
 だけどその幸せな気持ちは、心の奥底に闇を閉じこめたようないつもの感情へと、すぐに引き戻される。
 
「じゃあ、あなたの名前は?」
 当たり前と言えば当たり前なのだが、彼女がそう問い返してこきた瞬間、俺の心は冷水を浴びせられたかのようにスーッと冷たくなった。
 
 ほんのついさっきまでの楽しい気分など、跡形もなくどこかへ消し飛んでしまった。
 
 昨夜彼女と出会って、どうしようもなく惹かれる自分を自覚してから、俺には決意したことがあった。
 
 彼女に自分のことは教えない。
 年齢だとか、どこに住んでいるのだとかも、一切話さない。
 
 俺と彼女が夕べ出会ったのは、まったくの偶然だ。
 今日こうして二人で出かけることになったのだって本当に偶然。
 でもそんな偶然がこれ以上続くとしたら、それはもう偶然という言葉では片づけることができない。
 
 何も望まずに、何にも未練を残さずに死んでいくことだけをずっと目標に生きてきた俺には、やっぱり特別な何かや誰かを望む気持ちなんて必要なかったし、そんなものを望む権利が、自分にはないと思っていた。
 
(俺が今、彼女に抱いているこの感情が、もし恋心だったとしても……これ以上は踏みこまない)
 
 こんなふうに彼女と一緒に行動するのは今日だけにしようと、昨夜なかなか寝こつけないベッドの上で、俺は勝手に決意を固めていた。
 
(それだったら、名前も何も、いっそのこと告げないほうがいい……)
 それはけじめというよりは、自分自身に対する戒めの意味が強かった。
 
(名前も言おうとしない俺を不審に思って、彼女がさっさと背を向けたとしたら、それはそれで……かえってそのほうがいいんじゃないか……?)
 自分のほうから一歩引くような、妙に割り切った考え方は俺の本来の持ち味のはずなのに、今日はなぜかそう考えるだけで胸が痛かった。
 
 痛む胸を無理にごまかそうとして俺はスッと背筋を伸ばし、前髪をかき上げる。
 俺の返事をじっと待ってくれている彼女に、せいいっぱい笑顔を作って、
「真実さんの好きに呼んでかまわないよ」
 と告げた。
 
 一瞬、確かに彼女は大きな黒目がちの瞳を少しだけ見開いたのに、次の瞬間にはもう、
「それじゃあ」
 と、考えこむ様子を見せる。
 
 強がってたわりには、ここで「サヨナラ」なんてことにならずに、俺は心の底から安堵した。
 
 のんびりと思考をめぐらしているらしい彼女を見ていると、泣きたいくらいの感謝の気持ちが湧いてくる。
(この人はどうして……俺が仕掛ける罠をこんなにも自然体ですり抜けていってしまうんだろう? ……俺にさっさと背を向けてもかまわない理由なんて、それこそ数え切れないくらいあるのに……どうしてそうしないんだろう?)
 
 こうして一緒にいてくれることは、本当に嬉しい。
 だが、どうにも納得できない自分がいる。
 
 何かに化かされているかのような不思議な気持ちで、彼女を見つめ、ただ立ち尽くすしかない俺に、まったく頓着せず、真実さんは懸命に首を捻っている。
 どうやら俺の出した面倒な問題にも、真剣に答えを考えてくれているのらしい。
 
 そんな姿が、またどうしようもなく可愛く見えて、自分の感情を持て余していると、
「海(うみ)君って呼んでいいかな?ちなみに私が行きたいところも海なんだけど……」
 上目遣いに俺を見上げて、彼女が小さく笑った。
 
 その言葉に、息が止まった。
 
 俺は『一生海里(ひとうみかいり)』なんて珍しい名前のせいで、初めて会った相手に名前を読みまちがえられることは、しょっ中だった。
 
 今みたいに詐欺まがいのクイズを出しても、かすりもしない答えを返されるのは、むしろ当たり前。
 
 名前をつけてくれた母さんは、小さな港町の生まれで、大好きな故郷への思いをこめて俺に『海里』と名づけたのらしいが、それを特別に嬉しく思ったことは、別にこれまでない。
 けれど――
 
「どうしたの?」
 かなり驚いている俺に、かえってビックリしたように問いかけてくる彼女は、今までで一番ニアミスな答えをくれた。
 ドキドキと今までとは違った意味で、俺のヤワな心臓が鳴りだす。
 
「絶対無理だと思ったのに……スゴイな……けっこういいせん行ってる……!」
 ようやくそれだけを答えた頃には、俺の頬は自分でもしっかりと自覚できるほどに緩んでいた。
 
 ――今までで一番正解に近い答えをくれたのが、俺をこんなにドキドキさせる、目の前の人――
 
 そのことがとんでもなく嬉しくて、もう笑わずにいられない。
 
 小首を傾げて俺の顔を見上げている真実さんの手から、大きなバッグを取り上げる。
「荷物、持つよ」
 
 これ以上見つめられることに耐えきれず、先に歩きだした俺の後ろを、彼女が小走りについてきた。
 
 横に並んで歩きながら、やっぱり俺を見上げる瞳にドキドキして、
「何?」
 と尋ねると、
「ううん、何でもない」
 と柔らかな声が返ってくる。
 
 嬉しくてドキドキして、そんな自分の心臓の音は、世界中に響き渡っているようだと思った。
 俺の命を脅かす発作なんて問題にならないくらい、もう真剣にヤバイと思った。