それでもキミに恋をした

結局その週の金曜日、俺はひとみちゃんと伯母さんにつき添ってもらって、一年間を過ごした病室を、後にした。
「もう帰ってくるんじゃないわよー」
 すっかり顔なじみになった看護師さんたちは、口々にそう言って笑いながら見送ってくれたけど、俺だってできるなら本当にそう願いたいと、自分自身でも思ってた。
 退院したと思ったら、あっという間に逆戻りなんてシャレにならない。
 だからこそ今まで以上の細心の注意が必要だ。
(特別なことなんて何もなくていいから。ただ平凡な毎日が飽きるほど続いてく。それだけでいいから……)
 それは俺にとってささやかな、けれど切実な願いだった。
(普通に学校行って、伯母さんの手料理食べて、自分の部屋のベッドで眠って)
 たかがそんなことが夢だなんて自分でも笑ってしまうが、こうしてもう一度その中に帰ってこれた今だからこそ、笑えるんだってわかってる。
 (そんなことぐらい……なんて馬鹿にできない状況に陥る可能性だってある。でも大丈夫……俺は絶対に忘れない)
 誓うように、今出て来たばかりの病院をふり返った。
 
 真上に近い位置にある太陽の光が眩しくて、俺がさっきまでカンヅメされていた二階の西端の病室を仰ぎ見るのは難しい。
 目の上に手で庇を作りながら、俺は目を細めた。
 今は無人のあの部屋の窓から、どんな風景が見えていたのか。
 俺はこれから先どこに行ったって忘れないだろう。
 まるで目の前に広がっているかのように、いつだって描き表わせるだろう。
 
 白い敷石に濃い影を落とす街路樹。
 どこからか聞こえてくる鳥の声は、狭い病室に閉じこめられていた時とは比べものにならないほど、爽やかに耳に響く。
 どこにいるのか目には見えないが、瞼を閉じると、大空に向かって飛ぶ力強い姿が、頭のキャンバスにはくっきりと浮かんだ。
(絶対、忘れない)
 もう一度、心に誓った。

 
「海里ぃーお帰りー!」
 夕方、大学から飛んで帰ってきた五つ年上の兄貴は、まるで俺がまだ小学生の子供ででもあるかのように、ギュッと抱きしめて頬を寄せた。
 俺の顔が無理矢理に押しつけられた位置は兄貴の肩の若干下のあたりで、そのかなりの身長差に内心ではムッとする。
 けれど、
「良かったなー良かったよー」
 わりあい整った顔を俺のためにクシャクシャに歪めて、大袈裟なくらいに喜んでくれることは素直に嬉しかった。
 
「よくがんばったな」
 無理に休みを取って家にいてくれた父さんも、言葉は少ないながらも満面の笑みで石井先生のようにガシガシと俺の頭を撫でる。
 その力強さが本当に嬉しかった。
 
 一年前と何も変わっていない自分の部屋に、病院から持ち帰った荷物を運びこんで、机の上に載せたままずっと開かれることのなかった高校の教科書を、パラパラッとめくってみる。
(まあ、それなりに自分でがんばってたつもりだけど……ついていけるのかな……?)
 苦笑しながら教科書は閉じて、今度はまだビニールに入ってハンガーに掛かったままの真新しい制服をつまむ。
(ほぼ二ヶ月遅れの高校入学か……)
 多少のことには慣れっこになっている俺でも、さすがにこれは滅多にできない経験だ。
 
(いい思い出が、一個でいいから作れたらいいんだけどな……)
 始まる前から、後でふり返った時の心境を心配するのは、ずいぶんと本末転倒かもしれない。
 けれど、
(あんまりたくさん期待したら駄目だ。またそれを手放さなきゃならなくなった時に、未練なんて持ちたくない)
 俺にとってその考え方は、防衛本能みたいなものだった。
 

 だけど、やっと登校できた高校というところは、俺が病室で思っていた以上に、俺の現実とはかけ離れた場所だった。
 受験勉強や部活。
 アルバイトや恋愛。
 同級生のおもな感心事はどれも俺とは決定的に無関係で、どう考えてもこれからも縁が有るとは思えない。
 すんなりと話題に入っていけない上に、二ヶ月遅れのハンデもある。
 普通に友達なんて、とてもできそうにはなかった。
(半分ぐらいは学校に行ってた小学生の頃は、これでも友達、多いほうだったんだけどな……)
 考えると胸が痛くなるから、体調上もあまり良くない。
 俺はなるべく考えないようにする。
 
 いいことを見るなら、遠巻きに皆の話を聞いているのは面白かったし、たくさんの人間と同じ空間にいれるというのは、ただそれだけで嬉しかった。
 クラスのみんなも、ひとみちゃんがよく言っていたように、
「みんな自分のことばっかりで、全然つまらない」
 とは感じなかった。
 病気で長く休んでいたクラスメートには、みんなそれなりに親切で、気遣ってくれるからだろうか。
 ぼうっと席に座っている時に、なんの脈絡もなく、
「がんばれよ」
 とか
「無理するなよ」
 とか時々声をかけられるのは、嬉しかった。
 
 中学の時と同様、同じクラスで席まで隣のひとみちゃんは、
「やっと彼氏が登校してきて良かったなあ」
 と冗談半分の声がかけられて、
「そんなんじゃないわよ!」
 と常に怒り狂っている。
「これじゃ、小学生の頃から何も変わらないじゃないのよ!」
 と怒鳴られたけれども、そんなやり取りすら今の俺には楽しかった。
 
 目尻をほんのりと赤く染めて、少し頬っぺたを膨らましながら怒るひとみちゃんは、確かに小学生の頃から変わらない。
 口で言うよりはずっと親切に、常に俺を気遣ってくれる。
 でも高校生になってまでこんな調子でいいんだろうかと思う気持ちも、俺の中になくもなかった。
 
 俺が退院して学校に通いだしてから、ひとみちゃんは毎日、一緒にタクシーで通学するようになった。
 爽やかな初夏の風の中を自由に闊歩し、颯爽と前を向いていた横顔はあんなに彼女らしかったのに、
「別にいいわよ。このほうが楽だし。お金は叔父さん持ちだし」
 俺が気にしないようにだろう、わざとぶっきらぼうにそんなことを言う。
 
(本当は俺のためだよな……いつ具合が悪くなったってすかさずフォローできるように、いつも側にいてくれるんだよな……)
 それにはとうの昔に気づいていたし、そんな彼女には深く感謝していた。
 けれど意地っぱりなひとみちゃんが、素直に俺の謝辞を受け取るはずもない。
 だから、なんにも気づかないフリをして笑ってみせる。
「ひとみちゃんは、『楽』が好きだよね」
「どういう意味よ?」
 すぐにカチンと来て、瞳に炎が灯るところがまた彼女らしい。
 
(このひとみちゃんらしいところを可愛いと思ってくれる奴と、本当は恋愛一色の高校生活でもおかしくないんだよな……)
 また申し訳ない気持ちになった。
 
 俺の存在はひとみちゃんにとって迷惑なんじゃないかと考えたことなら、今までに数えきれないくらいある。
 ひとみちゃんは言い方はキツイけれど、それを補って余りあるほどの美人だし、なかなか素直には表に出さないけど本当は優しいし、今までだって相当の数の男が好意を示したのに、いつだってそんなことにはお構いなしだ。
「だって好きとか嫌いとかそんなの、面倒くさいじゃない!」
 およそ若者らしからぬセリフで崇拝者を一刀両断にするのは、俺がお荷物になっているからじゃないかと疑うのは考え過ぎだろうか。
 
(これだけどこに行っても俺との仲を誤解されるんじゃ、いくらひとみちゃんだって、そのうち言い寄ってくる相手がいなくなっちゃうんじゃないか?)
 俺は密かに責任を感じてもいた。
 とうの本人にそんなことを言おうものなら、
「余計なお世話よ!」
 とそれこそ大目玉を食らいそうだが、俺はこれでも本気で心配していた。
 
(俺のために自分の生活を犠牲にしてほしくないんだ。だって遅かれ早かれ俺はいつかはいなくなるんだからさ……)
 もしその時が来ても、必要以上にひとみちゃんが大きなダメージを受けないように、できるなら俺は彼女とはもっと距離を置きたかった。
 
 仲の良かった従兄妹が死んでしまっても、親身になって慰めてくれる恋人や友人たち。
 そんな存在を彼女にはできるだけ多く持ってほしかった。
 うぬぼれや責任逃れなんかじゃなく、本当に俺を大切にしてくれている人だからこそ、俺がいなくなった後も幸せでいて欲しかった。
 
(ずいぶんと自分勝手な願いだよな……)
 俺の思惑になど気づきもせず、机から身を乗り出して、今までの授業の流れを懸命に説明してくれるひとみちゃんの長くて艶やかな黒髪を、俺は頬杖をついたままただ静かに見下ろしていた。
 
 
 一緒に帰る都合上、俺はひとみちゃんの部活が終わるのを毎日待っていることになって、どこで待っていたらいいのかわからない所在なさと、
「面倒だから海里も入りなさいよ」
 というひとみちゃんのごり押しで、彼女が所属する美術部に、思いがけず入部することになった。
 
 絵を描くのは子供の頃から大好きだった。
 でもそれしかやることのなかった日々が、なんだか胸の奥に重く残っていて、退院したからとまた描く気持ちには、まだなれない。
 けれど窓から射しこむ暖かな陽だまりの中、大きなキャンパスに向かって悪戦苦闘しているひとみちゃんが本当は何を望んでいるのか、俺にはわかっていた。
 
『俺がまた絵筆を持つこと』
 
 わかっているけど今はまだ、日当たりのいい美術室で椅子にゆったりと座りながら、油絵の匂いに包まれて、ひとみちゃんや他の部員たちが絵を描いている様子をただ見ていたい。
 静かに流れていく穏やかな時間を、何をするでもなく体中で感じていたかった。
 まるで監督でもしているように、部活の間ずっと窓際の席に座って、じっとみんなを見ている俺を、咎めるような部員は、幸いここには一人もいない。
 「一生君は? 絵は描かないの?」
 決して詮索するような響きは含まず、なにげない世間話のように投げかけられる質問には、俺が口を開くより先にひとみちゃんがさっさと答えてしまう。
 
「……描かないの。すごく上手いくせに」
 小さく首をすくめるしかない俺に、右頬に青い絵の具をつけたその女の子が笑いかけた。
「そうなんだ。また描くようになったら見せてね」
 今彼女がキャンバスに広げている淡い黄色と同じくらい優しい笑顔が、俺に向けられる。
 温かい気持ちが伝染したかのように、
「ああ」
 思わず笑顔になってしまう俺なんかよりもっと、いつも『目がきつい』と形容されるひとみちゃんの表情がふわりと緩んだのを、俺は見逃さなかった。
 だから――
 
「いつか描きたいものが見つかったら、その時はまた描くよ」
 声をかけてくれた相手というよりは、ひとみちゃんに伝えた。
 自分のことなんかそっちのけでいつも俺の世話ばかり焼いてくれる彼女を、本当は喜ばせたいと、俺は心の中ではいつも思っていた。
「本当にうちでご飯食べていかないの?」
 家の前に横づけされたタクシーから俺がひとりで降りた途端、ひとみちゃんはその日朝から飽きもせず何度もくり返した言葉を、更にもう一度くり返した。
 
 俺は笑って手を振りながら、
「遅くなるかもしれないけど、兄貴が帰ってくるって言うからさ。家で待ってるよ」
 タクシーの中をのぞきこむようにして、やはり今朝から何度も返した同じ言葉をこれが最後とばかりに念押しする。
 
「……そう」
 それでもまだ納得がいかないふうのひとみちゃんを乗せて、タクシーはゆっくりと動き出す。
 夕暮れ時の街の中で、その遠ざかっていくシルエットを、俺は見えなくなるまでずっと見送った。
 
 入院中はあんなに憧れて夢にまで見ていた高校生活だったが、それが何事もなく続いていけば、実際には中学時代とあまり変わりない毎日だということを思い知らされる。
(とうの本人が変わっちゃいないんだから、まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけどさ……)
 驚くほどにあっさりと慣れてしまった変化に乏しい単調な日々は、気を抜いているとまるで飛ぶように過ぎていってしまう。
 
(この調子だと、「気がついた時には高校卒業だった!」なんてことにもなりかねないな……)
 さすがにそこまで一足飛びにとは行かなかったが、気がつけばすでに退院からは一ヶ月が過ぎ、六月も半ばになっていた。
 
 俺が退院してからしばらくの間、大喜びで毎日大学から直帰していた兄貴は、あまりの実習準備の遅れに、
「これ以上は居残らないと無理だー、せっかく海里が帰ってきたのに!」
 と一週間で降参した。
 医学部で外科医を目指している大学三回生が、当然といえば当然だ。
 
「せめて今日中には帰ってくるから、待ってろよ。な、絶対待ってろよ?」
 まるで新婚の奥さんをおいて会社に出勤する夫のようなセリフを残し、泣く泣く出かけていった兄貴のために、
(たまには俺が夕食を準備して、待っていてやろうか)
 なんて思いたった。
 
 伯母さんの美味しい晩御飯を断ってまで作るのだから、せめて本ぐらい見て作らなきゃもったいない。
 ましてや自分が作った料理にあたって病院に逆戻りなんてことにでもなったら、シャレにならない。
 父さんの書斎に母さんの料理本でも残っていないかと思いついて、俺は二階の奥のこげ茶色の重厚な扉を押し開けた。
 
 
 その部屋は、小さい頃は立ち入り禁止の開かずの間で、少し大きくなってからは調べたいことがあったら何でも答えが貰える俺と兄貴とひとみちゃんの私設図書館のような場所だった。
 本好きの父さんがジャンルも種類も問わず若い頃から集めたいろんな本が、ところ狭しとギッシリ並んでいる。
 入院中はずっと定期的にこの中から何冊か病院に運んでもらってかたっぱしから読んでいたし、実際父さんは本物の図書館のように、人に貸し出したりもしていた。
 
 その父さんは、俺が退院した当日だけは出張先から無理矢理に駆けつけてくれたものの、その後はやっぱり長期出張で、ほとんど家を留守にしていた。
 子供の頃からなれっこのこととは言え少し寂しい気がしたのは、
「退院お祝いパーティーをするぞー」
 という兄貴の能天気な提案に、
「おおーやるぞー!」
 といくつになっても子供心を忘れない父さんが、いつものように拳を突き上げてくれなかったからだった。
 
「ゴメン、陸人、海里。また今度な」
 両手をあわせてそう言った父さんの表情が、なぜかいつまでも忘れられなかった。
 胸に何かを秘めたような、こわばった笑顔。
「どうしたの?」
 とそのまま尋ねることができるほど、俺はもう無邪気な子供ではない。
 そして、いつ破裂するかもわからない爆弾を自分が常に抱えていることも、よく自覚している。 
 だから――
 
「えー? どうしてだよー?」
 俺の代わりに思い切り膨れて不満をぶつけてくれる兄貴を尻目に、聞きわけのいい次男坊を装って、余裕の笑顔を作った。
「うん、じゃあまた今度ね」
 そんな俺の頭を、何も言わずに力強く撫でてくれた父さんの瞳は、何かの色に揺らいだような気がした。
 表情はあくまでも笑顔だったが、漠然とした不安のようなものが俺の心には残った。
 

「父さん……入るよ?」
 部屋の主が留守なことはわかっているのに、声をかけずにいられないのは、その部屋がかつては出入り禁止だったからだ。
「お前達に悪戯されたくない本もあるからだ」
 と父さんはもっともらしく言っていたけど、その本当の理由を、小学生の頃、父さんの留守中に兄貴と二人でこっそり忍びこんで、俺は偶然知ってしまった。
 
 十帖を軽く越える広い洋室は、確かに部屋中を本で埋めつくされていた。
 だけどそれ以上に、母さんの思い出の品でも溢れていた。
 母さんが亡くなった時六歳だった俺でも、記憶の片隅に残っているような、『形見』と読んでもいい品たちが、その部屋に全て集められていた。
 
 スリッパ、ひざ掛け、大きな帽子。
 エプロン、マグカップ、写真立て。
 一つ一つを手にとって見ているうちに、知らず知らずに涙が浮かんでしまった俺は、その涙をふり払おうと無理矢理に体の向きを変えて、隣に立っていた兄貴とぶつかった。
 俺と同じように、せいいっぱい泣くのをこらえて立ちつくしていた兄貴と、不意に目と目があってしまって、
(あ、ヤバい)
 と思う間もなく、涙が零れ落ちた。
 俺は兄貴にしがみついて、大声を上げて泣き出した。
 
(男が泣くなんてみっともない)
 なんて、俺はどちらかと言えば少し硬派に構えた小学生だったのに、そんな日頃の信念は微塵もなく吹き飛んで、声の限りにとにかく泣きたいだけ泣いた。
 兄貴も俺を抱きしめて、負けないぐらいに大声で泣いていた。
 
 夕食の時間になっても現われない俺たちを心配して、伯母さんが迎えに来てくれたのは、もう日が沈みかけた頃だった。
 いったいどれくらいの時間、二人で思いっきり泣いていたんだろう。
 抱きあってワンワンと泣き続ける俺たちを父さんの書斎で発見した伯母さんは、よく母さんがそうしてくれていたように、屈みこんで二人いっぺんに膝の上に抱き上げた。
 何も言わずに、ただ白い大きなエプロンの上で、ギュッと両腕で抱きしめてくれた。
 だから俺たちはいつの間にか泣き止んで、そのまま伯母さんの腕の中でスヤスヤと眠りにつき、夜遅くになって帰ってきた父さんに、大目玉を喰らわずにすんだのだった。
 
 
 子供の頃のちょっと甘酸っぱい思い出に苦笑しながら、俺は母さんの写真に目を向ける。
 部屋の中央。
 樫の木造りの父さんの大きな机の上には、いつもは小さな写真立ての中で微笑む母さんの写真しか飾ってないのに、今日は、まるでそのシルバーフレームの写真立てにお供えするかのように、一通の白い封筒が置いてあった。
 
 他人宛ての手紙に興味を示すなんて、今まで一度も経験がないし、それを手にとって見るなんてやったことはない。
 だけど俺の視線と思考は、その何の変哲もない白い封筒に釘づけになって、どうしようもなかった。
 
 宛名は『一生啓吾』。
 父さんの名前だ。
 差出人は『石井勝』。
 
(石井先生が? ……なんで父さんに手紙?)
 心の中で首を捻る。
 見てはいけないと頭のどこかで誰かが警鐘を鳴らし続けていたが、俺の手は意志とは反対に勝手に伸びて、封筒の中から白い便箋を取り出した。
 
 想像していたよりはずっと短い文章で、その大まかな内容はすぐに読み取れた。
 けれど駄目だ。
 気持ちのほうはとてもついていけない。
 
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
 
 思いがけない言葉の羅列に、内容を上手く理解することができない。
(石井先生ってことは、俺の話だよな?)
 
 そこに書かれている内容と、俺が今、今回の退院で感じている喜びとが、どうしても結びつかない。
 噛みあわない。
 
 考えをまとめるヒントを貰おうとでもするかのように、俺はその白い手紙と、写真立ての中の母さんの笑顔とをずいぶん何度も見比べて、何度目かでやっと、
「……そうか」
 と言葉が出た。
 どうして自分が今回退院することになったのかの本当の理由を、やっと頭と心の両方で理解した。
 
(もうすぐ終わりってことだったんだ……だから今のうちにせめて好きなことをさせてあげようってやつか……)
 思ったより、俺は取り乱さなかったし、落胆もしなかった。
 いつかはこんな日が来るんだろうと、漠然と覚悟を決めたのはもうずずいぶん前の話だ。
 今更がっかりする気持ちも、悔しく思う気持ちも、俺にはない。
 ないつもりだった。
 だけど――
 
「良かったな」
 と俺の退院を笑ってくれた父さんが、その笑顔の裏では本当はどんな気持ちだったのかを考えると、息が詰まりそうに苦しかった。
 
(きっと、兄貴には言ってないんだ。ひとみちゃんも伯母さんもまだ知らない……)
 それを伝える時、父さんはどんな思いをするんだろうか。
 ましてや他ならぬ俺自身に伝える、その時には――?
(ひょっとしたら、黙っているつもりだったのかもしれない)
 そう思ったから、俺はその短い手紙をまたそっと母さんの写真立ての前に戻した。
 
 もともとこの部屋に何をしに来たのか、そんなことはすっかり頭の中から消し飛んでしまって、地に足がつかないまま父さんの部屋をあとにした。
 重いドアを後ろ手に閉める。
 
 兄貴には悪いけど、料理をしようなんて気持ちはどこかに消えてしまった。
 それだけじゃない。
 自分の部屋へ帰って真新しい学生鞄を見ても、ハンガーにかけられた制服を見ても、昨日までのように弾む気持ちには到底なれない。
 
(本当に俺にはもう時間がないんだ)
 これまで何度も自分自身に言い聞かせてきたことだったけど、実感を持ってそう感じた時に、胸に迫ってくるものはやっぱり全然違っていた。
 
(もうすぐ俺の人生は終わる)
 そう思うことにはただ確認の意味しかないけど、
(だったら、俺はいったい何のために生まれてきたんだろう?)
 そんな考えが頭を過ぎってしまうことが辛かった。
 
(父さんや兄貴に心配かけて。ひとみちゃんや伯母さんに迷惑をかけて。体の弱かった母さんに負担をかけて……それなのに、もうこれで終わり?)
 そう思うと、ベッドの上に体を投げ出して、両腕を顔に押しつけずにいられなかった。
(俺なんか最初からいないほうがよかったんじゃないか!)
 どんなに強がってみても、怒りにも似た悲しみの感情は、今夜は俺の中から消えてくれそうになかった。
 
 住宅地から少し離れた閑静な場所にある病院とは違って、俺の家は、賑やかな繁華街のど真ん中に位置している。家の中にいても車の行き交う音はすぐ近くに聞こえるし、店々から流れてくる騒々しい音楽や人の声なんかも、時折、静かな部屋の中に妙に生々しく響き渡る。
 気持ちが前向きの時は特に気にもしないそんな騒音も、今夜はやけに大きく聞こえるような気がしたし、実際酷く耳障りだった。
 
 酔っ払って泣いている人。
 喧嘩して怒っている人。
 こうして目を閉じていると余計に、夜の町のいろんな声が、俺のすぐ近くに迫ってくる。
 けれど、どんな人生の岐路に立たされている人よりも、今の自分は苦しいと思った。
 何倍も何十倍も辛いと思った。
 
(俺より不幸な人なんて、きっといないよ)
 自分の中の負の感情は、なるべく表に出さないようにして、これまで意志の力でなんとか押さえこんできたけれど、今日はそうすることがとてつもなく辛い。
 
(絶対に負けるもんか)
 いつだってそう思って生きてきた。
 そう思うことで自分を支えてきた。
 なのに肝心の今夜、体がいうことをきかない。
 俺の脳の命令系統なんて、とっくに無視されている。
 こめかみの辺りがひきつるるように痛んで、意識していないと涙が零れ落ちそうだった。
 
(こんな状態じゃ、兄貴と顔が合わせられない)
 そう思い当たったことで、ようやく鉛のように重い体が、動いてくれた。
 
(何もなかったような顔をして、いつもどおりにふるまわないと……)
 自分を追い詰めるように心の中でくり返しながら、俺はTシャツの上に長袖のシャツを羽織って、部屋をあとにした。
 履き慣れたスニーカーに、まだ地に着いていないような感覚の足を突っこんで、どこにというこあてもなく、ひどく自暴自棄な気持ちで、夜の町へ飛び出した。
 
 夜に出歩くなんて何年ぶりだろう。
 正直言うと、中三の夏までは誰もいない家で兄貴や父さんの帰りを待っているのが嫌で、よく夜の町で遊んでいた。
 小学生や中学生が遊べるところなんてタカが知れていたけれども、そこでできた友だちなんかもいて、一人で家にいるよりはずっと楽しかった。
 
『高校生になったらもっといろんなところに行けるな』
 そう言って笑った昔の『夜の』友だちは、もうどうやって連絡を取ったらいいのかもわからないけれど、その『高校生』になった今も、俺は色んなものに縛られて自由に生きるなんてできそうにもない。
 
 不自由なまま、長く縛りつけられて生きるのに比べたら、「もう少しで終わりになる」とわかった今は、幸せと言えば言えるのかもしれない。
 けれど、「短い時間を好きにさせてあげたい」という石井先生や父さんの思いに応えられるだけの、『やりたいこと』なんて、ハッキリ言って俺にはなかった。
 
 いろんなことを諦めて、執着を持たないように、それを一番大切に生きてきたから、俺には実際、『何も』ない。
 
(いっそのこと、今終わりになってもかまわないのに)
 それぐらいの凶暴な気持ちを抱えて、俺はあてもなく歩き続けた。
(どうせもう終わりなんだから、俺には何もないんだから)
 そうとしか思えないことが何より悲しかった。
 
 
 けれど、夜の雑踏の中を、どこまでも歩き続けることに、俺のヤワな心臓はやっぱり慣れてなくて、次第に呼吸が苦しくなってくる。
 ドクドクと体じゅうの血液が脈打つ音が、頭の中で響きわたるようにどんどん大きくなっていくから、俺はしかたなしに足を止める。
 
 少し広めの舗道の、綺麗に手入れされた植木の陰には、木で作った広めのベンチがいくつか配置されていて、俺はそれに倒れこむように腰を降ろした。
 俺が座っている以外には、目に見える範囲には三つだろうか。
 一定の距離を置いて配置された同じ形のベンチには、みんなカップルが体を寄せあうようにして座っている。
 
 その中の一人が、咎めるような視線を俺によこしたけれど、そんなことかまうもんか。
(体の具合が悪い人、優先でしょ?)
 苦笑いを浮かべながら、俺はジーンズのポケットから小さなピルケースをひっぱり出した。
 金色の蓋を親指で弾くように開けると、中には白いカプセルが入っている。
 
『ちょっと調子が悪くなった時には、すぐに飲むように』
 石井先生から渡されて、子供の頃からいつも持ち歩いている薬だった。
 
(別に今死んでも良かったんじゃなかったのかよ)
 自分で自分を笑いながら、その小さな『命の源』を、俺は水もなしにそのまま一気に喉の奥に放りこんだ。
 
(いったいどこまで来たんだろう?)
 少し動悸がおさまって楽になってくると、そんなことが気になった。
 グルリと頭を巡らしてみても、周りの風景に全く見覚えがなかった。
 
(足の向くまま、気の向くまま、どれぐらいの距離を歩いたんだ?)
 自分で自分に感心する。
 我を忘れて、ただガムシャラに体を動かしたことで、さっきまでより心の中もスッキリとしていた。
 
(……まあいいさ。いままで漠然としていた俺のゴールが、ハッキリと近づいたって、そういうことだよ……)
 努めて明るく軽く、俺らしい解釈もできるようになってきた。
 
『海里君は明るくて楽しい子だった』
 
(そう言ってもらうのが、俺の目標なんじゃないか。それだけは達成しないといけない。強い気持ちで最期まで信念を貫き通せ……!)
 自分自身で自分を鼓舞する。
 それは一人でベッドの上にいる生活が長かった俺の、数少ない特技の一つだった。
 
(やったらいいさ。とりあえず思いついたこと全部。今までできなかったこと全て。そうしてるうちに自然と いつの間にか最期の時がやってきて……そんな終わり方も案外いいかもしれない……)
 力強く頷くと、少し落ち着いてきた鼓動を確かめるように左胸に手を当て、俺はゆっくりと立ち上がった。
 
(早く帰んないと、兄貴が帰ってきちゃうな……)
 時計も見ずに飛び出してきたことを少し悔やみながら、俺は大通りを行き交うタクシーに手を挙げた。
(なるべくいろんなことをやってみるためにも、今はまだこの命は大切じゃない?)
 自分自身を諭すように、心の中で呟きながら。
 黄色い広告灯をつけたピカピカに磨かれた黒い車体が、俺の前でゆっくりと止まる。
 自動で開いた後部座席のドアから車内に足を踏み入れると、中はタクシー特有の匂いがした。
 小さな頃からタクシーにお世話になることの多かった俺には、不快というより懐かしい匂いだ。
 バックミラー越しに、
「どちらまで?」
 と問いかける運転手に、住所を教えて、広い座席にゆったりと体を沈める。
 夜の街のネオンや喧騒と切り離されて、正直ホッとした。
 
 真夜中も近いというのに、道を行き交う人や信号待ちで並んでいる車の数は驚くほどに多い。
 丸々一回分信号を待ったのに、数台しか前に進まない渋滞を見やって、ため息を吐く。
(まずいな……本当に兄貴より遅くなるかもしれない……)
 少し歩いて大通りを抜けた後に、もう一度タクシーを拾ったほうがいいのじゃないかという思いが頭を過ぎった時、すぐ横の舗道を歩いていた酔っ払いの一団が、わっと沸いた。
 
(なんだろう?)
 見るともなしに目を向けた先では、女の人が歩いていた。
 小さな人だった。
 真っ赤な顔をして、何人かで肩を組みながら歩いているサラリーマンたちの肩ほどまでしか身長がない。
 腰まである長い髪には緩やかにウェーブがかかっているが、先のほうは色が抜けてしまって薄い色になっている。
 薄手のワンピースから剥き出しになっている白い腕も、裸足の足も、ビックリするほどに華奢で細くて、思わずドキリとした。
 
「姉ちゃん、大丈夫かあ?」
 酔っ払いたちが、笑いながら声をかけているのも無理はない。
 彼女はひどくヨロヨロとした足取りで、左腕を右手で押さえながら歩いていた。
 
 俯いたまま足をひきずり、歩き続ける後ろ姿から目が離せない。
 
 ようやく進み始めたタクシーの運転席では、
「お待たせしてすみません。この先で事故でもあったんですかね。いつもはこんなに混まないんですが……」
 運転手が何かを話しているが、俺にはまったく聞こえていなかった。
 ガラス窓越し、ゆっくりと追い越していく彼女の姿に視線を奪われたまま、引き寄せられるように後ろをふり返る。
 
 長い髪に隠れた小さな顔がどんな表情をしているのかは見えなかったが、リヤウインドウの中で小さくなっていく彼女を、瞬きもせずに見つめ続けていた俺は、
「すいません……ここで止めてください」
 自分でもよくわからないうちに、運転手に声をかけていた。
「はい?」
 驚いたように聞き返される間にも、彼女の姿はどんどん小さくなっていく。
「降ります! すみません!」
 俺の叫びに、運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。
 何事かをぼやきながら開けてくれた後部座席のドアから、転がり出るように舗道に降り立つと、俺は財布の中から千円札を抜き取った。
 
「すいません。お釣りはいいです」
 運転手は胡散臭げに俺を眺め回すと、その千円札を受け取った。
「ありがとうございましたあ」
 
 おざなりにかけられた言葉に背を向けて、舗道をふり返る。
 驚いたことに彼女が顔を上げてこちらを見ていた。
 
 対向してきた車のライトに、白い小さな顔が照らされる。
 顔の半分を占めているかのように大きな黒目がちの瞳は、泣いているように光っていた。
 
 そう思った瞬間、俺のやわな心臓は、何か大きな力で握りつぶされたかのような衝撃を受けた。
 薬を飲んだ直後の状態でなかったらどうなっていたのか、正直、想像もしたくない。
 
 黙ったままこっちを見つめている瞳に何と声をかけたらいいのか、頭は必死に考えようとしているのに、俺の口はそんなことおかまいなしで、勝手に動き出す。
「送るよ」
 
 驚いたように、彼女が自分の後ろをふり返って確認してみたのが可愛かった。
(そうだよな。いきなりだよな)
 
 自分でも可笑しくなる。
 でも他の言葉は浮かんでこない。
「送るよ」
 
 愚直にそのセリフをくり返す俺に、彼女は少し首を傾げた。
 長い髪が、華奢な肩から滑り落ちて、小さな体全体を包みこむようにフワリと揺れる。
 
 今にも消えていなくなってしまいそうな儚げな雰囲気が、たまらなく俺の胸を焼いた。
(どうしよう? いったいどうしたら、頷いてもらえる?)
 
 変な焦燥感に駆られたその時の俺の気持ちなど、彼女にわかってもらえるはずがない。
 俺自身も、自分が何を考えているのか、いったいどうしたいのか、まるで理解できない。
 
 ただなぜか、その人に声をかけずにいられなかった。
 黙ったまま通り過ぎるなんてできなかった。
 
(こういうのをなんて言うんだろう?)
 考えながら前髪をかき上げる。
 焦っている時の俺の癖だ。
 伸ばしっぱなしの前髪が、時々こうして邪魔になるから、考えをまとめようとする時なんかに、俺はよく髪を上げてみる。
 そうすると、見えなかった物が見えたりするように、自分の頭の中のもやも、自然と晴れたりする。
 
(ああ……なんだ。簡単なことじゃないか)
 少し冷静になって考えてみたら、笑ってしまうくらいに、ことは簡単だった。
 
(……一目惚れだ)
 自分で納得したら、笑わずにいられなかった。
 なんとか理由を捻り出すより先に、思わず声をかけずにいられないほど、俺はどうやらその人に惹かれたらしかった。
 
(幸先短い人生だって悲観ぶってるわりには、こういうことだけちゃっかりしてるんだよな、俺って奴は……)
 そう自覚したら、もう一度笑いながら彼女に言うしかなかった。
 
「送るよ。一緒に帰ろう」
 OKをもらえるはずなどないと思ったのだ。
 俺が彼女だったら、こんな突然現れた得体の知れない奴に、ついて行ったりなどしない。
 
 断られるか。
 無視されるか。
 とにかく彼女から何らかの反応が返ってきたら、下手なナンパみたいな真似はさっさと切り上げて、潔く背を向けるつもりだった。
 それぐらいの常識は、ふわふわとピンク色に染まった俺の頭の中にだってかろうじて残っていた。
 
 それなのに彼女は、俺に向かってコックリと頷いた。
 細い首が折れてしまうんじゃないかと思うくらいに、力強くしっかりと頷いたのだ。
 
(そんな馬鹿な……!)
 心の中で叫んだ言葉とは裏腹に、俺の胸はヤバイくらいに高鳴り始める。
 思いがけず無理な運動をしてしまった時の、何倍も何十倍も速い速度で、脈打ち始める。
 
(ちょ、ちょっと待ってくれよ……)
 必死に冷静さを取り戻そうとする俺をあざ笑うかのように、ドキドキという音は、どんどん大きくどんどん早くなる。
 一歩一歩俺に近づいて来る彼女の姿から目を放せずに、見つめる一秒毎に、それは世界中に響き渡っているんじゃないかと思えるほどに、ますます大きくなった。
 
(ずいぶんかかとの高い靴を履いているのに、あんまり背の高いほうじゃない俺の肩に届くか届かないかくらいだなんて……いったいこの人の身長は何センチなんだろう?)
 少なくとも俺の知っている女の人の中では、一番小さい部類に入ることだけは確かだ。
 
 身長ばかりではない。
 細い肩も腕も足も、ビックリするほどに小さくて、並んで歩きながらつい目を向けずにはいられない。
 
(袖がない形の、こういうワンピースをなんて言うんだっけ?)
 確か昨年、夏のもの凄く暑い頃にひとみちゃんも着ていて、その時名前を教えてもらったはずなのに、忘れてしまった。
 
『そんなこと聞いてなんになるのよ?』
 生意気この上ない口調でひとみちゃんは俺に問いかけたが、
『さあ、なんになるだろう……?』
 俺だってなんとなく聞いてみただけだった。
 
 そう、あの時はクーラーの調子が悪かった病室で、ひとみちゃんだけがやけに涼しそうだったのだ。
 いくら暑いからと言って、たった一枚身につけているTシャツを脱ぐわけにもいかなかった俺は、そんな彼女がうらやましかった。
 
『涼しそうだね。ひとみちゃん』
 ベッドの上で苦笑する俺に、ひとみちゃんはクルリと廻って、ワンピースのスカート部分がまあるく広がることまでわざわざ見せつけてくれた。
 
『涼しいわよ。いいでしょ?』
 自慢げに胸を張って、珍しく笑い返してくれた彼女は、窓から射しこむむ真夏の太陽を背に受けて、本当に眩しいくらいに綺麗だった。
 
(そう……あれは確か八月だった……)
 しっかりと思い出した途端、自分の隣を歩く小さな人のことが、たまらなく気になった。
 
(寒くないのかな?)
 日中はだいぶ暑くなってきたとはいえ、まだ六月だ。
 梅雨のせいでぐずつきがちな天気のせいもあって、夏本番のような服装で出歩くにはまだ肌寒い。
 しかも今は真夜中だ。
 俺だって家を出てくる時に、わざわざ一枚長袖を上に引っかけてきた。
 
 それなのに、まじまじと見るのは申し訳ないと思いながらも、つい目が行ってしまう彼女の細い肩には、肩紐一本しかかかっていないのだ。
 
 その華奢な白い肩から、俺は慌てて視線を逸らした。
 白い肌の所々に、まるで不似あいな黒ずんだ傷痕がいくつも残っている。
 
 思わず自分が着ていた長袖のシャツを脱いで、彼女にさし出す。
 
「いいよ」
 小さな手が俺にそれを押し返そうとしたが、構わずに細い肩に掛けた。
 
(迷惑かな?)
 思ってもみなかったほどの自分の積極性に、実は内心冷や汗ものだったのだが、彼女はそれ以上の抵抗はせず、俺のシャツをぎゅっと握りしめて、
「ありがとう」
 と小さなお礼の言葉をくれた。
 
 なんとかポーカーフェイスを気取ろうとしている俺の顔を、彼女がすぐ隣で見上げていることは、気配でわかる。
 あの黒目がちな大きな瞳が、今自分を見ているんだと思うと、額に変な汗が浮かんできそうに緊張した。
 
 ドキドキと耳の奥で鳴り響く心音に、
(静まれ、静まれ)
 息を詰めるように呼びかけていると、
「高校生だよね?」
 ふいに静かな声が俺に問いかけた。
 
 その声につられて視線を下ろすと、小さな紅い花びらのような唇が目に入る。
 女の人の化粧の仕方なんて詳しくはない俺の目にも、彼女のビッシリと長い睫毛や瞼の鮮やかな色、濡れたように光る唇なんかが、およそ『薄化粧』という言葉からほど遠いことはわかった。
 
 今まで俺の身近にいた看護師さんたちや、ひとみちゃん、同じクラスの女の子たちとはあきらかに違ういい匂いが、その人から香ってくる。
 いつまでも鼻の奥に残りそうな甘い香りに、嫌な気持ちはしなかったが、俺と彼女との間に距離を感じた。
 そしてその距離感に、自分勝手に腹を立てた。
 
(そうだよ、高校生だよ)
 ふてくされ気味に返事する代わりに、俺はその人に、
「あなたは違うでしょ?」
 と逆に問いかける。
 
 心の中で動揺すればするほど、表面上は必死に余裕の笑顔を浮かべようとする。
 残念ながら俺というのはそういう人間だ。
 
 負けず嫌いなのか。
 プライドが高いのか。
 誰にも弱みを見せたくないというのが一番真理かもしれない。
 
 そんな自分に、自分でも愛想が尽きることは多いのだが、彼女もそんな俺の応対が気に入らなかったのか、ふっと視線を逸らして真っ直ぐに前を向くと、
「私これでも大学生なんだ」
 と小さく呟いた。
 
『これでも』というのは、綺麗にメイクされた小さな顔の左頬が、可哀相なくらい腫れていることを言っているのだろうか。
 それとも身長差の関係で、ついつい上から見下ろす格好になっていた俺に、本来の序列を知らしめてくれたのか。
 どちらにしても確かなことは、彼女が俺より三歳以上は年上だということだった。
 
 だからといって、そのこと自体には、特別に思いはなくて、
「ふうん、そう」
 ちょっと素っ気ないくらいになってしまった俺の抑揚のない返事に、彼女は、
「やっぱり違った。フリーターだな、私」
 軽く頭を振りながら、訂正を入れる。
 
「ふうん、そうなんだ」
 本当に何も思うところはなくて、ただ条件反射のように返事をする俺に、その瞬間、彼女はわざわざ立ち止まって体ごと向き直った。
 
「何よ。何か文句ある?」
 あきらかに怒気を含んだ声に、驚いて見返すと、まるで俺に挑んでいるかのようにキッと大きな瞳に力をこめて、彼女は俺を睨み据えていた。
 
 さっきまでの儚げな雰囲気とはあきらかに異なるその視線に、俺は正直面食らった。
 華奢な外見と細い声などから、おとなしい人なんだろうと勝手に判断していた俺に、彼女が抗議の声を上げたように感じた。
 
 おとなしいどころか、全身傷だらになりながらも自分の中の何かを必死で守ろうとしている彼女は、ひょっとしたらかなり強い人なのかもしれない。
 せいいっぱい強がって、肩肘張ってでも、何かを守りたいという思いだったら、俺にも覚えがある。
 おそらく彼女よりは数年短いだろう俺のこれまでの人生で、何度も経験したことのある思いだ。
 
『同情なんていらない。自分で自分のせいいっぱいを私は生きている。だから誰も何も口出ししないで』
 
 彼女の大きな瞳が語った言葉じゃない言葉を、俺は勝手にそう受け取り、深く賛同した。
 そうだそうだと、支援したいような気持ちになった。
 
 だから、文句があるのかという彼女の問いに対し、
「何も」
 と答えた。
 
 夜の街をフラフラと歩く頼りなげな後ろ姿に、
(守ってやりたい)
 なんて思ってしまった俺の儚い幻想はいい意味で裏切られて、どうやら強い意志を持って生きているらしい彼女に、最上の敬意を払ったつもりだった。
 
 強い光を放っていた黒目がちの大きな瞳が、俺の返事にビクッと見開かれた。
 固く握り締められていた握りこぶしが、胸のあたりにぐっと押しつけられる。
 
 さっきからずっと視線を逸らすことのなかった大きな瞳が、途端に危うい色に揺れて、
「ゴメン、やっぱり私、大学生。また学校に行きたい」
 それだけを呟くと、彼女は深くうな垂れてしまった。
 
 彼女の胸が今どんなに痛いか、俺にはわかる気がした。
 
『また、学校に行きたい』
 実際に行ってみたら、何をそんなに憧れていたのかと笑ってしまうくらいに平凡な毎日だったけど、その平凡を手にできない日々に縛りつけられていた俺にとっては、それは小さな夢だった。
 ささやかな――けれど心からの願いだった。
 
 他の人が聞いたら笑ったのかもしれない。
 
「なんだ、そんなこと? 行けばいいじゃない?」
 と軽く受け流したのかもしれない。
 
 けれど俺にとっては、それが一ヶ月前の自分の切実な望みだったからこそ、彼女の言葉が胸に染みた。
 
 深く俯いてしまった白いうなじに、
「うん、そうだろうね」
 なるべく静かに声をかけた。
 
 懸命に何かと戦っているらしい彼女の、心を挫いたりしないように、邪魔にならないように、それだけを心がけた。
 
 しばらく俯いたまま、身動きもしなかった彼女の肩が、小刻みに震え出した。
 俺が貸してあげたシャツからまるで見えていなかった両腕が、手首まで顔を出し、細くて長い十本の指が、まるで何かを隠すかのように、彼女の顔に押し当てられる。
 
 隠しているのは感情か。
 それとも俺なんかには見せたくない表情か。
 そのままの状態で彼女は一歩、また一歩と歩きだす。
 
 俯いたままの背中を慌てて追いかけながら、のぞきこむようにして確認した彼女の指の隙間からは、透明な水滴が見えた。
(え? 泣いてるの?)
 
 ギクリとして、
「どうしたの?」
 問いかけた声は、自分でも笑ってしまうほどに裏返った。
 
 けれど彼女は笑わなかった。
 顔を覆っていた両手を放して、それが濡れていることを確認し、自分でも驚いたように俺の顔を見上げてきた。
 黒目がちな大きな瞳からは、止めどもなく涙が溢れていた。
 
 そんな彼女を目にした時の気持ちを、何と表現したらいいのだろう。
 俺のヤワな心臓よりも、もっと胸の奥の深いところに刃物で切りこまれたように、焼けつくような痛みが全身を襲った。
 
(大丈夫。これは発作なんかじゃない)
 自分に言い聞かせておかないと、かん違いした痛覚が勝手に体を動かして、その場にうずくまってしまいそうな胸の痛さだった。
 
 ひりひりと焼けるような、ギリギリと締め上げられるようなその痛みに、俺はもう少しで
(やめてくれ!)
 と叫び出しそうだった。
 
 でもそうしなかったのは、目の前で泣き続ける小さな人の、ハラハラと止まらない涙をなんとかして止めてやりたいと、そんなお節介が、自分自身の胸の痛みに勝ったからだ。
 
 さっきまでの強い瞳はどこへ行ったのか。
 本当に今すぐにでも消えてなくなってしまいそうな気配のその人を、どうにかしてこの場所に止めておきたかった。
 
(まったく……どこまで、ずうずうしいんだ?)
 自分で自分を笑いながらも、実際にはただ見守ることしかできない俺に、彼女は自分自身を抱きしめるようにしながら、視線だけ向けた。
 
 上目遣いに、俺の顔を必死に見つめながら、懸命に嗚咽を我慢していた口を、ようやく開いて呟く。
「こんなのは私の欲しかった愛じゃない」
 
 ガツンと一発、鈍器のような物で頭を殴られたような気がした。
 雷に打たれて感電したような気持ちになった。
 けれど、もう一度両手で顔を覆って歩き始めた彼女の小さな後ろ姿に、俺はすぐに、
(そうか)
 と心の中で納得する。
 
 何がわかったというのか。
 何が「そうか」なのか。
 自分でもよくわからないままなのに、ただ足だけは彼女のあとを追って動きだす。
 
 もう一度肩を並べて歩きながら、
「うん、そうだね」
 口だけはもっともらしい言葉を紡ぐ。
 
 けれど実際胸のほうは、あいかわらずキリキリと、ちょっと深刻な発作を起こしてしまった時並みに、ずっと痛み続けていた。
(一目見た瞬間に思わずタクシーを飛び降りてしまったこの気持ちが、もし彼女への恋心なんだとしたら、俺は今こんなにもあっさりと、失恋したことになるんじゃないか……?)
 虚しくなるような問いを自分に投げかけながら、俺はその人と並んで、夜の町を歩き続けた。
 
 いつの間にか泣くのを止めた彼女は、歩きながらポツリポツリと自分のことを話してくれる。
 予想したとおり、彼女には同じ大学に通う恋人がいたし、夜目にも痛々しい左頬の傷も、体中あちこちに残る傷痕もその『幸哉』とかいう男から受けた暴力の跡だった。
 
(なんなんだよ、そいつは!)
 心の中ではおおいに憤慨しながらも、口に出してはなんと言っていいのかわからない。
 
 さっきまでよりはあきらかに明るい口調で、あまり見ず知らずの人間に話すような内容じゃない話を、俺にスラスラと語ってくれる彼女の真意もわからなかった。
 
「大学に入ってすぐのコンパで知りあったんだ……気があってすぐにつきあい始めた。学部が違うから講義では全然一緒にならなかったけど、お互いが選択している講義に潜りこんだり、一緒にお昼を食べたり……あの頃は楽しかったな……」
 
 彼女の家だという二階建てのアパートの前に着いても、
「それじゃあ、さよなら」
 なんてことにはならなかった。
 ガードレールに腰かけて、話を続けていられるのは嬉しかったが、『彼女の恋人』の話を聞いているのは、正直あまり心穏やかじゃなかった。
 
「でも……あんまり私のこと、信用してくれなくてね。ちょっと男の子と話したぐらいで焼きもち焼くんだ。最初はそれも嬉しかったけど、あんまり度が過ぎて、ちょっと怖くなった……」
 その内容が、彼女の声を震えさせるような内容になってくれば、なおさらだ。
 
 俺の目には、彼女の華奢な体に残る無数の傷痕や、腫れた左頬なんかが、痛いくらいに焼きついている。
 もう一度見直して確認なんてする必要もないくらいに、残ってしまっている。
 
 辛そうな声を聞きながらも、真っ直ぐに前を向いて、なんでもないフリを通そうと努力してみたが、その実、
(ちくしょう! その男、俺がぶん殴ってやろうか!)
 ぐらいの怒りは、心の中で渦巻いていた。
 
 もちろん俺の十六年の人生の中で、この拳で誰かと戦ったことなど、ただの一度もないのだけれど――。
 
「部屋からも出してもらえなくなって、大学には行けなくなって、でも生活のためのバイトだけは許してくれたから、そのうちバイトが私の全てになっちゃった」
 ちょっと笑いながら寂しそうに彼女が呟いた言葉で、俺の中で何かが切れた。
 
 それじゃあ、「また学校に行きたい」と泣き出すほどの彼女の思いを、踏みにじっているのはその男なんだろうか。
 辛そうな顔をしながらも、懸命に自分を保とうと努力している彼女を、守るどころか傷つけているその男が、彼女を守る立場であるはずの『恋人』なんだろうか。
 
(そんな奴、別れちゃいなよ)
 思わず口に出してしまいそうになって、遠くを見つめる横顔に目が止まった。
 その瞬間、言葉は俺の喉の奥でスーッと消えた。
 
 古いアパートの二階の右端だという彼女の部屋を見上げて、俺たちは道路の反対側のガードレールに腰かけている。
 
 今夜初めて会ったばかりにしてはかなり近い距離で、寄り添うように肩を寄せあっていたが、彼女の瞳は決して隣にいる俺を見ているわけではなかった。
 切なそうに瞬きながらも、夜空を見上げて、初めからずっと遠い誰かを見つめていたのだ。
 そのことに気がついた瞬間、俺のヤワな心臓は、あらためてまたチクリと痛んだ。
 
(俺は全然関係ない……今この瞬間も、この人が想っているのは違う男だ……)
 そう自覚するのが苦しくてたまらない。
 
 顔を歪めるようにして、無理に小さな笑顔を作る彼女の横顔は、哀しいくらいに綺麗だった。
 けれど俺にはわかる気がした。
 こんな苦笑じゃなくて、心からの笑顔だったら、この人はもっと綺麗なはずだ。
 そう……そうに違いない。
 だから――
 
(彼女が本当に優しくして欲しい相手ではないかもしれないけど、俺にだって彼女を笑顔にすることはできないか?)
 と頭を捻る。
(俺には時間がない。こんなポンコツの心臓を抱えたままじゃ、きっと何をやったって、人並みにやり抜く力だってない)
 いつだって心の奥に隠し続けてきた卑屈な思いは、もっと奥に押しこんで、懸命に考えた。
 全身全霊で考えた。
 それなのに――
 
「俺とピクニックに行かない?」
 
 上手く考えがまとまる前に、またしても俺の口は勝手に動きだす。
 自分で言ったセリフのあまりの間抜けさに、
(なんだよそれ!)
 と自分自身でつっこみたくなった。
 
 幼稚園の頃、少し長めの入院が続いていた俺に、母さんが絵本を買ってきてくれたことがある。
『――のピクニック』という題名のその本は、森の中でいろんな動物たちが食べ物を持ち寄ってピクニックをするという話だった。
 カラフルな敷物を敷いて、それぞれが持ってきたお弁当を並べて、みんなで仲良くご飯を食べるというだけのその絵本が、俺は大好きで、何度もせがんでは母さんに読んでもらった。
 
『いいなーピクニック。ぼくもいきたいなーピクニック』
 無邪気にくり返す俺に、ニッコリと笑って、母さんは約束してくれた。
「じゃあ、今度海里が退院したらみんなで行こうか、ピクニック」
「うんっ!」
 さし出された母さんの小指に、俺は大喜びで自分の小指を絡めた。
「ピクニックに行くためにも、今はがんばろうね」
「うんっ!」
 母さんの励ましに、笑顔で何度も頷いた。
 
 しかしその約束が果たされることはなかった。
 その三日後に母さんは自宅で倒れ、あっという間に、俺より先に遠いところへ逝ってしまった。
 
 約束が果たされなかったことより、母さんが亡くなってしまったことのほうが悲しくて、今の今まで『ピクニック』の約束のことは忘れていた。
 でもこんな大事な場面で、思わず口をついて出てきたところをみると、どうやら内心諦めきれていなかったらしい。
 
(俺って案外しつこいな……)
 苦笑するしかない。
(あーあ。この年になって『ピクニック』って……しかもいきなり! ……誰だって引くよなあ……)
 そう思って見つめた隣の人は、確かに驚きに目を見開いていた。
 
「ピクニックって……」
 大きな瞳を更に大きくしたびっくり顔は、さっきまでの哀しそうな顔よりは、よほど安心できる表情だった。
 パチパチと何度も瞬きしながら、懸命に俺の言葉の意味を理解しようとしてくれている顔は、なんだかひどく俺を満足させた。
 
 辛いことや悲しいことを胸いっぱいに抱えて、心から血を流し続けているように見えた彼女が、ほんの少し間だけでもその痛みを忘れることができるんだったら、俺なんかいくら笑われたってかまわない。
 本気でそう思った。
 
 思うとすぐに、調子に乗ってしまう。
 それが俺の良いところであり、悪いところだ。
 
「そう、ピクニック。お弁当持ってどこかに行くのって、そう言わなかったっけ?」
 満面の笑みで問いかけると、それにつられたように、彼女の小さな顔もついにクシャッと笑顔になる。
 
「キミってお坊ちゃま? それとも、見た目よりもっと若いの?」
 どんな言葉を投げかけられたって、その表情を見られるんなら、それでいいと思った。
 
「行ってみたかったんだよな、ピクニック。お弁当持って、どこかに。ねえ、俺と行かない?」
 しつこいようだが、俺自身本気で言っていたわけではない。
 ただ、辛い人生を歩んでいるらしい彼女が、このひと時だけ心から笑うことができるなら、そしてその顔を、ほんの少しの間だけでも隣で見ていられるのなら、俺はそれでじゅうぶん幸せだった。
 
 それなのに、ちょっと考えるようなそぶりをした後、彼女はまた夢としか思えない返事を俺にくれた。
「じゃあ、行こうか。一緒にピクニック」
 首を傾げるようにして俺の顔をのぞきこみ、目があった瞬間に、ニッコリと微笑む。
 予想もしていなかったその反応に、自分の顔の筋肉がどんどん緩んで、締まりもなにもあったもんじゃない笑顔になっていくのがわかった。
 
 止めようったって止まるもんじゃない。
 一目見ただけで自分の気持ちを抑えきれなくて、思わず声をかけてしまったぐらいの相手が、こんなに近くにいて、こんなに魅力的な笑顔で、自分のことを見つめてくれる状況に置かれたら、誰だって俺と同じようになるに違いない。
 
(えええっ? 本当に? 本当に?)
 しつこいくらいに確認する代わりに、俺は何度も彼女に頷いてみせた。
 頷くたび、どんどん頬が緩んでいく俺につられるように、彼女の小さな口もどんどん大きく開いていく。
 しまいには、俺に負けないくらいの大きな口を開いて、真っ直ぐに俺を見て笑ってくれた。
 
 そのことが嬉しかった。
 ただその笑顔が、本当に心から嬉しかった。
 中学時代の俺は、どちらかといえばモテないほうではなかったと思う。
 人づてに聞いたり、面と向かって告白されたこともある。
 それら全てが嬉しくなかったといったら嘘になるかもしれない。
 でもそんな時、決まって真っ先に頭に浮かぶのは、いつも、
(困ったな)
 という思いだった。
 
 そんな自分が本当に嫌だった。
 
 相手の子に俺の病気を説明することや、同情されること。
 病気と向きあう気持ちを勝手に想像されること。
 それらをとても煩わしく感じた時期もあって、ずいぶん思いやりを欠いた対応もした。
 ひとみちゃんと俺の仲を誤解している子なんかには、わざとその誤解を解かないままにしておいたこともある。
 
 でも、それがどんなに失礼な態度だったとしても、その時は相手を傷つけたとしても、俺の先の見えている人生につきあわせるよりは、いいだろうと思ったのだ。
(どんなに『好きだ』って言われたって――俺自身がそう思ったって――それは結局終わってしまう。だって俺はそのうちいなくなるんだから。それは決して変わらない事実なんだから。だったら最初っから何も始まらないほうがいい……もし万が一、相手の子がずっと俺を忘れずにいてくれたとしても……それはその子にとっては不幸でしかない……)
 
 誰も不幸にしたくなかった。
 自分自身も未練なんて持ちたくなかった。
 
 だから俺は恋愛ごとには、あえて意識的に背中を向けて生きてきた。
 夜の町にフラッと遊びに出れば、その日短い時間だけ一緒に遊ぶ相手は、いくらだって見つかったし、そうでなくても別に困らなかった。
 
 本気の恋なんてする気もなかったし、自分がそんなものをすることなんて想像もつかなかった。
 なのに―。

「じゃあ、明日迎えにくるよ」
 彼女と約束して、アパートの前から歩き出した瞬間から、どうにも足が地に着かないのだ。
 見送ってくれる視線を痛いくらいに背中に感じながら、どうにか夜の街に一歩を踏み出したけれど、どこをどうやって家に帰り着いたのかも、覚えがなかった。
 たぶん標識を頼りに地道に大通りを歩いて、なんとか家まで帰って来たんだろうけど、まるで覚えていない。
 
 寒くもなく暑くもない真夜中の街を、無重力状態のようにフラフラと歩きながら、俺の頭の中では、長い髪や白い小さな横顔や、黒目がちの大きな目なんかが、くり返し思い出された。
 永遠のように彼女の面影だけがまわり続けていた。



「まったくどこ行ってたんだよー海里ー」
 予想どおり、兄貴はとっくに家に帰っていて、フラフラと玄関に入ってきた俺を、大袈裟なくらいに抱きしめて出迎えてくれた。
「やめろよ、気持ち悪い!」
 と、いつもの俺だったら力任せに腕をふり払うところで、兄貴ももちろんそんな反応を期待していたんだと思う。
 
 だけど、
「ああ、うん。ちょっと買いのもの」
 そう言って、右手に下げていたビニール袋をさし出した自分に、兄貴だけじゃなくて俺自身もビックリした。
 
(いつの間に買ったんだ、これ?)
 まったく覚えがない。
 
「なんだー、お兄ちゃんのためにわざわざ晩飯買ってきてくれたのかー!」
 感動して目頭を押さえるフリをしながら、兄貴がテーブルの上に並べたその袋の中身は、コンビニの弁当だった。
 
 ご丁寧に、俺の好物と兄貴の好物が揃っているところを見ると、確かに俺自身が買ってきたのにまちがいない。
(全然覚えてないぞ……)
 そんな自分に少し冷や汗を感じながら、俺は兄貴と一緒に、あまりにも遅い夕食のテーブルについた。
 リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計の針は、とっくに十二時をまわっている。
 
(約束した『明日』に、もうなっちゃってるじゃないか……)
 そう思っただけで、キリッと胸が痛んだ。
 彼女の長い髪から香った甘い香りが、不意に鼻の奥に甦る。
 思わず左胸を押さえて俯いた俺に、
「どうした? 大丈夫か?」
 すぐさま兄貴は問いかけた。
 
「大丈夫だよ。なんでもないよ……」
 短く淡々と返す俺を、兄貴は黙ったまま静かに見つめている。
 
 ほどよく甘やかしてくれ、ほどよく自由も与えてくれる。
 決して押しつけがましくはなく、だからといって必要な注意は怠らない。
 
 兄貴の俺に対する態度はいつも百点満点だ。
 五歳という年の差以上に、俺と兄貴との間には大きな差があるような気がしてならない。
 
 もし俺に病気というハンデがなかったとしたら、この差が縮まっていただろうか。
 はっきりいって自信がない。
 兄貴がもし自他共に認める重度のブラコンでなかったなら、俺はとっくにひねくれていたに違いないだろう。
 
「じゃあ……晩飯、食おうか?」
 しばらく間を置いてから、ニッコリと仕切り直す兄貴に、俺は素直に頷いた。
「うん」
「いただきまーす」
 陽気な声につられて、
「いただきます」
 思わず俺まで小さく笑ってしまう。
 
 どんな時でも、すぐ側で優しく見守ってくれている人がいるから、俺はこんな運命の中でだって笑って生きていられる。
(感謝を忘れちゃいけない……)
 今夜も再確認せずにはいられなかった。
 

 夜というよりは明け方のほうが近いような時間になって、俺はようやく自分のベッドに入ったが、眠れる気はしなかった。
(約束したんだから、早めに寝ないと)
 思いがけなくできてしまった明日の予定を気にして、眠りの世界に入ろうと努力するのだが、なかなかうまくいかない。
 
 どんなにごまかそうとしても、意識の奥に、もっと重苦しい感情を押しこんでいたことを、否応なく思い出した。
 しばらくの間――そう、彼女と出会ってからほんのしばらくの間は忘れていたが、こうして自分の部屋に帰って、ハンガーにかけられた制服を目にした途端に、俺の心はまた鉛のようにどっしりと沈みこんだ。
 
 父さんの書斎にあった石井先生の手紙が、意識の底にひっかかっている。
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
 数々の言葉は打ち消そうとしても、あとからあとから頭に浮かんでくる。
 
(ちきしょう……!)
 薄い肌布団を頭までスッポリと被って、体を丸めた。
 自分で自分の体を抱きしめるようにして膝に額をつけた。
(俺にはもう本当に時間がない……!)
 あらかじめ知ることができのは幸運だった――なんてのは、ただの詭弁だ。
 救いようのない自分の気持ちをごまかしているだけだ。
 
 だけどそうでもしないと、頭がおかしくなってしまいそうなのも本当だった。
 なんだかよくわからない感情に、自分の何もかもが押しつぶされてしまいそうだった。
 
 窓の外は数時間前よりはあきらかに静かになっており、机の上に置かれた目覚し時計のカチコチという音だけが、部屋中にやけに大きく響く。
 その音が何かを急き立てているように感じる。
 刻一刻と近づいてくる、終わりの瞬間の足音のように聞こえる。
(ま、待って! ……まだちょっと待ってくれ!)
 
 我知らず左胸をぎゅっと押さえて心の中で叫んだ瞬間、固く閉じた瞼の裏に、思いがけず彼女の笑顔が浮かんだ。
 
『じゃあ行こうか……一緒にピクニック』
 俺のバカバカしい提案に、笑って頷いてくれた顔が浮かんだ。
 
 突発的な発作に良く似た、けれどあきらかに違う痛みが、俺のヤワな心臓を襲う。
 泣きたいくらいの気持ちで、俺はひとり苦笑した。
 
(あーあ。なんにも未練なんかないつもりだったのになぁ……)
 絶望と希望が、喜びと悲しみが、絶妙に入り混じった感情の中、ただ儚げな笑顔だけが頭に浮かぶ。
 
(俺って本当に馬鹿だなぁ……)
 カチコチと時計の音が無機質に時を刻む。
 その音はもはや、単なる時計の音にしか聞こえなかった。
 
 自分の感情を自覚したことによって、胸につかえていたものがほんの少し取れた気がした。
 ようやくウトウトと、まどろみの気配が訪れ始める。
 俺はホッと息を吐きながら、もう一度彼女の面影を瞼の裏に思い浮かべ、優しい――この上なく優しい気持ちで眠りについた。


 
 この夜彼女と出会えたことは、俺にとっては本当に奇跡みたいな幸運で、あとになって何度思い出してみても、悔やむことではなく、ただ神に感謝せずにはいられなかった。
 
 一番どん底の気持ちの夜に、今までに持ったことのなかった感情をもたらしてくれた人。
 
 俺は彼女との出会いで救われたように感じたし、事実、あの夜から俺の人生は百八十度、方向を変えた。
 それを辛い現実からの逃避だったとは思いたくない。
 俺のどうしようもない悪あがきだったとも――。
 
 未来に希望を持つことを無駄だとしか思えない俺には、とうてい叶えられそうにはない遠い『将来の約束』なんかじゃなく、彼女と交わした、いたって現実的な『明日の約束』が嬉しかった。
 
『じゃあ、明日迎えに来るよ』
 小さな約束に、見惚れるほどの笑顔で頷いてくれた人に、どうしようもなく惹かれていた。
 
 その感情をもっと正確な言葉で言い表すことも、彼女に伝えることも、俺にはできない。
 限られた短い人生の中では、きっとやってはいけないことだと思っている。
 
 けれど生涯でたった一つ忘れられない大切な残像のように、彼女の笑顔は俺の心に焼きついていた。
 たまらなく焼きついていた。
「だから……今日はちょっと用があるから、学校休むんだよ……」
「寝坊したからって、ズル休みするんじゃないでしょうね?」
 電話の向こうの声はすこぶる機嫌が悪い。

「違うって」
「じゃあ用ってなんなのよ……病院?」
「いや、そうじゃないんだけど……」
 のらりくらりとはぐらかすことで、学校欠席の理由をなんとかごまかそうとしている俺を、お目つけ役のひとみちゃんはやっぱり見逃してくれないらしい。
 
「いいご身分ね……やっと通えるようになったと思ったら、もうサボるわけ?」
「サボるって……」
「違うの?」
「いや……違わない」
 
 受話器を押しつけている左耳に、はあっと大きなひとみちゃんのため息が聞こえた。
 
「いいわよ。『一生君は病院です』とでも言い訳してあげる。だからせめて行き先ぐらいは教えて」
「本当にたいしたことじゃないんだ。ひとみちゃんが学校から帰るよりは絶対に早く帰ってくるし」
「つまり、言いたくないってわけね」
「はい……」
「だったら、最初っからそう言いなさいよ! 私が遅刻しちゃうでしょ!」
 
 ブツンと、俺の返事も聞かずに電話は切られた。
 と虚しい音を立てている受話器を親機のスタンドに戻して、俺は電話に向かって頭を下げる。
 
(ひとみちゃんゴメン)
 ここでいくら謝ってみても、彼女に見えるわけではないし、伝わるわけでもないのだけど、そうせずにはいられなかった。
 
 リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計が指しているのは、七時三十分。
 
 兄貴が片道一時間半もかかる大学に自宅から通学してくれているおかげで、俺はいつもこれぐらいの時間から、家に一人きりになる。
 
『今日こそ、今日こそ早く帰ってくるからな』
 
 十六歳の弟をしっかと抱きしめて出かけていった兄貴を玄関で見送ってから、俺はさっき着替えたばかりの高校の制服を、もう一度私服に着替え直した。
 それから、いつものように自分の家で俺を待っているであろうひとみちゃんに、学校を休む旨の電話をかけたのだった。
 
『学校サボって、出かけます』
 なんてとても言えないから、いろいろと言い訳も考えていたのに、いざひとみちゃんの声を聞いたらそれらは全て吹き飛んでしまった。
 
 上手に嘘をついてひとみちゃんを騙すなんて、しょせん俺にできる芸当ではない。
 だからといって本当のことは話さずに、それでいて嘘はないように、曲がったのこと大嫌いなひとみちゃんを納得させるなんて、なおさら難しい。
 
 さんざん言いよどんで、口ごもる俺に、とうとう痺れを切らして、彼女のほうから問いただしてくれた。
 
『言いたいことがあるんだったら、ハッキリと言いなさいよ! どうせ海里のことだから、言いにくいのをどうやってごまかそうかって、ああでもないこうでもないって、考えてるんでしょ!』
 
 日頃世話をかけてばかりのひとみちゃんに、嘘をつくことがかなりネックになっていた俺は、今日もやっぱり彼女に助けられた。
 
(ゴメン、ひとみちゃん)
 もう一度、今度は彼女の家の方角に向かって頭を下げてから、俺はいよいよ出かける準備を始めた。
 
(本当に待っててくれるのかな?)
 半信半疑のドキドキを抱えて。
 
 昨夜彼女と別れた場所は、俺の家からだと歩いて一時間ぐらいの距離だった。
 
 いくら心ここにあらずの状態だったとは言え、それだけの距離を自分が歩き通したという事実に、俺は少なからず感動している。
 
 体育の授業はいつも見学。
 遠足は俺だけ先生の車に乗せてもらって目的地でみんなと合流。
 仕方がないことだとわかってはいても、他のみんなと同じように行動できないことは、子供心にも寂しかったし、やっぱり悔しかった。
 
 俺の体調を気遣っていろいろと手を貸してくれる周りの人たちには、いつも感謝の気持ちいっぱいだったが、一度そんな人たちの目のないところで、限界までがんばってみたい気持ちがあったのも、嘘ではない。
 
 思いがけずそれを実行する機会とめぐりあって、結果、いろんな人たちを心配させずに済んだことは、まったくもってラッキーだった。
 そのおかげで今日もこうしてこっそりと、徒歩一時間の彼女のアパートまでの距離を、自分の足で歩くことができる。
 
 タクシーを捕まえてアパートの前の道路まで乗りつける行為が、どうしても嫌だったわけではないし、ひとみちゃんの言葉を借りるならば、それはまさに『楽チン』この上ないのだが、今日はなんだか自分の足で歩いて行きたかった。
 
(どうしよう? あんな約束したはいいけど……本当に来てくれるのか?)
 たまらなくドキドキして、不安で、実は回れ右して帰ったほうがいいんじゃないかと何度も心配をくり返す俺には、車で数分の時間じゃ、どうしたって心の準備が間にあわない。
 
 昨日真っ暗な中を無意識に歩いた道を、今日は足に力をこめて意識的にたどってみる。
 特にまちがうような分岐路もなく、難なくたどり着けたその一時間の道程を、それからしばらくの間、自分が毎日歩くようになるとは、この時はまだ思いもしなかった。
 
 彼女が住んでいる二階建てのアパートは、俺の通う高校とは真逆の方角にあるし、学校では今の時間はおそらく、一時間目がとっくに始まっている頃だ。
 
 高校にようやく通いだしてまだ一ヶ月足らずの俺じゃ、知っている奴にバッタリ出会う可能性なんてほぼ0パーセントなのに、今日は念には念をいれて、帽子を被ってきた。
 
 つばが大きめの赤いキャップを、目の上まで引き下ろして、改めてガードレールに寄りかかる。
 
 黙々と地面を見つめながら一時間の距離を歩いている間は、正直、
(ひょっとしたら昨夜のことは全部夢で、彼女は現実には存在しないんじゃないか?)
 なんて思ったりもした。
 
 だけど、彼女と並んで座って長い時間話しこんだこの場所に、実際こうしてたどり着いた。
 どうやら夢ではなかったようだ。
 
 そう自覚した瞬間、俺の脈拍は一気に急上昇した。
(どうしよう? どうする?)
 
 嬉しいような、焦るような、複雑な気持ちが交錯する。
 ドキドキとヤバイくらいに心臓が鳴りだす。
(くそっ……静まれ……)
 
 俺がなんの答えも見つけられず、自分の弱点と戦っているうちに、古い鉄製の外階段をカンカンカンと鳴らして、小さな人影がアパートの二階から下りてきた。
 
 初夏の暖かい朝日に縁取られて淡い色に輝く長い髪を、フワリと揺らして俺のほうに視線を上げたその人に、なんと声をかけたらいいのかなんて、わかるはずがない。
 
 しかし焦っていたのは俺の頭だけだったようで、俺の顔はその時にはもう勝手に笑顔を作っていたし、右手は彼女に向かってヒラヒラと手を振っていた。
 
「本当に来てくれるとは思わなかった」
 簡単に動き出す口と、ガードレールから降りて彼女に向かって歩きだす両足に至っては、もう本当に自分の体の一部だとはとうてい思えない。
 
 右手に下げていた重そうな荷物を両手に持ち直しながら、俺に向かって歩み寄る彼女は、
「こっちこそ」
 と負けじと言い返す。
 
 その子供みたいな負けん気と、笑顔含みに輝いた黒目がちの大きな瞳が、たまらないくらい魅力的で、俺は目を細めて彼女の顔を見つめた。
 
「だって約束したでしょ」
 その約束が現実のものだったのか危ぶんでいたさっきまでの不安なんて、もう微塵もだなくどこかに吹き飛んでいた。
 
 彼女が本当に来てくれた。
 それ以上の証明なんてあるだろうか。
 これ以上の喜びなんて想像もつかない。
 
「そうだよね」
 昨夜とはまるで別人のように、フワリと簡単に笑顔を見せてくれる彼女に、俺はどうしようもないくらいの嬉しさを持て余していた。
 
「うん」
 どんな言葉にだって即座に反応して、返事をせずにいられないくらい、俺の全身全霊がその人に向かってた。
 
 まるで昨夜の涙が嘘のように、辛いことなんてなんにもないような笑顔で、
「どこに行こうか? どこに行きたい?」
 なんて尋ねられると、
 
(どこへでも、あなたの好きなところに)
 と、よくあるキザなセリフしか頭に浮かばない。
 
(そんなセリフ、恥ずかしくって言えるわけないだろう……)
 天まで舞い上がっていた気持ちが、ようやく本来の位置にまで降りてきてくれて、思考と体の動きとが一致してきた自分を実感する。
 
 恥ずかしくって、面と向かいあうことさえドキドキだった彼女の顔も、ようやく正視できるようになった。
 そうして初めて、彼女が大事そうに胸に抱えているバッグに目が止まる。
  
 手作りっぽい丈夫そうな布地のそのバッグには、片すみに黒いマジックペンで、
『一年一組 白川真実』
 と書かれていた。
 
 思わず心の中でクスリと笑みをもらす。
(可愛い!)
 
 長袖のチェックのシャツに、デニムのスカート姿の彼女は、実際昨夜よりずっと幼く見えた。
 俺の肩までしかない身長を考慮に入れると、失礼を承知で言うならば、俺より年下に見えるかもしれない。
 
 そう思い至った途端どうだろう。
 心に羽でも生えたかのように、俺はすこぶるいい気分になってしまった。
 
 俺より確かに年上のはずのその人をからかうように、
「真実さんは? どこに行きたい?」
 と問いかけてしまう。
 
 予想どおり、彼女は大きな目を、さらに真ん丸にした。
「どうして私の名前……?」
 
 俺は必死に笑いをかみ殺して、せいいっぱい真面目な顔を作って、黙ったまま彼女が胸に抱えるバッグを指差す。
 
 そのバッグに書かれていた自分の名前を確認した途端、彼女の白い顔は細い首筋まで真っ赤になった。
「こ、これは、違うのよ。いや、違わないんだけど、他にお弁当箱が入りそうな手頃なのがなくて!」
 
 慌てて言い訳を始める様子に、笑いをこらえているのが我慢できなくなる。
 自分でもどうしようもないくらいの思いが、湧き上がってくる。
 
(可愛い、すっげえ可愛いよ!)
 叫び出したいくらいの気持ちを、俺は笑うという行動にすり替えた。
 
 お腹を抱えて、「ハハハハ」と笑いながら、
(こんなに笑ったことが、今までにあっただろうか?)
 なんて考えた。
 
 答えはもちろんノーだ。
 だって今までは彼女がいなかったんだから。
 まだ出会えていなかったんだから。
 
 あんまり笑いすぎて彼女の機嫌を損ねてしまわないように、
「ゴメン」
 涙を拭き拭き謝ったけれど、心は今までにないくらい幸せに満たされていた。
 小さくむくれている彼女には悪いけど、これ以上はないくらい俺はハッピーだった。
 
 だけどその幸せな気持ちは、心の奥底に闇を閉じこめたようないつもの感情へと、すぐに引き戻される。
 
「じゃあ、あなたの名前は?」
 当たり前と言えば当たり前なのだが、彼女がそう問い返してこきた瞬間、俺の心は冷水を浴びせられたかのようにスーッと冷たくなった。
 
 ほんのついさっきまでの楽しい気分など、跡形もなくどこかへ消し飛んでしまった。
 
 昨夜彼女と出会って、どうしようもなく惹かれる自分を自覚してから、俺には決意したことがあった。
 
 彼女に自分のことは教えない。
 年齢だとか、どこに住んでいるのだとかも、一切話さない。
 
 俺と彼女が夕べ出会ったのは、まったくの偶然だ。
 今日こうして二人で出かけることになったのだって本当に偶然。
 でもそんな偶然がこれ以上続くとしたら、それはもう偶然という言葉では片づけることができない。
 
 何も望まずに、何にも未練を残さずに死んでいくことだけをずっと目標に生きてきた俺には、やっぱり特別な何かや誰かを望む気持ちなんて必要なかったし、そんなものを望む権利が、自分にはないと思っていた。
 
(俺が今、彼女に抱いているこの感情が、もし恋心だったとしても……これ以上は踏みこまない)
 
 こんなふうに彼女と一緒に行動するのは今日だけにしようと、昨夜なかなか寝こつけないベッドの上で、俺は勝手に決意を固めていた。
 
(それだったら、名前も何も、いっそのこと告げないほうがいい……)
 それはけじめというよりは、自分自身に対する戒めの意味が強かった。
 
(名前も言おうとしない俺を不審に思って、彼女がさっさと背を向けたとしたら、それはそれで……かえってそのほうがいいんじゃないか……?)
 自分のほうから一歩引くような、妙に割り切った考え方は俺の本来の持ち味のはずなのに、今日はなぜかそう考えるだけで胸が痛かった。
 
 痛む胸を無理にごまかそうとして俺はスッと背筋を伸ばし、前髪をかき上げる。
 俺の返事をじっと待ってくれている彼女に、せいいっぱい笑顔を作って、
「真実さんの好きに呼んでかまわないよ」
 と告げた。
 
 一瞬、確かに彼女は大きな黒目がちの瞳を少しだけ見開いたのに、次の瞬間にはもう、
「それじゃあ」
 と、考えこむ様子を見せる。
 
 強がってたわりには、ここで「サヨナラ」なんてことにならずに、俺は心の底から安堵した。
 
 のんびりと思考をめぐらしているらしい彼女を見ていると、泣きたいくらいの感謝の気持ちが湧いてくる。
(この人はどうして……俺が仕掛ける罠をこんなにも自然体ですり抜けていってしまうんだろう? ……俺にさっさと背を向けてもかまわない理由なんて、それこそ数え切れないくらいあるのに……どうしてそうしないんだろう?)
 
 こうして一緒にいてくれることは、本当に嬉しい。
 だが、どうにも納得できない自分がいる。
 
 何かに化かされているかのような不思議な気持ちで、彼女を見つめ、ただ立ち尽くすしかない俺に、まったく頓着せず、真実さんは懸命に首を捻っている。
 どうやら俺の出した面倒な問題にも、真剣に答えを考えてくれているのらしい。
 
 そんな姿が、またどうしようもなく可愛く見えて、自分の感情を持て余していると、
「海(うみ)君って呼んでいいかな?ちなみに私が行きたいところも海なんだけど……」
 上目遣いに俺を見上げて、彼女が小さく笑った。
 
 その言葉に、息が止まった。
 
 俺は『一生海里(ひとうみかいり)』なんて珍しい名前のせいで、初めて会った相手に名前を読みまちがえられることは、しょっ中だった。
 
 今みたいに詐欺まがいのクイズを出しても、かすりもしない答えを返されるのは、むしろ当たり前。
 
 名前をつけてくれた母さんは、小さな港町の生まれで、大好きな故郷への思いをこめて俺に『海里』と名づけたのらしいが、それを特別に嬉しく思ったことは、別にこれまでない。
 けれど――
 
「どうしたの?」
 かなり驚いている俺に、かえってビックリしたように問いかけてくる彼女は、今までで一番ニアミスな答えをくれた。
 ドキドキと今までとは違った意味で、俺のヤワな心臓が鳴りだす。
 
「絶対無理だと思ったのに……スゴイな……けっこういいせん行ってる……!」
 ようやくそれだけを答えた頃には、俺の頬は自分でもしっかりと自覚できるほどに緩んでいた。
 
 ――今までで一番正解に近い答えをくれたのが、俺をこんなにドキドキさせる、目の前の人――
 
 そのことがとんでもなく嬉しくて、もう笑わずにいられない。
 
 小首を傾げて俺の顔を見上げている真実さんの手から、大きなバッグを取り上げる。
「荷物、持つよ」
 
 これ以上見つめられることに耐えきれず、先に歩きだした俺の後ろを、彼女が小走りについてきた。
 
 横に並んで歩きながら、やっぱり俺を見上げる瞳にドキドキして、
「何?」
 と尋ねると、
「ううん、何でもない」
 と柔らかな声が返ってくる。
 
 嬉しくてドキドキして、そんな自分の心臓の音は、世界中に響き渡っているようだと思った。
 俺の命を脅かす発作なんて問題にならないくらい、もう真剣にヤバイと思った。
「海に行きたい」
 という真実さんの意見に従って、俺は彼女を一番近い駅まで歩いて連れていった。
 
「俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車しかないんで……」
 冗談交じりで言った言葉に、彼女は屈託なく笑って、
「やっぱり高校生なんでしょ?」
 と、好奇心いっぱいの表情で俺の顔を見上げる。
 
 もちろんイエスもノーも答えるつもりはないから、俺は笑ってごまかして、まともな返事をしない。
 
 本当ならそこで愛想をつかして、もしくは腹を立てて、この場からいなくなってしまってもおかしくないのに、彼女は決してそうはせず、笑顔のまま俺の身勝手を許してしまう。
(なんでなんだろう?)
 俺にはそれがかなり疑問だったし、大きな謎だった。
 


 駅の構内に掲げられた沿線図と次の発車予定を見比べて、なるべく早く海へ着くには、どちらの方角に行ったらいいのかを考える。
 その結果、今丁度ホームに停車している普通列車に乗って、南へと向かうのが一番いいと、俺は判断した。
 
(ちょっと急がないとまにあわないかな……)
 さっさと二人ぶんの切符を買って、まだ沿線図の前でウロウロしている真実さんをふり返る。
 
「真実さん、こっち」
 呼びかけるとパッと笑顔になって、素直に俺に向かって走ってくる一生懸命な姿に、ふと昔飼っていた仔犬のことを思い出した。
 俺の後ろをいつも追いかけていた、コロコロとした茶色い雑種の犬。
 
 どちらかといえば痩せ過すぎに近いような真実さんと、丸々と太っていた仔犬とじゃ体型はあまりに違いすぎるが、黒目がちの大きな瞳は、よく見ると似ていると言えなくもない。
 
 一人でふき出しそうになったのを必死にこらえながら、俺は急いで改札に一番近い電車のドアに飛びこんだ。
 目についた空席をすぐに確保してから、ふり返って真実さんを手招く。
 
「どうぞ」
 彼女が俺の隣に腰を下ろした瞬間、ジリリリリリリと発車のベルがホームに鳴り響き、俺はようやく一息つくことができた。
 
(よかった……まにあった……)
 乗り遅れて、次の電車が来るまで待つなんてことにならずに、本当に良かった。
(せっかく一緒にいるんだから、時間は有意義に使わないとな……)
 彼女のために、自分のために、懸命にがんばる自分の姿はとっても滑稽で、今までにはない新鮮なものだった。
 今まで知らなかった、愛しい姿だった。
 


 ガタタンゴトトンとリズムよく響く線路の音に耳を傾けながら、窓際の席で、俺は飛び去っていく外の景色をただ眺めていた。
 オフィス街を抜け、住宅街を抜け、景色はいつの間にかのどかな田園地帯へと変わろうとしている。
 
 電車に乗ってからかなりの時間が過ぎたが、俺はいつまでも、隣の真実さんに上手く話しかけるタイミングをつかめないでいた。
 あまりにも近過ぎるからだろうか。
 それとも隣に座ってるせいで、表情がよく見えないからだろうか。
 
(ちぇっ。こんなことなら向かいあって座ればよかった……)
 心の中で舌打ちした瞬間、列車がトンネルに突入し、見えなくなってしまった窓の外の風景と入れ替わりに、まるで鏡に映っているかのように、車内の様子が俺の目の前に映し出された。
 
 隣に座る真実さんの姿に、ドキリと心臓が跳ねた。
 
 彼女は深く俯いていた。
 長い髪で顔の表情はほとんど見えなかったが、背景の暗さと相まって、昨夜俺が見つけたばかりの時の、今にもいなくなってしまいそうなあの雰囲気を、また全身から醸し出していた。
 
 ほんのさっきまで、あんなに明るい笑顔で俺に笑いかけてくれていた人と、とても同一人物には見えない。
 
(どうしたの?)
 尋ねることはできない。
 古い布製の座席のシートを、指先が真っ白になるくらいギュッと力をこめて握りこしめている――それが彼女の答えだと思うから。
 
(誰のことを……何のことを考えているの?)
 心の中だけで呟いた質問に、自分自身が傷ついた。
 
 みっともない一人相撲が悔しくて、腹立たしくて、俺は被っていたキャップを取る。
 
 列車がサアッとトンネルを抜けると同時に、眩しいくらいの明るさで窓いっぱいに広がった景色に目を細めながら、俺は隣で俯く真美さんの頭に、乱暴にそのキャップを被せた。
 
「何?」
 当然ながら驚いて顔を上げた彼女に、
「貸してあげる」
 とだけ言って、目は窓から動かさなかった。
 
 いきなりの突飛な行動なんだから、真実さんは怒ったっていいんだ。
「なんで? どうして?」って、しつこくわけを尋ねたっていいんだ。
 
 だけどその頃にはもう、彼女がそうはしないだろうことは、俺にはわかっていた。
 
「ありがとう」
 この上なく優しい調子で返ってきた言葉に、不覚にも涙が浮かびそうになった。
 
 そんな様子を彼女に悟られるのは絶対に嫌だったので、俺は不自然なくらいに窓の外を見つめ続ける。
 けれど内心では、彼女が与えてくれる無条件の優しさに、深い深い感謝の気持ちを感じていた。
 
 俺がどんなに身勝手な行動をしても、彼女は静かに受け止めてくれる。
 俺の全てを許してくれる。
 
 だからすっかり安心してしまう。
 怖いもの知らずの本性が、つい顔を出す。
 
 無理やり自分の帽子を被せてからは、なぜだか真美さんのほうにも向き直ることができるようになった。
 
(もともと無理に決まってる……一目見た途端、目を放すことができなくなって。どうしようもなくて。思わず車を降りてまで声をかけた人に、いつまでも背を向けたままでいられるわけがない……!)
 
 さっきまでとは真逆に今度は窓に背中を預けて、彼女のほうを向いて座ることにした俺に、真実さんはかなりうろたえているようだった。
 じーっと見られていることにも、きっとかなり困惑している。
 
 そう思うと、わざとふてぶてしく、遠慮なしに眺めるようなポーズを作ってしまうところが、俺の自分でもよく自覚している底意地の悪いところだ。
 
 とうとうこらえきれなくなったようで、真実さんは俺の顔を見上げた。
「何?」
 
 尋ねられて、俺は待ってましたとばかりに、今朝初めて彼女の姿を見た時から、くり返し心の中で思っていたセリフを口にする。
「うん、今日の真実さんは昨日より可愛いなと思って」
 
 途端に頬を真っ赤に染めて、
「年下のくせに、生意気言わないでよ」
 慌てて俯く真実さんの様子は、冗談抜きに可愛いかった。
 
 可愛い女の子が俺の帽子を被っているんだから、かなり嬉しい。
 俺という人間は、嬉しいと強く思うと、どうやら笑わずにはいられないらしい。
 
「ハハハハ」
 と声に出して笑いながら、どさくさに紛れて彼女の頭をポンと叩いた。
 俺の帽子を被った小さな頭に、初めて触れてみた。
 
 どうやらそれだけのことにも、やっぱり俺はこんなにも嬉しいらしい。
(もうずっとこのまま、二人で電車に乗ってるだけでもいいや!)
 
 さっき感じた悔しさもどこへやら、俺は能天気にそんなことを考えていた。
 
 しかし、なんといっても真実さんのご所望は『海』だ。
 
「どこに行きたいか?」と聞かれて迷わず答えたお気に入りの場所と同じ名前で、彼女は俺のことを『海君』と呼ぶ。
 単純な俺は、そのことが嬉しくて誇らしくて、どうしようもなかった。
 
「真実さん。このへんに荷物置いとくからね」
 
 本格的な海水浴シーズンには、まだずいぶんと早い。
 けれど砂浜には予想以上に人が多かった。
 
 海岸に到着するとすぐに、俺は彼女が準備してきてくれた、おそらく手作りのお弁当を砂浜に下ろした。
 当然波打ち際に行くだろうと思っていた真実さんを、エスコートするような気持ちで、早々にスニーカーを脱ぎ捨て、ジーンズの裾を捲る。
 
 しかし真実さんは遥か遠くに佇んだまま、一向にこちらにやってくる気配はない。
 
「真実さんもおいでよ」
 試しに声をかけてみたのだが、逆に砂浜に腰を下ろされてしまった。
 頬杖をつきながら、ちょっとテンション下がりぎみに「やめとく」なんて言われるから、心配になる。
 
「え? どうして?」
 どうやら彼女から見ると俺の姿は逆光になっているらしくて、眩しそうに目を細めながら、真実さんは言った。
 
「だって、絶対私に水をかけるでしょ?」
 ちょっと拗ねたような口調で言われても、一瞬なんのことだかわからなかった。
 
 波打ち際に来て、足を濡らしてみようという気持ちがあったのは確かだが、なにも、海水をすくって彼女にかけようとまで思っていたわけではない。
 わけではないが――それを真実さんが望むのなら、たとえそれがどんなことだって、俺にはできる。
 きっとやってみせる。
 
「ハハハハ」
 声に出して笑いながら、俺はふくらはぎあたりまでを濡らして、寄せては引いていくまだチョッピリ冷たい海水の中に、両手を差し入れた。
 
「それは……絶対するね!」
 いっぱいにすくい上げて放り投げたその先制攻撃は、真実さんの肩をかすめて落ちて、砂浜へと吸いこまれていった。
 
 驚いた顔の彼女。
 けれどすぐに、負けん気を発揮する可愛い人。
 
「うーみー君!」
 自分で名づけた俺の名を恨みがましく呼びながら、真実さんはすっくとその場に立ち上がった。
 
「何するのよーっ!」
 スニーカーを脱ぎ捨てながら、一直線に俺へと向かってくるその様子がおかしくて、可愛くて、俺は大きな声で笑いながら、次々と海水をすくっては、彼女に投げた。
 
「ゴメンゴメン」
 口先だけは謝りながら、しつこく何度も投げ続けた。
 
「この悪ガキ!」
 何を言われたって腹なんか立たない。
 それどころか嬉しくってたまらない。
 
 走りながら応戦し始めた真実さんに、俺はそれでも笑いながら水をかけた。
 何度も何度も、知らない人から見たらおかしいのかと思うくらい、俺達はふざけあって、水をかけあって、ずぶ濡れになった。
 ふざけあいの真っ最中にもかかわらず、「ちょっと休憩」と宣言すると、俺は砂浜にゴロンと横になった。
 俺のヤワな心臓は、果たしてどれくらいの運動まで耐えられるのか。
 ずっと激しい運動は避けてきたから、見当もつかないし、予想できない。
 こんな所で発作を起こして、真実さんに俺の病気を知られてしまうのも、彼女に迷惑をかけることになるのも、接絶対に嫌だった。
 
「砂がついちゃうよ」
 俺の心中など知るはずもなく、笑いながら忠告してくれる真実さんに、
「いいよ、それより疲れた」
 なるべく普通に聞こえるようにぶっきらぼうに返事して、俺は両腕を自分の顔の上で交差する。
 目のあたりに押し当てて、彼女に表情を見られないようにした。
 
 大きく息を吸って、吐いてをくり返しながら、すっかり速くなってしまった胸の鼓動と、あがってしまった呼吸を整える。
 
 ザザーッ、ザザーッと遠くから押し寄せてくる波の音は、こうして視界を遮っていると、尚更大きく聞こえた。
 こんなに間近で波の音を聞いたのは、そういえば初めてだった。
 
 子供の頃は、俺の体調を見ながら、父さんや母さんがよく海には連れてきてくれたが、海の中に入ったりこんなふうに暴れたりするのは、いつも兄貴だけ。
 俺はさっき荷物を置いたような波打ち際から遠く離れたあたりで、静かにそんな兄貴を眺めるばかりだった。
 せいぜい家から持ってきたスケッチブックに、刻々と形や色を変える海の様子を、写し取るぐらいだった。
 
(だけどそれがどうだ……今日はこうしてはしゃぎまわることだってできたぞ……!)
 誰にともなく、心の中で胸を張る。
 
 ふと、俺のすぐ近くに真実さんが腰をおろした気配がした。
 
「運動不足だぞ、若者」
 本当にすぐ近くから、笑い含みの声が聞こえてくる。
 
「本当に……」
 俺だって笑いながら返事をしたけれど、
(せっかくだったら、こんなふうに転がっているんじゃなくて、彼女の隣に座りたかったな……)
 と思わずにはいられなかった。
 だからいっそう、呼吸を整える作業に集中する。
 
「まだまだこんなもんじゃ、私には勝てないわよ」
 なぜだか自信満々に言い放つ真実さんの顔が、どうしても見てみたくなる。
 
 俺は自分の顔を隠していた腕をちょっぴりずらして、隣に座る人をそっと見上げた。
 白い頬をうっすらとピンク色に染めて、瞳をキラキラと輝かせた真実さんは、やっぱりとてつもなく可愛かった。
 
「真実さん、小さくて痩せっぽちのくせにパワフルなんだもんなあ……」
 照れ隠しを兼ねて、冗談ぽく呟いた言葉に、
「小さいは余計です……!」
 真実さんはイーッとしかめ面をしてみせる。
 
 そんな表情さえ可愛くて、一秒たりとも目を放せない。
 めまぐるしく変わる彼女の表情の全てを、ずっとずっと見ていたい。
 
 ふと笑うのをやめ、波打ち際へと視線を向けた真実さんは、
「私は港町で育ったから、海には慣れてるの。海風や海水って、思ったより体力消耗するんだよ」
 と呟いた。
 
 ようやく鼓動がた落ち着いてきた俺も、ゆっくりと砂浜から起き上がりながら、
「遠くから見てるだけじゃ、そこまで分かんなかったな」
 と呟く。
 彼女が見ている方向に、同じように視線を向けてみた。
 
 どこまでも続く水平線。
 青い空と白い雲。
 
 それらは確かに、これまでこんなに鮮やかな色彩を伴って、俺の目に飛びこんできたことはなかった。
 子供の頃に見たのと、この海は同じ海のはずなのに、なんとも不思議だ。
 
「ひょっとして、海に来たの初めてだった?」
 かなりびっくりした様子で聞いてくる真実さんに、思わず笑みがこぼれる。
「いいや、何度も来てるよ」
 でも今までの海と、今日の海はあまりにも違う。
 
 どこがどう違うかと尋ねられたら、返せる答えは、ただ一つだけ。
 ――隣に真実さんがいるか、いないかだ。
 
 けれど本人に向かってそんなことは言えないから、俺はもう一つ頭に浮かんだほうを口にする。
「ただ……俺が一番多く見ていた景色の中では、海は遠くにほんの少しだけ見えるものだったからさ……」
 
 それは、病室の窓から毎日眺めていた遠くの海だった。
 天気が悪い日には見えなくなってしまうくらい、遠い場所のものだから、ハッキリとした色もわからないし、どれぐらいの広さがあるのかもわからない。
 けれど、同じ構図で何枚も描いて、すっかり嫌になってしまった窓からの風景の中でも、あの海は俺の一番のお気に入りだった。
 
 俺の絵にはいつも、その『遠くの海』が必ず登場する。
 自分と同じ名前の『海』。
 好き。
 だけど嫌い。
 嫌い。
 だけど好き。
 複雑な感情が幾重にも絡みあって、なかなか簡単には説明ができない。
 
 考えあぐねて、ふと隣にいる真実さんに目を向ける。
 小さく首を傾げながら、俺の言葉の意味を考えてくれているらしい様子に、また自然と俺の頬はほころんだ。
 
(自分でもよくわからない。どうだっていいって思えるような感情にだって……この人は一生懸命に向きあってくれるんだよなあ……)
 どうにも嬉しくて、たまらない。
 
「ゴメン。要するに、こんなに楽しいのは初めてだってことだよ……」
 笑いながらそう告げると、真実さんはポッと頬を染めて俯いてしまった。
 
 そんな様子が、ますます俺を嬉しくさせる。
 舞い上がらせる。
 
「真実さんは、海のそばで育ったから海が好きなんだね」
 俺の言葉に、手につかんでいた砂をサラサラと風に流しながら、
「うん、大好き」
 と答えてくれた満面の笑顔が、もうたまらなかった。
 
 ウワーッ!と叫びながら、そのへんを転げまわりたいくらいの衝動を必死に抑えて、俺はせいいっぱいポーカーフェイスで問いかける。
「……何が?」
 
 俺の意地悪な誘導尋問であることにまったく気づかず、真実さんはまんまと、
「だから、海」
 と答えた。
 
 じーっと自分を見つめ続ける俺の意味深な顔をしばらく見つめ返し、それから火がついたかのように真っ赤になる。
「そうじゃなくて! ……いや……確かにそうなんだけどっ……!」
 首まで真っ赤になりながら、かわいそうなくらいに大慌てしている。
 
(俺ってホント……意地悪だなあ……)
 しみじみと自覚しながらも、あまりにも見事にひっかかってくれた真実さんの素直さと真面目さが、嬉しくてたまらない。
 笑わずにいられない。
 
「ハハハハッ」
 肩を揺すって笑い続ける俺の様子に、彼女は小さくため息を吐いて、
「あーあ、なんでこんな名前つけちゃったんだろう」
 なんて言い出した。
 
 今更「名前変更」になんかならないように、俺はすぐさま笑いを封じ込こる。
 真実さんが俺をこ『海(うみ)君』と呼んでくれたおかげで、自分の名前が改めて好きになったというのに、ここで違う呼び名になったらたまらない。
 
「光栄です」
 華奢な肩をポンと叩いて、砂浜から立ち上がり、俺は荷物が置いてあるほうへ歩きだした。
 
 彼女が今どんな表情をしているのか。
 何を考えているのか。
 それはあえて見なかったし、想像しないようにした。
 
 そうでないとまた笑い出してしまいそうだ。
 いつまでたってもこの場所から動きだせそうにもない。
 
「真実さん、お弁当食べようよ。俺、楽しみにしてたんだ」
 目的の場所に着いてからふり返って見てみると、彼女はまださっきの場所に座りこんでいた。
 海に向かって膝を抱え、その両膝の上に自分の頭を突っ伏すようにしている。
 ――その頼りなげな後ろ姿が、俺の胸を焼いた。
 
 俺が隣にいなくなった途端に、どうして真実さんはこんなにも、身にまとう雰囲気がガラリと変わってしまうのだろう。
 明るい太陽の下でついさっきまで元気に笑っていたのに、ちょっと気を緩めるとすぐに、彼女の背後には夜の雑踏の風景が浮かんでくる。
 そんなふうに感じるのはなぜなんだろう。
 
 真実さんが心配でたまらない。
 ずっと傍で見ていないと、ふいにどこかにいなくなってしまいそうで。
 そんな思いが俺を焦らせる。
 
「真実さん……!」
 もう一度呼びかけると、それに呼応して彼女はようやく顔を上げ、俺をふり返ってくれた。
 その仕草に、大袈裟じゃなく、心の底から安堵する。
 
 この焦燥感の正体はいったい何なのか。
 その答えをおそらく俺は知っているのに、気付かないフリをする。
 
(たのむよ。もう少し……もう少しだけでいいから、このままでいさせて。一緒にいさせて……!)
 正体のわからない何かに向かって、俺は言葉にはせずに気持ちだけで頭を下げた。
 心から下げ続けた。
 


 砂浜に小さなビニールシートを敷いて、まるでひな祭りの人形のように、二人で並んで座った。
 ビーチバレーをしている若者たちや、砂で山を作っている子供たちなんかには「何だ。こんなところで?」という視線を向けられたが、俺は全然気にならなかった。
 
「いいねー。これだよ! これ!」
 嬉しくてたまらなくて、必要以上にはしゃいでしまう。
 
 そんな俺に呆れた顔もせず、一緒になって笑ってくれる真実さんが嬉しい。
 憧れていた初めての『ピクニック』以上に、俺は彼女が隣にいてくれることが嬉しかった。
 
(ようやく来れたよピクニック……それも好きな人と……!)
 母さんへの報告を兼ねて、俺は空をふり仰いだ。
 
『ねえ……死んだらそのあとは、みんなどこに行くの?』
 
 子供らしくない落ち着いた調子で父さんにそう尋ねた俺は、あの頃から、遠からず自分がそこへ行くことを理解していた。
 
 黒い喪服を着た父さんは、黙ったまま空を指差す。
 
 たぶん母さんのお墓の前だったと思う。
 黒光りした御影石の前に供えられた二本の線香からは、細く長い煙が真っ直ぐに空に伸びていて、俺はその行き着く先を、必死に目を凝らして確認した。
 
 小さな俺はその時、『そうか、空か』と素直に納得した。
 暗い土の中に閉じこめられるのではなくてよかったと、そんなことを思った。
 
 死んだら人は空に昇る。
 ――だから俺は今でも母さんに話しかける時は、空を見上げることにしている。
 
 辛い時。
 悲しい時。
 嬉しい時。
 楽しい時。
 これまでは圧倒的によくない報告が多かったけれど、こうして幸せな報告もできてよかった。
 そう思った。
 
「夏の空っていいよね。気持ちよくってずーっと見ていたいくらいだ。でもこうして見てると、やっぱり泣きたくなってきちゃうんだよな……」
 
 母さんが亡くなったのは夏だった。
 だからやっぱり夏の空だけはちょっぴり苦手だ。
 
 本音を思わず口にしてしまってから、すぐ傍に真実さんが居たということを、俺はハタと思い出した。
 急に変なことを言いだした俺に、きっととまどっているに違いない。
 
(まいったな……変なこと言っちゃったな……)
 ちょっと気まずい思いで、隣の真実さんを見下ろす。
 
 彼女はただでさえ大きな瞳を更に見開いて、俺の顔を凝視していた。
 その表情は、驚きだけではないなにか大きな感情に満ちているように感じた。
 どうやら俺のセリフに思うところがあるらいい。
 
(……海君?)
 真実さんの瞳が、声にならない言葉で問いかけてくるから、俺も、
(何?)
 と声には出さず表情だけで返事する。
 
 どんな言葉が返ってくるのか。
 内心楽しみに待っていたのだが、真実さんは長い時間待っても口を開くことなく、彼女の瞳もそれ以上は言葉を語らなかった。
 
 俺たちのこれまでより一歩近づいたコミュニケーションは、そこまでで中断される。
 まるで気持ちを切り替えようとでもするように、真実さんは静かに首を横に振りながら、持ってきたお弁当の包みをゴソゴソと開き始めた。
 
「どうぞ」
 内心小さな失望を感じていた俺だったのだが、二人分にしてはかなり大きなお弁当箱をさし出されて、すっかりテンションが上がってしまった。
 
「おおおっ」
 思わず叫んでしまう。
 食べ物で釣られるとはまさにこのことだ。
 
「すごいなぁ……!」
 色とりどりのお弁当は、見た目も豪華で、俺が昨夜ベッドの中でこっそり想像していたものの何倍も、ずっとずっと美味しそうだった。
 
 真実さんはニッコリと魅力的に笑いながら、
「心して食べなさい」
 ちょっと偉そうに俺に指令を出す。
 
 俺は恭しく頭を下げて、
「では……いただきますっ!」
 その豪華なお弁当に箸を伸ばした。
 
 煮物の中で見つけた花形のニンジンは、ほどよく柔らかくて甘かった。
 から揚げもしっかりと下味がついた俺好みの味。
 いろんな形のおにぎりには、ひとつひとつ違った具材が入っていた。
 
「美味しい! 美味しいよ……! 真実さんって天才!」
 あまりにもすごいところを見せつけられると、
 
(俺なんかが、こんなふうに手作り弁当を作ってもらっていいんだろうか?)
 なんて余計な思いが浮かんでしまう。
 
 けれど、満足そうに笑いながら、
「もっと食べなさい。もっと食べなさい」
 と彼女が今世話を焼いてくれているのは、他の誰でもない――俺なのだ。
 
 ハハハハッとまた声に出して笑いだしたい衝動を必死にこらえながら、俺は真美さんに勧められるままに、彼女の手作り弁当を食べ続けた。
「美味しいなぁ……!」
 今まで食べたどんな料理より、本当に美味しいと思った。
 


 食事というのは、人間の「生きていこう」という『意志』に、強く裏づけられた行為だと思う。
 食べなくては人は生きていけない。
 必ず死んでしまうのだから。
 
 長い入院生活の中で、俺はその『意志』を持ち続けることが困難になった時期があった。
 何を口にしても味がしなくて。
 美味しくも不味くもなくて。
 
 死ぬまでにあと何回、ただ栄養を取るだけの食事を、俺はこんなふうに病院でくり返すんだろうなんて思ったら、胃が何も受けつけなくなってしまった。
 
『馬鹿じゃないの! 何にすがりついてでも生きてみせなさいよ! こんなことでもし死んだりしたら……絶対に許さないんだから!』
 
 珍しく涙を見せて叫んだひとみちゃんの姿にショックを受け、無理をして日に何度も病院に足を運んでくれた兄貴に悪いと感じて、俺はどうにか「がんばろう」と思い立った。
 
『これ。お母さんが作ってくれたご飯……叔父さんや陸兄や、うちのお母さんのことを考えたら、海里は何だって食べれるようになるはずだわ……そうでしょ?』
 
 ひとみちゃんは俺のことをあまりにも買いかぶりすぎだと、その時は思った。
 
 けれど今実際に、弁当を食べる俺を見て、ニコニコと笑っている真実さんの顔を見ていると、
(確かに……「いらない」なんて……俺に言えるわけないよなあ……)
 ひとみちゃんの言葉の正しさを、再確認せずにはいられない。
 
 真実さんのこの笑顔を見るためならば、俺の胃袋の限界を遥かに超えた量だって、きっと笑って平らげられるだろう。
 自信があった。
 
「真実さんも食べないと……なくなっちゃうよ?」
 笑いながら言った俺に頷いて、真実さんも箸を手に取った。
 俺が持つお弁当箱の中をのぞきこんで、その小動物にも似た可愛らしい動きが、ハタと止まる。
 
「ああっ! ……卵焼き全部食べちゃったの!?」
 恨みがましい目で俺を見上げた顔は、たまらなく可愛かった。
 
 俺は笑いながら、
「はい、じゃあ、これどうぞ」
 と自分が今まさに食べようとしていた卵焼きをさし出す。
 
 ちょっとバツが悪そうにしながらも、
「ありがとう」
 と恥ずかしげに受け取った真美さんの様子に、ついついさ悪戯心が湧いた。
 
 ニヤッと笑いながら、
「俺の食べかけだけどね……?」
 わざと一言つけ足す。
 
 途端、真実さんが予想以上に真っ赤になって、言葉もなく俯いてしまって、俺は最高に焦った。
(やだなあ……冗談だよ。冗談っ!)
 なんて軽く言ってしまえばいいのに、なぜかそれができない。
 ダメだ。
 恥ずかしい。
 このままじゃ俺まで真っ赤になってしまう――。
 
「ゴメン」
 慌ててそれだけを言うと、俺はそっぽを向いた。
 尚更気まずくなった空気が、あまりにも重い。
 このなんともいえない気分は、いったいなんなんだろう。
 
 確かに俺は、昨夜真実さんに一目惚れした。
 いてもたってもいられなくて、車を飛び下りて家まで送っていった。
 もう一度会いたいなんて、頭で考えるよりも先に、勝手に口が今日の約束までしていた。
 けれどそれは、彼女と恋人同士になりたいとか、彼女にも俺のことを好きになってほしいとか、そんな大それた思いから取った行動ではなかったはずだ。
 
『心を残さずにいられない存在なんて俺には必要ない』
 
 俺の信条はこれまで決して変わることはなかったし、実際今だって変わってはいない。
 何も望まない。
 何も夢見たくない。
 ――それは俺の現実だ。
 
 なのに、なぜだ。
 こんなふうに彼女とずっと一緒にいたいと、
 昨夜の重苦しい雰囲気の中に彼女が帰らないようにずっと隣で見守っていたいと、
 そんな強い想いが、いつの間にか俺の中に生まれようとしている。
 
「海君」
 真実さんが俺を呼ぶ声に、さっきまでのようになんでもない顔を作ってふり返ることなんて、もうできない。
 苦しい思いをひた隠しにしながらふり返ってみると、真実さんが真剣な顔で俺を見つめていた。
 黒目がちの大きな瞳が、何かの決意に揺れていた。
 
 このまま彼女の言葉の先を聞いてしまったら――今この瞬間を永遠に失ってしまうと俺の本能が嗅ぎとった。
 
(そんなの嫌だ!)
 
 瞬間的に芽生えた子供じみたわがままで、
「真実さん、明日も会いに行っていいかな?」
 俺は先に問いかけた。
 せいいっぱいの決意を秘めている彼女の目を見て、真剣に問いかけた。
 
 真実さんは怯んだように少しだけ俯いて、だけどすぐにでも首を横に振ってしまいそうなそぶりを見せる。
 
 俺はできる限りの本気を言葉にこめて、もう一度彼女より先に、
「俺は、真実さんに会いたい」
 と自分の思いを告げる。
 
 俯けていた顔を弾かれたように上げて、彼女は俺の顔を見た。
 一秒にも満たない沈黙の後、俺の目をしっかりと見つめながら、真実さんは、
「うん、私も海君に会いたい」
 と呟いた。
 
(よかった……)
 全身に張り巡らされていた緊張の糸がプッツリと切れて、その場に崩れ落ちてしまいそうな気分だった。
 
(自分の中の決めごと――決意――だって覆してしまうほどの『情』」。そんなものが本当にあるんだ! ……俺にだってあったんだ……!)
 
 寄せては返す波の音なのか、それとも自分自身の心音なのか。
 ドキドキと耳の奥で鳴り続ける音は、いつまでも止みそうにはなかった。
 それから毎朝、俺は片道一時間の距離を歩いて、真実さんのアパートへと通った。
 彼女がバイトへ行くのを送って、そのままぶらぶらと時間を潰し、夕方、もう一度バイト先のファミレスまで迎えに行く。
 そして一緒にアパートへ帰る。
 
 初めて会ったあの夜のように、ガードレールに腰掛けて、しばらく他愛もない話をして、
「じゃあ、また明日」
 と約束して帰る。
 毎日がそのくり返し。
 
 俺より早く家を出て、俺より遅く帰ってくる兄貴には、バレようもなかったし、小さな約束を真実さんと交わすことは、俺の精神面にもすこぶるプラスに働いたようで、問題になるような発作も起きなかった。
 
 日々は単調に、いたって平和に過ぎていった。
 ――ただ一点だけを除いては。


 
 俺が真実さんのところに通うようになって、ちょうど一週間が経った日。
 その唯一と言ってもいい難点が、朝の七時きっかりに俺の家のチャイムを鳴らした。
 
 今にも大学に出かけようとしていた兄貴が、
「誰だろう?」
 と玄関のドアを開けに行った時、俺は食べかけのトーストを片手にひしひしと嫌な予感を感じていた。
 そしてその予感がやはり外れていなかったことを、兄貴に伴われてひとみちゃんがリビングに入ってきた時に、確信した。
 
(……とうとう来たか)
 覚悟はしていたし、もうそろそろだとも思っていた。
 
 ひとみちゃんはあの真っ直ぐな、人の心を射抜くような瞳で、
「海里……陸兄も……話があるの!」
 怒ったようにじいっと俺の顔を睨んでいる。
 俺は観念することにした。
 
(こうなったら本当のことを話すしかないな……でも……それで二人にわかってもらえるのかな……?)
 
 頭から湯気が出そうなくらい、見るからに怒っているひとみちゃんと、わけもわからず俺とひとみちゃんの顔を見比べている兄貴。
 二人の様子を見ている限り、説明と説得はひどく困難なことのように思われた。
 
「グダグダと前置きしてもしょうがないから、率直に聞くわよ。ねえ海里、あなた毎日学校サボってどこで何をしてるわけ?」
 本当に前置きなんてない、単刀直入なひとみちゃんの問いかけに、テーブルを挟んで俺の向かい側のソファーに座っていた兄貴は、飲みかけのコーヒーをブッと吹きだした。
 
「サ、サボるって……ゴホゴホッ……海里、お前……?」
 ここはもう腹をくくるしかないと、俺は神妙に頷く。
 
「うん……」
 ひとみちゃんは兄貴の隣に腰を下ろし、俺に猛抗議した。
 
「いいかげん本当のことを教えてくれないと困る! 毎日ごまかすのも大変だし、先生にも『一生はまた入院したのか?』って思われるじゃない! なんて答えればいいの?」
 
 ご意見ごもっともと、俺はもう一度頭を下げた。
「はい……」
 
「それに……もし誰もいないところで何かあったらどうするの? ……もしそんなことになったら、陸兄だって、叔父さんだって、うちのお母さんだって、どんなに心配すると思ってんのよ!」
 
 言い返す言葉なんて何もなかった。
 俺の体調を気遣って、これまでずっと行動を共にしてくれたいたひとみちゃんだからこそ、ここ最近の俺の行動には納得がいかないだろう。
 それ自体は本当に申し訳ないと思っている。
 だけど――。
 
「ごめん。どこで何をしてるのか……それは言えない」
 深く頭を下げて、膝の上でギュッと握りしめた自分の拳を睨み続けることしか、俺にできることはなかった。
 
 悪いことをしているという自覚はある。
 自分が今まで周りの人たちにかけてきた迷惑とか、いつ深刻な発作が起きるかわからない今の俺の健康状態考えれば、俺が今やっていることは自分勝手以外のなんでもない。
 
 そんなわがままは、誰より俺自身が、一番嫌っていたことだった。
 聞きわけのない子供のように、駄々をこねるなんて絶対にかっこ悪いことだと思っていた。
 
 でも譲れない。
 ひとみちゃんの心配も、兄貴の驚きも本当に申し訳ないけれど――それでもこれだけは譲れない。
 
 こんなにも強い気持ちが自分の中にあるなんて、真実さんと出会うまで、俺は知らなかった。
 本当に、彼女と出会ってからというもの、今までこうだと思っていた自分は、どんどん崩れていくばかりだ。
 思いもかけない一面に、驚かされてばかり。
 でも情けない自分も、かっこ悪い自分も、今はけっこう嫌いではない。
 
「海里」
 向かいに座っていた兄貴が席を移ってきて、俺の隣に腰をおろす。
 兄貴の体重の分だけソファーがドサッと沈みこみ、つられて俺の体もぐらりと揺れた。
 
 昔は一回りも大きさが違ったはずなのに、今では変わらないくらいになってしまった俺の拳を、兄貴のてのひらがそっと包みこむ。
 今までだったら恥ずかしくてたまらなかったはずのその手を、俺は別にふり解きたいとは思わなかった。
 
「それは……お前にとって、学校に行くより大事なことなのか?」
 てっきりこんこんと説教されるとばかり思っていたのに、逆に質問を投げかけられて驚いた。
 
 そっと、兄貴の顔をのぞきこんでみる。
 どんな時だって常に笑顔を絶やさない、根っからの善人顔からは、なんの感情も読み取れない。
 でも俺を見つめる兄貴の目が、いつも以上に、どこまでも深い愛情に満ちていることだけはわかった。
 
(ひょっとして……許してくれるの?)
 少しの期待をこめて、「うん」と言い切る。
 もちろんせいいっぱい真剣な表情をしておくことも忘れない。
 
 その瞬間、「陸兄!」と抗議の声を上げて、ひとみちゃんが向かいの席から立ち上がった。
 
 だが兄貴はそれを、片手でスッと制してしまう。
「いいじゃないか。海里にとってそれが大事だっていうんなら、学校よりそっちを優先させても……ね……?」
 有無を言わせぬ迫力の笑顔で、ひとみちゃんを黙らせてしまった。
 
(すごい! ……俺には絶対真似できない!)
 俺は心から感嘆して、兄貴に尊敬の眼差しを向けた。
 
 もしこれが俺だったら、自分の意志をしどろもどろで主張して、かえってひとみちゃんの怒りの炎に油を注ぐくらいが関の山だ。
 けれどさすがは年の功。
 兄貴の笑顔にはさすがのひとみちゃんでも文句が言えないらしい。
 
「陸兄は海里に甘い! 甘すぎる!」
 憤懣やるかたないひとみちゃんの非難も、駄々をこねる子供をあやすかのように、
「そうかな? そんなことないと思うけどなあ……」
 と、笑顔で軽くかわしてしまう。
 
 けれどその一見いつもと同じ笑顔に、俺はどことなくいつもとはちょっと違う違和感を覚えていた。
 
 兄貴は確かに俺に甘い。
 それは本来の優しい性格と、弟は病気なんだからという気遣いからきているんだろう。
 だが甘いながらに、これまでは「今日は何をした? 誰とどんなことを話した?」と煩わしいくらいに俺のことを知りたがった。
 それを少し負担に感じていたことは事実だ。
 小さな子供の頃ならともかく、中学生ぐらいになってからは、申し訳ないが鬱陶しく思っていた時期もある。
 
 たった二人きりの兄弟。
 それも体の悪い弟。
 母親はすでに他界し、父親はほとんど家にいないとなれば、五つ年上な兄貴は、「自分がしっかりしなければ!」とどんなに気を張っていたのか。
 ――今ならわかるのだが。
 
(その兄貴が……何も訊かずに許すだって?)
 
 おそらく根掘り葉掘りと聞かれるだろうから、いざとなったらどうやってだんまりを決めこもうかなんて、さんざん策を練っていた俺の苦労は無駄に終わった。
 だけど今まで経験したことのないまったくの自由が、かえって俺の気持ちを動揺させた。
 
「いいよ。どこでも行きたいところに行け。父さんには兄ちゃんがなんとでもごまかしてやるよ」
 面白い悪戯を考えついた時のように、茶目っ気たっぷりに笑いながら、兄貴がこっちを向いた瞬間、俺は悟った。
 俺の顔を見た兄貴と目と目が合った瞬間、全ての理由を理解した。
(そうか……知ってるんだ)
 
 兄貴はきっと知っている。
 ――俺の命がもう長くはないということを。
 
 父さんから直接聞いたのか。
 それとも俺みたいに偶然知ってしまったのか。
 それはわからないが、一見いつもどおりに見える兄貴の笑顔は、俺から見れば全然いつもどおりではなかった。
 優しい眼差しの奥で、何かが揺れている。
 哀しくて辛くて。
 でもそれを俺には絶対に悟られまいとしている強い決心がわかる。
 
 そこには申し訳ないぐらいに、嬉しくて泣き出してしまいそうなくらいに、俺に対する愛情が溢れていた。
(兄貴!)
 
 その場にひとみちゃんがいなかったら、飛びついて泣き出してしまっていたかもしれなかった。
 必死に平静を装とうとしている兄貴の努力を無駄にして、行き場のない自分の感情をぶつけてしまっていたかもしれなかった。
 
 けれど、ひとみちゃんはまだ何も知らない。
「まったく……こんなことなら陸兄がいる時に来るんじゃなかった!」
 なんてブツブツ言いながら、まだプリプリと俺に怒っているひとみちゃんは、まだ本当に何も知らないのだ。
 
 俺は奥歯をギュッと噛みしめて、浮かんでくる涙をこらえ、兄貴の優しい心遣いも、自分のこれからの日々も、だだいなしにしないように努力した。
 
「でも、もしもの時に困るから、これからはこれを持ってろ」
 立ち上がった兄貴は、まるでずっと前からそこに用意してあったかのように、サイドボードの引き出しから携帯電話を取り出す。
 
「俺とひとみの番号は登録してあるから、何かあったらかけてこい。ちょっとでも具合が悪くなったら、絶対に連絡するんだぞ?」
 
 そういって俺の手に押しつけられた小さな携帯電話を、俺は力いっぱい握りしめた。
「…………ありがとう」
 
 兄貴に対して素直にお礼を口にしたのなんて、何年ぶりなのかもわからない。
 でも今は憎まれ口よりも、斜に構えた態度よりも、ただその言葉しか思い浮かばなかった。
 にじみ出てこようとする涙を隠すためにも、頭を下げ続けるしかなかった。