砂浜に座る俺の隣へと駆けこんできた真実さんを、すぐに腕の中に抱きこんだ。
 
 彼女が確かにここにいるということを体中で感じて、心から安堵する。
 自然と腕に力がこもった。
 
「会いたかったよ」とか「会えてよかった」とか、本音を口にしたら泣いてしまいそうだったので、俺はついさっき見つけたばかりの小さな発見を、得意げに彼女に披露する。
 
「ねえ真実さん……『天使の梯子』って知ってる?」
 腕の中から真っ直ぐに俺の顔を見上げて、真実さんは笑う。
 
「突然、何? 『天使の梯子』……? ううん、知らないよ……?」
 聞きたいこともあるだろうに、言いたいこともあるだろうに、いつだって俺にあわせてくれるその優しい笑顔に、胸が締めつけられるほどに苦しくなる。
 
 体調の悪さだけは決して悟られるわけにはいかないと、俺はせいいっぱいの無理をして笑顔を作った。
「そっか。あれだよ。あれ!」
 
 海の上の空を指差した俺の手に従って、真実さんが首を捻って視線を移した。
 
 俺が指した空には、厚く何層もの雲が垂れこめている。
 その向こうに微かに太陽の気配がある。
 ところどころに現われる雲のすき間から真っ直ぐに伸びるように、太陽の光の筋が何筋か、海へと落ちていた。
 
 瞬きする間に、本数も太さも刻々と移り変わっていくその光の筋は、ヨーロッパではヤコブの梯子とも、天使の梯子とも呼ばれている。
 天使が行き来する、天へと続く梯子なのだそうだ。
 
「そっか……綺麗だね……」
 
 ため息を吐くように呟いた真実さんに、俺はそっと囁いた。
「うん。あれはね、俺のための梯子なんだ……俺が空の上に行くための梯子……」
 
 驚いたように俺の顔を見つめる表情がやっぱり胸に痛い。
 だから俺はなおさらなんでもないように、彼女に向かって笑ってみせる。
 
「なんだか、かっこいいでしょ?」
「うん、かっこいい」
 
 真実さんも笑ってくれてホッとした。
 だから今を逃さずに、俺の願いを伝えておく。
 そう、他の人に残したのと同じように――これが真実さんへの、俺の最後のお願い。
 
「真実さんが笑ってると俺はそれだけで嬉しい……だから笑っててね」
 
 彼女の顔から目を逸らして、空を仰ぐようにしながら告げた。
 次に出す言葉に真実さんがどんな顔をするか。
 あまりにも胸が痛くて見届けることはとてもできなくて、空を見上げたままさらに続けた。
 
「俺がいなくなっても……笑っててね」
 
 真実さんが小さく息をのんだ気配を感じて、目を逸らしていることもたまらなくなって、俺はもう一度彼女の顔に視線を戻した。
 少し首を傾げて、俯いた顔をのぞきこむ。
 
「笑っててね。お願い。わかった?」
 
 無茶を言ってるのは十も百も承知だ。
 それでも彼女に笑顔で念を押す俺は、やっぱりどうしようもなく身勝手だ。
 
 なのに真実さんは、真っ直ぐに自分の頭上の空を見上げて、
「うん。わかった」
 と夢のような返事をくれる。
 
 瞬間、彼女の目から零れ落ちた一筋の涙を、俺は指先ですくい取った。
 
(ゴメンね……)
 
 いつも口癖のように言っていたその言葉だけは、今は口にしなかった。


 
「……ひとみちゃんと何か話した?」
 
 長い沈黙の後。
 そんな質問をぶつけてみると、真実さんはちょっと困ったように笑う。
 
「うん……私を許さないって……」
 
 あまりにもひとみちゃんらしいその言い方に、思わず吹き出してしまった。
「ハハハッ、らしいや!」
 
 そうしておいてすぐに、真実さんがどんなに傷ついただろうかということに思い至って、彼女を抱きしめる腕に力をこめる。
「俺のせいでゴメンね……」
 
 真実さんは小さく息をのんで、俺の顔を見上げた。
「どうして海君のせいなの! 私のせいで……!」
 
 きっとこの数週間。
 彼女は何度も何度もその叫びを心の中でくり返していたんだろう。
 どうしようもないほどに自分を責めていたんだろう。
 俺にはわかる。
 
 だからもうこれ以上口にさせたくはなくて、俺はすぐ目の前にあった彼女の唇に自分の唇を重ねた。
 そしてゆっくりと唇を離してから、ごく至近距離で真実さんの目を真っ直ぐに見つめた。
 
「なんのために自分は生まれてきたんだろうって考えたら……やっぱり誰かと出会うためにって、思いたいじゃない?」
 
 彼女の頬を両手で包みこむようにして、一言一言ゆっくりと、心に焼きつけるかのように、力をこめて告げる。
 
「真実さんを守るために俺は生まれてきたんだって……やっぱり胸を張って言いたいじゃない? ……だから俺は全部を投げだしたんだ……本当に大切な物以外、俺が自分で放棄した……それはやっぱり俺の自分勝手だから……だからゴメン」
 
 反論も訂正も受け付けないとばかりに、もう一度キスで真実さんの口を塞いでから、俺は彼女を抱きしめた。
 
「真実さんの気持ちも、これから一人にしてしまうことも、何もかも俺は無視した……だからゴメン」
 
 耳元でくり返す言葉に、彼女はそっと首を横に振る。
「一人じゃないから……」
 そしていつもそうしていたように、右手を俺の左手と繋いでくれる。
 
「うん、そうだね。これからもずっと、いつも繋いでるんだったよね……」
 
 俺との小さな約束を、真実さんが覚えていてくれたことが嬉しくて、思わず笑顔になる。
 真実さんは繋いだままの俺の手を、そのままそっと自分のお腹に当てた。
 
「二人でもないんだよ……?」
 
 一瞬、何を言われたのかわからなかった。
 
 真実さんの言葉と突然の行動の意味が頭の中で結びつくまでには、しばらく時間がかかった。
 
(えっ? それってまさか……?)
 
 そしてその信じられない知らせを、俺が確かに現実のものとして受け取るまでには、さらにもうしばらく――。
 
(本当に……!?)
 
 驚きのあまり言葉も出て来ない俺に向かって、真実さんが飛びっきりの笑顔を向ける。
「……驚いた?」
 
 それはもう確かにそうだったので、俺は慌てて頷いた。
「うん! ……うん!」
 
 他になんて言ったらいいのだろう。
 
(だってそんなことって……とても信じられない!)
 
 驚きのあまりにドキドキと心臓が脈打ち始める。
 
 それはかなり驚きの知らせだったが、と同時にこの上なく嬉しい知らせでもあった。
 でもどうしても、素直に喜んでばかりはいられない俺がいる。
 どうしようもなく動揺せずにはいられない俺がいる。
 
(だって……どうするんだ? 俺はきっと、もうこれ以上は生きられない……! どんなにそう望んだって、真実さんと一緒にこれから生きていくことはできない……! なのに……!)
 
 嬉しくってたまらない知らせを、こんなふうに否定的に受け取るしかない自分が、嫌でたまらなかった。
 
 そんな俺の心を救うように、真実さんはニッコリ笑う。
 
「私も自分のわがままでもう決めたことだから! ……海君の意見なんかなんにも聞かないで、もう決めちゃってるから! ……だからゴメンね」
 俺が返事もできないでいるうちに、一気に自分の決意を言い尽くしてしまった。
 
「私から海君へのサプライズでした。……どう? びっくりしたでしょ?」
 
 ちょっと茶化すように明るく笑う真実さんに、もう我慢できず俺は腕を伸ばした。
 自分の気持ちをせいいっぱい現わすかのように強く強く抱きしめて、耳元で小さく呟いた。
 
「ありがとう、真実さん」
 迷いも心配も投げ捨てた、ありのままの今の自分の本心を彼女に告げた。
 
「俺なんかの命を……繋いでくれてありがとう……!」
 
 俺の腕の中で真実さんが泣き出したのがよくわかった。


 
 誰かと恋をして、一緒になって、温かな家庭を作ってなんて――誰もが普通に夢見る未来を、俺はとうの昔に諦めていた。
 自分には望むべくもないなんて、最初っから背中を向けてた。
 
 なのに、そんな俺の前に突然現われて、あっという間に俺の見栄や建て前を壊してしまった真実さんは、今また、俺に望めるはずのなかったものを与えてくれようとしている。
 
 ――俺と彼女の命を受け継いだ新しい命。
 
 近い未来俺が死んでしまったあとも、彼女と共にあり続け、そのずっとあとまで脈々と受け継がれてゆく命。
 俺という存在が確かにここに存在したということの何よりもの証。
 
 それを真実さんは俺に与えてくれようとしている。
 
(ありがとう……!)
 何度口に出して言っても、心の中でくり返しても、とても言い尽くせない。
 
 彼女が俺に与えてくれたたくさんの幸せや温かな思いや、思いがけないプレゼントには、全部全部、どんなに感謝してもとても感謝しきれない。
 
(ありがとう……!)
 それでも心の中でくり返した。
 何度も何度もくり返した。
 
(ありがとう……!)
 くり返さずにはいられなかった。


 
 砂浜に寝転んで真実さんの膝に頭を乗せる。
 優しい手で髪を撫でられると、ついついそのまま眠りに落ちていきそうになる。
 
 ――ひょっとするとそれはもう、永遠の眠りかもしれない。
 
 そんなことを考えながらも、もう抗う力さえ残っていない俺を救うように、真実さんが時々そっと呼びかけてくれる。
 
「海君?」
 
 そのたびに、彼女の傍に、この世界に、もう一度帰ってこれる自分を何度も何度も実感した。
 
 まだ傍にいられる。
 ――そのことが嬉しくてたまらなかった。
 
 意識を失いそうになる自分を奮い立たせるように、俺は懸命に口を開く。
 
「俺……約束ちゃんと守ったでしょ……?」
 誇らしげに、自慢するように、彼女に一言一言語りかける。
 
「うん、また会えたね。ありがとう……」
 優しい笑顔を曇らせたくはなくて。
 でもやっぱり嘘はつけなくて。
 言い難い言葉も伝えられるうちにあますことなく伝えておく。
 
「でも次はもう約束できそうにないや……ゴメンね」
 
 真実さんはもう泣かなかった。
 困ったように――それでも笑顔で答えてくれた。
 
「海君はいつも私に謝ってばかり……!」
 きっと出会ったばかりの頃からずっと抱えていたであろう思いを、俺にぶつけてくれる。
 
 俺も自分の思いを伝えることに、もうなんの躊躇もない。
「うん……ずっと一緒にいれるわけじゃないって……いつかはおいて行かなきゃいけないってわかってたのに、声をかけたのは俺だからね……辛い思いを抱えて、これからも生きていかなきゃいけないのは真実さんのほうなのに……だからゴメン」
 
 真実さんが体を折り曲げるようにして、俺の頬にそっとキスをした。
「でもそんなことよりずっとずっとたくさん、私は楽しい思い出を貰ったよ? ……だから全然、ゴメンなんかじゃない!」
 
 その優しい言葉を噛みしめるようにして、俺は目を閉じた。
「思い出か……」
 
 その途端――俺の脳裏に、文字どおり俺の中の思い出をいっぱいに描き連ねたあのスケッチブックが浮かんだ。
 二人で行ったさまざまな場所で、その時々に、真実さんが俺に向けてくれたいろんな表情をたくさんたくさん描きこんだスケッチブック。
 
 俺が死んだら、一緒に棺に入れてもらおうと思っていた。
 でもどうだろう。
 真実さんに渡しても構わないんじゃないか。
 
 最後の最後に俺に最高のプレゼントをくれた彼女に、俺だって何かを残したい――。
 
 そう決断して、俺はもう一度力をこめて目を開いた。
 
「真実さん……じゃあこれから……本当の俺を探してくれる?」
 彼女の顔を見上げて、乞うように願うように問いかけた。
 
 俺を見下ろす優しい顔がふわりと微笑んでくれて、やっぱりどうしようもなく嬉しくなる。
 この想いこそが俺を奮い立たせる唯一の原動力となる。
 
「……本当の海君?」
「そう! どこの誰だか、探し出してみて……そしてもう一度、ひとみちゃんと話をしてあげて……」
 
 きっとこの瞬間も俺たちのことを見つめ続けているであろうひとみちゃんに、あとのことを頼んでおけばきっと大丈夫だ。
 
 真実さんには手がかりがあるんだから。
 ひとみちゃんというヒントがあるんだから。
『一生海里』という人間にたどり着くことだって、そう難しいことではないはず――。
 
「真実さんへのプレゼントを預けておくから。ひとみちゃんに会えたら、俺の最後のプレゼントを真実さんにあげる……ね?」
「……最後の?」
 
 苦しそうに真実さんがくり返した言葉に、俺はせいいっぱい笑った。
 限界なんてとうに越えて、懸命に笑った。
 
「そう『最後の』! ……だから必ずたどり着いてね……?」
 
 最後までなんとか言い切ることができて、ホッと息を吐きながら口を閉じる。
 と同時に目を閉じる。
 
 頭の下に真実さんの膝の感触を感じながら、優しく髪を撫でてくれる手の感触を感じながら、俺は深い眠りに落ちていった。
 
 額に真実さんがそっと口づけてくれた感覚がある。
 俺の体をぎゅっと抱きしめてくれた感じがする。
 
 でももう抱き返すことはできない。
「ありがとう」と言葉を返すこともできない。
 
 なんとか彼女の隣に留まろうと、必死に続けていた努力をする力を全て失って、俺は闇の中に落ちていく。
 深い深い長い闇。
 
 でも恐くはなかった。
 まだ最後に、俺にはやるべきことがあると。
 それぐらいはきっと神様だって待ってくれるだろうと。
 
 ――なんとなくそんな確信があった。