黄色い広告灯をつけたピカピカに磨かれた黒い車体が、俺の前でゆっくりと止まる。
 自動で開いた後部座席のドアから車内に足を踏み入れると、中はタクシー特有の匂いがした。
 小さな頃からタクシーにお世話になることの多かった俺には、不快というより懐かしい匂いだ。
 バックミラー越しに、
「どちらまで?」
 と問いかける運転手に、住所を教えて、広い座席にゆったりと体を沈める。
 夜の街のネオンや喧騒と切り離されて、正直ホッとした。
 
 真夜中も近いというのに、道を行き交う人や信号待ちで並んでいる車の数は驚くほどに多い。
 丸々一回分信号を待ったのに、数台しか前に進まない渋滞を見やって、ため息を吐く。
(まずいな……本当に兄貴より遅くなるかもしれない……)
 少し歩いて大通りを抜けた後に、もう一度タクシーを拾ったほうがいいのじゃないかという思いが頭を過ぎった時、すぐ横の舗道を歩いていた酔っ払いの一団が、わっと沸いた。
 
(なんだろう?)
 見るともなしに目を向けた先では、女の人が歩いていた。
 小さな人だった。
 真っ赤な顔をして、何人かで肩を組みながら歩いているサラリーマンたちの肩ほどまでしか身長がない。
 腰まである長い髪には緩やかにウェーブがかかっているが、先のほうは色が抜けてしまって薄い色になっている。
 薄手のワンピースから剥き出しになっている白い腕も、裸足の足も、ビックリするほどに華奢で細くて、思わずドキリとした。
 
「姉ちゃん、大丈夫かあ?」
 酔っ払いたちが、笑いながら声をかけているのも無理はない。
 彼女はひどくヨロヨロとした足取りで、左腕を右手で押さえながら歩いていた。
 
 俯いたまま足をひきずり、歩き続ける後ろ姿から目が離せない。
 
 ようやく進み始めたタクシーの運転席では、
「お待たせしてすみません。この先で事故でもあったんですかね。いつもはこんなに混まないんですが……」
 運転手が何かを話しているが、俺にはまったく聞こえていなかった。
 ガラス窓越し、ゆっくりと追い越していく彼女の姿に視線を奪われたまま、引き寄せられるように後ろをふり返る。
 
 長い髪に隠れた小さな顔がどんな表情をしているのかは見えなかったが、リヤウインドウの中で小さくなっていく彼女を、瞬きもせずに見つめ続けていた俺は、
「すいません……ここで止めてください」
 自分でもよくわからないうちに、運転手に声をかけていた。
「はい?」
 驚いたように聞き返される間にも、彼女の姿はどんどん小さくなっていく。
「降ります! すみません!」
 俺の叫びに、運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。
 何事かをぼやきながら開けてくれた後部座席のドアから、転がり出るように舗道に降り立つと、俺は財布の中から千円札を抜き取った。
 
「すいません。お釣りはいいです」
 運転手は胡散臭げに俺を眺め回すと、その千円札を受け取った。
「ありがとうございましたあ」
 
 おざなりにかけられた言葉に背を向けて、舗道をふり返る。
 驚いたことに彼女が顔を上げてこちらを見ていた。
 
 対向してきた車のライトに、白い小さな顔が照らされる。
 顔の半分を占めているかのように大きな黒目がちの瞳は、泣いているように光っていた。
 
 そう思った瞬間、俺のやわな心臓は、何か大きな力で握りつぶされたかのような衝撃を受けた。
 薬を飲んだ直後の状態でなかったらどうなっていたのか、正直、想像もしたくない。
 
 黙ったままこっちを見つめている瞳に何と声をかけたらいいのか、頭は必死に考えようとしているのに、俺の口はそんなことおかまいなしで、勝手に動き出す。
「送るよ」
 
 驚いたように、彼女が自分の後ろをふり返って確認してみたのが可愛かった。
(そうだよな。いきなりだよな)
 
 自分でも可笑しくなる。
 でも他の言葉は浮かんでこない。
「送るよ」
 
 愚直にそのセリフをくり返す俺に、彼女は少し首を傾げた。
 長い髪が、華奢な肩から滑り落ちて、小さな体全体を包みこむようにフワリと揺れる。
 
 今にも消えていなくなってしまいそうな儚げな雰囲気が、たまらなく俺の胸を焼いた。
(どうしよう? いったいどうしたら、頷いてもらえる?)
 
 変な焦燥感に駆られたその時の俺の気持ちなど、彼女にわかってもらえるはずがない。
 俺自身も、自分が何を考えているのか、いったいどうしたいのか、まるで理解できない。
 
 ただなぜか、その人に声をかけずにいられなかった。
 黙ったまま通り過ぎるなんてできなかった。
 
(こういうのをなんて言うんだろう?)
 考えながら前髪をかき上げる。
 焦っている時の俺の癖だ。
 伸ばしっぱなしの前髪が、時々こうして邪魔になるから、考えをまとめようとする時なんかに、俺はよく髪を上げてみる。
 そうすると、見えなかった物が見えたりするように、自分の頭の中のもやも、自然と晴れたりする。
 
(ああ……なんだ。簡単なことじゃないか)
 少し冷静になって考えてみたら、笑ってしまうくらいに、ことは簡単だった。
 
(……一目惚れだ)
 自分で納得したら、笑わずにいられなかった。
 なんとか理由を捻り出すより先に、思わず声をかけずにいられないほど、俺はどうやらその人に惹かれたらしかった。
 
(幸先短い人生だって悲観ぶってるわりには、こういうことだけちゃっかりしてるんだよな、俺って奴は……)
 そう自覚したら、もう一度笑いながら彼女に言うしかなかった。
 
「送るよ。一緒に帰ろう」
 OKをもらえるはずなどないと思ったのだ。
 俺が彼女だったら、こんな突然現れた得体の知れない奴に、ついて行ったりなどしない。
 
 断られるか。
 無視されるか。
 とにかく彼女から何らかの反応が返ってきたら、下手なナンパみたいな真似はさっさと切り上げて、潔く背を向けるつもりだった。
 それぐらいの常識は、ふわふわとピンク色に染まった俺の頭の中にだってかろうじて残っていた。
 
 それなのに彼女は、俺に向かってコックリと頷いた。
 細い首が折れてしまうんじゃないかと思うくらいに、力強くしっかりと頷いたのだ。
 
(そんな馬鹿な……!)
 心の中で叫んだ言葉とは裏腹に、俺の胸はヤバイくらいに高鳴り始める。
 思いがけず無理な運動をしてしまった時の、何倍も何十倍も速い速度で、脈打ち始める。
 
(ちょ、ちょっと待ってくれよ……)
 必死に冷静さを取り戻そうとする俺をあざ笑うかのように、ドキドキという音は、どんどん大きくどんどん早くなる。
 一歩一歩俺に近づいて来る彼女の姿から目を放せずに、見つめる一秒毎に、それは世界中に響き渡っているんじゃないかと思えるほどに、ますます大きくなった。
 
(ずいぶんかかとの高い靴を履いているのに、あんまり背の高いほうじゃない俺の肩に届くか届かないかくらいだなんて……いったいこの人の身長は何センチなんだろう?)
 少なくとも俺の知っている女の人の中では、一番小さい部類に入ることだけは確かだ。
 
 身長ばかりではない。
 細い肩も腕も足も、ビックリするほどに小さくて、並んで歩きながらつい目を向けずにはいられない。
 
(袖がない形の、こういうワンピースをなんて言うんだっけ?)
 確か昨年、夏のもの凄く暑い頃にひとみちゃんも着ていて、その時名前を教えてもらったはずなのに、忘れてしまった。
 
『そんなこと聞いてなんになるのよ?』
 生意気この上ない口調でひとみちゃんは俺に問いかけたが、
『さあ、なんになるだろう……?』
 俺だってなんとなく聞いてみただけだった。
 
 そう、あの時はクーラーの調子が悪かった病室で、ひとみちゃんだけがやけに涼しそうだったのだ。
 いくら暑いからと言って、たった一枚身につけているTシャツを脱ぐわけにもいかなかった俺は、そんな彼女がうらやましかった。
 
『涼しそうだね。ひとみちゃん』
 ベッドの上で苦笑する俺に、ひとみちゃんはクルリと廻って、ワンピースのスカート部分がまあるく広がることまでわざわざ見せつけてくれた。
 
『涼しいわよ。いいでしょ?』
 自慢げに胸を張って、珍しく笑い返してくれた彼女は、窓から射しこむむ真夏の太陽を背に受けて、本当に眩しいくらいに綺麗だった。
 
(そう……あれは確か八月だった……)
 しっかりと思い出した途端、自分の隣を歩く小さな人のことが、たまらなく気になった。
 
(寒くないのかな?)
 日中はだいぶ暑くなってきたとはいえ、まだ六月だ。
 梅雨のせいでぐずつきがちな天気のせいもあって、夏本番のような服装で出歩くにはまだ肌寒い。
 しかも今は真夜中だ。
 俺だって家を出てくる時に、わざわざ一枚長袖を上に引っかけてきた。
 
 それなのに、まじまじと見るのは申し訳ないと思いながらも、つい目が行ってしまう彼女の細い肩には、肩紐一本しかかかっていないのだ。
 
 その華奢な白い肩から、俺は慌てて視線を逸らした。
 白い肌の所々に、まるで不似あいな黒ずんだ傷痕がいくつも残っている。
 
 思わず自分が着ていた長袖のシャツを脱いで、彼女にさし出す。
 
「いいよ」
 小さな手が俺にそれを押し返そうとしたが、構わずに細い肩に掛けた。
 
(迷惑かな?)
 思ってもみなかったほどの自分の積極性に、実は内心冷や汗ものだったのだが、彼女はそれ以上の抵抗はせず、俺のシャツをぎゅっと握りしめて、
「ありがとう」
 と小さなお礼の言葉をくれた。
 
 なんとかポーカーフェイスを気取ろうとしている俺の顔を、彼女がすぐ隣で見上げていることは、気配でわかる。
 あの黒目がちな大きな瞳が、今自分を見ているんだと思うと、額に変な汗が浮かんできそうに緊張した。
 
 ドキドキと耳の奥で鳴り響く心音に、
(静まれ、静まれ)
 息を詰めるように呼びかけていると、
「高校生だよね?」
 ふいに静かな声が俺に問いかけた。
 
 その声につられて視線を下ろすと、小さな紅い花びらのような唇が目に入る。
 女の人の化粧の仕方なんて詳しくはない俺の目にも、彼女のビッシリと長い睫毛や瞼の鮮やかな色、濡れたように光る唇なんかが、およそ『薄化粧』という言葉からほど遠いことはわかった。
 
 今まで俺の身近にいた看護師さんたちや、ひとみちゃん、同じクラスの女の子たちとはあきらかに違ういい匂いが、その人から香ってくる。
 いつまでも鼻の奥に残りそうな甘い香りに、嫌な気持ちはしなかったが、俺と彼女との間に距離を感じた。
 そしてその距離感に、自分勝手に腹を立てた。
 
(そうだよ、高校生だよ)
 ふてくされ気味に返事する代わりに、俺はその人に、
「あなたは違うでしょ?」
 と逆に問いかける。
 
 心の中で動揺すればするほど、表面上は必死に余裕の笑顔を浮かべようとする。
 残念ながら俺というのはそういう人間だ。
 
 負けず嫌いなのか。
 プライドが高いのか。
 誰にも弱みを見せたくないというのが一番真理かもしれない。
 
 そんな自分に、自分でも愛想が尽きることは多いのだが、彼女もそんな俺の応対が気に入らなかったのか、ふっと視線を逸らして真っ直ぐに前を向くと、
「私これでも大学生なんだ」
 と小さく呟いた。
 
『これでも』というのは、綺麗にメイクされた小さな顔の左頬が、可哀相なくらい腫れていることを言っているのだろうか。
 それとも身長差の関係で、ついつい上から見下ろす格好になっていた俺に、本来の序列を知らしめてくれたのか。
 どちらにしても確かなことは、彼女が俺より三歳以上は年上だということだった。
 
 だからといって、そのこと自体には、特別に思いはなくて、
「ふうん、そう」
 ちょっと素っ気ないくらいになってしまった俺の抑揚のない返事に、彼女は、
「やっぱり違った。フリーターだな、私」
 軽く頭を振りながら、訂正を入れる。
 
「ふうん、そうなんだ」
 本当に何も思うところはなくて、ただ条件反射のように返事をする俺に、その瞬間、彼女はわざわざ立ち止まって体ごと向き直った。
 
「何よ。何か文句ある?」
 あきらかに怒気を含んだ声に、驚いて見返すと、まるで俺に挑んでいるかのようにキッと大きな瞳に力をこめて、彼女は俺を睨み据えていた。
 
 さっきまでの儚げな雰囲気とはあきらかに異なるその視線に、俺は正直面食らった。
 華奢な外見と細い声などから、おとなしい人なんだろうと勝手に判断していた俺に、彼女が抗議の声を上げたように感じた。
 
 おとなしいどころか、全身傷だらになりながらも自分の中の何かを必死で守ろうとしている彼女は、ひょっとしたらかなり強い人なのかもしれない。
 せいいっぱい強がって、肩肘張ってでも、何かを守りたいという思いだったら、俺にも覚えがある。
 おそらく彼女よりは数年短いだろう俺のこれまでの人生で、何度も経験したことのある思いだ。
 
『同情なんていらない。自分で自分のせいいっぱいを私は生きている。だから誰も何も口出ししないで』
 
 彼女の大きな瞳が語った言葉じゃない言葉を、俺は勝手にそう受け取り、深く賛同した。
 そうだそうだと、支援したいような気持ちになった。
 
 だから、文句があるのかという彼女の問いに対し、
「何も」
 と答えた。
 
 夜の街をフラフラと歩く頼りなげな後ろ姿に、
(守ってやりたい)
 なんて思ってしまった俺の儚い幻想はいい意味で裏切られて、どうやら強い意志を持って生きているらしい彼女に、最上の敬意を払ったつもりだった。
 
 強い光を放っていた黒目がちの大きな瞳が、俺の返事にビクッと見開かれた。
 固く握り締められていた握りこぶしが、胸のあたりにぐっと押しつけられる。
 
 さっきからずっと視線を逸らすことのなかった大きな瞳が、途端に危うい色に揺れて、
「ゴメン、やっぱり私、大学生。また学校に行きたい」
 それだけを呟くと、彼女は深くうな垂れてしまった。
 
 彼女の胸が今どんなに痛いか、俺にはわかる気がした。
 
『また、学校に行きたい』
 実際に行ってみたら、何をそんなに憧れていたのかと笑ってしまうくらいに平凡な毎日だったけど、その平凡を手にできない日々に縛りつけられていた俺にとっては、それは小さな夢だった。
 ささやかな――けれど心からの願いだった。
 
 他の人が聞いたら笑ったのかもしれない。
 
「なんだ、そんなこと? 行けばいいじゃない?」
 と軽く受け流したのかもしれない。
 
 けれど俺にとっては、それが一ヶ月前の自分の切実な望みだったからこそ、彼女の言葉が胸に染みた。
 
 深く俯いてしまった白いうなじに、
「うん、そうだろうね」
 なるべく静かに声をかけた。
 
 懸命に何かと戦っているらしい彼女の、心を挫いたりしないように、邪魔にならないように、それだけを心がけた。
 
 しばらく俯いたまま、身動きもしなかった彼女の肩が、小刻みに震え出した。
 俺が貸してあげたシャツからまるで見えていなかった両腕が、手首まで顔を出し、細くて長い十本の指が、まるで何かを隠すかのように、彼女の顔に押し当てられる。
 
 隠しているのは感情か。
 それとも俺なんかには見せたくない表情か。
 そのままの状態で彼女は一歩、また一歩と歩きだす。
 
 俯いたままの背中を慌てて追いかけながら、のぞきこむようにして確認した彼女の指の隙間からは、透明な水滴が見えた。
(え? 泣いてるの?)
 
 ギクリとして、
「どうしたの?」
 問いかけた声は、自分でも笑ってしまうほどに裏返った。
 
 けれど彼女は笑わなかった。
 顔を覆っていた両手を放して、それが濡れていることを確認し、自分でも驚いたように俺の顔を見上げてきた。
 黒目がちな大きな瞳からは、止めどもなく涙が溢れていた。
 
 そんな彼女を目にした時の気持ちを、何と表現したらいいのだろう。
 俺のヤワな心臓よりも、もっと胸の奥の深いところに刃物で切りこまれたように、焼けつくような痛みが全身を襲った。
 
(大丈夫。これは発作なんかじゃない)
 自分に言い聞かせておかないと、かん違いした痛覚が勝手に体を動かして、その場にうずくまってしまいそうな胸の痛さだった。
 
 ひりひりと焼けるような、ギリギリと締め上げられるようなその痛みに、俺はもう少しで
(やめてくれ!)
 と叫び出しそうだった。
 
 でもそうしなかったのは、目の前で泣き続ける小さな人の、ハラハラと止まらない涙をなんとかして止めてやりたいと、そんなお節介が、自分自身の胸の痛みに勝ったからだ。
 
 さっきまでの強い瞳はどこへ行ったのか。
 本当に今すぐにでも消えてなくなってしまいそうな気配のその人を、どうにかしてこの場所に止めておきたかった。
 
(まったく……どこまで、ずうずうしいんだ?)
 自分で自分を笑いながらも、実際にはただ見守ることしかできない俺に、彼女は自分自身を抱きしめるようにしながら、視線だけ向けた。
 
 上目遣いに、俺の顔を必死に見つめながら、懸命に嗚咽を我慢していた口を、ようやく開いて呟く。
「こんなのは私の欲しかった愛じゃない」
 
 ガツンと一発、鈍器のような物で頭を殴られたような気がした。
 雷に打たれて感電したような気持ちになった。
 けれど、もう一度両手で顔を覆って歩き始めた彼女の小さな後ろ姿に、俺はすぐに、
(そうか)
 と心の中で納得する。
 
 何がわかったというのか。
 何が「そうか」なのか。
 自分でもよくわからないままなのに、ただ足だけは彼女のあとを追って動きだす。
 
 もう一度肩を並べて歩きながら、
「うん、そうだね」
 口だけはもっともらしい言葉を紡ぐ。
 
 けれど実際胸のほうは、あいかわらずキリキリと、ちょっと深刻な発作を起こしてしまった時並みに、ずっと痛み続けていた。