それでもキミに恋をした

 病室の窓から見える景色は、ニヶ月前よりも色を濃くしていた。
 青々と繁った木々の葉も、吸いこまれそうに青い空も、長時間見つめていると、目に痛いほどに。
 
「あれっ? ……ここからの景色はもう描き飽きたって言ってなかったっけ?」
 昼食を運んできてくれた看護師さんを、俺は窓際に置いたパイプ椅子に座ったままふり返る。
「そうですよ。でも、まぁいいんだ……」
「ふーん……」
 
 うしろからこっそりと近づいた看護師さんが、俺が胸に抱えているスケッチブックをのぞきこんでくる気配を察して、描きかけのページをパタンと閉じる。
「ダメ。これは誰にも見せないの」
「えーっ? 前は見せてくれてたじゃなーい」
 まだ看護学校を出て三年目だというその看護師さんは、口を尖らして、子供みたいな顔をする。
 
 俺はクスリと笑った。
「でもこれはダメなんです」 
「ふーん……」
 やりかけだった昼食のセッティングを再開した看護師さんは、それをやり終えると、首を傾げながら俺の病室から出ていく。
 
 その背中を見送ってから、俺は描きかけのページをもう一度開いた。
 ――初めて二人で行ったあの海で、俺をふり返って笑う真実さんの姿がそこにはあった。
 


 安静にしている以外にはすることもなく、食事と睡眠と検査をくり返す毎日は、俺にたくさんの考える時間を与えてくれる。
 ベッドの上よりもすっかり定位置になりつつある窓際の椅子で、陽だまりの中、何枚も何枚も真実さんの笑顔ばかりを書き連ねていたら、
(俺たちがあの夜出会ったのは、本当に偶然だったんだな……)
 胸に痛いくらいに、そう実感せずにはいられなかった。
 
 それぐらい、俺の毎日は今、真実さんとは離れてしまっている。
 そもそも外界とも全く隔絶されてしまっているわけだから、当たり前といえば当たり前なんだが、俺が会いに行かなければ、たったそれだけで終わってしまう関係なんだということを、改めて思い知らされた。
 
 それはあまりにも寂しかった。
 もし俺がこのままこの部屋から出られなかったら、それだけでもう二度と会うこともできない人。
 
(そっか……そしたらもう、二度と会えないわけか……)
 自分を追いこむような考えは、今は体にあまりよくないとわかっているんだが、考えずにはいられなかった。
 
 だからといって、今さら真実さんに俺の素性を明かしたりとか、連絡先を教えたりということは、やっぱり考えられない。
(だって……結局はそれって、しばらくの間だけなんだもんなあ……)
 
 たとえば俺がいなくなった後で、履歴に残った俺の電話番号を見る時、真実さんはどんな気持ちになるんだろう。
 俺が入院していたこの病院の前を通る時には――。
 
(悲しんでなんかほしくない。だから『もしも』の前には、俺は絶対に真実さんの前から姿を消しておく……)
 最初から決めていたその決意は、今だって揺らいではいない。
 
(なるべく笑っていてほしい……だから俺のことなんかすぐに忘れて、未来だけを見て生きてほしい……)
 その思いは確かに本物なのに、
(あーあ……でも他の男と一緒にいる真実さんの姿なんて、たとえ空の上からだって、俺、絶対に見てられないや……)
 想像しただけで頭を抱えてしまう自分がいる。
 
 空は高かった。
 どれだけ思っていたって、あんな遠くからじゃ、すぐ近くにいる奴にはきっとかないっこない。
 
 それは当たり前なのに。
 それでいいと思ってたのに。
 今さらどうしようもなく悲しくなるほどに、――地上と空の上は遠かった。


 
「本当にそれだけでいいの? なんならキャンバス運んできたっていいのよ?」
 足繁く俺のところに通ってくれるひとみちゃんは、俺が一冊のスケッチブックと鉛筆だけで、当面の間は画材は要らないと告げると、かなり怪しむような顔をした。
 
「まさか……病院抜け出して、どこかに通ってるんじゃないでしょうね?」
 思いもかけなかった疑いに、俺は彼女がわざわざ途中で買ってきてくれたジュースを思わず吹き出すところだった。
 
「そんっ……そんなことしないよ!」
「どうだか……」
 ぷいっと背中を向けるひとみちゃんの姿に、俺はため息をつく。
 
 もともと小さい頃から俺に喧嘩ばかり売ってくる相手ではあるが、それにも増して最近のひとみちゃんは容赦がない。
 
(なんか怒らせるようなことしたかな……?)
 考えてみれば浮かんでくる答えは一つしかない。
 
「ひとみちゃん……」
 呼びかけると、ふり向きもしないまま、 
「なによ」
 と返事される。
 
 どうにも取りつくしまもないほどの怒りを感じずにはいられないが、昔からずっとそうしてきたように、そんなことはまるで気にしていないような口調で、俺は話を続けた。 
「今度退院したら、俺、高校にもちゃんと行くから……」
 
 ビクリと、俺に背中を向けたままのひとみちゃんの肩が震えた。
 
「絵を描きに」
「海里!!」
 
 鬼のような形相でふり返ったひとみちゃんを見て、俺はたまらず笑いだした。
 
「ほんとだって。秋にある文化祭までには、仕上げたい絵が何枚かあるから……」
「そうじゃなくって……! そうじゃないでしょう!」
「ハハハッ。でもそれが俺にとっては、最優先事項だから……だからいいんだ。きっといくら勉強したって兄貴みたいにはなれないし……」
 
 兄貴には申し訳ないが、ここは引き合いに出させてもらう。
 大学の医学部に現役合格して、外科医への道を一目散に走っている兄を持つと、出来の悪い弟はいろいろと便利だ。
 ――もっともそう思っているのは俺だけで、世間一般的には真逆の感想なのかもしれないけど。
 
「そんなこと、わかんないじゃない! 海里だって成績はいいんだから、ちゃんと勉強すれば陸兄みたいにだって……」
 
「なれないよ」
 
「…………!」
 
 自分ばかりではなく、その言葉がひとみちゃんの心にだって痛く食いこむことはわかっているのに、俺は短く言い放つ。
 
(ああ、俺ってほんとに意地悪だ……ゴメンひとみちゃん……)
 わかっているのに――。
 
「なれない」
 真正面からひとみちゃんの目を見つめて、念を押すかのようにもう一度くり返す。
 
 いつだって強気なひとみちゃんが、呆けてしまったように俺の顔を凝視した。
「そんなこと……ない……もの……!」
 
 強い光を放つ瞳が不安に揺れ始め、震える唇はやっとの思いで切れ切れの言葉を搾りだす。
 その瞬間、――俺はヤバイと思った。
 
(しまった! きっと泣かす!)
 
 でもひとみちゃんはそんな俺の予想を見事に裏切って、
「……だってそんなこと、やってみなくちゃわからないでしょう! やる前から逃げてるんじゃないわよ! バカ海里!」
 いつにも増して大きな声で俺を怒鳴ると、バタバタと足音を響かせて、病室を駆けだしていった。
 
 涙が浮かんできたのは俺のほうだった。
(そうか……逃げてんのか……俺……)
 
 こぶしをギュッと握りしめる。
 痛くなるほどに奥歯を噛みしめて俯いたら、伸ばしっぱなしの前髪が、頬のあたりまで落ちてくる。
 だからたとえ今誰かがこの病室に入ってきたとしても、俺の情けない顔を見られる心配はないだろう。
 
(現実を受け入れて、未来を悲観しないように生きていく……なんてかっこいいこと言ってるけど……ようは俺が何もかもを諦めてるってことなのか……!)
 
 高校を卒業することも。
 未来に夢を持つことも。
 もっと長く生きることも。
 いつか兄貴を越えるという目標も。
 ――ずっと真実さんと一緒にいることも。
 
 諦める。できるはずないんだって、最初から割り切る。
 そのほうが自分も周りの人たちも傷つけずにすむと思ってたのに――。
 
(ひとみちゃんは……悔しいんだ……!)
 俺がはなっからいろんなことを諦めてしまっていることが。
 望みを持つことと一緒に、努力することまで放棄してしまっているのが。
 
(……俺だって悔しいよ!)
 頬を伝って落ちた涙が、固く噛みしめた唇にまで流れてきた。 
(できるんなら……一生懸命に努力したらそれがかなうんなら……俺だってがんばりたいよ! どんなことだってやってみたいよ! だけど……!)
 
 ぐいっと腕で頬を拭った。
 泣いたのなんて本当に何年ぶりかも覚えていないほどひさしぶりりだったから、余計にそれを誰にも見られるわけにはいかなかった。
 
(叶う望みがないってわかってるのに、どうやって夢を見たらいいんだ? 俺には無理だってわかってるのに、どうやってそれを望んだらいいんだよ……?)
 悔し紛れにこぶしを握りしめたけれど、それをどこかにぶつけるなんてことはやっぱりできなかった。
 
 だらんと腕を下ろした時に、病室の入り口のほうから声がした。
「海里ー起きてるかー?」
 珍しく兄貴が、実習の合間を縫って、見舞いに来てくれたのだった。
 
「階段の踊り場にひとみちゃんがいたんだけど……どうした? 喧嘩でもしたか?」
 本人はのんびりとした雰囲気なのに、兄貴の言うことはいつも的を得ているというか、鋭いというか。
 図星をさされると、俺はもう笑うしかない。
 
「喧嘩……じゃないけど、怒らせちゃったんだよ……」
「そっか」
 
 きっと俺の目が真っ赤に泣き濡れていることだって、とっくにお見とおしだろうに、兄気は余計なことは言わない。
 その代わり、重要なことに関しては単刀直入だ。
 
「ちゃんと謝っとけ。な? ひとみちゃんはいつだって、お前のために動いてくれてんだから……」
「うん……」
 
 口先だけで謝るのは簡単だ。
 でも本当の意味で、彼女の期待に添うことができるのだろうかと思うと、言葉は自然と鈍る。
 
 兄貴は窓際の椅子に座り続ける俺の所までやってくると、横に立って窓から外を眺めた。
 そちらに顔は向けないまま、俺は尋ねる。
 
「ねえ……俺っていろんなことから逃げてんのかな……?」
 あとから考えてみたら、ずいぶんとストレートな問いかけだったと思う。
 でもそんなことにも頭が回らないくらい、実はその時の俺は追い詰められていたのかもしれない。
 ――自分でも気がつかないうちに。
 
「ひとみちゃんがそう言ったのか?」
「うん……まあ……」
「そうか……」
 
 兄貴は俺のほうを向こうとはしなかった。
 面と向かうと照れ臭い思いもあるので、その判断は正直ありがたい。
 
 隣にいながら反対の方向を向いて、いつになく弱音を吐く弟に、兄貴はどこまでも優しかった。
「海里はいつも先回りしていろんなことを考え過ぎだからな……それが功を奏す時だってあるし、慎重過ぎるって批判される時だってあるさ……」
 
 兄貴が語る俺には、『病気だから』というハンデは存在しない。
 あくまでも、ただの一人の『一生海里』という人間として見て、評価してくれる。
 その見方からして、俺とは全然違うということがよくわかった。
 
(そっか……覚悟はしてても、それを言い訳にしたらいけない……そういうことなんだ……!)
 俺は俯いていた顔を跳ね上げた。
 
「じゃあさ……たまには俺だって……無理だってわかってることに向かってみてもいいのかな……?」
 
 ゆっくりと兄貴が俺のほうに向き直る気配がした。
 座る俺の頭上に、強い視線が注がれる。
 聞こえてきた兄貴の返事は、まるでひとみちゃんがさっき叫んでいた言葉とそっくり同じだった。
 
「無理かどうかなんてやってみなきゃわからない。それは俺だって、お前だって一緒だよ」
「そっか。わかった」
 まるで神様からでも許しをもらったかのように、俺はホッと息を吐いて、ギュッと両目を瞑る。
 
(だったら俺は諦めない。絶対もう一回真実さんの隣に戻る。彼女を守る役目を他の誰かに譲ったりなんかしない……少しでも長く一緒にいられるように、これからだってずっとずっと努力する……!)
 
 閉じた目をもう一度開いた瞬間、目線の遥か向こうにひとみちゃんが現われた。
 いつものような凛とした強さを取り戻した瞳で、真っ直ぐに俺を見ている。
 
 負けない意志をこめて、俺もひとみちゃんを見返した。
 
「ひとみちゃん……やっぱり退院したら、俺、高校に行くよ。絵も描くし。俺の一番行きたいところにも毎日行く。それでちゃんと病院にも定期的に検診に来て……って……あれ? これじゃやっぱり毎日学校行くのは……ムリか?」
 
 ボッと遠目に見てもわかるくらいにひとみちゃんは頬を赤くして怒った。
「だから! それはそれでいっぺんに欲張りすぎなのよ! 加減ってものを知らないわけ? ……バカ海里!」
 
 ひとみちゃんの不器用な優しさがいっぱいこもった、いつも通りの罵声が嬉しくて、俺は兄貴と一緒にお腹を抱えて大笑いした。
 ひさしぶりに歩く真実さんの大学へと続く長い道のりは、もう夏色が濃かった。
 初めて出会った夜は長袖のシャツを着ていたことを思えば、まるで駆け足で、数ヶ月が過ぎてしまったかのようだ。
 しかし実際には、俺と彼女が出会ってから、まだ一ヶ月ちょっとしか経っていない。
 
(密度が濃いっていうか……もう何から何まで俺の予定は狂いっぱなしっていうか……)
 
 二ヶ月前。
 今日と同じように病院を退院したあの日には、まさか自分がこんなに誰かを好きになるなんて、思ってもいなかった。
 その想いに背を向けるどころか、できるだけの間、彼女の傍にいようと決断するなんて想像もしなかった。
 でも――。
 
(この想いはきっと俺の力になる。もっと長く生きたいと願って、これまでよりずっと努力する原動力になる。きっと……!)
 
 だから、うしろめたさを感じる必要はない。
 真っ直ぐに前を向いて、いつものように真実さんに会いに行こう。
 
『いったいどこに行ってたの?』なんて、不安に思わせる隙もないほどに、入院する前と全然変わらない自分を必死に装って――。
 
 昨晩まで点滴のチューブが繋がっていた腕を持ち上げてみる。
 無数の針の跡は、捲り上げたシャツの袖を下ろしてしまえば見えない。
 
 顔色が悪くはないかと、出かける前に念入りに鏡ものぞいた。
 少なくとも真実さんが知っている俺以上に、ひどいやつれようにはなっていないはずだ。
 ――たぶん。
 
 気温はかなり高かったが、歩いてみると気持ちのいい風が吹いていてよかった。
 
「退院したその日にどこに行くのよ!」
 と怒鳴るひとみちゃんに、 
「散歩!」
 と笑って言えるくらいに、天気がよくてよかった。
 
 何もかもが俺にとって好都合で、何よりひさしぶりに真実さんに会えることが嬉しくて、だから俺はすっかり失念していた。
 ――彼女が決して、安穏とした平和な日常の中にだけ、住んでいるわけじゃなかったってことを。
 
 俺がこの日退院したのだって、単なる偶然なんかじゃなく、ひょっとしたら目には見えない誰かが、ギリギリのところで間にあわせて――いや間にあわせないで――くれたのかもしれなかった。


 
 真実さんが朝大学に行く時間は、ほとんど変わることはないけど、帰る時間は曜日によってまちまちだ。
 
 月曜日は昼一で終わるから三時前とか。
 火曜日はもう一限あるから四時半までとか。
 しっかり暗記してしまっているところが、我ながら怖い。
 
(今日は早く終わる日!)
 
 正門前で待っているのが俺の中の決めごとなので、真実さんが門から出てくるのにまにあうように家を出る。
 しかし大学へと続く広い舗道を半分まで来たあたりで、遥か前方に予想外の影を見つけた。
 
(あれ……? ひょっとして……?)
 
 スラリと背の高い髪の長い女の人と、小柄な短い髪の女の人。
 ――あれはひょっとして貴子さんと真実さんじゃないだろうか。
 
(どうしたんだろう?)
 首を傾げたのは、いつもよりかなり早い時間に二人が大学から帰っているせい。
 そして真実さんらしき人物が、まるでもう一人の人物に支えられるようにフラフラと歩いているせい。
 
(真実さん……だよな……?)
 そう思いながら、それまでのんびりと歩いていた足を少し速める。
 
 近づくごとに、その人が俺があんなに会いたかった人――真実さんだと確信を持つ。
 でも――。
 
(どうして?)
 あんなに危なっかしい足取りなんだろう。
 貴子さんにすがるようにして歩いてるんだろう。
 最後に会った時にはころころとめまぐるしいくらいに変わっていた表情が、凍りついたみたいに変わらないんだろう。
 そして――。
 
(首に巻かれてる白い包帯は……何?)
 
 頭の中で何かがスパークして、俺は全力で走りだした。
 ほんの数時間前まで病院に入院していたはずの自分の体のことなんて、――もうまったく頭になかった。
 
「真実さん! 真実さん! どうしたの?」
 走りこんで抱き止めた彼女の体は、ぐったりと力がなかった。
 意識を失って崩れ落ちるところにギリギリでまにあったことに、俺の背中を冷たいものが流れ落ちる。
 
「遅いんだよ! 少年!」
 さっきから同じセリフを何度もくり返している貴子さんは、真実さんを抱き止めた俺の胸ぐらを力任せに掴んだ。
 いつも真実さんの傍にいて、どんなことからだって自分が守ってみせると自信満々のあの貴子さんが、真っ青な顔で震えている。
 
「貴子……さん……?」
 悔しそうに俺から目を逸らした貴子さんは、俺のシャツを掴んだ手も、力なく下ろした。
 
「ごめん。八つ当たりだった……」
 冷静さを絵に描いたような人だと常々思っていたのに、いったいどうしたのか。
 貴子さんの動揺はきっと、真実さんの今の状態と無関係なわけがない。
 
 腕の中の小さな人を見下ろしてみる。
 初めて会ったあの夜のように、可哀相なくらいに頬が腫れていた。
 他にも小さな引っかき傷のようなものがいくつかある。
 うっすらと血が滲んだ傷にそっと指先で触れて、俺はそのまま彼女の首に巻かれた包帯を撫でた。
 
 小さな顔は俺なんかよりよほど蒼白で、固く閉じた睫毛が濡れているのが、たまらなく俺の胸を灼いた。
 
「どうして……?」
 必死に感情を押し殺そうとしているのに、声が震える。
 どうしようなく湧き上がってくるある疑いに、感情が引きずられる。
 
「何が……あったんですか……?」
 ふうっと息を吐き出した貴子さんは、苦しげな声でポツリポツリと、今日大学で起こった出来事を俺に教えてくれた。
 
「大学で……岩瀬に捕まったんだ……真実は逃げようとしたし、私たちも助けようとしたんだけど……そうできないでいるうちに、首を……!」
 
 ゾクリとどうしようもなく背筋が粟だった。
 否応なく視線が引き寄せられるのは真実さんの首に巻かれた包帯。
 
(ダメだ。このままじゃ怒りで感情が焼き切れる! 憤りが激しすぎて、動悸から発作が起きてしまう……!)
 
 俺は貴子さんの言葉を最後まで待たずに、真実さんの体を両腕に抱き上げた。
 
「……おい? 少年……?」
 訝しげに呼びかける貴子さんのほうはもうふり返らず、真実さんを抱きかかえたまま、彼女のアパートに向かって歩きだす。
 
「帰りましょう。貴子さん」
 それだけ言うのがせいいっぱいだった。
 長い前髪の下で深く俯いた顔は誰にも見せられなかった。
 
 何度も何度も真実さんを傷つけるあの男と――それから自分自身に、腹が立ってたまらなかった。


 
 たとえば俺がもしその場にいたら、真実さんを守ることができていただろうか。
 ――答えはわからない。
 
 残念ながら俺の体は、人に自慢できるほど立派なものではない。
 でも真実さんが危険な目にあったら、それを止めに入るくらい、ほんの少しでも盾になるくらいはできたはずなんだ。
 それなのに――。
 
(俺は今日何をしてた……?)
 
 病院を出て、家に帰って、午後からのために午前中はちょっぴり体を休めて。
 それらは決して悪いことではない。
 悪いことであるはずがない。
 
 なのに、――真実さんを守れなかった!
 ――その思いが、どうしようもなく俺を苛立たせ、落ちこませる。
 
 彼女のために何ができるのか。
 もっと真剣に考えればよかった。
 
 時間がきっと解決してくれるなんてやさしいセリフ。
 真実さんだけに任せておいて、俺はもっと血眼になってあの男を追えばよかった。
 
 用心のためになんて自分の体ばっかり労わらずに、彼女から目を離さなければよかった。
 ずっと、ずっと傍にいればよかった。
 
 こめかみが引きつるほどに奥歯を噛みしめて、ベッドで眠る真実さんの傍らに座りこみ俯いた俺に、貴子さんが呼びかける。
 
「真実はあんたをずっと待ってたよ……どこに行ってたのかなんて野暮なことは聞かない……でも本気でこの子の傍にいてくれるのか、無理なのか……こんな時で悪いけど本心を聞きたい……!」
 
「…………!」
 俺は顔を跳ね上げた。
 
 貴子さんが眼鏡の奥の鋭い瞳を、いつもよりかはいくぶん和らげて、俺に向けていた。
 
「なんで真実ばっかりこんなひどい目にあわなきゃならないんだ? もっと幸せになってほしいって心から思うよ……! 真実が好きなのはあんただ……あんたは真実を幸せにできるのか……それとも無理なのか……これ以上この子が傷つく前に、はっきりさせろ……! 無理だって言うんなら、もう真実の前に現われるな!」
 
「俺は……!」
 何も言えない。
 言えるはずがなかった。
 
 どれだけ真実さんを想っているのかとか、どれだけ彼女が好きなのかとか、もしそんな気持ちだけをはかるんだとしたら、誰にも負けない自信がある。
 
 会いたい。
 傍にいたい。
 触れたい。
 抱きしめたい。
 
 守ってやりたい。
 笑顔が見たい。
 幸せにしたい。
 ずっとずっと一緒にいたい。
 
 溢れんばかりの想いなら、絶対誰にも負けない。
 
(でも俺には……!)
 
 未来がない。
 彼女と共に歩く将来を夢見るだけの時間がない。
 どんなに望んでも、どんなに願っても、決してそれだけは手に入らないことがもう決まってしまっている。
 だから――。
 
「俺は……!」
 それ以上は続けることのできない言葉を、何度もくり返すしかなかった。
 
 こんなに真剣な貴子さんに嘘はつきたくないから、できもしないことをできるとは言えない。
 でもそうできるものなら本当はそうしたいのにと、心が叫んでいるから、真実さんを諦めるような言葉は言えない。
 
 ――俺には絶対言えない。
 
「俺は……!」
 てのひらに爪が食いこむほどにギュッときつくこぶしを握りしめて、俯くことしかできない俺の名を、ふいに真実さんが呼んだ。
 
「海君……」
 慌ててベッドの上で横になっている彼女の顔をのぞきこむ。
「真実さん……?」
 
 目が覚めている様子はなかった。
 少し苦しそうではあるが、比較的規則正しい寝息をたてている。
 俺が返事をした途端、苦しげに少し寄せられていた眉根が緩んで、あどけなく綻んだ寝顔が胸に痛かった。
 
(真実さん……! 真実さん……!)
 
 この寝顔を守るためだったら、どんなことだってやる。
 やりたい。
 なのに俺にはどうして時間がないんだ。
 
 涙が浮かんできそうな思いで、唇を噛みしめる。
 そんな顔を誰にも見られたくなくて、再び俯いたんだったのに、頭上から貴子さんの声がした。
 
「わかった……よっぽどの事情があるんだってことと、それでもあんたが真実の傍にいたいって思ってるってことはよくわかった……!」
 
 俺の本心をかなり正確に言い当てられて、ドキリと心臓が跳ねる。
 それでも顔を上げて、貴子さんの顔を見ることはできない――今はちょっとできない。
 
「約束してくれ……真実をこれ以上傷つけないって……どうすれば真実が幸せになれるのか、あんただってちゃんと考えている……そうなんだろ?」
 
 俺が頷いたのと、ベッドの上の真実さんが身動きしたのがちょうど同時だった。
 
「真実!」
 俺と貴子さんが見守る中、真実さんがゆっくりと瞼を開けた。
 
 目を覚ました途端に、真実さんは上からのぞきこんでいた俺の顔に手を伸ばした。
 頬にそっと触れて、
「会いたかったよ」
 と消え入りそうな声で囁く。
 
 その儚げな笑顔がたまらなく胸に痛かった。
 
 涙が浮かんできそうな衝動を必死にこらえて、真実さんの手に、自分の手を添える。
「俺もだよ」
 せいいっぱいの想いをこめて、そう返した。
 
 しばらく俺の顔をぼんやりと見上げていた真実さんの目が、次第に揺らぎ始める。
 俺の顔から部屋の天井、そこから部屋の壁、見つめる先を変えるたびに、どんどん動揺していくのが手にとるようにわかる。
 
(ひょっとして、寝ぼけてたのかな……?)
 
 そうに違いない。
 そうでなければ意外と照れ屋で意地っ張りな真実さんが、俺の顔を真っ直ぐに見上げて「会いたかった」なんて言うはずがない。
 焦りを含んできた顔をじっと見下ろしていると、自然と頬が緩んでくる。
 
「一応、私もここにいるんだけどね……なに? 真実、気がついたの?」
 背後から貴子さんのちょっと不機嫌な声が聞こえた。
 
 真実さんは瞳をまん丸に見開いて慌てて飛び起きようとし、
「痛っ」
 と悲鳴を上げて動くのを止めた。
 
 かわいそうに、と思うのに――ダメだ。
 笑いが止まらない。
 
「海君?」
 そんな困り切ったような表情で俺を見上げないで。
 わざと意地悪して、すました顔で、
「うん。なに?」
 なんて答えてしまうから。
 
 真っ赤になって、俺の頬に添えた手をひっこめようとしないで。
 決して離さないように、ますます強く掴んでしまうから。
 
「真実も大丈夫そうだし、お邪魔になるのもなんなんで……じゃ、私はそろそろ帰ろっかな……」
 俺のうしろで立ち上がる貴子さんに、真実さんはまるで助けを求めるような顔を向ける。
 
(そんな顔しなくたって……)
 少なからず傷つく俺に、貴子さんが釘を刺すように言う。
 
「おい。相手は怪我人なんだから、無茶するなよ少年。真実の悲鳴が聞こえたら、私がすぐに飛んでくるからな」
 
 もちろん『無茶』するつもりなんか始めっからないのに、あえてそうつけ加えられると、むくむくと変な負けん気が起きてしまう。
 
「貴子!」
 講義の声を上げた真実さんを、抱き起して抱きしめて、
「はい。約束はできないけど、努力はします」
 聞きようによってはどうとでも取れる言葉を、ニッコリ笑いながら貴子さんに返した。
 
「海君!」
 真実さんの叫びは、悪いけど今だけは無視だ。
 
 ふり返った貴子さんは何かを探るように、しばらくじっと俺の顔を見つめていた。
 それはきっと、さっきまで二人で話していたことの確認。
 ――真実さんをこれ以上傷つけないように。彼女が幸せになるためにはどうしたらいいのかちゃんと考えろという指令。
 
 俺はできる限り真剣な顔で、貴子さんを見つめ返した。 
(絶対に忘れませんから! 自分の引き際はちゃんと見極めますから!)
 
 クルリと貴子さんが俺たちに背を向けた。
「よし。じゃあとはよろしく!」
 うしろ手に手を振りながら、さっさと部屋から出て行ってしまう。
 
 バタンとドアの閉まる音に、ビクリと真実さんの体が震える。
 恐る恐る俺を見上げた顔が、かわいそうなくらい途方に暮れていた。
 
「海君は……まだ帰らないの……?」
 いかにも帰ってほしいと言わんばかりにそう尋ねられると、 
「うん。今日はひさしぶりだし……もう少し傍にいるよ……」
 ついつい笑顔でそう答えてしまう。
 
 とは言え、狭い部屋に身動き取れない真実さんと二人っきりで取り残されて、実際途方に暮れていたのは、俺のほうだった。
 


 誰かを好きになったら、その人を手に入れたいと思うのは当然で、触れたいと思うのも当たり前のことなのかもしれない。
 でも俺は自分がそんな感情を持つことに、罪悪感しかない。
 
 ずっと一緒にいることもできないのに、その場の感情だけで俺が突っ走ってしまったら、真実さんを傷つけるだけだ。
 悲しい思いをさせてしまうだけだ。
 
 だからそんなこと、初めから望んだりしないように、せいいっぱい自制して接しているのに、二人きりでこんなに寄り添っているのは、ある意味拷問かもしれない。
 ずっとずっと真実さんを抱きしめていたいけれど、俺にその資格はない。
 
(それに俺は、真実さんを守ってやることができなかったんだから……)
 その事実が胸に痛かった。
 
「……海君」
 ふいに真実さんが俺を呼ぶ。
 ゆっくりと視線を向けた先では、彼女がとっても心配そうな顔で俺を見上げていた。
 
(自分のほうがひどい状況だっていうのに、真実さんはいつだって俺の心配ばっかりだ……)
 
 優しい人。
 俺にとっては出会えたことが奇跡みたいな――俺の全てを包みこんで許してしまう人。
 いつだって甘えてばかりで、守りたいって気持ちばかりで、俺は結局何一つ真実さんに返せてなどいない。
 
「……海君」
 もう一度呼ばれたから、小さく笑って、その傷ついた体をそっとベッドの上に横たえた。
 離したくないという俺の感情だけで、彼女に無理をさせたらいけないと、形ばかり格好をつける。
 
「海君は何も悪くないよ……」
 胸が締めつけられるように痛かった。
 自分の一言がどれだけ俺を救ってくれるのか、真実さんはわかってるんだろうか。
 いや、きっとわかってなどいないのだろう。
 
 それでも無意識のうちに、俺がその時一番欲しい言葉をくれる。
 どうしてこんな優しい人が、俺の傍にいてくれるんだろう。
 ――何ひとつ成し遂げることもできはしない、こんな俺なんかの傍に。
 
「でも……ゴメン……」
 自分を戒めるかのように、俺は首を横に振った。
 
「海君が謝ることは、なにもないんだよ……?」
 優しい言葉が、底なしに優しい言葉が俺を慰めてくれる。
 でもそれに甘えてしまってはいけない。
 自分の無力さを忘れてはいけない。
 
「でも……守ってあげられなかったから……」
 詫びるように、後悔するように、俺は真実さんの髪を指先でそっと梳いた。
 真実さんは俺の目の前で、まるで安心しきったように無防備に目を閉じた。
 
「ありがとう。でも大丈夫……海君がそんなふうに思ってくれてるだけで、私は本当に幸せだから……」
 息が止まりそうだ。
 必死にこらえていないと思わず愛しさが溢れ出して、彼女に手を伸ばしてしまいそうになる。
 
「大丈夫だよ……私は大丈夫だから心配しないで……ね?」
 お願いだから、俺をそんなに信用しないで。
 キミために何ひとつできやしないこんな俺を、どうか許してしまわないで。
 
「でも……できるつもりでいたんだ……せめて真実さんを守るくらいは、俺にもさせてもらえるんじゃないかって……勝手にそう思い上がってた……!」
 結局本音がもれる。
 
 真実さんが目を閉じていてくれたのが、せめてもの救いだった。
 らしくもなく感情を吐露する姿は、おかげで見られなくて済む。
 
「俺はこんなにも無力だ。ちっぽけで、何も望めない存在だ。だけどたった一人だけ、真実さんのためにだけは、何かができるんじゃないかと思ってたのに……きっと俺はそのために生まれてきたんだって、ようやく胸を張って言えるって思ってたのに……!」
 
 かなわなかった希望。
 打ち砕かれた願い。
 あまりにも無力な自分。
 
(俺は真実さんの隣にいるのにふさわしくない……ふさわしくなんかないんだ……!)
 
 貴子さんと約束した引き際を、最早すぐ目の前に感じたその時、真実さんがまた苦しい喉を無理やり使って声を出した。
 
「私は、何度も何度も助けてもらったよ……? 海君のおかげで、今の私があるよ……?」
 つうっと一筋、閉じたままの真実さんの長い睫毛から、涙が頬を伝って落ちる。
 
「海君がいなかったら今の私はいないよ。だから海君は無力なんかじゃない……いつだって海君がいてくれるおかげで、私はこうやって笑えるんだから……」
 そして言葉のとおり、――目を閉じまま彼女は笑った。
 
(真実さん!)
 
 胸が切り裂かれるように痛かった。
 ギリッと奥歯を噛みしめて、どこにいるのかわからない「誰か」に乞い願う。
 悲鳴を上げるかのように心の中で叫ぶ。
 
(お願いだ……一生に一度のお願い……! だから……この人を俺に下さい。他には何も望まない。俺はもうほんとうに他には何もいらないから! ただ真実さんだけ――。俺に――!)
 
 激情のままに彼女に頬を寄せようとして、ゆっくりと目を開いた真実さんと、今までとは比べものにならないほど近くで見つめあった。
 驚いたように、とまどったように、それでも決して俺から逃げようとはせず、もう一度目を閉じた真実さんに、もっと近づこうと思って、――そして俺は、やっぱり思い止まった。
 
(俺にはもう時間がない。……そう……時間がないんだ。そのことを忘れるな……!)
 自分自身の心の声が、俺の行動に待ったをかけた。
 
 ふっと自嘲気味に笑ってから、真実さんの耳元で小さな声で囁く。
 もう二度とは言わないつもりで、たった一度だけ、俺の本心を伝える。
 
「……ありがとう真実さん。何も望めないってわかっていても……やっぱり俺は、真実さんだけは望まずにいられない……できるなら俺のものにしてしまいたい……!」
 そして、彼女の近くからそっと身を退いた。
 
(終わった…)
 安堵とも悲しみともつかない感情で、ずっと握りしめていたこぶしを解いた。
 
 しばらくそのまま目を閉じていた真実さんが、ゆっくりと瞼を開ける。
 少し離れた位置に座り直した俺の姿を確認して、涙が幾つも幾つも大きな瞳から零れ落ちた。
 
(泣かせたくなんかないのに……! ゴメン!)
 自分の感情に引きずられそうになって、彼女を巻きこんだことを、心からすまなく思う。
 
 そんな俺に向かって真実さんはベッドの上に起き上がり、ゆっくりと顔を近づけてくる。
「真実さん!」
 驚いて押し止めようとした俺の手を、真実さんはゆっくりと潜り抜けた。
 そしてそのまま俺の近くに、――ついさっき俺が我を忘れて近づいてしまったぐらいまで近くに――来てくれる。
 
 惹かれるままに頬に伸ばした俺の手を、彼女は避けたりしなかった。
(どうして……!)
 俺が本当に望んでいることを、この人は受け入れて許してしまうんだろう。
 それがたとえどんなことでも――。
 
 俺にはそんな資格はない。
 ないってことは、誰よりも自分が一番よくわかっている。
 
 なのに、ダメだ。
 弾けそうに高鳴り始めた心音と同じで、もう自分で自分が止められない。
 
「でも、真実さん……本当に俺には、そんな権利ないんだよ……真実さんに触れる資格なんてないんだよ……」
 
 最後の悪あがきのような俺の言葉にも、真実さんはふわっと笑った。
 それは俺の大好きな、優しい優しい笑顔だった。
 
「権利とか資格とか……よくわからないけど、そんなものは私のほうにこそないと思う。海君が気にすることじゃないよ。でもなんだか意識しすぎちゃうから……やっぱりいつもみたいに戻ろう……?さっきのは聞かなかったことにするから、海君も忘れて……!」
 
 何もかもを許さないで。
 そんなに悲しそうな目で笑う真実さんに、俺は最後の幕引きまでさせたいわけじゃない。
 
 ――俺の本当の願いは、そう、そんなことじゃない。
 
「でも俺は真実さんに触れたい。俺のものにしてしまいたい。その気持ちだって本当なんだ……」
 
 もう決める。
 勝手に決める。
 
 俺は負けないから。
 絶対に諦めないから。
 
 真実さんを泣かさないために、もっと努力するし、もっとがんばる。
 だから――ゴメン。
 
「海君。言ってることがめちゃくちゃだよ……!」
 笑いながら俺に伸ばされた真実さんの細い手をそっとつかんで、引き寄せる。
 抵抗もなく寄り掛かってくる体を抱き締めて、
 
「……海君?」
 見上げてくる真実さんの瞳に近づく。
 
 もっと。
 もっと。
 自分が本当に望むままに――。
 
(ゴメン。覚悟とか、負い目とか、資格とか、いろいろ考えたって……やっぱり俺は真実さんが好きなんだ。……誰よりもあなたが好きなんだ……!)
 
 絶対触れてはいけないとあんなに自分を戒めていたのに、俺はやっぱり真実さんにキスをした。
 
 ――これが罪だって言うんなら、俺はどんな罰だって受ける。
 
 自分の運命としっかり向きあって生きていくことを、俺は途中で投げ出したわけじゃない。
 ――ただ、戦う覚悟をした。
 
 初めてキスした真実さんを何度も何度も抱きしめて、たくさんの幸せと喜びをもらったから、俺はその思いをそのまま、彼女を守る力に変えようと思った。
 
「じゃあ、また明日」
 いつものように小さな約束を残して、部屋を出た瞬間、決意を込めて歩き出す。
 本当は駆け出したいくらいの衝動を、やっぱりそうはできない自分の体調を慮って、力強い歩みに変える。
 
 以前村岡さんから教えてもらった住所を頼りに、必死にその部屋を探した。
 あの男――岩瀬幸哉の部屋を。
 
 初めて出会った夜。
 真実さんが傷だらけで歩いていた道を逆にたどって行けば、きっと行き着くんだろうってことは、あらかじめ予想ずみだった。
 
 でも白い鉄筋作りのこじんまりとしたそのマンションを目の前にしたら、やっぱり怒りなんだか嫉妬なんだかよくわからない感情で、息が上がってきた。
 
(落ち着け!)
 こんなところで発作を起こすわけにはいかない。
 絶対に。
 
 一度だけ偶然見てしまった真実さんの写真。
 ――おそらくあいつが意図的に置いていった、きっとこの場所で撮られた写真が、意識の底からぼんやりと浮かんでこようとする。
 だから俺は、それを必死に打ち消す。
 
(落ち着くんだ! 真実さんは今、俺の腕の中にいる。いるんだから!)
 自分の手をじっと見ていたら、優しい笑顔を思い出した。
 俺に向けられる――なんの見返りも求めていないような真実さんの笑顔を。
 
 大丈夫。
 身動きするたびに鼻をくすぐる甘い香りも、背中にまわされた腕の感触も、俺を呼ぶ優しい声も覚えてる。
 ――だから大丈夫。
 
 俺は毅然と顔を上げて、そのドアの前に立った。
 何度か鳴らしたチャイムに応答はなかった。
 部屋の中で誰かが動きだした気配もない。
 
 警察には、両親があいつの身元引受人としてやって来たと村岡さんが言っていたから、本当にここにはいないのかもしれない。
 ピンと張り詰めていた緊張が緩んで、思わずその場にしゃがみこみそうになる。
 
(あいつは、もう一度ここに帰って来るだろうか?)
 俺ならきっと、その答えはNOだ。
 でもあの男がどんな人間なのかを、俺は詳しく知ってるわけじゃない。
 
 ただ、ここには帰って来なくても、真実さんの周りにもう一度現われる可能性だったら、限りなく100%に近い気はした。
 
(そうはさせない……!)
 いくらチャイムを鳴らしても、ドアを叩いても応答のない部屋に背中を向けながら、こぶしを握りしめる。
 (もう一度、真実さんの前に現われたなら……その時は絶対に許しはしない!)
 俺にできることなんて何もないと悲観ぶる前に、俺はこれからは自分にやれるだけのことをやる。
 その結果何が起こったとしても――その時は、その時考える。
 
 行動にしたって、人とのつきあいにしたって、これまで慎重に慎重を重ねて生きてきた俺にとっては、まるでらしくない決断だった。
 でもそれは決して投げやりな思いなんかじゃない。
 
 ――確かにその時の、俺のせいいっぱいの決意だった。


 
 朝の柔らかな陽射しの中。
 真美さんの姿がドアの向こうから現われた瞬間から、俺の一日は始まる。
 
 それ自体は昨日までとまったく変わらないのに、どこかが――何かが違う。
 明らかに昨日から。
 そう――初めて彼女に触れたあの瞬間から、俺の中で何かが変わった。
 
 ふと目があった瞬間に真っ赤になって俯いてしまう顔を見ているだけで、嬉しい気持ちは同じなのに、思わず手を伸ばして引き寄せてしまいそうになる。
 
 朝の往来のど真ん中。
 しかも背後には文字どおりお目つけ役の貴子さんつき。
 それなのに恐いもの知らずというか、どこかのネジが緩んだとでもいうか、俺の頭の中はまるでピンク色だ。
 
「おはよう」
 ニッコリと笑って、俯く顔をのぞきこむと、真実さんはますます赤くなるから、性質の悪い悪戯心がどんどん加速する。
「どうしたの……俺の顔になんかついてる?」
 無意識なんだか意識的なんだか自分でもわからないままに、もっと真実さんに顔を近づけようとした瞬間、彼女のうしろから殺気を感じた。
 
(うっ……やっぱりダメか……)
 貴子さんは、俺がしばらく真実さんの傍を離れていたことを、まだ許してくれてはいない。
 昨日はかろうじて二人きりにはしてくれたが、今朝こうして一緒に出てきたところをみると、やっぱり全幅の信頼とは、まだまだほど遠いようだ。
 
(……やっぱり無理か……)
 内心ため息だらけの心を押し隠して、俺はキリッと背筋を伸ばし、まるで中学生か高校生が上級生にするみたいに、ハキハキと大きな声を心がけて、貴子さんに頭を下げた。
「おはようございます。貴子さん」
「おはよう少年。やっぱり今日から真実の送り迎えが復活だね」
「はい」
 
 眼鏡の奥の鋭い瞳が、値踏みするように俺の全身をくまなくチェックする。
 まるで警察で取り調べでも受けているような気分で、直立不動で立ち尽くす俺を、真実さんはちょっと不満そうな顔で見上げた。
 
(……ひょっとして情けない奴だって思ってる? でも俺は貴子さんにだけは、ちゃんと正面から、正々堂々と認められたいんだ……!)
 
 貴子さんは真実さんのことをとても大切にしている。
 真実さんが幸せになることを強く望んでいる。
 だから俺がこれからも真実さんの傍にいるためには、どうしても貴子さんの信頼を勝ち得なければならない。
 
 不審な思いを抱かせている部分も、きっと俺にはたくさんあるだろうから、せめてちゃんとできる部分では、誠意を見せたい。
 ちゃんとしておきたい。
 そうでなければ、たとえ真実さんが許してくれたって、本当の意味で、俺が真実さんの隣に居る資格はないと思う。
 
 貴子さんはしばらく俺を検分したすえに、眼鏡をぐっと人差し指で押し上げながら、ニヤッと笑った。
「じゃあ……真実と一緒にさっさと行け」
 
(やった!)
 ガッツポーズしたいくらいの気持ちを笑顔に変えて、俺は貴子さんに頭を下げた。
 さっと真実さんの手を取ると、急いで歩き出す。
 
「えっ? 貴子は? 一緒に行かないの?」
 ふり返りながら真実さんは叫んでいるけれど、貴子さんは、 
「誰がそんな野暮な真似するか……! 一人でゆっくり行くほうがいい」
 と返事しているようだ。
 
 二人の意志の疎通が終わった瞬間に、
「行こう」
 俺は真実さんの手を引き、駆け出した。
 
「え? なに? どうしたの? なんでこんなに急ぐの……?」
 問いかける真実さんをふり向いて、真っ直ぐに見つめながらニッコリと笑う。
 
「せっかく貴子さんからOKをもらったんだから、少しでも早く二人きりになろうと思って!」
 半分嘘で、半分本気だった。
 
 少しでも長く真実さんと二人きりでいたい――と同時に、絶対にあの男に捕まるわけにはいかないという思いが俺を急がせる。
 
 昨日の今日だからこそ、あの男がどこからか彼女を見張っているような気がしてならなかった。
 だから繋いだ手にぎゅっと力をこめる。
 
 この人は俺の大切な人なんだと――他の誰でもなく俺と一緒にいることを望んでくれたんだと誇示するように。
 
(世界中に聞こえたってかまわない……真実さん俺のものなんだって、叫びたい!)
 
 でもそうはできない現実をしっかりと自覚しながら、俺は小さな手を引き、人ごみの中を懸命に駆けた。


 
 走っている最中。
 小学生の頃、具合が悪いのに嘘ついて参加した長距離走のことを、ふと思い出した。
 
 もっともっとと、気持ちはどんどん先に進むのに、体が全然ついていかない。
 ――あの時のどうしようもないほどの焦燥感と絶望感。
 
(確か……前年の自分の記録を塗り替えたなら、賞状がもらえるんだったんだ……あの時はどうしてもそれが欲しくって……!)
 
 具合が悪いのに嘘ついて参加して、途中で心配してくれた先生にも「大丈夫です」って意地を張って、結局そのあと発作が起きて、俺はしばらく病院から出られなくなった。
 
(さすがにあの時よりは、俺だって大人になった……!)
 
 そう満足しながら、俺は舗道に人が多くなるに連れて、駆けていた足を歩みへと変える。
 呼吸を落ち着かせようと大きく息をくり返す。
 それでも――。
 
「待って……! ねぇ、そんなに急がなくても……!」
 息を切らしながらあとからついてくる真美さんに、
「ダメ。早く行ったほうがいい」
 ふり返りもせず答えて、早足を緩めることだけは決してしなかった。
 
 結局、大学の始業時間よりずいぶん早くに、俺たちは正門近くにたどり着いてしまって、近くの公園でしばらく時間を潰すことになった。
 できれば息の乱れた姿なんて見せず、平気なフリのまま真美さんを見送りたかったが、そうも言ってはいられない。
 
 誰より俺自身が、まだ真美さんと離れたくない。
 
 公園のベンチに並んで座ったら、俺は自動販売機で買ったペットボトルを片手に握りしめたまま深く俯いて、反対の手を胸に当てた。
(大丈夫、大丈夫だ……落ち着け! 落ち着け!)
 懸命に大きく深呼吸をくり返せば、乱れきっていた息だって次第に整ってくる。
 
(そう。あともう少し……もう少し……)
 一瞬でも早く、俺のヤワな心臓を元の状態に戻すためには、少しの動揺だってしてはならないと緊張していたのに、その時、真美さんが隣でぽつんと呟いた。
 
「そんなに急がなくて良かったのに……」
 俺を労わって、気遣ってくれているようなその口調に――ダメだ。
 気にしないようにしようとしたって、どうしても胸が痛む。
 
(ゴメン……余計な気を遣わせて……ほんとゴメン!)
 少しでも真美さんを安心させようと、俺は体勢はそのままに、せいいっぱい笑ってみせた。
「ダメだよ。あいつが真実さんを待ち伏せしてるかもしれない。ちゃんと安心できるまでは、俺は気を許さない……! 真実さんをあいつに会わせたりなんか……絶対しない!」
 
 笑顔のわりには言ってることがずいぶん辛辣だと、自分でも思った。
「しまった」と思ったとおり、真美さんの顔はみるみるうちにとても悲しそうな表情になった。
 
(なにやってるんだ……俺は!)
 ダメだ。
 自分で自分が嫌になる。
 
 それなのに真美さんは、俺の頬にそっと指を伸ばしてくる。
「ゴメンね。海君」
 
 自分に対する怒りを持て余したまま、俺もつられるように、そっと真美さんの頬に触れた。
 滑らかな肌の感触。
 そのまま小さな顔を上向かせて、自分のほうを向かせる。
 
 思わず頬を寄せそうになる邪念を必死に払いながら、俺は伸ばしっぱなしの自分の長い前髪をかき上げた。
 ――それは俺の小さな儀式。
 
 この行動で見えないものが見えるようになる時もあれば、暴走しかけていた感情が、すっと落ち着く時もある。
 俺は真実さんに向かって、せいいっぱいの意地で笑った。
 
「どうして真実さんが謝るの? 真実さんを守るって勝手に決めたのは……俺なんだから……!」
 必死に平静を装った俺の演技は、どうやら真実さんに通じてくれたらしい。
 ホッとしたように彼女が息を吐くのを指先で感じてから、俺は頬から手を放した。
 倒れこむようにベンチの背もたれにもたれかかる。
 
 本当はこれ以上は一秒だってもたなかったギリギリの緊張感を全部放り出して、空を見上げて息をついた。
「何だってやるよ……俺は!」
 
 それはまったくもって、俺の本心だった。


 
 冷たいペットボトルを額に押し当てて目を閉じていると、次第に本当に体調も落ち着いてくる。
 と同時に、心配させてばかりの真実さんに申し訳なくて、たまらなくなってくる。
 
 なんとか笑わせることはできないかと頭を捻って、俺は彼女と自分の共通の話題と成り得る、数少ない人物の話を持ちだした。
 
「それにしてもさ……貴子さんって凄いよね……」
 思ったとおり、真実さんはイキイキとその話題に乗ってくる。
 ――気配がする。
 
「凄いよ。勉強はもちろん、どんなことだって知らないことなんてないし……いっつも余裕だし……貴子から見たら私なんて、子供みたいなものかも……!」
 実に真実さんらしい素直な感想に、俺は思わずハハハッと笑いだした。
 
「それはそうかも!」
 あまりにもあっさりと肯定したために、意外と負けず嫌いな真実さんはムッとする。
 
 そんなことは最初から計算の上だ。
(なんでかって……それはやっぱり……俺は真実さんの怒った顔が、かなり好きだから……!)
 
 今頃、あの上目遣いのかわいい表情で、俺の顔を見上げているかもと思うと、とても目を閉じてなんていられない。
 
「海君だって! 貴子の前だったら、まるで従順な、普通の高校生じゃない!」
 唇を尖らせている表情さえ瞼に浮かんできそうな棘のある声に、俺はたまらず目を開けた。
 
「俺は、いつだって年上の人は敬ってるけど?」
 意地悪くとぼけてみせると、真実さんはますますムッとしたような顔になる。
 
「私は? 私のことはいつもからかってばかりでしょ!」
「ハハハッ。だって俺、真実さんを年上だなんて思ったことないもん……!」
 
 お腹を抱えて笑い出しながらも、そろそろ自重しようと考えていた。
 いくら怒った顔が好きだからって、あまりにもからかい過ぎて、せっかく二人きりなのに、プイッとどっかに行ってしまわれてはたまらない。
 
「年上だと思ってないんだったら、どうして海君は私のこと『さん』づけで呼ぶの?」
 正論で責め始めた真実さんに、俺は待ってましたとばかりに最終手段に出た。
 
「ああ、それはね……」
 ニッコリと笑いながら、真実さんの細い顎に手をかける。
 
「う、海君……?」
 思わず身を引こうとする真実さんの耳元にそっと顔を寄せて、小さな声で囁く。
 
「俺が真実さんの名前を呼び捨てで呼ぶ時は、どんな時かって、最初から決めてるから……」
 自分でも吹き出してしまいそうなくらい、もの凄く意味深な言葉。
 
 予想どおり真実さんは首まで真っ赤になって、ガチガチに固まってしまっている。
 
 俺は笑いだしてしまわないことだけに全身全霊をかけながら、ごく間近から真実さんの瞳をのぞきこんだ。
「なんなら、今からでもいいよ? ……そうする?」
 
 途端、今まで以上に真っ赤になって、真実さんは首をぶるぶると必死にふり始めた。
「いい! いいですっ! よ、呼ばなくていいからっ!」
 
 大慌てでぶんぶんと手まで振られて、もうどうしようもなく、愛しくてたまらなくなった。
 俯くその顔に斜めに顔を近づけて、そっとキスする。
 
「海君!」
 驚く真実さんに、本心のまま素直に頭を下げた。
 
「ゴメン、真実さん。でももう俺は、迷うのはやめたんだ。いろんなことを頭の中でグチャグチャ考える前に、自分が本当はどうしたいんだかをちゃんと態度で表すことにした。真実さんがそれを許してくれたんだって、俺は勝手に解釈したんだけど……違った? ……違ってたらゴメン……」
 
 どんな言葉が返ってくるのかと、半ば心配しながら、半ば期待しながら、笑って待つ。
 真実さんはただ、潤んだような瞳で俺を見つめた。
 その表情に、視線に、吸い寄せられるように手が伸びる。
 
 返事すら待てない、せっかちな俺。
 真実さんの頬に手を添えて、もう一度顔を近づけながら、
「違ってる?」
 間近で囁いたら、ようやく返事をもらえた。
 
 熱に浮かされたような、かすれた声。
「ううん……違わない」
 
 そして俺のすぐ目の前で、長い睫毛はぴったりと閉じられる。
 彼女の唇に触れる瞬間、俺の中では世界の何もかもが変わる。
 目を開いた次の瞬間にはきっとまた、さっきまでとは少しだけ違った世界になっているのだろう。
 
 全身を貫く甘く甘美な想い。
 それはきっと、もっと生きたいという俺の思い。
 いつだって心の奥深くでは、捨て去ることのできなかった願い。
 
 ――その全てを赤裸々に、俺の感情の表面へと浮かび上がらせてしまうこの小さな人が、たまらなく愛しくて、ほんの少し恐かった。
 真実さんと会える朝のひと時は、一日の中でも俺の一番好きな時間だと言っても過言ではない。
 でも大学の正門が長い舗道の向こうに見え始めると同時に、自然と胸が痛んでくることにだけは、いつまでたっても慣れなかった。
 
(また夕方まで会えない……)
 寂しいばかりではなく、今日はことさらに複雑な心境で、俺は繋いだ真実さんの手をぎゅっと握りしめる。
 昨日あんなことがあったばかりだから、本当はその手を放したくなんかなかった。
 
「海君?」
 俺の顔を真っ直ぐに見上げてくる黒目がちの大きな瞳は、案外相手の心理を読むことにも長けているから、今だってきっと、俺の身勝手なわがままくらい聡く察知してしまっているんだろう。
 なのに――。
 
(あーあ……俺って本当に格好悪いよなぁ……)
 俺は心の中でため息をくり返すばかりで、手を放すつもりにはまだ全然なれない。
 
「うん。何?」
 なんでもないように笑って、すました顔で問いかけることが、こんなに苦しい時もあるんだってことを、俺は真美さんと出会ってから初めて知った。
 
「ううん。なんでもない……」
 きっと気を遣わせて、言いたいことだってのみ込ませてしまっているんだろうに、どうすることもできない。
 
 自己嫌悪に苛まれる俺を救ってくれたのは、背後からかかった明るい声だった。
 
「真実ちゃん! 学校来たんだね」
 ふり返って見てみたら、そこには真実さんの親友の花菜さんが立っていた。
 
「うん」
 真実さんはちょっと照れ臭そうな様子で、花菜さんに向かってニッコリと笑う。
 
 大きな丸い目をさらに丸くして、俺と真実さんの顔を見比べていた花菜さんも、そんな真実さんに負けないくらいにニッコリした。
 どことなく雰囲気の似ている二人のほほえましいやり取りを見ていると、自然と俺まで優しくてあったかい気持ちになる。
 
「それに海君も帰って来きんだ……よかったね……!」
 ふいに話を振られて、俺は急いで頭を下げた。
 これがちょうどいいチャンスとばかりに、繋いだままだった真実さんの手を、花菜さんの前に差し出す。
 
(ここから先は花菜さんにお願いするんだって思えば……少しは自分を納得させて、割り切ることができる。少しは……!)
 
 俺の意を汲んでくれたかのように、花菜さんは真実さんの手を大切そうに受け取ってくれた。
 「うん。ここから先は私が責任を持って預かる……絶対に真実ちゃんを、昨日のような目には、もう会わせない……!」
 
「……花菜」
 抱きあう二人の様子にひと安心して、俺は一歩後退る。
 
「じゃ。帰りに待ってるから」
 手を振りながら笑顔で二人を見送ろうとしたのに、花菜さんがおもむろに俺を見ながら、ふと呟いた。
 
「真実ちゃん……海君ちょっと顔色悪いよ? ……大丈夫?」
 
 ドキリと俺のヤワな心臓が大きく跳ねた。
 
 自分では全然そんなつもりはなかったのに、少し見ただけで感づかれてしまうくらい、今日は顔色が悪かったんだろうか。
 いつもと同じように、出かける前には念入りに鏡の前でチェックして来たつもりだったのに――ダメだ。
 その時自分がどんな表情をしていたのかだって思い出せない。
 
 からだ全体が心臓になったかのように、ドクドクと大きな音を立てて、俺の心臓が鳴る。
 
(落ち着け! 落ち着け!)
 必死に自分の体に命令を下しながら、俺はそっと真実さんの表情をうかがった。
 
 息をのんだように俺の顔を凝視している。
 今まで気づかなかった――ひょっとしたら気づいていたのに気づかないフリをしていた――ことを、白日の下にさらされたようなどこか痛々しげな表情。
 
 自分が今どんな顔色をしているのかは俺には見えないが、真実さんだって今にも倒れそうなくらい真っ青な顔色だと思った。
 
(くそっ!)
 
 悔し紛れにいつものように前髪をかき上げる。
 それからせいいっぱいの笑顔で花菜さんに
「大丈夫です」
 と告げる。
 
 花菜さんも、それから真実さんだって、俺の悔し紛れの言い逃れに納得したようにはとても見えなかった。
 もっと何かを言おうかと口を開きかけた時、俺にとってはまさに天の助けとも言うべき声が、背後から聞こえた。
 
「真実ー! 花菜ー!」
 ふり返って見てみなくたってわかる。
 それは花菜さんと同じように真実さんの親友の愛梨さんの声だった。
 
 いつも元気で明るい愛梨さんは、俺の姿を見て歓声を上げる。
「うわっ、海君が復活してる! 真実、良かったねえー!」
 
 その勢いとパワーに、俺はホッとした。
 愛梨さんが来てくれたら、きっと真実さんの気分だって変わるだろう。
 なぜなら――。
 
「すっごく寂しがってたもんねえー」
 なんて言葉を包み隠さず言ってしまう愛梨さんに、もしそれが本当だとしても、それを素直に認めてしまうような性格の真実さんではないからだ。
 
「な、何言ってるのよ……! 私はべつに……そんなこと……!」
 
(ほら……やっぱり顔を真っ赤にして大慌てしてる……!)
 そんなことを思ったら自然に笑顔になれて、そんな自分にホッとした。
 
「ため息ばっかり吐いてたもんねー……」
「いっつもキョロキョロして、ずっと探してたんだよね」
 
 愛梨さんと花菜さんとの間で交わされる会話におたおたして焦りまくる真実さんの様子を、ゆっくりと楽しむ余裕まで出てきた。
 
(どうしよう……嬉しい! 嬉しいけど……!)
 真実さんはおしゃべりな親友たちの口を塞ぐことはどうやら難しいと判断したらしく、俺が思ったとおり、二人の腕をつかんで引っ張って大学に向かって歩き始めた。
 
「じ、じゃあ行ってくるね……」
 動揺しまくりの真実さんに、 
(ちぇっ……なんだもう行っちゃうのか……)
 と内心失望しながらも、俺はニッコリ笑って
「行ってらっしゃい」
 と手を振った。
 
 実際のところはどうなのかわからないが、自分では花菜さんに指摘された顔色の悪さだって、この頃にはすっかりいつもどおりに戻っていたつもりだった。


 
 真実さんたちが大学の正門の向こうに見えなくなったら、俺は今来た道をあと戻りして、昨日探しだしたあの男の部屋にもう一度足を運んだ。
 数回インターホンを鳴らしてみてもドアをノックしてみても、やっぱり今日も応答はなかった。
 
(やっぱりここには帰ってきてない……?)
 用心のために建物の裏側に回って、そこから見える小さな窓を見上げてみたが、部屋の中の様子はまったくうかがえなかった。
 駐車場に、あの男の黒い車がないことも確認して、ほんの少し小さく息を吐く。
 
 これが本当に役にたつのかどうかはわからないが、俺は毎日この場所をチェックに来ることを自分のやるべきことと、昨日決めた。
 
(俺にできることなんてたかがしれてる……だけど真実さんのために何かがしたい! 今はとにかく思いついたことを片っ端からやってみるしかないんだ……!)
 
 真実さんを守りたいと強く願ったあの瞬間から、確かに俺の頭の中では、自分の体調のことなど二の次になっていた。


 
「一生君……ひさしぶりりだね」
 あいかわらずおっとりと声をかけてくれる今坂先輩に、無言のまま笑顔で頭を下げて、俺は窓際の自分の指定席に腰を下ろした。
 
 昼休み中の美術室。
 他の生徒たちがお昼を食べているはずの教室や、有り余る元気で走り回っている校庭なんかからは遠く離れているから、あまりここが高校の中の一区画だという気はしない。
 しないけれども――確かにそうには違いないのだ。
 
「海里……あんたねえ……学校に来るんだったらせめて制服ぐらい着てきなさいよっ!」
 すっかりお決まりとなっているひとみちゃんの怒鳴り声を聞くことだって、ずいぶんとひさしぶりな気がして、思わずクスクス笑ってたら、黒っぽい服を投げつけられた。
 
「なにこれ?」
「なにって……! あんたの制服でしょうっ!!」
 
 美術室どころか特別棟全体に響き渡るようなひとみちゃんの大声に、慣れきっている俺はともかく、今坂先輩までまったく動じないのは凄いことだと思う。
 ――たまたま今日ここにいた他の部員たちは、みんな両手で耳を塞いでいるんだから。
 
 みんなのお昼の楽しい時間をこれ以上ぶち壊しにしてしまうのは申し訳なかったので、俺はもっとひとみちゃんをすました顔でからかっていたい気持ちをこらえて、すぐにそのまだ真新しい上着に袖を通した。
 
「ありがと、ひとみちゃん」
 
(わざわざ俺の家に朝寄ってから、取ってきてくれたの? なんてことは、夕食の時にでも聞けばいいっか……)
 
 クククと笑いをかみ殺す俺を、ひとみちゃんがもの凄い目で睨んでいることをひしひしと感じていたので、俺はもうその話題には、ここではこれ以上触れないようにしようと決意した。
 
 その代わり、他の人にはとても聞けない質問をひとみちゃんにぶつけてみる。
「ねえ、ひとみちゃん。俺って顔色悪い?」
 
 ひとみちゃんはいかにも
「何をいまさら!」
 というような顔で、しげしげと俺の顔を見た。
 
「当たり前じゃない! 昨日の朝まで入院してたんだから……!」
「だよね」
 あっさりと同意すると、ひとみちゃんにとっては尚更腹立たしいようだった。
 
「何? ……誰かにそんなこと言われたの?」
 あまりにも鋭く言い当てられて、俺はスケッチブックの上で忙しく動かし続けていた鉛筆を思わず止めた。
 
「すごい……! ご名答!」
「海里!」
 
 あまりふざけすぎてはいけない。
 でもふざけてでもいないと、とてもこんなことは話題にできない。
 
「……別にあんたの顔色が悪いのなんて今に始まったことじゃないわよ……」
「そう?」
「そうよ。小学生の頃なんて、真夏でもあんたは真っ白なのに、私は色が黒くって、よくみんなに『男女逆なんじゃないか』ってからかわれたじゃない……!」
「ハハハハッ! 確かにそうだった!」
 
 大きな声で笑ったら、なんだか本当の意味で気持ちがスッキリした。
 
「だから別に……そんな事は今に始まったことじゃないのよ……!」
 
 ひとみちゃんは気がついているんだろうか。
 まるで自分に言い聞かせるかのように、何度も何度も自分がその言葉をくり返していることを――。
 
 俺は気がついていたけれど、きっと彼女は無意識なんだと思ったから、あえて指摘はしなかった。
 その代わり、俺が欲しかった答えをそのまま返してくれたひとみちゃんに、素直にお礼を言っておく。
 
「ありがとう。ひとみちゃん……」
「な、なんなのよ、急に!」
 
 あいかわらず真っ直ぐな謝辞には照れてしまうひとみちゃんの様子がおかしくって、俺はまた忙しく鉛筆を動かし始めながら、ハハハハッと声に出して笑う。
 笑うことができた自分と、そうさせてくれたひとみちゃんに、本気で感謝していた。


 
 放課後。
 校門のところで真実さんを待つ俺に、こっそりと近づいてくる人の気配を感じた。
 
 一瞬「まさか!」と思ったが、それが他ならぬ真実さんであることがすぐにわかったので、俺はそのまま気がつかないフリをした。
 
(何をしてるんだろ……? これはやっぱり……俺の様子をうかがってるんだよな?)
 そう思ったらわざとふり返って、
「そんなところで何してるの? 真実さん?」
 と問いかけずにはいられなかった。
 
 真実さんは本当に、飛び上がるほどに驚いた。
 その様子に俺は不謹慎にもひどく満足する。
 
「なんで? なんでわかったの?」
「わからないわけないじゃない」
 
 笑顔で答えたら、真実さんは何度か頭をぶるぶると左右に振って、それから泣き笑いみたいな表情になった。
 
(こんなに心配させてたんだな……!)
 そう思うと申し訳なくって、愛しくってたまらない。
 
 俺は彼女にそっと歩み寄り、大好きなサラサラの短い髪に指を伸ばした。
 髪をすくように何度か頭を撫でると、真実さんはまるで安心しきったように目を閉じてしまいそうになるから、慌てて呼びかける。
 
「真実さん」
 彼女の背後に近づいている人たちのことをこのまま黙っておくのは、俺の良心が咎めた。
 
「えっ、何?」
 俺が視線で示したままにふり返った真実さんは、文字どおり、もう一度飛び上がった。
 
「…………!」
 愛梨さんと貴子さんと花菜さんがみんな揃って、真実さんの真後ろにちょうど到着したところだった。
 
 慌てて飛びのくように俺から離れる真実さんの姿を見ながら、
「校門前で、イチャついたらダメだよー」
 からかうように笑った愛梨さんが、ポンと真実さんの肩を叩いて通り過ぎていく。
 
 じっと俺の顔を見た花菜さんが、
「顔色良くなったみたい……うん。もう、いつもの海君だね。……よかったね、真実ちゃん……」
 と真実さんに言っているのを聞いて、俺は心底ホッとした。
 
 これでとりあえずは、真実さんの不安を拭い去ることができたはずだ。
 
 貴子は真実さんには目もくれず、真っ直ぐに俺に向かって歩み寄ってきた。
 思わず身構える俺に向かって、すれ違いざま、
「岩瀬は退学したぞ」
 と短くそれだけを告げる。
 
 まさか俺があの男を探していることを貴子さんが知っているとも思えなかったが、その知らせをもらえたことは嬉しかった。
 誰よりも真実さんのために――。
 
 俺は歩き去っていく貴子さんの背中に深々と頭を下げた。
 
 うしろ姿のまま貴子さんは、
「真実……門限は六時だからな」
 なんて会話を真実さんと交わしている。
 
「な、何言ってるの!?」
 真実さんは大慌てでそんな言葉を返しているけれども、真実さんの隣に俺がいることも、貴子さんが許可してくれたような気がして、俺は天にも上るような気持ちだった。
 
「どうしてそんなことを、貴子が決めるのよ!」
 必死に叫んでいる真実さんには悪いけれども、嬉しくってたまらなくって、もう笑わずにいられない。
 
「ハハハッ」
 青空の中に俺や愛梨さんや花菜さんの笑い声も、真実さんの叫び声も、みんな吸いこまれていく。
 
 束の間の幸せをみんな閉じこめたような、眩しいほどの夏の午後だった。
 
 特にどこへという目的もなく、自分が生まれ育ったこの街を、ただのんびりと真実さんと手を繋いで歩く。
 偶然見つけたものや、ふと考えたこと。
 思いつくままにいろんな話をして、なんでもないことにただ笑いあって、そんなごく普通の当たり前の時間が、俺にとってはとてつもなく大切だった。
 
 病院のベッドの上で、思い出だけを何度も頭の中でくり返していた数日間があったからこそ、実感できた幸せだったと思う。
 
 行きたいところに行ける。
 やりたいことができる。
 大好きな人の隣に居れる。
 
 そんな些細なことにも感謝ができる人生は、本来俺ぐらいの年齢では、そうそう味わえるものではない。
 (むしろ得してるって言ったっていいよな……もしこれがこのまま続いていくんなら……)
 
 だけど決してそうはならないだろうってことを、俺はよく知っていた。
 きっとしばらくの間だけ。
 だからこそ今、一瞬一瞬が輝いて、こんなにも鮮やかなんだろう。
 
(しばらくっていったって……実際どれぐらいの長さなのかは俺にだってわからない……一年後? 一ヶ月後? まさか一週間後……ってことはないよな……?)
 
 冗談まじりにそんなことを考えていた俺は、まったく別の理由で、今まさにこの瞬間にも、この幸せな日々が突然終わりになるかもしれないってことを、うっかり失念していた。
 
 ――いや。
 確かに意識のどこかにはあったはずなのに、すっかり油断してしまっていた。

 
 
「海君……どこか悪いところでもあるの?」
 真実さんに突然問いかけられた瞬間、何も考えることができなかった。
 その前にどんな会話を交わしていたのかさえ、全てが頭の中から吹き飛んだ。
 
 天と地がひっくり返ったような思いで、グッと息をのんだまま、ただ真実さんの顔を見つめる。
 あまりに目に力が入り過ぎて、視界が霞んでくるほどに、ただただ見つめることしかできなかった。
 
 子供の頃からの決意とは裏腹に、真実さんと一緒にいることを望んでしまったあの時から、俺には自分の中で決めていたことがある。
 それは――真実さんが俺の病気に気がついて何かを尋ねてきたら、その時は隠さずに教えること。
 そしてその時を、俺たちのサヨナラの時とすること。
 
 いつかはそんな時が来るんだろうかと、想像するたびこっそり胸を痛めていたその悪夢のような瞬間が、突然目の前に降ってきて、俺は息をするのも忘れてしまうくらい動揺していた。
 
(どうして……? さすがに最近、無理をした姿ばっかり見せ過ぎた? だけど……!)
 激しく脈打ち始めた自分の心臓に言い聞かせるかのように、俺は心の中で叫ぶ。
 
(とにかく落ち着け! まだ真実さんに、具体的に何かを聞かれたわけじゃないんだから……!)
 真実さんは一言言ったっきり、そのあとはなんにも尋ねてこない。
 
 咄嗟の問いかけになんて答えていいかわからなくて、曖昧に笑った俺の顔を一瞬見ただけで、そのあとはこちらを見ようともしない。
 
 苦しかった。
 彼女のそんな反応も。
 追いつめられた今の状況も。
 俺が勝手に一人で取り決めした決意も。
 何もかもが胸に食いこんでくるかのように、苦しかった。
 
(言うべきだよな……今……『そうだよ。俺は心臓が悪いんだよ』って……!)
 わかっているのに体がいうことをきかない。
 固くかみ締めた唇が、言葉を紡ぎだそうとする俺の意志を、かたくなに拒絶する。
 
(決めてただろ! ……それがせいいっぱいの真実さんへの誠意になるはずだからって……自分で決めただろ!)
 爪が食いこむほどにこぶしを握りしめても、なけなしの勇気をいくらふり絞ろうとしても、俺はどうしても彼女の名前を呼ぶことができなかった。
 
 ――ちゃんとした答えを返してあげることができなかった。


 
 投げかけられた質問に何も答えを返せなくて、激しい自己嫌悪に陥ったあの日から、輝いていたはずの日々が、俺にとって苦しいものになった。
 
 自ら立てた誓いを破った俺には、もう真実さんの隣にいる資格がないような気がする。
 神前で誓願したわけではなかったが、自分の厳しい決意と引き換えに守っていた大切なものが、もうこれ以上は守れないような――そんな不安をどうしても拭い去ることができなかった。
 
 このまま俺が傍にいたら、真実さんにまで何か良くないことが起こってしまうんじゃ――そんな、なんの根拠もない不安。
 
(言わなくちゃ……! 早く言わなきゃ!)
 思えば思うほど、てのひらの中の幸せを手放すことが恐くなっていく。
 
 真実さんの隣にいて、彼女を守る。
 ――俺は確かにそう決意したんだったのに、それを失ったなら、これからいったい何のために生きていくんだろう。
 想像もつかない。
 
 だからといって、全てをなかったことにするのも苦しかった。
 ぐるぐると結論の出ない問題を延々と考え続け、虚ろな数日を過ごしたあと、俺はついに決断した。
 ――全てを彼女に委ねようと。
 
 もう一度真実さんが俺の体調について尋ねてきたなら、今度こそ必ず本当のことを告げる。
 その代わり、真実さんがもう二度と俺の体調の事には触れようとしないんだったら、一度問いかけられたことはサッパリと忘れて、俺も今までのように彼女に接する。
 
 どちらがいいとも、どちらが正しいとも、もう俺には判断さえできない苦しい賭けだった。
 


「真実さんさ……何か気になってることがあるんじゃないの……?」
 いつものように大学からの帰り道。
 広い舗道を手を繋いで歩きながら、俺は彼女にそう尋ねた。
 
 ドキリとしたように小さな肩が震えたところを見ると、真実さんだって結局先日のやり取りを気にしていたようだ。
 それなのに――。
 
 何度も何度もしつこく食い下がった俺に彼女が最終的にした質問というのは、
「海君……ひとみちゃんって誰?」
 というものだった。
 
 てっきり体調のことを尋ねられるとばかり思って、せいいっぱい心の準備をしていた俺は、またしても真実さんに意表をつかれて、すぐには答えを返すことができなかった。
 
 真っ赤になって俯いてしまった彼女を見下ろしながら、
「なんで真実さんがひとみちゃんを知ってる……?」
 なんてことを口に出して確認する。
 
(もちろんあったことはないはずだし……俺が真実さんにひとみちゃんの話なんてするはずないし……)
 考えるうちに、ふとあることに思い当った。
 
 いつも真実さんに会う時には電源を切っている携帯電話を、たまたまそのままにしていたある日、ひとみちゃんから電話がかかってきたことがあった。
 
 あの日は――そう。
 確か俺が入院するのを忘れて、真実さんと会ってた日だった。
 
「ああー……あの時か!」
 ここ最近ずっとこわばっていた頬が緩んで、自然と笑顔になっていくのが自分でもよくわかる。
 
 俺がすっかり忘れていたような他愛もない出来事を、今こんな場面で思わず口にしてしまうほどに真実さんが気にしていたってことは――それってつまりはどういうことだろう。
 
 考えれば考えるほど――ダメだ。
 今日はあんなに真剣な決意をして出てきたっていうのに、まったく不釣あいにどんどん顔がにやけてしまう。
 
「真実さん、そんなこと気にしてたの?」
 思わず尋ねてしまったら、
「し、してないよっ!」
 大慌てで反論された。
 
(ダメだ。嬉しい! これはもうどうしたって……嬉しいに決まってるだろ!)
 
 もし彼女がその場面で感じてくれた感情が、俺が予想したとおりのものなら、もう嬉しくってどうしようもない。
 俺が言うと全然しゃれにならないけれど、このまま天国にだってのぼっていってしまいそう。
 
「ひとみちゃんは俺のいとこだよ。あの日は俺が大事な用事を忘れてたから、わざわざ知らせてくれたの。って言ったら信じる?」
 悪戯好きの性根に逆らえず、わざとそう尋ねた俺に、真実さんはもう泣き出しそうな顔で頷いた。
 
「信じる! 信じるから放して!」
 ありがとうの想いをこめて、そのまま真実さんにキスした瞬間、ちょうど俺の胸ポケットでその問題の携帯が鳴りだした。
 
(なんなんだ、このタイミングの良さ!)
 俺から逃げ出してしまいそうになった真実さんを急いで捕まえて、俺は誰からの着信なのかだけ確認する。
 
(兄貴か……ゴメン後でかけ直す!)
 心の中で頭を下げながら電源を切ったら、真実さんが小さな悲鳴を上げた。
 
「えっ! 出ないの?」
 その声が、表情がたまらない。
 
 俺はもう感情のままに大きく笑いながら、
「うん。また真実さんが、余計な心配をするから」
 なんて答えてしまう。
 
 思ったとおり真実さんは、
「しないわよ!」
 と、また今にも泣きだしそうな顔で叫んだ。
 
「それじゃあ私……もの凄いヤキモチ焼きで……全然海君の自由も許さない女みたいじゃない……!」
 
 そう、ヤキモチ――真実さんが俺に関して、本当にそんな感情を抱いてくれたんだとしたら、もう他のことなんてどうでもいい。
 
「好きだよ」って気持ちを伝えてもらった時とはまた違う意味で、嬉しくて嬉しくて――マズイ。
 きっとこのままじゃ照れ屋の真実さんを追いつめてしまうってわかってるのに、もう止まらない。
 
「それでいいよ。というかそれぐらい思われてたら……俺、すっごく嬉しいんだけど!」
 またしても思ったとおり。
 真実さんは遂に俺の腕の中から逃げだした。
 
「真実さん待って」
 ここからはまた、いつもと同じ追いかけっこが始まる。
 だけどそんなこと、全然苦じゃなかった。
 こんな――天にも上りそうなくらい軽い気持ちで、また彼女の名前を呼べるようになるとは思ってもいなかった。
 
「ねえ真実さん。待ってよ」
 本当に真実さんには、いつもいつも救われてばかりだ。
 
 繋いだ手をもうこれで離さなきゃって俺が思いつめた時には、決まって真実さんが、もう一度手をさし伸べてくれる。
 ズルイ俺に、不甲斐ない俺に、もう一度チャンスをくれる。
 
 今俺がどんなにホッとした気持ちで、サラサラと揺れる短い髪をゆっくりと歩いて追いかけているのかなんて、きっと真実さんにはわからないだろう。
 その小さなうしろ姿に、どんなにいつもいつも感謝しているのかなんて、伝わらないだろう。
 だから――。
 
「ゴメン。ふざけすぎた。待って」
 何度も何度も呼びかけた。
 俺に出来るせいいっぱいのこと――言葉だけで、懸命に彼女を追いかけた。
 
 優しい真実さんは結局、いつもしばらくすると俺を心配して足を止めてしまう。
 そこにはやっぱり、俺の体調を訝る思いがあるんだろうけれど、彼女が問わないのなら、俺のほうからはもう何も話はしない。
 今朝、そう決めて家を出てきたとおりに、俺は今までどおりに真実さんに接することにした。
 
 ゆっくりと歩いて真実さんを追いながら、見るともなしに周りを見ていると、壁に何枚も貼られたポスターが目に飛びこんで来る。
 
『海――私の心に残るふるさと』
 
 彼女が俺につけてくれた、そして俺の本当の名前にも含まれている『海』が題名のそのポスターを真実さんにも見せたくって、俺は声をかける。
「……あれ? ねえ真実さん。ほら、面白いのがあるよ」
 
 でも無理だ。
 真実さんは一向に止まる気配がない。
 俺は彼女のあとを追いながら、何度も呼びかけた。
「ねえ本当だって……ちょっと見て! ……ほら!」
 真っ直ぐに前を見たまま、わき目も振らずに歩き続けていた真実さんの歩みが、次第に遅くなる。
 
(よし!)
 俺の言葉が届いたというよりは、俺を心配して歩みを止めてくれた真実さんに、今日何度目かわからない感謝をしながら、俺は足を早めた。
 
 瞬間。
 ズキリと痛んだ心臓に、ぐらりと眩暈がした。
 
(なん……だ? 今の?)
 
 まさかこのまま発作が起きるのかと思わず足を止めたが、そんなことはなかった。
 痛んだのはその一瞬だけで、呼吸も苦しくはならなかったし、すぐにまた歩きだせた。
 
(なんだったんだろう……?)
 不安を感じながらも、俺はとりあえずは自分を待ってくれている真実さんの背中に、ゆっくりと歩み寄った。
 
 真実さんにポスターのことを教えて、そこに載っていた写真展に行って、真実さんが故郷に帰った時には、そこまで俺が迎えに行く約束をした。
 どうして真実さんが俺に『海』って名づけたのかを尋ねてみて、また泣きそうなくらい嬉しい気持ちをもらった。
 
 俺が朝予想していたのとはまったく違ったものになった一日は、あまりにも嬉しいことだらけで、なんだか恐いくらいだった。
 そして俺のその気持ちは――決してまちがいではなかったと思い知らされる。
 
 翌々日の定期検診で、俺は石井先生に二度目の入院を言い渡された。
 
 あいかわらず先生は
「発作が起きたわけでもないし、またすぐに退院できるよ」
 と笑ってくれたが、前回の入院から二週間も経っていないことが重く心にのしかかる。
 
 どんなに真実さんが幸せな気持ちを与えてくれるからって、それにこのまま甘えているわけにはいかないんだと、俺はやっぱり思い知った。
 
 胸に痛く――刻みこまれた。
 昼休みの美術室。
 今日は珍しく今坂先輩も来ていなくて、広い教室にはひとみちゃんが一人きりだった。
 
 その場に一歩踏みこんだ瞬間、俺はしまったと思った。
(ひき返そうか……?)
 
 なんて思考が働くよりも先に、彼女がこちらには背を向けたまま、唐突に口を開く。
「いくら用心のためだからって……なんだかおかしくない?」
 
「何が……?」
 本当はなんの話だかよくわかっていたのに、ドキリと跳ねた胸を懸命に押さえながら、俺はとぼけた返事をした。
 
 ひとみちゃんは大きな画布の前に座ったまま、長い髪をサラリと揺らしてこちらにふり向き、人の心を射竦めるかのような大きな瞳で、真っ直ぐに俺を見据える。
 
「もちろん海里の入院よ! ……だってついこの間退院したばっかりじゃない。発作が起きたんでもないのに……なんでまた入院しないといけないわけ?」
 
「ああ……そうだね……」
 俺はできるだけ明るい声で軽く返事して、窓際の自分の指定席に行き、いつもの椅子に腰を下ろした。
 
 最近どこに行くにも持ち歩いている、元はひとみちゃんのものだったスケッチブックを膝の上でパラパラとめくる。
 どこを開いても真実さんの笑顔だらけなことに我ながら苦笑して、パタリとそれを閉じた。
 
「でも……まあ、いいんじゃない? ……詳しく検査してもらって、しばらくのんびりしたら、またすぐに退院できるってことなんだからさ……」
 
「だって……それって……!」
 抗議するかのように、ひとみちゃんは確かに何かを言いかけたのに、その言葉をのみこんでしまった。
 
 俺のほうを向いていた体をもう一度画布のほうに向け直すと、らしくもなく、取ってつけたようにもごもごと口の中だけで呟く。
「おかしいわよ……」
 
 彼女がのみこんだ言葉がなんだったのか、俺にはわかるような気がした。
 
 いくら何も知らされていないからって、いいかげんひとみちゃんだっておかしいと思うはずだ。そして不安に思うはずだ。
 
『まるで海里の具合が良くないみたいじゃない!』
 
 ひとみちゃんが口にはしなかった思いはきっとそういう内容だったと思ったから、俺はことさら明るく笑ってみせた。
 
「学校休んでも誰からも咎められないし。こっそり美術室に忍びこまなくても、どうどうと絵は描けるし。しかも三食昼寝つき。やっぱこれ以上の待遇はないよ……幸いまたすぐ出れるってことだから……ちょっと満喫してくる」
 
「海里のバカ!」
 
 間髪入れずに怒鳴られてホッとした。
 不安に思われるより、悲しまれるより、怒られるほうがよっぽどいい。
 ひとみちゃんの怒りは、いつだって俺に向けられる時は、優しさの裏返しなんだから――。
 
「だって……いいの? 入院しちゃったら、学校サボって毎日通ってるところにだって、行けなくなるんじゃないの?」
 
 まさかひとみちゃんの口からその話が出てくるとは思ってもいなかったので、俺はかなりギクリとした。
「うん。まあ、それはそうだね……」
 
 ほんの一瞬、返事が遅れたことさえ、彼女は見逃してはくれない。
 ハアッと大きなため息を吐きながら、もう一度ひとみちゃんは俺のほうをふり向いた。
 
「私でよければ……代わりに行くけど?」
「へっ?」
 
 予想外の提案に、思わず自分の耳を疑う。
 
「ど、どこに……?」
 あまりにも間抜けに聞き返してしまって、顔を真っ赤にしたひとみちゃんに、思いっきりタオルを投げつけられた。
 これはまたもや、水洗いしたあとの絵筆を拭くためのものなんじゃないだろうか。
 
「うわっつ!」
 椅子に座ったまま大きく仰け反った俺に、ひとみちゃんは、
 
「もういいっ!」
 と叫んで、おそらくこの上ない善意で申し出てくれたはずの言葉を、さっさと撤回してしまった。
 
 俺はすぐさま「ゴメン」と頭を下げる。
 それからそのまま真っ直ぐにひとみちゃんに顔を向け、せいいっぱいの感謝をこめてお礼を言った。
 
「ありがとう。でもこれだけは……代わってやってもらうことはできないんだ……」
 
 真実さんを迎えに行って学校まで送る。
 その束の間の護衛役は、ひとみちゃんだからというわけではなく、他の誰にだって譲れない。
 ――譲りたくないっていうのが、俺の本心だ。
 
「どうしたって、俺が行きたいんだ……!」
 唇を噛みしめるような思いで呟いた俺を、不審な表情で見たひとみちゃんは、ふいっと目を逸らした。
 
「あっそ。だったらさっさと退院してきなさいよ」
 ぶっきらぼうな言葉づかいではあるが、あきらかに俺を激励する意味がこめられたセリフに、俺はもう一度お礼を言った。
 
「うん。ありがとう」
 真っ直ぐな謝辞に弱いひとみちゃんは、今日もまた耳まで真っ赤になって、なおさら俺に背を向てしまったのだった。


 
「ゴメン、真実さん……俺、またしばらく会いに来れないや……」
 
 その日の夕方。
 大学からの帰り道。
 繋いだ手はそのままに、突然手をあわせた俺の顔を、真実さんは目をまん丸に見開いて見つめた。
 
 自分の手を包みこむようにあわされた俺の両手を見ながら、確かに一瞬、どうしようもなく寂しそうな顔をしたのに、次の瞬間にはニッコリと笑う。
 
「うん、いいよ。私だって試験勉強しないといけないんだし……ちょうどいいよ」
 俺の全てをいつだって許してしまう、真実さんの優しい受諾が胸に痛かった。
 
(嘘だよ、なんて言って……喜ばすことができたらいいのにな……)
 
 でもそれはできない。
 俺が明日から再入院して、またしばらく会いに来れないのは本当のことだから。
 
 出会って二ヶ月。
 一緒にいれたのは最初の一ヶ月と、二週間の空白のあとの十日間だけ。
 今度は何日の空白のあとに、いったいどれだけの時間一緒にいることができるのだろう。 
    
 俺には見当もつかない。
 
 その間、真実さんに何も起こらないだろうか。
 この間のように突然あの男が現われて、ひどい目にあわされたりしないだろうか。
 それは俺でなくたって、誰にもわからない。
 
(本当は傍にいたい。いつでも。いつまでも……)
 そう思えば思うほど、一緒にいれる時間が短くなっていくというのは、いったいどういう意味なんだろう。
 
 俺に自分の立場を再確認させようというのか。
 身の程をわきまえろという警告か。
 それとも、いいかげん彼女を解放してあげろという勧告なのか――。
 
 悔しくて悲しくて、思わず手を伸ばした。
 いつだって手を伸ばせば引き寄せられるところにいる――いてくれる真実さんを、腕の中に捕まえる。
 
「ごめんね。俺に会えないと寂しいのに」
 
 真っ赤になって照れてしまうか、
「そんなことない!」
 と負けん気を起こされるに、きっと違いないセリフ。
 その言葉を敢えてこの時に選んだのには、ちゃんとわけがある。
 
 照れた顔も。
 怒った顔も。
 もっともっと真実さんのいろんな表情を、目に焼きつけておきたかったから。
 
 明日からしばらく会うことのできない間。
 俺はきっと、あのあまりにも見慣れた無機質な病室で、また何枚も何枚も、真実さんの絵を描くんだろう。
 
 瞼にくっきりと残っている笑顔ばかりではなく、いろんな表情を鮮明に思い出して描くことができたなら――そしてその絵をいつでも眺めることができたなら、俺自身が単純に嬉しい。
 
「そ、そんなことは……!」
 予想どおり大慌てして、俺の腕の中から逃げ出そうとする小さな体を、決して放すもんかと、俺は抱きしめる腕に力をこめる。
 
「海君……!」
 上目遣いに俺を見上げる、ちょっと怒ったような大好きな表情を、しっかりと目に焼きつける。
 
「ね。放して……?」
 道行く人々の視線を気にするかのように、真実さんが困りきった顔で小声で囁くから、俺はなおのこと意地になって、ますます彼女を抱きしめる。
 
「ちょっと……海君?」
 
(ごめん。今だけ……きっともうしばらくだけだから……こうしていて……!)
 
 一番伝えなければならない言葉。
 ――なのに一番伝えたくない言葉だけは、どうしてもまだ声に出すことができなかった。
 
(本当はずっとこうしていたいのに……!)
 これ以上ない本心をこめて真実さんの頭に頬を寄せると、彼女は口では抵抗しながらも、やっぱり俺の全てを許してしまって、優しく背中に腕をまわしてくれる。
 
 その優しさに深く感謝しながらも、いつだって結局自分のわがままばかりを押し通してしまう俺には、やっぱり彼女の傍にいる資格はないと思った。
 
 引き離されて当然なんだ、と自嘲した。

 
 
 幽閉するように放りこまれて、たくさんの機械をつけられた病院のベッドの上で、俺は今まで以上に明るく朗らかにふる舞った。
 日に何度も様子を見に来てくれる看護師さんたちにも、石井先生にも、冗談を言って笑う。
 毎日朝夕、病室に顔を出してくれるひとみちゃんには、余裕でからかうようなことばかりする。
 
 なのに毎晩。
 真夜中に一人きりになると、なかなか眠ることができなかった。
 
 夜勤の看護師さんに頼んで、少し開けたままにしてもらっているカーテンの隙間から、真っ暗な夜空を見上げる。
 星一つない暗い空が、そこに確かにあるということを目で確認しているほうが、瞼を閉じて目には見えない恐怖に怯えているよりは、ずっとマシだった。
 
 ほんの小さな頃から覚悟ができていたつもりで。
 誰よりも心の準備はOKだったつもりで。
 俺は自分の『死』というものをすっかり当たり前のように思っていたはずなのに、それがいよいよ目の前に迫ってきたと知った時のように、今はまた、安心して眠りにつくことさえできない。
 
 目を閉じたらもう二度と開くことができないような気がして、目を閉じることができない。
(どうして……?)
 
 入院する前までは、いったいどうやって眠りについていたのか。
 必死に頭をめぐらす。
 
(ベッドが違うから? 枕が違うから? そんなこと……俺に限っては有り得ないだろ……?)
 
 正直、病院のベッドと自分の家のベッドと、どちらがより多い回数眠りについたことがあるかと聞かれると、自分自身その答えがわからないくらいだ。
 だからきっと違う。
 
(じゃあ、やっぱりどこか調子が悪いとか……?)
 
 入院する前の憂鬱な思いとは裏腹に、経過は至って順調のはずだった。
 あくまでも石井先生の言葉を信じるならば、当初の予定どおり、短期間で退院できるほどには――。
 
(じゃあいったいなんなんだよ!)
 半ばやけくそ気味に、再びカーテンのすき間の夜空に目を向けた時、冴え渡るように輝く月の一部分が見えた。
 優しい光を投げかけてくれるようなその姿を目にした途端、ふいに俺にはわかってしまった。
 
(そうか……真実さんとの約束がないからだ……)
 
 夜、自分の部屋の冷たいベッドの上で眠りにつく一瞬。
 俺が無意識のまま、毎日宝物のように抱きしめていたのは、きっと、『また明日』という真実さんとの小さな約束だったのだ。
 
 未来を誓うことはできない。
 将来を一緒に夢見ることもできない。
 そんな俺にとって、真実さんと交わす日々の小さな約束は、確かに全ての支えとなってくれていた。
 
『また明日』と約束したから、それを破るわけにはいかない。
 だから行かなくちゃ。
 真実さんが待っているんだから、明日は行かなくちゃ。
 
 そんな思いが、一日一日を生きる俺の原動力となっていた。
 
(そうか……いつの間にか、こんなに支えられていたんだ。俺の力になってくれてたんだ……!)
 そう思うと、涙でどんどん視界が滲んでくる。
 そうすると、太陽に比べると儚い月の光がますます儚くなって、そのことが俺をよりいっそう不安にさせる。
 
(もう真実さんに会えないなんてことになったら……病気じゃなくってそれが原因で、俺……死ぬんじゃないか……?)
 
 自嘲気味に笑った次の瞬間、俺は起き上がっていた。
 パジャマを脱ぎ捨てて、たった一着、退院の時のためにひとみちゃんが持ってきてくれていた普段着に着替えて、滑り出るようにして、病室の扉から廊下へと出る。
 
(三時間おきの見回りがさっき回ってきたばっかりだから……大丈夫……きっと行ける)
 
 自分を勇気づけるように頷くと、俺は夜間の唯一の出入り口となっている看護師さんたちの通用口から、こっそりと外に出た。
 
 まだ眠ることをしらない真夜中の街に向かって、ゆっくり歩を進める。
 
(ほんの一目でいい……それが無理なら、真実さんがそこにいることを確認するだけでいい……! とにかく俺に……もう一度その場所に、きっと帰ってくるんだっていう強い決意をさせて……!)
 
 通い慣れた真実さんのアパートに向かうため、俺は大通りを走っているタクシーに手を上げた。
 ハザードランプをつけて目の前に止まった黒い車体に、滑りこむように乗りこんだ。
 もう真夜中に近いというのに、二階建ての小さな木造アパートの見慣れた窓には、明々と灯かりが点いていた。
 中から時折聞こえて来る賑やかな声に、
(ああ。みんなが真実さんのところに集まってるんだな……)
 と、なんだか安堵する。
 
 俺が傍にいなくたって、真実さんの日常は何事もなかったかのように、いつもどおりに過ぎている。
 ――そのことが嬉しかったし、寂しかった。
 
『もしも俺の人生が今日突然に終わったとしても、悲しみ過ぎる人なんていないように――!』
 
 その思いは、今でもずっと変わらずやっぱり俺の一番の願いだし、そのためにいつかは真実さんとも離れなければならないと、自分でも決めている。
 
 だから『しばらく会えない』と俺に言われても、真実さんが楽しくやっているのなら、それは良いこと以外のなんでもない。
 それは確かにそうだ。
 そうだけど――。
 
(あーあ。そっか……)
 やっぱり寂しく思ってしまう自分がいる。

(俺が真実さんを必要としているほどには、真実さんは俺のことを必要としていないんだな……)
 そんなふうに思うと、こんな時間にこんなところに立っている自分の行動が、とんでもなく愚かに思えてくる。
 
 見上げた空には、病室のカーテンのすき間から見えていたのと同じ月が、煌々と輝いていた。
 
(帰ったほうがいいかな……?)
 そう思うのに、足が動かない。
 笑い声に混じって時々聞こえてくる真実さんの声が、俺の足をこの場所に縫い止めてしまって放さない。
 
 目を閉じて意識を集中すれば、瞼の裏には彼女のいろんな表情までありありと浮かんできた。
 
(こうやって……しっかりと姿は思い浮かぶ……でもやっぱり会いたいな……)
 そんなことを考えた時、偶然にもアパートのドアが開く気配を感じた。
 
 閉じていた瞼をゆっくりと開いてみると、そこには確かに、俺があんなに会いたかった人が立っていた。
 すぐに俺を見つけてひどく驚いた顔が、見る見るうちに笑顔になるから、俺もついつい笑ってしまう。
 
「海君!」
 頭の中でくり返しくり返し思い出していた以上の飛びっきりの笑顔が、一目散に俺の腕の中に飛びこんできた。
 
「あんまり長い間会えないと、真実さんが寂しがると思って……」
 会いたくて会いたくて我慢できなかった自分の想いは棚に上げて、からかうようにそんなことを言うと、真実さんはちょっと怒ったように俺を上目遣いに見上げる。
 
 そこから始まるはずの
「そんなことは……!」
「あるんでしょ?」
 というやり取りは、俺たちの中ではすっかり習慣みたいになりつつある。
 それなのに――。
 
「うん、会いたかった」
 いつになく真実さんが、俺の言葉をあっさりと認めてしまった。
 
 ドキリと跳ねた胸とは裏腹に、俺の口は落ち着いて、すぐに返事をする。
「俺もだよ」
 その相変わらずの如才なさには、我ながら呆れてしまう。
 
 突然真実さんが、自分から俺の首に腕をまわしてくるから、
「……真実さん?」
 気持ちはどうしようもなく動揺しているのに、腕はすぐさまその華奢な体をしっかりと抱きしめる。
 自分の体ながら、その迷いのなさには、もう敬意を表したいくらいだ。
 
(どうしたの……? なんだかいつもと様子が違うんじゃない……?)
 笑い混じりに問いかけて、そのままキスしてしまおうかと思った時に、前方からこちらに向けられている、突き刺さるような視線を感じた。
 
 感じたままにゆるゆると目を向け、真実さんの部屋の小さな窓に、よく見慣れた顔が三つ並んでいるのを発見し、思わず吹き出しそうになる。
 
(貴子さん! 愛梨さん! それに花菜さんまで……!)
 
 おそらくついさっきまで真実さんと一緒にいたはずの友人たちが、そこには顔を並べて、俺たちの様子をじっと観察していた。
 
 そっちに顔を向けている俺はすぐに気づいたが、背中を向けて、その上俺の胸に頬を寄せてしまっている真実さんは、まったく気がついていないだろう。
 そう思うとちょっと可哀相な気がした。
 
「真実さん……別に俺はいつまでもこのままでもいいんだけどね……?」
 そっと耳元で囁く。
 真実さんはいかにも不思議そうに、俺の顔を見上げた。
 
 俺は吹き出してしまわないように必死に我慢しながら、視線だけで、うしろを見てみるように彼女に指示する。
 
 ふり返った真実さんは、きっとすぐに、自分の部屋の窓が目に入ったのだろう。
 小さく飛び上がり、声にならない悲鳴を上げながら、急いで俺の首にまわしていた腕を解く。
 
(ちぇっ!)
 教えなきゃよかった――なんて思いながら、せめて彼女を抱きしめている腕だけは解かずにおこうと思ったのに、真実さんが今にも泣きだしそうな顔で俺の体を必死に押しやろうとするので、ついつい放してしまった。
 
「ど、ど、どうしてっ……!?」
 友人たちに向き直った真実さんは、深夜の静かな住宅街に響き渡るほどの大声で、驚きと抗議の声を上げている。
 
 そのあまりにも予想どおりの素直な反応に、俺だけじゃなくって真実さんの友人たちも、すっかり満足しきったように笑いだした。
 
「真実……別に帰ってくるのが何時になったっていいけどさ……私の買いものだけは忘れるなよ」
 貴子さんが涼しい顔で告げれば、
「海君! 真実はまだいちおう試験中だから……! そこのところよろしくねー」
 愛梨さんがニコニコしながら俺に向かって手を振る。
 
「真実ちゃん……良かったね……!」
 花菜さんは笑ってるんだか泣いてるんだか微妙な表情で、声を震わせた。
 
(真実さんの友人たちって……なんかいいよね……)
 彼女を取り囲む温かい環境に、俺はホッとする。
 
 しかし当の真実さんは、
「な……何を……? なんで……?」
 上手く話すこともできないほどに、ただただ驚いている。
 
「海君……真実ってば本当に一生懸命がんばってるからさ……ちょっとだけ息抜きさせてあげてよ……ね?」
「……と言うよりも、真実ちゃんに元気を充電してあげて……かな?」
「だからって、試験が手につかなくなるほどのことはするなよ。少年!」
 
 三人から寄せられた確かな信頼が、嬉しくって誇らしくって、妙にくすぐったかった。
 俺にそんな資格があるのか――なんて自問自答するより先に、ついつい頬が緩んでしまう。
 
「はい。肝に銘じます」
 いつものように礼儀正しく、きっちりと頭を下げると、
「ちょっと、貴子!」
 真実さんがすぐに非難の声を上げた。
 
 耳まで真っ赤になった真美さんの、それは照れ隠しの叫びだってことが俺にはわかったから、なおさら嬉しくてたまらなかった。
 


 真実さんと手を繋いで歩く、真夜中のいつもの道。
 
 俺がどうしてしばらく来なかったのかとか。
 今日はどうして突然こんな時間に現われたのかとか。
 ――そんなことを、真実さんは決して尋ねたりしない。
 
 まるで答えることができない俺の事情を知っていて、わざとしらんふりしてくれているかのように、その手の話題にはいつも一切触れない。
 
 今夜だって、『いつからあそこにいたのか』なんて、あまり当り障りのない話をして、自分のことばかりいっぱい話して、俺のズルイ事情は見逃してくれようとしている。
 
 俺はそのことがありがたくって、――そしてやっぱりちょっとうしろめたかった。
 
 始めて会った頃からずっと、意識的にか無意識にか、真実さんは秘密だらけの俺の全てを許してくれている。
 それは彼女にとって負担ではないんだろうか。
 辛くはないんだろうか。
 
 考え始めると、
『早く俺から開放してあげたほうがいい』
 という結論にどんどん近づいていく。
 
 でもそうすることを誰よりも恐れているのは、俺自身だ。
 真実さんともう会えなくなるなんて、想像するだけでどうしようもなく辛いから、なかなか踏みだすことができない。
 
 良心の呵責と、彼女への想いと、自分のわがままと。
 いくつもの気持ちが重なって、心理的にはすでに一歩も前に進めないでいる俺に、ふと足を止めた真実さんが、唐突に問いかける。
 
「海君……どうしたの? ……何かあったの?」
 
 悪いけれど、それまで何の話をしていたんだか、俺はまるで思い出せなかった。
 ただ、どんな時だって、迷いだらけの俺の心理を巧みに感じ取ってしまう真実さんを、少し恐く、とてつもなく大切に感じた。
 
 まだ言いたくはない言葉を隠して、
「うん? 別に何もないよ……?」
 と笑った俺の偽物の笑顔に、真実さんが騙されてくれるとは、俺だって思っていない。
 
 だけど今はまだ嫌だった。
 本当のことを言って――俺はもうすぐきっと死んでしまうから、
 これ以上は一緒にいられないって告げて――彼女の前から姿を消す勇気は、まだ俺には持てない。
 
 そっと手を伸ばしてきた真実さんが、ぎこちなく笑う俺の頬に触れる。
 
「急にいなくなったりしないよね?」
 
 何も話してなどいないのに。
 気づかれるようなことさえしていないはずなのに。
 なんでそんなに俺の心がこの人には伝わってしまうんだろうと、泣きたいくらいの気持ちが湧く。
 
 泣き顔なんて、絶対に見られるわけにはいかないから、俺は、
「そんなことはしないよ」
 とせいいっぱい笑ってから、真実さんを抱き寄せた。
 
 もうこれ以上、気持ちを読まれてしまわないように、彼女の前から顔を隠す。
 
 声が震えていることを、悟られないように気をつけながら、
「いなくなる時はちゃんとそう言うよ」
 と嘘のない言葉だけを選んで、耳元で小さく囁いた。
 
 息をのんだようにこわばった真実さんの体をしっかりと抱きしめたら、不安に揺れる大きな瞳が、すがるように俺の顔を見上げてきた。
 
 もう一度飛びっきりの作り笑いをしてみせたら、腕の中の小さな体から、必死に張り詰めていたらしい緊張が抜けた。
 抜けた力と共に、真実さんが泣きだしたことがわかる。
 
(くそっ! 何やってんだ……俺は!)
 無我夢中で、その体を抱きしめた。
 
「ゴメン、真実さん」
 
 返事はない。
 さっきみたいに俺の顔を見上げてもくれない。
 今、目をあわせたら俺だって泣きだしてしまいそうで、そんなことは絶対に嫌だから、真実さんが俯いてくれているのはありがたい。
 
 ありがたいけど――違う。
 そうじゃない。
 わざわざここまで会いに来て、泣かせたかったわけじゃないんだ。
 
「ゴメン」
 何度も謝って、小さな頭に頬を寄せて、きつく抱きしめ続ける俺に、真実さんはコクコクと頷いてくれる。
 けれど、決して――決して顔を上げようとはしなかった。
 
 俯いたままでいつまでも顔を上げない真実さんに、俺は呼びかける。
「真美さん」
 せいいっぱいの想いをこめて、そっと呼びかける。
 
 俺の腕の中で身じろぎした真実さんが、ようやく顔を上げてくれた。
 涙で潤んだ真っ赤な瞳を見たら、申し訳なくて、かわいそうでたまらなかった。
 
「真美さんが寂しがってるんじゃないかって思って会いに来たのに……余計に悩ませちゃったね……」
 頭を下げる俺に、真実さんは涙の跡も乾かないままの顔で小さく笑う。
 
「ううん……本当に会いたかったから嬉しかったよ」
 こんな時でさえ俺の全てを許してしまう彼女に、俺はやっぱり甘えている。
 そんな自分が悔しい。
 でもどうすることもできない。
 
「うん。俺もだよ」
 自分で自分に許した唯一の言葉――彼女が思いを告げた時にだけ、それに同調する形で伝えることができる俺の本心を、俺は口にした。
 
 俺はこんなにズルイ。
 真実さんにだけ想いを告げさせて、自分では何ひとつ彼女に伝えてもあげられない。
 それなのに――。
 
 俺の顔を見上げた真実さんは、この上なく幸せそうにニッコリと笑う。
 まるで『愛してるよ』と告げられたかのように。
 どんなに心の中でそう思っていたって、決して口には出せない俺の本心を読んでくれたかのように。
 
 その顔を見ているだけで幸せだった。
 他には本当に、もう何もいらなかった。


 
 たった一度だけ、『真実さんに元気をあげないと……』と理由をつけて彼女にキスして、それから俺は自分がここまでやって来た目的を果たす。
 
「また会いに来るよ。真実さんが寂しくないように……」
 その小さな約束をするためだけに、俺は今夜、病院を抜けだしてきた。
 
(真実さんと約束した。だからその約束を守るために、何があったってがんばらなきゃ……!)
 
 自分の核となる想いを作るために、ここまで来た。
 おかげでようやく、今夜はぐっすり眠れる気がする。
 
 俺を見つめる、優しい――優しすぎる笑顔を思い出しながら、幸せな夢に落ちていけそうな気がした。
 それがたとえ束の間のものであっても――。
 真実さんの試験が終わり、また一緒にいれるはずの日々がやってきても、俺は病院を退院することができなかった。
 
「経過は順調だから……きっとすぐに退院できると思うよ……」
 笑いながらそう言ってくれた石井先生の言葉を、信じきっていたわけじゃない。
 だからたいして落胆はしなかった。
 でも、やっぱり悔しかった。
 
 幸い大学が休みになったから、真実さんを送り迎えする必要はない。
 数日後には故郷に帰るという話だったから、その間も、どうせもともと会うことはできない。
 でもだからこそ、それまでの短い時間をできるだけ一緒に過ごしたかったのに――。
 
(あーあ……どうするかな……)
 経過観察のために入院中の身で、彼女に会うために外出するということが、果たして可能なのか。
 
 あまり期待せず問いかけてみたのだったが、思いの他あっさりと病院側から許可された。
 三時間だけという制約はあるが、とりあえず真実さんのところに行って、しばらく一緒にいて、帰ってくるぐらいはできそうなので、ホッとする。
 
 けれどその思いがけない外出許可が、ひとみちゃんの猜疑心にはなおいっそう拍車をかけたのだった。



「ねえ……そんなに簡単に外出許可が出るくらいだったら……どうして退院できないの? ……どうしてまだ入院してなきゃならないのよ……?」
 少し怒ったような顔で、単刀直入に問いかけてくるひとみちゃんに返せる言葉が、俺には何ひとつない。
 
「そうだね……」
 なんてまるで他人事みたいに、ぼんやりとした返事をするぐらいしかなかった。
 
「ねえ海里……」
 決して勘がいほうではないひとみちゃんにこれ以上しゃべらせたら、俺は本当に相槌を打つことすらできなくなってしまう。
 それが恐くて、俺は急いで言葉をつけ足した。
 
「まあ、でも……せっかく気分転換にってことで許可してもらったんだから……ここは喜んで出かけてくるよ」
「…………!」
「短い時間だから学校には顔出せないけど……俺は元気でやってますって、今坂先輩たちにはひとみちゃんから伝えておいて……ね?」
 
 ひとみちゃんがこの上なく、不機嫌な顔になった。
「元気でって……入院中なのに……?」
 
 俺は思わず吹き出した。
 ハハハハッと大声で笑いながら前髪をかき上げる。
「だって元気じゃん」
 
「本当に……? 本当に元気だよね? ……海里……」
 大きく肩を揺すって爆笑する俺を目の前にしているのに、ひとみちゃんは何度も確認した。
 
 不安に怯えたような、まるで彼女らしくない自信なさげな表情が、俺の胸を痛くする。
 気づかれたくない。
 まだ気づかれるわけにはいかない。
 だから俺は、尚いっそう明るく笑ってみせる。
 
「なんで入院してんのかわかんない程度には元気だよ? ……ひとみちゃんがそう言ったんでしょ? ……ハハハッ」
「もうっ! バカ海里!」
 
 怒ったようにクルリと向けられた背中が、大きな足音を響かせながら病室から出て行くのを見送りながら、俺はホッとした。
 心底ホッとした。


 
「ええっとね……飛行機だったら一時間。新幹線で三時間……高速バスだったら五時間かな……?」
 この街からは遠く離れた地方の港町にあるという真実さんの実家まで、いったいどれくらいの距離なのかと尋ねてみたら、彼女は指折り数えながら、俺にそう教えてくれた。
 
 悪いけど笑い出さずにはいられない。
「ハハハハハッ!」
 
 予想以上の遠さに驚いたからばかりではない。
 必死に考えてくれた真実さんの表情があまりにかわいかったから、照れ隠しを兼ねて笑わずにはいられなかった。
 なのに――。
 
「もうっ! どうせ私は田舎者ですっ!」
 やっぱりいつものようにぷいっと怒って、真実さんは俺を置いて歩きだしてしまう。
 
 ゆっくりと歩いて追いかけることさえ、今は難しい状態だったから、俺は言葉だけでせわしく問いかけた。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
 
 怒ってるはずなのに、真実さんはすぐに俺をふり返る。
 何か言おうと口を開きかけ、やっぱり言葉をのみこんで、俯いてしまった。
 
(ごめん……やっぱり、なんだか無理させてるね……)
 本当は俺に聞きたいことがあるんだろう。
 それはもうずっと前からわかっているのに、俺は真実さんにそれを口に出させてあげることができない。
 
 覚悟を決めて問いかけてみても、思いっきり追いつめてみても、真実さんはついに、自分の疑問を口にしようとはしなかった。
 
(聞いてしまったら、このままではいられないって……ひょっとしたらなんとなくわかってくれているのかも……)
 
 いつだって俺のわがままを許してしまう真実さんだから、きっとわざと聞かずにいてくれてるんだろう。
 そのことが嬉しい。
 ――嬉しいけれど、申し訳ない。
 
 この『申し訳ない』という思いが、日に日に自分の中で大きくなって、いつか俺の中の『嬉しい』とか『幸せ』とかいった感情を超えてしまった時、俺はきっと我慢できずに、真実さんに本当のことを告げてしまうだろう。
 
 彼女が必死に繋ぎ止めてくれているその努力を全部無駄にして、俺たちの関係を終わらせてしまうんだろう。
 そう思うと、なおさら申し訳なかった。
 
「そんな顔しないで……」
 ゆっくりと歩み寄って、俯いた顔の前に手をさし出す。
 いつものように左手で、さっさと真実さんの右手を握ってしまう。
 
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
 わざとそんなふうに言えば、きっと真実さんは
「そんな事ない!」
 って叫んで、もう一度負けん気を奮い起こしてくれると思ったのに、黙ったまま、俺に寄り添ってしまった。
 
 無言で俺の胸にもたれかかってくる華奢な体に、これ以上ないほど胸が跳ねる。
(待て! 落ち着け! ……落ち着け!)
 
 当然のことながら大きく脈打ち始める心臓に、必死で制止の声をかけながら、俺は真実さんの体を抱きしめた。
 
 まるでいつもの彼女らしくない反応。
 だからこそ、彼女が今、この上なく無理している状態なんだということが、よくわかった。
 
(ゴメン……ゴメンね、真実さん……)
 
 不安にばっかりさせて。
 何ひとつ確かな言葉はあげれなくて。
 そのくせ抱きしめたこの腕だけは放したくないなんて思ってる俺。
 なんてわがままで自分勝手な俺。
 
(もう少し……あともうほんの少しだけでいいから……そしたらきっと、俺から開放してあげるから……だからそれまでは、どうか俺の腕の中にいて……!)
 
 俺の背中に腕をまわしてくれた真実さんに、涙が出そうな思いで感謝して、その髪に頬を寄せた。
 彼女を抱きしめる腕に、俺はせいいっぱいの想いをこめた。


 
 その三日後。
 再び三時間の外出許可をもらって、病院を抜け出した俺に見送られて、真実さんは故郷へと帰っていった。
 
 駅のホームで彼女の乗った新幹線がすっかり見えなくなるまで見送り、それから俺は同じように真実さんの見送りに来ていた愛梨さんたちと一緒に、帰路につく。
 
 真実さんが俺のことを、彼女たちにどんなふうに紹介してくれているのか。
 不安に思う必要は、なに一つなかった。
 
 つまり真実さんは細かいことはなんにも説明せずに、全部彼女たちの想像に任せてしまっているのだ。
 
 だからふいに、
「高校くらいはちゃんと出といたほうがいいぞ。今からでも入りなおせば……?」
 とか、
「いまだに携帯持ってない高校生なんているんだねー、びっくりした」
 とか話をふられて、俺はいちいちびっくりする。
 
(いやいや……あんまり登校できてはいないけど、これでも高校にはまだ在籍しているんですよ……携帯だってちゃんと持ってます……!)
 決して口に出しては言えない自己紹介を、心の中でだけくり返しては、必死に笑いをかみ殺していた。
 
「おい少年!」
 そんな俺の鼻先に、貴子さんが一枚の紙切れを突きつける。
 受け取ってよくよく眺めてみれば、フェリーの乗船予約券だった。
 
「これ……?」
 おずおずと尋ねた俺に、貴子さんはニヤリと人の悪い笑いを向ける。
 
「一週間後に迎えに行くんだろ……? どうせだったら一日早く行ってあげて、それでゆっくりと真実と二人で帰ってきな……!」
 
『一等洋室』と印字されているそのチケットに、俺は正直焦った。
 
(それってつまりは……真実さんと船の中で、一晩一緒に過ごせってこと……だよな? ちきしょう……! いったいどんな我慢大会なんだよ!)
 
 意味深に笑いながら俺を見つめる貴子さんの目は、あまりにも真剣だった。
『でもやっぱり……』なんておれに躊躇させる気は、きっと始めっから毛頭ない。
 
(まあ……いいか)
 
 威圧感に満ちた貴子さんの視線が恐くて、俺は小さく頷いた。
 
 ようは俺が、自分の体調のことを忘れて無茶しさえしなければいいのだ。
 たとえ真実さんと、一晩二人きりでも。
 完全な個室に閉じこめられていても。
 
(ダメだ……自信がない……全然ない!)
 
 がっくりとうな垂れる俺を、貴子さんが面白そうに観察している。
 ――気がする。
 
「まあまあ、そんなに気にしなくても……ちょっと二人で旅行したんだと思えば……ね?」
 取り成すように笑いかけてくれる愛梨さんの笑顔が眩しい。
 
「真実ちゃんだってきっと喜ぶよ。そうしてあげてよ海君……」
 信頼しきったような花菜さんの言葉が胸に痛い。
 
「はい……ありがとうございます……」
 他にはもうなんとも答えようがなくて、俺はその予約券を受け取った。
 
 三人はそんな俺に、めいめい嬉しそうに、三人三様の笑顔を向けてくれたのだった。


 
 外泊許可を取ることが、外出許可を取るよりも難しいことは、あらかじめ予想済みだった。
 だけど頼んでみないことにはどうしようもない。
 
「どうですか……ダメですか……?」
 一縷の望みをかけて返事を待つ俺に、石井先生はニッコリ笑って頷いた。
 
「わかった。いいよ……丸一日だけ、病院を抜けだしてもかまわない……でももしものことがあってもすぐに助けを呼べるようなところにしか行っちゃダメだよ。わかった?」
 
 その条件では、ほぼ海の上を移動していて、陸路とはまったく接触を持たない船は、始めっからダメなんじゃないかとガッカリする。
 
 けれどそんな俺に、先生はちょっと悪戯っぽい顔をして頷いた。
「ま……それは私の医者としての見解だから……個人的には……よっぽどのことがない限り、今までどおりに行動していれば何の問題もないと思うよ?」
 
 途端顔を跳ね上げて、満面の笑顔になってしまう自分が恨めしい。
 でも小さな子供の頃からずっとお世話になっている石井先生に、今更格好つけようってのは、しょせん無理な話だ。
 
「気をつけて……」
「はい」
 
 先生に言われるとなんだか特別な意味を持つような言葉を、俺はちゃんと胸に、きつく刻みこんだ。
 


 それから一週間後。
 真実さんを見送ったあの駅から彼女と同じように新幹線に乗って、俺は生まれ育った街を初めてあとにした。
 
『帰りは絶対に迎えに行くから! 用が終わったら必ず連絡するように!』
 と叫ぶ兄貴に、ひとみちゃんを上手くごまかすことに関しては、全部任せてきた。
 上手くいくとも思えないが、もしバレて最大級の怒りをかったとしても、その時のことはその時考えよう。
 
「それでね……その時真実が言ったことがね……!」
 真実さんと同郷の愛梨さんが、途中まで同行してくれることになり、新幹線に乗っている間中、俺の知らない大学での真実さんの話をたっぷりと聞かせてくれた。
 
 あっという間の三時間のあと。
 降り立った駅のホームでは、本当にかすかに海の匂いがした。
 
 愛梨さんに連れられていった、真実さんの故郷の港町には、眩しい陽光に照らされた海が到るところに広がっていた。
 
「本当に一人で大丈夫?」
 と心配してくれる愛梨さんに頷いて、ここまで連れてきてもらったことを感謝する。
 
「ありがとうございました」
「じゃあ……これ」
 最後に愛梨さんが手渡してくれたのが、真実さんの『秘密の場所』だという砂浜への行き方を描いた地図だった。
 
「昨夜電話したら、明日は朝からそこに行くつもりだって言ってたから……きっと今頃はまだいると思う」
 何から何まで、お世話になりっぱなしで、本当に愛梨さんたちには頭が下がるばかりだ。
 
「ありがとうございました!」
 もう一度深く頭を下げた途端、ふいに愛梨さんが、真実さんが名づけた俺の名を呼ぶ。
 
「海君」
「はい?」
 反射的に顔を上げた俺は、真剣な顔をした愛梨さんと真正面から向きあった。
 
「真実をよろしく頼むね」
 真摯な瞳でそう告げられて、一瞬怯む。
 
(俺は……!)
 残された時間がないとか。
 資格がないとか。
 頭の中を駆け巡った様々な思いを排して、俺の口は心のままに言葉を返す。
 
「はい」
 本当はいつだって迷うことなくそうしたかった理想のままに、俺の体は勝手に頷く。
 
 その場しのぎのいいかげんな返事なんかじゃなくて、できるだけの間、せいいっぱいそうしたいという自分の願望をこめて、俺はしっかりと愛梨さんに頷いた。
 
 自分の命がある限り。
 真実さんの傍にいれる限り。
 ずっとそうしようと、その瞬間に自分で自分に誓いを立てた。
 
 ――すぐそこに迫っていたサヨナラの気配になんか、まるで気がついていなかった。