たとえば今日突然に、俺の短い人生が終わったとしても――悲しみ過ぎる人なんていないように。
もちろん家族や、ほんの少しの友だちは悲しむのかもしれないけど、時と共にその思いもいつか薄れて、 「あいつって、いい奴だったよなー」 なんて時々、ふとした拍子にでも思い出してもらえるなら、それでいい。
(あまりにも悲しみ過ぎて、その人自身の人生がだいなしになってしまうような……そんな存在はいらない……)
最期の瞬間に、自分が生きた一生をふり返ったら、ほどほどに楽しくてほどほどに幸せで、「短かったけど、それなりにいい人生だったなー」なんて、あっさりと笑って逝けるような。
そんな最期を迎えるんだと、俺は子供の頃から決めていた。
(未練を残さずにいられないような、特別な『何か』なんて……俺は、いらない……)
――それが、将来に対する夢や希望を抱くよりずっと前に、現実を目の前に突きつけられてしまった俺の、自分の運命に対する、肩肘張った精一杯の決意だった。
「いったい、いつまでカーテン引いてるのよっ!」
とびきり不機嫌な声と、ジャーッとカーテンの開かれる音。
急に顔を直撃したらしい朝日の、目を閉じていてもわかる眩しさに、俺は静かな眠りから否応なく叩き起こされた。
朝っぱらから嫌な予感をひしひしと感じながら、ゆっくりとまぶたを開いてみると、予想どおり、勝気な従兄妹殿が腰に手を当てて、ベッドの脇に仁王立ちで立っている。
「いくら入院中だからって、ちょっとだらけ過ぎなんじゃないの?」
俺が足元に蹴りこんだ毛布を畳み直し、枕元に積み上げていたはずがいつの間にか床に散乱していた雑誌や本を、棚に並べ直しながら、
「とっくに朝食の時間なのに、看護師さんたちも困ってるでしょっ!」
まるで母親が我が子を叱るように説教を始める同い年の従兄妹を、これ以上怒らせてはならないと、俺は慌てて起き上がる。
「ゴメン」
勢いよく下げた頭の上から、
(しょうがないな)
とでも言いたげな大きなため息が降ってきた。
紺色の制服のスカート部分だけ、俺の視界の隅に入る彼女は、腰まである長い黒髪をさらっと揺らして、くるりと体の向きを変える。
「私、お花の水を変えてくるから、その間にせめて顔ぐらいは洗っておきなさいよ」
最後のほうはほとんど捨て台詞のように言い残しながら、さっさと花瓶を持って部屋を出て行ってしまう。
返事をする暇さえ与えないせっかちな背中を、ため息混じりに見送っていると、廊下のほうからクククッと笑い声が聞こえてきて、朝食を運んできた看護師さんがずっと部屋の前の廊下で待っていてくれたことを、俺は初めて知った。
「すいませーん。今、起きましたー」
申し訳なく思いながら声をかけると、トレーを持った若い看護師さんは、片手で拝むような格好をしながら部屋へ入ってくる。
「ゴメンねえ。別に、そっとテーブルに置いていっても良かったんだけど、ひとみちゃんが『今起こします』って言うもんだから……」
俺は少々バツが悪い思いで、頭を下げる。
「すいません」
そんな俺に向かって看護師さんは、
「まるで奥さんみたいだよね、ふふっ」
何がそんなに嬉しいのか、夜勤明けで赤く充血している目をキラキラと輝かせながら、これまでにもいろんな人から、耳にタコができるほど聞かされてきたセリフを、今日もくり返す。
(……またか)
内心ため息をつきながら、
「そんなんじゃないですよ。ほんとにただの従兄妹なんだから……」
いちいち言い訳するのも、そろそろ疲れた。
「お節介なんですよ、昔から。俺の世話を焼くのが趣味みたいなもんなんです。ここはちょうど、学校に行く途中にあるし……」
俺の言葉なんて半分は耳に入っていないかのように、ニヤニヤ笑いながら、看護師さんはてきぱきと朝食のセッティングをしてくれる。
「はいはい。照れくさいからってそんなふうに言ってると、また怒られちゃうわよ」
からかい含みのその忠告に、入り口の方から
「……別に。本当にただそれだけですから」
と、かなり怒りのこもった声が響いた。
部屋に帰ってきたひとみちゃんは、大股でベッドまで歩み寄ると、脇にあるキャビネットの上に、ドンと音がするくらい乱暴に花瓶を置く。
「変なふうに誤解されると、私のほうこそ困ります!」
ご丁寧に俺の顔を睨みつけながら、きっぱりと言い切る彼女の様子に、看護師さんは首をすくめ、二、三歩後退った。
「そっか。ゴメンね」
とばっちりを受けないようにだろうか、そのままそそくさと病室を出て行ってしまう。
あまりにも気まずい雰囲気の中に、二人きりで取り残されてしまって、ずしりと肩の上に重荷を感じる。
俺はゆっくりと、ベッドの横に立ち尽くすひとみちゃんを見上げた。
こぶしを握りしめて、首だけ無理にひねったおかしな体勢で、あからさまに俺から顔を逸らしている小さめな横顔。
「……怒ってんの?」
率直に聞いてみたら、無言のまま体までひねって、本格的に背中を向けられる。
窓の外のすずめのさえずりが、チュン、チュンチュンと、たっぷり五匹分は聞こえてから、
「怒ってないわよ」
と答えた声は、俺にはどうしたって怒ってるように聞こえるんだが、笑いをこらえて、今までずっとそうしてきたように、それ以上は追及しないことにした。
「そう」
ベッド横のキャビネットから引き出したテーブルの上には、看護師さんが手際よく準備してってくれた朝食が並んでいる。
朝の定番のメニュー。
ご飯に味噌汁に目玉焼き。
つけあわせのレタスの隣には真っ赤なプチトマト。
まるで目には見えない針金か何かで体をがんじがらめにされたように、かたくなに俺に背を向け続けるひとみちゃんのことはひとまず置いておいて、俺は、そのちょっと冷めかけた朝食に手を伸ばした。
「いただきます」
変に気を遣うことはない。
物心つく前から、本当の兄妹のように育った従兄妹。
俺にとってひとみちゃんは、数少ない身内の中でもとりわけ気安い相手だ。
これと言って解決になる何かがなくても、俺が朝食を食べ始めたことで、それまでのやり取りはチャラになるらしい。
微動だにせず立ち尽くしていたひとみちゃんが、ようやく窓に向かって歩き始め、朝日が燦々と射しこむ南側の窓を、勢い良くガラガラガラッと開けた。
(よしっ!)
心の中で小さくガッツポ―ズした俺は、味噌汁のお椀に口をつける。
上目遣いに、外の景色を見るともなく見下ろしている不機嫌な横顔をチラリと盗み見ると、
「陸兄から、着替えあずかってきたから」
視線を鋭く察知したらしいひとみちゃんが、ふり返りもせずに突然口を開き、ベッド横の床に直置きしてあった紙袋を指差した。
そのあまりのタイミングの良さに、思わずお椀を落っことしそうになりながらも、
「そっか。ありがとう」
俺はなんでもないふりを心がけ、箸を持った右手を上げた。
ハアアッと狭い病室に響き渡るほどにため息を吐くと、ひとみちゃんはついに体ごと俺をふり返る。
「確かにお節介だろうけど……実際、私が来ないと、海里は困るでしょ?」
窓枠に両肘をつくようにして体重を預けながら、心の奥まで見透かしてしまいそうに大きな瞳で真っ直ぐに見つめられると、ドキリと心臓が跳ねる。
『目がキツイ』と形容されることの多いひとみちゃんの真摯な瞳には、いつだって隙がない。
下手なごまかしや嘘なんて通用しそうにない雰囲気がある。
俺は心のままにコクリと頷いた。
「うん、そうだね。ゴメン」
仕事で日本中を駆け回っている父さんは、よほどの時でなければ病院に顔を出せない。
五つ年上の兄貴は大学生で、暇を見つけては世話を焼きに来てくれるけれど、それにも限度がある。
母さんは、――そう、俺が六つの時にすでに亡くなっていた。
母さんの姉さんにあたる人がひとみちゃんのお母さんで、我が家の近くに住んでいたこともあり、昔から何かと俺と兄貴の世話を焼いてくれている。
伯母さんにいつもくっついて来ていたひとみちゃんが、同じ年で同じ学校に通う俺をフォローしてくれるようになったのは、当然と言えば当然だ。
「……本当は感謝してるよ」
俺のこんなストレートな言い方に、ひとみちゃんは弱い。
自分が単刀直入にしゃべるわりには、人に素直な感謝を向けられるのは照れ臭いらしくて、対応に困って、ちょっとそわそわする。
いつも強気な彼女のそんな姿が面白くて、わざとこんなふうに言ってみるんだから、俺は本当はかなり意地が悪い。
予想どおり、やっぱり少し困ったように、
「私、そろそろ学校に行くから」
口にするが早いか、ベッド横に置いていた学生鞄を猛ダッシュで抱え上げ、すぐさま部屋から出て行く彼女を、俺は内心ほくそえみながら、大真面目な顔で見送る。
朝食を食べる手は休めないまま、
「いってらっしゃーい」
急ぐ背中に言葉だけを送ると、入り口のところで立ち止まったひとみちゃんが思いがけずこちらをふり返った。
「海里。やっぱりもう絵は描かないの?」
抜き打ちの直球に内心は焦りながらも、俺は全然動じなかったふりをして、目玉焼きの切れ端を口の中に放りこむ。
「うん、そうかもね」
「そう」
短く答えてまた走り出したひとみちゃんが、どんな表情で何を思ったのかはわからない。
けれど口に入れた食べ物は、単なる習慣で体が勝手に噛み砕いて飲みこんでいるだけ――。
実際にはなんの味も感じられていない俺は、とても平静なんかじゃない自分の状態を痛いくらいに自覚していた。
生まれつき心臓に病気があって、小さな頃から入退院をくり返してきた俺は、学校というものにあまり通ったことがない。
それでも小学生の頃は、学期の半分ぐらいは出席していたような気もするが、中学に至っては卒業できたことが奇跡だった。
中三の夏に大きな発作を起こして入院してから、もうすぐ一年になる。
安静にしている以外することもなくて、一人で勉強を続けているうちに、自然と高校に受かるくらいの学力は身についた。
特別措置で、病室で高校入試を受けさせてもらい、見事志望校に合格。
形ばかりひとみちゃんと同じ高校に在籍しているが、実際にはまだ一度も登校したことはない。
いつになったら登校できるのかもわからない。
けれど、それらのことに不満を持ったり、憤りを感じたりする感情を、俺はとっくの昔に放棄した。
俺が今置かれている状況だったら、人生を悲観したり絶望したりして、毎日をふさぎこんで過ごすことは簡単だ。
だけど俺はそんな無駄なことに、ただでさえ短いだろう貴重な時間を費やすなんて馬鹿な行為は、絶対にしたくなかった。
いつか自分が死んだ時には、
「海里君は本当に明るくて楽しい子だった」
と、笑い混じりでみんなには思い出してもらいたい。
その目標だけは絶対に譲れない。
だから俺はもっともっと強くならなくちゃならない。
自分を憐れむ気持ちや運命を恨む気持ち。
それはどんなに努力したって、俺の心にもくり返し忍びこんでくる。
それを全部追い出してしまうのは、本当に骨の折れる仕事だし、長い葛藤で実際何度も苦しんだ。
だけど、きっと長くはない人生だと、自分でもわかっているからこそ、俺は絶対に負けたくなかった。
心の中ではどんなに嫌な思いを抱えていたって、数え切れないくらいいろんなものと戦っていたって、それでもいつも、周りの人たちに見せる表面上だけは、笑っていたかった。
(俺はちっともかわいそうなんかじゃない……!)
その思いだけが、いつもしっかりと胸のど真ん中にあった。
けれど実際、今までで一番の長期になっている今回の入院には、さすがに俺も気分が下降ぎみだった。
「窓から見える景色を描くんだ」
と病室に持ちこんだスケッチブックも、春夏秋冬と全ての季節を描き終えて、鉛筆を持つ気も失せてしまった。
(俺が落ちこんでるんじゃないかって、ひとみちゃんは心配してくれてるんだよなぁ……)
なんだかんだ言っても、結局俺を気にかけてくれている従兄妹殿を、やっぱり窓からでも見送ってあげようと、俺は立ち上がり、さっきまで彼女がいた南向きの窓に歩み寄った。
ちょうど病院の建物から出て、大通りに通じる長い坂道に一歩を踏み出したところだったひとみちゃんは、顔を真っ直ぐ進行方向へ向けて、およそ女の子らしくない大股でズンズンと進んでいる。
背筋をピシッと伸ばして、長い髪を風になびかせて、颯爽と遠ざかっていく。
坂道の両脇にキチンと並んで植樹されている大きな街路樹は、今まさに新緑が芽吹き始めだった。
濃かったり淡かったりのさまざまな緑に彩られている町並みの中を、どんどん小さくなっていくひとみちゃんの凛とした後ろ姿は、まるでくっきりと太い線で描かれた水彩画のようだった。
彼女の持つ清廉な雰囲気が五月の爽やかな朝にぴったりで、見惚れるほどに絵になっていた。
頭の中にあるキャンバスにその風景をしっかりと写し取りながら、小さくなっていく後ろ姿を見送っていた俺は、自分でも気づかない間にどうやら笑顔になっていたらしい。
「海里君。何を笑ってるんだい?」
背後から声をかけられるまで、その人が部屋に入って来たことにさえ気がつかなかった。
急に話しかけられてかなりドキリとする。
――その声は日に幾度となく病室を訪れる看護師さんたちのものではなかった。
「いい知らせがあるよ」
思わせぶりな言い方にまんまと引っかかって、慌ててふり返ってしまい、そんな自分はやっぱり本当の意味では、どんなことだって諦めていないんだと苦笑する。
部屋の入り口に立つ主治医の石井先生は、俺のそんな様子に、口元の笑いジワをより深くして笑った。
「どうだろう? そろそろ退院してみてもいいかな、と思ってるんだけど……?」
キュッキュッキュッと室内履きの音をさせて俺に歩み寄って来た先生は、ポンと軽やかに俺の右肩を叩く。
「本当ですか?」
間髪入れずに聞き返してしまって、シワだらけの笑顔をますますクシャクシャにさせてしまった。
「ああ。だいぶ長い間、がんばったからね」
先生は小さな子供を誉めるかのように、自分より背が高い俺の頭をちょっと背伸び気味にグリグリと撫で回す。
「でも、油断は禁物だぞ」
まだその言葉の正しい意味も良くわからない頃から、何度も聞かされてきたセリフさえも、今日はなんだか耳に心地良かった。
「はい」
平静を装って返事をしたつもりだったのに、先生が俺の頭をいっそう強くかき混ぜる。
その力強さと、俺を見上げる少々潤み気味の眼差しに、どうやら自分が飛びっきりの笑顔になっていたらしいことに気づいた。
(しょうがないだろう……だって、ずいぶんひさしぶりの自由なんだ……)
頭の中で急速に回転し始めた楽しい想像に、俺は今にも踊りだしてしまいそうに浮かれていた。
(まず何をしようか? 誰と会う? 初めての高校は?)
今すぐにでもこの病室を飛び出して、家まで飛んで帰りたいくらいだった。
(父さんに知らせなきゃ。それとも兄貴か? やっぱりひとみちゃんかな……?)
ザワつく胸を必死に落ち着かせながら、すでに彼女の後ろ姿が見えなくなった坂道を、もう一度見下ろしてみる。
気持ちのいい風が吹くあの場所を、もうすぐ歩くことができる。
他の誰でもない自分自身で。
それはなんて素敵なんだろう。
窓の桟に頭を持たれかけて目を閉じ、俺は少しだけ想像してみた。
(一つずつやればいい、急がずゆっくりと。この一年間やりたかったことを、順番にやっていけばいいんだ……)
『自分のやりたいことがやれる』――それは俺にとってこの上ない贅沢だった。
長い間叶わない願いだったからこそ、その価値がよくわかった。
今のこの喜びは、そう何度も経験するようなものじゃない。
できるならいつまでも、この浮き立つような幸せに浸っていたい。
こうして目を閉じて初夏の風を感じていると、やっぱり退院が取り消しになったなんて、今まで何度も俺を落ちこませた事態には、今度こそならないと思える。
(ひょっとしたらさ……このまま病状まで良い方向に向かうことだってあるかもしれないよな……?)
らしくもなく根拠のない夢まで見てしまった。
これまで随分慎重に、かなり用心深く生きてきたつもりだったのに、迂闊にも小さな希望を抱いてしまった。
『希望』は人が生きていく中で、辛い時や悲しい時の魂の拠りどころになるのかもしれない。
それは確かにそうだけど、同時に、これまで自分を守ってきた安全圏からの逸脱を招きはしないだろうか。
ひねくれ者の俺は、いつだってそんなふうに斜めに考えていたはずだったのに――。
うっかり『希望』なんて持ってしまった俺は、その時、石井先生が俺をそっと残して、静かに病室を去ったことに気づいていなかった。
もちろん、廊下に出た途端、先生が両手で顔を覆ってしまったことも――。
――この退院の本当の意味なんて、まったく疑ってもいなかった。
結局その週の金曜日、俺はひとみちゃんと伯母さんにつき添ってもらって、一年間を過ごした病室を、後にした。
「もう帰ってくるんじゃないわよー」
すっかり顔なじみになった看護師さんたちは、口々にそう言って笑いながら見送ってくれたけど、俺だってできるなら本当にそう願いたいと、自分自身でも思ってた。
退院したと思ったら、あっという間に逆戻りなんてシャレにならない。
だからこそ今まで以上の細心の注意が必要だ。
(特別なことなんて何もなくていいから。ただ平凡な毎日が飽きるほど続いてく。それだけでいいから……)
それは俺にとってささやかな、けれど切実な願いだった。
(普通に学校行って、伯母さんの手料理食べて、自分の部屋のベッドで眠って)
たかがそんなことが夢だなんて自分でも笑ってしまうが、こうしてもう一度その中に帰ってこれた今だからこそ、笑えるんだってわかってる。
(そんなことぐらい……なんて馬鹿にできない状況に陥る可能性だってある。でも大丈夫……俺は絶対に忘れない)
誓うように、今出て来たばかりの病院をふり返った。
真上に近い位置にある太陽の光が眩しくて、俺がさっきまでカンヅメされていた二階の西端の病室を仰ぎ見るのは難しい。
目の上に手で庇を作りながら、俺は目を細めた。
今は無人のあの部屋の窓から、どんな風景が見えていたのか。
俺はこれから先どこに行ったって忘れないだろう。
まるで目の前に広がっているかのように、いつだって描き表わせるだろう。
白い敷石に濃い影を落とす街路樹。
どこからか聞こえてくる鳥の声は、狭い病室に閉じこめられていた時とは比べものにならないほど、爽やかに耳に響く。
どこにいるのか目には見えないが、瞼を閉じると、大空に向かって飛ぶ力強い姿が、頭のキャンバスにはくっきりと浮かんだ。
(絶対、忘れない)
もう一度、心に誓った。
「海里ぃーお帰りー!」
夕方、大学から飛んで帰ってきた五つ年上の兄貴は、まるで俺がまだ小学生の子供ででもあるかのように、ギュッと抱きしめて頬を寄せた。
俺の顔が無理矢理に押しつけられた位置は兄貴の肩の若干下のあたりで、そのかなりの身長差に内心ではムッとする。
けれど、
「良かったなー良かったよー」
わりあい整った顔を俺のためにクシャクシャに歪めて、大袈裟なくらいに喜んでくれることは素直に嬉しかった。
「よくがんばったな」
無理に休みを取って家にいてくれた父さんも、言葉は少ないながらも満面の笑みで石井先生のようにガシガシと俺の頭を撫でる。
その力強さが本当に嬉しかった。
一年前と何も変わっていない自分の部屋に、病院から持ち帰った荷物を運びこんで、机の上に載せたままずっと開かれることのなかった高校の教科書を、パラパラッとめくってみる。
(まあ、それなりに自分でがんばってたつもりだけど……ついていけるのかな……?)
苦笑しながら教科書は閉じて、今度はまだビニールに入ってハンガーに掛かったままの真新しい制服をつまむ。
(ほぼ二ヶ月遅れの高校入学か……)
多少のことには慣れっこになっている俺でも、さすがにこれは滅多にできない経験だ。
(いい思い出が、一個でいいから作れたらいいんだけどな……)
始まる前から、後でふり返った時の心境を心配するのは、ずいぶんと本末転倒かもしれない。
けれど、
(あんまりたくさん期待したら駄目だ。またそれを手放さなきゃならなくなった時に、未練なんて持ちたくない)
俺にとってその考え方は、防衛本能みたいなものだった。
だけど、やっと登校できた高校というところは、俺が病室で思っていた以上に、俺の現実とはかけ離れた場所だった。
受験勉強や部活。
アルバイトや恋愛。
同級生のおもな感心事はどれも俺とは決定的に無関係で、どう考えてもこれからも縁が有るとは思えない。
すんなりと話題に入っていけない上に、二ヶ月遅れのハンデもある。
普通に友達なんて、とてもできそうにはなかった。
(半分ぐらいは学校に行ってた小学生の頃は、これでも友達、多いほうだったんだけどな……)
考えると胸が痛くなるから、体調上もあまり良くない。
俺はなるべく考えないようにする。
いいことを見るなら、遠巻きに皆の話を聞いているのは面白かったし、たくさんの人間と同じ空間にいれるというのは、ただそれだけで嬉しかった。
クラスのみんなも、ひとみちゃんがよく言っていたように、
「みんな自分のことばっかりで、全然つまらない」
とは感じなかった。
病気で長く休んでいたクラスメートには、みんなそれなりに親切で、気遣ってくれるからだろうか。
ぼうっと席に座っている時に、なんの脈絡もなく、
「がんばれよ」
とか
「無理するなよ」
とか時々声をかけられるのは、嬉しかった。
中学の時と同様、同じクラスで席まで隣のひとみちゃんは、
「やっと彼氏が登校してきて良かったなあ」
と冗談半分の声がかけられて、
「そんなんじゃないわよ!」
と常に怒り狂っている。
「これじゃ、小学生の頃から何も変わらないじゃないのよ!」
と怒鳴られたけれども、そんなやり取りすら今の俺には楽しかった。
目尻をほんのりと赤く染めて、少し頬っぺたを膨らましながら怒るひとみちゃんは、確かに小学生の頃から変わらない。
口で言うよりはずっと親切に、常に俺を気遣ってくれる。
でも高校生になってまでこんな調子でいいんだろうかと思う気持ちも、俺の中になくもなかった。
俺が退院して学校に通いだしてから、ひとみちゃんは毎日、一緒にタクシーで通学するようになった。
爽やかな初夏の風の中を自由に闊歩し、颯爽と前を向いていた横顔はあんなに彼女らしかったのに、
「別にいいわよ。このほうが楽だし。お金は叔父さん持ちだし」
俺が気にしないようにだろう、わざとぶっきらぼうにそんなことを言う。
(本当は俺のためだよな……いつ具合が悪くなったってすかさずフォローできるように、いつも側にいてくれるんだよな……)
それにはとうの昔に気づいていたし、そんな彼女には深く感謝していた。
けれど意地っぱりなひとみちゃんが、素直に俺の謝辞を受け取るはずもない。
だから、なんにも気づかないフリをして笑ってみせる。
「ひとみちゃんは、『楽』が好きだよね」
「どういう意味よ?」
すぐにカチンと来て、瞳に炎が灯るところがまた彼女らしい。
(このひとみちゃんらしいところを可愛いと思ってくれる奴と、本当は恋愛一色の高校生活でもおかしくないんだよな……)
また申し訳ない気持ちになった。
俺の存在はひとみちゃんにとって迷惑なんじゃないかと考えたことなら、今までに数えきれないくらいある。
ひとみちゃんは言い方はキツイけれど、それを補って余りあるほどの美人だし、なかなか素直には表に出さないけど本当は優しいし、今までだって相当の数の男が好意を示したのに、いつだってそんなことにはお構いなしだ。
「だって好きとか嫌いとかそんなの、面倒くさいじゃない!」
およそ若者らしからぬセリフで崇拝者を一刀両断にするのは、俺がお荷物になっているからじゃないかと疑うのは考え過ぎだろうか。
(これだけどこに行っても俺との仲を誤解されるんじゃ、いくらひとみちゃんだって、そのうち言い寄ってくる相手がいなくなっちゃうんじゃないか?)
俺は密かに責任を感じてもいた。
とうの本人にそんなことを言おうものなら、
「余計なお世話よ!」
とそれこそ大目玉を食らいそうだが、俺はこれでも本気で心配していた。
(俺のために自分の生活を犠牲にしてほしくないんだ。だって遅かれ早かれ俺はいつかはいなくなるんだからさ……)
もしその時が来ても、必要以上にひとみちゃんが大きなダメージを受けないように、できるなら俺は彼女とはもっと距離を置きたかった。
仲の良かった従兄妹が死んでしまっても、親身になって慰めてくれる恋人や友人たち。
そんな存在を彼女にはできるだけ多く持ってほしかった。
うぬぼれや責任逃れなんかじゃなく、本当に俺を大切にしてくれている人だからこそ、俺がいなくなった後も幸せでいて欲しかった。
(ずいぶんと自分勝手な願いだよな……)
俺の思惑になど気づきもせず、机から身を乗り出して、今までの授業の流れを懸命に説明してくれるひとみちゃんの長くて艶やかな黒髪を、俺は頬杖をついたままただ静かに見下ろしていた。
一緒に帰る都合上、俺はひとみちゃんの部活が終わるのを毎日待っていることになって、どこで待っていたらいいのかわからない所在なさと、
「面倒だから海里も入りなさいよ」
というひとみちゃんのごり押しで、彼女が所属する美術部に、思いがけず入部することになった。
絵を描くのは子供の頃から大好きだった。
でもそれしかやることのなかった日々が、なんだか胸の奥に重く残っていて、退院したからとまた描く気持ちには、まだなれない。
けれど窓から射しこむ暖かな陽だまりの中、大きなキャンパスに向かって悪戦苦闘しているひとみちゃんが本当は何を望んでいるのか、俺にはわかっていた。
『俺がまた絵筆を持つこと』
わかっているけど今はまだ、日当たりのいい美術室で椅子にゆったりと座りながら、油絵の匂いに包まれて、ひとみちゃんや他の部員たちが絵を描いている様子をただ見ていたい。
静かに流れていく穏やかな時間を、何をするでもなく体中で感じていたかった。
まるで監督でもしているように、部活の間ずっと窓際の席に座って、じっとみんなを見ている俺を、咎めるような部員は、幸いここには一人もいない。
「一生君は? 絵は描かないの?」
決して詮索するような響きは含まず、なにげない世間話のように投げかけられる質問には、俺が口を開くより先にひとみちゃんがさっさと答えてしまう。
「……描かないの。すごく上手いくせに」
小さく首をすくめるしかない俺に、右頬に青い絵の具をつけたその女の子が笑いかけた。
「そうなんだ。また描くようになったら見せてね」
今彼女がキャンバスに広げている淡い黄色と同じくらい優しい笑顔が、俺に向けられる。
温かい気持ちが伝染したかのように、
「ああ」
思わず笑顔になってしまう俺なんかよりもっと、いつも『目がきつい』と形容されるひとみちゃんの表情がふわりと緩んだのを、俺は見逃さなかった。
だから――
「いつか描きたいものが見つかったら、その時はまた描くよ」
声をかけてくれた相手というよりは、ひとみちゃんに伝えた。
自分のことなんかそっちのけでいつも俺の世話ばかり焼いてくれる彼女を、本当は喜ばせたいと、俺は心の中ではいつも思っていた。
「本当にうちでご飯食べていかないの?」
家の前に横づけされたタクシーから俺がひとりで降りた途端、ひとみちゃんはその日朝から飽きもせず何度もくり返した言葉を、更にもう一度くり返した。
俺は笑って手を振りながら、
「遅くなるかもしれないけど、兄貴が帰ってくるって言うからさ。家で待ってるよ」
タクシーの中をのぞきこむようにして、やはり今朝から何度も返した同じ言葉をこれが最後とばかりに念押しする。
「……そう」
それでもまだ納得がいかないふうのひとみちゃんを乗せて、タクシーはゆっくりと動き出す。
夕暮れ時の街の中で、その遠ざかっていくシルエットを、俺は見えなくなるまでずっと見送った。
入院中はあんなに憧れて夢にまで見ていた高校生活だったが、それが何事もなく続いていけば、実際には中学時代とあまり変わりない毎日だということを思い知らされる。
(とうの本人が変わっちゃいないんだから、まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけどさ……)
驚くほどにあっさりと慣れてしまった変化に乏しい単調な日々は、気を抜いているとまるで飛ぶように過ぎていってしまう。
(この調子だと、「気がついた時には高校卒業だった!」なんてことにもなりかねないな……)
さすがにそこまで一足飛びにとは行かなかったが、気がつけばすでに退院からは一ヶ月が過ぎ、六月も半ばになっていた。
俺が退院してからしばらくの間、大喜びで毎日大学から直帰していた兄貴は、あまりの実習準備の遅れに、
「これ以上は居残らないと無理だー、せっかく海里が帰ってきたのに!」
と一週間で降参した。
医学部で外科医を目指している大学三回生が、当然といえば当然だ。
「せめて今日中には帰ってくるから、待ってろよ。な、絶対待ってろよ?」
まるで新婚の奥さんをおいて会社に出勤する夫のようなセリフを残し、泣く泣く出かけていった兄貴のために、
(たまには俺が夕食を準備して、待っていてやろうか)
なんて思いたった。
伯母さんの美味しい晩御飯を断ってまで作るのだから、せめて本ぐらい見て作らなきゃもったいない。
ましてや自分が作った料理にあたって病院に逆戻りなんてことにでもなったら、シャレにならない。
父さんの書斎に母さんの料理本でも残っていないかと思いついて、俺は二階の奥のこげ茶色の重厚な扉を押し開けた。
その部屋は、小さい頃は立ち入り禁止の開かずの間で、少し大きくなってからは調べたいことがあったら何でも答えが貰える俺と兄貴とひとみちゃんの私設図書館のような場所だった。
本好きの父さんがジャンルも種類も問わず若い頃から集めたいろんな本が、ところ狭しとギッシリ並んでいる。
入院中はずっと定期的にこの中から何冊か病院に運んでもらってかたっぱしから読んでいたし、実際父さんは本物の図書館のように、人に貸し出したりもしていた。
その父さんは、俺が退院した当日だけは出張先から無理矢理に駆けつけてくれたものの、その後はやっぱり長期出張で、ほとんど家を留守にしていた。
子供の頃からなれっこのこととは言え少し寂しい気がしたのは、
「退院お祝いパーティーをするぞー」
という兄貴の能天気な提案に、
「おおーやるぞー!」
といくつになっても子供心を忘れない父さんが、いつものように拳を突き上げてくれなかったからだった。
「ゴメン、陸人、海里。また今度な」
両手をあわせてそう言った父さんの表情が、なぜかいつまでも忘れられなかった。
胸に何かを秘めたような、こわばった笑顔。
「どうしたの?」
とそのまま尋ねることができるほど、俺はもう無邪気な子供ではない。
そして、いつ破裂するかもわからない爆弾を自分が常に抱えていることも、よく自覚している。
だから――
「えー? どうしてだよー?」
俺の代わりに思い切り膨れて不満をぶつけてくれる兄貴を尻目に、聞きわけのいい次男坊を装って、余裕の笑顔を作った。
「うん、じゃあまた今度ね」
そんな俺の頭を、何も言わずに力強く撫でてくれた父さんの瞳は、何かの色に揺らいだような気がした。
表情はあくまでも笑顔だったが、漠然とした不安のようなものが俺の心には残った。
「父さん……入るよ?」
部屋の主が留守なことはわかっているのに、声をかけずにいられないのは、その部屋がかつては出入り禁止だったからだ。
「お前達に悪戯されたくない本もあるからだ」
と父さんはもっともらしく言っていたけど、その本当の理由を、小学生の頃、父さんの留守中に兄貴と二人でこっそり忍びこんで、俺は偶然知ってしまった。
十帖を軽く越える広い洋室は、確かに部屋中を本で埋めつくされていた。
だけどそれ以上に、母さんの思い出の品でも溢れていた。
母さんが亡くなった時六歳だった俺でも、記憶の片隅に残っているような、『形見』と読んでもいい品たちが、その部屋に全て集められていた。
スリッパ、ひざ掛け、大きな帽子。
エプロン、マグカップ、写真立て。
一つ一つを手にとって見ているうちに、知らず知らずに涙が浮かんでしまった俺は、その涙をふり払おうと無理矢理に体の向きを変えて、隣に立っていた兄貴とぶつかった。
俺と同じように、せいいっぱい泣くのをこらえて立ちつくしていた兄貴と、不意に目と目があってしまって、
(あ、ヤバい)
と思う間もなく、涙が零れ落ちた。
俺は兄貴にしがみついて、大声を上げて泣き出した。
(男が泣くなんてみっともない)
なんて、俺はどちらかと言えば少し硬派に構えた小学生だったのに、そんな日頃の信念は微塵もなく吹き飛んで、声の限りにとにかく泣きたいだけ泣いた。
兄貴も俺を抱きしめて、負けないぐらいに大声で泣いていた。
夕食の時間になっても現われない俺たちを心配して、伯母さんが迎えに来てくれたのは、もう日が沈みかけた頃だった。
いったいどれくらいの時間、二人で思いっきり泣いていたんだろう。
抱きあってワンワンと泣き続ける俺たちを父さんの書斎で発見した伯母さんは、よく母さんがそうしてくれていたように、屈みこんで二人いっぺんに膝の上に抱き上げた。
何も言わずに、ただ白い大きなエプロンの上で、ギュッと両腕で抱きしめてくれた。
だから俺たちはいつの間にか泣き止んで、そのまま伯母さんの腕の中でスヤスヤと眠りにつき、夜遅くになって帰ってきた父さんに、大目玉を喰らわずにすんだのだった。
子供の頃のちょっと甘酸っぱい思い出に苦笑しながら、俺は母さんの写真に目を向ける。
部屋の中央。
樫の木造りの父さんの大きな机の上には、いつもは小さな写真立ての中で微笑む母さんの写真しか飾ってないのに、今日は、まるでそのシルバーフレームの写真立てにお供えするかのように、一通の白い封筒が置いてあった。
他人宛ての手紙に興味を示すなんて、今まで一度も経験がないし、それを手にとって見るなんてやったことはない。
だけど俺の視線と思考は、その何の変哲もない白い封筒に釘づけになって、どうしようもなかった。
宛名は『一生啓吾』。
父さんの名前だ。
差出人は『石井勝』。
(石井先生が? ……なんで父さんに手紙?)
心の中で首を捻る。
見てはいけないと頭のどこかで誰かが警鐘を鳴らし続けていたが、俺の手は意志とは反対に勝手に伸びて、封筒の中から白い便箋を取り出した。
想像していたよりはずっと短い文章で、その大まかな内容はすぐに読み取れた。
けれど駄目だ。
気持ちのほうはとてもついていけない。
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
思いがけない言葉の羅列に、内容を上手く理解することができない。
(石井先生ってことは、俺の話だよな?)
そこに書かれている内容と、俺が今、今回の退院で感じている喜びとが、どうしても結びつかない。
噛みあわない。
考えをまとめるヒントを貰おうとでもするかのように、俺はその白い手紙と、写真立ての中の母さんの笑顔とをずいぶん何度も見比べて、何度目かでやっと、
「……そうか」
と言葉が出た。
どうして自分が今回退院することになったのかの本当の理由を、やっと頭と心の両方で理解した。
(もうすぐ終わりってことだったんだ……だから今のうちにせめて好きなことをさせてあげようってやつか……)
思ったより、俺は取り乱さなかったし、落胆もしなかった。
いつかはこんな日が来るんだろうと、漠然と覚悟を決めたのはもうずずいぶん前の話だ。
今更がっかりする気持ちも、悔しく思う気持ちも、俺にはない。
ないつもりだった。
だけど――
「良かったな」
と俺の退院を笑ってくれた父さんが、その笑顔の裏では本当はどんな気持ちだったのかを考えると、息が詰まりそうに苦しかった。
(きっと、兄貴には言ってないんだ。ひとみちゃんも伯母さんもまだ知らない……)
それを伝える時、父さんはどんな思いをするんだろうか。
ましてや他ならぬ俺自身に伝える、その時には――?
(ひょっとしたら、黙っているつもりだったのかもしれない)
そう思ったから、俺はその短い手紙をまたそっと母さんの写真立ての前に戻した。
もともとこの部屋に何をしに来たのか、そんなことはすっかり頭の中から消し飛んでしまって、地に足がつかないまま父さんの部屋をあとにした。
重いドアを後ろ手に閉める。
兄貴には悪いけど、料理をしようなんて気持ちはどこかに消えてしまった。
それだけじゃない。
自分の部屋へ帰って真新しい学生鞄を見ても、ハンガーにかけられた制服を見ても、昨日までのように弾む気持ちには到底なれない。
(本当に俺にはもう時間がないんだ)
これまで何度も自分自身に言い聞かせてきたことだったけど、実感を持ってそう感じた時に、胸に迫ってくるものはやっぱり全然違っていた。
(もうすぐ俺の人生は終わる)
そう思うことにはただ確認の意味しかないけど、
(だったら、俺はいったい何のために生まれてきたんだろう?)
そんな考えが頭を過ぎってしまうことが辛かった。
(父さんや兄貴に心配かけて。ひとみちゃんや伯母さんに迷惑をかけて。体の弱かった母さんに負担をかけて……それなのに、もうこれで終わり?)
そう思うと、ベッドの上に体を投げ出して、両腕を顔に押しつけずにいられなかった。
(俺なんか最初からいないほうがよかったんじゃないか!)
どんなに強がってみても、怒りにも似た悲しみの感情は、今夜は俺の中から消えてくれそうになかった。
住宅地から少し離れた閑静な場所にある病院とは違って、俺の家は、賑やかな繁華街のど真ん中に位置している。家の中にいても車の行き交う音はすぐ近くに聞こえるし、店々から流れてくる騒々しい音楽や人の声なんかも、時折、静かな部屋の中に妙に生々しく響き渡る。
気持ちが前向きの時は特に気にもしないそんな騒音も、今夜はやけに大きく聞こえるような気がしたし、実際酷く耳障りだった。
酔っ払って泣いている人。
喧嘩して怒っている人。
こうして目を閉じていると余計に、夜の町のいろんな声が、俺のすぐ近くに迫ってくる。
けれど、どんな人生の岐路に立たされている人よりも、今の自分は苦しいと思った。
何倍も何十倍も辛いと思った。
(俺より不幸な人なんて、きっといないよ)
自分の中の負の感情は、なるべく表に出さないようにして、これまで意志の力でなんとか押さえこんできたけれど、今日はそうすることがとてつもなく辛い。
(絶対に負けるもんか)
いつだってそう思って生きてきた。
そう思うことで自分を支えてきた。
なのに肝心の今夜、体がいうことをきかない。
俺の脳の命令系統なんて、とっくに無視されている。
こめかみの辺りがひきつるるように痛んで、意識していないと涙が零れ落ちそうだった。
(こんな状態じゃ、兄貴と顔が合わせられない)
そう思い当たったことで、ようやく鉛のように重い体が、動いてくれた。
(何もなかったような顔をして、いつもどおりにふるまわないと……)
自分を追い詰めるように心の中でくり返しながら、俺はTシャツの上に長袖のシャツを羽織って、部屋をあとにした。
履き慣れたスニーカーに、まだ地に着いていないような感覚の足を突っこんで、どこにというこあてもなく、ひどく自暴自棄な気持ちで、夜の町へ飛び出した。
夜に出歩くなんて何年ぶりだろう。
正直言うと、中三の夏までは誰もいない家で兄貴や父さんの帰りを待っているのが嫌で、よく夜の町で遊んでいた。
小学生や中学生が遊べるところなんてタカが知れていたけれども、そこでできた友だちなんかもいて、一人で家にいるよりはずっと楽しかった。
『高校生になったらもっといろんなところに行けるな』
そう言って笑った昔の『夜の』友だちは、もうどうやって連絡を取ったらいいのかもわからないけれど、その『高校生』になった今も、俺は色んなものに縛られて自由に生きるなんてできそうにもない。
不自由なまま、長く縛りつけられて生きるのに比べたら、「もう少しで終わりになる」とわかった今は、幸せと言えば言えるのかもしれない。
けれど、「短い時間を好きにさせてあげたい」という石井先生や父さんの思いに応えられるだけの、『やりたいこと』なんて、ハッキリ言って俺にはなかった。
いろんなことを諦めて、執着を持たないように、それを一番大切に生きてきたから、俺には実際、『何も』ない。
(いっそのこと、今終わりになってもかまわないのに)
それぐらいの凶暴な気持ちを抱えて、俺はあてもなく歩き続けた。
(どうせもう終わりなんだから、俺には何もないんだから)
そうとしか思えないことが何より悲しかった。
けれど、夜の雑踏の中を、どこまでも歩き続けることに、俺のヤワな心臓はやっぱり慣れてなくて、次第に呼吸が苦しくなってくる。
ドクドクと体じゅうの血液が脈打つ音が、頭の中で響きわたるようにどんどん大きくなっていくから、俺はしかたなしに足を止める。
少し広めの舗道の、綺麗に手入れされた植木の陰には、木で作った広めのベンチがいくつか配置されていて、俺はそれに倒れこむように腰を降ろした。
俺が座っている以外には、目に見える範囲には三つだろうか。
一定の距離を置いて配置された同じ形のベンチには、みんなカップルが体を寄せあうようにして座っている。
その中の一人が、咎めるような視線を俺によこしたけれど、そんなことかまうもんか。
(体の具合が悪い人、優先でしょ?)
苦笑いを浮かべながら、俺はジーンズのポケットから小さなピルケースをひっぱり出した。
金色の蓋を親指で弾くように開けると、中には白いカプセルが入っている。
『ちょっと調子が悪くなった時には、すぐに飲むように』
石井先生から渡されて、子供の頃からいつも持ち歩いている薬だった。
(別に今死んでも良かったんじゃなかったのかよ)
自分で自分を笑いながら、その小さな『命の源』を、俺は水もなしにそのまま一気に喉の奥に放りこんだ。
(いったいどこまで来たんだろう?)
少し動悸がおさまって楽になってくると、そんなことが気になった。
グルリと頭を巡らしてみても、周りの風景に全く見覚えがなかった。
(足の向くまま、気の向くまま、どれぐらいの距離を歩いたんだ?)
自分で自分に感心する。
我を忘れて、ただガムシャラに体を動かしたことで、さっきまでより心の中もスッキリとしていた。
(……まあいいさ。いままで漠然としていた俺のゴールが、ハッキリと近づいたって、そういうことだよ……)
努めて明るく軽く、俺らしい解釈もできるようになってきた。
『海里君は明るくて楽しい子だった』
(そう言ってもらうのが、俺の目標なんじゃないか。それだけは達成しないといけない。強い気持ちで最期まで信念を貫き通せ……!)
自分自身で自分を鼓舞する。
それは一人でベッドの上にいる生活が長かった俺の、数少ない特技の一つだった。
(やったらいいさ。とりあえず思いついたこと全部。今までできなかったこと全て。そうしてるうちに自然と いつの間にか最期の時がやってきて……そんな終わり方も案外いいかもしれない……)
力強く頷くと、少し落ち着いてきた鼓動を確かめるように左胸に手を当て、俺はゆっくりと立ち上がった。
(早く帰んないと、兄貴が帰ってきちゃうな……)
時計も見ずに飛び出してきたことを少し悔やみながら、俺は大通りを行き交うタクシーに手を挙げた。
(なるべくいろんなことをやってみるためにも、今はまだこの命は大切じゃない?)
自分自身を諭すように、心の中で呟きながら。
黄色い広告灯をつけたピカピカに磨かれた黒い車体が、俺の前でゆっくりと止まる。
自動で開いた後部座席のドアから車内に足を踏み入れると、中はタクシー特有の匂いがした。
小さな頃からタクシーにお世話になることの多かった俺には、不快というより懐かしい匂いだ。
バックミラー越しに、
「どちらまで?」
と問いかける運転手に、住所を教えて、広い座席にゆったりと体を沈める。
夜の街のネオンや喧騒と切り離されて、正直ホッとした。
真夜中も近いというのに、道を行き交う人や信号待ちで並んでいる車の数は驚くほどに多い。
丸々一回分信号を待ったのに、数台しか前に進まない渋滞を見やって、ため息を吐く。
(まずいな……本当に兄貴より遅くなるかもしれない……)
少し歩いて大通りを抜けた後に、もう一度タクシーを拾ったほうがいいのじゃないかという思いが頭を過ぎった時、すぐ横の舗道を歩いていた酔っ払いの一団が、わっと沸いた。
(なんだろう?)
見るともなしに目を向けた先では、女の人が歩いていた。
小さな人だった。
真っ赤な顔をして、何人かで肩を組みながら歩いているサラリーマンたちの肩ほどまでしか身長がない。
腰まである長い髪には緩やかにウェーブがかかっているが、先のほうは色が抜けてしまって薄い色になっている。
薄手のワンピースから剥き出しになっている白い腕も、裸足の足も、ビックリするほどに華奢で細くて、思わずドキリとした。
「姉ちゃん、大丈夫かあ?」
酔っ払いたちが、笑いながら声をかけているのも無理はない。
彼女はひどくヨロヨロとした足取りで、左腕を右手で押さえながら歩いていた。
俯いたまま足をひきずり、歩き続ける後ろ姿から目が離せない。
ようやく進み始めたタクシーの運転席では、
「お待たせしてすみません。この先で事故でもあったんですかね。いつもはこんなに混まないんですが……」
運転手が何かを話しているが、俺にはまったく聞こえていなかった。
ガラス窓越し、ゆっくりと追い越していく彼女の姿に視線を奪われたまま、引き寄せられるように後ろをふり返る。
長い髪に隠れた小さな顔がどんな表情をしているのかは見えなかったが、リヤウインドウの中で小さくなっていく彼女を、瞬きもせずに見つめ続けていた俺は、
「すいません……ここで止めてください」
自分でもよくわからないうちに、運転手に声をかけていた。
「はい?」
驚いたように聞き返される間にも、彼女の姿はどんどん小さくなっていく。
「降ります! すみません!」
俺の叫びに、運転手は慌てて急ブレーキを踏んだ。
何事かをぼやきながら開けてくれた後部座席のドアから、転がり出るように舗道に降り立つと、俺は財布の中から千円札を抜き取った。
「すいません。お釣りはいいです」
運転手は胡散臭げに俺を眺め回すと、その千円札を受け取った。
「ありがとうございましたあ」
おざなりにかけられた言葉に背を向けて、舗道をふり返る。
驚いたことに彼女が顔を上げてこちらを見ていた。
対向してきた車のライトに、白い小さな顔が照らされる。
顔の半分を占めているかのように大きな黒目がちの瞳は、泣いているように光っていた。
そう思った瞬間、俺のやわな心臓は、何か大きな力で握りつぶされたかのような衝撃を受けた。
薬を飲んだ直後の状態でなかったらどうなっていたのか、正直、想像もしたくない。
黙ったままこっちを見つめている瞳に何と声をかけたらいいのか、頭は必死に考えようとしているのに、俺の口はそんなことおかまいなしで、勝手に動き出す。
「送るよ」
驚いたように、彼女が自分の後ろをふり返って確認してみたのが可愛かった。
(そうだよな。いきなりだよな)
自分でも可笑しくなる。
でも他の言葉は浮かんでこない。
「送るよ」
愚直にそのセリフをくり返す俺に、彼女は少し首を傾げた。
長い髪が、華奢な肩から滑り落ちて、小さな体全体を包みこむようにフワリと揺れる。
今にも消えていなくなってしまいそうな儚げな雰囲気が、たまらなく俺の胸を焼いた。
(どうしよう? いったいどうしたら、頷いてもらえる?)
変な焦燥感に駆られたその時の俺の気持ちなど、彼女にわかってもらえるはずがない。
俺自身も、自分が何を考えているのか、いったいどうしたいのか、まるで理解できない。
ただなぜか、その人に声をかけずにいられなかった。
黙ったまま通り過ぎるなんてできなかった。
(こういうのをなんて言うんだろう?)
考えながら前髪をかき上げる。
焦っている時の俺の癖だ。
伸ばしっぱなしの前髪が、時々こうして邪魔になるから、考えをまとめようとする時なんかに、俺はよく髪を上げてみる。
そうすると、見えなかった物が見えたりするように、自分の頭の中のもやも、自然と晴れたりする。
(ああ……なんだ。簡単なことじゃないか)
少し冷静になって考えてみたら、笑ってしまうくらいに、ことは簡単だった。
(……一目惚れだ)
自分で納得したら、笑わずにいられなかった。
なんとか理由を捻り出すより先に、思わず声をかけずにいられないほど、俺はどうやらその人に惹かれたらしかった。
(幸先短い人生だって悲観ぶってるわりには、こういうことだけちゃっかりしてるんだよな、俺って奴は……)
そう自覚したら、もう一度笑いながら彼女に言うしかなかった。
「送るよ。一緒に帰ろう」
OKをもらえるはずなどないと思ったのだ。
俺が彼女だったら、こんな突然現れた得体の知れない奴に、ついて行ったりなどしない。
断られるか。
無視されるか。
とにかく彼女から何らかの反応が返ってきたら、下手なナンパみたいな真似はさっさと切り上げて、潔く背を向けるつもりだった。
それぐらいの常識は、ふわふわとピンク色に染まった俺の頭の中にだってかろうじて残っていた。
それなのに彼女は、俺に向かってコックリと頷いた。
細い首が折れてしまうんじゃないかと思うくらいに、力強くしっかりと頷いたのだ。
(そんな馬鹿な……!)
心の中で叫んだ言葉とは裏腹に、俺の胸はヤバイくらいに高鳴り始める。
思いがけず無理な運動をしてしまった時の、何倍も何十倍も速い速度で、脈打ち始める。
(ちょ、ちょっと待ってくれよ……)
必死に冷静さを取り戻そうとする俺をあざ笑うかのように、ドキドキという音は、どんどん大きくどんどん早くなる。
一歩一歩俺に近づいて来る彼女の姿から目を放せずに、見つめる一秒毎に、それは世界中に響き渡っているんじゃないかと思えるほどに、ますます大きくなった。
(ずいぶんかかとの高い靴を履いているのに、あんまり背の高いほうじゃない俺の肩に届くか届かないかくらいだなんて……いったいこの人の身長は何センチなんだろう?)
少なくとも俺の知っている女の人の中では、一番小さい部類に入ることだけは確かだ。
身長ばかりではない。
細い肩も腕も足も、ビックリするほどに小さくて、並んで歩きながらつい目を向けずにはいられない。
(袖がない形の、こういうワンピースをなんて言うんだっけ?)
確か昨年、夏のもの凄く暑い頃にひとみちゃんも着ていて、その時名前を教えてもらったはずなのに、忘れてしまった。
『そんなこと聞いてなんになるのよ?』
生意気この上ない口調でひとみちゃんは俺に問いかけたが、
『さあ、なんになるだろう……?』
俺だってなんとなく聞いてみただけだった。
そう、あの時はクーラーの調子が悪かった病室で、ひとみちゃんだけがやけに涼しそうだったのだ。
いくら暑いからと言って、たった一枚身につけているTシャツを脱ぐわけにもいかなかった俺は、そんな彼女がうらやましかった。
『涼しそうだね。ひとみちゃん』
ベッドの上で苦笑する俺に、ひとみちゃんはクルリと廻って、ワンピースのスカート部分がまあるく広がることまでわざわざ見せつけてくれた。
『涼しいわよ。いいでしょ?』
自慢げに胸を張って、珍しく笑い返してくれた彼女は、窓から射しこむむ真夏の太陽を背に受けて、本当に眩しいくらいに綺麗だった。
(そう……あれは確か八月だった……)
しっかりと思い出した途端、自分の隣を歩く小さな人のことが、たまらなく気になった。
(寒くないのかな?)
日中はだいぶ暑くなってきたとはいえ、まだ六月だ。
梅雨のせいでぐずつきがちな天気のせいもあって、夏本番のような服装で出歩くにはまだ肌寒い。
しかも今は真夜中だ。
俺だって家を出てくる時に、わざわざ一枚長袖を上に引っかけてきた。
それなのに、まじまじと見るのは申し訳ないと思いながらも、つい目が行ってしまう彼女の細い肩には、肩紐一本しかかかっていないのだ。
その華奢な白い肩から、俺は慌てて視線を逸らした。
白い肌の所々に、まるで不似あいな黒ずんだ傷痕がいくつも残っている。
思わず自分が着ていた長袖のシャツを脱いで、彼女にさし出す。
「いいよ」
小さな手が俺にそれを押し返そうとしたが、構わずに細い肩に掛けた。
(迷惑かな?)
思ってもみなかったほどの自分の積極性に、実は内心冷や汗ものだったのだが、彼女はそれ以上の抵抗はせず、俺のシャツをぎゅっと握りしめて、
「ありがとう」
と小さなお礼の言葉をくれた。
なんとかポーカーフェイスを気取ろうとしている俺の顔を、彼女がすぐ隣で見上げていることは、気配でわかる。
あの黒目がちな大きな瞳が、今自分を見ているんだと思うと、額に変な汗が浮かんできそうに緊張した。
ドキドキと耳の奥で鳴り響く心音に、
(静まれ、静まれ)
息を詰めるように呼びかけていると、
「高校生だよね?」
ふいに静かな声が俺に問いかけた。
その声につられて視線を下ろすと、小さな紅い花びらのような唇が目に入る。
女の人の化粧の仕方なんて詳しくはない俺の目にも、彼女のビッシリと長い睫毛や瞼の鮮やかな色、濡れたように光る唇なんかが、およそ『薄化粧』という言葉からほど遠いことはわかった。
今まで俺の身近にいた看護師さんたちや、ひとみちゃん、同じクラスの女の子たちとはあきらかに違ういい匂いが、その人から香ってくる。
いつまでも鼻の奥に残りそうな甘い香りに、嫌な気持ちはしなかったが、俺と彼女との間に距離を感じた。
そしてその距離感に、自分勝手に腹を立てた。
(そうだよ、高校生だよ)
ふてくされ気味に返事する代わりに、俺はその人に、
「あなたは違うでしょ?」
と逆に問いかける。
心の中で動揺すればするほど、表面上は必死に余裕の笑顔を浮かべようとする。
残念ながら俺というのはそういう人間だ。
負けず嫌いなのか。
プライドが高いのか。
誰にも弱みを見せたくないというのが一番真理かもしれない。
そんな自分に、自分でも愛想が尽きることは多いのだが、彼女もそんな俺の応対が気に入らなかったのか、ふっと視線を逸らして真っ直ぐに前を向くと、
「私これでも大学生なんだ」
と小さく呟いた。
『これでも』というのは、綺麗にメイクされた小さな顔の左頬が、可哀相なくらい腫れていることを言っているのだろうか。
それとも身長差の関係で、ついつい上から見下ろす格好になっていた俺に、本来の序列を知らしめてくれたのか。
どちらにしても確かなことは、彼女が俺より三歳以上は年上だということだった。
だからといって、そのこと自体には、特別に思いはなくて、
「ふうん、そう」
ちょっと素っ気ないくらいになってしまった俺の抑揚のない返事に、彼女は、
「やっぱり違った。フリーターだな、私」
軽く頭を振りながら、訂正を入れる。
「ふうん、そうなんだ」
本当に何も思うところはなくて、ただ条件反射のように返事をする俺に、その瞬間、彼女はわざわざ立ち止まって体ごと向き直った。
「何よ。何か文句ある?」
あきらかに怒気を含んだ声に、驚いて見返すと、まるで俺に挑んでいるかのようにキッと大きな瞳に力をこめて、彼女は俺を睨み据えていた。
さっきまでの儚げな雰囲気とはあきらかに異なるその視線に、俺は正直面食らった。
華奢な外見と細い声などから、おとなしい人なんだろうと勝手に判断していた俺に、彼女が抗議の声を上げたように感じた。
おとなしいどころか、全身傷だらになりながらも自分の中の何かを必死で守ろうとしている彼女は、ひょっとしたらかなり強い人なのかもしれない。
せいいっぱい強がって、肩肘張ってでも、何かを守りたいという思いだったら、俺にも覚えがある。
おそらく彼女よりは数年短いだろう俺のこれまでの人生で、何度も経験したことのある思いだ。
『同情なんていらない。自分で自分のせいいっぱいを私は生きている。だから誰も何も口出ししないで』
彼女の大きな瞳が語った言葉じゃない言葉を、俺は勝手にそう受け取り、深く賛同した。
そうだそうだと、支援したいような気持ちになった。
だから、文句があるのかという彼女の問いに対し、
「何も」
と答えた。
夜の街をフラフラと歩く頼りなげな後ろ姿に、
(守ってやりたい)
なんて思ってしまった俺の儚い幻想はいい意味で裏切られて、どうやら強い意志を持って生きているらしい彼女に、最上の敬意を払ったつもりだった。
強い光を放っていた黒目がちの大きな瞳が、俺の返事にビクッと見開かれた。
固く握り締められていた握りこぶしが、胸のあたりにぐっと押しつけられる。
さっきからずっと視線を逸らすことのなかった大きな瞳が、途端に危うい色に揺れて、
「ゴメン、やっぱり私、大学生。また学校に行きたい」
それだけを呟くと、彼女は深くうな垂れてしまった。
彼女の胸が今どんなに痛いか、俺にはわかる気がした。
『また、学校に行きたい』
実際に行ってみたら、何をそんなに憧れていたのかと笑ってしまうくらいに平凡な毎日だったけど、その平凡を手にできない日々に縛りつけられていた俺にとっては、それは小さな夢だった。
ささやかな――けれど心からの願いだった。
他の人が聞いたら笑ったのかもしれない。
「なんだ、そんなこと? 行けばいいじゃない?」
と軽く受け流したのかもしれない。
けれど俺にとっては、それが一ヶ月前の自分の切実な望みだったからこそ、彼女の言葉が胸に染みた。
深く俯いてしまった白いうなじに、
「うん、そうだろうね」
なるべく静かに声をかけた。
懸命に何かと戦っているらしい彼女の、心を挫いたりしないように、邪魔にならないように、それだけを心がけた。
しばらく俯いたまま、身動きもしなかった彼女の肩が、小刻みに震え出した。
俺が貸してあげたシャツからまるで見えていなかった両腕が、手首まで顔を出し、細くて長い十本の指が、まるで何かを隠すかのように、彼女の顔に押し当てられる。
隠しているのは感情か。
それとも俺なんかには見せたくない表情か。
そのままの状態で彼女は一歩、また一歩と歩きだす。
俯いたままの背中を慌てて追いかけながら、のぞきこむようにして確認した彼女の指の隙間からは、透明な水滴が見えた。
(え? 泣いてるの?)
ギクリとして、
「どうしたの?」
問いかけた声は、自分でも笑ってしまうほどに裏返った。
けれど彼女は笑わなかった。
顔を覆っていた両手を放して、それが濡れていることを確認し、自分でも驚いたように俺の顔を見上げてきた。
黒目がちな大きな瞳からは、止めどもなく涙が溢れていた。
そんな彼女を目にした時の気持ちを、何と表現したらいいのだろう。
俺のヤワな心臓よりも、もっと胸の奥の深いところに刃物で切りこまれたように、焼けつくような痛みが全身を襲った。
(大丈夫。これは発作なんかじゃない)
自分に言い聞かせておかないと、かん違いした痛覚が勝手に体を動かして、その場にうずくまってしまいそうな胸の痛さだった。
ひりひりと焼けるような、ギリギリと締め上げられるようなその痛みに、俺はもう少しで
(やめてくれ!)
と叫び出しそうだった。
でもそうしなかったのは、目の前で泣き続ける小さな人の、ハラハラと止まらない涙をなんとかして止めてやりたいと、そんなお節介が、自分自身の胸の痛みに勝ったからだ。
さっきまでの強い瞳はどこへ行ったのか。
本当に今すぐにでも消えてなくなってしまいそうな気配のその人を、どうにかしてこの場所に止めておきたかった。
(まったく……どこまで、ずうずうしいんだ?)
自分で自分を笑いながらも、実際にはただ見守ることしかできない俺に、彼女は自分自身を抱きしめるようにしながら、視線だけ向けた。
上目遣いに、俺の顔を必死に見つめながら、懸命に嗚咽を我慢していた口を、ようやく開いて呟く。
「こんなのは私の欲しかった愛じゃない」
ガツンと一発、鈍器のような物で頭を殴られたような気がした。
雷に打たれて感電したような気持ちになった。
けれど、もう一度両手で顔を覆って歩き始めた彼女の小さな後ろ姿に、俺はすぐに、
(そうか)
と心の中で納得する。
何がわかったというのか。
何が「そうか」なのか。
自分でもよくわからないままなのに、ただ足だけは彼女のあとを追って動きだす。
もう一度肩を並べて歩きながら、
「うん、そうだね」
口だけはもっともらしい言葉を紡ぐ。
けれど実際胸のほうは、あいかわらずキリキリと、ちょっと深刻な発作を起こしてしまった時並みに、ずっと痛み続けていた。
(一目見た瞬間に思わずタクシーを飛び降りてしまったこの気持ちが、もし彼女への恋心なんだとしたら、俺は今こんなにもあっさりと、失恋したことになるんじゃないか……?)
虚しくなるような問いを自分に投げかけながら、俺はその人と並んで、夜の町を歩き続けた。
いつの間にか泣くのを止めた彼女は、歩きながらポツリポツリと自分のことを話してくれる。
予想したとおり、彼女には同じ大学に通う恋人がいたし、夜目にも痛々しい左頬の傷も、体中あちこちに残る傷痕もその『幸哉』とかいう男から受けた暴力の跡だった。
(なんなんだよ、そいつは!)
心の中ではおおいに憤慨しながらも、口に出してはなんと言っていいのかわからない。
さっきまでよりはあきらかに明るい口調で、あまり見ず知らずの人間に話すような内容じゃない話を、俺にスラスラと語ってくれる彼女の真意もわからなかった。
「大学に入ってすぐのコンパで知りあったんだ……気があってすぐにつきあい始めた。学部が違うから講義では全然一緒にならなかったけど、お互いが選択している講義に潜りこんだり、一緒にお昼を食べたり……あの頃は楽しかったな……」
彼女の家だという二階建てのアパートの前に着いても、
「それじゃあ、さよなら」
なんてことにはならなかった。
ガードレールに腰かけて、話を続けていられるのは嬉しかったが、『彼女の恋人』の話を聞いているのは、正直あまり心穏やかじゃなかった。
「でも……あんまり私のこと、信用してくれなくてね。ちょっと男の子と話したぐらいで焼きもち焼くんだ。最初はそれも嬉しかったけど、あんまり度が過ぎて、ちょっと怖くなった……」
その内容が、彼女の声を震えさせるような内容になってくれば、なおさらだ。
俺の目には、彼女の華奢な体に残る無数の傷痕や、腫れた左頬なんかが、痛いくらいに焼きついている。
もう一度見直して確認なんてする必要もないくらいに、残ってしまっている。
辛そうな声を聞きながらも、真っ直ぐに前を向いて、なんでもないフリを通そうと努力してみたが、その実、
(ちくしょう! その男、俺がぶん殴ってやろうか!)
ぐらいの怒りは、心の中で渦巻いていた。
もちろん俺の十六年の人生の中で、この拳で誰かと戦ったことなど、ただの一度もないのだけれど――。
「部屋からも出してもらえなくなって、大学には行けなくなって、でも生活のためのバイトだけは許してくれたから、そのうちバイトが私の全てになっちゃった」
ちょっと笑いながら寂しそうに彼女が呟いた言葉で、俺の中で何かが切れた。
それじゃあ、「また学校に行きたい」と泣き出すほどの彼女の思いを、踏みにじっているのはその男なんだろうか。
辛そうな顔をしながらも、懸命に自分を保とうと努力している彼女を、守るどころか傷つけているその男が、彼女を守る立場であるはずの『恋人』なんだろうか。
(そんな奴、別れちゃいなよ)
思わず口に出してしまいそうになって、遠くを見つめる横顔に目が止まった。
その瞬間、言葉は俺の喉の奥でスーッと消えた。
古いアパートの二階の右端だという彼女の部屋を見上げて、俺たちは道路の反対側のガードレールに腰かけている。
今夜初めて会ったばかりにしてはかなり近い距離で、寄り添うように肩を寄せあっていたが、彼女の瞳は決して隣にいる俺を見ているわけではなかった。
切なそうに瞬きながらも、夜空を見上げて、初めからずっと遠い誰かを見つめていたのだ。
そのことに気がついた瞬間、俺のヤワな心臓は、あらためてまたチクリと痛んだ。
(俺は全然関係ない……今この瞬間も、この人が想っているのは違う男だ……)
そう自覚するのが苦しくてたまらない。
顔を歪めるようにして、無理に小さな笑顔を作る彼女の横顔は、哀しいくらいに綺麗だった。
けれど俺にはわかる気がした。
こんな苦笑じゃなくて、心からの笑顔だったら、この人はもっと綺麗なはずだ。
そう……そうに違いない。
だから――
(彼女が本当に優しくして欲しい相手ではないかもしれないけど、俺にだって彼女を笑顔にすることはできないか?)
と頭を捻る。
(俺には時間がない。こんなポンコツの心臓を抱えたままじゃ、きっと何をやったって、人並みにやり抜く力だってない)
いつだって心の奥に隠し続けてきた卑屈な思いは、もっと奥に押しこんで、懸命に考えた。
全身全霊で考えた。
それなのに――
「俺とピクニックに行かない?」
上手く考えがまとまる前に、またしても俺の口は勝手に動きだす。
自分で言ったセリフのあまりの間抜けさに、
(なんだよそれ!)
と自分自身でつっこみたくなった。
幼稚園の頃、少し長めの入院が続いていた俺に、母さんが絵本を買ってきてくれたことがある。
『――のピクニック』という題名のその本は、森の中でいろんな動物たちが食べ物を持ち寄ってピクニックをするという話だった。
カラフルな敷物を敷いて、それぞれが持ってきたお弁当を並べて、みんなで仲良くご飯を食べるというだけのその絵本が、俺は大好きで、何度もせがんでは母さんに読んでもらった。
『いいなーピクニック。ぼくもいきたいなーピクニック』
無邪気にくり返す俺に、ニッコリと笑って、母さんは約束してくれた。
「じゃあ、今度海里が退院したらみんなで行こうか、ピクニック」
「うんっ!」
さし出された母さんの小指に、俺は大喜びで自分の小指を絡めた。
「ピクニックに行くためにも、今はがんばろうね」
「うんっ!」
母さんの励ましに、笑顔で何度も頷いた。
しかしその約束が果たされることはなかった。
その三日後に母さんは自宅で倒れ、あっという間に、俺より先に遠いところへ逝ってしまった。
約束が果たされなかったことより、母さんが亡くなってしまったことのほうが悲しくて、今の今まで『ピクニック』の約束のことは忘れていた。
でもこんな大事な場面で、思わず口をついて出てきたところをみると、どうやら内心諦めきれていなかったらしい。
(俺って案外しつこいな……)
苦笑するしかない。
(あーあ。この年になって『ピクニック』って……しかもいきなり! ……誰だって引くよなあ……)
そう思って見つめた隣の人は、確かに驚きに目を見開いていた。
「ピクニックって……」
大きな瞳を更に大きくしたびっくり顔は、さっきまでの哀しそうな顔よりは、よほど安心できる表情だった。
パチパチと何度も瞬きしながら、懸命に俺の言葉の意味を理解しようとしてくれている顔は、なんだかひどく俺を満足させた。
辛いことや悲しいことを胸いっぱいに抱えて、心から血を流し続けているように見えた彼女が、ほんの少し間だけでもその痛みを忘れることができるんだったら、俺なんかいくら笑われたってかまわない。
本気でそう思った。
思うとすぐに、調子に乗ってしまう。
それが俺の良いところであり、悪いところだ。
「そう、ピクニック。お弁当持ってどこかに行くのって、そう言わなかったっけ?」
満面の笑みで問いかけると、それにつられたように、彼女の小さな顔もついにクシャッと笑顔になる。
「キミってお坊ちゃま? それとも、見た目よりもっと若いの?」
どんな言葉を投げかけられたって、その表情を見られるんなら、それでいいと思った。
「行ってみたかったんだよな、ピクニック。お弁当持って、どこかに。ねえ、俺と行かない?」
しつこいようだが、俺自身本気で言っていたわけではない。
ただ、辛い人生を歩んでいるらしい彼女が、このひと時だけ心から笑うことができるなら、そしてその顔を、ほんの少しの間だけでも隣で見ていられるのなら、俺はそれでじゅうぶん幸せだった。
それなのに、ちょっと考えるようなそぶりをした後、彼女はまた夢としか思えない返事を俺にくれた。
「じゃあ、行こうか。一緒にピクニック」
首を傾げるようにして俺の顔をのぞきこみ、目があった瞬間に、ニッコリと微笑む。
予想もしていなかったその反応に、自分の顔の筋肉がどんどん緩んで、締まりもなにもあったもんじゃない笑顔になっていくのがわかった。
止めようったって止まるもんじゃない。
一目見ただけで自分の気持ちを抑えきれなくて、思わず声をかけてしまったぐらいの相手が、こんなに近くにいて、こんなに魅力的な笑顔で、自分のことを見つめてくれる状況に置かれたら、誰だって俺と同じようになるに違いない。
(えええっ? 本当に? 本当に?)
しつこいくらいに確認する代わりに、俺は何度も彼女に頷いてみせた。
頷くたび、どんどん頬が緩んでいく俺につられるように、彼女の小さな口もどんどん大きく開いていく。
しまいには、俺に負けないくらいの大きな口を開いて、真っ直ぐに俺を見て笑ってくれた。
そのことが嬉しかった。
ただその笑顔が、本当に心から嬉しかった。
中学時代の俺は、どちらかといえばモテないほうではなかったと思う。
人づてに聞いたり、面と向かって告白されたこともある。
それら全てが嬉しくなかったといったら嘘になるかもしれない。
でもそんな時、決まって真っ先に頭に浮かぶのは、いつも、
(困ったな)
という思いだった。
そんな自分が本当に嫌だった。
相手の子に俺の病気を説明することや、同情されること。
病気と向きあう気持ちを勝手に想像されること。
それらをとても煩わしく感じた時期もあって、ずいぶん思いやりを欠いた対応もした。
ひとみちゃんと俺の仲を誤解している子なんかには、わざとその誤解を解かないままにしておいたこともある。
でも、それがどんなに失礼な態度だったとしても、その時は相手を傷つけたとしても、俺の先の見えている人生につきあわせるよりは、いいだろうと思ったのだ。
(どんなに『好きだ』って言われたって――俺自身がそう思ったって――それは結局終わってしまう。だって俺はそのうちいなくなるんだから。それは決して変わらない事実なんだから。だったら最初っから何も始まらないほうがいい……もし万が一、相手の子がずっと俺を忘れずにいてくれたとしても……それはその子にとっては不幸でしかない……)
誰も不幸にしたくなかった。
自分自身も未練なんて持ちたくなかった。
だから俺は恋愛ごとには、あえて意識的に背中を向けて生きてきた。
夜の町にフラッと遊びに出れば、その日短い時間だけ一緒に遊ぶ相手は、いくらだって見つかったし、そうでなくても別に困らなかった。
本気の恋なんてする気もなかったし、自分がそんなものをすることなんて想像もつかなかった。
なのに―。
「じゃあ、明日迎えにくるよ」
彼女と約束して、アパートの前から歩き出した瞬間から、どうにも足が地に着かないのだ。
見送ってくれる視線を痛いくらいに背中に感じながら、どうにか夜の街に一歩を踏み出したけれど、どこをどうやって家に帰り着いたのかも、覚えがなかった。
たぶん標識を頼りに地道に大通りを歩いて、なんとか家まで帰って来たんだろうけど、まるで覚えていない。
寒くもなく暑くもない真夜中の街を、無重力状態のようにフラフラと歩きながら、俺の頭の中では、長い髪や白い小さな横顔や、黒目がちの大きな目なんかが、くり返し思い出された。
永遠のように彼女の面影だけがまわり続けていた。
「まったくどこ行ってたんだよー海里ー」
予想どおり、兄貴はとっくに家に帰っていて、フラフラと玄関に入ってきた俺を、大袈裟なくらいに抱きしめて出迎えてくれた。
「やめろよ、気持ち悪い!」
と、いつもの俺だったら力任せに腕をふり払うところで、兄貴ももちろんそんな反応を期待していたんだと思う。
だけど、
「ああ、うん。ちょっと買いのもの」
そう言って、右手に下げていたビニール袋をさし出した自分に、兄貴だけじゃなくて俺自身もビックリした。
(いつの間に買ったんだ、これ?)
まったく覚えがない。
「なんだー、お兄ちゃんのためにわざわざ晩飯買ってきてくれたのかー!」
感動して目頭を押さえるフリをしながら、兄貴がテーブルの上に並べたその袋の中身は、コンビニの弁当だった。
ご丁寧に、俺の好物と兄貴の好物が揃っているところを見ると、確かに俺自身が買ってきたのにまちがいない。
(全然覚えてないぞ……)
そんな自分に少し冷や汗を感じながら、俺は兄貴と一緒に、あまりにも遅い夕食のテーブルについた。
リビングの壁に掛けられた銀色の仕掛け時計の針は、とっくに十二時をまわっている。
(約束した『明日』に、もうなっちゃってるじゃないか……)
そう思っただけで、キリッと胸が痛んだ。
彼女の長い髪から香った甘い香りが、不意に鼻の奥に甦る。
思わず左胸を押さえて俯いた俺に、
「どうした? 大丈夫か?」
すぐさま兄貴は問いかけた。
「大丈夫だよ。なんでもないよ……」
短く淡々と返す俺を、兄貴は黙ったまま静かに見つめている。
ほどよく甘やかしてくれ、ほどよく自由も与えてくれる。
決して押しつけがましくはなく、だからといって必要な注意は怠らない。
兄貴の俺に対する態度はいつも百点満点だ。
五歳という年の差以上に、俺と兄貴との間には大きな差があるような気がしてならない。
もし俺に病気というハンデがなかったとしたら、この差が縮まっていただろうか。
はっきりいって自信がない。
兄貴がもし自他共に認める重度のブラコンでなかったなら、俺はとっくにひねくれていたに違いないだろう。
「じゃあ……晩飯、食おうか?」
しばらく間を置いてから、ニッコリと仕切り直す兄貴に、俺は素直に頷いた。
「うん」
「いただきまーす」
陽気な声につられて、
「いただきます」
思わず俺まで小さく笑ってしまう。
どんな時でも、すぐ側で優しく見守ってくれている人がいるから、俺はこんな運命の中でだって笑って生きていられる。
(感謝を忘れちゃいけない……)
今夜も再確認せずにはいられなかった。
夜というよりは明け方のほうが近いような時間になって、俺はようやく自分のベッドに入ったが、眠れる気はしなかった。
(約束したんだから、早めに寝ないと)
思いがけなくできてしまった明日の予定を気にして、眠りの世界に入ろうと努力するのだが、なかなかうまくいかない。
どんなにごまかそうとしても、意識の奥に、もっと重苦しい感情を押しこんでいたことを、否応なく思い出した。
しばらくの間――そう、彼女と出会ってからほんのしばらくの間は忘れていたが、こうして自分の部屋に帰って、ハンガーにかけられた制服を目にした途端に、俺の心はまた鉛のようにどっしりと沈みこんだ。
父さんの書斎にあった石井先生の手紙が、意識の底にひっかかっている。
『容態は今までになく悪く』
『ひょっとしたら』
『覚悟を』
数々の言葉は打ち消そうとしても、あとからあとから頭に浮かんでくる。
(ちきしょう……!)
薄い肌布団を頭までスッポリと被って、体を丸めた。
自分で自分の体を抱きしめるようにして膝に額をつけた。
(俺にはもう本当に時間がない……!)
あらかじめ知ることができのは幸運だった――なんてのは、ただの詭弁だ。
救いようのない自分の気持ちをごまかしているだけだ。
だけどそうでもしないと、頭がおかしくなってしまいそうなのも本当だった。
なんだかよくわからない感情に、自分の何もかもが押しつぶされてしまいそうだった。
窓の外は数時間前よりはあきらかに静かになっており、机の上に置かれた目覚し時計のカチコチという音だけが、部屋中にやけに大きく響く。
その音が何かを急き立てているように感じる。
刻一刻と近づいてくる、終わりの瞬間の足音のように聞こえる。
(ま、待って! ……まだちょっと待ってくれ!)
我知らず左胸をぎゅっと押さえて心の中で叫んだ瞬間、固く閉じた瞼の裏に、思いがけず彼女の笑顔が浮かんだ。
『じゃあ行こうか……一緒にピクニック』
俺のバカバカしい提案に、笑って頷いてくれた顔が浮かんだ。
突発的な発作に良く似た、けれどあきらかに違う痛みが、俺のヤワな心臓を襲う。
泣きたいくらいの気持ちで、俺はひとり苦笑した。
(あーあ。なんにも未練なんかないつもりだったのになぁ……)
絶望と希望が、喜びと悲しみが、絶妙に入り混じった感情の中、ただ儚げな笑顔だけが頭に浮かぶ。
(俺って本当に馬鹿だなぁ……)
カチコチと時計の音が無機質に時を刻む。
その音はもはや、単なる時計の音にしか聞こえなかった。
自分の感情を自覚したことによって、胸につかえていたものがほんの少し取れた気がした。
ようやくウトウトと、まどろみの気配が訪れ始める。
俺はホッと息を吐きながら、もう一度彼女の面影を瞼の裏に思い浮かべ、優しい――この上なく優しい気持ちで眠りについた。
この夜彼女と出会えたことは、俺にとっては本当に奇跡みたいな幸運で、あとになって何度思い出してみても、悔やむことではなく、ただ神に感謝せずにはいられなかった。
一番どん底の気持ちの夜に、今までに持ったことのなかった感情をもたらしてくれた人。
俺は彼女との出会いで救われたように感じたし、事実、あの夜から俺の人生は百八十度、方向を変えた。
それを辛い現実からの逃避だったとは思いたくない。
俺のどうしようもない悪あがきだったとも――。
未来に希望を持つことを無駄だとしか思えない俺には、とうてい叶えられそうにはない遠い『将来の約束』なんかじゃなく、彼女と交わした、いたって現実的な『明日の約束』が嬉しかった。
『じゃあ、明日迎えに来るよ』
小さな約束に、見惚れるほどの笑顔で頷いてくれた人に、どうしようもなく惹かれていた。
その感情をもっと正確な言葉で言い表すことも、彼女に伝えることも、俺にはできない。
限られた短い人生の中では、きっとやってはいけないことだと思っている。
けれど生涯でたった一つ忘れられない大切な残像のように、彼女の笑顔は俺の心に焼きついていた。
たまらなく焼きついていた。