たとえば今日突然に、俺の短い人生が終わったとしても――悲しみ過ぎる人なんていないように。
 
 もちろん家族や、ほんの少しの友だちは悲しむのかもしれないけど、時と共にその思いもいつか薄れて、 「あいつって、いい奴だったよなー」 なんて時々、ふとした拍子にでも思い出してもらえるなら、それでいい。
 
(あまりにも悲しみ過ぎて、その人自身の人生がだいなしになってしまうような……そんな存在はいらない……)
 
 最期の瞬間に、自分が生きた一生をふり返ったら、ほどほどに楽しくてほどほどに幸せで、「短かったけど、それなりにいい人生だったなー」なんて、あっさりと笑って逝けるような。
 そんな最期を迎えるんだと、俺は子供の頃から決めていた。
 
(未練を残さずにいられないような、特別な『何か』なんて……俺は、いらない……)
 
 ――それが、将来に対する夢や希望を抱くよりずっと前に、現実を目の前に突きつけられてしまった俺の、自分の運命に対する、肩肘張った精一杯の決意だった。
 
 
 
 
「いったい、いつまでカーテン引いてるのよっ!」
 
 とびきり不機嫌な声と、ジャーッとカーテンの開かれる音。
 急に顔を直撃したらしい朝日の、目を閉じていてもわかる眩しさに、俺は静かな眠りから否応なく叩き起こされた。
 
 朝っぱらから嫌な予感をひしひしと感じながら、ゆっくりとまぶたを開いてみると、予想どおり、勝気な従兄妹殿が腰に手を当てて、ベッドの脇に仁王立ちで立っている。
 
「いくら入院中だからって、ちょっとだらけ過ぎなんじゃないの?」
 
 俺が足元に蹴りこんだ毛布を畳み直し、枕元に積み上げていたはずがいつの間にか床に散乱していた雑誌や本を、棚に並べ直しながら、
「とっくに朝食の時間なのに、看護師さんたちも困ってるでしょっ!」
 まるで母親が我が子を叱るように説教を始める同い年の従兄妹を、これ以上怒らせてはならないと、俺は慌てて起き上がる。
 
「ゴメン」
 勢いよく下げた頭の上から、
(しょうがないな)
 とでも言いたげな大きなため息が降ってきた。
 
 紺色の制服のスカート部分だけ、俺の視界の隅に入る彼女は、腰まである長い黒髪をさらっと揺らして、くるりと体の向きを変える。
 
「私、お花の水を変えてくるから、その間にせめて顔ぐらいは洗っておきなさいよ」
 最後のほうはほとんど捨て台詞のように言い残しながら、さっさと花瓶を持って部屋を出て行ってしまう。
 
 返事をする暇さえ与えないせっかちな背中を、ため息混じりに見送っていると、廊下のほうからクククッと笑い声が聞こえてきて、朝食を運んできた看護師さんがずっと部屋の前の廊下で待っていてくれたことを、俺は初めて知った。
 
  「すいませーん。今、起きましたー」
 
 申し訳なく思いながら声をかけると、トレーを持った若い看護師さんは、片手で拝むような格好をしながら部屋へ入ってくる。
「ゴメンねえ。別に、そっとテーブルに置いていっても良かったんだけど、ひとみちゃんが『今起こします』って言うもんだから……」
 
 俺は少々バツが悪い思いで、頭を下げる。
「すいません」
 
 そんな俺に向かって看護師さんは、
「まるで奥さんみたいだよね、ふふっ」
 何がそんなに嬉しいのか、夜勤明けで赤く充血している目をキラキラと輝かせながら、これまでにもいろんな人から、耳にタコができるほど聞かされてきたセリフを、今日もくり返す。
 
(……またか)
 内心ため息をつきながら、
「そんなんじゃないですよ。ほんとにただの従兄妹なんだから……」
 いちいち言い訳するのも、そろそろ疲れた。
 
「お節介なんですよ、昔から。俺の世話を焼くのが趣味みたいなもんなんです。ここはちょうど、学校に行く途中にあるし……」
 
 俺の言葉なんて半分は耳に入っていないかのように、ニヤニヤ笑いながら、看護師さんはてきぱきと朝食のセッティングをしてくれる。
「はいはい。照れくさいからってそんなふうに言ってると、また怒られちゃうわよ」
 
 からかい含みのその忠告に、入り口の方から
「……別に。本当にただそれだけですから」
 と、かなり怒りのこもった声が響いた。
 
 部屋に帰ってきたひとみちゃんは、大股でベッドまで歩み寄ると、脇にあるキャビネットの上に、ドンと音がするくらい乱暴に花瓶を置く。
 
「変なふうに誤解されると、私のほうこそ困ります!」
 ご丁寧に俺の顔を睨みつけながら、きっぱりと言い切る彼女の様子に、看護師さんは首をすくめ、二、三歩後退った。
 
「そっか。ゴメンね」
 とばっちりを受けないようにだろうか、そのままそそくさと病室を出て行ってしまう。
 
 あまりにも気まずい雰囲気の中に、二人きりで取り残されてしまって、ずしりと肩の上に重荷を感じる。
 俺はゆっくりと、ベッドの横に立ち尽くすひとみちゃんを見上げた。
 
 こぶしを握りしめて、首だけ無理にひねったおかしな体勢で、あからさまに俺から顔を逸らしている小さめな横顔。
 
「……怒ってんの?」
 率直に聞いてみたら、無言のまま体までひねって、本格的に背中を向けられる。
 
 窓の外のすずめのさえずりが、チュン、チュンチュンと、たっぷり五匹分は聞こえてから、
「怒ってないわよ」
 と答えた声は、俺にはどうしたって怒ってるように聞こえるんだが、笑いをこらえて、今までずっとそうしてきたように、それ以上は追及しないことにした。
 
「そう」
 
 ベッド横のキャビネットから引き出したテーブルの上には、看護師さんが手際よく準備してってくれた朝食が並んでいる。 
 
 朝の定番のメニュー。
 ご飯に味噌汁に目玉焼き。
 つけあわせのレタスの隣には真っ赤なプチトマト。
 
 まるで目には見えない針金か何かで体をがんじがらめにされたように、かたくなに俺に背を向け続けるひとみちゃんのことはひとまず置いておいて、俺は、そのちょっと冷めかけた朝食に手を伸ばした。
 
「いただきます」
 変に気を遣うことはない。
 物心つく前から、本当の兄妹のように育った従兄妹。
 俺にとってひとみちゃんは、数少ない身内の中でもとりわけ気安い相手だ。
 
 これと言って解決になる何かがなくても、俺が朝食を食べ始めたことで、それまでのやり取りはチャラになるらしい。
 微動だにせず立ち尽くしていたひとみちゃんが、ようやく窓に向かって歩き始め、朝日が燦々と射しこむ南側の窓を、勢い良くガラガラガラッと開けた。
  
(よしっ!)
 心の中で小さくガッツポ―ズした俺は、味噌汁のお椀に口をつける。
 
 上目遣いに、外の景色を見るともなく見下ろしている不機嫌な横顔をチラリと盗み見ると、
「陸兄から、着替えあずかってきたから」
 視線を鋭く察知したらしいひとみちゃんが、ふり返りもせずに突然口を開き、ベッド横の床に直置きしてあった紙袋を指差した。
 
 そのあまりのタイミングの良さに、思わずお椀を落っことしそうになりながらも、
「そっか。ありがとう」
 俺はなんでもないふりを心がけ、箸を持った右手を上げた。
 
 ハアアッと狭い病室に響き渡るほどにため息を吐くと、ひとみちゃんはついに体ごと俺をふり返る。
 
「確かにお節介だろうけど……実際、私が来ないと、海里は困るでしょ?」
 窓枠に両肘をつくようにして体重を預けながら、心の奥まで見透かしてしまいそうに大きな瞳で真っ直ぐに見つめられると、ドキリと心臓が跳ねる。
 
『目がキツイ』と形容されることの多いひとみちゃんの真摯な瞳には、いつだって隙がない。
 下手なごまかしや嘘なんて通用しそうにない雰囲気がある。
 
 俺は心のままにコクリと頷いた。
「うん、そうだね。ゴメン」
 
 仕事で日本中を駆け回っている父さんは、よほどの時でなければ病院に顔を出せない。
 五つ年上の兄貴は大学生で、暇を見つけては世話を焼きに来てくれるけれど、それにも限度がある。
 母さんは、――そう、俺が六つの時にすでに亡くなっていた。
 
 母さんの姉さんにあたる人がひとみちゃんのお母さんで、我が家の近くに住んでいたこともあり、昔から何かと俺と兄貴の世話を焼いてくれている。
 伯母さんにいつもくっついて来ていたひとみちゃんが、同じ年で同じ学校に通う俺をフォローしてくれるようになったのは、当然と言えば当然だ。
 
「……本当は感謝してるよ」
 俺のこんなストレートな言い方に、ひとみちゃんは弱い。
 自分が単刀直入にしゃべるわりには、人に素直な感謝を向けられるのは照れ臭いらしくて、対応に困って、ちょっとそわそわする。
 
 いつも強気な彼女のそんな姿が面白くて、わざとこんなふうに言ってみるんだから、俺は本当はかなり意地が悪い。
 
 予想どおり、やっぱり少し困ったように、
「私、そろそろ学校に行くから」
 口にするが早いか、ベッド横に置いていた学生鞄を猛ダッシュで抱え上げ、すぐさま部屋から出て行く彼女を、俺は内心ほくそえみながら、大真面目な顔で見送る。
 
 朝食を食べる手は休めないまま、
「いってらっしゃーい」
 急ぐ背中に言葉だけを送ると、入り口のところで立ち止まったひとみちゃんが思いがけずこちらをふり返った。
 
「海里。やっぱりもう絵は描かないの?」
 抜き打ちの直球に内心は焦りながらも、俺は全然動じなかったふりをして、目玉焼きの切れ端を口の中に放りこむ。
「うん、そうかもね」
 
「そう」
 短く答えてまた走り出したひとみちゃんが、どんな表情で何を思ったのかはわからない。
 
 けれど口に入れた食べ物は、単なる習慣で体が勝手に噛み砕いて飲みこんでいるだけ――。
 実際にはなんの味も感じられていない俺は、とても平静なんかじゃない自分の状態を痛いくらいに自覚していた。



 
 生まれつき心臓に病気があって、小さな頃から入退院をくり返してきた俺は、学校というものにあまり通ったことがない。
 
 それでも小学生の頃は、学期の半分ぐらいは出席していたような気もするが、中学に至っては卒業できたことが奇跡だった。
 
 中三の夏に大きな発作を起こして入院してから、もうすぐ一年になる。
 
 安静にしている以外することもなくて、一人で勉強を続けているうちに、自然と高校に受かるくらいの学力は身についた。
 特別措置で、病室で高校入試を受けさせてもらい、見事志望校に合格。
 形ばかりひとみちゃんと同じ高校に在籍しているが、実際にはまだ一度も登校したことはない。
 いつになったら登校できるのかもわからない。
 
 けれど、それらのことに不満を持ったり、憤りを感じたりする感情を、俺はとっくの昔に放棄した。
 
 俺が今置かれている状況だったら、人生を悲観したり絶望したりして、毎日をふさぎこんで過ごすことは簡単だ。
 だけど俺はそんな無駄なことに、ただでさえ短いだろう貴重な時間を費やすなんて馬鹿な行為は、絶対にしたくなかった。
 
 いつか自分が死んだ時には、
「海里君は本当に明るくて楽しい子だった」
 と、笑い混じりでみんなには思い出してもらいたい。
 その目標だけは絶対に譲れない。
 
 だから俺はもっともっと強くならなくちゃならない。
 
 自分を憐れむ気持ちや運命を恨む気持ち。
 それはどんなに努力したって、俺の心にもくり返し忍びこんでくる。
 それを全部追い出してしまうのは、本当に骨の折れる仕事だし、長い葛藤で実際何度も苦しんだ。
 
 だけど、きっと長くはない人生だと、自分でもわかっているからこそ、俺は絶対に負けたくなかった。
 心の中ではどんなに嫌な思いを抱えていたって、数え切れないくらいいろんなものと戦っていたって、それでもいつも、周りの人たちに見せる表面上だけは、笑っていたかった。
 
(俺はちっともかわいそうなんかじゃない……!)
 その思いだけが、いつもしっかりと胸のど真ん中にあった。
 
 けれど実際、今までで一番の長期になっている今回の入院には、さすがに俺も気分が下降ぎみだった。
 
「窓から見える景色を描くんだ」
 と病室に持ちこんだスケッチブックも、春夏秋冬と全ての季節を描き終えて、鉛筆を持つ気も失せてしまった。
 
(俺が落ちこんでるんじゃないかって、ひとみちゃんは心配してくれてるんだよなぁ……)
 
 なんだかんだ言っても、結局俺を気にかけてくれている従兄妹殿を、やっぱり窓からでも見送ってあげようと、俺は立ち上がり、さっきまで彼女がいた南向きの窓に歩み寄った。
 
 ちょうど病院の建物から出て、大通りに通じる長い坂道に一歩を踏み出したところだったひとみちゃんは、顔を真っ直ぐ進行方向へ向けて、およそ女の子らしくない大股でズンズンと進んでいる。
 背筋をピシッと伸ばして、長い髪を風になびかせて、颯爽と遠ざかっていく。
 
 坂道の両脇にキチンと並んで植樹されている大きな街路樹は、今まさに新緑が芽吹き始めだった。
 濃かったり淡かったりのさまざまな緑に彩られている町並みの中を、どんどん小さくなっていくひとみちゃんの凛とした後ろ姿は、まるでくっきりと太い線で描かれた水彩画のようだった。 
 彼女の持つ清廉な雰囲気が五月の爽やかな朝にぴったりで、見惚れるほどに絵になっていた。
 
 頭の中にあるキャンバスにその風景をしっかりと写し取りながら、小さくなっていく後ろ姿を見送っていた俺は、自分でも気づかない間にどうやら笑顔になっていたらしい。
 
「海里君。何を笑ってるんだい?」
 背後から声をかけられるまで、その人が部屋に入って来たことにさえ気がつかなかった。
 
 急に話しかけられてかなりドキリとする。
 ――その声は日に幾度となく病室を訪れる看護師さんたちのものではなかった。
 
「いい知らせがあるよ」
 
 思わせぶりな言い方にまんまと引っかかって、慌ててふり返ってしまい、そんな自分はやっぱり本当の意味では、どんなことだって諦めていないんだと苦笑する。
 
 部屋の入り口に立つ主治医の石井先生は、俺のそんな様子に、口元の笑いジワをより深くして笑った。
 
「どうだろう? そろそろ退院してみてもいいかな、と思ってるんだけど……?」
 キュッキュッキュッと室内履きの音をさせて俺に歩み寄って来た先生は、ポンと軽やかに俺の右肩を叩く。
 
「本当ですか?」
 間髪入れずに聞き返してしまって、シワだらけの笑顔をますますクシャクシャにさせてしまった。
 
「ああ。だいぶ長い間、がんばったからね」
 先生は小さな子供を誉めるかのように、自分より背が高い俺の頭をちょっと背伸び気味にグリグリと撫で回す。
 
「でも、油断は禁物だぞ」
 まだその言葉の正しい意味も良くわからない頃から、何度も聞かされてきたセリフさえも、今日はなんだか耳に心地良かった。
 
「はい」
 平静を装って返事をしたつもりだったのに、先生が俺の頭をいっそう強くかき混ぜる。
 その力強さと、俺を見上げる少々潤み気味の眼差しに、どうやら自分が飛びっきりの笑顔になっていたらしいことに気づいた。
 
(しょうがないだろう……だって、ずいぶんひさしぶりの自由なんだ……)
 
 頭の中で急速に回転し始めた楽しい想像に、俺は今にも踊りだしてしまいそうに浮かれていた。
(まず何をしようか? 誰と会う? 初めての高校は?)
 
 今すぐにでもこの病室を飛び出して、家まで飛んで帰りたいくらいだった。
(父さんに知らせなきゃ。それとも兄貴か? やっぱりひとみちゃんかな……?)
 
 ザワつく胸を必死に落ち着かせながら、すでに彼女の後ろ姿が見えなくなった坂道を、もう一度見下ろしてみる。
 気持ちのいい風が吹くあの場所を、もうすぐ歩くことができる。
 他の誰でもない自分自身で。
 それはなんて素敵なんだろう。
 
 窓の桟に頭を持たれかけて目を閉じ、俺は少しだけ想像してみた。
(一つずつやればいい、急がずゆっくりと。この一年間やりたかったことを、順番にやっていけばいいんだ……)
 
『自分のやりたいことがやれる』――それは俺にとってこの上ない贅沢だった。
 
 長い間叶わない願いだったからこそ、その価値がよくわかった。
 今のこの喜びは、そう何度も経験するようなものじゃない。
 できるならいつまでも、この浮き立つような幸せに浸っていたい。
 
 こうして目を閉じて初夏の風を感じていると、やっぱり退院が取り消しになったなんて、今まで何度も俺を落ちこませた事態には、今度こそならないと思える。
 
(ひょっとしたらさ……このまま病状まで良い方向に向かうことだってあるかもしれないよな……?)
 
 らしくもなく根拠のない夢まで見てしまった。
 これまで随分慎重に、かなり用心深く生きてきたつもりだったのに、迂闊にも小さな希望を抱いてしまった。
 
『希望』は人が生きていく中で、辛い時や悲しい時の魂の拠りどころになるのかもしれない。
 それは確かにそうだけど、同時に、これまで自分を守ってきた安全圏からの逸脱を招きはしないだろうか。
 ひねくれ者の俺は、いつだってそんなふうに斜めに考えていたはずだったのに――。
 
 うっかり『希望』なんて持ってしまった俺は、その時、石井先生が俺をそっと残して、静かに病室を去ったことに気づいていなかった。
 もちろん、廊下に出た途端、先生が両手で顔を覆ってしまったことも――。
 
   
 ――この退院の本当の意味なんて、まったく疑ってもいなかった。