きみと駆けるアイディールワールド―青剣の章、セーブポイントから―

 キレイな顔立ちにもテキパキした手際にも、感情はうかがえない。あたしは、麗先生の作業が一段落するのを見計らって、口を開いた。
「えっと、麗先生、この間、あれから大丈夫でしたか?」
 麗先生は肩をすくめた。チラリと苦笑い。
「大丈夫よ。気にしても仕方ないわ。朝綺はやたら壮悟の肩を持つし」
 朝綺先生はニヤリとした。
「おかげさまで。優歌も、気にしてくれてありがとな」
「いえ、あたしは何も。でも、朝綺先生が壮悟くんの肩を持つのは、どうしてですか?」
「共感できるんだよな。十代の自分を思い出すんだ。おれもかなり生意気で、無茶ばっかりしてたから。病気のことで親とケンカして、実家を飛び出して、介助士のサービスを使いながら一人暮らしして、体のギリギリまで無理して、好きなゲーム作りして」
 界人さんがクスクス笑った。
「嵐みたいなやつだなって思ったよ。大学で初めて会ったとき。いつの間にか、ペースに巻き込まれてた。気付いたら、ぼくはヘルパーになってたよ。当時は朝綺専属だったね」
「おれは頼んでないぜ。界人が生まれつき世話焼きだっただけだろ」
「まあね。天職だよ」
 笑い合う二人はまぶしくて、あたしは目をそらすように、壮悟くんの寝顔を見下ろした。熱が出て苦しいのか、壮悟くんはかすかに眉をひそめている。
「あたし、さっき、初めてきちんと壮悟くんと話しました。壮悟くん、一生懸命ですね。すごくジタバタしています。すごいなって思いました」
 界人さんはメガネを外した。上着の胸ポケット出した布でメガネを拭きながら、界人さんは柔らかい声を紡いだ。
「壮悟くんが反抗したり、逃げ出したり。いろいろ大変だって噂は聞いてるよ。珍しいタイプの子だね」
 界人さんの素顔、初めて見た。意外に涼しげでセクシーな目元だ。メガネをかけたほうが優しい印象になる。
「珍しいタイプって、どういうことですか?」
 界人さんはメガネをかけ直した。
「ショッキングな言い方になるかもしれないけど、病気に対して受け身な患者さんのほうが多いんだ。よくも悪くも、あきらめてる人。これが自分にとって分相応だ、って」
「分相応……」
「特に、生まれつきのまひや病気の人。ぼくは普段、そういう患者さんと接してる。みんな穏やかなんだよ。自分の症状や寿命を、悲観も楽観もしない。それが運命なんだって、案外ケロッとして受け入れてる」
 わかる気がする。あたしも自分の症状を受け入れているから。だって、仕方ないでしょう? 症状のことを思い嘆く時間があるなら、同じその時間で別のことをしていたい。
 朝綺先生がニッと白い歯を見せた。
「おれは全力で拒否したけどね。自分の運命を受け入れること。不治の病とか冗談じゃねえって」
 界人さんはなつかしそうな目をした。
「朝綺は特別だよ。やりたいことがたくさんあって。叶えたい夢があって。死神にケンカ売ってでも生きようとしてた」
「で、お姫さまの助けを得て、死神とのケンカに勝って、今に至るわけだ。壮悟も同じさ。あいつもきっと、死神も病魔も克服する」
 みんなの視線が壮悟くんに集まった。壮悟くんは眠っている。夢でも見ているのか、乾いた唇が時折、何かを訴えるようにゆるゆると動く。閉じた目尻から、不意に、つぅっと涙が流れた。
 どうして泣くの? 何の夢を見て泣いているの?
 朝綺先生があたしを呼んだ。
「優歌、心配すんな。壮悟はすぐ回復するよ」
「……はい」
「望たちが毎朝、迎えに行ってんだって。壮悟を食堂や院内学園に引っ張り出そうとしてさ。知ってたか?」
「はい。望ちゃんから聞きました。壮悟くん、あたしたちのところに来てくれたらいいですね」
 やがて小児病棟の看護師さんがやって来た。看護師さんは、麗先生から壮悟くんの状態を聞いて、電子カルテに細かく打ち込んでいく。
「そろそろ退散すっか」
 朝綺先生の一言を合図に、あたしたちは壮悟くんの病室を出た。
 界人さんが腰に手を当てて体をそらした。
「うぅ、やっぱり腰に来るなぁ。腰痛はヘルパーの職業病だね。パワードスーツをもっと使いこなさないと」
 麗先生が腕組みをする。
「おにいちゃんはもともと筋力がないもの。暇なときはプールにでも通いなさい。腰痛も、専門医に診てもらうべきよ。体を壊して動けなくなったら、本末転倒でしょ」
「ミイラ取りがミイラになっちゃう感じですね」
 朝綺先生が、ゆっくり右手を持ち上げた。肩のあたりで、一度だけ手を振る。
「それじゃ、優歌。今晩も八時にログインでいいか?」
「はい、大丈夫です」
「夜更かし続きで悪ぃな。無理はするなよ。じゃあ、後でな」
 朝綺先生と麗先生と界人さんは、一般病棟のほうへ歩いていった。朝綺先生のリズムに合わせて、三人で楽しそうにしゃべりながら。
 大人になっても仲がいい人たち。恋人同士と、親友同士と、兄妹。
 うらやましいなと思った。あたしも将来、あんな人間関係の中にいたい。あたしには姉と妹がいて、仲がいい。親友は、望ちゃんかな。でも、恋人はいないし、いたことがない。
「恋人……好きな人、か」
 まだ、次には進めない。
 ただ、気になる人がいる。
 壮悟くんの眠った顔だけ、頭に浮かんだ。沖田さんでも斎藤さんでもなかった。
 江戸の町は、どこか浮足立っていた。
 戦の波が押し寄せてくるんじゃないか。日本じゅうが戦争状態になるんじゃないか。国内で争ううち、欧米に隙を突かれるんじゃないか。日本は欧米に占領されてしまうじゃないか。いろんな不安が渦巻いている。
 江戸の千駄ヶ谷《せんだがや》にある、新撰組ゆかりの屋敷で、沖田さんは療養している。
 違う。療養とはもう呼べないかもしれない。沖田さんの病状は、船で江戸にこぎ着けたころから急激に悪化した。快復は見込めないと、医者はさじを投げた。
「ボクが死んだら、墓参りは来なくていいよ。照れくさいんだよね。花とか、そういうのいらないから、ボクのことは忘れて、みんな元気でやってて。それでいいよ」
 沖田さんは微笑みながら言った。
 お見舞いに来た近藤さんは、涙をこらえる表情だった。ケガから復帰して、新たな戦場、甲州へ向かおうとする日のことだ。
「弱気なことを言うな、総司。甲州の戦をさっさと終わらせて、戻ってくる。しっかり養生して、元気になれ。春が過ぎれば、すぐ夏になって暑くなる。精をつけておかんと、つらいぞ」
 沖田さんは、うなずきながら聞いていた。突然、くしゃりと顔を歪ませて泣き出した。
「ゴメンなさい、近藤さん。役に立てなくて。おれには刀しかないのに、こんな弱い体になっちまって……」
 近藤さんの大きな手が、沖田さんの頭を撫でた。わしわしと、父親が子どもにするようなやり方で。
「泣くヤツがあるか。今生《こんじょう》の別れでもあるまいし。すぐに戻るからな。うまいものを食って、よく休め」
 沖田さんは、いやいやをするように首を振った。近藤さんの肩にすがって泣いて、泣きじゃくって、やがて、泣き疲れて気を失うように眠ってしまった。
 シャリンさんがつぶやいた。
「もう、やだ。見てらんない」
 声が震えていた。たぶん、泣いている。
 ラフ先生もニコルさんも、何も言わない。二人は新撰組の史実を知っている。だからこそ、このエピソードの結末を言葉にできずにいるんだ。
 暗い予感が、アタシの胸にもある。
 近藤さんは沖田さんを布団に寝せ付けると、アタシたちに向き直った。
「幕府から新撰組へ出撃要請が下った。新撰組は、甲陽鎮撫隊《こうようちんぶたい》と名を改める。幹部の皆も偽名を使って正体を隠す」
 甲陽鎮撫隊。つまり、甲州での戦を収めるための部隊。
 マップが自動的にポップアップした。現在地と甲府城と、二点を結ぶ甲州街道。甲陽鎮撫隊の進撃ルートが赤く表示される。
 アタシは近藤さんを見上げた。
「甲府城という場所で戦うんですか?」
「ああ、そうだ。新政府軍より先に甲府城を取るのが最初の目標。甲州街道は、西から江戸に至る幹線の一つだ。オレたちは甲府城に拠って、新政府軍を撃退する」
「新政府軍は大軍なんでしょう? 大変な戦いになるんじゃないですか?」
「心配には及ばんよ、ミユメ。勝《かつ》先生が軍備の補強をしてくれた。軍資金も大砲も銃も十分にある。なあ、斎藤?」
 水を向けられた斎藤さんは、スッと視線をそらした。
「……甲州は山だ。雪が解けきっていないのが不安だ。でも、出撃要請には従う。従わなきゃ、いけない」
 奥歯にものが挟まったような言い方だった。何ともいえない違和感。斎藤さんは、隠しごとをしている?
 シャリンさんがぶっきらぼうに訊いた。
「斎藤、勝先生って何者?」
「勝麟太郎《かつ・りんたろう》。号で呼ぶなら、勝海舟《かつ・かいしゅう》。幕府の軍事と外交の重要人物だ」
 シャリンさんが腕組みをした。
「勝海舟なら、聞いたことあるわ。斎藤の伝書バトの相手が勝海舟ってわけ?」
「えっ?」
 ラフ先生とニコルさんが同時に声をあげた。斎藤さんが顔を背ける。シャリンさんが小首をかしげた。
「斎藤がたまに手紙をハトに持たせて飛ばしてるの。誰かに何かを報告してたんだろうけど、その相手が勝海舟なんじゃないかって。ラフもニコルも、何を驚いてるのよ?」
 確かに、斎藤さんのそばにはよく白いハトがいる。沖田さんルートのマスコットキャラクターは黒猫のヤミで、向こうは白いハトなんだなって、そういう存在だと思っていた。
 ラフ先生は斎藤さんを凝視していた。
「斎藤、オマエ、勝がつながってるってことは、相当な量の情報を持ってるってことだよな? 旧幕府軍でいちばん先進的で、むしろ予知能力みたいな勢いで時代の情勢を読んでいたのが勝海舟だ。勝にとって新撰組がどういう扱いなのかわかってて、今まで?」
 ニコルさんは眉間を指でつまんだ。
「なるほどね。時司だからじゃなかったんだ。一くんがいろいろ知ってる理由。繰り返し生きてても記憶はないって言ってたもんね。裏にいたのは勝海舟か。これは相当、残酷な話だよ。一くん自身、そろそろ本当にわかってきただろう?」
 アタシには意味がわからない。シャリンさんと目が合った。シャリンさんも、ハテナを吹き出しに浮かべた。
 近藤さんがポンと手を打った。
「さあ、グズグズしていられない。斎藤、シャリン、ニコル。そろそろ暇を告げよう。新撰組、改め、甲陽鎮撫隊。必ずや甲府城を取り、江戸の町を守ろう!」
 慶応四年三月一日、甲陽鎮撫隊は甲州へ向けて出発した。
 アタシとラフ先生は、沖田さんの看病で、バトルのない日々を過ごしている。
 おつかいをいくつかこなした。栄養のある食材を買いに行ったり、結核に効く漢方薬を調合したり、甘いお菓子を作ってあげたり、沖田さんのおねえさんに会いに行ったり。
 ある晴れた昼下がりのこと。
 ラフ先生は江戸の町を散策に行った。プログラムの精度をチェックするらしい。
 沖田さんは、今日は少し顔色がよかった。
「ミユメ、縁側に出たい。ちょっと支えてくれる?」
「わかりました」
 縁側ではヤミが日向ぼっこしていた。アタシと沖田さんは、並んで座る。沖田さんは、ヤミの丸い背中を撫でた。
「まいったなぁ。力が全然出ないよ。ヤミとケンカしても負けそうだ。新撰組一番隊組長が、情けないね。猫一匹斬れないくらい弱るなんて」
 斬る、という言葉に反応して、ヤミが金色の目で沖田さんを見上げた。恨みがましく、にゃぁ、と鳴く。沖田さんは少し咳き込んで、そして笑った。
「ゴメンゴメン。ヤミを斬ったりしないよ。例え話だから怒らないで」
「にゃあ」
 庭に桜が咲いている。そよ風が、ひらひらと、花びらをさらう。
「お花、キレイですね」
 桜だけじゃなくて、生け垣のツツジも、池のほとりのタンポポも。
 沖田さんは驚いたように目を丸くした。
「花?」
「はい。たくさん咲いていて。ステキなお庭ですね、ここ」
 沖田さんはゆっくりと庭を見渡した。その顔に微笑みが戻る。
「気付かなかった。八重桜……遅咲きの桜だね。思い出すなぁ。京の桜もキレイで、みんなで見に行った。土方さんが下手な俳句を読んでた」
「下手なんて言ったら失礼ですよ?」
 確かに、土方さんの俳句のセンスは微妙だけど。とりあえず五・七・五のリズムにしました、みたいな感じで。
「花見を題にした俳句には、『岡に居て 呑むのも今日の 花見哉』っていう句があったっけ。土方さんの句はそのまますぎるんだよね。岡場所で飲みながら花見をしてますってさ」
「岡場所?」
「きれいなおねえさんとイイコトをする店。ミユメはまだ知らなくていい世界だよ」
「…………」
「土方さんって人は色気があるのに、句はいまいち野暮ったいよね。『春の草 五色までは 覚えけり』って自慢してたの、知ってる?」
「いいえ。自慢ですか?」
「五人落としたとこまでは覚えてるって意味。口説いたのか言い寄られたのか、知らないけど結局、何人としたんだろうね」
 沖田さんはさわやかに笑ってのけた。話題はちっともさわやかじゃない。
 別に、土方さんの恋に口出しするつもりはないし、すごくカッコいいのも認める。新撰組副長として、仕事中はとても厳しくて、そのぶん、たまに息抜きするのもいいとは思う。
「でも、やっぱり浮気者はイヤです。プロアマ問わず、とっかえひっかえでしょう? 来るもの拒まずの度が過ぎています」
「なるほど。ミユメは一途《いちず》な男が好きなんだ?」
「当然です」
「じゃあさ、想像してみてよ。もしもの話だよ。もしも、この国が穏やかで、人が人を斬らずに済む世の中で、ボクが胸を病んでいなくて、ただ剣術が好きなだけの男だったら、ミユメはボクに恋してくれた?」
 息が、止まった。
 まっすぐで静かなまなざしに見つめられている。
 一瞬で、心臓の鼓動が加速した。熱いときめきが体じゅうを満たして、同時に、悲しくて仕方なくなった。
 沖田総司という、本当はごくありふれた若者。約二百年前の動乱の時代に生まれて、戦って人を斬って、胸の病に苦しみながら、それでも戦って。
 恋に興味がない、というセリフがあった。恋しちゃいけないと思っているせいかもしれない。沖田さんは人斬りだし、死の病に侵されている。未来を想像することなんて、きっと、もうできなくなっているんだ。
 アタシは答えられない。沖田さんが再び口を開く。
「ボクは一途だよ。いや、単純なだけかな。たくさんのことを同時には考えられない。ねえ、ミユメ。こんな世の中だから、ボクは剣術しか頭にないけど、そうじゃないなら、何に一生懸命になるのかな? 案外、キミのことだけに夢中になるかもしれない」
 嬉しいのと悲しいのと、ドキドキするのと切ないのと、全部ごちゃ混ぜになって、アタシは泣きたかった。沖田さんの胸に飛び込んで泣きたい。
「……そんなこと言われたら、好きになりそうです。心の底から、本気で」
 沖田さんは小さくかぶりを振った。
「変なこと言ってゴメンね、ミユメ。それと……ラフ、おかえり」
 沖田さんはアタシの背後を見ながら言った。
 アタシは振り返った。いつの間にか、ラフ先生がそこにいた。
「あ……お、おかえりなさい」
「おう、ただいま。いい雰囲気のところ、邪魔して悪かったな」
「き、聞いていたんですか?」
「まあ、チラッとね」
 恥ずかしすぎる。沖田さんに抱き付かなくてよかった。
 ラフ先生は沖田さんに包みを差し出した。
「みやげだよ。向島《むこうじま》の桜餅だ。ミユメのぶんもあるぞ。スタミナ回復のアイテムだ。道具袋にでも入れとけ」
「ありがとうございます」
 アタシも沖田さんも、桜餅を受け取った。沖田さんが庭に向き直った。ポツリとつぶやく。
「『人の世の ものとは見へぬ 桜の花』」
 ラフ先生は頬の一文字傷のあたりを掻いた。
「その句は、土方が詠んだヤツだな。庭の桜を見て、思い出したか?」
「うん、土方さんの句だよ。相変わらず、うまくはないけど、何だか引っかかるよね。桜は、人の世とあの世をつなぐのかな」
 ヤミが、にゃあ、と鳴いた。沖田さんのひざの上に乗っかる。沖田さんはヤミを撫でながら、桜を見ている。
 ひらひら、はらはら。あるかなきかの風に、花びらが舞い散る。幻想的なくらいキレイな桜は、どうして、こんなに不吉なんだろう?
 沖田さんが右手を空にかざした。骨と静脈が浮いた手の甲に、赤黒く、今にもつながりそうな円環の紋様がある。
「もうすぐボクは妖になる」
 沖田さんはひっそりと微笑んでいた。
「どうして円環のチカラがほしいと願ったんですか?」
「時の流れが逆になる夢を見たんだ。夢の中で、死の間際にボクは願う。みんなを守りたい、そのためなら何だってできる。そして死んだと思ったんだけど、目が覚めたら、二股の尻尾を持つヤミがボクのそばにいて、ボクは生きていた」
「時をさかのぼったんですか?」
「さぁね。ボクの願いがヤミを猫又に変えて、ヤミが仲立ちになってボクは妖のチカラを手に入れた。どっちがどどう働きかけたのか、ごちゃごちゃに混ざってて、わかんないよ。無茶したくせに、ボクは結局このざまで、仲間を死なせちまったし」
 時司である斎藤さんが言っていた。歴史の結果は変わらない、と。途中経過が少しくらい変化したとしても、死ぬべき人がそこで死ぬというさだめは揺るがないんだ。
 沖田さんが少し咳き込む。ラフ先生はひょいとかがんで、沖田さんの背中をさすった。
「痛々しいな、オマエ。見てんのがつらい」
 ふと、そのときだった。
 鳥の羽ばたきが聞こえた。
 沖田さんが顔を上げる。その視線に誘導されて、アタシも空を見る。一羽の白いハトが舞い降りてきた。きっと斎藤さんの伝書バトだ。脚に手紙がくくり付けられている。
 ハトは縁側に降り立った。ラフ先生がハトの脚から手紙をほどく。役目を終えたハトは、すぐさま空へ飛び立っていった。
 手紙に書かれているのは、毛筆の崩し字だった。
「読めねえ」
 ラフ先生が一瞬で放棄する。アタシは少し頑張った。
「斎……、一? 差出人の名前、斎藤一、ですよね?」
「ストーリーの展開からして、そうだろうな」
 沖田さんが手紙を手に取った。
「うん、斎藤さんからだよ。新政府軍が……江戸を総攻撃予定? いや、これは警戒を告げる手紙じゃなくて、総攻撃が撤回されたって書いてある。事、成リテ候? 勝麟太郎が、新政府軍と対話して、江戸城を……明け渡した……?」
「あっ、それって! 勝海舟と西郷隆盛《さいごう・たかもり》の会談ですね!」
 新撰組のことを知らないアタシでも、その会談のことは知っている。中学校の歴史の授業で勉強した。
 一八六八年、京を手中に収めた新政府軍は、勢いに乗って、江戸の旧幕府軍を殲滅《せんめつ》しようとする。
 殲滅作戦が決行されれば、江戸は火の海だ。百五十万人の住民の命が危機にさらされる。旧幕府軍では、意見が二分した。新政府軍と戦おうというグループ。戦いを回避しようというグループ。
 結論として、旧幕府軍は、話し合いによる解決を望んだ。新政府軍との話し合いに臨んだのが勝海舟。対する新政府軍の代表者が薩摩《さつま》の西郷隆盛。
 江戸の薩摩藩邸で、話し合いはおこなわれた。そして、江戸では戦わない、という約束が成立。旧幕府軍は江戸城を明け渡した。
「でも、待ってください。それじゃ、新撰組が甲陽鎮撫隊になって甲州へ行った意味は何だったんですか? 新政府軍を防ぐためだったんでしょう? 甲陽鎮撫隊は、今どうなっているんです?」
 沖田さんが蒼白になっている。手紙を持つ手が震えている。
「斎藤さんの手紙には、これだけしか……みんなの状況は何も書かれてない」
 ラフ先生は額を押さえた。
「勝海舟が甲陽鎮撫隊を派遣した目的は、史実としては知ってるけど、ここで言っちまうのは時期尚早だろうな。しかも、斎藤と勝がつながってるとなると、どうなんだろう?」
「史実とは違うんですか?」
「違う、と断言することはできねぇが、少なくとも、現存する資料には、斎藤が勝のスパイだなんて記録はねぇよ。誠狼異聞のオリジナル設定だ。しかも、斎藤にとって、めちゃくちゃ残酷な設定になってる」
 沖田さんがこぶしを握った。
「行かなきゃ。みんなのところに」
 沖田さんは立ち上がろうとした。でも、激しい咳の発作に襲われて、口元を覆って倒れ込んだ。ごぼっ、という音が、咳に交じる。ポタポタと、血のしずくが手のひらから落ちた。
「そんな体調じゃ無理です」
 ようやく咳が収まっても。沖田さんは立ち上がれない。ラフ先生が沖田さんを布団まで運んだ。血で汚れた沖田さんの口元を、アタシが拭う。
 沖田さんは、すがるような目をした。
「ミユメとラフにお願いがある。甲州へ行って、調べてきて。新撰組のみんなが、今どこでどうしてるのか。調べて、ボクに教えて」
「新撰組の状況がわかったら、どうするんですか? まさか、合流するつもりですか?」
 沖田さんは微笑んだ。
「みんなと一緒に戦いたいんだ。置いていかれて不安なのは、もうイヤだ。最期にみんなの役に立ちたい。あと一回だけ、大きな戦闘もこなせるよ。そのために力を温存したい。だから、代わりに調べてきて。お願い」
 ラフ先生は、庭のほうを向いていた。
「障子《しょうじ》、開けとくぞ。桜を見ながら、土方の下手な俳句でも思い出してろ。ミユメ、行こう。今の沖田は見るに忍びない」
 アタシは胸が詰まって、声が出なくかった。ただ、沖田さんに手を振った。
 アタシとラフ先生は甲州へ向かった。山がちの甲州からは、富士山が間近に見える。
 甲府城の一帯は、すでに新政府軍によって占拠されていた。アタシたちは隠れながら情報を集めて、甲陽鎮撫隊の消息を探った。
 結局のところ。
「甲陽鎮撫隊は間に合わなかったんですね。甲州へ入ったときにはもう、新政府軍が先に甲府城を押さえていた。その状況で、後ろ盾もなく戦って、負けて退却したんですね」
 気分が暗くなった。ラフ先生も大きな息をついた。
「新政府軍のほうが圧倒的に兵力があった。勝海舟は最初からそれがわかっていて、新撰組を甲州に向かわせたんだ」
「そのこと、斎藤さんも知っていたんですね? だから、出発前、何だか様子がおかしくて、ラフ先生とニコルさんもそれをちょっととがめていた」
 甲州で集められる情報は断片的だった。バラバラのピースをつなぐようにして、新撰組の行方を追った。近藤さんや土方さんの故郷、多摩の村々にも足を運んだ。そうこうして、ようやく、流山《ながれやま》に向かったことをつかんだ。
 流山は、江戸の北東に位置している。北へ向かう街道の要所だ。ここから北上していけば、会津がある。新撰組の上司である会津の殿さまが、江戸から追い出されるようにして、自分のお城へ帰っていった。
「主要なメンバーは一応みんな無事みたいでしたけど、これから新撰組は会津へ行くんですか?」
「そのへんは、斎藤らと合流できてからの展開じゃねぇかな。とりあえず、江戸に戻って沖田に報告しよう。それから三人で流山に向かう」
「はい。これって、沖田さんの最期の戦いになるんでしょうか?」
 ラフ先生は髪を掻きむしった。
「イヤだな、最期とか。史実知ってても……知ってるから、きつい。アイツの命日、知ってんだよ、オレ」
 ラフ先生の言い方でわかってしまった。沖田さん、本当にもう長くないんだ。
 悲しい予感を胸に抱いて、アタシたちは江戸の沖田さんのもとへ戻った。調べてきた情報を伝えると、沖田さんは迷いのない顔をして、スッと立ち上がった。
「情報ありがとう。ボクも流山に行くよ。ちょっと待ってて。準備するから」
 そして、おもむろに寝巻の腰紐を解き始める。
「ちょ、ちょっと沖田さん、いきなり着替え始めないでください! こんなシリアスな場面にそういうサービスシーン、いりませんっ!」
 ラフ先生がケラケラと笑い出した。
「というか、今さらなんだけど、最近の沖田、ずっと寝巻姿だったろ? これ、下着と同じようなもんなんだぜ。二十一世紀に置き換えて考えてみな。けっこう赤面モノだろ」
「ややややめてください! 沖田さんストップ! ああもう、だから腰紐解かないでくださいってば!」
 するすると、腰紐が畳の上に落ちた。寝巻の前がはだけかける。のど仏と、鎖骨、色白だけど筋肉の付いた胸板。割れた腹筋……が見えかけて、アタシは回れ右をした。
 ファサッと布が落ちる音がした。沖田さんがクスクス笑っている。
「見られても減るもんじゃないんだけど。それにしても、やっぱり、ここ何ヶ月かで一気に貧相になっちまった。前はもっといいカラダしてたのにな」
「さっさと着替えてください! そもそも、この演出、何なんですか? ピアズでの着替えなんて、装備品のボックスを開いてチェックを付け替えるだけでしょう?」
 アタシの態度がおもしろいんだろう。ラフ先生は手なんか叩いて実況中継し始めた。
「やせて貧相になってもそれかよ。十分すげぇじゃん。無駄な肉が完全に落ちてるぶん、腹筋の形がクッキリだし。あー、後ろ姿、色っぽい。きわどいところに、ほくろ発見。CG細けぇな」
 やめてください。いろいろ想像してしまいます。
 そもそもアタシ、BLもちょっとたしなむほうだから、無防備に脱いでいる沖田さんと、実況したり着付けを手伝ったりするラフ先生のやり取りが……ああもう、恥ずかしすぎる!
 やがて、沖田さんの声が聞こえた。
「着替え終わったよ。ラフ、手伝ってくれてありがとう。ミユメ、こっち向いて大丈夫だよ」
「……ほんとですか?」
「疑い深いなぁ」
 沖田さんがアタシの正面に回り込んだ。キリリとした袴《はかま》姿だ。すでに腰に環断《わだち》を差している。
「久しぶりにその格好ですね」
「うん。背筋が伸びるよ。グズグズしていられない。すぐに出発しよう。おいで、ヤミ」
 沖田さんは、足下にすり寄るヤミを抱き上げた。アタシは、思わず沖田さんの手をつかんだ。
「ヤミのチカラを借りたら妖に近付くんですよね? 大丈夫なんですか?」
「でも、ヤミがいなきゃ動けないから。ボクは大丈夫だよ。妖になったとしても、理性を保ってみせる。近藤さんたちと一緒に最期まで戦いたい。この気持ちがある限り、ボクは闇に呑まれないよ」
 にゃあ、とヤミが鳴いた。沖田さんがヤミを抱きしめて、ヤミが沖田さんの内側に溶け込んだ。沖田さんの姿が変化する。黒猫の耳と二股の尻尾が生えて、微笑んだ口に小さな牙がのぞく。目は金色に輝いた。
 アタシたちは屋敷の外に出た。
 江戸の町は、勝海舟と西郷隆盛の会談によって、戦火を免れた。でも、やっぱり完全に平穏というわけじゃない。新政府軍は、旧幕府軍の残党を取り締まっている。もちろん新撰組も狙われていた。
 アタシたちは新政府軍を避けながら先を急いだ。途中でときどき町の人の噂話を聞いて、情報を仕入れる。
 ある男が言った。
「板橋ってぇ町に、新政府軍の基地があるんでさあ。処刑場が作られて、罪人の首をはねるのが見世物になってやがる。にぎわってるみたいですぜ」
 ラフ先生が、ただならぬ反応をした。慌てて男に詰め寄って、舌の回転が間に合っていない。
「い、板橋? おい、オマエ、今日の日付わかるか?」
 男はのんびり答えた。
「えーっと、四月の、何日だったかなぁ? とにかく四月に入りやしたよ、旦那」
「四月、慶応四年の四月か」
「へい、さようです、旦那」
 ラフ先生は呆然としたように表情を消した。うめいて、ため息をついて、つぶやいた。
「……史実なら、沖田は知らずに済んだのに、ここではそういう流れになるのか」
 沖田さんがラフ先生の肩を叩いた。
「どうしたの? とにかく、先に進もうよ。日光街道沿いに進めば、板橋を通らずに流山へ行ける。新政府軍の基地を迂回できるんだよ」
「いや、あのさ……このフラグの立ち方は、すげぇイヤだ。怖いよ」
「板橋に何かあるんですか?」
「……言えねえ。ストーリー、進めるしかねぇよな。沖田の言うとおり、とりあえず板橋を迂回しよう」
 沖田さんを先頭に、新政府軍が駐屯していそうな宿場町を避けつつ、流山を目指す。
 駆け足の沖田さんの後ろ姿に、二股の黒い尻尾が揺れている。アタシが速度を上げても追い付けず、沖田さんが振り返らないから表情もわからない。
 焦っているんだろうか。
 早く早く、仲間のもとへ。その儚い命がついえる前に。
 アタシは知っている。日本はまもなく明治時代に入る。政治にも社会制度にも改革が起こって、新撰組のような武士はこの世から消える。
 じゃあ、新撰組は最後の武士なんだ。
 滅びてしまうんだ。
 この先、どんなふうに戦っても、どれだけ一生懸命になっても、誠心誠意を貫いても、新撰組は滅びて消えてしまうんだ。
 アタシは、思わず叫んだ。
「お願い、待って! 沖田さん、待ってください!」
 沖田さんが立ち止まる。ラフ先生も足を止めて振り返った。
「どうしたの、ミユメ?」
 いきなり悲しくなってしまったのだということを、どうすればうまく伝えらえるだろう? 時間を進めてしまうのが怖い。この残酷なストーリーの先にあるものを知るのが怖い。
 アタシは気付けば口走っていた。
「逃げましょう。もうイヤです。沖田さんに戦ってほしくないし、新撰組の時間が終わるのがイヤです」
 沖田さんがアタシのほうへ手を伸ばした。その手がアタシの頬を包んだ。
 現実のアタシは、自分で自分の頬に触れてみた。違う。沖田さんの手はもっと大きくて、もっと骨ばった形をしている。
 優しい仕草と裏腹に、沖田さんの言葉はこわばっていて厳しかった。
「先に進むよ、ミユメ。人生の大半の時間を使い切った今のボクにあるのは、最期の戦いに身を捧げたいっていう思いだけだ。キミも一緒に来て、一緒に戦ってよ」
 沖田さんの手が、アタシの頬から離れて、アタシの手を握った。沖田さんに引っ張られて、アタシの足が再び動き出す。
 アタシたちは再び流山を目指した。そこから先は、さほど長く走らなかった。
 突如。
 ハッとして、沖田さんが足を止めた。腕を広げて、アタシとラフ先生にもストップをかける。
 街道脇の大木の陰から一人、黒っぽい服を着た誰かが刀を手にして現れた。覆面をして、目元しか見えない。
 一瞬の緊張感。
 そしてそれが緩む。
「なんだ、斎藤さんか」
 沖田さんが笑顔になった。斎藤さんは、刀を収めて覆面を外した。目を丸くしている。
「どうして沖田さんがここへ? 体の具合は?」
 大木の陰から、あと二人、見知った人たちが出てきた。
 オーロラカラーのロングヘアを揺らす華奢な戦士と、サラサラの長い銀髪に緑色のローブの魔法使い。
「シャリンさん、ニコルさん! よかった、合流できましたね」
「待ってたわ。ここで両サイドのストーリーが一本になるみたい」
「すみません、お待たせして。先に進めるのが何だか怖くて、ちょっとぐずぐずしちゃったんです」
「わかる気もする。こっちもいろいろ悲惨だったから。ワタシは逆に、AIじゃない人間のユーザに会いたくなって、先へ先へ、ストーリーを走らせてしまった感じ」
「甲陽鎮撫隊、負けたんでしょう? 話はだいたい聞いてきました」
 ニコルさんがあごをつまんで、考える仕草をした。表情が冴えない。
「じゃあ、甲陽鎮撫隊出撃の意図は知ってる? 勝海舟が何を目的に、新撰組を甲州へ送ったのか」
「いいえ、そこまでは調べられませんでした」
「そうだろうね。教えてあげるよ。それとも、一くん、キミが自分で伝える? 永倉新八くんを激怒させた、あの話を」
 斎藤さんは、ポツリと答えた。
「オレが話す」
 ひどく素直で、ひどく無力な声音だった。いつもの斎藤さんと、どこか様子が違う。低く落ち着いているはずの話し方が、今は妙に頼りない。
 シャリンさんはそっぽを向いている。にこやかなはずのニコルさんは厳しげな無表情を貫いている。
 ラフ先生は頭を抱えた。
「やっぱ、そういう流れか」
 アタシと沖田さんだけ、状況がわからずに、戸惑いながら斎藤さんの言葉を待っている。斎藤さんはそれでも、迷うように沈黙していた。アタシは焦れた。
「斎藤さん、話してもらえますか?」
 観念するように、斎藤さんは目を伏せた。
「オレは、勝海舟に情報を通じていた。ずっと昔から、オレたちが京に入るより以前からだ。勝にとって、オレも新撰組も、放し飼いの犬のようなものだった。いつか使い捨てるためのコマに過ぎなかった」
「勝海舟さんの、捨てゴマ? 勝さんは何のために斎藤さんを動かしているんですか?」
「勝の目的は、簡単に言えば、日本人同士の争いを避けることだ」
「新撰組が倒幕派と戦うようなことは、勝海舟さんは避けたかったんですか?」
「あれは勝にとって戦闘のうちに入っていない。もっと規模の大きな争いを回避するために、小競り合い程度は黙認していた」
「小競り合いっていっても、命懸けでしたよ?」
「鳥羽伏見の戦いのような大戦闘を、江戸に持ち込ませないこと。勝の頭にあるのは、そういう規模の話だ。日本全土でああいう大戦闘が立て続けに起こったら、軍事力を持つ欧米諸国に、日本という国はたやすく奪われてしまう」