きみと駆けるアイディールワールド―緑風の章、セーブポイントから―

 その瞬間、パラメータボックスがけたたましいアラームを鳴らした。バトルモードが発動する。
「ジョチさん、ダメ!」
 アタシたちはバトルフィールドに降り立った。小さなジョチさんが不気味な笑顔をアタシたちに向けた。
「殺されに来たの? アンタたち、邪魔なんだけど。オレ、ジョチを殺すように命じられててさ。引っ込んでてくれる?」
 かわいい顔のはずなのにソイツの笑みはどす黒い。アタシはゾッとした。ソイツはいきなり、アタシに矢を放った。
「危ないっ……!」
 オゴデイくんがアタシの前に飛び出した。手にした弓で矢を打ち払う。
「助かったよ!」
「アナタに傷付いてほしくない」
「はい?」
「いえ、何でもありません」
 ニコルさんが呪文を唱え始めてる。コンボ用のスキルは、安定のBPM240。アタシが詠唱に入った瞬間、ニコルさんの魔法が完成した。杖の先端の珠がまばゆい緑色に輝く。
「正体を見せてもらおうか!」
 ニコルさんが杖を振るった。光と風が、小さなジョチさんのふりをしたソイツに襲いかかる。
 “翠光明真”
 幻覚系の効果を全部リセットする魔法だ。ソイツがかぶった仮面が、フィールドの背景もろとも吹っ飛んだ。
 シャリンさんが毒舌を放った。
「またランプの魔人なの? ワンパターンなステージね」
 巨大でムキムキな魔人はニヤリと笑った。
「前のシャイターンと一緒にしないでくれる? オレの名はイフリート。煙の立たない炎から生まれた魔人。シャイターンなんかより、はるかに高等な存在だ。むろん、オマエたちよりもね」
「しゃべり方、ムカつくわ」
「同感ですっ!」
 ニコルさんがシャリンさんの剣に魔法をかける。シャリンさんの剣が緑色に発光した。
「ルラ、援護して!」
「はい!」
 ちょうど魔法が完成したもんね。デカいヤツには、これがいちばん。
 “ピコピコはんまーっ!”
 イフリートにヒット判定。と同時に、シャリンさんが飛び出す。その速さも目で追えるようになってきた。
「うわ、シャリンさん危ない!」
 イフリート目がけて突っ込むシャリンさんを、真横から、ギラッと光る剣が襲う。反り返った刃がシャリンさんに迫る。
 キィン、と甲高い音。
 ギリギリのところで体勢を切り替えたシャリンさんが、カウンターで攻撃を防いだ。剣と剣がぶつかって火花が散る。
 シャリンさんを襲った相手に、アタシは頭が真っ白になる。
「ジョチさん、どうして!?」
 何の感情も宿さない目が赤く染まってる。手にした武器は半月剣《シャムシール》。ジョチさん本来の武器じゃない。蒼狼族は弓矢使いだ。
 ニコルさんが索敵魔法を発動させた。
「ジョチの意識はイフリートに冒されているみたいだな。パラメータボックスを見てごらん。イフリートと並んで、ジョチのヒットポイントも表示されている」
「ほ、ほんとですね。しかもジョチさん、じわじわ弱っていってる」
 イフリートがゲラゲラと笑った。
「オマエたちがオレを倒すのが先か、ジョチが弱って死んじまうのが先か。言っとくけどな、ここはジョチの精神世界だ。ジョチがくたばっちまったら、オマエらもオダブツだぜ」
 ニコルさんが、ぼそっと苦言を呈する。
「ペルシアやアラブの伝説に登場する魔人が仏教用語を使うとは、設定が甘い」
「どーでもよくないですかー?」
 シャリンさんが剣を構え直した。
「ふざけたバトルを仕掛けるんじゃないわよ。何がなんでも、ジョチをつかまえなきゃいけないの!」
 シャリンさんのコンボ設定が解除された。スキルのBPMは∞。これ、配信されてる中で最高ランクだ。途中でBPMが変速するやつ。最初が333で、222まで落ちて、ラストは444。
 地獄な難易度のスキルをPFCで完成させて、シャリンさんがまがまがしくも神々しい光のオーラをまとう。イフリートへと突っ込む。その進路に、ジョチさんが立ちはだかる。
「邪魔よ! どいて!」
 シャリンさんが進路を変える。スキル発動。凄まじい速さの突きが連続して繰り出される。
 “Infernal Izanami”
 ヒット判定が出る寸前、イフリートの姿が消失した。シャリンさんの攻撃が炸裂する。ダメージを示す数字が飛び散る。
 シャリンさんがつぶやいた。
「しまった……!」
 イフリートじゃなかった。そこに立っていたのは、ジョチさんだ。ジョチさんのヒットポイントが激減する。
「ジョチにいさんっ!」
 オゴデイくんが走っていって、ジョチさんを助け起こそうとした。その足が、直前で止まる。傷だらけのジョチさんがオゴデイくんに剣を向けている。
 すかさず、シャリンさんが素手でジョチさんにつかみかかる。よけられる。ジョチさんが剣を振るう。シャリンさんが飛びのく。
 イフリートが再び、ジョチさんの背後に現れた。
「言ったはずだぜ? ここはジョチの精神世界で、オレはジョチを操ってる。つまり、オレはここでは何でもできるってことさ」
 ニコルさんがピシリと言った。
「シャリン、今は下がって」
「でも」
「下がって」
「……わかったわ」
 シャリンさんが戻ってきた。オゴデイくんが呆然と立ち尽くしてる。
「オゴデイくん、そこにいちゃ危ない! 戻ってきて!」
 アタシが呼んだら、オゴデイくんはハッとした様子で走ってきた。
「ジョチにいさんを助けてください。イフリートの魔術は完全ではありません」
「そうなの?」
「イフリートはジョチにいさんを操るのに精いっぱいです。その証拠に、攻撃してこないでしょう?」
 確かに、攻撃してるのはジョチさんだけだ。しかも、こっちに向かってくるんじゃなくて、反撃だけ。
「ニコルさん、これって、戦っても倒せなくてループするタイプですよね?」
「うん。キーワードで洗脳を解除していくタイプの、ストーリー型のボス戦だね。ここはルラちゃんに任せるよ」
「アタシですか!?」
 ジョチさんは無表情で半月刀《シャムシール》を構えている。赤く染まった目が、魔術に冒されてる証。魔術から解き放ってあげるには、言葉をかけるしかない。キーワードにヒットすれば、だんだん正気を取り戻していくんだ。
 でも、アタシひとりでやるの? ニコルさんのほうが知識を持ってるのに? シャリンさんのほうがずっと頭いいのに?
 オゴデイくんが切実な表情でアタシを見つめた。
「オレの声は、今のジョチにいさんには届かない。むしろ傷付けるだけです。ルラさん、お願いです。ジョチにいさんを元に戻してあげてください」
 繊細な声に、うるうるした目。そんな顔されたら、アタシは弱い。
 うん、相手がAIでも、アタシの信条は変わんないもんね。誰かが困ってたら、助けてあげたい。よーし、やってやる!
「ジョチさん、聞いてください! 死にたいなんて思っちゃダメだよ。自分を責めちゃダメだよ」
 すとん、と背景が変わる。
 煙を上げる町は、ほとんど廃墟と化している。石畳の大通りは、あちこちに流血の痕。壊れた武器が、そこここに転がってる。
 ジョチさんをあざむいて、ジョチさんに攻め滅ぼされた、スィグナクの町だ。
『皆殺しにせよ。女も子どもも病人も、皆だ。武器を持っていようがいまいが、関係ない。人も家畜も、命ある者はすべて殺せ』
 赤色を宿したジョチさんの目がアタシを見る。冷静なように見えて、本当は違う。
「泣きそうな目、してますね。苦しいんでしょ? 軍のトップなんかじゃなかったら。ジョチさんは、殺せなんて言わなかったはず」
『殺さねばならない。見逃すことはできない。蒼狼族は勝たねばならない。誇りをくじかれたままではいられない』
「頑張りましたね。自分の心を殺してまで、蒼狼族の誇りを守るために。ジョチさんは、独りで全部、抱え込んだんですね。苦しかったですね」
 正しい言葉なんてわからない。アタシはとても平和な時代に生まれて、人の命の重みを十分に知らないのかもしれない。
 戦争の責任を1人で背負う? それが一族の王子さまとしての役目? 一体どれだけの苦しみなんだろう? 想像もできない。
『オレは強くなければならない』
「うん、そうですね。話してもらえませんか? アタシにも、その荷物、少しだけ持たせてください」
 血に汚れたジョチさんの体が、するすると縮んでいく。返り血を浴びたまま、幼い姿になったジョチさんが、淡い赤色が揺らぐ目でアタシを見上げる。
『オレ、戦って殺したよ。蒼狼族の誇りをけがす敵を倒したよ。父上は、戦士としてのオレを認めてくれるよね?』
「おとうさんのこと、好きなんだね? だから頑張るんだ」
『こうやって戦い続ければいいんだよね? そしたら、いつか、父上はオレを見てくれるよね? 息子としてのオレを認めてくれるよね?』
「戦士としてじゃなくて、息子として。少しわかるよ。アタシの弟もそうなの。1人の人間としてパパに認められたくて、息子としても愛されたいと思ってる」
『息子としても、愛されたい……?』
 アタシはジョチさんに近寄った。バトルからノーマルへ、動作モードを切り替える。気に入ってるアクションがあるんだ。
 アタシは、寂しい目をした男の子をギュッとハグした。
「えらかったね。頑張ったね。でも、ときどき休憩していいよ」
『休憩……』
「頑張り続けなくていいの。たまには弱音を吐いてもいい。大丈夫だよ。アナタは誇り高い。その誇りは、ちゃんとみんなわかってる。おとうさんも、弟さんたちも、みんな」
 幼い声が涙に震えた。
『嘘だ、みんなオレのことなんて嫌いなはずだ』
「嫌いなはずないよ。みんな、アナタのことを信頼してるよ。アナタが悩み抜いて生きてること、知ってる。みんな見てるんだよ。アナタが背負ってる運命なんかじゃなくて、アナタ自身を」
『オレ自身を?』
 アタシは、ジョチさんの顔をのぞき込む。大きな目には涙が盛り上がって、赤い色の呪いが薄らぎつつある。
「アタシは蒼狼族のことをあんまり知らない。外の世界から来た、ただのお節介なよそものだけどさ、わかることもあるよ。ジョチさんは信頼されてるよ。心配もされてるよ」
『信頼……心配……でも、みんなは、オレを……』
「ジョチさんが何者かを決めつけるなんて、誰にもできないの。何者になるかを選ぶのは、ジョチさん自身だよ」
 するすると言葉を紡ぐことができるのは、アタシ自身が求めてる言葉だからだ。
 誉められたいって思う。いつでも笑顔でいようと頑張ってる。パパのために看護師になろうと決めた。いい子にしてるから、誰か誉めて。
 でも、誉めてくれなくていいとも思う。アタシがここでこうして生きてることを、ただそれだけを、誰か認めて喜んで。アタシのこと丸ごと好きって言って。
 アタシは言葉を重ねる。
「ジョチさんがどんな道を選んでも、きっと大丈夫。反対する人がいるとしても、応援してくれる人もいる、絶対にいる」
『でも、オレは忌み子で、嫌われていて……』
「そんなことない。アタシは、アタシたちは、ジョチさんのこと好きだよ」
 たぶん、それがキーワードだった。「好き」っていう、その温かい響きが魔法を解く鍵だった。
 ジョチさんの両目から涙があふれた。血みたいに赤い涙が流れ去って、透き通った色が冴え冴えとよみがえる。かすかに蒼みがかった銀色だ。
 まばたきを、1つ。
 銀色の尻尾をひるがえして振り返ったジョチさんは、大人の姿に戻っている。ジョチさんはイフリートを見上げた。
「よくもオレの心の闇に付け入ってくれたな!」
 にらまれたイフリートが情けない悲鳴をあげる。
 ジョチさんが両手を掲げた。両手の間に輝きが生まれて、それが弓矢の形になる。ジョチさんは弓に矢を番えて引き絞った。
「消え去れ、外道!」
 一閃。光の矢が飛ぶ。イフリートの両目の間に刺さる。
 ばしゅっ! と青い光が弾けた。イフリートの巨体が消滅した。
「やったー、倒した!」
 アタシは跳び上がった。ジョチさんがアタシに微笑んだ。
「ありがとう、ルラ」
 きゃぁっ! 今この瞬間、スクリーンショットっ! ピアズは声を録れないのが残念すぎる!
 シャリンさんがディスプレイに割り込んできた。
「ルラ、そこどいて!」
 アタシは押しのけられる。そうだった。今回の最大の目的、こっちだよ。シャリンさんがジョチさんに接触すること。アタシは慌てて飛びのく。
 シャリンさんがジョチさんに手を伸ばした。胸のあたりに触れた。
「ロック解除。解析スタート」
 シャリンさんがつぶやいた。
   ――ピシッ――
 シャリンさんとジョチさんが、2人が立ってる空間ごとフリーズした。音声機能は生きてるみたい。スピーカからシャリンさんの一人言が聞こえてくる。
「どこなのよ……何、これ……?」
 ジョチさんのAIのプログラムを解析してるんだと思う。どこにラフさんの魂が憑依してるのか、探してるんだ。
 ――パリッ――
 グラフィックが、かすかにひずんだ。「え?」と漏らしたアタシの声が、ニコルさんと重なった。
     ――ザッ、ザザッ――
 ノイズが交じる。見間違いや聞き間違いじゃない。
  ――ビシッ――
「ちょっ……シャリンさんっ、なんかおかしいっ!」
    ――ザリザリッ――
――バリッ、ビシッ――
「ラフっ! ああ、まただ……!」
 ――ザッ、ザッ――
 ラフさんが震えてる。今回のバトルでは1度もアクションを起こしてなかった。ただ立ってるだけの人形状態だったラフさんが今、ガタガタ、ガタガタ、激しく震えてる。
  ――バリッ、ビシッ、ザザッ――
――ザザザザッ――
 ラフさんの全身がノイズをまとってる。姿を構成するCGが粒子になって、ザラザラに荒れる。
 シャリンさんの焦った声が聞こえた。
「どうして!? ラフの魂は、AIのプログラムごと固定してるはずなのに!」
 だけど、画面はひずみ続ける。シャリンさんの声にもBGMにも雑音が重なる。
――バリッ、ビシッ、ZZZZZZZZZZZVVVVV――
 ディスプレイ全体が暗転した。白い稲光が飛び交う。
    ――shhhhhhhhhhhhhhBBBBBBRrrrrrrrrrr――
 逆転したモノクロの世界で、無表情のラフさんがガクガクと震える。
――vvvvvvv00000000000000101zzzvvvvv――
 怖い。逃げたい。コントローラを叩く。アタシの体が動かない。
  ――xxx0101010101010yyyyyZZ0000ZZZZZ――
 ニコルさんが叫んだ。
「とりあえずログアウトして! 全員、ここを離れて!」
 アタシが真っ先に逃げ出したと思う。
 ふっ、と。
 ディスプレイに平穏が戻った。ピアズのスタート画面。
「どうして、あんなことに……?」
 コントローラを握りしめてた手は汗びっしょりだった。
 ぴろ~ん♪ と、間の抜けた効果音が鳴った。ピアズを介したメッセージの受信音だ。
 あたしは、ポップアップされた便箋マークをタップした。メッセージはシャリンさんからだった。
〈みんな、無事? 読みを外してたわ。ジョチは、ラフじゃなかった。思い出してみれば当然ね。最初のボス、ジャオと戦ったとき、ジョチはいなかった〉
 あたしは急いで返信した。
〈ルラは大丈夫っぽいです! でも、ジョチさんじゃなかったって、どういうことですか?〉
 ニコルさんの返信と、ほとんど同じタイミングだった。
〈ニコルのデータも問題ない。「ジョチの帳幕《ゲル》」っていうフィールド名にミスリードされたんだ。実際のところ、オゴデイのほうだったわけだ〉
 え? オゴデイくん?
 少し間があった。シャリンさんが何か発言しようとしてるのがわかって、あたしは待った。すぐにシャリンさんからメッセージが届いた。
〈ジョチのAIプログラムを解析するために容量を割いていたの。そのぶん、同フィールド内のその他のデータは相対的に容量が下がって、ラフは無防備な状態になっていた〉
 一旦、メッセージが途切れる。リアクションするより早く、続きが飛んできた。
〈守りの薄くなったラフのそばにオゴデイがいた。オゴデイに憑依しているラフの魂は肉体と引き合って、プログラムを掻き乱した。あのままだったら、フィールドを破壊していた〉
 ニコルさんからの返信が来た。
〈シャリン、了解。今、チラッとログインしてきた。セーブデータも無事だったよ。イフリートを倒した状態に保存されてた。次はジョチのゲルから再スタートだ〉
 アタシは確認のメッセージを送った。
〈じゃあ、次はオゴデイくんをつかまえればいいんですね? 今回みたいに、シャリンさんが直接オゴデイくんに触れる感じで?〉
〈そうね。協力してちょうだい。解析プログラムを修復しておくわ〉
〈まあ、オゴデイが最大のキーマンというのは、史実を鑑みれば納得だ〉
〈どういう意味ですか?〉
〈たぶん、次回のストーリーで説明されるよ〉
〈何にしても、今度は絶対に失敗しないわ〉
 アタシたちは明日の待ち合わせの時刻を決めた。それから、おやすみなさいを言い合って、メッセージの画面を閉じた。
 初生がしゃべってくれなくなった。朝、バス停で待ってても、初生は来ない。声を掛けても、聞こえないふりをされる。近付こうとしたら避けられる。
 クラスメイトにもバレた。
「笑音、遠野さんとケンカしてるの?」
「んー、まあ、ケンカではないと思うけど」
「あの態度はありえないよね。暗いっていうか、さすがにウザいっていうか」
「いやぁ、でも、悪いのはあたしだし」
「笑音、ああいう子は甘やかしちゃダメだよ。すぐ図に乗るんだから」
 笑ってごまかしながら、思い出した。この子、初生と同じ中学だった。わざと初生に聞こえる声でこんなこと言ってる。
 やめてよって止めればよかった。へらへら笑ってるだけじゃなくて。初生が傷付くから悪く言わないでって、ハッキリ伝えればよかった。
 それができなかったのは、どうしてだろ? 初生なんか傷付けばいいって、あたし、心のどこかで思ってたのかな?
 だってね、初生。避けられてたら、あたしだってつらいよ。悪いのはあたしってことはわかってる。ちゃんと怒りをぶつけてくれたら受け止めるのに。
「なんで黙って避けるの? どうすればいいかわからないよ」
 帰り道。とぼとぼ歩きながら、ため息と同時に足が止まる。秋風が湿ってる。気温が低い。
 屋外の歩道から、ガラスケースに入った車道を見やる。走っていくバスの後ろ姿には、響告大学附属病院、と行き先が書かれている。
 ママは、今晩は病院に泊まるって言ってた。あたしは家には帰れない。瞬一と2人になんて、なれるわけがない。
 この数日、瞬一は徹底的にあたしを避けてる。家を空けがちなママでさえ気付くぐらい、徹底的に。
 昨日、もう限界だった。晩ごはんを食べてママが病院に戻った後、あたしは瞬一とケンカした。あたしが怒鳴って、瞬一も声を荒げた。
「これ以上、おれの精神を掻き回すなよ!」
 勉強机を殴りつけた、こぶしの形。初めて、瞬一が男であることをハッキリ感じた。男である瞬一を怖いと思った。
 帰り道がわからない迷子になった気分だ。足が進んでいかない。
 ぽつっ。
 おでこに水滴が当たった。空を見上げる。灰色の雲が、くしゃりと崩れ始める。
「雨……」
 びしょ濡れになっちゃおうか。空に向かって笑顔をつくる。もっと降ってきてよ。ぐしょぐしょになるくらいがちょうどいい。みじめっぽくてバカっぽくて、あたしらしい。
 どこか遠くへ行っちゃいたい。消えたなくなりたい。だって、教室にあたしがいるだけで、初生はさらに傷付く。家であたしと過ごしてたら、瞬一はまた苦しむ。
 悲しくなる。どうしようもなくバカな自分が、もうイヤだ。
「嫌いだよ」
 調子に乗って、失敗ばっかり。笑顔が取り柄とか言いながら、そんなのは嘘。うまく笑えない、弱い自分が嫌い。
 本物の笑顔に憧れる。パパの笑顔みたいな。風坂先生の笑顔みたいな。悲しくてもちゃんと笑ってる人の強さに憧れる。
 雨が冷たい。目を閉じてみる。泣きそうで、呼吸が苦しくて、口を開ける。味のしない水が口に入ってくる。髪が濡れ始める。
 雨の匂い。ひんやりした雨音。今日は寒い。
 不意に、声が聞こえた。
「甲斐さん……笑音さん?」
 雨音のヴェールを通り抜けるしなやかな声に、あたしはハッとして振り返った。
「風坂先生……」
 緑色の傘を差した風坂先生が立っていた。ビックリしたような顔だ。それもそっか。教え子がバカみたいにびしょ濡れになってるんだから。
 風坂先生が黙ったまま動いた。あれ? と思ったときには、あたしは傘の中にいた。緑色に陰った傘の内側で、風坂先生が微笑んだ。
「どこかまで送ろうか?」
 男物の傘は大きい。それでも、2人で入るには小さい。風坂先生との距離が近すぎる。
「え……あ、えと……」
「ずいぶん濡れてるね」
 風坂先生が、パーカーのポケットからタオルハンカチを出した。先生は実習を担当してるから、いつも動きやすい格好をしてる。スーツとか見てみたいなって、ぼんやり思った。
 ふわっとしてごわっとした布地が、あたしのほっぺたに触れた。風坂先生の手がタオルハンカチ越しに、あたしのほっぺたを包んでる。
「使って」
「……すみません」
「笑音さん、たまに雨に打たれたくなる気持ちもわかるけどね。体を壊したら、元も子もないよ」
 優しさをもらうと泣きたくなるのは、どうしてだろう? あたしが優しくされる価値のない人間だから? うん、きっとそう。もったいないって思っちゃうんだ。
「先生、大丈夫です。あたしは1人で大丈夫です」
 風坂先生はかぶりを振った。タオルハンカチがあたしの髪とおでこを拭った。ほっぺたと目元を拭った。
「教師ではないぼくだと、頼りないかな? ぼくでも話を聞くことくらいはできるよ。大丈夫だなんて嘘をつかないで」
 やめてほしかった。
 あたしは誰の前でも笑っていたい。笑えないときは、誰とも一緒にいたくない。なのに、風坂先生の笑顔が優しいから、おかしくなる。
 すがりたい。甘えたい。話したい。打ち明けたい。
 泣きたい。
 そうだ、泣きたいんだ。気付いたら、もう涙が止まらなくなった。強まっていく雨音を聞きながら、あたしは泣いている。
 この涙の意味は何なんだろう? 何が悲しいの?
 イヤだよ。泣くなんて、みじめなだけじゃん。
 だけど、どうしようもないんだ。泣くことしかできない。
 弱いなぁ。痛みや苦しみから顔を背けるばっかりで。
 泣きたくて泣きたくて泣きたい。涙が止まらない。
 風坂先生はタオルハンカチで、あたしの目元を拭ってくれる。泣き顔を見られている。恥ずかしさは涙と一緒に流れて、とっくに消えた。
 ずっと泣いていた。傘の中で、寒かった。
 どれだけ時間が流れただろう?
 目元がひりひりしない。こすらないせいだ。
 タオルハンカチでそっと押さえて、肌から水分を拭う。丁寧で繊細な手付きは、風坂先生がプロだから。毎日、利用者さんにしてあげる作業だ。
 それに気付いたとき、ふっと、あたしは現実に戻った。
「……もう大丈夫です」
「そう」
「ご迷惑、おかけしました」
 風坂先生が、ぽんぽんと、あたしの頭を叩いた。
「迷惑じゃなくて、心配。どうしようもなく苦しいときは、笑わずに泣いていいんだよ」
「でも、風坂先生はいつも笑ってて……」
「ぼくはとっくに大人だから。強がって生きていこうって、ずいぶん昔に選んだから。笑音さんは、まだ迷ったり泣いたりしていい」
 見透かされてる気がした。風坂先生は何でもわかってる。また涙が出そうになって、あたしは大きくまばたきした。
「そ、そうだ、先生。初生は、小テスト、パスしました?」
「テストは問題なかったよ。だけど、やっぱり元気なかったね」
「もう仲直りできないかもしれないです」
「そんなことないと思うけど」
「できないです。だって、あたし、初生が悪口言われてるのを止めなかった。怒らなきゃいけなかったのに、黙ってた。友達失格なんです、あたし」
 風坂先生の笑顔は、困ったなぁと言うみたいに眉尻が下がっていた。度の強いメガネに、細かい雨粒がくっついてる。
 少し、沈黙。それから、風坂先生があたしに尋ねた。
「笑音さん、家はどっちの方角?」
 答えられない。あたしは今日、家に帰れない。瞬一と2人になれない。あたしはとっさに嘘を言った。
「今日は学校から直接、病院に行くことになってるんです。響告大の附属病院に」
「病院? どこか悪くしてるの?」
「いえ、パ……父が入院してるんです。母が付きっきりで大変そうだし、たまにあたしも手伝いに行くことにしてて」
 口に出すうちに、本当に病院に泊まろうって気になった。パパの顔を見たい。検査でバタバタしてなかったら、話を聞いてもらおうかな。
「じゃあ、病院の近くまで一緒に行こうか? ぼくの家、響告市にあるんだ。響告大の近くにね。だから、病院は帰り道だよ」
 風坂先生はゆっくり歩き出した。あたしも慌てて足を動かし始める。状況が今いち呑み込めない。だって、これ、風坂先生と相合い傘だよ?
 普段なら跳びはねるんだけどな。今はダメだ。無理だ。弱ってる。
 胸にしまい込んでる笑顔の理由が、ぽろぽろ、こぼれていく。
「父は、検査入院なんです。検査っていうか、正確にはデータ提供のため。響告大附属病院は研究機関でもあるでしょう? 響告大の医学部と連携が強くて、世界的にも有名な博士がいたりして」
「うん。ぼくの利用者さんも入院してるから、よく知ってる」
「父の病気、ALSなんです」
 風坂先生が息を呑んだ。
「ALS……筋萎縮性側索硬化症《きんいしゅくせいそくさくこうかしょう》か。脳の司令を筋肉に伝える運動ニューロンが冒される病気だね」
「風坂先生は、この病気、ご存じですよね」
 例えば、あたしが誰かに手をつねられるとする。痛いと感じるのは、知覚神経の仕事。痛いから手を引っ込めろと指示を出すのは、脳の仕事。脳の指示を腕の筋肉に伝えるのは、運動ニューロンの仕事。
 運動ニューロンは、神経細胞の一種だ。ALSは、運動ニューロンの働きを阻害する病気だ。
 ALSに冒された患者の運動ニューロンは、脳の指示を伝えない。つまり、患者の筋肉は使いものにならない。病んだ運動ニューロンは、その数自体をどんどん減らしていく。
 風坂先生は淡々と言った。
「病気が進むにつれて、筋肉が動かなくなっていく。手足が動かなくなる。表情筋さえ動かなくなる。食べ物を飲み込むことも呼吸をすることも難しくなっていく。完治させる方法は、まだ編み出されていない」
 あたしは足下を見ながら歩いた。風坂先生、きっと苦しそうな顔をしてる。声でわかる。あたしが風坂先生にそんな顔をさせるなんて、申し訳ない。
「父は、闘病じゃなくて『挑戦』って言うんです。世界で初めてALSを完治するんだって。だけど、どんなに元気なことを言ってても、歩くと転ぶんです。お箸、もう使えないんです」
 パパの症状はだんだん進んでる。
 字を書くのが難しくなった。リハビリで書く文字は、そろそろもう本当に読めない。服のボタンを留められなくなった。だから、ママが着替えを手伝ってる。
 こうやって1つずつできなくなってくんだ。
 膝当てと肘当てを付けて病院まで歩いたり、血圧を測りながらトランプで遊んだり、もうすぐできなくなってしまう。
 読み聞かせをしてくれてた優しい声さえ、いずれ出せなくなる。笑顔も呼吸も、食べ物を飲み込むこともできなくなる。自力で生きることができなくなる。
「あたしは少しでもパパの『挑戦』を手伝いたくて、だから看護師になりたい。パパが生きてるうちに。時間がどれだけあるかわからない。怖いです」
 風坂先生がうなずく気配があった。
「今日、瞬一くんとも話をしたんだ。同じ話を聞かせてくれた。育ての父の『挑戦』を成功させるために、先端医療の研究を志しているんだね」
 ALS患者の運動ニューロンは機能を失いながら減っていく。治療するためには、健康な運動ニューロンを補う必要がある。
 瞬一が目指してるのは「万能細胞」の研究。万能細胞は、体のどの器官にもなることができる。神経にも筋肉にもなれる。
 パパの細胞を採取して培養して、万能細胞を作る。その万能細胞から、健康な運動ニューロンを作る。健康な運動ニューロンをパパの体に移植する。もとが自分の細胞だから、移植の拒否反応は出ない。
 瞬一が目指しているのは、そういう治療をおこなうお医者さんだ。
「ALSじゃない別の難病では、万能細胞を使った新しい形の治療がもう始まってるんでしょう?」
「うん。実験って呼ばれるような段階だけどね」
「実験、ですか?」
「もちろん患者も合意の上だよ。自分にはまだやりたいことがある、死ぬくらいなら人体実験の素材にもなってやる、って。その実験に、ぼくの妹が関わってる」
 風坂先生は雨の中でささやく。それでも、その声はハッキリと通る。悲しみと切なさを秘めた、柔らかい声。
 理由はないけど、わかった。人体実験だなんて痛々しい言葉を使ったその患者さんは、きっと風坂先生にとって大切な人だ。