ジョチさんのゲルを出た瞬間だった。シャリンさんがチャガタイさんの尻尾をつかんだ。
「チャガタイ、教えなさい! ジョチって、何者なの!?」
本気で切羽詰まった口調だ。ニコルさんが、ハッと息を呑んだ。
「シャリン、もしかして今、ラフがいたのか?」
「いたわ。『ジョチの帳幕《ゲル》』ってフィールドにいる間、ずっとデータが乱れ続けていた」
「じゃあ、今すぐゲルに戻ろう!」
「無駄よ。ワタシが何もしなかったと思うの? 今使ってるPCのスペックで可能な限りのことをしたけど、ラフをつかまえられなかった。専用のプログラムを構築する必要があるわ」
チャガタイさんが腰に手を当てた。
「話は済んだか? 兄上のことを話してほしいのか?」
シャリンさんが答えた。
「ええ、ジョチのことを話して。ラフをつかまえるときのヒントになるかもしれないから。チンギスの4兄弟の中でも、なぜジョチのデータがチャガタイやトルイより大きいのか」
チャガタイさんは鼻を鳴らした。
「兄上は異質だからな。『ジョチ』という名の由来がわかるか?」
アタシはそんなの知るわけなくて、ニコルさんを見上げた。緑の目が知的に微笑んだ。
「蒼狼族の言葉で『客人』という意味だよね、チャガタイ?」
「ほう、異世界の賢者は何でも知っているんだな。正解だ。兄上は『客人』と名付けられた。なぜなら、兄上は父上の血を引いていないからな」
うん、さっきも言ってたけど。
「どういう事情なんですか?」
「母上は、父上に嫁いで間もないころ、敵対する部族の男たちに誘拐された。父上は母上を取り返すことに成功したが、むろん、その……言いづらいことが母上の身に起きていたわけだ。だから、兄上が誰の血を引いているのか、ハッキリしない」
「でも、チンギスさんはボルテさんを大事にしてるし、ジョチさんのことも長男と認めてるんでしょう?」
「オレは、あんな頑固で冷たい男など、兄と認めてないがな!」
「それ、個人的に相性悪いだけでしょ!?」
なるほどって感じ。ジョチさんの絶対的なクールさは、生い立ちのせいなんだ。自分が何者なのか、わからない。その上、弟からも「認めない」なんて言われちゃってさ。
シャリンさんがニコルさんをにらんだ。アバターの表情は変わってないけど、雰囲気的に、にらんだ気がした。
「ニコル、どうしてジョチの名前の由来を知ってるの?」
うん、アタシもそれ思った。なんで?
ニコルさんは、ピンと人差し指を立ててみせた。
「史実だからね。サロール・タルのストーリーは『蒼き狼』の実際の歴史に忠実だよ」
「じゃあ、ニコルさんには、このミッションのボスも想像ついてます?」
「どうだろう? 本当に史実どおりなら、ホラズム国の誰かだろうけど」
突然、ぼゎ……ん、という効果音が聞こえた。ワープするときの空間が歪む音だ。
チャガタイさんがアタシたちの背後をにらんで指差して、青い毛を逆立てて身構えた。
「キサマ、いつの間に!」
アタシは、思わずコントローラを握り直しながら振り返った。そこに立っていたのは。
「おーっ、イケメン!」
しまった、言っちゃった。ニコルさんとシャリンさんが同時に噴き出した。お願い、スルーして。
改めまして。
そこに立っていたのは、アラビアンナイトな格好のイケメンだった。悪人スマイルがやたらとキマってる。パラメータボックスに生体反応が出ない。ってことは、このイケメン、ホログラムだ。
ホログラムのイケメンが名乗った。
「我が名はジャラール。ホラズム国の王子だ。薄汚い犬コロどもが国境を侵したと聞いて来てみれば、ふん、想像以上にみすぼらしい軍営だな」
ニコルさんが感心したようにつぶやいた。
「ここまで嫌味ったらしいキャラもなかなか珍しいね」
「ですね。でも、ニコルさんの予想、ドンピシャでしたね!」
ジャラールはターバンの宝石に触れた。全身、アクセだらけだ。金とか宝石とかの、ごっついやつ。イケメン王子の趣味は、あんまりよろしくないっぽい。
「犬コロどもは足が速い。本来ならば、この広大な我が国のどこにおるやら、つかまえることができぬが、こたびはたやすかった。青犬よ、オヌシの兄は愚直だな」
チャガタイさんがうなった。
「ウルゲンチの交渉を長引かせたのは、キサマの策略か!? オレたちの居場所を確実につかむためだったんだな!」
ジャラールは、くくくくくっと悪人ちっくな笑い方をした。
「ウルゲンチのような田舎の町など、ほしければくれてやる。ただし、我が魔術のシモベを倒すことができればな! いでよ、魔人シャイターン!」
わかりやす~いことに、ジャラールが掲げた黄金のランプから怪しい光がこぼれ始めた。と同時にバトルモードが発動する。
チャガタイさんが空に向かって吠えた。
アォォォオオンッ!
慌て始めてたモブの兵士たちが、ピシッと気を付けをする。チャガタイさんは兵士たちに怒鳴った。
「退避せよッ! 魔人のチカラの及ばない場所まで、全軍退避ッ!」
ランプから現れたのは、まさしくランプの魔人だった。ムキムキの大男で、上半身は裸。ダボッとしたズボンに反り返った靴ってファッションで、とにかくデカくて赤い。
ニコルさんが魔人に杖を向けた。緑の珠がきらめいて、魔力の風が魔人を包む。
“賢者索敵”
「魔人シャイターンか。物理攻撃が効かないね。シャリンとラフの剣に魔力を宿しておかなきゃいけない」
シャイターンがマッチョなポーズをとった。そのそばで、ジャラールがアタシたちを指差した。
「ゆけ、シャイターン! ヤツらを木っ端微塵にせよ!」
そして消える、ジャラールのホログラム。
「すっごくわかりやすい悪役キャラですね~」
呆れるっていうか、むしろ感動しちゃうよ。今どき、こんな20世紀的な敵さんに出会えるとは。ニコルさんもちょっと笑って、でも、すぐに凛々しい声になった。
「ルラちゃん、少しの間、シャイターンを防いで。ボクはシャリンとラフの武器に魔法をかけるから」
「わっかりましたー!」
さーて、詠唱開始。でも、こっちが整わないうちに、問答無用でシャイターンがつかみかかってくる。
「させるかぁッ!」
暑苦しい叫びとともに、チャガタイさんが矢を連射した。右手にヒット判定を受けまくったシャイターンが動きを止める。
「チャガタイさん、ナイス!」
「ルラのためなら、この身を火に焼かれようとも熱くないぞ!」
「アナタがいちばん熱いっす」
「気を付けろ、また来るぞ!」
チャガタイさんが弓を構えて矢を放つ。
「アタシも負けてらんないし!」
山ほどの飛び道具を一気にぶっ飛ばすスキル、詠唱完了。基本的な命中率は低いんだけど、今回は的がデカいから全部ヒットするはず!
“ピコピコはんまーっ!”
全然ピコピコしそうに見えない真っ赤なトンカチの群れが、シャイターン目がけてわらわらと飛んでいく。ヒット判定と同時にピヨピヨするのはお約束。
「もっかい食らえー!」
ピコピコ、ピヨピヨ。全然美しくないマッチョ魔人が相手だから、気持ちよくボコれる。
ちょうどそのとき、ニコルさんの魔法が完成した。
“魔蔦絡剣”
シャリンさんとラフさんの剣が緑色に輝いた。ツタが絡みつく模様が浮かび上がってる。
魔力を帯びた剣を手に、すかさず飛び出していくシャリンさん。ラフさんが続く。シャイターンの巨体に剣を叩きつけては、その反動でさらに跳び上がる。あっという間に、シャリンさんとラフさんはシャイターンの頭上にいる。そして、落下の勢いを乗せた必殺剣。
“Bloody Minerva”
“chill out”
2人のコンボが決まる。痛快!
「ルラちゃん、ボクたちも続くよ!」
「はい!」
ニコルさんの足下から魔力の風が立ち上る。ふわりとなびく緑色のローブと、銀色の髪。
「そうだ。今度、ボクにも“ピコピコはんまーっ!”を教えてよ。あのスキル、覚えたいな」
「ニコルさんが“ピコピコはんまーっ!”やるんですか!?」
か、かわいすぎる……!
ニコルさんのピコハン発言でテンション上がっちゃって、魔力の消費量なんて計算せずに、ガンガン押しまくった。おかげで、今回のボス戦はほんとに早かった。スピーディクリアボーナス、いただきました♪
バトル終了の直後、シャリンさんが席を外した。現実側の誰かに呼ばれたらしくて。
「え、何よ? 今これから? ちょっと待って……わかったわ」
ため息が聞こえた。
「シャリンさん、忙しいんですか?」
「家に帰れてないのよ、最近。いつも、職場の仮眠室からログインしてるの」
「うわぁ、無茶だー。そんな状況なのに、無理やりインしてるんですね」
また、ため息。
「本当は1日じゅうでもピアズに入っていたい。1日4時間なんて制限が鬱陶しい。ちょっと細工してみたけど、この規約を突破するのは無理だったわ。アイツの命がかかってるっていうのに」
それだけ言って、シャリンさんがリップパッチの通信を切った。ログアウトしてないから、アバターはフィールドに残ってる。ニコルさんは、動かないシャリンさんとラフさんを見つめた。
「現実のシャリンも、ラフの体のそばにいるんだよ」
「介助してるんですか?」
アタシの口から、するっと「介助」って言葉が出た。介助というのは、体の不自由な人の身の回りのお世話をすることだ。看護師を目指してるアタシにとっては、とても身近な言葉。
「ルラちゃんも、もしかしてシャリンに近い立場の人なのかな?」
ニコルさんが現実世界のアタシのことを少し察したみたい。そうなんですよって話してみたかったけど、個人情報の公開は厳しく規制されてる。ピアズの決まり事や倫理を刷り込まれたAIであるチャガタイさんが、アタシたちの会話をさえぎった。
「見事な戦いぶりだったぞ、ルラ!」
笑顔の白い牙が、きらーん☆ と光る。たくましい腕がアタシのほうへ伸びてきて、問答無用で肩を抱き寄せられた。
「ちょっ、な、何ですかっ!?」
「この戦が片付いたら、嫁に来ないか?」
「どーしていきなりそうなるんですか!」
「オレは勇敢な女が好きだ」
「シャリンさんのほうが強いし!」
てか、ニコルさん、笑ってないで助けて! チャガタイさんもカッコ悪くはないけど、アタシのタイプではないんだってば!
ジタバタしてたら、思いがけず、救世主登場。硬質な美声がスピーカから聞こえてきた。
「チャガタイ、何があった!?」
フィールドに姿を現したのは、銀色の毛並みのジョチさんだ。冴え冴えと冷たいはずのオーラが乱れてる。異変を知らされて慌てて駆け付けたらしい。
プラス、ジョチさんの後ろにおまけみたいにくっ付いてきたのは、灰色っぽい毛並みのオゴデイくん。うん、名前、覚えたぞ。
チャガタイさんがアタシを解放した。ジョチさんに向けて、ニヤッと笑う。おや、今回はイヤな笑い方しないのね。戦ってストレス発散できたのかな?
「遅かったな、兄上。ホラズムの王子ジャラールが放った刺客は倒したぞ。オレと、ルラたち異世界の戦士の力でな」
ジョチさんがアタシたちを見た。透き通った色の目が、ほんの少し微笑んだ。
と。
「ラフ、どうしたっ!?」
緊迫したニコルさんの声。アタシは慌ててカメラの角度を変える。
ディスプレイの真ん中に映ったラフさんに、アタシは視線を留め付けられた。ラフさんが震えてる。シャリンさんはまだ戻ってきていない。ラフさんを操る人はいない。なのに今、ラフさんの体がガタガタ、ガタガタ、震え続けて止まらない。
「ジョチさんがいるから?」
セリフの切れ目で止まったまま、ジョチさんは動かない。ニコルさんはセリフ送りをしないまま、ラフさんのほうへ手を伸ばした。かすかな声が聞こえた。ラフさんじゃなく、アサキさんを呼ぶ声が。
ラフさんは応えない。表情ひとつ動かない。ただ震えている。ガタガタ、ガタガタと。
やがて、ニコルさんは腕を下ろした。
「ボクじゃ何もできない」
「ニコルさん……」
「シャリンの解析装置がなくても、わかるよね。ラフは確かにここにいて、データを掻き乱してる。それなのに、ボクでは力不足だ。今ここでラフのためにできることは……いや、今だけじゃない。いつもいつも、ボクは何もできない」
絞り出すように、苦しそうに、ニコルさんは言った。
何か言葉をかけてあげたい。でも、どんな言葉も浮かばない。
ジョチさんが口を開いた。ニコルさんのユーザさんがセリフ送りのボタンを押したんだ。ゲームのストーリーを進めるためと、ニコルさんの心を隠すために。
「チャガタイ、なぜオレを呼ばなかった?」
「1度、遠吠えしたぞ」
「ジャラールの魔力のせいでしょう」
オゴデイくんの推測にうなずいて、ジョチさんは、チャガタイさんの顔を見ずに告げた。
「ウルゲンチの交渉が変に長引いているのは、ジャラールの策略だったんだな? 薄々勘付いてはいたが、オマエの前では意地を張ってしまう。正直にジャラールの罠だと認められずにいた。オレの判断の誤りからオマエを危険な目に遭わせて、すまなかった」
チャガタイさんが、ひるんだような顔をする。
「まあ、その、なんだ」
オゴデイくんが、そーっと間に入った。
「とにかく、みんな無事でよかったです。ジョチにいさんも決心がついたでしょう? 戦うべきときは、戦うしかないのです」
ジョチさんはオゴデイくんの肩に手を載せた。
「オマエに任せる」
「え?」
「ウルゲンチに攻め入るとき、オマエに一番槍を任せる」
チャガタイさんがオゴデイくんの頭をぐりぐりした。
「そうだな。オゴデイが一番槍なら、オレにも文句はない。兄上だったら認めんがな!」
オゴデイくんは緩衝材なのかな? 存在感も害も毒もないって感じだもんね。
兄弟のそんなやり取りの間にも、ラフさんは小刻みに震え続けた。こんなこと言っちゃ悪いんだけど、呪いの人形みたいだと思った。不気味だ。アタシは見て見ぬふりをした。
ジョチさんが冷静な口調でシーンを締めくくった。
「とにかく軍備を整えておこう。異世界の戦士よ、オマエたちもだ。今はちょうど、旅の商人が軍営を訪れている。必要なものがあれば買い求めるといい。では、行くぞ、オゴデイ」
「はい」
ジョチさんがオゴデイくんを連れて去っていった。
「震えが止まったね」
ニコルさんがささやいた。ラフさんはもとのとおり、伏し目がちに立ち尽くした。
ブツッと音がした。リップパッチの通信が入った音だ。シャリンさんのアバターが動き出した。
「ストーリーに進展があった?」
シャリンさんの声がスピーカから聞こえてきた。痛々しいタイミングだ。ラフさんの異変、どう説明すればいい? ニコルさんが、にっこり微笑んでみせた。
「ログアウトしてから電話するよ」
ニコルさんの笑顔は、生身の人間じゃないのに、優しすぎて切なかった。
初生が瞬一に告白して、3日経った。瞬一はあのとき、初生の気持ちをわかったと言った。返事をするとも言った。
「ねえ、初生、あれから瞬一と話せた?」
初生は首を左右に振った。
「答えはもらえなくてもいいの。最初から、付き合えるはずないって、わかってた。片想いのままで十分」
「だけど、初生」
「甲斐くんの負担や邪魔になりたくない。名前を覚えてもらえて、気持ちを知ってもらえて……ぜいたくなことが叶ったって思う」
初生のため息がお弁当箱の上に落ちた。それっぽっちでぜいたくだなんて言わないでほしい。
あたしは空を見上げる。屋上庭園のガラスドーム越しに、今日は雲ひとつない。作り物みたいにキレイな色だ。ドームに投影された画像なんじゃないかと疑ってしまうくらいに。
21世紀も後半に入って、空気は昔より澄んでいるらしい。人間がガラスケースの中に入って暮らすようになった効果だ。あたしたちの世代は、あまり屋外の空気を知らない。たまたま、うちの校区は通学路の歩道だけ屋外だけど。
初生がまた、大きなため息をついた。
「大丈夫?」
「甲斐くんだったら、キッパリ断ってくれると思ってた。楽になれると思ってたのにな」
「キッパリって、そんな形で楽になんかなっちゃダメだよ」
「きっと迷惑だったよね。甲斐くんは今、恋なんて求めてないのに、わたし、自分の気持ちを押し付けてしまって……」
「そんなことないよ。っていうか、ほら、あれは事故で、もとはといえば、あたしがお節介なこと大声で言ったからだし。えっと、あたしこそ、ごめん」
友達から始めるとか、段階を踏んでサポートできればよかったのに。あたし、いつもこうなんだ。間が悪くて、間が抜けてて。
いや、自己嫌悪してる場合じゃないね。しっかりしなきゃ。あたしは無理やり笑顔をつくった。
「初生、お弁当、食べよう? 午後は風坂先生の授業なんだから」
「うん……」
「今日は実技の小テストでしょ。元気出していかなきゃ!」
おとなしい初生は、実技があんまり得意じゃない。おっかなびっくりなんだ。それ以外の勉強は、すごくよくできるんだけど。
「ねえ、えみちゃんは、告白しないの?」
「前も言ったけどさ、しないというか、できないよ。風坂先生を困らせたくないもん」
「でも、先生に告白した人の話、けっこう聞くよ。卒業してすぐに結婚した先輩の話も聞いた」
「そりゃ、普通の先生と生徒なら、あり得る話だよ。でも、風坂先生は教師が本業じゃなくて、だからこそ一生懸命、教師であろうと頑張ってる。すごい努力してるのがわかるから」
「邪魔したくない? だったら、それはわたしが甲斐くんに対して思うことと同じだよ」
「んー、同じと言えば同じだけどさ、でもねー」
好きって気持ちは、一体、何なんだろう?
あたしは風坂先生が好きで、ニコルさんも好きだけど、とにかく恋をしていて、あったかいドキドキが胸を満たすたびに元気が湧いてくる。頑張ろうって思える。
なのに、おかしなことだけど、風坂先生があたしと同じ恋の仕方をするところが想像できない。ニコルさんが、好きな女性を思い描くことで元気を奮う姿とか、何か違う気がして。
同じ想いを、同じ強さで、同じ温度で、同じ感じ方で、いだくことができるならハッピーだ。そんなふうに釣り合いの取れた両想いは、初生と瞬一の間にはイメージできる。
でも、あたしと風坂先生? ルラとニコルさん? 違うよね。
初生が、静かな声で言った。
「怖いの?」
「怖い、かもね」
「えみちゃんらしくないよ」
「そうかな?」
「付き合ってみたいって思わないの?」
「んー、それ、よくわかんない。付き合うことが、片想いの最終目標?」
初生はのろのろとお弁当箱の蓋を開けた。
「わたしにも、わからない。でも、えみちゃんが言ったんだよ? 甲斐くんとわたしが付き合えばいいって」
「それは本気で言ったよ。だってさ、瞬一には癒やしてくれる人が必要だから。で、一般的にいうと、それができるのは友達じゃなくて彼女のポジションでしょ?」
初生はあたしに応えずに、黙々とお弁当を食べた。う、2人でいるのに無言はつらい。
昼休みが終わりそうなころ、あたしと初生は屋上庭園を後にした。更衣室で体操服に着替える。
「よぉっし、頑張るぞ!」
次は風坂先生の授業! 初生には悪いけど、今はテンション上げさせてもらいます!
初生の手を引っ張って、るらるら歌いながら廊下の角を曲がる。その途端、向こうから来た人とぶつかりかけた。
「うぎゃっ。危ないなー。右側通行がルールだよ?」
相手の顔を見て足が止まる。固まったのは、相手も同じ。
「うるさいな」
瞬一だった。あたしを見て、初生を見て、あからさまに目をそらす。横顔が他人みたいに見えた。
あたしは初生の手をキュッと握った。
「瞬一、今の態度は失礼でしょ? いつまで避けるつもり? あたしは瞬一の姉みたいなものだから、あんたのそういう態度も許せるけどさ、初生に対してそれはないんじゃない?」
さすがのあたしも、ちょっとまじめに怒っちゃうよ。いい加減にしてほしい。
瞬一はそのまま行ってしまおうとした。あたしは瞬一の腕をつかんだ。硬いんだ、男の子の腕って。その腕がビクッとした。
「な、何すんだよ?」
「逃げないでってば」
初生の手が震えてる。瞬一があたしの手を振り払った。
「この間の話、答えろってのか?」
「返事するって言ったのは、瞬一でしょ?」
初生が、か細い声をあげた。
「えみちゃん、でも……」
初生が声を呑み込んだのは、瞬一がこっちを向いたからだ。あたしでさえ、ハッとした。瞬一の両目は静かで薄暗くて、だけどひどく熱い。
「いろいろ考えてはみたよ。でも、やっぱり、自分の気持ちは曲げられない。嘘をついても、遠野さんに失礼だ」
「瞬一、それって……」
「ごめん、遠野さん。おれ、遠野さんとは付き合えない。ほかに好きな人がいるから」
不意に、初生が腕を振った。乱暴な仕草だった。初生の手はあたしの手から離れていった。
初生は、キッパリと顔を上げていた。唇は震えていた。
「わかってた。甲斐くんの気持ちは知ってた。わからないはずないよ。ずっと隣にいたわたしが、気付かないわけない」
「わかってたって? 初生、何のこと?」
「わかってないのは、えみちゃんだけ。誰も何も言わなければよかった。知らんぷりのままがよかった。壊れずに済んだのに」
初生の声は震えながらも落ち着いている。覚悟というより、絶望してるみたいに聞こえた。
瞬一が、もう1回、ごめんって言った。
「聞いてないふりすればよかった。だけど、黙ってられなかったんだ。こいつがバカすぎて」
こいつっていう瞬一の独特の言い方は、あたしを指すときの。
「あたしが、何でバカ?」
「こんだけ状況わかってなかったら、バカだろ?」
「はい?」
瞬一は吐き捨てた。
「おれが好きなのは、笑音だ。だから、遠野さんとは付き合えない」
何を言われたのか、わからなかった。頭も体も固まって、息が止まった。
初生の声が聞こえた。歪んだ声だった。
「えみちゃん、ほんとに、わかってなかったの?」
泣いてるようにも笑ってるようにも聞こえた。
瞬一が立ち去っていく。足音。後ろ姿。あたしの頭を揺さぶる残響。叩き付けられた言葉。
あたしは立ち尽くしてる。
初生があたしに背中を向ける。歩き出す。途中から走り出す。足音と後ろ姿が遠ざかる。ねえ、ちょっと待って。
あたしは取り残されている。
「まっ……」
やっと声が出た。誰の耳にも届かなくなってから、やっと。
体から力が抜ける。へなへなと座り込む。廊下が冷たい。瞬一の言葉と初生の絶望の意味が、じわじわとわかる。
初生は瞬一のことが好きで、瞬一はあたしのことが好きで、初生は瞬一の気持ちをわかってた。
誰も何も言わなければよかったと、初生が吐き出した後悔の言葉が刺さってくる。
あたし、バカだ。あたしのお節介のせいでこうなった。初生はあたしを責めてる。嫌ってる。
瞬一は何を思っただろう? あたしのバカさ加減に、呆れるよりもっと深く、いっそ失望しただろうな。
あたしが2人を傷付けた。あたし、なんでこんなにバカなんだろう?
唇を噛んだ。床しか見えない。人工の木目がにじみ出す。
ふと。
「甲斐さん、大丈夫?」
思いがけない声があたしを呼んだ。柔らかくて伸びやかで優しい声。あたしは顔を上げた。風坂先生があたしの前に膝をついた。
「か、風坂先生……」
「偶然、聞こえちゃったんだ。立ち聞きみたいなことして、ごめんね」
あたしはかぶりを振った。風坂先生の笑顔は温かすぎて、声を出したら涙まで一緒に出てしまいそうだ。イヤだ、泣きたくない。
「ぼくでよければ、話を聞こうか? 放課後になってしまうけどね。それでもいいかな?」
どうしてそんなに優しいんですが?
「立ち聞きしたお詫びにね。実は、特進科の甲斐くんとは、たまに話すんだ。甲斐くんは甲斐さんの……って、紛らわしいな。瞬一くんは笑音さんのいとこなんだよね?」
下の名前で呼ばれた。こんなときだっていうのに、あたしの心臓はドキドキと、身勝手に高鳴った。
風坂先生にそっと肩を叩かれて、あたしは立ち上がった。授業を受ける教室へと、支えられるようにして歩いた。
初生は結局、風坂先生の授業に出なかった。小テストだったのに。
でも、成績の心配は無用だった。風坂先生は、いつもの縦長なえくぼをつくって言った。
「今日うまくできなかった人は、欠席している人と一緒に、3日後に追試です。絶対、全員を合格させるからね」
風坂先生の出す課題は簡単で、採点はちょっと辛い。落第させるのが目的みたいな難しいテストがない反面、技術を徹底的に身に付けるまで合格が出ない。
授業の終わりに、風坂先生はあたしに告げた。
「放課後、片付けを手伝ってもらえるかな? 実習に使った人形や道具を倉庫に運ぶから」
そういう仕事、普通は男子が声を掛けられる。でも、今日は特別。風坂先生はあたしの話を本当に聞いてくれるんだ。
「わかりました。お手伝いします」
あたしはちゃんと笑顔で答えた。その後の授業も、初生は出なかった。早退したみたいだった。
放課後、あたしはナースⅢ実習の教室に戻った。
「失礼します」
「どうぞー」
風坂先生がメガネをかけ直して、あたしに微笑みかけた。メガネを拭いていた布を、シャツの胸ポケットに押し込む。
あたしは教室を見回して、首をかしげた。
「先生、あの、片付けるものは?」
「もう片付けたよ。重さ50キロの人形を女の子に運ばせるわけにはいかないって。最終コマは授業が入ってなかったし」
最後が空き時間だったってことは、ほんとは放課後を待たずに帰れたんだ。
「なんか、スミマセン」
風坂先生は適当な椅子に腰を下ろした。あたしは風坂先生に手招きされて、隣の席に着いた。風坂先生は、ふふっと笑った。
「教室のこっち側って、ずいぶん久しぶりだ。授業をするときは、あっち側だもんな」
「え?」
「普段ぼくが立つあっち側は、大人の側で教師の側。本当は全然、大人なんかじゃないのにね」
大人ですよ、先生は。たくさん気遣いできる人だもん。あたしはバカで無神経で、頼りなくて情けない子どもで。
風坂先生は、沈黙を作らないリズムでしゃべってくれる。
「特進科の甲斐瞬一くんは、医学部志望だよね?」
「はい」
「狙ってるのは、響告大医学部の先端医療学科。それ以外は眼中にないって言ってる」
「知ってるんですね、瞬一のこと」
瞬一が目指す響告大学医学部の先端医療学科は、パパが「挑戦」を叶える研究機関だ。
パパの病気、ALSを治せる可能性があるのは、万能細胞を使った最新の先端医療だけ。響告大医学部は、万能細胞医療の臨床では世界でトップレベルだ。
「実はね、ぼくの妹がそこで研究してるんだ。響告大医学部の先端医療学科、万能細胞研究のラボで」
「それって、瞬一の志望してるとこ……!」
「うん。だから、ときどき瞬一くんと話をするんだよ。1度、妹の研究室に連れて行ったこともある」
風坂先生はあたしを見ている。露骨に観察するわけじゃなく、でも細心の注意であたしの様子をうかがってる。
介助士の目だな、って感じた。相手が何を望んでいるか、どうすれば苦痛がないか、読み取ろうとしている。
あんまり気を遣わせるわけにはいかないよね。あたしはバカだけど、ちゃんと自力で立てるんだから。
あたしは笑顔をつくった。
「瞬一から、志望校の理由、聞いてますか?」
「具体的には何も」
「そうですか。瞬一があたしの家に住んでるって話、聞きました?」
「それも初耳だよ。妹はいろいろ聞かせてもらったらしいけど。瞬一くんとぼくの妹、タイプが似てるから、話しやすかったみたいで」
「きょうだいとして育ったんです。あたしが姉で瞬一が弟。瞬一はああ見えて、抜けてるところもあるんです。世話、焼かなきゃいけなくて」
だから、信じられない。あたしが風坂先生の前で抱えるドキドキを、瞬一がいつも、あたしに対して感じてたなんて。
毎日、同じ家で顔を合わせて、家族同然で、それなのに、あたしは何も気付いてなかった。瞬一は気付かせてくれなかった。
風坂先生は、癖っぽい髪を掻き上げた。
「遠野初生さんは、瞬一くんのことが好きなんだね? その……告白、したの?」
「あたしが余計なこと言ったのを、瞬一が偶然、聞いたんです。初生と瞬一が付き合えばいいって」
「間が悪かったんだね」
「あたしのお節介な一言のせいで、初生が瞬一に告白することになりました。それで今日、返事を先送りにしてた瞬一が答えて」
「その場面を、ぼくが聞いてしまったわけか」
風坂先生は困ったように眉尻を下げた。
「巻き込んで、ごめんなさい」
「いや。まあ、悩むよね」
「どうすればいいか、わかんないんです。初生には嫌われたし、瞬一には今まで以上に避けられるだろうし。自分のバカさ加減が、ほんとにイヤです」
あたしはいつの間にか下を向いていた。
ふわっと、あたしの頭の上にぬくもりが載った。手のひらだ。風坂先生の手のひら。
懐かしい感触だった。昔、あたしがべそをかくたび、パパがよくこうしてくれていた。
「えみ、いじけた顔をして、どうしたんだ?」
頭を撫でてくれる手のひらは大きくて温かくて、あたしは顔を上げる。あたしの前にいるのは、パパじゃなくて風坂先生。
ドキリと、あたしの心臓が大きく打った。
風坂先生は「あっ」と小さく声をあげた。苦笑いで、手を引っ込める。
「ごめんね、笑音さん。つい、妹にするみたいなことをしてしまって」
そっか。妹さんか。あたしもパパのこと思い出しちゃったけど。
あたしは、背が高くて優しくて年上で声がステキな人が好きで。その根っこにあるのはパパの存在だって、急に気付いた。
「風坂先生って、うちの父の若いころに似てます。あたしがちっちゃかったころの父に」
もちろん、風坂先生のほうが何倍もイケメンだけどね。風坂先生は苦笑いのまま言った。
「年齢的にも、そんなもんかもしれないな。31歳ともなれば、小さい子どもがいてもおかしくない」
どさくさまぎれに訊いちゃおうかな。
「先生は、結婚とかしないんですか?」
「相手がいないよ。ずーっと、それどころじゃなかったんだ。今も引き続き、それどころじゃないし」
「仕事のためですか?」
風坂先生が普段の笑い方をした。その表情、あたしにはわかる。「絶対に笑顔でいよう」って、悲しみを閉じ込めるための笑い方。
先生は何かを背負っているんでしょう? なぜだかわからないけど持たされちゃってる、運命の大荷物。
「ぼくがヘルパーになった理由は、親友のためなんだ」
「親友、ですか?」
「最初にあいつの車椅子を押してから、もう10年になる。あいつがぼくの人生を導いてくれたんだよ」
過去形だ。
「大切な人のお世話や介助をするのは、つらい仕事ですか?」
覚悟してなきゃいけない。パパが手助けを必要とする体になったとき、あたしは笑っていたいから。風坂先生がいつも笑ってるみたいに。
「いろいろ思ってしまう、かな。ぼくも浮き沈みするよ。あいつには全部、見抜かれてた」
「笑顔でも隠せませんか?」
「隠すことは難しいな。機能を喪失していくあいつを見てることしかできない。治してやることができない。不甲斐なかった」
風坂先生の経験は、あたしの未来だ。あたしもきっと、先生と同じことを経験していく。
「瞬一は、治したいって考えてるんです。先端医療を勉強して、難病を治せるお医者さんになりたいって」
「頑張ってほしいね」
風坂先生の柔らかな声は、切実に響いた。
それからもう少しだけ、風坂先生と話をした。あたしが料理苦手なこと。反対に、風坂先生は家事全般が完璧だということ。
「ぼくは妹と2人暮らしなんだけど、妹は、料理は全然しないんだ。全部ぼくが作ってる」
いいなぁ、妹さん。風坂先生の手料理、食べてみたい。エプロン似合いそう。
風坂先生が料理してるところを想像したら微笑ましくて、笑えてきた。そんなあたしに、風坂先生はホッとした顔を見せた。
大丈夫だ。
初生のことも瞬一のことも、1つも解決してない。でも、あたしは元気が出た。まだ笑顔で頑張れる。
風坂先生、ありがとうございます。