今まででいちばんの長期戦だった。一瞬も気を抜けない消耗戦だった。
ケアは苛立っていた。わずらわしそうに地団駄を踏む。その衝撃すら、油断ならないダメージを生む。
ニコルはひっきりなしに呪文をかける。使役魔法の一種だ。対象の筋肉を麻痺させる魔法。でも、ケアは大きい。何度重ねて呪文をかけても、ケアの動きはわずかに鈍る程度。
ラフはケアの背中に取り付いて、双剣を振るっている。チクリチクリと、針で刺すような攻撃。
鱗を剥がして皮膚を露出させるつもりなんだ。ニコルの寄生植物を植え込めば、じわじわと体力を削ることができるから。
アタシの役目は、ケアの気を引いて攪乱すること。ケアの視線の先を走り回る。
打ち振るわれる竜の前肢をかいくぐる。前肢に剣を叩き付ける。何度も繰り返す。ケアにとっては、小さな小さなダメージだ。爪のあたりにチクチク刺さる棘でしかない。
「でも、バカにしないでよね。爪って、剥がれると痛いのよ!」
アタシはコマンドを叩き込む。細身の少女剣士のスキルの中で、いちばんの馬鹿力を引き出せるのは、剣を闘志でぶっとい槍に変化させて。
“Bloody Minerva”
渾身の力でケアの前肢に突き入れる。
ケアの前肢の、中指の爪と肉との間に、深々と剣が突き刺さった。何十回目かの攻撃で、初めて手応えがあった。
ケアは悲鳴をあげた。斬り払われた爪と青い光のような血が雪の上に落ちた。
「よ、よしっ!」
鈎爪の一本を失ったケアは、真上からアタシをにらんだ。苦痛と怒りのまなざし。青く血走った目の圧倒的な迫力。
まずい。本気で攻撃される!
カッと開いた巨大な口が、尾の一振りが、さらに次は、後肢、尾、前肢、前肢、口が、アタシを襲う。
「このぉ! キリがないじゃない!」
かわすだけで精いっぱいだ。かわしていてさえ、ダメージ判定。風圧と衝撃波が、じりじりと、アタシのヘルスポイントを削る。ダメージだけじゃない。激しく動き回るほど、スタミナポイントは消費されていく。
ケアの背中によじ登ったラフが、必死に双剣を振るってる。魔力の風を立ち上らせながら、ニコルが呪文を唱え続ける。
それでも状況は好転しない。ケアのヒットポイントは減っていかない。クリティカルヒットを繰り出しても、弱点のはずの炎属性で攻めても、バトルの先が見えない。
だんだんと、アタシの胸が塞がっていく。黒々とした絶望が見え始めてる。
ダメかもしれない。
何百回も振るい続けた剣が、ついに、へし折れた。
ニコルが雪の上に膝をついた。魔法が途切れる。ケアの全身がまばゆい銀色に輝く。
翼が打ち振るわれて、冷風が生じた。激しい動きと、すさまじい風圧。ラフが吹っ飛ばされる。
銀髪を振り乱して、ニコルが再び呪文を唱え始めた。雪に突っ伏したラフは動かない。
負けたら、ホヌアからハジかれる。今までホヌアを旅した記録は、なかったことになってしまう。ラフとニコルと一緒に駆け抜けた、かけがえのない冒険の記録が。
「イヤだ。そんなのは、絶対に、イヤだ!」
ケアの巨大な頭がアタシに迫る。カッと開かれた巨大な口に向けて、アタシは跳んだ。ケアの口に飛び込む。白銀の舌がアタシをとらえる。
剣身が半分になった剣を、アタシは連続で振るった。
“Wild Iris”
“Cruel Venus”
“Cruel Venus”
闇雲に、めちゃくちゃに、これ以上ないスピードでコントローラを叩く。
ケアが絶叫した。
アタシは、千切れた舌と一緒に吐き出された。白銀の舌は青い光となって消滅する。肉体の一部を失ったケアのヒットポイントが、目に見えて減った。
折れた剣はどこかに飛んでいった。
「ざまー見なさい!」
アタシは強がった。でも、もう武器がない。
「……ヤベぇ。やられたかと思った」
ラフは、雪の上に腕を突っ張って、ゆっくりと体を起こした。
「アンタ、まだ無事?」
アタシはラフを振り返った。ラフは立ち上がった。
「やっぱ、ケアの設定をチートにしすぎちまったか。まあ、いいさ。オレには奥の手があるんだし」
ラフは笑った。胸が痛くなるような、キレイな笑顔。
アタシはハッとした。呪いのリミットは、あと一回。それを発動したら、ラフは。
待って!
アタシが叫ぶのよりも先に。
「バイバイ、シャリン姫さま」
呪いの力が解放された。
野獣の雄叫びが響き渡った。空の青と雪の白のフィールドが赤黒くひずんだ。
あたしのコマンドに、シャリンが反応しない。ストーリーモードで自動的にムービーを見せられるときと同じように。
フィールドいっぱいに走る白い稲妻。CGの乱れが、衝撃波と同じ判定にすり替わる。アタシとニコルは雪原の上に倒れた。顔を上げる。
ラフの全身が赤黒い稲光をまとっている。パリパリと、放電するような音をたてて、アバターがほどけかけている。
「うそでしょ……」
その狂気的な姿は、もう、ラフじゃなかった。
赤黒い紋様に埋め尽くされた顔。ひときわ赤い光が二つ。優しい黒さを失った、ラフの両眼。
ひびの入ったシルバーメイルを、ラフは簡単に破り捨てた。四つん這いみたな、低い構え。両腕に双剣。双剣は、まるで野獣の爪。
「V_gRggggg_RRRRRRRR」
巨大すぎる爪を振りかざしながら、ラフは走った。
銀剣竜ケアの存在を規定するプログラムが破綻しかけてる。CGが動作するたび、粒子みたいな細かなブロック片が飛ぶ。
バグがフィールドじゅうに起こっている。呪いの姿だ。
「呪いが、ありえないほど強いステータスをもたらすのは……プログラムに、直接干渉できるから……」
アタシのつぶやきにさえ、ノイズが混じった。下手に動いたら、バグに巻き込まれてしまう。シャリンのデータが壊れることが、怖い。
ラフが踏みしめた雪原が、ミシリと音をたてて色調を反転した。闇色に放電しながら、データが回復されない。
「D_ZtRoOOOOOOooooooooyyyyyyyiii__」
声とも呼べない、ラフの咆吼。
ラフはケアの尾を踏み台にして跳躍した。白銀の背中を目がけて落下する。
ギラリ。
爪のような双剣が振り回された。ケアの鱗が、やすやすと、えぐり取れられる。鮮血の代わりに青い光が噴き出す。色調が反転する。ピシリと、ケアがフリーズする。
ラフは舌なめずりをする。異様に長く伸びた舌。獰猛に尖った歯。
ケアの動きが再開する。ラフの攻撃が再開する。竜が悲鳴をあげる。野獣が哄笑する。
ラフは二本の剣を竜の背中に突き立てた。鱗が破れ、刃が深々と肉に沈む。ラフは、突き立てたままの大剣を引きずって走った。
ケアの背中に二筋の傷が走った。傷は、四肢の付け根の動脈に交わった。急所が切り裂かれる。青い光が噴き上がる。
「ケアのヒットポイントが……」
減っていく。みるみるうちに、ゼロに近付いていく。
ほんの数十秒だった。狂気の野獣に変わり果てたラフが巨大な竜を殺戮するまで、本当に、あっという間のできごとだった。
バトルモードが解除された。ストーリーモードのフィールドがアタシの前に現れる。もう、CGは乱れていない。これはラフが書いたシナリオの中だ。
双剣がケアの両眼に突き立っていた。折れた角、むしられた鱗。翼と四肢と尻尾を斬り落とされた姿。ケアの喉が、ぜいぜいと、耳障りな音をたてる。
「殺せ……」
誇り高い竜がすがるように言った。アタシは、ケアの姿を見ていられない。
「ラフ、やめてあげて」
黒髪の野獣はケアの背中で、傷口からあふれる血をすすっている。
アタシはケアの鈎爪を拾い上げた。重く尖った鈎爪の先端をケアの喉に押し当てる。鱗を失った首に、鈎爪が食い込む。
「さよなら」
青い光が噴き出して、ケアは事切れた。
無惨な死骸は次の瞬間、圧倒的な光と風を発する。
画面いっぱいに白い光が満ちる。あたしは目を閉じた。シャリンが風を受ける振動が、コントローラに伝わってくる。
あたしは待った。やがて、コントローラの振動が収まる。風が収まったんだ。目を開ける。光も収まっていた。
ケアの巨大な死骸は消えてなくなっている。純白の雪原。踏み荒らされた痕跡すら、残っていない。
雪原の上の空中に一本の剣が輝いている。
「あれがポリアフの剣?」
細くまっすぐに伸びた刀身は、アタシが愛用する剣にも似ている。軽やかで、優美で、神秘的な剣だ。
アタシはポリアフの剣のほうへ、一歩、進み出た。
そのとき。
「シャリン、危ない!」
ニコルが叫んだ。
横合いから衝撃が来た。アタシは雪の上に転がった。吹っ飛ばされた体を、荒々しい手が引きずり寄せた。
「え……」
らんらんとした赤い目が、それはそれは楽しそうに、アタシを見下ろしている。アタシは首を絞められて動けない。
「SH_N_e」
野獣の口が人の言葉を発した。
死ね? 殺されるの? アタシ、ラフの手で殺されるの?
「やだ、なにこれ! コントロール利かない」
あたしは焦って、でたらめにコマンドを入力した。まただ。シャリンが反応しない。あたしは唇を噛んだ。
「これがシナリオだっていうの? 何がやりたいのよ、ラフ!」
アタシは自分に迫る赤い目をにらみつけた。
そんな時間が、数秒。
突然、野獣の体が浮き上がった。アタシの体が解放される。
「どういうこと?」
アタシは肘をついて上体を起こした。
野獣は緑色のツタに縛り上げられていた。憤怒に顔を歪めて、からみつくツタを引きちぎろうとする。ツタは、ズタズタにされるそばから猛烈な勢いで再び伸びる。
人の言葉をなさない呻き声が、雪原を這い回った。ラフの口から漏れるのは、もう、あの繊細な声じゃない。
「違う。こんなのラフじゃない。アタシの知ってるラフじゃないわ」
目の奥が熱い。涙があふれた。
聞き慣れた明るい声が、くすくすと笑った。
「うん、そうだね。コレはもうラフじゃない。この世界での存在を許されない、哀れな化け物だよ」
もがく野獣の体の向こうで、少年とも少女ともつかない声が笑ってる。
「ニコル?」
「でも、コレのデータを消しちゃうなんて、もったいないでしょ。せっかくここまで一緒に来たのに。だから、こうしちゃうのはどうかなあ?」
赤黒い紋様が隙間なく刻まれた胸から、白銀の刃が飛び出した。野獣の赤い目が見開かれる。
「……何が、起こったの?」
野獣の胸から飛び出した白銀の刃。細身の剣の切っ先だ。
切っ先は真っ白な冷気を発した。赤黒い皮膚が、ぴしぴしと音をたてる。音をたてて凍っていく。
ニコルが、凍結していく野獣の体から、後ずさって離れた。
「刺したの? ポリアフの剣で、ラフを刺したのね?」
ニコルが静かに微笑んでいる。
「だって、これがラフの望みだもの」
アタシの目の前でラフが凍る。赤黒い紋様はそのままに、鍛えられた長身が、一文字傷の右のほっぺたが、長い黒髪が、凍る。
見開かれた赤い目に、柔らかな水が盛り上がった。水は、赤い狂気を溶かした。ラフの目から、赤い涙がこぼれ落ちた。
黒い瞳が、一瞬だけ、強く強くアタシを見つめた。
そして。
ラフは完全に凍結した。
ニコルが言う。
「シャリン、これがラフの望んだ結末だったんだよ。ラフは……」
言葉の途中で、アタシはニコルを殴り飛ばした。軽い体が雪の上に倒れる。アタシはニコルにつかみかかった。馬乗りになって、胸倉を押さえる。
「このぉ!」
右手を振り上げる。ニコルは叫んだ。
「待て、麗!」
うらら? あたしは画面の前で固まった。
「なんで、あたしの名前……」
「頼む、麗、話を聞いてくれ」
ニコルがあたしに訴える。あたしはシャリンの口で、ニコルである何者かに訊く。
「誰なの? アンタ、誰なのよ?」
「ごめん! ぼくが黙ってることが多すぎて、麗のことを傷付けたかもしれない。謝る。だから、ぼくの話を聞いてくれ」
ニコルの口調が違う。これが「中の人」の、本当の話し方? 似ても似つかない声なのに、アタシには、わかった。
「おにいちゃん……」
真ん丸な緑の目を持つ少年キャラは、コンピュータ合成の子どもの声で、おにいちゃんの言葉を告げた。
「麗、夕方六時に夢飼いに来てくれ。全部、話すから」
おとぎ話の冒険ごっこは、終わった。
指定どおりの夕方六時、夢飼いで、あたしはおにいちゃんと合流した。おにいちゃんは人払いをするみたいに、店員に素早く告げた。
「紅茶二つ、お願いします」
そして、タブレットPCを立ち上げた。あたしの目の前で『PEERS' STORIES《ピアズ・ストーリーズ》』を起動して、データをロードする。
「ニコル……」
おにいちゃんが登録しているアバターは、銀色のおかっぱに緑色の大きな目の、魔術師の男の子。ざっと流して見せてくれたゲームデータも、まぎれもなく、一緒にホヌアを旅した記録だった。
「黙っててごめんね」
低い声で、おにいちゃんは言った。
おにいちゃんは謝らなくてもいい。
「ホッとしたわ」
「麗?」
「たくさんのことをしゃべった相手がおにいちゃんでよかった。現実の世界で、ちゃんと向き合って話さなきゃ、いけなかったけど。そうすることが、できなくて……」
「うん。麗の口から聞かせてもらいたかった。だけど、シャリンが話してくれてよかったよ」
いつでも聞くからって言ってくれた。おにいちゃんも、ニコルも。同じように、優しくてお人好しな笑顔で。
紅茶が運ばれてくる。少しの間、あたしとおにいちゃんは口をつぐむ。
「ねえ、おにいちゃん。ラフは誰なの?」
あたしは質問する。答えの予測はついてる。予測が外れてほしいと思ってる。でも、きっと外れてはいない。
おにいちゃんは静かに答えた。
「飛路朝綺《とびじ・あさき》って男だよ。ぼくの利用者さんで、親友の、朝綺」
やっぱりそうだった。ひたひたと、絶望のようなものがあたしの胸に満ちていく。
「おにいちゃんの、利用者さん」
「そうだよ」
「介助が必要な人ってことね。夜の間、人工呼吸器をつけてる人」
「朝綺は、電動車いすでの生活だよ。初めて会ったころは、もっと体の自由が利いた。進行性の病気なんだ」
「進行性って? 症状がどんどん進んでしまうの? 治療できないの?」
おにいちゃんは目を伏せた。
「今の医療技術では、まだ、できない」
「どうして?」
「麗は筋《きん》ジストロフィーって病気、知ってるか?」
「知らない」
おにいちゃんは、タブレットPCのツールを切り替えた。
ディスプレイに二枚の筋電図が表示される。あたしは、生物学や医学はあまり履修してない。でも、その「絵」は常識レベルの教養の一つとしてインプットされてた。
「紡錘形をした筋繊維。骨格筋ね」
一枚の図は、正常な骨格筋。教科書で見たとおりの筋電図。
もう一枚は、糸みたいにやせ細った骨格筋。繊維の一本一本が細いだけじゃなくて、その数が極端に少ないせいで、スカスカしている。
「こっちの、異常なほうの図が朝綺だよ。筋ジストロフィーの症状が、これなんだ。年齢を重ねるにつれて、どんどん筋繊維が壊れていく」
「でも、筋繊維が壊れること自体は、生物として当たり前に起こるわ。筋肉痛って、そうでしょ?」
「うん。当然の現象だよ。通常、筋肉痛はほっとけば痛みが引いて、傷付いた筋肉が修復される結果、前より大きく成長するよね。でも、朝綺には、壊れた筋繊維を補修する力がない」
「補修できない?」
「遺伝子がそうなってるんだ。筋繊維の補修を命令するはずの遺伝子が、異常を起こしてる。生まれつきの疾患でね」
おにいちゃんは顔色を悪くしたまま、淡々とした口調で説明する。親友だという朝綺の、致命的な病気について。
「おにいちゃん、この病気、進行性って言ったわよね?」
「そうだよ。筋萎縮と筋力低下が徐々に進む。どこから症状が出始めるかは人によるんだけど、朝綺は胴体に近い部分から先端に向けて、順に動かせなくなってきてる」
おにいちゃんが自分自身の体を指差す。
最初に胴体。次に肩や二の腕、太もも。肘、膝。手首、ふくらはぎや足首。そして、つま先、指先。
「筋肉がどんどん衰えて、修復されなくて、動けなくなるの?」
「首から下だけじゃなくて、顔もね。表情筋や舌の筋肉。笑えなくなる。しゃべれなくなる。食べられなくなる」
「うそ……」
「最終的には肺と心臓も動かなくなる。呼吸も鼓動もできなくなって、死に至る。筋ジストロフィーはそんな病気だ」
残酷すぎる。
おにいちゃんはタブレットPCを操作した。骨格筋の図が消える。
海へと沈む夕日の写真がデスクトップ画像だった。ううん、海から昇る朝日かもしれない。おにいちゃんは橙色の海の写真から目を上げない。
「朝綺はもう、肘より上が動かない。膝より上も動かない。四つん這いすらできなくなった。大学時代に一緒にゲームを作ってたころは、自力で車いすを転がしてた。そうやって、よくこの夢飼いにも来てたんだ」
「おにいちゃんの大学時代って、三年から七年前でしょ? そのころは動けてて、今は動けない? そんな速さで症状が進むの?」
「筋ジスの患者さんの平均寿命は二十代っていわれてるよ」
「やめてよ……」
イヤだ。そんな簡単にラフがこの世からいなくなっちゃうなんて。
おにいちゃんは、冷めた紅茶を口に運んだ。強すぎるお酒でも飲んだみたいに、眉間にしわを寄せる。
「朝綺はゲーム作りの最高のパートナーだった。ストーリーは二人でアイディアを出し合って考える。あいつはプログラミングとBGMが得意で、ぼくはCGとキャストを担当。講義のレポートはそっちのけで、遅くまでボックスにこもってた。毎日ワクワクしてた」
おにいちゃんが大学時代の思い出話をするのは珍しい。朝綺って名前が出てきたのは初めてだ。
きっと、話したくても話せなかったんだ。楽しい記憶は必ず、親友の不治の病と隣り合わせだから。
おにいちゃんはひとつひとつの言葉を噛みしめながら、ニコルとは違う低い声で続けた。
「いつの間にか、あいつを手伝うべき場面が増えてた。あいつは強がりで意地っ張りでプライドが高くて、人の手を借りるのが苦手なのにさ、ぼく相手なら、わがままを言うんだ。だから、ぼくは朝綺のヘルパーになった。天職だよ。あいつといると、楽しいからさ」
あたしは右手の親指に噛みつく。血の味がした。
「どうして?」
「ん? 何が?」
「どうして、その病気、治せないの?」
メカニズムがわかってるのに対策がないなんて、悔しすぎる。なぜそれが不可能なのか、問いを解く鍵はないのか、あたしは知りたい。
おにいちゃんが顔を上げる。メガネの奥の目が潤んでる。
「筋ジストロフィーを完全に治すには、二種類の治療が必要なんだ。一つが、破壊された骨格筋の細胞を、正常に再生する治療。もう一つが、筋繊維の修復を司令する遺伝子を、補完する治療」
「骨格筋の再生と、遺伝子の補完」
「筋肉を治す薬はすでにある。でも、筋肉の修復だけだと、いたちごっこだ。修復のレベルにも個人差があるし、部位ごとの差まであって、効果的な延命法ともいいがたい。遺伝子のレベルから徹底的に治療しないといけない」
「今の医療技術で、できないことなの?」
「もう一歩のところまで来てるんだよ。麗、この間ここで話したこと、覚えてる? ぼくが大学で研究してみたかったテーマの話」
あたしはうなずいた。
「覚えてるわ。万能細胞の一種であるジャマナカ細胞のこと。ジャマナカ細胞なら、どんな器官にも分化できる。そっか、骨格筋細胞にもなれるんだ」
「そう。それだけじゃない。ジャマナカ細胞を使えば、遺伝子治療が可能なんだ。遺伝子っていうのは、人ひとりずつ固有に持っている『命の設計図』みたいなものだ。ぼくの細胞には、体のどこから取った細胞であっても、ぼくだけの設計図が必ず入っている」
「命の設計図。ラフは病気だから、設計図におかしいところがある。ジャマナカ細胞を使ったら、設計図を直せるの? それが遺伝子治療?」
「患者さん由来の細胞からジャマナカ細胞を培養して、遺伝子の欠陥を補った上で、患者さんの体に戻す。拒絶反応が起こらない、オーダーメイドの遺伝子治療をするんだ。多くの難病は遺伝子の異常が原因だから、その異常を自力で修正できるようになれば……」
「不治の病が、オーダーメイドの遺伝子治療を使えば、治せる病になるのね。すごい」
おにいちゃんがうつむいた。透明な涙が一粒、流れ落ちた。
「憧れてたんだよ、不治の病を治す医療に。高校時代、もっと勉強すればよかったな。響告大の医学部に受かるくらい、必死でやればよかった。そしたら、朝綺の病気を治す手助けができたかもしれないのに」
「おにいちゃん……」
「ごめん、麗。でも、悔しいんだ。どうしても、悔しくて仕方ないんだ。ぼくには、朝綺を本当の意味で助けることができない。生活のサポートをしたり、一緒にゲームをしたり、そんな便利屋にしか、なれない」
ラフとニコルが補い合って戦ってた姿を思い出す。
まっすぐに突っ込んでいくラフ。後ろから完璧にサポートするニコル。二人の関係は、現実でもピアズでも、同じだったんだ。
「あたしも悔しい」
おにいちゃんの気持ち、知らなかった。ラフの本当の願い、気付いてなかった。
今、ようやくわかった。コマンドを受け付けなくなってしまうラフの呪いは、朝綺のどうしようもない病気を意味してたんだ。
あたしは両手の指をギュッと組み合わせた。傷付ききった右手の親指がズキズキする。痛い。こんな小さなケガなのに、現実だったら、こんなに痛い。
「おにいちゃん」
「ん?」
「あたし、ラフに……飛路朝綺って人に、会ってみたい」
おにいちゃんは、涙でキラキラする目を見開いた。その目が優しく微笑む。
「そう言ってくれると信じてた。ありがとう。きっとあいつ、麗に会えたら喜ぶよ」
それからあたしは、二日、待たされた。
一日目は、月に一度の定期検診だと言われた。二日目は、髪を切りに行くのだと言われた。
三日目の早朝、あたしはおにいちゃんに連れられて、飛路朝綺の家へ行った。
バリアフリーに改造された中古マンションの一室で、朝綺は一人暮らしをしてる。
部屋じゅう、あちこちに手すりが付いている。家具がすべて壁や床に固定されてるのは、家具も手すりの役割を果たすからだ。朝綺の体が今より自由だったころは、手近なものにつかまって動き回ってたらしい。
あたしとおにいちゃんが朝綺の部屋に行ったとき、朝綺はまだ眠っていた。
「寝顔、見てみる?」
おにいちゃんがいたずらっぽく訊いてきた。あたしはうなずいた。
「ラフ……」
一目でわかった。朝綺はラフにそっくりだ。違う。ラフはやっぱり、朝綺の姿を3Dスキャンして作られたキャラだったんだ。
閉ざされたまぶた。男のくせに長いまつげ。人工呼吸器の半透明のマスクに覆われた、鼻と口の形。ちょっとシャープで、ほとんど完璧な、フェイスライン。
でも、ラフのほうがずっと日に灼けてた。朝綺は、透きとおってしまいそうに色が白い。朝綺の髪は、ラフみたいな伸ばしっぱなしじゃなくて、つい昨日切ったばっかりだから、きちんと整えられてる。
目覚まし時計が鳴った。おにいちゃんが声をかけた。
「おーい、朝綺ー。そろそろ起きろー」
朝綺は少しの間、目を閉じたまま、顔をしかめてた。起きたくないって、無言の抵抗。子どもっぽい。
目覚ましが鳴り続ける。朝綺の枕元だ。でも、腕の上がらない朝綺には遠すぎる場所。
「ほら、起きろってば」
おにいちゃんに繰り返し言われて、朝綺がかすかに声をあげた。
「……起きてる……」
ラフの声だ。
朝綺は、起きたとか言いながら、まだ目を閉じてる。朝綺の手がグリーンのシーツの上を動いた。ベッドに固定されたリモコンのタッチパネルを操作する。
ベッドの背もたれごと、ゆっくりと、朝綺が起き上がる。おにいちゃんが目覚まし時計を黙らせた。
朝綺はまつげを震わせながら目を開いた。キラキラと、漆黒のまなざし。なつかしくなるような、あの顔立ち。
あたしは、ポシェットの肩ひもをギュッとつかんだ。朝綺がおにいちゃんを見て、それから、あたしを見た。目が大きく開かれる。
おにいちゃんが人工呼吸器のマスクを外した。
朝綺は微笑んだ。照れ笑いみたいな、生きた表情。白い歯がこぼれた。
「おはよう。初めまして」
ラフと同じ声で、朝綺は言った。
「は、初め……まして……」
朝綺に会ったら、笑おうと考えてた。でも、あたしのほっぺたはうまく動かなかった。あたしは不機嫌な顔で、朝綺と向き合ってる。
「お姫さまって、シャリンそのままなんだな。顔も表情も声も」
朝綺は嬉しそうだった。
朝綺は、二の腕や太ももの筋肉がもうほとんど動かない。パジャマから着替えるのにも介助が必要ってことで、あたしは寝室の外へ追い出された。
「ど、どうしよう……」
思考がストップしてる。ポニーテールの先っぽをいじり回しつつ右手の親指に噛みつきながら、あたしは寝室のドアの前でおろおろしてる。
噛みついた右手の親指は包帯が巻かれてる。おにいちゃんが手当てしてくれた。
おにいちゃんとニコルは、気が利いて便利なところがまったく同じだ。姿は違うけど、そんなの問題じゃない。おにいちゃんの手当もニコルの補助魔法も、あたしにはしっくりくる。
でも、あたしと朝綺の関係って、シャリンとラフの関係とは違う。あたしはシャリンじゃないし、朝綺はラフじゃない。だから、旅の記憶を共有してても、結局、初対面だ。
普通にしていたい。でも、普通って、なに?
ふと。
ドアが内側から開かれた。あたしは飛びのいた。
朝綺が、肘置きとキャスターが付いた椅子に座ってる。おにいちゃんが椅子の背もたれを押してる。
朝綺のコーデはさわやかなカジュアル系だ。オフホワイトのボタンダウンシャツ。ダメージ入りのジーンズ。ラフと同じキレイな顔立ちに、すごく似合ってる。
あたしは一瞬、ものすごく不安になった。七分丈のTシャツとデニムのスカートって、変じゃないわよね? 子どもっぽい? あたしに似合ってる?
朝綺はちょっとあたしから目をそらしてて、あたしも朝綺のほうをまっすぐ見られなくて、おにいちゃんだけが平常運転だ。
「麗、キッチンでお湯を沸かしといて」
「わ、わかった」
「はい、どいたどいた」
椅子を押して、朝綺を洗面所へ連れて行く。
あたしがキッチンに立ち尽くしてたら、おにいちゃんは一人でキッチンに戻ってきた。ひそひそした声で説明する。
「ドア、絶対に開けるなよ。朝綺は、麗には見られたくないはずだから」
「ど、ドア? えっ?」
「あのな、洗顔と髭剃りが全介助。トイレは、脱がして座らせてやった後、朝綺を一人にする。朝綺は腕を使えないから、紙で拭くことができない。ウォシュレットで洗って、送風で乾燥させる。当然、時間がかかる」
「…………」
あたしは小さくうなずいた。
おにいちゃんはひそひそと説明を続けた。
「ぼくはその間に、ベッドメイキングと寝室の掃除と朝食の準備。朝綺に呼ばれたら、朝綺がズボンを履くのを介助。それから朝食。日によっては、朝食まで一時間くらいかかるんだ。麗、おなか減ったらクッキーでもつまんでな」
テーブルの上にはガラス瓶があって、クッキーが入ってる。おにいちゃんの手作りだ。
あたしは気を取り直した。ポシェットから出したのは、ハンカチみたいに畳める素材のPC。それを広げながら、おにいちゃんに笑ってみせる。
「時間がかかるくらいで、むしろちょうどいいわ。あたしもやることがあるから」
明精女子学院の退学届けは、昨日の夕方、提出しに行った。おにいちゃんが保護者として同行してくれた。
万知が起こした一連の事件は世間に隠せなかった。退学者がたくさん出たみたい。詳しい報道なんて、見る気も起きないけど。
そう、どうでもいいんだ。万知がどうなったのか、知るつもりもない。二度と出会わずにすむなら、邪魔されずにすむなら、それでいい。
だって、あたしは行き先を見付けたから。
やるべきことはたくさんある。エリートアカデミーの学位認定書の取り寄せ。特異高知能者《ギフテッド》証明書の発行。所定のフォームでの履歴書の作成。
先方の教授とのメールで連絡を取って、試験と面接の日取りの設定する。これから学ぶべき分野を、基礎から徹底的に勉強する。
あたしは大学院で研究をする道を選んだ。あたしなら、できる。
確かに、朝ごはんを食べ始めるまでに一時間近くかかった。
テーブルのそばに大きな機材が置かれてる。冷蔵庫と匹敵するくらい大きな装置だ。
「これ、何の機械?」
あたしは、料理をするおにいちゃんに尋ねてみた。
「朝綺に訊いてみなよ。まあ、見てればわかると思うけど」
おにいちゃんのメガネは、料理の湯気に薄く曇ってる。朝ごはんのメニューは、トーストとスクランブルエッグと野菜スープ。うちでも、おにいちゃんがよく作るメニュー。
朝綺がテーブルに着くと、機材の正体が判明した。ロボットアームのメインコンピュータだった。
二本のロボットアームは、朝綺の左右のテーブルに固定された。アームからは、ごちゃごちゃしたコードが伸びてる。コードはこんがらがりながら、メインコンピュータに連絡してる。
「レトロな造りね」
朝綺は、ふぅっと力を抜くように笑った。
「このデカブツは、大学時代のサークルのボックスに転がってた。四十年くらい前の試験作ってとこだな。修理したらこのとおり、キッチリ動くようになったんだぜ」
「へ、へぇ」
「古いマシンだけど、操作性や最小出力は、最近のやつと大差ないんだぜ。最近のロボットアームの利点は車いすにも装着できることだけど、装着作業は界人に任せることになる。結局、おれひとりじゃ使えない。つまるところ、使い勝手は、最新のも旧式のも変わらない」
しゃべってると、ほんとにラフだ。ちょっと荒っぽい口調で、どことなく自信に満ちてて。
「操作はどうやってるの?」
「ゲームのタッチパネル型コントローラをカスタマイズした。おれ、手首から先は、まだそれなりに器用だからな」
ほら、自信のある話し方をする。
「あんたの器用さは知ってるわ。ゲームの操作能力は、あたしと並ぶレベルでしょ。相当、うまいわよ」
「サンキュ。でも、ショートコマンドだけだよ。それより、その右手の親指はどうした?」
「べ、別に、なんでもない」
自分で噛みついただなんて、言えるはずない。
緑色のエプロンが似合うおにいちゃんは、三人ぶんのカップにティーオーレを注いだ。
「じゃ、食べようか」
朝ごはんを食べながら、朝綺はちょっとだけ、かしこまった。
「じゃあ、改めまして、自己紹介させてもらうけど。飛路朝綺、二十一歳。職業は、まあ一応、ゲームレビュアみたいなことをやってる。界人は、おれにとって、響告大学の一年先輩で、一年後輩でもある。年齢はおれのほうが四つ若いけどな」
ちょっと待って。いろいろ計算が合わないんだけど?
おにいちゃんが補足した。
「つまり、朝綺は何度も飛び級してるんだ。朝綺は、麗と同じ特異高知能者《ギフテッド》なんだよ。ぼくが大学二年に上がるときに十五歳で入学してきて、二年で大学を卒業していった」
朝綺は自己紹介を続けた。
「サークルでは、界人とおれでペアを組んでゲームを作ってた。工学部の研究室も同じだった」
「研究室の序列では、朝綺がぼくの先輩って扱いなんだよな」
「でも、ネットの人物事典では、違うだろ。おれたちは同期生ってことになってるぜ」
あたしは思わず、ティーオーレを噴き出しそうになった。
「人物事典? おにいちゃんが載ってるの?」
「あれ、麗ちゃんは知らなかった?」
またしても息が止まりかけた。「麗ちゃん」って、そんな急に、いきなり呼ばないでよ。お姫さまって呼ばれると思ってたのに。
あたしはしどろもどろになって、朝綺に答えた。
「ぜ、全然、聞いたことも……」
朝綺はロボットアームでおにいちゃんをつついた。
「ほら、界人。ちゃんと教えてやれよ」
「んー、載っちゃってるんだよな。ぼくはたいしたことしてないのに」
「たいしたこと、してるだろ? おれひとりじゃ、ストーリー校正もCGもキャストも無理なんだぜ」
おにいちゃんは、恥ずかしそうに白状した。
「朝綺とぼくの共同の名義で、いくつかのゲームのライセンスを持ってるんだ。昔使ってたハンドルネームだから、麗は知らないと思うけど」
ゲームのライセンス? おにいちゃんって、そんなに本格的に、ゲーム作ってたの?
「初耳よ。いくつかのゲームって、例えば?」
おにいちゃんが、朝綺に視線を送った。朝綺が、答えた。
「ハコ型のが十二個で、全部RPG系。でも、最大のメガヒットはオンラインRPG『PEERS' STORIES《ピアズ・ストーリーズ》』だな」
「ええぇぇぇっ? ピアズ? う、うそっ!」
「ほんと。うそじゃねえよ」
朝綺は、軽ーい感じで笑ってみせた。
あたしは頭が真っ白になっている。めまいがしそう。
ああ、でも、なるほどって気もしてきた。思い返せば返すほど、ラフが開発者なんだって言われて納得できる。
「じゃあ、全部、二人のアイディアなのね? あの音ゲーもどきのめんどくさいバトル様式とか、古典的な剣と魔法のRPG仕立てとか、シナリオの持ち込みが可能なこととか」
「死の概念をユーザサイドから排除しちまったこととか、ね」
あたしは額を押さえた。頭痛がする気がしてるのと、顔を隠したいのと、両方。
「ピアズが古典RPGっぽいのは開発者の趣味だって噂、聞いたことあったの。だから、開発者は年寄りだとばっかり思ってたわ。リアルタイムで古典ゲームやオンラインゲームをやってたような」
「当時、おれたちは響告大の学生でした。意外?」
「意外よ。ほんと、信じらんない」
旅の仲間がおにいちゃんとその親友だった。それだけで、十分に衝撃的だったのに。まさかその二人が、ピアズの開発者でもあったなんて。