指定どおりの夕方六時、夢飼いで、あたしはおにいちゃんと合流した。おにいちゃんは人払いをするみたいに、店員に素早く告げた。
「紅茶二つ、お願いします」
 そして、タブレットPCを立ち上げた。あたしの目の前で『PEERS' STORIES《ピアズ・ストーリーズ》』を起動して、データをロードする。
「ニコル……」
 おにいちゃんが登録しているアバターは、銀色のおかっぱに緑色の大きな目の、魔術師の男の子。ざっと流して見せてくれたゲームデータも、まぎれもなく、一緒にホヌアを旅した記録だった。
「黙っててごめんね」
 低い声で、おにいちゃんは言った。
 おにいちゃんは謝らなくてもいい。
「ホッとしたわ」
「麗?」
「たくさんのことをしゃべった相手がおにいちゃんでよかった。現実の世界で、ちゃんと向き合って話さなきゃ、いけなかったけど。そうすることが、できなくて……」
「うん。麗の口から聞かせてもらいたかった。だけど、シャリンが話してくれてよかったよ」
 いつでも聞くからって言ってくれた。おにいちゃんも、ニコルも。同じように、優しくてお人好しな笑顔で。
 紅茶が運ばれてくる。少しの間、あたしとおにいちゃんは口をつぐむ。
「ねえ、おにいちゃん。ラフは誰なの?」
 あたしは質問する。答えの予測はついてる。予測が外れてほしいと思ってる。でも、きっと外れてはいない。
 おにいちゃんは静かに答えた。
「飛路朝綺《とびじ・あさき》って男だよ。ぼくの利用者さんで、親友の、朝綺」
 やっぱりそうだった。ひたひたと、絶望のようなものがあたしの胸に満ちていく。
「おにいちゃんの、利用者さん」
「そうだよ」
「介助が必要な人ってことね。夜の間、人工呼吸器をつけてる人」
「朝綺は、電動車いすでの生活だよ。初めて会ったころは、もっと体の自由が利いた。進行性の病気なんだ」
「進行性って? 症状がどんどん進んでしまうの? 治療できないの?」
 おにいちゃんは目を伏せた。
「今の医療技術では、まだ、できない」
「どうして?」
「麗は筋《きん》ジストロフィーって病気、知ってるか?」
「知らない」
 おにいちゃんは、タブレットPCのツールを切り替えた。
 ディスプレイに二枚の筋電図が表示される。あたしは、生物学や医学はあまり履修してない。でも、その「絵」は常識レベルの教養の一つとしてインプットされてた。
「紡錘形をした筋繊維。骨格筋ね」
 一枚の図は、正常な骨格筋。教科書で見たとおりの筋電図。
 もう一枚は、糸みたいにやせ細った骨格筋。繊維の一本一本が細いだけじゃなくて、その数が極端に少ないせいで、スカスカしている。
「こっちの、異常なほうの図が朝綺だよ。筋ジストロフィーの症状が、これなんだ。年齢を重ねるにつれて、どんどん筋繊維が壊れていく」
「でも、筋繊維が壊れること自体は、生物として当たり前に起こるわ。筋肉痛って、そうでしょ?」
「うん。当然の現象だよ。通常、筋肉痛はほっとけば痛みが引いて、傷付いた筋肉が修復される結果、前より大きく成長するよね。でも、朝綺には、壊れた筋繊維を補修する力がない」
「補修できない?」
「遺伝子がそうなってるんだ。筋繊維の補修を命令するはずの遺伝子が、異常を起こしてる。生まれつきの疾患でね」
 おにいちゃんは顔色を悪くしたまま、淡々とした口調で説明する。親友だという朝綺の、致命的な病気について。
「おにいちゃん、この病気、進行性って言ったわよね?」
「そうだよ。筋萎縮と筋力低下が徐々に進む。どこから症状が出始めるかは人によるんだけど、朝綺は胴体に近い部分から先端に向けて、順に動かせなくなってきてる」
 おにいちゃんが自分自身の体を指差す。
 最初に胴体。次に肩や二の腕、太もも。肘、膝。手首、ふくらはぎや足首。そして、つま先、指先。
「筋肉がどんどん衰えて、修復されなくて、動けなくなるの?」
「首から下だけじゃなくて、顔もね。表情筋や舌の筋肉。笑えなくなる。しゃべれなくなる。食べられなくなる」
「うそ……」
「最終的には肺と心臓も動かなくなる。呼吸も鼓動もできなくなって、死に至る。筋ジストロフィーはそんな病気だ」
 残酷すぎる。
 おにいちゃんはタブレットPCを操作した。骨格筋の図が消える。
 海へと沈む夕日の写真がデスクトップ画像だった。ううん、海から昇る朝日かもしれない。おにいちゃんは橙色の海の写真から目を上げない。