きみと駆けるアイディールワールド―赤呪の章、セーブポイントから―

 万知はほくろのあるあごをつまんで、あたしの目を見た。この絵は、無理だ。万知は、単純じゃない表情をしてる。何を考えてるのか、まったく読めない。
「風坂、さっきの続きを話してもらっていい?」
「続きって?」
「小学校を卒業した後に、本格的にEAに通い始めたの?」
「そうよ。同級生が中学に行く時期に、あたしはエリートアカデミーに通ってた」
「少人数制だよね? 授業の形態は大学みたいなシステムで、必要な授業を自分で選択して時間割を組むやつ」
「うん。ホームルームもなければ、同級生っていう概念もない」
「気楽だね」
「殺風景だった。つまんなかった」
「それはお気の毒」
 あたしは深呼吸をして、封印していた記憶を頭の奥から取り出した。
「実家を離れて大学に行ってた兄が帰省したとき、いっぱい笑わされた。そしたら、あっという間にあごが痛くなって、顔の筋肉がつりそうになって、笑い方を忘れてた自分に気付いて。すごく、驚いた」
 あたし以上に、おにいちゃんのほうが驚いてたかもしれない。こんなに笑ったのは久しぶりって言ったとき、おにいちゃんはすごく悲しそうな目をした。
「風坂にはおにいさんがいるんだ。いくつ上?」
「八つ上。両親に似て、普通レベルの秀才よ」
「普通レベルね」
 万知は、くつくつと笑った。
「三年前のある日、あたしのことを、風坂家の突然変異って、親戚たちが言った。誰の遺伝子の恩恵なんだろう、って。あたしは、それを本気にした。遺伝子操作の結果に生み出された怪物かもって」
「優良遺伝子選別の試験管ベビーなんて、前世紀の都市伝説だよ。胚や胎児をいじるより、生後の教育を徹底するほうが、人材として優秀な人間が育つ。百年に一度の本物の天才は、ほっとかないと生まれてこない」
 万知の正論を、三年前のあたしは知らなかった。誰かがそれを教えてくれたとしても、受け入れなかったと思う。
 エリートアカデミーでは、目的もなく、大学院より高度な勉強をしていた。実際の大学院の倍のスピードで。ストレスばっかりの毎日だった。あたしは、あたしをエリートアカデミーに送り込んだ両親を逆恨みしていた。
 あんな両親の子じゃなければいいのにと、いつも思っていた。そんなときに、突然変異だなんて言葉を聞いた。その言葉を信じたくなった。
「親に内緒でDNA検査をしたの。両親の髪の毛と、あたしの血液で。あたしは本当に両親の子なのか。あたしは本当に普通の生殖から産まれたのか」
「結果は?」
「両親から産まれた子だった。受精から出産まで、生物学の王道で。あたしもデータ検出の場に立ち会ったから、間違いない」
「よかったじゃないか」
「よくない。DNA検査したことが、親にバレたのよ。親は泣いてた。DNA検査って、要するに、あたしは親の存在意義を全否定したの。親はもうあたしを許してくれないと思う。今は兄と二人暮らしよ」
「なかなか壮絶だね。ねえ、今度おにいさんを紹介してよ。風坂のおにいさんなら、きっと美形でしょ。わたし今、彼氏いないんだ。誘惑してみちゃおうかな?」
「絶対イヤ」
「ブラコンなんだ?」
「あたしには、兄しかいないの。絶対、手出しさせない」
「わかったわかった。まあ、わたしは風坂と違って、なんでも持ってるし、人のものまで取らなくても平気だよ。両親とも仲がいいし、クラスの連中ともうまくやってるし、けっこうモテるしね」
 何の前触れもなく、いきなり万知はあたしの肩をつかんだ。至近距離。
「ちょっ……」
「今朝、見てたよね」
「み、見てたって、なんのことよ?」
「わかってるくせに」
 微笑んだ万知の唇が赤い。あごのほくろが妙に目を引く。
「は、離して」
「イヤ」
「あ、あんたと出来静世って、なんなの?」
「静世センセイは人気あるんだよね。だから落としてみたくなった。それだけ。でも、まあ、けっこういいよ、あの人。清楚ぶってるけど、実は相当で。ん? 風坂、照れてるの? 真っ赤だよ。かわいい」
「バ、バカにしないで!」
「バカになんかしないよ。ねえ、風坂は、もちろんフリーだよね?」
「あ、当たり前じゃないのっ。こんな、女子校で……っ」
「異性愛者なんだ? もったいないなあ。あ、もしかして風坂、好きな男がいるの?」
「……か、関係ないっ」
 あたしは全力で万知の腕から逃れた。
 頭に浮かんだのは、あいつの姿だった。スラリとした長身の男。右の頬に傷があって、長い黒髪を一つに結んでて、二本の大剣を操っていて、呪いの紋様を肉体に刻んだ、バカ。
 ラフがリアルの世界に存在すればいいのにって幼稚なことを、ついつい考えてしまう。シャリンじゃないあたしが、ラフと一緒に居られればいいのに。
 でも、もしそれが実現したら、ラフが現実のあたしの前に現れたら。
 それは残酷すぎる運命だ。呪いに蝕まれたラフの体は、近い将来、タイムリミットを迎えるのだから。
 ゲームの中ですらラフのデリートは怖い。ましてや、それが現実になったら、あたしは、きっと耐えられない。
 くすくすと、万知は笑い続けている。あたしがにらんだら、万知は唐突なことを言い出した。
「わたしが通っていたエリートアカデミーはね、風坂の母校よりもケアが行き届いていたよ」
「え?」
「わたしも、特異高知能者《ギフテッド》なの。風坂よりも高い能力を持った特異高知能者《ギフテッド》。わたしが特別だってこと、察してたでしょ?」
「と、特別って……」
「十歳で大学卒業と同じレベルの認定を受けた。それから、大学院の研究機関に籍を置いて、ついこの間、二つ目の博士号を取得したところ。分野は生物系と医学系の中間って感じかな。研究が一段落して、ここに編入してきたんだ」
 ぐらり、と、足場が揺れたような気分だった。
 あたし以外の特異高知能者《ギフテッド》が目の前にいる。しかも、あたし以上の高い能力を持ってるなんて。
 ううん、関係ない。あたしは、あたしだ。
「……なんで、高校なんかに通おうと思ったの?」
「女子高生の制服を着てみたかったから。誰かさんと同じだよ。まあ、わたしの経歴なんて、どうでもいいことだね。テーマを変えよう」
「テーマ?」
 万知は長い指をひらめかせた。指をナイフに見立てて、自分の首を掻き切る仕草をする。今朝のネコはみんなそうやって殺されていた。
「ねえ、風坂。事件の真相を、どう考える?」
「……さあ?」
「パフォーマンスかな。そう思わない?」
「そう、ね」
「何を表現するためのパフォーマンスなんだろう?」
 楽しそうな万知の様子が、あたしには理解できない。据わりが悪くて、適当に答える。
「あんたが前に言ってた、悪ってやつじゃないの?」
 狂気、欲望、衝動。そういう後ろ暗いモノのことを、万知は悪と呼んだ。人間はみんな悪を内包しているはずだ、と。
「風坂のその頭脳が弾き出す推論は、それだけ?」
 万知が大げさに両腕を広げた。
 頭に血が上るのがわかる。あたしは息を吸って吐いた。三つ数える。喉と舌が動くことを確かめる。大丈夫。これは議論だ。あたしはしゃべれる。
「推論も何もないわよ。倫理なんて、直感でしょ。ネコのあんな姿を見て平然としてられる人間がいるなら、そいつはどうかしてるわ」
「なんだ、逆にそっちを論じるんだ。拍子抜けだな」
「逆にそっち?」
 万知が長身をかがめてあたしに顔を寄せた。笑顔。花の匂い。
「論点がズレた、と自分では感じない?」
「ズレてないわよ」
「あのパフォーマンスを為した者の側を論じていたのではないの? なぜ、為されたネコの側に力点を置く?」
 あたしは首を左右に振った。
 論点は、ズレてなんかない。あの哀れなネコたちを見たとき、最初に感じたのは痛ましさだ。理屈じゃない。本能や直感がけたたましい警告を発した。
 あんなことは、為されてはならない。為す者の心理なんて、考えちゃいけない。
「あんたの論点は普通じゃないわ」
「当然だよ。普通なわけがない。普通の次元で議論して、なんになるの? わたしと風坂なら、もっと高度でおもしろい議論ができるはずなんだ。風坂、わたしは真理を語り合える仲間がほしい」
 あたしは目をそらした。
 万知には、ついていけない。雄弁さにも、神経の太さにも。
 胸が、ちりっとした。劣等感みたいなものが、あたしの中にある。そんなバカな。今、あたしは勝負なんかしてない。あたしは負けてない。
「あたし、ディスカッションもディベートも嫌いなの。トレーニングは受けたけど、楽しくない」
 あたしの拒絶を、万知はあっさりと受け入れた。
「そう。悪かった。じゃあ、別のことをしよう」
 再び、不意に触れられる。万知の長い指があたしの下あごをつまんだ。
「な、なによ?」
「ね、キスしていい?」
「や……」
「静世センセイってさ、わたしの言いなりなんだ。ちょっとおもしろみに欠けるよね。風坂は、もっと抵抗してくれるでしょ?」
 全身に悪寒が走った。声が出ない。万知の手を払いのける。
 あたしをそんな目で見ないで!
 女だとか男だとか、きっと関係ない。ただ、性の対象として見られることが、汚れてしまうことのようで、イヤで。
 あたしはカバンをひっつかんで、天球室を飛び出した。腹が立ってたまらない。胃がひっくり返りそう。
 万知に一瞬でも気を許した自分を、呪いたくなる。あたしにキスする? なにさまのつもり? あたしのキスは。
 ご褒美のキスはいつでも受け付けるよ。
 あいつとの約束。
 違うのに。あたしのキスじゃないのに。シャリンのキスなのに。
 あいつだってシャリンに変なことを言うし、いやらしいところがあるし、バカだし、むかつくし。
 でも、あいつと万知では全然違う。あたしは、あいつなら怖くない。
 わけ、わかんない。
 螺旋階段を駆け下りて、中庭に続く扉に突進した。手のひらをプレートにかざす。おかしい。掌紋認識の電子キーが解除されない。
 背後で声がした。
「風坂さん、中庭には出ないでと言ったはずよ。その扉は主電源を落としてあるわ」
 あたしは振り返った。柱の陰から、静世が出てきた。
「暇そうね」
「ええ、今日は授業がないのよ。例のネコの件、騒ぎになっているの。黒曜館にいてはわからないでしょうけど。一瞬で校内に噂が広まって、大変なのよ」
「そこどいて」
「どこへ行くの?」
「関係ないでしょ」
「わたしは、風坂さんの動向を見ておくように指示されているの」
「家に帰る。どいて」
 静世は神経質そうにメガネの角度を直した。
「葉鳴さんは上にいるのね? 二人で何を話していたの?」
「別に」
 静世は目を細めた。
「葉鳴さんがあなたを心配していたわ。あなたは孤独すぎる、と。確かにそうね」
「孤独?」
「ストレスがたまっているでしょう? 特異高知能者《ギフテッド》のカリキュラムは大変だもの。どうやってストレスを発散しているの? 先生に教えてくれない?」
「……何が、言いたいの?」
「あなたの居室に、首のないぬいぐるみが転がっていたわ。風坂さんは、ナイフを使うのが好きなのかしら? あのぬいぐるみは、今朝のネコのための予行練習だったの?」
 あたしは一瞬、めまいがした。急速に頭に血が上ったせいだ。
「あ、あんたは、あた……あたしが、あんな低俗なことを、やったと、い言いたいのっ?」
「そんなことないわよ。特異高知能者《ギフテッド》である風坂さんの考えは高尚よね。わたしには想像もつかないの。ゆっくり話す時間をもらえないかしら?」
 メガネの奥の冷ややかな笑み。圧倒的な敵意。
 来ないで。あたしに近寄らないで。
 怖い。
 静世はゆっくり、あたしのほうへやって来る。あたしは足がすくんでる。
 イヤだ。
 静世の手があたしの肩に触れようとする。
 イヤだ!
 寸前で、あたしの体が動いた。あたしは静世の手を振り払った。
「待ちなさい、風坂さん!」
 あたしは駆け出した。回廊を走って、廊下を走って、黒鋼の校門を抜けて、広すぎる敷地を抜けて、町の中を走って走って走った。
 家に飛び込むまで、足を止めなかった。
 おにいちゃんは家にいた。ただごとじゃないあたしの様子に目を白黒させて、掃除機をほっぽり出して飛んできた。
「う、麗? どうしたんだ? 具合悪いのか? ひょっとして痴漢にでも遭ったか? そうなのか? どこをさわられた?」
 勝手に慌て始めたおにいちゃんを、あたしはカバンで一発、ぶん殴った。
「おにいちゃんのバカ! そんなんじゃないわよ。あの……が、学校が面倒で、抜けてきただけよ」
 こんなこと、初めてだ。だから、おにいちゃんも戸惑ってる。あたしの嘘なんか見抜いてるんだろうけど、お説教しようとはしない。
「え? そ、そっか。まあ、麗がなんともないなら、別にいいんだけど」
「あ、あのっ、あのね……」
「ん?」
「……の、喉が、渇いた。レモンスカッシュ飲みたい」
 おにいちゃんがキョトンとして、それから、いつもの顔でにっこりする。
「今、炭酸を切らしてるんだ。買ってこようか?」
「十分以内に帰ってきて」
 あたしをあんまり長くひとりにしないで。
 部屋のドアを閉めて、制服を脱ぎ捨てる。
「行ってきまーす」
 おにいちゃんの声に、ショートパンツをはきながら返事をする。
「行ってらっしゃい」
 パタン、と玄関のドアが閉まった。あたしはひとりになった。起動していないPCのディスプレイに、あたしの顔が映っている。
「会いたい」
 ラフに会いたい。ニコルに会いたい。今すぐ会いたい。
 PCを立ち上げる。ピアズのサイドワールドに入る。メッセージボックスを開く。
 あたしがアドレスを教えた相手は今までで、ラフとニコルだけだ。ボックスには、運営からのメッセージがたまってる。
 新着はない。
「当たり前よね」
 毎日オンライン本編で会ってる相手に、わざわ、メッセージなんか送らないわよね。何を期待してたんだろ、あたし。
 あたしがログアウトしようとした、まさにそのとき。
 ぴろり~ん。
 間の抜けた効果音が鳴った。ディスプレイに現れた表示は、“NEW MESSAGE”。新着メッセージ、って。
 あたしはドキドキして、メッセージを開いて……ちょっとだけ、がっかりしてしまった。ごめん、ニコル。

シャリンへ;
ニコルです
そういえばメッセージ送ったことなかったなあ、と思って
別に用事があるわけではないんだけどね
ボクはメッセージで人と話すのが好きなので
気が向いたら、シャリンも何か話してよ
じゃあ、八時にホヌアで
ニコルより

「測ったようなタイミングね。ありがと、ニコル」
 あたしは、どう返信しようか考えてみた。
 落ち込んでるって、話しちゃえばいい?
 ねえ、聞いてほしい。学校でハードなことがあったの。学校、つらいの。逃げたい。もうイヤって言いたい。
 あたし、このままじゃ、どうやって生きていけばいいのかわかんない。
 ラフとニコルに全部、話せたらいいのに。そして、あいつらが、あたしを助けてくれたらいいのに。あたしをこの日常から連れ去って、あのワクワクする冒険の中に、一生、閉じ込めてくれたらいいのに。
「たまには外食しようか」
 そんなことを、おにいちゃんが急に言い出した。あたしの様子がおかしいせいよね。夜勤続きで疲れてるくせに、今日は昼寝もしなかったみたい。
 おにいちゃんの母校、響告大学のキャンパスのすぐそばに「ドリームキーパー」というお店がある。定食メニューがたくさんあるお店だ。BGMは、二十一世紀の初めに人気があったっていうレトロなロック。
「大学時代にサークルのアフターで利用してたんだ。学食より遅くまで営業してるし、そこそこお手頃な値段だしね」
 初めてあたしをこの店に連れてきたとき、おにいちゃんはそう紹介した。それと、この定食屋が「夢飼い」って呼ばれることも。
 おにいちゃんが大学時代に入ってたのは、ゲームを創作するサークルで、おにいちゃんははサークル内の便利屋だったらしい。
 工学部のおにいちゃんは、プログラミング全般をわかってた。絵を描くことも好きで、CG製作も得意だった。高校時代は演劇部だったから、キャラボイスも引き受けてた。ボイスチェンジャーを駆使して、老若男女いろいろ演じた。
 うらやましい。ゲームを創るサークル活動なら、あたしもやってみたい。
「さて、何を食おうかな?」
 おにいちゃんは、水のグラスと一緒に運ばれてきたメニューを開いた。メニューをわざわざあたしに向けてくれる。あたし、全部覚えてるから、眺める必要ないんだけど。
 夢飼いの料理は野菜たっぷりで、盛り付けもカラフルだ。味は天然素材のスパイスが効いてて、かなり好き。
 あたしはポークジンジャー定食、おにいちゃんはチキン照り焼き定食を選んだ。
 おにいちゃんがちょっと身を乗り出した。
「麗、もうすぐ体育祭だろ? 確か来月の……」
「来なくていい」
「え? でも」
「去年と同じよ。おもしろくもなんともないし、来なくていいから」
「あー、えっと……そっか」
「親たちにも伝えといて」
 あたしが表舞台に立つことはないんだし。
 おにいちゃんはお人好しな笑顔で肩をすくめた。
「わかったよ。話が変わるんだけど、食事の後、友達との約束が入ったんだ。麗を家まで送ったら、また外出する。いいかな?」
「友達? まさか女?」
 おにいちゃんは慌てずに、パタパタと手を振った。
 シロね。もしおにいちゃんに好きな女ができたら、あたしは一発で見抜ける。おにいちゃんの表情は、ちゃんとわかる。
 おにいちゃんは、癖っぽい前髪を掻き上げた。
「野郎どうしでゲームに興じるんだよ。大学時代のサークル仲間なんだ。その後、夜勤に直行する。夜に麗を一人にするのは、本当は避けたいんだけどさ。なんてね。夜勤ばっかりやってるぼくには、それを言う資格なんてないか」
 おにいちゃんの口元が、ちょっと引き締まる。
 夜勤明けのまま、ひげをそってないみたい。まったく。妹と外食するのよ? ひげくらい、キッチリそっときなさいよね。
「関係ないわ、別に。あたし、ゲームやるときは一人になりたいし」
「ゲームって、ピアズのこと?」
「そうよ。最近は完全にピアズ一本なの」
「ずいぶん気に入ってるみたいだな」
「けっこう馬の合うピアと組んでるから、飽きないのよ。ああいう人間が、こっちの世界にも現れればいいのに」
 おにいちゃんの表情が笑顔の奥で動いた。あたしはその変化を読みそこねた。今の表情、なんなの? おにいちゃんはメガネを直しながら、偶然なのかわざとなのか、手で顔を隠した。
「ぼくもピアズの雰囲気は好きだな。それに、中編小説のオムニバスみたいなスタイルだよね。ストーリーが終わらなくて、長く楽しめる」
「おにいちゃんもアカウント作れば? って言っても、家にいる時間がまちまちだから、ピアを組むのが難しいか」
「ぼくがピアズを始めたら、麗、一緒に旅してくれるのか?」
「面倒見てあげる。あたし、いま配信されてる中で、いちばん高いクラスにいるの。まずは、おにいちゃんに追いついてもらわなきゃ。上がってくるまでサポートするわ」
「それは心強いな」
 うん、おにいちゃんとの旅なら気楽だわ。絶対に楽しい。
 サラダと箸が運ばれてきた。
「ありがとう」
 おにいちゃんは、おさげ髪の店員に言った。店員は赤くなった。調子に乗ってる。
 そりゃね、おにいちゃんの笑顔は確かにカッコいい。左右対称な、キレイな笑い方をする。高校時代、演劇部のころに笑顔の練習をしたんだって。
 あたしも笑顔の練習をしようかなって、急に思った。ピアズ用のリップパッチは感度が高いけど、あたしの笑顔はうまく感知されない。シャリンは、いつも不機嫌そうな顔をしてる。
 ふと、訊いてみたくなった。
「おにいちゃん」
「ん?」
「なんでヘルパーの仕事してるの?」
「なんでって……まあ、縁というか」
「どうして? 昔は役者に憧れてたんでしょ。大学時代は工学部でプログラミングをやってたんでしょ。どうして今、ヘルパーなの?」
 答えを聞かせてほしいのは、あたしが自分自身のための答えを持ってないからだ。
 おにいちゃんはグラスの水をちょっと飲んだ。
「役者には、今でも憧れてるよ。アマチュアの劇団にでも入りたいなって思ってる。まあ、時間的に厳しいけど。高校時代にはね、大学に入ってやりたいことが三つあったんだ」
「三つって?」
「演劇、ゲーム作り、細胞の研究」
 初めの二つは、おにいちゃんが実際に大学時代に打ち込んだこと。三つ目は初めて聞いた。どうして、細胞の研究?
「麗、ジャマナカ細胞って知ってるだろ?」
「肉体のどの器官に移植しても、移植先の細胞と同化する。そして、もとの器官のダメージを補修する。そういう先端医療に役立つはずの人工細胞でしょ?」
 ジャマナカ細胞は、万能細胞と呼ばれるものの一種だ。
 普通、細胞は「体のどの器官の元になるか」が決まっている。つまり、役割が決まっている。でも、「体のすべての器官になりうる」細胞もある。それが万能細胞だ。
 二十世紀の終わりごろには、人間が万能細胞を作れるようになってた。薬の効きを試す実験では、万能細胞が有効に利用されている。
 でも、二〇五二年の今もまだ、医療現場での実用化には至っていない。もうすぐそれが可能になるって噂されて、十年以上たっているはず。
「響告大学の医学部は昔から、万能細胞の研究で世界的に有名だ。最近は、ジャマナカ細胞の養殖技術も完全に安定してるらしい。ぼくはあの研究に憧れてたんだ。きっかけは、子どものころに読んだ伝記マンガっていう、他愛もないものなんだけどさ」
「それなら、なんで工学部を選んだの?」
 おにいちゃんはあたしの質問に苦笑いした。
「工学部を選ばざるを得なかったからね。頭の良し悪しの問題でさ。天下の響告大医学部に通るほど、ぼくは頭がよくないよ。工学部でもギリギリだったんだ。万能細胞をやってる別の私大には落ちたし」
 やりたいことをあきらめる理由って、単純なのね。偏差値だけが問題だったなんて。
 おにいちゃんは笑顔を作り直した。
「でも、工学部でプログラミングを勉強できてよかったよ。ゲーム作りを満喫できたし、いい仲間にもめぐり会えた。なあ、麗」
「なに?」
「能力的に限界があるぼくと、麗は違う。麗はどんな道でも選び放題だ。やってみたいことや好きなことをしっかり見極めて、進みたいほうへ進むといい。ぼくは全力で応援するよ」
「選び放題? そうなのかな」
 じゃあ、どうしてあたしは今、憂鬱な場所から動けないの? 動いちゃいけないの? あたしはどうすればいいの?
 うらら、と、おにいちゃんは歌うみたいなリズムであたしを呼んだ。
「話したいことがあるんだろ? 話していいよ」
 優しすぎて、胸が痛くなるような笑顔だ。
 言っちゃおうか。もう学校なんか行きたくないって。
 あたしが学校でどんなふうに過ごしてるか知ったら、おにいちゃんはきっと、あたしをかばってくれる。助けてくれる。学校なんかやめていいって言ってくれる。
 言っちゃおうか。
「あのね、あたし、いつも……あたし……」
「うん?」
 声が詰まる。言っちゃいたい。正直になりたい。
「……あ、あたしの、クラスでね……あのね、悪が、流行ってるの」
 言えない。
 あたしのクラスだなんて。その表現自体、嘘だ。
 だって、言えるはずない。
 屈辱の毎日。特異高知能者《ギフテッド》のあたしは、データ採取のためのモルモットに過ぎない。そんなこと、言えるはずない。プライドが邪魔をする。おにいちゃんの前でさえ、あたしは正直になれない。
 普通の高校に通ってみたいって、自分で選んだ道だった。
 選択は失敗だった。でも、失敗を認めたくない。
 百歩譲って、おにいちゃんになら、どうにか話せるかもしれない。でも、おにいちゃんに話したら絶対、両親も知ることになる。
 両親はあたしを連れ戻しに来るかもしれない。特異高知能者《ギフテッド》のくせにダメな娘だって思うかもしれない。あたしはプライドをなくしてしまう。生きていられなくなる。
 悪が流行ってるっていうあたしの言葉に、おにいちゃんは眉をひそめた。
「流行ってるって、麗、どういうこと? 悪?」
 あたしは深呼吸をする。真っ黒な気持ちを胸に押し込めて、あの女の言葉を真似てみる。
「狂気や欲望や衝動。そういうのを引っくるめて悪と呼ぶなら、人間は必ず悪を内包している。っていう命題は正しいか、正しくないか。おにいちゃんはどう考える?」
 おにいちゃんは面食らった様子だった。メガネの奥の目をパチパチさせる。
「んー、そうだな。命題は正しいだろうね。少なくともぼく自身は、自分の本質は悪だと思ってるよ」
「おにいちゃんが?」
「善人に見える?」
「どこからどう見ても、骨折り損が大好きなお人好しの善人だわ」
 おにいちゃんは笑った。
 料理が運ばれてきて、会話は一旦停止。おにいちゃんはおいしそうに、チキン照り焼きを一口食べた。
「ねえ、おにいちゃん。どうして善じゃないの?」
「あくまで、ぼくの個人的な考えだけどね、善は、あまりエネルギーを持たないものだと思う。逆に、悪はものすごいエネルギーを持ってる」
「そうなの?」
「ほら、向上心とか負けず嫌いって、その根っこのところは競争心や勝利への欲望だろ。麗が言う悪の要素だ。悪由来の感情をどうやって上手に活用するかが大事なんだと、ぼくは考えるけどね」
 あたしは頬杖をついた。
「予想外だわ。おにいちゃんが悪を肯定するなんて」
「善をエネルギーにして生きられれば、美しいだろうね。美しすぎて、うさんくさい。人間はそんなに上等な生き物ではないよ」
「そうね。下等だわ。コントロールされない悪は、ただのエネルギーの暴走よ。醜くて、不可解で、死や破壊を振りまくだけ。しかも、よりにもよって、なんであたしが……」
 疑われなければいけないの? って言ってしまいそうになって、あたしは慌てて言葉を呑み込んだ。
 おにいちゃんは箸を置いた。微笑みが消える。まじめな顔。おにいちゃんの顔立ちがクールで整ってるってことに気付かされる。
「麗、それはどういう意味だ? 学校で何があった?」
「べ、別に、そんなにたいしたことじゃないわ」
「ほんとに?」
「ほ、ほんとよ。嘘つく必要がどこにあるっていうの?」
「嘘をつく必要はなくても、隠そうとしてる。何かとても大事なことを。違うか?」
 返す言葉が思い付かない。イライラする。
 あたしは視覚が強いぶん、言語が弱い。おにいちゃんもそれはわかってる。わかってて、あたしの言葉を引き出そうとしてる。
 ずるい。いくらおにいちゃんでも、あたしの弱点を突くのはずるい。
 あたしのイライラが爆発しそうになった、その寸前。
「ま、いっか」
 おにいちゃんが笑った。眉尻を下げて、お人好しそうな顔で。
「あ、あたしは……学校のことは別に、なんともないから」
「そういうことにしておく。でも、話したくなったら、ちゃんと話して。ぼくはいつでも聞くからね」
「……うん」
「食べよう。料理が冷めないうちに」
「わかってる」
 サラダをつついて口に運ぶ。細い千切りのキャベツは、ため息の味しかしなかった。
 ネコがいる。黒い毛並みの、キレイなネコ。こっちへ近寄ってきて、まん丸い目であたしを見上げる。
 ほら、おいで。おやつをあげるから。
 あたしは、家の冷蔵庫から持ち出したソーセージを、ぽいと足下に落とす。
 ネコのピンク色をした鼻がピクリと動いた。足音をたてずに、あたしの足下までやって来る。
 いい子ね。すなおで、いい子。そして、とってもバカな子。
 ソーセージにかぶりつくネコを、あたしは真上から押さえつける。
 ネコが暴れた。かわいい抵抗。これで全力なの? なんて弱いんだろう。
 左手でネコを押さえて、右手でナイフを構える。予備のナイフはたくさんあるの。だって、たくさんやってみたいんだもの。
 くくっ。
 うふふ。
 あはははは!
 はははははははははははははははは!!


「きゃああああああああああああっ!!」
 悲鳴が、耳に刺さった。
 息が苦しい。心臓が苦しい。ココロが苦しい。
 ドンドン! ドンドンドンッ!
 ドアを叩く音がする。
「おい、麗っ? 麗、どうしたっ?」
 部屋のドアを外側から叩きながら、おにいちゃんがあたしを呼ぶ。
「……お、おにいちゃん……」
 助けて。夢を見た。怖い夢を。
「麗、入るぞ? いいか?」
 そっと、ドアが開かれた。廊下の明かりを背景に、おにいちゃんのシルエット。
 おにいちゃんはゆっくり部屋に入ってきた。あたしのそばに片膝をつく。
 あたしは床にへたり込んでいた。ベッドから転がり落ちたんだと思う。
「どうしたんだ、麗?」
 おにいちゃんは、切れ長の目を柔らかく微笑ませた。メガネをかけていない顔、久しぶりに見た。
「ゆ、夢……すっごく、イヤな夢……」
「イヤな夢? 怖い夢なのか?」
 あたしはガクガクとうなずいた。
 ネコを殺そうとする夢を見たの。夢の中のあたしは笑ってた。笑いながら小さな命を殺してしまえる自分が、怖かった。
 おにいちゃんはあたしの頭をポンポンと叩いた。大きな手のひらがあったかい。
「今、五時半くらいだよ。起き出してもいいし、二度寝してもいい。どうする? 起きる?」
「起きる……」
 ベッドに戻ったら、あの夢の続きに襲われるような気がする。
 おにいちゃんは立ち上がった。
「キッチンにおいで。ハチミツ入りのホットミルクでいいかな?」
「うん」
 おにいちゃんが部屋を出て行こうとした。あたしは慌てて立ち上がった。左手でおにいちゃんのパジャマのそでをつかんで、右手の親指に噛みつく。
 おにいちゃんはあたしの顔をのぞき込んで、にっこりした。
 あたしがもっと子どもだったらよかったのに。ほんとはね、おにいちゃん。思いっきり、抱きつきたい。もっと頭をなでてほしい。
 甘いホットミルクでお腹を温める。だんだん、気持ちが落ち着いてくる。
 おにいちゃんは食卓の向かいに座って、ハチミツを入れないホットミルクを飲んでいる。
「おにいちゃん」
「ん?」
「起こしちゃったよね?」
「寝てなかったから大丈夫。さっき、夜勤から帰ってきたばっかりだ」
「じゃあ、今、眠い?」
「いや、平気。夜勤中でも、小刻みに仮眠をとってるんだよ」
 沈黙。
 冷蔵庫がブーンという音をたてている。あたしは黙っていられなくて、口を開いた。
「最近は毎日よね、夜勤」
「利用者さんのわがままにお応えしてるんだ」
「アサキって人?」
「うん。朝が綺麗っていう字で、朝綺なんだ。頭の切れる、おもしろい男だよ」
 友達のことを話すみたいな口調だ。朝綺って人のこと、初めてちゃんと聞いた。
「おにいちゃんはその人の日常生活の介助をしてるんでしょ? なんで夜勤が必要なの?」
「朝綺は夜の間、寝ているときだけ、人工呼吸器を着けてる。それのチェックをしないといけないんだ」
 人工呼吸器? 寝てるときは、自力で息ができないの?
「い、医療機器の誤作動なんて、めったに起こらないものよね?」
「起こってもらっちゃ困るよ。ぼくの知識じゃ、人工呼吸器を直すことなんかできないしね。ただ、ぼくは、特別な機能のために夜勤に入ってるんだ。その機能は、どんな高度なマシンにも実現できない。逆に、人間の介助者であればそれができる」
「どういう機能?」
「安心感を与えるっていう機能。それを実現するためには、人間がそばにいるのがいちばんなんだ。夜の間、一時間に一度、ぼくが人工呼吸器の動作状態をチェックする。それが安心感につながって、朝綺はゆっくり眠れるんだ」
 朝綺って人の気持ちが、あたしにもわかる。夢にうなされて飛び起きた今、おにいちゃんがいてくれることが心強い。何もしてくれなくてもいい。そこにいてくれるだけでいい。
 朝綺って人は、ずるい。わがままよ。あたしのおにいちゃんを、そうやって毎晩、独占してる。お金を出して雇ってるとはいっても、友達だっていっても、ずるい。あたしにも、安心感がほしい夜はあるんだから。
「ねえ、おにいちゃん」
「ん?」
「おなか減った。朝ごはん作って」
「はいはい。わかりましたよ、お姫さま」
 最近よく「お姫さま」って呼ばれる。ラフがそう呼ぶから、ニコルにもうつってる。どうしておにいちゃんまで同じ呼び方するのよ?
 それにしても。今さらだけど。
「おにいちゃん、あのメガネ、かけるのやめたら? というか、やめなさい。メガネがなければイケてる顔してるんだから、ちょっと自覚して」
 おにいちゃんはホットミルクを喉に引っかけて、盛大にむせた。