きみと駆けるアイディールワールド―赤呪の章、セーブポイントから―

 三時間は一瞬だった。入力終了のアナウンスが表示されて、PCがシャットダウンする。
「よっし、終わったー」
 あたしは思いっきり伸びをした。
 そのはずみで、つま先で何かを蹴飛ばした。
「え?」
 立ち上がって床を見る。首のないピンク色のぬいぐるみがひっくり返っている。
 あたしはぬいぐるみを拾って机の上に座らせた。そして、カバンをつかんで小部屋を抜け出す。
 与えられたノルマは終わらせた。下校時刻まで、あたしは自由だ。お昼のお弁当はちょっとマシな場所で食べる。
 同級生たちがどんな一日を過ごしているのか、あたしは知らない。下校の時刻だけ知ってる。まわりが帰るタイミングを合わせて、あたしも下校する。
「麗も部活に入りなよ」
 そんなふうに、入学前、おにいちゃんに勧められた。おにいちゃんは、高校時代の演劇部がすごく楽しかったらしい。
 でも、あたしが部活に入ることは静世に禁止された。
「風坂さんの活動を、ほかの生徒に知られてはならないの。理解してね」
 わかってるわよ。なれ合うつもりなんか、さらさらないんだから。
 黒曜館には塔がある。校舎の中でもいちばん北にあるから「北塔」って名前だ。
 初め、塔の入り口は電子キーで閉ざされていた。パスワードの解析をしてみたら、あっさり煙を上げてロックが解除された。それ以降、鍵はかけられていない。
 北塔は六角柱の形をしてる。一階から最上階の六階までほとんどの部屋が書庫で、二十世紀に収集された物理学関係の資料がたくさん眠ってる。研究報告書から一般向けまで、いろいろ。暇つぶしに読むにはもってこいだ。
 あたしは息を弾ませて、吹き抜けの螺旋階段を駆け上がる。学校の中であたしが唯一好きな場所は、最上階の「天球室」だ。
 天球室は、一昔前までは、プラネタリウムとして利用されてたみたい。壁と天井はドーム型で、UVカット仕様の強化ガラス製。遮光幕を引っ込めたら、天球室には空色の光が満ちる。
 天球室の真ん中に大机が一つ、ぽつりと置かれている。大机の裏には「天文部は永久不滅」と丸文字で書いてあった。二十五年前の日付と一緒に。
 当時の部員の名前が五人ぶん。その中に、あたしの母親の名前がある。
 あたしは大机に腰掛ける。カバンを投げ出して革靴を脱ぎ散らして仰向けに倒れた。
「空が近い」
 この場所でこうして寝転んでると、まるで空に浮いてるみたいだ。
 無意識のうちに、あたしは右手の親指に噛みついてる。半端に開いた口から、ため息があふれる。
 なんて無意味な日常。
 特異高知能者《ギフテッド》のカリキュラムは、家族にさえ漏らしちゃいけない。そんなふうに釘を刺されてる。
 漏らすはずがない。あたしはただのモルモットだなんて、言えるはず、ないじゃない。
 感情を閉ざしていなければ、心が壊れてしまう。
 普通だったらよかったのに、と思ったことはない。普通だったら、あたしがあたしでなくなる。
「負けるもんか」
 どんなに屈辱でも、プライドを守り通したい。あたしは負けない。
 放課後、待ち伏せされていた。
「お疲れさま、風坂」
 微笑んでみせたのは、葉鳴万知。朝、あたしの体にさわった女。
 万知の隣に立つ静世は黙ったまま、メガネの角度を直した。機嫌悪そうだ。
 というか、あたしのほうこそ、機嫌悪い。
「なんで?」
「なんでここにいるのかって? 下校時刻になれば、風坂がここを必ず通過するからね」
「違う……なんで、あんたが黒曜館の中に?」
 万知は黒い扉にもたれかかってる。あたしがにらんでも、気にする様子がない。
「許可はもらってるよ。静世センセイにね。センセイがわたしをここに入れてくれた」
 静世は目を伏せるようにしてうなずいた。
「学長にも葉鳴さんの入館を報告してあるわ。風坂さんこそ、あまり黒曜館の中をうろうろしないで。ここには機密事項がたくさんあるの。まして、風坂さんのプライベートな空間ではない。わかっているわよね?」
「北塔だけよ。許可、あるんでしょ?」
「ええ。学長にも報告したし、許可もいただいているわ」
「あたしは、北塔以外には、行ってない。信用できないなら、監視カメラの映像、あるはず。どいて」
「風坂さん、あのね……」
 何か言いかけた静世の唇に、万知が人差し指を押し当てた。静世を黙らせた指先を、万知はぺろりと舐めた。みるみるうちに静世が赤くなる。
 違和感。
 静世がこんなに簡単に黙るなんて。それに、あんな表情。
 万知はつかつかとあたしに近寄ってきた。あたしは万知をにらんだ。万知は平然としている。
「ねえ。風坂は友達がいないよね?」
 単刀直入な質問。
 深呼吸して、答える。
「……いるわけ、ない」
「昼休みでも放課後でも、教室に行ってみればいいのに」
「教室って?」
「二年一組。静世センセイが担任するクラス。わたしたちはクラスメイトなんだよ?」
「クラス、メイト」
 万知はあたしに右手を差し出した。朝と同じ仕草、同じまなざし。大人びていて、どこかに毒が含まれた、キレイな笑顔。花の匂いがする。
「わたしは風坂と仲よくしたい。だから、静世センセイに無理を言って、ここへ入れてもらったんだ。よかったら、今日、一緒に帰らない?」
 何を、言ってるのよ?
 あんた、なんなの? あたしと話をして、何になるっていうの? だいたい、どうして、一般生徒があたしのこと、気にしたりするの?
 違和感。
 そして、恐怖。ふわふわした恐怖に呑まれる。
「お、お断りよ。あたしは……た、他人と調子を合わせるのが、嫌いなの……ほっといて」
 静世に呼び止められたのを無視して、あたしは黒曜館から飛び出した。
 中庭に出てすぐに、おかしいと感じた。いつもと空気が違う。秋バラの控えめな香りに、何か、青臭さが混じっている。
「あっ……!」
 垣根のバラが首を落とされていた。一つ二つじゃない。全部だ。
 鋭い刃物でやられたんだろう。スパッとした切り口が、午後の太陽にさらされている。満開の花も、咲きかけたつぼみも、黒く湿った土の上に転がっている。ところどころ、踏みにじられた跡もある。
「風坂さん、どうしたの?」
 静世が黒曜館から飛び出してきた。万知が続いた。さっきあげた声が、思ってたより大きかったんだ。
 あたしは足下を指差した。
 静世の表情の変化はわかりやすかった。口元を両手で覆って、さっと青ざめた。
 万知は、すんなりした指であごをつまんだ。記憶をたどるみたいに首をかしげる。
「朝はこんなことなかったのにね。昼過ぎに真珠館から中庭を見たときは、どうだったかな? とはいっても、一階のあの部屋からは、もともと見通しがよくないか」
「そうね、わたしの部屋は中庭に面しているけれど、窓のすぐ脇にツバキの木が立っているから」
 わたしの部屋? 静世の教科資料室に、二人で一緒にいたってこと? 葉鳴万知って女、ほんとに、ただの生徒?
 違和感が重なる。ザワザワする。
 わからない状況が次々と現れるせいで、吐き気が。
 いけない。気にしちゃダメ。落ち着いて。
 あたしはピンクのバラを拾った。小さな棘が手のひらを引っかいた。バラを垣根の枝の又に乗せる。もちろん、こんなことしてもバラは元には戻らない。
「不愉快」
 吐き捨てると、万知が反応した。
「不愉快? 風坂は花が好きなの?」
「別に」
「好きでもない? じゃあ、どうして不愉快?」
「あんたは?」
 万知は長い髪を掻き上げた。
「わたしは、そうだなあ、不愉快というのは少し違うかな。でも、謎があれば解きたくなるのが人のさがだね。犯人捜しでもする?」
 あたしはかぶりを振った。
 頭の中で論を組み立てる。これは会話ではない。説明、論述。数式を使わない証明。そう理解すると、あたしの舌は動き出す。
「誰がやったかってのには興味ない。なんでこんなことができるのかがわからない。わからないことをそのままにしとくのは不愉快よ」
「誰かがバラの首を切った。その行動の理由を論理的に説明されたら、どう? 風坂の不愉快は消えるの?」
「別の不愉快が起こると思うわ。こんなの、正常な人間のすることではないもの」
「なるほど。異常な現象は不愉快を生む。そういうこと?」
「持って回ったような言い方をしなくてもいい。直感的に、イヤなものはイヤなのよ」
 静世が割って入った。
「風坂さん、今日は中庭を通るのをやめてもらえないかしら? この状況を学長に報告するわ。できる限り、発見した状態を保っておいたほうがいいと思うの」
 四つの建物は回廊でつながってる。禁則を破って中庭を通る必然性はない、らしい。
 でも、あたしは舌を出した。
「イヤよ、遠回りするなんて」
「聞き分けてもらえないかしら? そもそも、生徒には中庭に近寄らないように指導してあるのよ。花は遠くから愛でるように、と。以前、中庭でハチに刺されて、アレルギーを起こした生徒がいたの」
「だから?」
「風坂さん、あなたにも指導したはず」
「あたしはここを通りたい」
 静世の口調が、急に変わった。
「では、毎日ここを通る風坂さん。この件について、何か目撃したり気付いたりしたことはない?」
「ない」
「質問を変えたほうがいいかしら。あなたに婉曲な言い方は通じないのよね。ねえ、風坂さん、バラを切ったのはあなたではないの?」
 え?
 この女、今、何を言ったの?
 バラを切ったのは……「あなた」、つまり、あたし?
 ショックがあたしの言語中枢をパンクさせた。声が、言葉が、喉から、出ない。
 静世は微笑んだ。甘い声の奥に冷たい毒を秘めて。
「中庭へ出入りするのは、風坂さんのほかには、外部委託の庭師だけ。でも、今日の昼間には、彼らは来校していないわ」
 だから、あたしがやったっていうの? ふざけないでよ。
 あたしは右手の親指を噛んだ。痛い。
 言葉、出てきてよ。
 悔しい。あたしの能力は、極端に偏ってるから、頭と心がいっぱいになると、あたしの中から言葉が消える。
 面と向かって人と話すことは、こんなふうだから苦手。
 あたしは無理やり声を絞り出した。口調が震えて仕方ない。
「……ば、バカバカしい。あ、あたしは、ずっと……こ、黒曜館の、北塔にいた……監視カメラ、見れば、わ、わかるわ……」
 あたしは万知と静世に背を向けて歩き出した。散らばった花びらを踏まないように、うつむいて歩く。ただ歩く。
 背中に、万知の声が飛んできた。
「風坂にとって、バラの首を切るのは『悪』なのかな?」
 悪? あたしは振り返る。万知は、ハスキーな声を生き生きと弾ませて、議論をふっかけてきた。
「人間っていうものは、本質として、必ず悪を抱えている。風坂は、そう思わない?」
 あたしは、ため息を吐き出した。三つ、数える。
 一、二、三。
 舌が動くことを確かめる。声を、喉に通す。
「……あんたが言う、悪って、なによ?」
「狂気、欲望、衝動。そういう後ろ暗いモノのことだよ。誰もが持つ本質だよね? 人間は、悪を発現し認識してこそ、人間だ」
「哲学? それとも、犯罪心理学?」
「両方ともおもしろそうだね。考えてみるよ。それと、風坂、きみの反応はやっぱりいいね。かわいらしい」
 バカにされてる気がする。言い返してやりたい。でも、言葉が出てこない。
 あたしは黙って正面を向いて、また歩き出した。万知と静世が立ち去る気配を背中に感じた。黒曜館は無人になった。
 花のない垣根の間を進む。枝の切り口から染み出した樹液が青臭く匂う。
 あたしはいつの間にか、右手の親指に噛みついていた。どうしても直らない癖。親指の爪は、白く削れて薄くなってる。
 どうしてなんだろう? どうして、バラは切り落とされたの? バラが無抵抗だから、切り落としたの?
 別の可能性が、不意に、あたしの頭に浮かんだ。
 毎日必ず中庭を利用する人物への攻撃? つまり、あたしへの?
 ううん、その可能性も、低い。だって、あたしは、誰とも接点がない。
 たぶん、あたしの存在は、ほとんどの生徒に知られていない。あたしは黒曜館に住む幽霊みたいなものだ。
 バラの垣根の途切れ目からツバキの木が見えた。濃い色をした厚手の葉っぱが太陽の光を反射している。
 ツバキの木の奥、真珠館の窓に、人影があった。万知だ。目が合った。万知は、にっと笑った。
 万知の肩の向こうに静世がいた。静世はこっちに気付かなかった。あたしは、なんとなく慌てて、垣根の陰に引っ込んだ。
 あそこが、静世の教科資料室?
 もう一回、そっと様子をうかがう。窓にカーテンが引かれていた。部屋の中の様子は見えない。
 そういえば、万知と静世の匂い、同じだった。同じコロンの匂いだった。
 あたしのおにいちゃん、風坂界人《かぜさか・かいと》は、あたしより八つ年上の二十五歳だ。
 おにいちゃんは大学時代からこの響告市に住んでいる。偏差値七十五の響告大学に一発合格して、そのままストレートで卒業したから、一般的にいって、頭がいいほうに入る。
 あたしは高校入学と同時に、おにいちゃんと一緒に住み始めた。「一緒に住もうか」って言い出したのはおにいちゃんのほうだ。あたしが両親と仲が悪いのを知ってて、助けてくれた。
 ちょっとうっとうしいとこもあるけど、あたしはおにいちゃんのこと信用してる。
「お、麗、お帰り」
 おにいちゃんは、キッチンから顔をのぞかせて、にこりとした。ひょろっとして、背が高い。妹のあたしの目から見ても、まあまあ美形。ただ、本人にはその自覚なし。
 いつもテキトーなメガネとTシャツとジーンズで、時代遅れのリュックサックに、癖のある髪はほったらかしの伸ばしっぱなし。先週から襟足で結ぶようになった。
 そのコーディネート、シミュレーションゲームでは点数低いと思う。もうちょっとカッコよくしたらいいのに。
「ただいま」
 ひとまず、帰宅の挨拶。
 おにいちゃんは怒ったり叱ったりしない。でも、説教を始めると長い。玄関の靴を揃えること、とか。人と顔を合わせたら挨拶をすること、とか。家でも最低限のテーブルマナーを守ること、とか。
 あれこれ気を付けなきゃいけないのは面倒なんだけど、一度教わったことを忘れたと思われたくない。だから、おにいちゃんの言いつけは守ることにしてる。
「今日も夜勤が入ったんだ。夕食は作って置いとくから、都合のいいときに食べて」
「はいはい」
 おにいちゃんの仕事は、ヘルパー。正式に言えば、肢体不自由者生活介助士。つまり、体が不自由な人の生活の手助けをする仕事だ。
「冷蔵庫にガトーショコラを入れてるよ。利用者さんからのリクエストで焼いたんだ。もちろん、麗のぶんも一緒にね。けっこう自信作だよ」
 おにいちゃんが所属する派遣事務所では、顧客である肢体不自由者を「利用者さん」と呼んでる。
 代行サービス業なんだって。福祉事業じゃないんだって。車を運転できない人がタクシーを利用する、みたいなサービス業。
 おにいちゃんは、ある一人の利用者さんに雇われてる。利用者さんは、若い男の人みたい。
 アサキっていう名前だってことだけは知ってる。どんな人なのか、詳しくはわからない。遺伝子系の病気で体が不自由ってことは聞いたことがある。相手とおにいちゃんは友達どうしでもあるみたいだった。
 あたしは部屋にカバンを投げ出して、制服を脱ぎ捨てた。Tシャツとショートパンツに着替える。あたしの自慢は、すらっとした手足。胸とお尻のボリュームはあんまりないけど。
 鏡をのぞけば、おにいちゃんと似た顔がこっちを見返してくる。でも、おにいちゃんとは正反対の、不機嫌な表情。
 広めの額。すんなりした鼻筋。小造りな口とあご。
 目元は、あたしとおにいちゃんで印象が違う。あたしは母親似の華やか系。おにいちゃんは父親譲りの涼しげ系。
 おにいちゃんは、顔立ちはクールだ。でも、笑い方が優しい。向かい合った人が思わず肩の力を抜いてしまうような、お人好しの温かい笑顔。
 昔からおにいちゃんは穏やかだった。でも、ここまで優しくなったのは、ヘルパーになってからだ。
「今、五時ね。ラフやニコルとの約束までには、あと三時間もある。先にシャワー浴びて、ごはんも食べちゃうかな」
 キッチンでは、おにいちゃんが慌ててた。
「夜勤、六時からなんだ。これじゃギリギリだよ。麗、頼みがある。洗濯物、取り込んどいてもらえる?」
「わかった」
「助かるよ。ぼくのぶんは畳まなくてもいいから」
「うん」
 おにいちゃんは洗濯物にこだわる。ほんとは別々に洗濯するほうがいいって言う。おにいちゃんはあたしの下着を洗ったり干したりしたくないって。あたしは気にしないのに。
 家事はおにいちゃんにやってもらいたい。できないわけじゃないけど、どんなタイミングで何をすればいいか、あたしはうまく見極められないから。その結果、家じゅうが散らかり放題になるから。
 洗濯物に関しては、議論が平行線。あたしは、おにいちゃんの下着も平気。所詮はモノでしょ。裸を見ることや見られることはタブーだと思うけど、ただのモノにまでタブーがあるって理解できない。
 こういうこと、ときどきある。あたしが理解できないこと。あたしの、普通じゃない部分。
 まわりとあまりにも感覚が違うと、いずれ困ることが出てくるだろうって、おにいちゃんは言う。
 あたしが納得するまで、おにいちゃんは説明を続ける。もともと、おにいちゃんは工学部でプログラミングをしてた。そのおかげで、おにいちゃんの説明は論理的だ。ついでに、バグったプログラムと延々にらめっこすることに慣れてたから、すごく我慢強い。
「じゃあ、行ってくる! 麗、戸締まりには気を付けろよ」
「わかった」
「あと、ピアズをやるときは、部屋を適度に明るくして、目の負担を減らすように気を付けて」
「わかったってば」
「それと、食器の片付けは……」
「いいから、さっさと行きなさいよ!」
 おにいちゃんはにこりとして手を振った。すらっとした、長い指。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 あたしはまず洗濯物を取り込んだ。自分のぶんだけを畳んで、タンスにしまう。それから、シャワーを浴びた。
 おにいちゃんがいないときには、遠慮なく下着で過ごせる。この部屋は旧式マンションの最上階で、構造的に熱がこもりやすい。秋の夜でも、下着でちょうどいい。
 夕食のメニューはオムライスだった。ふわとろ卵は、完全無欠な黄金色。それと、温野菜サラダと、冷製カボチャスープ。
「将来、おにいちゃんを家政夫として雇おうかしら」
 おにいちゃんがいたら、いろいろ便利だから。それなら、あたしもこの世界で、やっていける気がするから。
 今年は、西暦二〇五二年。SNSを利用した犯罪が相次いで大量の逮捕者が出たのは、二十七年前のこと。あたしが生まれる十年前だった。
 そのときの法的措置はとても厳しかった。粛清っていっていい。インターネットを活用したビジネスは潰滅。コンピュータゲーム産業も、もちろん完全にすたれた。
 以来二十五年間、市場に出回るゲームは、すべてオフラインだった。インターネット回線による通信システムは、全面禁止。家庭用ハードウェアと家庭用ソフトウェアで完結する「ハコ型」のみOK。
 特別認可オンラインRPG『PEERS' STORIES《ピアズ・ストーリーズ》』が配信解禁となったのは二年前のことだ。

LOG IN?
――YES

 ピアズは、オンラインゲーム業界再生のための第一歩。二度と犯罪を蔓延させてはならないから、管理体制は徹底している。
 オンライン本編のプレー時間は、一日四時間まで。最初のダウンロードにだけ料金が必要で、それ以外の本編での課金は、制度そのものが存在しない。
 システムエラーが少ないのもピアズの特徴。プロのエンジニアが全力でサポートしてるらしい。ピアズ内の治安維持は法律系のエキスパートが担当してる。
 基盤産業の希薄な日本が生き残りをかけて展開する国家プロジェクトが、コンピュータゲームだ。外国に先駆けてオンラインゲームを解禁したのも、その一環。

PASSCODE?
――****************

OK! ALOHA, SHA-LING!

 画面の中に現れたのは、アタシ。オーロラカラーのツインテールを揺らす少女剣士、シャリンだ。
 あたしは唇の両端にリップパッチを着けた。リップパッチはマイクの集音器であり、同時に、口元の表情をアバターと連動させる装置でもある。あたしが笑えば、シャリンも笑う。
 戦闘コマンドは、音楽系ゲームと同じシステムだ。かなり変わってる。ピアズの開発者の趣味らしいけど。
 バトルに使うのは、八つの矢印。上・下・左・右の四方向と、それを四十五度回転させた斜め四方向。
 バトルが始まると、画面手前に小ウィンドウが開かれる。リズムとフレーズに合わせて矢印が降ってくる。小ウィンドウの下にある「ヒットライン」に達する瞬間、タイミングよくコマンドを入力する。
 リズムの正確性が大事なの。スキルが成功するか失敗するか、どれだけの威力を発揮するか、それを決定するのはリズム感と指先のテクニック。
 高度なスキルを発動させるには、高度なテクニックが必要になる。初歩的なスキルはBPM120。つまり行進曲のスピード。上達しても、大抵のユーザの限界はBPM220くらい。それ以上になると、もう矢印を目で追えない。
 あたしの視覚は人並み外れている。特異高知能者《ギフテッド》としての能力だ。あたしなら、BPM400のロングフレーズも完璧に視認できる。もうすぐBPM480の新スキルも出るんだって。楽しみ。
 手慣れたコマンドを入力すると、シャリンの剣が鮮烈な光を発した。オーロラカラーの髪が、キラキラと、ひるがえる。ローズピンクの目が輝いて、小さな唇が口角を上げた。
 跳躍。七閃する剣光。
“Wild Iris”
 うん、いつもながら調子は上々。
 では、いざピアズの世界へ。あいつらが待つ、冒険の島へ。
 ホヌアの中央台地、東部。荒野と草原が交互に現れて、モザイク模様になっている。
 北部の高山から吹き下ろす風は気まぐれだ。乾燥しきっているかと思えば、急に、雨や霧を連れてくる。
「ここが、ネネの里なの?」
「小さな村だね」
 カロイモとサトウキビの畑が広がっている。ブタを飼ってるのが見える。木の実や果物を採っている村人がいた。
 里の代表として挨拶したのは、若い男だった。優しそうっていうか、気弱そうな印象だ。
「このようにひなびた里に、ようこそおいでくださいました。ワタシはクラと申します。長の代理を務めております」
 少年って呼んでもいい見た目で、むき出しの上半身は細く引き締まってる。でも、戦士の体つきじゃない。職業としては「農夫」なんだと思う。こんな村の住人だし。
「さっそくだけど、ヒイアカのホクラニを返してちょうだい。って言っても、クリアしなきゃいけない条件があるんでしょうけど?」
 ステージに登場するキャラクターは、AIだ。プログラムのとおりに動いて、しゃべる。アタシが口を開いて会話を促す必要はなくて、ニコルのユーザがボタンを押せば情報が聞き出せる。
 実際、アタシは今までAIとしゃべったりなんかしなかった。淡々とボタンをクリックして、ストーリーを進めてた。
 でも、今は違う。ラフやニコルとは、声に出して会話しなきゃいけない。自然な流れで、AIにまで話しかけてしまう。
 クラはアタシの言葉に反応して肩を落とした。
「ヒイアカさまがご結婚なさること、そのご婚姻の儀にホクラニが必要となること。そうしたことはすでにうかがっています。ワタシたちネネの民も、ヒイアカさまのご結婚を祝福しております。すぐにでもホクラニと贈り物を持ってフアフアへ参りたいのですが……」
「ですがって、なによ?」
「ないのです。ホクラニがネネの里にないのです」
「ない?」
 クラは地面に膝をついた。すがるような目でアタシたちを見上げる。
「ネネの里にお預かりしていたホクラ、『神々《アクア》の星』は、盗まれてしまったのです。どういたしましょう? 皆さまのお力をお借りすることはできませんか?」
 ニコルは眉尻を下げて、お人好しな笑顔をつくった。
「盗難事件ね。そうきましたか。ここは『はい』しかないよね。ボクたちにお任せくださいよ、と」
 ニコルのユーザが選択に答えたみたい。クラの表情がパッと輝いた。
「なんとお心強い! 皆さま、感謝いたします。立ち話のままというのもなんです。ワタシの家へおいでください。ことのあらましを、もう少し詳しくお話しします」
 クラに引き連れられて、アタシたちは、里の奥にある長の家へ向かった。
 長の家っていっても、ずいぶん原始的だ。いわゆる、竪穴式住居。
 地面を掘って造ったかまどが真ん中にある。丸太の柱と、タケの枠組みと、茅葺きの屋根や壁。窓がないのは悪霊の侵入を防ぐためなんだって、ニコルが知ってた。
 クラは、一人暮らしではなかった。がっしりとした体格の男が家の隅で寝ていた。アタシたちの姿を見て、のそりと起き上がる。頭にも腕にも脚にも包帯が巻かれている。大ケガしてるみたい。
「戻りました、とうさま」
 クラは男の前にひざまずいた。男はアタシたちに視線を向けた。
「客人か? 旅の戦士どのとお見受けするが。ワシはネネの里の長だ。ケガを負って、体の自由が利かない。話はすべて、ワシの代理を務めるクラから聞いてくれ」
 くぐもった声で告げて、男はまた横になった。
 アタシたちは、かまどのそばのムシロの上に、輪になって座った。クラがアタシたちに尋ねる。
「まず、何からお話ししましょうか? 順を追って説明しようにも、ワタシ自身、混乱していまして……」
「ニコル、任せるぜ」
「そうね」
「了解。選択肢は三つあるんだけど、最初はやっぱりホクラニの行方について教えてもらいましょーか」
 クラは、ひとつ、うなずいた。
「ワタシたちネネの民は、ご覧のとおり、自然任せに生活しています。十七年前、ワタシが生まれた年に、大きな旱魃が起こったそうです。その際、ヒイアカさまはネネの里においでになり、ホクラニに祈りを捧げ、雨乞いの舞を舞ってくださいました」
 思わずアタシは口を挟んだ。
「ちょっとちょっと、十七年前から踊り子やってた? ヒイアカはいくつなのよ?」
「さあな? 神の血を引いてるらしいし、そのへんは自由自在なんじゃねえの?」
「実はオバサンってこと?」
「その言い方はねぇだろ」
「クラは十七なら、アタシと一緒だわ」
「お、マジ? 『中の人』の顔が見えないからってサバ読むなよ?」
「読んでないわよ、失礼ね」
 ニコルが苦笑いした。控えめなスマイルに、たらりと流れる汗のマーク。
「続き、話してもらっても大丈夫かな?」
「いいわよ」
 クラが再び動き出した。
「ヒイアカさまはホクラニをネネの里にお貸しくださいました。ホクラニは、人の願いを叶える貴石です。冷害や虫の害、流行病やモンスターの襲来……里を脅かすことが起こるたび、ワタシたちはホクラニに願いました。ホクラニは願いを聞き入れ、里を救ってくれました」
 ニコルが合いの手を入れた。
「それが盗まれたわけなんだよね。いつの出来事?」
「一昨日の晩、つまり十三夜月の晩でした」
「その状況、詳しく聞かせて」
「ホクラニの祠は、里の真ん中にあります。人が寝静まった夜中であっても、番犬たちは起きていたはずです。しかし、祠の番犬も家々の番犬も吠えませんでした。翌朝、気が付いたときには、ホクラニは消えていたのです」
 ラフが口を開いた。
「じゃ、番犬をたぶらかしたか眠らせたか。それとも内部者の犯行ってオチかな」
「ワタシたちがお預かりしていたのは、神々《アクア》の星です。神々《アクア》がホヌアの夜に集う望月のころ、最も強い力を発揮します。今宵は、その望月です。ですから、今宵にこそ、ホクラニを盗んだ者はその力を利用しようとするはずだと、ワタシは思っています」
「犯人の手がかりはないのかしら?」
 アタシの一言に、クラはハッキリと慌てた。
「こ、心当たりですか……それは、その……」
 ホクラニ盗難の情報はこれ以上、聞き出せなかった。
「コイツ、確実に何か知ってるよな」
「そうだね。まあ、次の情報を聞かせてもらおっか。長さんのケガについて、っと」
 クラはふるふると頭を振った。気持ちを切り換える仕草みたいだった。
「皆さんはこれまでにモオキハと戦ってこられたでしょう? 大トカゲの姿をしたモンスターです。あの大トカゲのことを、ホヌアの古い言葉でモオキハと呼びます」
「中央台地にゴロゴロいるアイツらのことね。ほんと、ヒットポイント高くて厄介だわ。派手なピンクのと地味な緑のと、二匹連れで出てくるとイヤになる」
「モオキハの繁殖期は、十二年に一度、訪れます。今年がちょうど、そのときに当たります。ですから、オスのモオキハは、メスの気を惹こうとしています。喉元から胸にかけて、鮮やかな色に変化させています」
「ふぅん。色違いがいるのは、そういう理由なのね」
「十二年に一度のこの時期、戦い方を知らない者は里の外へ出ません。若いオスはたいてい、年長のオスとの競争に敗れます。そのような若いはぐれ者は、とても凶暴なのです」
 ラフとニコルが顔を見合わせた。
「いやはや、モテない男はつらいよな」
「どこの世界も一緒だね」
 アタシはクラの話を先回りした。
「長のケガの原因は、はぐれ者と戦ったせいってわけね」
「先日、里の幼い兄弟が、言い付けに背いて森へ出掛けました。ネネの長である父は彼らを追いました。そして、はぐれ者に襲われた兄弟をかばって……体の強い父ですが、失血がひどく、一時は危なかったのですよ」
「痛ぇ話だな」
「父が言うには、森に居着いてしまったはぐれ者は本当に危険です。モオキハの中でも、最も大きく気性の荒いアリィキハ。あれが里を襲うことがあったら、ワタシたちには、打つ手がありません」
 クラの話はここで一段落した。
 ニコルはネネの里の買い物事情を尋ねた。
「旅の必要品、買えるの?」
「食品や薬を商う店、腕の立つ整体師の家があります。里の外れには温泉もあります。マップに書き込ませていただきますね」
 アタシはちょっとイライラして、ムシロの床を平手で叩いた。
「ホクラニ関係の話は、結局あれだけなの?」
 クラはビクッとして目を伏せた。
「……少し、考えをまとめたく存じます。夕刻に再びこちらへおいでください。『あのかた』はおそらく、今宵、動きを起こすはずですから……」
「あのかたって誰よ?」
 詰め寄ってみても、クラは黙っていた。