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 あれは中学一年生の、ちょうど今くらいの時期だった。

 社会科の授業で、聖徳太子の時代を勉強していたときのことだ。

「えー、厩戸皇子、つまり聖徳太子は当時の中国の隋に対して使いを送りました。はいじゃあ、高橋さん。あ、ええと、優一郎さんの方ね。その人物の名前は?」

 当時クラスにはもう一人、高橋萌乃というチビっこい女子がいて、下の名前をいちいち言われるのは俺たちが指名されるときのお約束だった。

 俺は立ち上がって答えた。

「ええと、『小野の妹』です」

 ほんの一瞬、教室が静まりかえった。

 ん?

 なんだ、どうした?

 俺、なんか変なこと言ったか?

 あれ?

 オノノイモウト?

 言い間違いに気づいたときには手遅れだった。

 次の瞬間、教室が大爆笑に包まれていた。

「小野の妹って、だれだよ、おい」

「おい、小野、おまえの妹だってよ」

 クラスにちょうど小野という男子生徒がいたのだ。

「すげえじゃん。おまえんち、遣隋使の末裔かよ」

「小野の妹、見てみたい」

「会わせろよ」

 急に注目を浴びた小野が困惑していた。

「知らねえよ。うちに妹なんかいないし。いても、うちの妹が遣隋使なわけないだろ」

 先生も笑いをこらえるのに必死でクラスを静めるどころではなかった。

 と、そのときだ。

 俺の右隣で拍手が起きたのだ。

「なるほど、『小野の妹』ですか。とても素晴らしい」

 パチン、パチン、パチンと名家の姫君らしくゆったりと手を振って大仰な拍手を繰り返しながら、左衛門真琴が立ち上がって俺の方を向いたのだ。

 ざわついていた教室が一瞬にして静まりかえる。

 みんなの視線が俺とその右隣のお嬢様に集中していた。

 いや、あの、お願いですからやめてください。

 俺は当惑しながら立ち尽くしていた。

 彼女は長身で中学一年生の時にすでに百七十センチもあった。

 頭一つ分突き出ている感じだったから、普通に目が合うだけでも緊張してしまう。

 大人びた雰囲気の割に凹凸のない体型で、一部の男子からは電柱みたいだと評されていた。

 まさかそのせいというわけではないだろうけど、俺の住んでいる住宅街は地方の小都市のくせに電線が地中化されていて、電柱がない。

 なんでも国の災害対策電線地中化モデル地域とやらに指定されているんだそうだが、そこにも左衛門家の力が働いているというのは考えすぎだろう。

 そんな姫君が、俺の失言のどこがお気に召したのか、何度もうなずきながら拍手を続けている。

 先生まであっけにとられて教卓に手をついたまま俺たちの方を見ているだけだった。

 もう一人の高橋が机に突っ伏しながらおなかを抱えて笑いをこらえている。

 それはそうだろう。

 俺の言い間違いもひどいが、それに対して立ち上がって拍手までするお姫様もなんだか訳が分からない。

 だが、その浮世離れしたギャグセンスのおかげで、俺の失敗がどこかに雲散霧消してしまったことも確かだった。

 左衛門家の姫君が満足げに座ると、自然と何もなかったかのような空気になり、先生の咳払いを合図にそのまま授業が続けられた。

 俺はよく言い間違いや書き間違いをする。

 地理のテストでも、ヨーロッパ連合の略称を『ヨU』と書いてしまって、先生から注意を受けてみんなに爆笑されたこともあった。

 そのときも左衛門家のお姫様の力業で事なきを得た。

「まあ、奇遇ですわ。実はわたくしも『雪』という漢字の下を、アルファベットの『E』にしてしまうことがあるのですよ」

 べつに、そんなこと誰も聞いていないし、なるべくなら俺の失敗もスルーしてくれた方がありがたいのだが、彼女の微妙なフォローのおかげで他の連中はツッコミどころを失ってしまい、俺はいじられなくてすむのだった。

 こういったちょっとした失敗は対応を誤るとイジメのきっかけになることもある。

 だが、この街では左衛門一族には誰も逆らえない。

 左衛門のお嬢様が良いと評価するものは、とにかく良いのだ。

 そんなわけで俺はどうもクラスの連中から彼女のお気に入り(ペット)として認定されたらしく、どんなにつまらない失敗をしても、いつしか穏便にスルーされるようになっていた。

 そして、決定的な出来事がもう一つあった。

 中学一年生当時、俺たちのクラスでは、休み時間にベランダでサッカーをする『ベランダ・ワールドカップ』という遊びが流行っていた。

 短い休み時間だし、ボールがベランダから校庭に落ちたら試合終了というゆるい遊びだったけど、窓ガラスにぶつかると危ないので、窓を全開にしてやるのがお約束だった。

 そうなるとまた当然、窓から教室にボールが飛び込むこともある。

 それはちょうど俺がトイレから戻ってきたときだった。

 席に着こうとしたとき、ベランダから飛び込んできたサッカーボールが俺の顔にぶつかったのだ。

 横から飛んできたからまったくのノーガードだった。

 一瞬何が起きたのか分からなかったのだが、次の瞬間、鼻から何かあたたかい物が流れるのを感じた。

 鉄分の味が口の中に広がっていく。

 鼻血だと思ったときにはもうボタボタと机の上に血がしたたり落ちていたのだ。

 男子連中はベランダからそんな俺の様子を見て大笑いしていた。

 今こうして思い返せばひどい連中かもしれないけど、その時はそれほど大事だとは思わなかったのだろう。

 まあ実際、ボールがぶつかって鼻血ブーなんて、いまどき漫画でも見ない光景だ。

 俺自身、よけられずにぶつかったんだから、間抜けで格好悪いと思ったくらいだ。

 でも、俺の右隣にいた長身のお嬢様は違っていた。

 いきなり立ち上がったかと思うと、俺の鼻の付け根を左手でぎゅっとおさえつけたのだった。

 しかも、力がこもりすぎていたのか、そのまま押されて俺はドシンと机の上に尻餅をつくような格好で座らせられたのだ。

 ボールがぶつかった衝撃よりも、むしろそっちの方が衝撃的だった。

 しかし、彼女の処置は的確で、後から知ったのだが、鼻血というのは鼻の付け根の骨がへこんだ部分をおさえるのが効果的で、喉から胃へ流れていかないように、寝かせずに顔をややうつむき加減にして座らせた方がいいのだそうだ。

 そして彼女は俺の顔についた血を紙でふきはじめた。

 なんだかゴワゴワするなと思ったら、それは福沢諭吉が印刷されているあの高級な紙だったのだ。

 ティッシュがなければお札でふけばいいじゃない。

 いやいや、よくないだろ。

 俺は鼻血のことよりも、このお札をどうやって弁償したらいいのかと、そっちの方を心配しなければならなかった。

 まだ野口さんなら俺の財布にも一枚だけ入ってるけど、よりによって諭吉さんかよ。

 子供銀行券で勘弁してください。

 だが、動揺する俺の鼻をきつくおさえつけながら彼女は言った。

「わたくしのために身を挺して壁になるとは。あなたのおかげでわたくしは怪我をせずにすみました。礼を言います」

 いや、俺はただトイレから戻ってきただけなんですけど。

 俺からすれば鼻血を処理してもらったのだからこっちが感謝しているくらいなのだが、どういうわけか姫君は俺が彼女のために身代わりになったと勘違いをしたらしい。

 もう一人の高橋、高橋萌乃がティッシュを持ってきてくれて、自分で鼻に詰め込んでおいたら休み時間の間に鼻血は止まってくれた。

 結局それだけで何事もなく済んだのだが、左衛門家のお嬢様のお札攻撃に恐れをなしたのか、ベランダにいた連中もみんなで謝ってくれたし、それ以来ベランダ・ワールドカップは二度と開催されることはなかった。

 というわけで、中学三年間を無事に過ごすことができたのは彼女のおかげだという自覚がある以上、俺は姫君には逆らえないのだった。

 ちなみに血まみれの諭吉さんはちゃんと取り替えてもらったらしい。

 それに比べたら、消しゴムを拾い上げるくらい安いものだ。

 それが毎日午後イチの恒例行事だったとしても。