最近、冬の息吹きを感じるようになった。
山から下りてくる冷えた風や湿った土の匂い。スマホと繋いでいるイヤホンから流れてくる音楽も、自然としっとりとしたバラードを選曲するようになっていた。
俺は靴の底を擦るようにして線路沿いを歩く。
見えてきたのは海を囲むようにそびえている堤防だった。
あまり高くないコンクリートの壁に足をかけて、慣れた足取りで登る。潮の香りが濃い堤防に立つと、海風が勢いよく顔の横を吹きつけていった。
ここは物資が行き交う港町として栄えた小樽の街。
現在も歴史的建造物が多く残り、ノスタルジックな雰囲気を色濃く見せる市街から、少しだけ離れた海沿いの町に俺は十六年間住んでいる。
基本的にこの海岸付近は漁業集落になっていて、住宅地は段丘上にあり、積雪対策のためにへの字屋根の家が多く並んでいる。
市街から流れるようにして観光客が海を見に来たりするけれど、口を揃えて言うのが「景色はいいけどなにもないね」だ。
たしかに自然豊かではあるけれど、記念に写真を撮っておこうとカメラを向けたい場所は少ないかもしれない。
でもこの町にはコンビニもラーメン屋もある。ゲームセンターはないけれど、インベーダーゲームができる喫茶店がある。
不便さはない。
けれど移り変わることのないこの町のように、俺の時間も前には進んでいかない。
空を飛んでいる海鳥とテトラポッドに打ち寄せる波をぼんやりと眺めた。
漁船は何隻かあるけれど、飛び込んで波にうまく乗れたら、きっとすぐに発見はされないだろう。
そんな危うい考えが、ずっとずっと頭の中にある。
六年前のあの日から、ただ惰性で生きているという感覚しかない。だから俺は日課のように堤防に立っては海を見てしまうのだ。
覚悟はある。あとは勢いだけ。なんとなく今日はいけそうな気がする、と堤防から右足を出した。……と、次の瞬間。
「悠生くん、ダメ……!」
大きな声とともに、突然後ろから誰かに抱きつかれた。
風に乗って漂ってくる甘い匂い。背中から伝わってくる温かい体温と、腰回りを覆うようにして掴んでくる力は痛いくらい強かった。
ビックリして俺は堤防の半分まで出ていた足を引っ込める。確認するように振り向くと、そこにはクラスメイトの茅森玲奈がいた。
高校に入学して半年。誰とも馴れ合うことなく過ごしている中で、彼女の印象といえばとにかく騒がしいというイメージしかない。
紺色のブレザーに赤いリボン。スカートから伸びている足は細くて白い。俺の胸辺りしかない身長の彼女はとても小柄だけれど、学校では存在感を放っている。
欠点を見つけるのが難しいほどの愛らしい顔立ちは男子にも女子にも人気で、彼女はいつも人に囲まれている。
どこにいても目立つ彼女と、教室の隅でひとりでいることが多い俺に接点なんてあるはずがなく、むしろ話したこともない。
それなのに茅森は今、俺の背中にぴたりと張り付いたまま動こうとしない。
「あのさ、とりあえず離れてくんない?」
表情に出さなくても動揺はしていた。人に抱きつかれたのは生まれて初めてだったから。
「やだ。だって悠生くん海に飛び込もうとしてたでしょ」
さらに彼女は俺の身体をきつく絞めてきた。
ただ下を覗こうとしていた可能性もあるというのに、茅森は俺の自殺願望に気づいているような口調だ。
それだけ誰の目から見ても危うく見えるということだろうか。
そもそもクラスの人気者である彼女に名前で呼ばれていることにも驚いている。
「離れてくれないと身動きとれないから」
制服の上からでもわかる華奢な手首。どう扱っていいのか戸惑いながらも、しがみついていた彼女の身体をそっと引き剥がした。
離したあとも抱きつかれていた感触が強く残っていた。小柄なくせにバカ力だなと思っていると、茅森は怒ったように声を張り上げきた。
「海に飛び込むなんて絶対にダメだよ!」
ふたりの緊迫した空気とは裏腹に、堤防の横の道路ではガタガタとおかしな音を出すおんぼろトラックが通過していった。
汽笛が聞こえたかと思えば、遠くにいたはずの漁船が白波をたてて戻ってきていて、長く続いている線路沿いの柵の向こうでは、電車が駅に到着しようとしていた。
静かだった辺りが一気に騒がしくなってしまい、俺はため息をつく。
せっかくいいタイミングだったのに、茅森のせいで台無しだ。
「ちょっと、悠生くん。聞いてるの!?」
茅森が子犬のようにキャンキャンと吠えていた。
同級生たちからは才色兼備なんて言われている彼女が、目じりを吊り上げて怒っている。
……こんな顔もする人なんだ。
普段は笑ってばっかりだから、意外だった。
というか、なんで俺のために怒ってるんだろう。全然、毛ほども関係ないというのに。
「私、なんでも話聞くからどこかに移動しよう! この近くにカフェとか落ち着いて話せる場所ってあったりする?」
相変わらずいい匂いがする艶やかな黒髪を揺らしながら、茅森が言った。
クラスメイトから好かれているので、悪い人ではないと思う。でも俺からしたら親切すぎてかなり怪しく見えてしまった。
もしかして人気者の彼女に付いていったら負けとか、声をかけられて舞い上がっていたら罰ゲームとか、陰キャラな俺をはめようと誰かが仕組んでいるのではないかと考えた。
一応周りを見渡してみたけれど、人の気配はない。だだっ広いところなので、隠れられそうな場所もなかった。
「あ、移動するのが面倒ならそこの駅でもいいよ。中にベンチとかあったよね?」
仕組んでないとすると、ますます怪しすぎる。だって茅森が俺にかまう必要性はどこにもない。
「心配とかしてくれなくていいよ」
俺は素っ気なく言い放ち、堤防から飛び下りた。もちろん海側ではなく道路側にだ。
「え、ま、待ってよ。私も下りる!」
俺みたいにジャンプできないようで、彼女はおそるおそる中腰になっていた。
そんな状態になるなら、登ってくるのだって大変だったろうに。その行動は、ますます茅森を怪しく見せた。
手を貸せばどこまででも付いてきそうだったので、俺は茅森を置いてそのまま歩き去った。
だらりとしなっている電線にオリーブ色のアオバトが止まっていた。希少で謎めいている鳥らしいけれど、わりとここら辺ではよく見かける。
……鳥は翼があって羨ましい。
羽を広げて飛びたてばすぐに別の場所へといける。
俺も早く飛びたってしまいたい。なのに、今日も失敗だ。
「ただいま」
二階建ての一軒家に着いて玄関を開けた。出迎えはない。俺はこの広い家で今はじいちゃんとふたり暮らしをしている。
紐靴を乱雑に脱いで、そのまま自分の部屋に続く階段を登った。
制服のままベッドに横になると、柱についている印が目についた。それは黒いマジックで記されてある身長の記録だった。
俺の誕生日ごとに母さんがいつも嬉しそうに書いていたことがよみがってくる。
『そんなのいちいち記録しなくていいから!』と気恥ずかしさで乱暴に言ったこともあったけれど、内心はとても嬉しかった。
俺が二十歳になったら止めると言っていた身長記録は十歳のままで止まっている。
ヒリヒリと胸が痛くなって、俺は思い出の記録に背を向けて目を瞑った。
次の日。いつもと変わらない朝を迎えた。
学校までの道のりは徒歩で十五分ほど。周りとのコミュニケーションを遮断するように、耳にイヤホンを装着するのはいつものことだ。
下り坂ばかりが続く通学路の途中で、野良猫が数匹集まっていた。まるで朝の挨拶をしているように見えるが、一方の俺は登校中から教室に入るまで誰とも会話を交わさなかった。
無言のまま自分の席に座り、机に顔を伏せていると、元気な声が飛んできた。
「悠生くん、おはよう!」
それはイヤホン越しでもよく通るほど。低血圧の俺にはなかなか耳に響く声をしている。