僕は立ち止まったまま、開いているその扉をじっと見つめた。
記憶違いでなければ、今扉の開いている部屋が、管理事務所に使用されている一室だ。
僕の耳もとで無機質な音が断続的に聞こえている。電話の発信が強制終了されて不通音に切り替わっていた。僕はその場に立ったまま、一階奥のその部屋を見つめて再コールする。
ルルルル…ルルルル。
僕の心臓が狂おしく早鐘を打つ。
僕は耳元から携帯電話を遠ざけた。
そして迷わず走り出し、どうでもいい、何が現れてもいいと覚悟を決めて、その部屋へと駆けた。
扉に手を掛けて中を覗く。玄関が目に入る。
廊下に無造作に転がった携帯電話が、着信音を響かせたまま震えてうごめいていた。そしてその手前、靴置き場と廊下の丁度境目あたりでうつ伏せに横たわる、文乃さんの姿があった。
僕は咄嗟に彼女を抱き起こし、膝の上で仰向けに寝返らせた。意識を失っていると思われた文乃さんは眉間にぐっと力をこめ、何かに耐えているような苦悶の表情を浮かべていた。
「文乃さん!僕です!新開です!文乃さん!」
やがて痙攣する瞼がゆっくりと開き、文乃さんと目があった。
「…新開さん。来てくださったのですね」
「来ました。間に合って良かった」
何に間に合ったのか。何に間に合わないと思ったのか。僕はそれを考えるのをやめた。今目の前にいる文乃さんは確かに呼吸し、微笑んでいる。それだけで良かった。
部屋の奥へと移動し、岡本さんが使用している薄手の毛布を拝借した。
壁際に並んで腰かけ、文乃さんの肩にその毛布をかけた。僕は、まるで寒くなどなかった。
「何があったんです?」
と僕が聞くと、
「ありがとうございます」
と伏し目がちに微笑んで、文乃さんは答えた。
「まさか、来ていただけるとは思いませんでした。あれだけのことをご経験されて、今またこんな時間に、こうしてここまで。…夢を見ているようです」
「いえ」
僕のした質問に対する解答としてはズレているかもしれない。だがそんな事はどうでも良いと思える程僕は舞い上がった。来て良かった。しかし、それはやはり言えないのだ。
「震えていらっしゃいますね。岡本さんにお借りして、コーヒーか何かいれましょう」
照れ隠しにそう言って僕は立ち上がり、小振りなキッチンに向かった。
「では、日本茶を」
と文乃さんが言った。
僕は小さく笑って周辺を探したが、見当たらなかった。
「すみません。そこにある私のカバンの中に、あるんです」
「ああ、これですか。僕が触っても?」
「ろくなものは入ってませんから」
カバンの中には緑茶の粉末が入ったパックが数袋と、ウイダーンゼリーが二つ入っていた。遠足気分なのか、この人は。僕は思わず吹き出し、背後で僕の様子を観察していたらしい文乃さんに、
「でしょ?」
と言われた。
湯呑に入れた緑茶とゼリーのパックを彼女に手渡し、隣に腰を下ろした。
「聞いてもいいですか?」
僕の問いに、
「どうぞ、なんなりと」
文乃さんは優しく頷く。
「今日、昨日ですかね、あの時、文乃さん、何かお経のような、祝詞のようなものを読んでいらっしゃいませんでしたか?」
「皆さんが霧状の黒い何かに、覆われてしまった時ですね。あれは、お経でも祝詞でもありません。私にはそういった方面の知識は全くないんですよ」
「そうなんですか?」
「専門的な知識が必要な時はすぐに、三神さんに電話しちゃいます」
「なるほど」
「私がそこそこ大きな力を使う時は、どうしても集中力が必要になってきます。そういう時、自分に暗示をかけるように、強制的に自分の内面に焦点を当て、目の前の事象から意識をそらす目的で、あの詩を諳んじるわけです。あれは、『白き蟷螂』という名前の、昔の詩なんですよ」
「詩。ポエムですか?」
「そうです。ポエムです。…笑いますか?」
「まったく!…とても力強く、素敵でした」
「あはは、それは私ではなく、詩のおかげですね」
「どちらもです。今度大学で調べて読んでみます」
「是非。…あ、調べモノと言えば、あの後長谷部さんの仰っていたお話が、私ずっと気になっていたんです」
「岡本のさんのご自宅でお伺いした?」
「はい。図書館でこの土地の歴史を調べて下さったという、結果報告のお話です。だけど何が、どこが気にかかったのかが今一つぼやけた感じがして。お話に続きがあるような、あるいはもっと別な何かが気になっているような。遅い時間に申し訳ないとは思ったのですが、どうしてもお話をお伺いしたくて、皆さんとお別れした後でまた戻って来たんです」
「それからずっと、ここに?」
驚いて尋ねる僕の言葉に、文乃さんは頭を振った。
「ここへ来たかったわけじゃないんです」
彼女の言葉に、僕の背筋が伸びた。こうして文乃さんと並んで座っているせいで忘れそうになる。
ここは、敵陣のど真ん中だ。
「今晩は岡本さんのご自宅でお二人ともご一緒されると聞いていたので、そちらへお伺いするつもりでした。ですが、気が付いたらマンションの下に立っていました」
「呼び寄せられた、ということでしょうか」
「分かりません」
文乃さんは湯呑に口を付け、あち、と小さな声を出した。
「混同されてしまいがちなのですが、私にはいわゆる霊感のようなものは、備わっていないのだと思います」
と、文乃さんは言う。
「いや」
僕が否定しかけると、
「私が感じるのは、例えば生き物が発する熱とか、分かりやすく言えばオーラ的なものや、そういった波動なんです。三神さんも仰っていました。ワシらが反応する部分には見向きもせんくせに、ワシらには全く反応できんものが見えるんだねーって」
と、あまり上手くない物まねを交えて説明してくれた。
「熱をもたないものには、無反応なんですか?」
「周辺の空気と温度差があれば、それが熱くても冷たくてもわかります」
「なるほど。今日僕たちを取り囲んだ何かは、やはりその周辺の空気とは違ったわけですね」
「はい。それをよく霊感だと勘違いされるようなんですけど、私本当に、幽霊とか見たことなくて」
「羨ましいですよ、それは。存在を認知することは出来るけど、見なくて済むんですから」
「なるほど。そうかもしれませんね」
文乃さんは目を細くして笑い、また湯呑に口を付けて、あち、と肩をすくめた。
「聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
即答する文乃さんの横顔を見つめて、僕は言った。
「なんなり…」
「何故…亡くなられたんですか?」
あなたはの恋人は…。
文乃さんの表情は変わらなかった。しかし、彼女は答えようとはしなかった。