財布も持たず、タクシーに飛び乗った。
 そして気持ちばかりがはやる車内で、ついに僕は電話口で叫んだ声の主、その正体に思いあたっていた。
 文乃さんと初めて会ったあの日、大学の食堂にて辺見先輩を交えて三人で話をした時だ。突然僕らの背後から話しかける声があった。

 …面白くなんかありませんよ。

 あの時そう囁いた声の主に違いない。
 それは今日三神三歳さんが教えてくれた、千里眼にて僕と辺見先輩を遠視したという、三神幻子(まぼろし)と言う名の17歳の少女ではあるまいか。
 その少女が僕と文乃さんの通話する携帯の電波に強制干渉し、文乃さんの危機を知らせてくれたのではあるまいか。
 とするならば、文乃さんの今いる場所は明白だ。タクシーの時計に目をやる。午前二時を回っている。
 何故彼女はこんな時間に、おそらくはたった一人で、「レジデンス=リベラメンテ」にいるというのだろう。


 ここでいいですか。
 運転手に言われて車が停車したのは、やはりマンションのエントランス前ではなくバス通りと呼ばれる手前の道路だった。僕は適当なウソを交えて説明し、今から人を呼んで来てお金を支払うから、少しの間だけ待っていて欲しいと懇願した。
「いりません」
 運転手は前を向いたままそう答えた。
 いらない、とは?
「お代はいりません、結構です。ですから早く降りてください。帰らせてください」
 何を言ってるんだこの運転手は?
「いや、すぐそこのマンションの管理人と知り合いですから」
「早く降りろったら!」
 運転手は勝手にドア開け、サイドブレーキを下ろした。アクセルを踏めば発進できる状態で、僕の下車を待っているのだ。僕は何度も確認し、車の外へ出た。その瞬間タクシーは物凄い勢いでぶっ飛んで走り去った。マンションへと続く道路を見やり、そしてすでに消え去ったタクシーの背中を見つめるように、視線を戻す。
「はあ…」
 僕は運転手の非常識な態度に怒る事もできなかった。認めたくはないが、彼の気持ちは分かるのだ。おそらくあの運転手には霊感があるか、この近辺で心霊体験をしたことがあるのだろう。焦点を合わせないようにあえて視線を戻したが、それでも僕が降り立った大通りからマンションへと続く道路は異常であるとしか言えなかった。
 道路の両脇に、民家の外壁を向いて立つ人影が何十体も立っている。午前二時だ。彼らがマンションの住人であるとは考えられない。しかし以前にも述べたように、動かなれば僕にはそれが生きている人間とほとんど区別がつかないのだ。しかも壁際を向いているせいで彼ら特有の無表情さを見て取ることもできない。この状況はかつてない程に恐ろしかった。
 僕は携帯電話の着信履歴を呼び出し、文乃さんに掛けなおした。受話口を耳に当て、神経をそこへ集中させながらマンションへの道を歩き始める。
 僕が一歩一歩マンションへ近づくたび、道路の両側に立つ人影が、音もなく僕と同じ方向を向いて歩き始めた。その人影は音もなく残像を引きずり、この世ならざる者であるとはっきり認識出来た。僕の奥歯がカタカタと震え、何度も文乃さんの名を叫びそうになった。だが声を発することが心底怖かった。
 これまで経験したどの怪異よりも恐ろしく、そして不可思議だった。『彼ら』は明らかに僕の存在に気が付いている。しかしその僕に近づいてくるわけでもなく、ただ僕と同じ速度で隣をついてくるだけなのだ。
 怖い…、怖い…。文乃さん…、文乃さん…。
 何度コールしても、文乃さんは出ない。
 マンションのどこかにいる事だけは間違いないだろう。しかし件の事象が発現する場所は、岡本さんに言わせれば常に同じではないらしい。文乃さんがたった一人で問題解決に動き出したのだとしても、現場がどこなのか僕にはさっぱり分からないのだ。
 遠く離れていれば、もしかしたら僕の目にも例の事象が視認出来るかもしれない。だが相性の悪い事に、僕が今日体験した「物凄く臭い何か」はなんの前触れもなく超至近距離で突発して現れる。一度巻き込まれてしまえば精神力で対抗出来るものではない。臭くて痛くて、到底眼を開けていることなど出来ないのだから。
 そうこうするうち、なんとかマンションエントランスへと辿り着いた。
 あれだけ恐ろしかった道路脇の無数の影は、いつの間にか僕の目にも映らなくなっている。しかし相変わらず辺り一面には、とろりとした濃密な冷気が漂い続けていた。姿を見せないだけて、この場に辿り着いたあの世の者たちがまるで吹き溜まりのように集結し、渦巻いているのが分かった。
 とても長居出来る場所じゃない、頭がおかしくなりそうだ。一刻も早く文乃さんを探さないと…。
 もし文乃さんが歩き回っていないとすれば、岡本さんが勤務する管理事務所に陣取っているのではないかとあたりをつけた。確か一階の、一番奥の…。
 再び歩き始めた僕の足が、すぐにまた立ち止まってしまった。まるで足の甲を地面に打ち付けられたみたいに。


 …扉が一枚、開いているのだ。