辺見先輩がそわそわと時計を見上げ、時間を気にし始めた。
 岡本さんのご自宅からであれば、早くも帰りのバスの最終時刻が迫っているとの事だった。気が付けば既に午後九時時を回っている。来る時は勢いでタクシーを使ったがすぐに後悔し、帰りにはバスを使おうと事前に取り決めをしていた。万年金欠学生の身分で、タクシー利用はやはり贅沢なのだ。
 この時点で事件の概要を掴み切れていないことや、解決に導く確固たる対処法を用意出来なかったことを、文乃さんは改まって詫びた。それは相談者である長谷部さんや岡本さんのみならず、説明を求めていた池脇さんや、応援のために駆け付けてくれた三神さん、そして僕と辺見先輩にまで彼女の謝罪は及んだ。
 文乃さんは決して、自分の能力を過信していたわけではないと思う。その証拠にプロの拝み屋である三神さんや、昔ながらの友人であり、ひたすら強い陽の気を放つ池脇さんを側に置き、あまつさえ学生である僕や辺見先輩にまで助力を求めたのだ。彼女の言葉通り、文乃さんなりに人脈を駆使して集めたチームだったはずなのだ。本来どのような役割がそれぞれに与えられていたのか、今となっては定かではない。しかし言える事は、ただひたすらに、直面した事態が異常すぎたのだ。
 僕はいたたまれない気持ちになり、頭を下げる彼女の側までいって、
「こちらこそ、なんのお役にも立てず、申し訳ありませんでした」
 と謝罪した。自分でも何をしに来たのは分からないほど、何も出来なかったと痛感している。僕はただこの日、三神さんいわく害のない子供の霊を見ただけである。
 しかし文乃さんは強い表情で、この埋め合わせは必ずすると僕に約束した。そして長谷部さんと岡本さんに対しては、事件が解決するまで責任を持って調査を続けますと再三にわたって頭を下げ、その日はあえなく解散となった。


 帰りのバスの中で、僕と辺見先輩は一言も口をきかなかった。
 きっと辺見先輩は後悔しているだろう。いつもの軽いノリで文乃さんの頼みを引き受けた事もそうだし、結果として僕を引き摺り込んだのは自分であると、そう悔んでいるであろうことも察せられた。
 一つしか年の違わない辺見先輩は、サークル内だけに留まらず、とても交遊関係が広いと聞いている。人付き合いが上手く、誰からも気さくに声を掛けられ、それに応じる場面を実際に何度も目にしてきた。本来であれば今日一日を共にした行動も、傍から見ればデートのように受け取られる可能性もあるわけで、根暗な僕にとってはひょっとすると大学生活で一番楽しい日になっていたかもしれなかった。
 だが僕は今日、この世と隣り合わせに確かに存在する幽闇の淵に呑み込まれ、いつも明るく朗らかな辺見先輩の口から、喉がひしゃげたような悲鳴を聞いた。
 呼吸の音すら聞こえない程弱く疲弊しきった辺見先輩に、もし、「後悔しているか」と聞かれたら、僕はなんと答えていただろう。もちろん、もう二度とあんな恐怖を味わいたくはない。だがどこかで、後悔はしていないという気持ちもあった。
 それは、やはり…。
 バスが停車し、僕の降りる停留所に到着した。大学からなら辺見先輩の実家の方が近いのに、リベラメンテからでは彼女の方が遠い。その事が何だか、今は皮肉に思えた。立ち上がろうとする僕の背中に、辺見先輩が手を当てた。
 動きを止める。
「…よし。元気出していこうか」
 元気のない声で、辺見先輩はそう言った。
「はい」
 と僕が答えると、彼女は周りが振り向くほどの勢いで、僕の背中をバシッと叩いた。



 その日の晩遅く、机の上で僕の携帯電話が光った。もともと誰からも連絡が来ることはない為、着信音も鳴らさずバイブの設定も切っている。手のひらサイズの黒い箱は、先端の一部分を激しく明滅させて、奇跡のような着信を全力で僕に教えてくれた。
 僕は勉強机に向かい、窓の外をただ眺めていた。いつの間にか雨は上がり、星が見える程には夜空が澄んでいる。着信の入った携帯に気が付き、壁掛け時計に目をやると、深夜一時半を過ぎていた。
「もしもし」
 僕はそう答えたが、相手から反応があるまでに、ほんのわずかなノイズが聞こえた。
「新開さん、ですか?」
「…ああっ」
 文乃さんだった。
「そうです、新開です。今日は、お疲れさまでした。今、どちらですか?」
「…今ですか? 今、ええーっと」
 女性に尋ねてはいけない質問だっただろうか。僕はヒヤリとして背筋を伸ばし、
「いえいえ、仰らなくていいんです、すみません」
 と一人で頭を下げた。
「…新開さんは、今ご自宅ですか?」
「そうです。部屋で、夜空を見ていました」
「ロマンチックなんですね」
 彼女のあたたかな微笑みがすぐそばに感じられ、僕は顔を真っ赤にしながら、
「いや、あの、今日体験した事に対する恐怖を紛らわせるための現実逃避というか、なんというか」
 と意味不明な言い訳を口にする。それはあながち間違いではなかったが、相手に理解を得られる話でもなかった。
「今日は、本当にすみませんでした」
「文乃さん、もう謝るのはやめにしませんか。僕は本当言えば、もっとあなたのお役に立ちたかったです」
「何を仰いますか。来て下さっただけでも、どれほど心強かったことか」
「いやいやいやいや」
「ですが、…新開さん?」
「…はい」
「お気持ちは、嬉しいのですが」
 そこで、文乃さんは言葉を切った。
 僕は一瞬何を言われたのか分からなかったが、突然ぽーんと体を小突かれ、階段を転げ落ちるような錯覚に陥った。


「もう、そのお気持ちは封印してくださった方が、よろしいのかと」