この人は、こんなにも瞳に狂気を孕ませるような人だったか。
龍芳のことで箍が外れた?
主上は私の前に立つと、腰を折って耳元で囁く。
「君はわたしの為に生まれてきたのだ。龍芳には分不相応。わたしから奪おうなど死罪に値するだろう?」
恐ろしい言葉に、一瞬、呼吸が止まった。
「し、ざいって……龍芳はなにもっ」
奪おうとはしていない。
龍芳はただ千枷を想い、会いに来ているだけだ。
疲れた千枷を労って、また会えると見送ってくれる。
離れがたそうな瞳でいても、引き止めたことなんて一度たりともなかった。
感情が高ぶって、思わず主上の着物に縋り掴んだ時だ。
袷の隙間に、首から下がる翡翠色の勾玉を見つけた。
その瞬間、胸が締め付けられるような感覚がして、逃すように息を吐く。
「……縁、様。その勾玉は、もしかして」
覚えがあった。
色や形ではなく、勾玉そのものが持つ霊気のようなものに。
何より……。
「ああ、さすがだな。わかったのかい? これは、君が妖狐の穢れを祓った時に媒介となっていた勾玉だ。君とわたしの思い出の品だよ」
とてもよく似ているのだ。
勾玉かにじわりと湧き出る禍々しい気配が、私の中に植え付けられた呪詛の雰囲気に。
「あなたが……私を」
千枷を、その手にかけるのか。
言葉にはならず、一歩後ずさると、主上は目つきを鋭いものに変える。
「誰かいるか」
「はい、こちらに」
「しばらく斎王を部屋から出すな」
「は、はい」
主上はひれ伏す女官を一瞥し、視線を私に戻すと笑みを作った。
「全て終わるまで、ここでおとなしくしているんだよ」
わたしの斎王。
うっとりと呼んで、主上は元来た道へと踵を返した。
「……おとなしく? するわけないじゃない」
見つけられたのだ。
あとは意識を現代にいる私へと戻し、保管されている場所に行って祓うのみ。
……なのだが、そこではたと気付いた。
「戻り方がさっぱりだった」
「斎王様?」
独り言ちた声に、見張りを任された女官が首を傾げる。
私は愛想笑いで対応しつつも、自分の体に戻る方法を思案する。
鏡で見ているだろうミヅハや母様たちと相談できればいいのだが、意識が私に代わってからしばらくミヅハの声は聞こえていない。
呼びかけたら聞こえるだろうか。
試しに「ミヅハ? 聞こえる?」と尋ねてみるも、返事はない。
帰って来たのは、女官の怪訝そうな視線だけだ。
「えっと……今から神の声を聞きます」
「神殿ではなく、ここでですか?」
「出るなということですし、仕方ないのでここで。もしかしたら、おかしな会話が聞こえるかもしれませけど、神が相手なので気にしないでくださいね」
「は、はあ……」
女官の顔は完全に変人を見るようなものだが、気にしている暇はない。
今の私は意識はいつきだけど、体は千枷だ。
斎王として過ごし、日々祈りを捧げている今の千枷の力を借りられれば、ミヅハとの会話もできるかもしれない。
御座に座ると瞼を下ろし、深呼吸をする。
お願い、千枷。
もうひとりの私。
少しだけ力を貸して。
集中し、ミヅハの気配を探す。
庭園の木の葉を揺らす風の音。
空を飛ぶ鳥のさえずり。
離れたところから女官たちの話声が聞こえる中、微かに、その声を捉えた。
それは耳ではなく、頭の中に直接届く。
『いつき』と私を呼ぶミヅハの声を感じ取り、心が躍った直後。
『早く戻ってこい!』
「わっ、ビックリした!」
張り上げられた声に私の肩が大きく跳ねた。
『最期の時まで時間がない。今の要領で俺の神気を辿りこっちに戻れ』
「や、やってみる。でも、その前に伝えないといけないことがあるの」
『勾玉だな? こっちでも鏡に映って確認できた。だが、どこにあるか見当もつかない』
呪詛を増幅させている呪具が勾玉と判明しても、場所がわからなければ祓いにもいけない。
でも、私にはひとつ、心当たりがあるのだ。
『へぇ~。歴代の天皇様の。何か面白い逸話はあった?』
『そうねぇ、面白いというか、少し切なくて恐ろしげだったから印象に残っているものはあったわ』
『どんなの?』
おはらい町、五十鈴川沿いのカフェを出てさくちゃんと交わした何気ない会話。
『ずっと昔の天皇様がね、愛した女性を繋ぎ止めるために狂って殺してしまうのだけど、魂を自分の元に留める為に使った呪具が今でも現存していて、伊勢にあるって逸話よ』
これが、冷泉天皇と千枷のことを示しているのであれば。
「さくちゃんなら場所がわかるかもしれない。ミヅハ、さくちゃんに」
呪具が勾玉であるのか、もしそうであればどこにあるか知っているかを聞いてほしいと、そう続けるつもりだったが、まるで邪魔するように意識が朦朧とし始める。
「な……に……急に……」
『いつ……く戻……お前の……危ない』
焦るようなミヅハの声が途切れて聞こえる。
ミヅハの気配を辿って自分の体に意識を戻さなければと思うのに、抗いがたい力に引きずられるように、私は……。
「斎王様!?」
その場に倒れた。
「いつきは戻ったのか!?」
「ミヅハ、少し落ち着きな」
瀬織津姫は、俺を諫めるといつきの額に手を当て確かめる。
「……いや、まだ向こうだね。天照の姉さん、強制的に引っ張ることは可能かい?」
「できるならとっくにやってるわよ。でも、八咫鏡に力を送りながらじゃうまくいつきちゃんの意識をこっちに繋げなくて」
さらには呪詛が目隠ししているらしく、いつきの気配を見つけても糸が切れるようにまた見失ってしまうのだと天照様が説明した。
早くしないと時間がない。
八咫鏡が映す過去の映像は、いつきと千枷と意識の影響か、映画のように途切れては繋がる。こちらの時間と比例してはおらず、実際、映像の中ではすでに一年が経過しているのだ。
しかし、こちらではまだ一時間ほど。
日付さえまたいではいない。
映像には、女官たちに介抱されている千枷の姿が映っている。
今、兼忠が、龍芳の元に向かっているなら、千枷の命が終わるのも……もう間近だ。
横たわったままのいつきの顔色は悪い。
先ほどいつきは友人の元へ向かえと言いたかったのだろうが、ここから離れている間にその時を迎えたらどうなる?
友人の元へ向かい、勾玉を探すくらいなら、須佐之男さんのところへと一瞬考えてしまうが、それはできない。
いつきは、俺がその手段に出るのを良しとせず、八咫鏡で過去を覗く方法をとったのだ。
「ミヅハ、桜乃ちゃんのところに行っておいで。もしもの時は、あたしが全力で祓う」
「ダメだ」
以前、呪詛の力を抑え込んだ影響で、瀬織津姫は今の俺よりも祓う力が弱く、回復するには何百年という時間が必要なはずだ。
何より、瀬織津姫も天照様と同様、八咫鏡に力を送っている。
そんな状態で祓えば負担はさらに圧し掛かり、間違いなく命を失うだろう。
いつきはそんな結末を望まない。
では、どうするのが一番得策なのか。
冷静に考えようとすればするほど焦りに負け、うまくまとまらず、拳を強く握った時だ。
「呪具はオレと大角が見つけて祓いますよ」
「干汰、大角……いつからそこに」
「言っとくけど、ここにきた時にはすでに扉は開いてましたからね」
多分、慌てて俺が部屋に飛び込んだ時に閉めていなかったのだろう。
加えて、呪具のくだりを理解しているということは、そこそこ最初の頃から様子を伺っていたはずだ。
興味本位で立ち聞いていたわけではなく、いつきを心配し、千年前の当事者として放ってはおけなかった、というところか。
大角が「若旦那」と俺の前に跪く。
「どうか、俺たちに任せてください」
「姫さんの友人のところには、今朝霧が向かいました。この時間に訪問するなら女の方がいいだろうってことで。あ、家の場所は豊受比売さんがネットを使って調べてくれましたよ。でもって、夕星は猿田彦さん夫婦を呼びに行きました」
どうやら皆、聞き耳を立てていたらしい。
八咫鏡と呪詛というふたつの大きな力が働けば、確かにやってきて中の様子に気付くのも仕方ないのだが。
瀬織津姫が満足そうに頷く。
「皆いい判断といい動きだ。呪具の方を祓えたとしても、いつきの中に巣食う呪詛を祓う時、いつきはギリギリの状態になる。そこで婚姻の儀を行い、いつきの命を繋ぐって算段だね」
「さっすが天のいわ屋を立派に成長させた敏腕女将。ちなみに、今さっき、司天寮の式神からこいつをもらいましてね」
干汰が指に挟んでピッと見せたのは、陰陽師たちが使う霊符だ。
「姫さんに使うには危険だが、勾玉が相手なら遠慮なく使える」
ニッと笑った干汰は八咫鏡が映す千枷の姿を見つめ、ほんの一瞬、悲しそうに目を細める。
しかし、すぐにいつきへと視線を移し「頑張れ、姫さん」と呟いた。
いつきも、干汰も、大角も、過去を乗り越えるために動いている。
俺は決心し、干汰と大角に頷いてみせた。
「わかった。俺はいつきの意識を引っ張り上げる。勾玉の方は頼んだぞ」
強く頷き返したふたりは、すぐに部屋を出ていった。
代わりに部屋に入ってきたのは、驚くことに、ふたつのタブレットを手にした豊受比売さんだ。
天照様が楽しそうに目を見張る。
「あららぁ? 珍しいじゃないの~」
「ほ、本当は自分の部屋にこもってたいんですけど、皆さんから連絡係を任されてしまったので。でも、いつきさんを助けたい気持ちは皆さんには負けませんからっ!」
豊受比売さんは、八咫鏡に目覚めた千枷の姿が映っているのを見てから座卓にタブレットを並べて置いた。
画面に地図が映し出され、よく見ると三つ、小さなアイコンが動いている。
ひとつは内宮の御手洗場にあり、もうひとつはおはらい町を抜けていくところだ。
さらにもうひとつは、たった今五十鈴川駅の近辺で止まった。
「それはなんだ?」
「これは、以前、司天寮の阿藤さんにいただいた追跡アプリです。司天寮の皆さんは式神を飛ばしてるようなんですが、今回はそれぞれに神鶏を遣わせて、タブレットで様子を見れるようにしました」
話ながら五十鈴川駅付近にあるアイコンをタップすると映像に切り替わる。
民家の玄関口で、おっとりと首を傾げるのはいつきの友人、桜乃だ。
『冷泉天皇様の使った勾玉のお話のかしら?』
朝霧は興奮したように『そう、それだわ!』と両手を合わせる。
『保管されている場所ってわかるかしら?』
『ええっと、本には島路山のどこかだと書かれていましたけど……』
島路山は内宮の南東に位置する山だ。
伊勢神宮近隣の森林と合わせて神宮林とも呼ばれており、稜線を共有する神路山には豆吉が住んでいる。
ふたりの話を聞きながら、豊受比売さんは別のタブレットを操作し始めた。
『島路山……広すぎるわね』
『あの、緊急事態って、いっちゃんに何があったんですか?』
『話すと長くなるの。落ち着いたら必ず報告に来るから、舞女の桜乃さん。どうかいつきちゃんの無事を祈ってあげてね』
『は、はい……!』
朝霧は礼を述べると身を翻して道を戻り、宙を舞うぽってりとした神鶏を見上げる。
『豊受比売様、聞こえます?』
「こ、こちら豊受比売です。拝見してました」
『それなら話は早いわね。勾玉は島路山らしいけれど、それらしい話、聞いたことあります?』
「いえ……物が物ですし、ひっそりと祀ったんじゃないでしょうか。今調べていますが、司天寮が作った司天マップにも特に載っていないようですね……」
アプリだとか司天マップだとかよくわからないが、とりあえず豊受比売さんが司天寮の人間たちとそこそこ繋がりがありそうなのはわかったところで思いついた。
「……豆吉だ」
「え?」
「豊受比売さん、干汰たちに連絡して豆吉に会うように伝えてくれ。島路山は神路山に住む豆吉の散策コースだ」
もしかしたら、それらしき場所を知っているかもしれない。
「わ、わかりました!」
豊受比売さんが干汰たちに連絡を取り始め、俺はまだ眠ったまま千枷を確認してからいつきを見下ろす。
「いつき」
手を、いつきの頭に近づけると触れないように注意しながら瞼を閉じ、集中した。
過去にいるいつきの意識を引っ張り上げるため、細く伸びる気をゆっくりと辿っていくと、天照様が言っていた通り突然視えなくなる。
呪が邪魔をしているのだ。
俺の神気を通さないとばかりに黒いモヤが集まってくるような気配を感じ、進むのを止めた。
無理に突破すればいつきの命を危険に晒すかもしれない。
仕方なく、一度引いて先に会話を試みる。
「いつき」
八咫鏡を介して神気を過去に飛ばすと、俺の気配を感じ取るのが上達したのか千枷の唇が「……ミヅ、ハ」と名を紡いだ。
***
私を呼ぶ声が聞こえた気がして目を覚ます。
「……ミヅ、ハ?」
声に出してみても返事は聞こえず、気のせいだったのかもしれないと体を起こした。
御帳台から出ると、外は真っ暗だ。
「そうか……私、倒れたんだ」
ミヅハに勾玉の話をしようとして、急に意識が遠のいた。
さくちゃんのことは伝えられたはずだけど、どうなっているのか。
そっと部屋の様子を伺うと、女官がひとり、うつらうつらと頭を揺らして眠っている。
見張りを任されたのだろうが、限界がきてしまったのだろう。
逃げたりはしないから、横になってほしいゆっくり寝かせてあげたい。
声をかけようかと迷っていた最中、庭にあやかしの気配を感じ視線をやると、大猫の姿のままで大角さんが現れた。
「千枷っ……」
「大角? そんなに慌ててどうしたの?」
千枷の口調を意識しながら話しかけると、大角さんは息を切らしながら前足にきつく巻いた布から手紙を咥え取る。
「これを……龍芳から預かった」
「龍芳から……?」
龍芳からの手紙を、意識が私の時に開いていいものかと戸惑う。
不思議なことに、私がしたことを千枷は自分の行動として記憶に残しているが、それでも最初に見るべきは千枷なのではと悩んでいれば、大角さんが「読まないのか?」と首を傾げた。
終わりの時はいつなのか。
もしも時間がないとしたら、読んでおいたほうがいいのかもしれないと、私は申し訳なく思いつつも意を決して手紙を開く。
【 君の幸せをねがう。来世で、かならず添い遂げよう 】
急いでしたためたのか、文字は乱れているけれど確かにそう読めた。
来世でと、なぜ龍芳は今を諦めるのか。
『とりあえずは龍芳の元へ向かった兼忠が戻るのを待とう』
『龍芳には分不相応。わたしから奪おうなど死罪に値するだろう?』
主上は、兼忠様に何をさせに行かせた?
もしや、死ぬのは千枷だけではなかった?
手紙を持つ手が震える中、恐る恐る尋ねる。
「龍芳は……どうしたの?」
カンちゃんは、逢瀬がバレたかもしれないことを大角さんが伝えに行ったと言っていた。
この手紙を預かったということは、大角さんは龍芳とは会えたのだろう。
では、何があったのか。
大角さんは、項垂れるとぽつりぽつりと言葉を紡ぐ。
「ふたりのことがバレたかもしれないから、しばらくは村から離れた方がいいかもしれないと伝えた直後……兼忠が村に入ったと村のあやかしから報告があり、龍芳はその手紙をしたためた」
『大角、俺に万が一のことがあれば、これを千枷に渡してくれ』
『手紙か?』
『ああ。こんな約束で縛り付けるのは、卑怯かもしれないけどな』
それでも、千枷が絶望しないように、少しでも希望を持って今生を生きてくれればいい。
だからどうか、千枷を頼む。
願わくば、生まれ変わったその時も皆でまた過ごせたらと告げ、大角さんに手紙を託した龍芳は……。
「川沿いの林に隠れながら逃げたが、途中で兼忠に追いつかれて……」
庇おうとした大角さんを制し、千枷の元へ行けと叫んだらしい。
血を吐く思いで走り出した大角さんが振り返ると、その双眸に映ったのは、五十鈴川の川縁で兼忠様の刀に倒れる龍芳の姿。
「すまない……助けてやれず……すまなかった……」
大角さんが涙を零す中、千枷の意識が大きな波のように押し寄せる。
私はその波に逆らわずに身を委ね、千枷に任せた。
「たつ、ふ……さっ……」
震える唇が、愛しくてたまらない人の名を紡ぐと、堰を切ったように涙が溢れ頬を濡らす。
胸が張り裂けそうなほどの絶望に嗚咽が止まらず、呼吸もままならない。
ごめんなさい。ごめんなさい。
胸の内で繰り返される後悔と謝罪。
会いたいと希わなければ、龍芳は今も村で平穏に過ごせていたのかもしれないのに。
ごめんなさい。
あなたを死に追いやってしまってもなお、会いたくてたまらないなんて。
「ごめん、なさいっ……龍芳……」
手紙を抱き締めながら崩れ落ち、何度も名を呼び続けるも……返るのは、夜の静寂だけだった。