【伊勢 異類婚姻譚】水神さまの花嫁は 恋の縁を廻る


***


『ああ、若旦那。高天原から女将と天照様が戻ったようだよ』

 夕星から知らせを受けた俺が瀬織津姫の部屋を訪ねると、部屋の扉は少し開いていた。
 だから、いつきの苦しそうに呻く声が聞こえて、俺は慌てて扉を開け放ったのだ。

「いつきっ!?」

 叫ぶように呼んだ矢先、いつきの身体を禍々しい気配が覆い、瞬く間になりをひそめる。

「ミヅ……」

 俺の名を口にしかけ、ぐったりと倒れてしまったいつきを、瀬織津姫が抱き起こした。
 その傍らに片膝をつき、俺はいつきの様子を注意深く見ながら瀬織津姫と天照様に問いかける。

「いつきに何があった」
「いつきちゃんの願いを受けて、呪詛を祓うための手がかりを探そうってことでね、八咫鏡で過去を見るつもりだったのよ」

 険しい顔でいつきの様子を見下ろす天照様に続き、瀬織津姫もまた眉根に皺を寄せて呟く。

「恐らく、過去の光景と名前に呪詛が反応したんだろう」

 瀬織津姫の視線が、いつきから宙に映されている映像へと移された。
 つられるように俺も目をやると、そこに映し出された懐かしい景色に思わず胸が締め付けられる。

 気のいい河童の隣を歩き、時折笑みを零すいつきによく似た少女。

 彼女の名を紡ごうとして、思い止る。
 俺が呼べば、いつきの中にある呪詛が何をしでかすかわからない。
 前世で与えられていた名は口にしないように気をつけ、意識を失っているいつきの様子を伺う。

「いつき、聞こえるか」

 苦しみからは解放されたのか、ゆっくりと呼吸はしている。
 だが、呼びかけに反応はなく、瞼すらピクリとも動かない。
 それでも、初めて倒れた時のように「いつき」と声をかけ続けていた時だ。

『どうした姫さん』
『声が……呼ぶ声が、聞こえた気がしたの』

 過去に生きる彼女が辺りを見渡していた。

 その反応に、俺だけではなく瀬織津姫と天照様も目を見張り、八咫鏡が見せる映像に注目する。

『声? 誰の? あやかしか?』
『いつき……って、誰かの声が』

 千年前の彼女がいつきの名を口にし、俺たちはさらに驚愕した。

「……俺の声が、届いているのか?」

 意識のないいつきを見つめながら呟く間も、彼女らの会話は続いていく。

『いつき? 姫さんの名じゃないじゃないか』
『そう……そうよね。なぜ私だと思ったのかしら』
『それより、客も待ってるし急ごう』

 促され、彼女が頷いたと同時。

『ええ』
「ええ」

 いつきが、彼女と全く同じタイミングで返事をした。
 一瞬、意識が戻ったのかと思えたが、いつきの瞼は閉じられたままだ。
 瀬織津姫が、目を閉じるといつきの額に手を当てる。

「……魂はここにある。意識だけが過去に引っ張られたんだろう」
「呪詛のせいか」
「多分ね」

 今は何も感じないが、先ほどのは確かにあの夜に感じたものと同じ邪気だ。
 八咫鏡の力で繋がった過去に呪詛が反応し……呪詛に潜むあいつの邪念が、いつきを過去に閉じ込めたのかもしれない。
 そう思うと、千年経っても相変わらず勝手なやつだと、怒りではらわたが煮えくり返りそうだった。

「なぜ、俺の声が彼女に聞こえたんだ?」

 湧き上がる怒りを抑えつつ、どちらともなしに尋ねると、天照様が膝を折っていつきを覗き込む。

「どれ、アタシも。いつきちゃーん、聞こえるー?」

 いつきに向かって天照様が呼びかけるが、どちらの彼女にも反応はない。
 続いて瀬織津姫も試してみたが、やはり声は届いていないようだった。
 ならばもう一度と俺が名を呼ぶ。
 だが、今度は何の反応も示さず、俺たちは一様に首を捻った。

 天照様が「八咫鏡には通信機能なんてついてないんだけど」と話し腕を組んだ時、いつきにあった瀬織津姫の視線が俺へと持ち上がり捉える。

「どちらの子も特別な力のある子だからってのもあるだろうけど、ミヅハの声が届いたのは、前世でふたりに深い繋がりがあるからかもしれないね」
「そうねぇ。とりあえず、いつきちゃんの意識が戻るのを待ちつつ、こっちで手がかりを探すことにしましょうか。ただ……」

 天照様が言葉を切り、映像の向こうにいる彼女へと真剣な眼差しを向けた。

「最期の時を迎える前にはどうにかして意識を戻せるよう、ミヅハはいつきちゃんにちょいちょい声をかけてあげて。あっちに持っていかれた状態で殺されたら、いつきちゃんがどうなるかアタシにも予測がつかないわ」

 最悪の場合は、いつきが死ぬかもしれない。
 天照様は言葉にこそしなかったが、その危険性が高いことを示唆していた。
 いつきを失うかもしれない。
 あの時と同じように、何もできずに。
 そんなのはごめんだと、俺は立ち上がった。

「須佐之男さんに頼んで、いつきに俺の命を与える」

 発した言葉に、ふたりの表情が厳しいものに変わる。
 瀬織津姫は「なるほど、これか」と零してから頭を振った。

「やめときな。呪詛付きの魂を相手にするには年若いあんたには危険だ。何よりいつきは望んでない。ここに駆け込んで、必死になって過去を覗くという手段を選んだのも、あんたに無茶させたくないからだ」
「だが、このままでは」
「ミヅハ、あたしがあんたに願ったのは、命を賭すことじゃない。いつきを救うことだ。救って、約束を果すんだよ。あんたたちはまた死に別れる為に生まれ変わったんじゃないだろ」

 叱咤され、白くなるほど強く拳を握る。

 ──救えずに、約束をした。
 一方的で身勝手なそれが確かに彼女に届けられたことは、約束を託したあやかし……大角から聞いている。
 受け取った彼女は、手紙を抱き締めながら崩れ落ち、涙を流し、俺の名を呼び続けていたとも。

 無茶をすれば、俺はまた……愛してやまない者を、残して逝くことになるのか。

「……手がかりを探して、あいつを必ず追い出すぞ、いつき」

 追い出して、今度こそ救ってみせる。
 胸の内で誓い、俺はまたいつきの名を呼んだ。







 暗闇の中で声が、聞こえた気がする。
 いつき……と、私を呼ぶ声が。
 私は……いつきという名だったか。
 意識がはっきりせず、自分の存在さえ曖昧な中、また誰かが私を呼ぶ。
 今度は、違う声。

『……か……』

 呼び方も違う気がする。
 早く返事をしなければと口を開いたが、音にはならない。

『……かせ』

 誰なの。
 誰が”私”を呼んでるの?

『千枷』

 耳心地のいい声がハッキリと聞こえた途端、私の胸は震え、意識が一気に浮上した。

「千枷、どうした?」

 目的地である竪穴住居の前、背後からかけられた声に私は振り返る。
 茅葺屋根を被った家屋、背の低い入り口からひょっこりと顔を出したのは、私の幼馴染である龍芳だ。
 彼は、端整な顔にある二重の瞳を丸くして私を不思議そうに見つめていた。

「あ……うん、さっきから呼ばれてる気がしてて」
「俺ではなく、か?」
「違うような……そんな気がするような……」

 高い秋空を彩るように色付く紅葉。
 葉が、はらはらと柔らかな風に乗って落ちるのを目にしながら曖昧に答えた私に、龍芳は「またあやかしか?」と小首を傾げた。

「声の主を探すなら手伝う。が、今はとにかく中へ」
「そ、そうね。干汰から私にお客様が来てるって聞いたけど」
「ああ、なんでも京の都から来たらしい。千枷の力を借りたいそうだ」

 私の力とは、赤子の頃からずっと普通の人には視えないものが視え、言葉を交わせるという体質のことだろう。

 この特殊な体質は生まれた村の人たちだけでなく、実の両親からも気味悪がられ、疎まれ、私は……五つの時に捨てられた。
 泣き疲れ、歩き疲れ、途方に暮れていた私を見つけてくれたのが龍芳のじじ様だ。
 じじ様は私をこの清水村に連れて帰り、両親のいない龍芳と一緒に私を育ててくれた。

 神やあやかしが視える私を、じじ様と龍芳は気味悪がったりはしなかった。
なぜならば、じじ様も私と同じく彼らを視ることができるからだ。
 龍芳にはその力は受け継がれてはいないけれど、彼は信頼するじじ様の視えるものを疑わず、じじ様お手製の薬を煎じる手伝いをしていた。
 お世話になっている私も見様見真似で手伝い、なるべく村の人たちに白い目で見られないよう気をつけながら生活をしていたのだけれど……。

 十を過ぎた頃、ついに村の人々に知られてしまったのだ。
 畑仕事の最中、いつも優しくしてくれるおばさんの悲鳴が聞こえて駆け付けると、川に【小豆洗い】というあやかしが現れ、おばさんは恐怖に腰を抜かしていた。

 目は皿のように大きく、狐の如く尖った口元から覗く鋭い牙。
 伝承では、小豆を洗う音や歌で気を引き、人を崖や川に落とす恐ろしいあやかしとされているが、現れた小豆洗いは温厚な性格で、さらに言えば私の知り合いだ。
 おばさんの悲鳴に驚愕し岩陰に隠れ、しゃがみこんでいた小豆洗い。
 彼は私を見るなり『ち、千枷の知り合い?』と話しかけてきたものだから、おばさんは信じられないものを見る目を私に向け、助け起こそうとした私の手を払いのけると逃げるように去っていた。

 清水村は小さな村だ。
 私の噂はすぐに広まり、気味悪がられ、皆からあからさまに距離を置かれた。
 幸いだったのはじじ様と龍芳に対しては、村の人たちの態度がそこまで変わらなかったことだ。
 でも、それは今だけかもしれないと考え、私は村のはずれに自分用の家を構えた。

 じじ様が亡くなったのはその翌年の冬のこと。
 お墓にはあやかしたちが手を合わせにやってきて、皆、じじ様のおかげで人と関わるのも悪くないと思えたのだと語っていた。
 そうして彼らの話を聞き、私は思ったのだ。
 人と、神やあやかしたちがもっと上手に関われるようになったら素敵だなと。

 以前であれば皆に溶け込めるようにと視えぬ振りをしていたが、すでに気味悪がられている身。
 であれば、好きに振る舞ってしまえと開き直った私は、村の人があやかしに困らされればそれとなく仲裁に入り、あやかし側が人に脅かされることがあれば原因を見極めてできる限り双方の角が立たないように治めた。

 時に頭頂部の皿にひびが入ってしまった河童を助けたり、時に人に追われて洞窟に隠れていた大猫を匿ったり。
 村の女性が難産で苦しんでいた際は、あやかしたちの協力により安産の神【木花咲耶姫(このはなさくやひめ)】様の力を借りたこともあった。

 そうやって、心の赴くまま行動していくうちに、私に対する村の人たちの風当たりが柔らかくなり、神、あやかしのことで何かあれば頼られるようになって。
 気付けば私は、近隣の村からも神、あやかしに関する困りごとの相談を請け負うようになったのだ。

 そう、今までは遠くても近隣の村だ。
 しかし、今回訪ねてきたという人は、京からこの伊勢国(いせのくに)まで遥々やって来たらしい。
 私のことが、そんな遠くまで噂になって届いているのかと思うと驚きを隠せない。

 失礼のないようにと、少し着崩れた小袖を直し、ぽっかりと開いている入り口をくぐった。

 木と藁でできた窓のない室内は薄暗いけれど、中央に設置された囲炉裏の炎が、囲んで座るふたりの男性を照らしている。
 ひとりは、太い眉を乗せた険しい顔つきの男性。
 大柄な体の腰には太刀が携えられている。
 もうひとりは見目麗しい男性で、滅多にお目に架かれないような上質な狩衣を纏っており、ひと目で位の高い方だとわかった。

 パチリと小さく火が爆ぜる音と共に、ふたりの視線が私へと寄こされる。
 私は慌てて頭を下げ「大変お待たせいたしました!」と詫びた。

「はじめまして。千枷と申します」

 作法などわからず、とにかく自分の中で知る丁寧な言葉を心掛ける。
 すると、くすくすと小さく笑う声がして、何かおかしかっただろうかと頭を上げた。
 笑っていたのは見目の良い男性の方だ。

「あ、あの、何か失礼を?」
「いや、都で耳にした噂とは全然違ったのでね」
「それは、どのような……?」
「伊勢国の清水には、あやかしを従え神々とも渡り合える老婆がいると」
「ろっ、老婆……」

 どこで私の歳がトンと跳ね上がってしまったのか。
 人の口から伝わっていく噂の恐ろしさに苦笑する私の背後で、堪えきれなかったのか龍芳が吹き出すのが聞こえた。

「挨拶が遅れてすまない。わたしは(よすが)という。大内裏に勤める者だ」

 縁と名乗った男性が立ち上がると、大柄な男性も腰を上げ「わたしは縁様の従者、藤原兼忠(ふじわらのかねただ)という。お見知りおきを」と姿勢よく腰を曲げた。

「縁様と、藤原兼忠様、ですね」

 よろしくお願いしますと私が再度頭を下げると、縁様が「さっそくだが、千枷殿に頼みがあってこちらに参ったのだ」と話し始めた。
 どうやら、縁様の縁者が伊勢国に住んでいて、その方から困ったことがあると相談されたらしい。

「何でも、五十鈴川が幾日も濁ってしまっているとか」
「五十鈴川が、ですか?」

 清水村に通る川は五十鈴川に合流する派川だ。
 こちらは特に問題なく川に濁りは見られないので、伊勢湾からの影響ではないのだろう。
 首を僅かに傾げた私に、兼忠さんが頷いて着物の懐から地図を出し、龍芳が普段薬を調合する作業台に広げた。

「方々に馬を走らせ上流から下流まで確かめたが、今のところ内宮より手前、五十鈴川の中流にだけ被害があるようだ」
「その原因に、神様かあやかしが関わっているということですか?」

 尋ねると、縁様が「そうらしい」と口を開く。

「清明……都の陰陽師が言うには、その可能性が高いと」
「そうなのですね。ですが、陰陽師様がおられるのでしたら、私ではなくその御方の方が専門なのでは……」

 陰陽師を生業にする方には会ったことはないけれど、話には聞いたことがある。
 もしも五十鈴川の濁りが悪鬼などになるものなら、私では役不足だと思いそう進言したのだけれど、縁様は笑みを浮かべた。

「伊勢のあやかしらに関しては、千枷殿の方が明るいだろう? 五十鈴川の神とは知己ではないかな?」
「知ってはいますが、幼い頃に一度会ったきりなので……」

 親に捨てられた日、じじ様に出会う前に声をかけてくれた心優しき女神様。
 彼女は五十鈴川の水神で、親友からはミツと呼ばれているのだと教えてくれた。
 もう日も暮れて危ないから休んでいきなさいと、私を小さな祠に導いて泊まらせてくれたのだ。

「いや、凄いな。神と会ったことがあるなどと口にした者は清明以外で君が初めてだ。うん、やはり君にお願いしたい。頼めるだろうか」

 米や布、銅貨でも望むものを与えると言われ、いやしくも心が揺らぐ。
 今の生活に大きな不満はない。
 けれど、畑や水田の作物も毎年順調に育つ保証もなく、何かあった時に貯えがあるに越したことはないのだ。
 龍芳にだってお裾分けできるしと、後ろで様子を見守ってくれている龍芳を振り返ると、彼は微笑んだ。

「行くなら俺も行こう」
「いいの?」
「同行しても問題がないのなら」

 龍芳が言うと、縁様は「千枷殿が頼みを受け入れてくれるならかまわないよ」と許してくださった。

「では、龍芳と共にお引き受け致します」

 お役に立てるかはわかりませんが、出来る限り尽力致しますと続けると、縁様が満足そうに頷く。

「うんうん、良かった。ではさっそく参ろうか!」
「えっ、今からですか!?」

 てっきり支度後、明朝に……という流れなのかと思っていた私は思いっきり目を見張ってしまう。
 出発に何の異論もないのか、兼忠様はさっさと入り口に立って縁様を待った。

「馬もある。路銀もある。必要な物はすべて用意してあるから、君たちは最低限の物だけ持てばいい。ということで、半刻後、村の入り口にて落ち合おう」

 半ば押し切られるように笑顔で告げられ、颯爽と去っていくおふたりを、私と龍芳は呆気にとられたまま見送る。