その店には電灯がなかった。
 かといって、真っ暗なのではなく、ぽつりとぽつりと小さな灯が空間を作っていた。ランプだ。電球のランプではなく、ろうそくに火が灯っている。
 風に吹かれていないけれど、その火は時折くすぐったそうに笑う子供のように揺れた。
 まるで、その明かりひとつひとつが、生きているみたいに見えた。

 古森麗香(こもりれいか)はその喫茶店の内装に、入る店を間違えてしまったのかと、入り口で停止してしまった。
 喫茶店、というよりもアンティークショップという印象が強かった。暗い色合いで統一されていて、媚茶(こびちゃ)色のソファがどっしりと据えられていて、その席のテーブルもまた、磨きこまれている。ランプの明かりで飴色に輝いて見えた。
 天井から釣られているランプは古めかしく、仄かな明かりで狭い範囲を照らしているが、それがむしろ、それぞれ個別の隔離された部屋のように、三つのテーブル席を区切っていた。
 窓にはカーテンが閉められている。昼過ぎ二時の陽の光をさえぎって、うっすらとした光源をもった壁みたいに見えた。

 ここが喫茶店で合っていると思いなおしたのは、その鼻孔に香った珈琲の落ち着いた匂いがあったからだ。

「いらっしゃいませ」

 入り口で棒立ちをしていた麗香に、落ち着いた男性の声が届いた。
 黒塗りのカウンターの奥から、二十台半ばといった風貌の、スレンダーな男性が微笑みかけている。この喫茶店、『くれぇん』のマスターだろうか。
 思ったよりも若い店主に、麗香は意外だという表情を浮かべていた。
 そんな麗香の様子を気にすることもなく、男性は「お好きな席にどうぞ」と会釈した。
 客はいない。カウンターの席四つ、テーブル席が三つ。小さな店だ。
 暗いためか、尚更店の中が狭く感じられた。だが、どこか世間から切り離されているような異質さが、今の麗香には心地よかった。

 麗香は一番奥の、隅のテーブルに落ち着いた。橙色の明かりが包む空間は、思った以上に特別な空間のようにも感じられるのが不思議だ。
 壁には年代物の絵画らしき油絵が沢山かかっている。どこかの国の風景のようで、幻想的だ。しかし、敷き詰めるように壁に絵画が飾られているのは、窮屈さもある。

 変わった店だな、と率直に思った。

 絵画を飾っているのなら、明かりを強くして、見えやすくすればいいのに、どうにも頼りないランプの明かりは、その絵画の全貌を露にさせない。
 カウンターの奥なんかは、食器棚の隣に大きな本棚があって、そこにはなにやら沢山の本が敷き詰められている。

「奇妙な光景でしょう?」
「あ、いえ」

 きょろきょろと店内を見回している麗香に、柔らかく響く低い声がした。まるでナレーターのように整った声色をした店主が、メニューを小脇に抱え笑顔を見せている。右手のお盆に乗せていた冷水が入ったグラスをテーブルに置いてくれた。
 一応、否定はしておいたが、麗香は内心、「ホントに変」と思っていた。

「元々は、祖父が骨董屋をしていたんです。その店を、ほとんどそのままの形で喫茶店にしたんです」
 そう言いながら、店主はメニューを手渡して来た。黒いエプロンの右胸に名札が付いていた。鶴屋、と書いてある。彼の名前だろう。
「ごゆっくりどうぞ、気になるものはじっくりと見て頂いても構いませんよ。本も、貸し出してますので」
 鶴屋は軽い会釈と共に、カウンターの奥に戻っていった。

 骨董屋――。なるほど、アンティークショップのようだと感じたのは間違いではなかったようだ。
 店内にうっすらと流れている音楽も、クリアな音色ではなく、どこかノイズが混じる昭和レトロだったり、大正浪漫を思わせる曲調だった。
 見れば、店の隅には蓄音機が置いてあって、レコードが奏でられているのである。
 まだ動く蓄音機の生の音を耳にしたことは、麗香にとって、懐かしくもあり、新鮮にも感じられた。

 メニューに目を通すと、なるほど確かに喫茶店だった。
 ブレンド、アイス、アメリカン、ウインナー。
 軽食も摂れるようで、サンドウィッチやカレーライス、パスタがあった。
 値段も並みといったところだし、一風変わっているのはこの店の空間だけだろう。
 麗香はマスターに、ブレンドを頼みグラスの水を一口だけ喉に落とした。からん、と氷が鳴って、さわやかな檸檬の風味が疲労感を回復させてくれた。

 今日は――、いや、今は実に久しぶりに一人きりになれた時間だった。
 店構えからして独特だったこの喫茶『くれぇん』に入ろうと思ったのも、まるで人の気配がしなかったからだ。独りの時間が、どうしようもなく恋しかった。
 この『くれぇん』はそんな麗香にはやっと見つけたオアシスみたいにも思えた。

 普段なら胸にあるものが今日はない。熱く、重く――騒がしい、それ――。
 麗香はそう考えて、首を振った。
 そんな風に思ってはいけないからだ。
 それは本来、大事に、大切に、愛おしく思わなくてはならない存在。そのように考えなくてはならない、尊い存在――。

 自分の、子供とは、そういう存在でなくてはならない。自らの命に代えてでもそれを護る必要がある、血の繋がった、お腹を痛めて産んだ、娘。
 動物だって、赤ん坊には無償の愛情で接する。
 麗香だって、そうだった。そうだったのに、今はそれが崩れ始めていた。

 最初は、その暖かさが愛しかった。その重みが誇らしかった。元気に泣きじゃくる声が、可愛らしかった――。

 ――一年。
 あの子が産まれて一年が経った。それが三日前。
 それまではやったことがない子育てに、全神経が注がれた。何をどうしたらいいのか、不安で、怖くて、分からない。
 それでも人に頼ったり、ネットで調べたりして娘になにかある度に、麗香は娘のために心血を注いで毎日を生活していた。
 麗香は、恵まれているほうだと自分でも思っている。
 愛する夫もいるし、頼れる義父母もいるのだから。尤も、実の両親に関しては力になってはもらえない。母は早くに他界しており、父は痴呆が激しく、まともに会話もできないほどだから。

 母親がいない麗香には気軽に子育ての相談を聞いてもらえる『お母さん』の先輩が居なかった。義母にこんな相談はできなかった。こんな人でなしであることを証明するような愛情のかけた女だなんて、相手方に伝われば、これから先、どんな目で見られるのか分からない。
 父親にもそれとなく相談をしてみたことはある。子供が生まれてからのことを。
 しかし、呆けた父親は耳も遠くて会話をするだけでも一苦労だった。相談どころか、会話をするだけでストレスがたまるような状況だったのだ。

 育児は、麗香の想像以上に厳しく大変で、苦しかった。
 毎日、どんな時間も、油断ができなかった。一分一秒、その全て、赤ん坊のために感覚を使わなくてはならない。早くに母親を亡くした経験があるからこそ、自分はしっかりと子供を育てなくてはという使命感のようなものがあった。
 お腹を空かせていたら、母乳を。
 熱を出したら、病院に。
 他の子と比べて、違う部分に気が付いたら、それは本当に問題ないことなのかを寝る間も惜しんで調べて回った。

 やがて、そんな毎日を過ごしている時、泣きじゃくる赤ん坊を胸に抱きながら、思ってしまった。

 娘の体温が、暑っ苦しい。体重を支えなくてはならない腕が痛い。泣きわめく声が、煩い――と。
 そんなことを実の娘に思ってしまったのだ。

 途端に、とんでもない自己嫌悪が麗香を襲った。
 普通の親なら、子供のことを愛おしく思うはずだ。なのに、自分にはそれができない。オカシイ、自分は間違っている。最低の母親だと。
 苦しむ母親の声を調べてみても、その人はシングルマザーで夫がいない中、頑張っていたり、姑の嫌がらせに耐え忍びながら育児をしていたり、夫の兄弟から疎まれていたり、とか障害があるものなのだ。

 でも、麗香は違う。恵まれている。夫は仕事を毎日頑張ってくれている。休日は娘の面倒を変わってくれて麗香を気遣ってくれる。
 義父母も、身重だったころから麗香を案じて、身の回りの世話だとか子育ての経験なんかを教えてくれる。

 何の不自由もないのに――。
 麗香は育児ノイローゼに陥ったのだ。

 それが、酷く麗香の心を追い詰めた。こんなにも支えてくれる人がいるのに、自分は育児を辛いと思ってしまう時がある。独りになりたいと思ってしまう。

 麗香はそっとスマホの画面を見た。前に、ネットの相談掲示板に書き込みをしていたのだ。
 自分が育児ノイローゼになってしまったこと。恵まれた環境にあるのに、育児を投げ出したくなってしまう時があることを。

 その麗香の書き込みについた回答は、辛辣なものだった。

 甘えている、とか。
 産んだお前が悪い、とか。
 無責任な大人、子供が可哀そう、とかだ――。

 グチャリ、と心の芯をねじり切られたような気分だった。
 途端に吐き気に襲われ、眩暈に倒れそうになる。
 真っ青になった麗香は、ここ、『くれぇん』に逃げ場所を求めて入ったようなものだった。

「お待たせしました。ブレンドです」

 かた、と小気味良い食器の音がして、テーブルにソーサーの上にのったカップが置かれた。
 香り立つ珈琲の香りは、内側に渦巻く嫌な感情を落ち着かせてくれそうだった。

「ごゆっくりどうぞ」

 店主が、麗香を少しだけまじまじと見ていた。きっと麗香が酷い顔をしていたせいだろう。
 麗香は取り繕うように「どうも」と小さく笑顔を被って返した。
 静かに身を引き、カウンターの奥に戻った店主は、そのまま椅子に腰かけて、本棚から一冊、抜き取りページを捲り始めた。
 その様子を見て、麗香は少し気持ちが安らいだ。
 あまりこっちのことを見ていて欲しくなかったからだ。

 店員ならば、客の様子を気にして、グラスの水が減っていたら声をかけたりと気を配るのが当然かもしれないが、彼はそうではなく、麗香から目を外し、気ままに本を読み始めてくれた。
 それに、気が安らいだ。

 ネットの書き込みのレスが気になっていた。もしかしたら、自分に寄り添ってくれるような回答も付いているかもしれない。
 しかし、大半が麗香を責め立てるものばかりだった。あれはもう見たくない。死にたくなってしまうほど、自分の不甲斐なさを思い知ってしまうから。

 カップを手に取り、一口だけ熱いブレンドを啜った。
 苦みが心地よく舌に広がり、昏く沈む感情を支えてくれるようだった。中々に、美味だ。

 麗香は暫し、珈琲を味わいながら、ノイズに包まれたBGMに耳を寄せ、瞼を下ろした。
 ネットを見るのはやめておこう。
 こういう時、ネットをすると碌なことにならない。吐き出したい気持ちを、顔が見えない不特定多数に発信しても、虚しくなるばかりだ。
 前にネガティブな気持ちをツイートしたことがある。
 それに対して『いいね』が貰えたら、気持ちの支えになるから。

 しかし、そんな後ろ向きなツイートに反応が貰えるはずもなく、麗香の愚痴は広大なネットの中に溺れて消えた。
 フォロワーなんて、冷たいもんだと麗香は思った。
 育児を開始してからは、ツイッターもやる機会がなくなった。そんな余裕もないほどに、娘に付きっ切りだったから。

 今日みたいな休日は、夫が娘の世話をしてくれるから、麗香はつかの間の休息を、一人で過ごせる。
 これがどれほど恵まれたことなのか、噛みしめながら――。

 出産から一年が経って、娘は三日前に一歳となった。
 その日は盛大に娘の誕生日を祝って見せた。まだ一歳の娘には誕生日なんて概念は分からないだろうが、私はあなたを愛していると証明したくて、麗香は娘に特別な日を精一杯伝えてやった。
 夫と一緒に写真を撮り、娘が大きくなった時、あなたの一歳の誕生日は、私たちはこんなにも嬉しかったのよ、と教えるために。
 みんなが、娘をお祝いしてくれた。
 親戚からメールも多く来た。それに対して、娘の画像付きメールで返信しては良い母親であることをアピールしていたように思う。

 なんと打算的な女なのだろう。
 ネットについたレスの言うように、自分は最低の母親だ。
 娘が可哀そうだ。こんな母親に育てられてこれから生きていくのだから。
 娘のことを面倒だと思ってしまう、人でなしの自分に――。

 この休憩が終わればまた家に帰って、母親に戻らなくてはならない。

 と、店内のBGMが止まった。
 麗香が顔を上げると、店主がレコードを取り換えているところだった。別の曲を流そうと、針を持ち上げていた。
 不意に、彼の顔を見つめた麗香に、店主の彼も視線を向けてきた。

「差し出がましいかもしれませんが、ご気分が優れないのでは……?」

 麗香の様子を見ていたのだろうか。心配するような表情で、若い男性がじっと麗香を見つめていた。

「あ、いえ……すみません。ちょっと考え事をしていたので」
「そうですか。あまり思いつめないでください。私で良ければお話を聞きますよ」

 針が、回るレコードの上に乗る。
 すると、ぶつ、と耳障りな音の後、サァーというノイズに交じってジャズが流れてきた。サックスが上品に奏でられていて、まるでこの喫茶店が夜に包まれたような雰囲気になった。
 相談相手に、見知らぬ喫茶店の若い男性――。相手のことを良く知らないからこそ言えることもある。
 とは言え、デリケートな問題を見ず知らずの他人に語るほど、麗香は砕けた性格をしていない。そんなに容易く相談できていたら、育児ノイローゼなんかになることはなかったのだから。

「ちょっとね、父のことで」
 と、別の話題で矛先を変更させた。自分の子供を愛せているのか分からないという相談よりは、まだましなように思って、麗香にとっては二の次の話だった父の痴呆症で誤魔化したのだ。
 相談など、不要だと言ってしまえばよかったのかもしれないが、不思議とその男性店員の声は、心地よくて、ぼんやりと灯るランプの明かりも、幻想的な世界を作っているためか、会話をすること自体に嫌悪感は湧かなかった。

「痴呆症で、最近はまともに会話もできないんです。困っています」
「ああ……、介護の苦労は私も経験があります」
「あら、マスターも?」
「はい。先ほども言った、祖父がすっかりと弱ってしまって。今年でもう八十なので仕方ないのですが」
 骨董屋をしていたという祖父だろう。店主の青年は困った様な表情を作ってから、苦笑した。
 八十にもなれば弱ってしまうのはどうしようもないだろう。それに比べて、麗香の父はまだ五十代だ。母を亡くして父一人で育ててくれた恩を忘れたことはないが、そのあまりの豹変ぶりに麗香は冷静にはなれなかった。
 高校を卒業し、故郷を離れて県外の大学に通うことになったため、住み慣れた我が家から出て生活をすることになった麗香はそこで今の夫と出逢い結婚するまでになった。
 その頃にはすでに父の様子がおかしくなっていた。大学生活と恋人との満ち足りた毎日の中で、すっかり実家に戻ることも少なくなった麗香は、父親の様子がおかしくなっていることに気づくのが遅れてしまったのだ。
 彼との結婚を話しに行く頃になって、それは明確に発覚した。
 父は、仕事も辞めていて、幻覚と幻聴と妄想の生活の中にいたのである。
 病院に連れていくと、レビー小体型認知症という若年性アルツハイマーであった。伴侶を失い、愛する娘も家から巣立ち、父親は脱力しきったのかもしれないと医者は言った。
 家で生活をさせるのは困難だろうと、介護施設に入れてからは、麗香はほとんど父親に会うことがなくなった。
 会って話しても、まるで会話が通じないのだ。未だに、夫の顔も分かっていない。
 子供が生まれたと顔を見せに行ったこともあったが、可愛いなぁと言ったものの、自分の孫であるという認識は全くできていなかった。
 夫の家族にも父の状況を話して、迷惑をかけることを詫びた。みな、気にしないでいいからと言ってくれたが、麗香はその言葉を鵜呑みにして甘えることはできなかった。

 父がこうなってしまったのは、自分せいだと分かっていた。
 母を亡くして、男手ひとつで娘を育てるのはどれほど苦労があっただろうと思う。
 なのに、麗香は大学生活に父を忘れ、愛する人に溺愛して、故郷を振り返らなかった。帰ってみるかと思ったのも、彼を父に紹介するという目的があったからこそだ。父を想ってのことではなかった。
 血の繋がった家族を放り出した麗香には、どうしようもない罪悪感が付きまとうことになったのである。

 だからこそ――、娘は大事に育てなくてはという強い責任感が肩に圧し掛かった。

 娘をきちんと育てることが、父親に対する贖罪であるように麗香は考えていたのかもしれない。

「先日、娘の誕生日だったんです」
「ああ、それはおめでとうございます」
「それでね、親戚や家族に、娘の誕生パーティーの様子をメールで画像や動画を送ったんですよ」
「それは素敵なお話ですね」
 屈託なく、男性は言ってくれた。なんの闇も抱えていない純粋な笑顔が、麗香は少し妬ましかった。
 そして同時に、自分は嫌な女だなと、心の中で溜息を吐く。

「沢山の方々が、それに返事を寄越してくれて。それでね、父親からも連絡が来たんです。きっと、施設の人に撮ってもらったんだと思うんですけど、動画を送ってくれました」
「いいお父さんじゃないですか」
「ふふ、でもてんで的外れで。動画、何が映っていたと思います?」

 擦れるように笑った麗香の声は皮肉に滲んでいた。
 そして、スマホを操作してその時の動画を再生してみせた。

 そこには、介護施設のベッドに腰かける初老が映っていた。五十代には見えない。もう七十だとか八十の鶴屋の祖父と同じくらいに見える程だった。
 しかし、とてもニコニコと嬉しそうに、無邪気な笑顔を浮かべていた。それはまるで幼児のように無垢な表情に見える。

「誕生日、おめでとう。ほら、プレゼントを用意したよ」

 そう言うと、背中に隠していた赤いランドセルを取り出して、前面に見せびらかせる初老の男性。

「ね、的外れでしょう? まだ娘は一歳になったばかりなのに」
 すっかりぼけてしまった父親の奇行は、誰かに見てもらって笑い話にでもしないと慰めにもならないと思えた。
 そうでないと、あまりにも悲しすぎる。せっかく生まれた初孫のことも分かっていないなんて、父があまりにも可哀そうではないか。
 愛する妻を喪って、娘である麗香を必死に育て大学まで出してくれた。独り暮らしをする時だって、全面的にサポートをしてくれた父親は頼もしかった。
 あんなにも逞しく優しい父は、麗香にとって誇りだった。
 結婚式の日、父に感謝を告げて抱きしめたかったのに、その父はぼんやりとした表情で、感謝の手紙を読み上げても、口を開けたまま、ぽかんとしていた。
 堪らない罪悪感が、胸を突き刺して、麗香は父に詫びた。

 父を大事にできなかった女が、娘を育てることなんて、できないのではないだろうか。
 そんな不安が、恐怖が、麗香を追い回していた。だがそれを誰かに口にした事なんて一度もない。夫にさえ、それは言ってはいけない言葉だった。
 口にすれば最後、本当に自分の娘に愛を注げなくなるように思ったのだ。

「そうでしょうか?」

 あまりにも、透き通る声で、男性は呟いた。

「私には、的外れには見えませんが」

 ランプの光に照らされる瞳は、純粋で、そして強い煌めきを持っているように見える。
 それが、麗香にはずるい、と思えてしまった。
 確かに滑稽だと嗤ってくれたほうが良い、それができないなら、哀れみと同情の目を向けて欲しかった。その方が救われる。麗香自身の心が。

 あの、ネットの書き込みのように、心をねじ切るような言葉を向けてくれた方が、自分に相応しいと思う。
 しかし、青年は滑らかに染み入る声で、つづけた。

「お父さんは、分かっていると思いますよ」
「どうして? ランドセルですよ。一歳の子供の誕生日に。先が早すぎます。まるで意味を理解できていないんですよ、父は」
 口調はきついものになってしまった。感情がぶわっと膨らんで、口から堪らずに零れ出たみたいだった。
 ランプの明かりが少し揺れて、絵画に塗れた壁に陰のミルフィーユを作っていく。

 まるで、自分の醜い心を見ているようだった。

「お子様が、一歳の誕生日だったのでしょう? その子は、長女ですね?」
「は、はい? そうですけど……」
「だったら、やはりお父さんは、きちんと理解されていると、思います。私は」

 印象的な、倒置法で語った彼は、少しだけ目を眇めた。

「なぜ、そう思うんですか? あなたに父の何が分かります?」

 逢ったこともないくせに。
 そう言いそうになった。汚い自分を全部、このランプの光の中で曝け出したい気分に捕らわれていた。まるで、懺悔室みたいに。

「ランドセルは、一年生への贈り物です」
「そうよ、でも娘は一年生じゃない。一歳なの。幼稚園すら通っていない」
「娘さんへのプレゼントではありませんよ」
「……えっ」

 蓄音機の奏でる音色の、しっとりと響くサックスが、まるで小雨みたいに感じられた。
 そこに歌うように重なる鶴屋の声は、小雨に濡れる麗香に差し出された傘だろうか。

「お父さんは、一年生になったあなたに、プレゼントしたんです。娘が生まれて一年が経った。母親一年生のあなたへ」
「……そ、そんなわけ」
「誕生日おめでとうと、お父さんは言っています。きちんと、娘さんの誕生日を理解していて、それでランドセルを用意しているんです。あなたへ」

 そんな話、あるだろうか。
 父は単にボケているだけだ。あれは結局、理解できていないだけの的外れのプレゼントだろう。
 あのプレゼントが、母親になった一年生の娘へのプレゼントだなんて、考えられない。

「そんな証拠、ないでしょう」
「はい。ありません」

 あっさりと、彼は返した。
 そして、こう、付け足した。

「……でも、そう考えた方が、心地いい」

 なんだ、それは。と麗香は呆気にとられた。
 なんの推理にもなっていない『だったらいいな』、『そうであればいいな』、という希望的な観測だ。

 なんと不毛な話だろう。

 そう思いながらも、麗香はもう一度、スマホの映像の父を見た。
 優しく、嬉しそうな笑顔を浮かべた父の、ランドセルを見せびらかせるその姿は、遠い遠い過去、どこかで見たような気がする。
 その時も、父は麗香に「おめでとう」と言ってくれた。

 親って――。

 親ってすごい……。
 そんな父親の娘なのだと思うと、熱いものが頬を伝わった。

 罪悪感で育児をしていた自分への、やり直しみたいに思えた。
 今から、母親の一年生を始めてみよう。何も分からなくて不安なのは仕方ないじゃないか。一年生にすらなっていなかったんだから。何も分からないのだから、素直に、分からないと手を上げるべきだった。
 それを、父の持つ赤い鞄が伝えてくれたように思えた。

「お代は結構です。私から一年生のお祝いです」

 そう言うと、店主はカウンターに戻っていった。

「私、ランドセルを受け取りに行ってみます」
「はい、いってらっしゃいませ」

 にこりと笑うと、麗香が店に入って来たときと同じに、軽い会釈をした店主。麗香はお辞儀をして礼を伝えた。

「ありがとうございます。ごちそうさまでした」

 甘えてみよう。今はその優しい純粋さに。
 卑屈だった自分の外側は、脱皮するみたいに剥がれていて、清々しい気持ちでいっぱいだった。

 蓄音機からは、暫くジャズの音色が響き、ぬくもりあるランプの明かりは店内をぼんやりと照らした。
 たらればの、答えなんて出ていない不毛な推理が、珈琲の香りの中で紡がれた、とある午後の話だった。