横井千造(よこいせんぞう)。これはお婆さんの父親の名前でしょうか?」
「いかにも」
左門の調べによると、正一郎の母親の名は“横井スエ”、六十二歳。
離縁されてから実家に戻り、両親と三人で暮らしていたが、一昨年に父親、昨年に母親が他界して独り暮らしとなったらしい。
それを聞いた大吉は、眉を下げてスエを哀れむ。
「相次いで両親を亡くした寂しさから、早くに呆けてしまったのでしょうか。可哀想に……」
「どうだろうな。入るぞ」
淡白な声で答えて先立って玄関の敷居を跨いだ左門に、大吉は戸惑いながらついていく。
「勝手に入っていいのですか?」
「誰に了承を得ろと言うのだ」
「それもそうですけど……」
一応「お邪魔します」と声をかけたが返事はなく、大吉は散らかっている玄関のたたきで靴を脱いだ。
左門は上がる前に、抱鞄からなにかを取り出していた。
大吉が不思議に思って尋ねれば、「スリッパだ」と言われる。
それは革製の靴底に、ビロードの甲がついた履物で、宿屋で使われていると話には聞いたことがあった。
なんでも外国の人は宿屋の部屋の中でも靴を脱がないそうで、土足に困ってそのような履物が用意されるようになったのだとか。
けれどもここは民家であり、スリッパの必要性に疑問を覚える。
革靴を脱いでスリッパを履いた左門は、上り口のすぐ正面にある襖に手を掛けた。
それを開けると小さな茶の間に繋がっていて、室内を見た大吉はやっと、スリッパの必要性を理解できた。
(汚いな。変な臭いもする。裸足で入りたくないけど、僕の分はないよな……)
左門が先に室内に入り、大吉は仕方なく爪先歩きで続いた。
茶の間の右側は台所のある土間と繋がっており、左側には四畳半の続き間があった。
ちゃぶ台の上は洗われていない茶碗や皿が積み重ねられ、食べ残しに小蝿が集っている。
足の踏み場がないほど物が畳に散乱し、埃っぽくもあった。