「女将さんこそ、怪我はありませんか?」と大吉は心配した。
途端に涙ぐむ女将は、首を何度も縦に振り、自分たち夫婦の体だけは無事だったと告げてから、大吉の手を握りしめて謝罪する。
「あたしが揚げ物油に火をつけちまったばかりに、こんなことになって。なんと謝ったらいいのか、堪忍してねぇ」
「いえ、そんなに自分を責めないでください。今は誰も怪我なく無事だったことを喜びましょう」
坂田屋の方を見れば、まだ放水は続いている。
さっきまで昼間のように明るかった通りが、夜を思い出したかのように暗くなったのは、火の勢いが弱まったからであるようだ。
あと一時間もすれば、鎮火するのではなかろうか。
隣家に延焼しなくて幸いであった。
大吉の部屋にあった私物は、抱えている桐箱と、庭に放り投げてきた銭湯用具以外は燃えてしまったが、しばらくの不便を我慢すればなんとかしのげるだろう。
着替えずに銭湯に行ったので、学生服と学帽も無事だ。
教科書がないのはつらいところだが、親に事情を書いた手紙を送れば、それくらいの金の工面はしてくれるだろうし、買い揃えるまでは隣の席の友人に見せてもらえればいい。
「僕は大丈夫ですから、気を落とさないでください」
気丈に慰める大吉であったが、「そうかい」と涙を拭った女将に、深刻な現実問題を突きつけられる。
「坂田屋は借金してでも再建するよ。でもね、今すぐというわけにはいかないから、もう下宿はさせてあげられない。あたしたち夫婦は今夜、親戚の家に世話になるけど、大吉君は……」
坂田屋の夫妻は、大吉の祖父の知り合いであって、血縁関係にはない。
親戚に世話になるのは、自分達だけでも心苦しいのに、大吉まで連れてはいけないと言われてしまった。
(そうだった。これから僕は、どこに住めばいいんだ……)
実家は裕福ではなく、大吉の下にも、これから学費がかかりそうな弟がふたりいる。