練習室にまた二胡の音が響いていた。
理太郎が弾いている横で、リーユーシェンがイスに座り見ていた。
正直、誰にも習わず、数ヶ月でここまで二胡を上達させたことに驚く。
ピアノやバイオリンをやってきたため、楽器を演奏することには慣れてはいるはずだが、西洋の楽器とは、扱いが少し違うはずだ。
ところどころ拙さはあるものの、楽器をまるで自分の体の一部のように、一体となって音を奏でている。
リーユーシェン腕を出し、理太郎の動きを止めた。
「ん?」
「まずは棹(さお)、モチカタ」
リーユーシェンは自分の二胡を膝にのせ直し、左手を開いた。
「ココ、親指の付け根、しっかり当テル。付け根、手前側、回り込むヨニ」
「あぁ」
「弦、押さえカタ、指先で押さえるジャナク、第二関節から押さえ行く意識デ」
「はい」
さっきのピアノのレッスンとは比べものにならないほどしっかりした返事が返ってきた。
目付きもしっかりしている。
学びたいという意欲がひしひしと感じられ、こっち側が少したじろぎそうなくらいだ。
リーユーシェンは立ち上がり、理太郎の二胡に手を伸ばした。
弦を押さえると顔をしかめる。
「弦、強く張りすぎデハ?」
「そうか?」
「こんなニ力入れル?」
二胡の上にある糸巻きを数ミリ緩めた。
リーユーシェンは自分で押し、確かめると、理太郎に返した。
それを理太郎は押してみるが、気にくわなかったらしく、数センチ締め直した。
「うん。やっぱこんなもんかなー」
「あと、姿勢。理太郎、前のめりになりすぎでデス。もっと、胸を張ッテ。肩から右腕、動かしテ」
「ん」
理太郎が見つめる先には譜面台があり西洋風の楽譜が置いてあった。
誰もが楽譜と言われ想像するのは、五線譜に音符が並んで、cresc.(クレシェンド)やAndante(アンダンテ)などイタリア語がかいてあるあれだ。
しかし、二胡には二胡用の、全く異なる様式の楽譜がある。
それは、1、2、3、4、5と数字が横に並べらんだものだ。
数字は、弦を押さえるポジション、つまり、音の高さを表している。
そして、音の長さを表すのは、―(横棒)だ。
全音符なら、数字の隣に横棒3つ。
十六分音符なら、数字4つの下に横棒が二本。
ただ、長年ピアノをやってきた理太郎にとっては、五線譜の楽譜が読みやすかった。
それも、もともと耳がいいので、楽譜で一つ一つを音を追うというより、聞いて覚えたのを確認している程度だった。
リーユーシェンが楽譜を指さす。
「デハ、ココから弾いてクダサイ」
リーユーシェンの指導におもしろいほどに、理太郎は従い、すぐに自分のものにしていった。
理太郎の手が止まった。
「ドウシマシタ?」
「時間」
理太郎が時計を見ると、予め約束していた時間を3分過ぎていた。
「次、お前の練習時間」
「あ、ソウデシタ……」
リーユーシェンはポリポリと頭をかき、椅子から立ち上がった。
理太郎は自分の二胡を手入れし、ケースにしまう。
鞄から楽譜を出し、ピアノの譜面台に立てた。
オーディション用にリーユーシェンが選んだ曲だ。
イスに座り、高さを調節し、また座る。
肩慣らしのように、力を入れず、冒頭を弾き出した。
「あ?何してんだよ」
リーユーシェンは、二胡を持ったまま、突っ立っていた。
「チューニングしねーの?」
「あ、の……実は……練習しようとしたデスケド、できなくて……」
理太郎は手を休めず、適当に弾きながら、リーユーシェンの話を聞いていた。
「今日もできるか……」
やっと、手を止めた。
「弾けなかったら、弾けないでいいからよ」
「ハイ」
リーユーシェンは、イスに座った。
二胡の上のほうに、チューナーを挟み、チューニングする。
その様子を理太郎はピアノを弾きながら、チラリと見た。
リーユーシェンの二胡の糸巻きのあたりには龍の彫刻が施されている。
胴には二胡を作った人のサインや彫刻が見えた。
小さい楽器なので、それ以外はあまり目立ったところは見えないが、
きっと高級品だ。
自分の二胡なんかとは、音色は相当違うんだろう。
理太郎は密かに、リーユーシェンのお高い二胡と、それを鳴らす腕前に、どんな音が聞けるのかとわくわくしていた。
理太郎の二胡はTSUTAYAのバイトで貯めて買った50,000円の二胡だ。超がつくほどの安物。それでも、初心者の自分にはちょうどよかった。
若干、チューニングに手間取っているようだった。
チューニングとは音の高さを調節することだ。
演奏会でもない限り、ピアノは毎度毎度弾く前にチューニングはしないが、二胡は違った。
ちょっとしたことですぐ音程がズレる。
その間も流すように、理太郎はピアノを弾き続けた。
伴奏の楽譜は理太郎にとっては簡単なレベル。楽譜を見ながら、さらさら弾ける。それどころか、つまんねぇ伴奏だなとすら思う。
とりあえず、自分だけでの伴奏の練習は、いらなさそうだった。
あとはリーユーシェンの二胡と合わせる練習がどの程度必要かということだが……。
理太郎は椅子の上で硬直しているリーユーシェンを見た。
「終わったか?」
「ハイ」
「んじゃ、最初っから」
伴奏が先に入るので、理太郎が弾き始めた。
曲は『花好月圆』
花が美しく、月が丸いという意味で、夫婦の仲睦まじい様子を表している。
華やかで楽し気な曲で、リーユーシェンが得意な曲でもあった。
リーユーシェンの入るタイミングになる。
息を大きく吸い、左手で弦を抑え、右腕を動かした。
ギィ……と汚い音が鳴った。
なんで……。
左指は次の音に移り、今度は弓を引く。ギギギという不快な音が鳴った。
5小節ほど弾き進め、理太郎が手を止めて大きな声で笑った。
「あっはっはっはは!これはヤバイわ!」
「…………」
「二胡はじめてみましたのババアのレベル!」
「………………」
リーユーシェンは弓を持つ右手を膝にのせ、はぁーと大きくため息をついた。
歩いてきた理太郎に背中をどんっと叩かれる。
「力入りすぎなんだよ!」
「ワカッテル、けど、抜けないデス」
「じゃあ、いっぱい練習するしかねーな」
「力が入ると、練習ナラナイ」
こんなアドバイス、上級者のリーユーシェンに初心者の理太郎がする意味なんてなかった。
でも、思うように弾けないという意味は、ピアノを長年続けてきて、周りにも演奏家の多い理太郎にも何となくわかる。
「焦りすぎなんじゃねーの?」
リーユーシェンは二胡を抱き寄せ、ぽつりとつぶやいた。
「中国に彼女イル。会えなくてサビシイ言ってる。私もサビシイ」
「うん」
そっけない返事だったが、理太郎は楽譜に目をやるフリをしてちゃんと聞いていた。
「彼女ノ両親、挨拶シマシタ。音楽やってル知って、反対サレマシタ」
リーユーシェンの彼女は中国でも名だたる大企業の経営者だった。
一人娘の彼女は、それはそれは手厚く、お金をかけ、大切に育てられた。
彼女自身も、頭がよく、今では有名な大学に通っている。
将来的には、両親の経営する会社に、そう熱望されていた。
「彼女の両親に、何度も会いイキマシタ。でも、ダメ。音楽家なんて胡散臭いカラ」
「そうだな」
理太郎はふっと笑って素直に即答した。胡散臭いやつなんて、自分の両親をはじめ、ごまんと見てきた。
胡散臭い。変わり者。楽器を演奏するのに莫大なお金がかかるわりに、仕事があるかは別、将来は不安定。
それに、残念ながら自分も該当していると思い、自嘲してしまう。
「悩ミマシタ。二胡続けるか。諦めて、大学受け直して、フツーの人ナルカ。悩んでたら、二胡、弾けなくナッタ」
リーユーシェンは、あははっと力なく笑った。
「へぇ。そこまで悩むほど、彼女のこと好きなんだな」
「はい。大好きデス」
さっきまでの辛そうな顔から一転、とても幸せそうな顔で笑った。
頭の中は彼女のことでいっぱいになったらしい。
「理太郎は彼女イマスカ?」
「いない。1週間前にフられた」
「あら、傷心ですね。お気の毒様デス。どれくらい付き合ってたんですか?」
「んー、3か月?」
「……」
「ま、続いた方だな」
なぜかドヤ顔する理太郎。
この男の恋愛が上手くいかなさそうなのは、安易に想像できた。
理太郎は、イスから立つとぐーっと大きく背伸びをした。
「ま、俺も似たようなもんかもな」
練習室の窓から下を眺めれば、楽器を持ったたくさんの音大生が行き交っていた。
「音大のピアノ専攻に進んだものの、ピアニストになりたいわけじゃない。ピアノ専攻入って、半年で飽きたし。卒業したら、どうしたいとかないし。ぶっちゃけ、自分探し中って感じ?(笑)」
若干恥ずかしそうな表情を見せながらも、笑いかけられる。
なぜだか、ふっと体が軽くなった気がした。
「音楽に関わることはしてーんだけどなー」
理太郎は窓に手をつくと、腕を軽く伸ばした。チラリと時計を見る。
「もうちょい、やってみるか?」
その後、数十分、リーユーシェンは試みてみたものの、なかなかいい音は鳴らなかった。
理太郎のバイトの時間が迫ってきたため、二人は練習室を出た。
「あー!やっぱプロに直接指導受けると違うなぁー!」
理太郎はリーユーシェンにあれだけ事細かく指導を受けたのに、清々しい顔をしていた。
たった1時間の練習で、見違えるほどよい音色を出せるようになっていた。
「ワタシ、プロじゃないデスヨ」
「金もらって、演奏できるレベルなんだろ?」
「ま、まぁ、したとこはアリマスガ……」
そんなことより、自分が全く弾けなかった事実がのしかかってくる。
この先、どういう練習をしたらいいのか検討がつかなかった。
「腹減ったな。飯食いに行くか」
「ハイ」
リーユーシェンは理太郎について階段を降りていく。
ご機嫌な横顔に、ふと話しかけた。
「ナンデ、二胡好きデスカ?」
理太郎の口元と目元が弛んだ。
愛おしそうな、まるで彼女を語るような顔で話しだした。
「気まぐれなとこ。音程とるのが難しいからな。本当に繊細で、ちょっとのことで、音色がかわって、くるって、振り回されるのがいい。上等じゃん。合わせてやろうって気になる」
「そういうの、ナンテ言うか知ってマス」
「ん?」
「ドM」
「ちげーよ!」
理太郎は顔を赤くさせ、軽くリーユーシェンを睨んだ。
二人は、他愛もない話をしながら、いつもの定食屋に向かった。
あれから、理太郎の一日の中に、リーユーシェンに二胡を教わる時間と、オーディションの曲を練習する時間というのができた。
二胡を教わるのが楽しく、本業の音大の授業が煩わしいとさえ思うくらいだった。
今日もまた、40代の女性講師にマンツーマンでじっくり指導を受けた。
レッスンの終わり際、ピアノの横に立った女性講師に、強い口調で言われた。
「福原くん、このコンクール、応募しとくんだよ」
封筒を差し出される。中には応募用紙やらコンクールの概要やらの紙が入っていた。
「コンクールっすか!?無理ですよ」
「みんな、無理だと思ってもコンクール応募して、猛練習するんだよ!練習しないで何言ってるの!?はい」
封筒を押し付けられ、虫でも掴むように、コンクールの応募用紙を手に取った。
それをまた、見学していたリーユーシェン。
女性講師が部屋を出るのを、苦笑いして見送った。
「くっそ、あのババア。めんどくせーことやらせよーとしやがって……」
いなくなった途端、理太郎は悪態をついた。
「いい人だと思うデスケドネ。ちょっと指導の仕方ガ……あはは」
「別に、一音一音、合ってなくてもよくねー?」
また、レッスン中に勝手にアレンジしたのを指摘されたらしい。
「理太郎は楽譜通りに弾かないですが、アレンジ、いいと思いますよ。合奏でなければ、問題ないですよね」
「だから、俺は伴奏や合奏は嫌なんだよ」
「指揮者をやればいいじゃないですか。みんなが自分に従ってくれますよ」
「んな、難しいこと俺ができるかよ」
「そうですか?耳もいいですし、曲をこう弾きたいとかイメージが強いし、指揮者向きだと思いますよ」
「…………」
返事が返って来ないなぁと不審に思い、顔を覗きこむと、小さく笑っていた。
実は嬉しかったらしい。
指揮者は演奏の要でもある難しいポジションだった。
それができそうなんて言われて嬉しくないわけがない。
「ま、おしゃべりこんくらいにして、指導お願いします。せんせー」
「はい」
二人は二胡を出し、お互い向き合って座った。
たった30分のスキマ時間だったが、理太郎にとっては貴重で充実した時間だった。
あっという間に30分が経つと、リーユーシェンは申し訳なさそうに鞄を取った。
「すみません。私、講義があるので、今日はこれで」
「おう。サンキュー。俺はもうちょい弾いてく」
理太郎は一人、その場に残り、二胡を弾き続けた。
でも、ここで弾き続けられるのは、時間の問題だった。
もしかしたら、次のレッスンで学生が来るかもしれない。
そう思っていた矢先、部屋のドアが開いた。
眼鏡をかけた冷たそうな印象の男子学生。
理太郎と同じピアノ専攻で、理太郎の数少ない友達だった。
表情一つ変えず、理太郎の目の前まで歩いてきた。
「あ、次、お前、この部屋使う?」
「ピアニストなのに、なんで二胡弾いてる?」
いつものようにポーカーフェイスで、真っ直ぐに見つめてくる。
「え、あー。なんか好きだから」
理太郎の左手を取ると、眺めた。
「指の皮が厚くなる。やめとけ」
理太郎は、掴まれていた手を振り払った。
「別にぃ。そんくらいいいけど。厚くなるほど弾かねーし」
「遊んでる暇あるのか?最近コンクールにも出てないらしいじゃないか」
この男は理太郎と違い、コンクールの入賞者の常連で、ピアノ専攻でもおそらくトップの実力を誇る男だった。
その性格はとにかく真面目で、常にピアノに向き合い、真摯に練習を重ねてきた堅物男だ。
理太郎は勢いよく立ちあがると、声を荒げた。
「ったく、どいつもこいつも、バカの一つ覚えみたいにコンクール、コンクール言いやがって!俺が、コンクールなんか出ても、なんの実績も作れねぇんだよ!」
「それは……」
「お前ら、天才とは違うんだよ!」
理太郎は乱暴な言葉遣いのわりには丁寧に二胡をケースにしまい、さっさと行ってしまった。
オーデイション当日。
大学内にある講堂でオーデイションは行われる。
様々な楽器を持った学生たちが、客席に座り、オーデイションが始まるのを待っていた。
ピアノなど、大きく、動かしづらい楽器は舞台上にすでに用意されていた。
音大生にとって、久村教授の演奏会に出られるというだけでも、名誉なことだ。しかし、学生たちにとって、一番の目的は、お客さんとして来る著名な演奏家、作曲家、番組プロデューサー、資産家などに自分を知ってもらうことだった。
「はぁー……」
リーユーシェンが浮かない顔で隣の理太郎に聞こえるように大きくため息を吐いた。
理太郎とオーディションの練習をしてきてから数日間、満足いく演奏はできなかった。
「ヤッパリ、辞退したほうがイイデスカネ?」
「…………」
「私ナンカガ、弾いてインでしょうか?」
「…………」
「理太郎」
「あ?」
理太郎がぼーっと見ていた先には、バイオリンを持った綺麗な女性が立っていた。キリっとした大きな瞳に、鼻筋の通ったかなりの美人だった。
「よくね?」
「ソーデスカ?」
「目立ちそうなのに、初めて見たな」
「あぁ、10月から来てる留学生ですよ。韓国人」
「なんだ、整形かよ」
理太郎は、とたんに顔を歪めた。
今度は小さな声で中国語が返ってきた。
「整形はなしですか?」
また中国語で返す。
「なしだろ」
「俺もなしです。胸もやってるんでしょうか?」
「やってるだろ。あれは」
「硬いんでしょうか?」
「どーなんだ?」
ただのオーディションだというのに、綺麗めなお高いワンピースを着ている。
体のラインが際立つデザインで、Eはありそうな胸と、くびれた腰、大きなお尻がエロかった。
「っで、なんで中国語なんだよ」
「え?」
アホな話をして、少し緊張が解れた。
「あっ」と声を上げると、思い出すように、リーユーシェンが鞄を漁りだした。
一枚の紙きれを理太郎に渡す。
「理太郎、プロフィールを書いて出しマス。あと、私の、日本語間違ってるところ、直してクダサイ」
「ほいよ」
理太郎は受け取ると、ペンを握った。
紙には、上のほうに、リーユーシェンの名前などが書かれている。
受賞歴欄には
『中国音楽国際コンクール 優勝』
『二胡国際コンクール 優勝』
『国際民族器楽比賽 金賞』
とたくさんの受賞歴が書かれていた。
その下の、コメント欄に
『日本が大好きです。日本で、たくさんの人を出会い、音楽を通し、仲良くなれたらいいと思います。』と書かれていた。
理太郎は、間違っている助詞の‘を’を‘に’直した。
それが、紙の上半分。
下半分には空欄の同じような項目のスペースがあった。
「ん?これ、俺も書くのか?」
「はい。伴奏者も書くそうです」
理太郎は雑な字で、自分の名前を書いていく。
経歴欄のところさしかかると、トントンとペン先の反対側で紙の上を叩いた。
必死に自分の経歴を思い出す。
『ピアノコンクール8位』と書いた。
開始時間遅れて、久村教授が入ってきた。
白髪のまじった頭と髭、丸メガネだが、目は鋭い。
久村が入ってきた瞬間、学生たちは姿勢を正し、空気がピリついた。
「はい。では、早速始めたいと思います。クジは引いているかな?」
講堂に入ったときに、ホワイトボードにクジを弾くようにと書いてあり、ティッシュの空き箱にクジが入っていた。
弾いた人から、ホワイトボードに、自分が何番か書いていく。
リーユーシェンたちの順番は最後だった。
「トップバッターの人」
「はい!」
威勢のいい声と共に、トランペットやトロンボーン、チューバなど金管楽器を持った学生が数人、ぞろぞろステージに上がった。
金管楽器のサークルの人たちだった。
楽しげなリズムで曲を演奏していく。
理太郎は、この曲いいじゃんと、笑顔で聞いていたが、隣のリーユーシェンはまた緊張した顔になり、他の学生の演奏など、頭に入っていないようだった。
次はは、理太郎が気にしていた綺麗な韓国人の女性がバイオリンを弾いた。
綺麗で、技術的にも素晴らしい演奏だったが、一本調子でイマイチつまんないなと理太郎は思った。
そして、この日の最後、リーユーシェンと理太郎の番になった。
「オネガイシマス」
舞台袖で、リーユーシェンが小さな声で理太郎にささやいた。
「おぅ」
短い返事が返ってくる。
そして、舞台に上がった。
理太郎はスタスタ歩くと、グランドピアノの譜面台にストンと楽譜を置いた。カチャカチャと椅子の高さを調整する。
小さいころから発表会なんて何度もやってきた。
いまさら、人前で演奏することに緊張なんてしない。
リーユーシェンは先ほど書いたプロフィールの紙を久村教授に提出すると、 大きくお辞儀をした。
今までの流れだと、舞台に上がったものは名前を名乗って、演奏を始めるのだが、リーユーシェンが緊張した顔をして固まっているので、久村教授が口を開いた。
「リ、えーっとユー、シェンくんかな?」
「ハイ!ヨロシクオネガイシマス!」
すでにピアノの椅子に座っていた理太郎がリーユーシェンに言った。
「イスは?別に使ってもいいんだぞ」
「あっ、はい……」
オロオロしていると、すでに弾き終わっていた女子学生がイスを一脚もってきてくれた。
アリガトウゴザイマスとぺこぺこお辞儀をする。
イスに座って、二胡を構えた。
その状態から弾けるのかというくらい固まっている。
伴奏者の理太郎を見ようともせず、どこを見てるのかわからないような、ある一点を睨み続けている。
「音は?」
「あっ……えっと……」
理太郎がピアノを優しくポーンと鳴らした。
リーユーシェンがそれに合わせ、二胡を鳴らした。
合ってるのか合ってないんかわからない。
理太郎を見ると、少し首を傾げ、小さく、人差し指を下に下げた。
適当にネジを回し、再度音を出すと、「いんじゃね?」という顔で理太郎が小さく頷いた。
リーユーシェンはもう一度、イスに座り直し、弓を構えた。
「いつでもどうぞ」
久村教授の声が聞こえた。
リーユーシェンは、はぁーと大きく息を吐くと、理太郎を見た。
理太郎が「いくぞ」と大きく頷いた。一呼吸置いた後、前奏が始まった。
いつものぶっきらぼうな様子からは想像もできない、優しい音楽が聞こえてきた。
リーユーシェンは不必要に二胡を握り直した。手が震えた。
集中できないどころか、呼吸が整わない。
出だし、入る前、呼吸のタイミング、力の入れ食い、わからない。
ギィと不快な音が鳴った。
それでもなんとか、右腕を押し、左指を動かし、今度は右腕を引いた。
違う。こんなの俺の音じゃない。
苦しい。
息ができない。
手が汗ばんでく。
身体が思うように動かない。
その様子に、久村教授をはじめ、客席で見ていた他の学生が不安そうな顔で、見つめていた。
ギィとまた不快な音が鳴る。弦が、弓が切れそうだ。
リーユーシェンは耐えられず、手を止めてしまった。
「不要停下来(やめるな!!)」
理太郎の声が聞こえた。
驚いて顔を見ると、にっと小さく笑った。
突然、ピアノの音が大きくなり、メロディラインを弾き始めた。
もともとの明るい、中華風の雰囲気を残しつつ、低音から高音まで幅広く手が動き、鍵盤の上を踊る。
あ、このアレンジ、いいな。とういか、もう、違う曲。
そう気づくと、リーユーシェンは肩の力がだんだん抜けて行くのがわかった。
理太郎の軽やかで踊っているようなピアノの音色が続いた。
リーユーシェンは一度、弓を持った右手を膝の上に乗せ、聞き入った。
心が落ち着いていく。
体の無駄な力抜けた。
理太郎の方を見ると、笑いながら、嬉しそうに、演奏していた。
これが、誰のための、何のオーディションなのか、もはやわからない。
ピアノの演奏を楽しみ、音色を味わっている理太郎は舞台の上で輝き、客席にいる学生たちを惹きつけている。
理太郎がこっちを見た。
「もうすぐ出番だぞ」と言っている。
ちゃらんと高音が鳴ると、リーユーシェンは息を吸い、二胡を鳴らした。
今度は綺麗な音色だった。
理太郎が目を細めてこっちを見た。
さっきよりも、理太郎の伴奏がよく聞こえる。
弓が自然と動いた。
理太郎の伴奏は、まるで勾配のキツい山道を、今にも立ち止まりそうなリーユーシェンの手を弾き、引っ張って、無理矢理歩いて、山を登っていく。
苦しいけど、今にも立ち止まりそうだけど、それでも、歩いてる。
もう限界と思ったとき、ピアノの音が強くなった。
ほんの数小節、響くピアノの音。
リーユーシェンは、はぁっと、息を吐く。
自然と、新鮮な空気が吸えた。
汗だくだった。
そしてまた、リーユーシェンの二胡が入る。
理太郎と一緒に、腕が大きく動く。
チラっと理太郎の顔を見た。
嬉しそうに笑った顔と目が合った。
「もっと行くぞ」そう言われた気がした。
はっはっと浅い呼吸をしながら、必死に腕、手、指、全身を動かす。
こんなフルマラソンみたいな演奏初めてだ。
でも、もう、長くはもたないデス、理太郎。
同時にフィニッシュを決める。
リーユーシェンは弓を持った手を右ひざの上に置いた。はぁーと息を吐き、やっと客席を見ようとした瞬間。
「あははっ!サイコー!」
後ろから理太郎の声が響いた。お腹を抱え、笑うと、嬉しそうにリーユーシェンのところまで歩いた。
大きな身振りで拍手している。それにつられるように、客席からも拍手が沸き起こった。
リーユーシェンははぁ、はぁと浅い呼吸をしながら、椅子に座ったまま、理太郎を見上げた。
どん!と背中を叩かれる。
「リーユーシェン!サイコー!」
「ぇへへっ」
声を出して、笑ってしまった。
客席の女子学生が数人、顔を見合せ、小さな声で感想を言い合っている。
「すごくない?」
「福原くん、なんかかっこよかった!」
「ねー!」
審査員である久村教授ただ一人が、難しい顔をして、机に肘をついていた。
「呼ばれてないグループは、不合格です」
「なんでだよ」
オーディションが終わり、その場で久村教授は、口頭で合格したグループ、個人を発表していった。
理太郎とリーユーシェンはそこには含まれておらず、理太郎はその場で文句を口にした。
あんなに客席は盛り上がっていたのに。
目の前には、合格した綺麗な韓国人のバイオリニストが済ました顔で立っていた。
合格したものに、リハーサル等などについて詳細を配った紙を配布し、解散となった。
久村教授が講堂を去り際、理太郎たちの横を通るとき、声をかけた。
とくに愛想よく笑うでもなく、淡々とした語り口だった。
「福原くん、リーくん、演奏はよかったよ。まさしく、演奏家の息づかいが聞こえるような演奏だった。けど、今回はそういう演奏会じゃないから。もっと余裕をもって演奏して欲しいんだよ」
「あ、ハイ、参加させてもらって、アリガトウゴザイマシタ!」
ぺこっとお辞儀をするリーユーシェンの隣で、理太郎は不満気な顔のままだった。
「あぁ、あと、伴奏のピアノのほうが目立ってなかったか?」
「……まぁ、そうでしたね」
理太郎は反論できないのか小さくつぶやいた。
「福原くん、君はもうちょっと丁寧に演奏するということも覚えなさい」
それだけ言うと、久村教授はスタスタと言ってしまった。
姿が見えなくなると、理太郎はぼやいた。
「くっそぉー、あのハゲ。偉そうに言いやがって」
「でも、よかったでデス。理太郎に、引っ張られてだけど、弾けました!」
リーユーシェンの顔を見ると、清々しい、さわやかな顔をしていた。
本当に気持ち良さそうだ。
「理太郎!ありがとう!」
「お、おぅ……。ただ弾いてやっただけだけどな」
「打ち上げ行きましょう!私の奢りです!」
「行く!」
オーディションが終わっても、理太郎はリーユーシェンに二胡を教えてもらっていた。
10月も後半になり、日当たりのいいところの街路樹がだんだんと紅葉してきた。
日中の気温もさほど上がらず、過ごしやすい季節になった。
理太郎はなんとなく、散歩のように、いつもと違う道をゆっくり歩いた。
「いい天気デスねぇ」
リーユーシェンもそれに着いていく。
5分ほど歩くと、広葉樹がたくさんおいしげる大きな公園に着いた。
理太郎はこの公園が好きだった。
住宅街やビル群からは離れ、かといって、町から隔離されているような雰囲気はなく、人々の生きる気配も感じる。
木々のざわめき、鳥の鳴き声、子どもの笑い声、この公園があるから生まれる音が心地よかった。
「綺麗デスネー。街の中に、こんな自然がイッパイ」
「いいだろ?ここ」
理太郎はベンチに座った。リーユーシェンも隣に座る。
「あーぁ、今日までに哲学のレポートやんなきゃなんねー。めんどくせー」
「まだやってなかったんですね」
少し呆れた顔でリーユーシェンは言った。
提出日は確か明日のはずだった。
「理太郎、今週末の日曜日暇デスカ?」
「日曜?5時までバイトだな」
「ちょうどいいです!6時から留学生たちで、ジャパニーズ・ハロウィンパーティーするんですガ、理太郎も来ませんか?ウクライナとか、アフリカの子とか、来ます」
「ふーん。まー、暇だから行ってもいいかなー」
「場所、LINEしときます!」
リーユーシェンがスマートフォンを手に取って、操作を始めた。
理太郎はベンチの背にもたれ、ぼーっと公園を眺めていた。
目線の先には、子どもが3人、落ち葉を踏み鳴らしたり、上から舞い落としてキャッキャッと声を上げ、喜んでいる。
それを聞いてるだけで、なんだか心地いい。
人が生きている音というのは嫌いじゃない。
「あれから、二胡弾いてないのか?」
「……はい。毎日、手には取るんですけど……」
「よっぽど、彼女のこと好きなんだな」
理太郎にはわからない感情だった。
それほどまでに、誰かを好きになったり、思い詰めたことなんてなかった。
理太郎はおもむろに二胡をケースから取り出した。
軽くチューニングを済ませると、一曲、軽く弾き始めた。
それをリーユーシェンは、心地よさそうに聞いていた。
自分の膝の上に乗せた二胡のケースを撫でる。
「出して」と言われた気がして、静かにケースから出した。
嬉しそうな二胡はすんなりと自分の手に、体になじんだ。
理太郎の出す長音に合わせて、自分も腕を弾いてみた。
数音ズラし、音を鳴らした音は、理太郎の出す音と混じり合い、綺麗な和音になり、響いた。
こんなに綺麗な音、泣きなくなる。
「おおっ、いいじゃん。やっぱ、二胡のハモりって、綺麗だな」
「でも、ピタっとハモるように、音程合わせるの、難しいですね」
「それなんだよなー」
二胡は音程を安定させにくい楽器だった。
一人で弾いていれば、目立たないちょっとした狂いが、二胡が二つになると不協和音になるのはよくある話だった。
しかし、理太郎とリーユーシェンの音に、それはなかった。
ただ、長音を適当に伸ばしていただけだったが、自然とメロディーになっていった。
リーユーシェンも着いていく。
理太郎が笑って、リーユーシェンも笑い返した。
なんとなくならした音、リズム。
二胡は不思議な楽器だった。
人の歌う声に聞こえることもあれば、馬の鳴き声、鳥の鳴き声に似てるときもある。
ふざけて、弓で弦を擦るように、キュインと音を鳴らす。
キュインと、リーユーシェンも真似してきた。
キュ、キュと鳴らすとキュゥ、キュゥとちょっと違う鳴き声が返ってくる。
あ、これって、この曲のこのフレーズ……
そう思うより先に、手が動いていた。
『空山鳥語』
中国の広い、高い山々を、我が物顔で自由に鳥が飛びまわり、さえずる光景が目に浮かんだ。
キュッ、キューウという鳴き声が次第にメロディーになり、曲を作っていく。
理太郎とリーユーシェンの動きもシンクロしていく。
最後にキュインと高い声で鳴き、二人は動きを止めた。
「中国の山の鳥はこんな鳴き声なのか?」
「私、都会育ちだから、知りません」
「あー、北京ダック食いてーなぁー」
「ほら、あそこに鳩いますよ」
「あ?あんなの不味いだろ。ニワトリじゃねーと」
「彼女なら、捕まえてます」
目の前の鳩がパタパタと飛び立っていった。
その奥で、女子大生らしき子が二人、立ち止まって、こちらを見ているのが見えた。
一人は吉岡里帆似でかわいい顔だった。深い紅色のスカートが、紅葉した木々と相まってよく似合っていた。
手にタピオカミルクティーを持っている。
もう1人の女の子は、キリっとした瞳の色白美人な子だった。
理太郎とリーユーシェンと目が合うと、パチパチと拍手を送ってくれた。
「すごーい!」
「ねー!」
顔が好みだった、聞いてくれたのが嬉しかったのか、理太郎は柄にもなく、笑顔で女の子たちを手招きをした。
「もっとこっち、来ていいよ」
女の子たちは、そろそろと目の前まできた。
理太郎の猫かぶった様子に、リーユーシェンは若干、冷たい視線を送った。
なんだ、そんなしゃべり方もできるですね。
「何か弾いて欲しいのある?」
理太郎の問いに、女の子たちはお互い顔を見合せ、言っていいよとお互い譲り合った。
それでも、何も言わず、困ったように笑いながら、吉岡里帆似の子が申し訳なさそうに言った。
「その楽器の曲、よくわからなくて……」
「二胡っているんだよ。中国の楽器。別に二胡の曲じゃなくても弾けるよ」
それでもすぐに思いつかないのか、二人は困った顔で笑っているだけだった。
「んじゃ、これ」
理太郎は、また二胡を構えて弾き始めた。
今度は軽く、アップテンポで踊るようなメロディー。
「あ!知ってる!」
「パプリカ!」
米津玄師作曲。来年控える2020年東京五輪の応援ソングだ。
売れっ子のミュージシャンが作曲したこともあり、今の若い子なら、誰でも知っている。
女の子たちも曲に合わせて、体を揺らした。
理太郎が立ち上がった。
全身を使って演奏する。
腰が揺れ、手首、腕がなめらかにしなる。
弦を押さえる左指の細かな動き。
小さく微笑みながら、酔いしれた演奏に、色気すら感じる。
だけど、どこか優しい音。
二胡とイチャイチャしているようだった。
それほどまでに、二胡を楽しむ姿に、リーユーシェンは目が離せずにいた。
この曲は、リーユーシェンも知っている。
来年の五輪を盛り上げるため、日本のいたるところで流れている。
従来の応援ソングのような、派手さや壮大さとは違った、少しノスタルジックな曲。
子どもの頃、遊び場を提供してくれた山や川、草や木、虫や動物を思い出すような曲だった。
理太郎による二胡の演奏で、改めてメロディーラインの美しさに気づいた。
歌詞の『心遊ばせ あなたにとどけ』という部分、サビの終わりのフレーズを優しく弾き終わる。
女の子たちがパチパチと拍手を贈る。
満足気に笑うと、理太郎は、1つ、大きく息を吸い、今までの勢いのまま、2番を弾き始めた。
1番とは、ところどころ音が違い、これもまたいいなと聞き入る。
リーユーシェンは気がついたら、二胡を構えていた。
この曲は弾いたこともないし、理太郎が楽譜を見ているのも、見たことない。
たぶん、楽譜を買ったわけでもなく、持ち前の耳の良さと、作曲センスで弾いているんだろう。
リーユーシェンはスッと息を吸い、弓を弾いた。
Bメロに入るところが、綺麗にハモった。
理太郎が少し驚いたような顔で、リーユーシェンを見た。
意表をつけたのが嬉しくて、もっと弓が動く。
ハモらせ、ときに、違うメロディー。
あくまで理太郎を引き立たせる演奏に、
理太郎がリーユーシェンのほうを見て、おー、いいじゃんという表情を見せる。
それが嬉しくて、手が止まらなくなる。
遠くで、犬の散歩をしていたおじいちゃんが立ち止まっていた。
落ち葉で遊んでいた子どもが、音に気付いたのか、パプリカをあどけなく踊り出した。
ものすごく、平和な光景に思わず、笑みがこぼれる。
最後、理太郎がフィニッシュを決める。
「わぁー!」という女の子たちの歓声と拍手が鳴った。
理太郎は、その反応にへへっと嬉しそうに笑った。
「なんだ、弾けんじゃん」
理太郎は小さな声で呟きながら、リーユーシェンを肘で小突いた。
「二胡って、いい音だねー」
「癒されるー」
女の子二人は顔を見合せ、口々に感想を言い合った。
その後ろに、犬の散歩途中だったおじいちゃんも拍手を送ってくれていた。
理太郎とリーユーシェンは軽く会釈を返す。
「もっと弾いてー!」
「うん!弾いて弾いて」
「んーじゃあ……」
理太郎が軽く二胡を動かした。速いテンポで弾いたサビを聞いて、リーユーシェンはうなすく。
「あ、ガッキーですよね?」
ガッキーは曲名でもドラマのタイトルでもないが、ドラマの主人公の新垣結衣のことだ。
中国でもものすごい人気らしい。
「うん、それ。じゃ、いくぞ」
二人で同時に息を吸い、特徴的な前奏を弾き始めた。
星野源作曲の『恋』
大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』通称『逃げ恥』のエンディング曲だ。
女の子二人はまた楽しそうに、体を揺らしだした。
遠くのベンチで日向ぼっこしてたおばあちゃんが、ニコニコとこちらを見ている。
歩きながら、言い争いをしてた作業着を着た男性と、中年の男性が、口を動かすのをやめ、二胡の鳴るほうを見た。
外回りで疲れ果て、うなだれていたサラリーマンが顔を上げ、聞いている。
子どもたちが今度はガッキーの恋ダンスを真似て踊り出した。
その後ろでお母さんたちが、楽しそうに笑っている。
そうして、いつの間にか理太郎とリーユーシェンの周りには十数人の人だかりができた。
近くのマンションの一室で、車椅子に乗った初老の男性が、音色に耳を傾けていた。
「近くで、演奏しているのか?」
妻らしき女性が窓のところまで歩き、公園を覗いた。
「隣の公園で男の子が二人弾いてるよ」
「いい音色だな」
「そうだねぇ」
車椅子の男性と女性は、二人で窓際から二胡の音色を聞き入った。
男性がふと、妻を見上げた。
「母さんには手間をかけさせるが、よかったら、一緒に聞きに行かないか?」
「めずらしいじゃない。外に出たいなんて」
妻は嬉しそうに車椅子を押し始めた。
曲が終わり、また拍手が巻き起こる。
アップテンポの曲が終わり、理太郎の額はうっすら汗をかいていた。
でも、それが心地よかった。
理太郎たちは拍手を送ってくれる人たちに、順々に、軽く会釈をした。
理太郎はリーユーシェンをチラリと見ると、小さく下唇を噛んだ。
憎いほど、リーユーシェンの演奏が上手かった。
のびやかな長音はいつまでも響き、跳ねる音はかろやかに。
すべてが申し分ない演奏だった。
コンクールで優勝した経歴も、本気で二胡をやっていたことも、二胡が大好きなことも嘘じゃない。
お客さんの次は何が聞けるのかという期待した顔を見ると、理太郎はベンチに座った。
立ったままのリーユーシェンの背中をどーんと叩いた。
「次、こいつのソロ!」
「ソロ!?」
ソロと言われ、一人で立つ体に、ピリッと力が入った。
けれど、周りで聞いてくれていた人はみな、笑顔で待ってくれている。
「そうだな。ジブリとかどうだ?千と千尋の、あの日の川」
「はい。わかります」
車椅子の男性が近くまで辿り着き、止まったのを確認すると、顔を強ばらせながら、弓を構えた。
理太郎に勧めてくれた曲はよく知っている。
何度聞いたことだろうか。
作曲家の久石譲さんも大好きだ。
でも、今の自分に弾けるだろうか。
リーユーシェンは目を閉じ、すーっとゆっくり息を吐く。
そして、弓を動かした。
綺麗な音色が響いた。
寄り添ってくれるような、優しい音だ。
まるで呼吸するような二胡の音色。
速い曲とは違い、ゆったりとしたこの曲は、二胡独自の豊かな音の伸び、響きを存分に味わえる。
その音色に、まわりで見ていた人がみな、うっとりとした。
リーユーシェンのすぐ後ろで、、理太郎も曲に身を委ねていた。
目の前の二人の女の子は、目を閉じ、頭をメロディーに合わせて、ゆっくり動かしている。
映画『千と千尋の神隠し』の絵が浮かんでいるのだろうか。
リーユーシェンもこの映画は大好きだった。
小さい頃は家族とリビングで一緒に見た。
一人っ子の自分はいつも、お母さんとお父さんの真ん中。
大きくなったら、彼女と、ソファーにぴったり座り、体を寄せ合い、何度も見た。
いつも、優しい顔で自分に笑いかけてくれる彼女。
『千と千尋の神隠し』は、10歳の女の子、千尋が人間の住む世界とは別の世界に迷い込んでしまう話だ。
両親は豚にされ、新しく、千(せん)という名を名付けられ、神様たちが疲れを癒しにくる油屋(湯屋)で仕事をすることになる。
千尋だったころの記憶を忘れそうになったとき、ハクという男の子が千尋を連れ出した。
綺麗なつつじが咲く土手で、元気が出るようにと、まじないをかけたおにぎりを食べながら、辛いのを我慢していた千尋は、泣き出してしまう。
そんな千尋をハクは優しく慰め、励まし、背中を撫でていた。
ふいに目が滲んだ。
堪えるように遠くを見ると、おばあさんがそっと涙を拭っているのが見えた。
さっきまで、笑顔で体を動かしていた女の子たちも、切なそうな顔で、曲を聞き入っている。
自分の演奏を聴いてくれる人たちも同じ絵が頭に浮かんでいるのだろうか。自分と同じ絵が。
こんな風に、お客さんと気持ちを共有し、一緒に呼吸しているような演奏しているのは初めてだ。
リーユーシェンは引き終わると、ゆっくり弓を持つ右手を膝にのせ、顔を上げた。
お客さんと一緒にため息が漏れた。
「……はぁぁ…………」
目が合ったお客さんと笑い合ってしまった。
ぽつり、ぽつりとみんなが呟きながら、拍手を贈った。
「この曲好き」
「いいよねぇ」
「やばい、ちょっと泣いちゃったかも……」
「あははっ」
「はい、次!」
理太郎が、やや大きめの声で言った。
顔が笑っている。
「ねぇ!人生のメリーゴーランド弾いて。ハウルの」
マルチーズを連れていた一人のおばさんからリクエストがきた。
同じジブリの『ハウルの動く城』の曲だ。
「えっと……」
リーユーシェンはおばさんの言う曲がわからず、困った顔をしていると、理太郎が小さな声で歌った。いい声だった。
「あ、それですね」
リーユーシェンはまた、弓を構えた。
今度は、変な力なんて入ってない。
優雅で、楽し気なメロディーが始まった。
途中から理太郎も混ざる。
二胡という楽器も知らなかった女子大生
、散歩中だったおじいちゃんと柴犬、赤ちゃんを乗せたベビーカーとお母さん。
車椅子に乗った初老の男性とそれを押す奥さん。
様々な年齢、性別、格好をした人が、たまたま出会った音楽に足を止め、このひとときを楽しんだ。
やがて、空が夕焼け色に染まった。
理太郎はリーユーシェンはこの日、最後の曲を弾き終わった。
たくさんの温かい拍手が二人を包み込む。
理太郎とリーユーシェンは自然と顔を見合せ、笑い合った。
「楽しかったな!」
「はい!楽しかったデス!」
楽し気なサックス、クラリネット、誰かの歌声が部屋から聞こえてくる。
ジャパニーズハロウィンパーティーが催されていた。
欧米の人からしたら、絶対違和感あるハロウィンパーティーだが、もはや、コスプレして騒ぐというのを受け入れてしまっているらしい。
比較的大きなこの部屋は、留学生たちが集まって、情報交換などするサークルの部室だ。
すでにケンタッキーやら、ピザ、餃子、クッキー、ポテトチップスなどお菓子が並べられ、10人ほどの学生が騒いでいた。
友達の少ない理太郎は、このような雰囲気の集まりは新入生歓迎会以来だった。
見るからに外国人っぽいアフリカ系の人、ブロンドのスラブ系の女性、同じアジアっぽい顔の子もいる。
そして、みんな一様になにかのコスプレをしている。
なかなかカオスだった。
「リーリー!遅いよー!」
理太郎とリーユーシェンが来たことに気づいた小柄な女の子が走ってきた。
青いワンピースに、白いエプロン。白と黒のボーダーのニーハイ。頭には黒い大きなリボン。アリスのコスプレだ。
頭は金髪で、目にはイエローっぽいカラコンが入っている。
金髪、この甘い高い声、理太郎は大学内で何度か見かけたのを覚えている。
ハロウィンじゃなくても、年がら年中変なカッコしてる子だ。
「すみません。二胡弾いてたら、時間忘れてました」
リーユーシェンがあははと笑った。
他の学生たちがワラワラとリーユーシェンの周りに集まってきた。
「リーユーシェン!いぇーい!」
謎のテンションでぽっちゃりした金髪の女性がお酒の入った紙コップを持ちながら、ぶつかってきた。
こっちの金髪は偽物ではなく、本物のブロンドのようだ。
「この子がウワサの相方?」
「はい。理太郎です」
金髪の女性が理太郎を見上げると1回頷いた。
なんだろうと思っていると、リーユーシェンが、その場にいる人を紹介し始めた。
「ウクライナからの留学生のクラーラさんです。お酒強いです」
「どーもぉ」
機嫌のよさそうな顔で、お辞儀をする。
黒い魔女のコスプレをしているが、ワンピースの袖から見える腕はムチムチだった。
「私、ぷりんだよ。リーリーと同じ音楽ビジネス科!」
アリス姿の女の子がふわふわと笑った。
「ぷりんさんには、本当にお世話になってます。英語が得意で、銀行とか役所とか行くとき、案内してもらって、丁寧に通訳してもらったり……」
リーユーシェンが仏でも拝むように、手を合わせた。
「あははー。お安いご用だよー」
「さぁ、乾杯しましょー!なんか持って!」
クラーラは、理太郎とリーユーシェンにスパークリングワインの入った紙コップをぐいっと押し付けた。
酒くさい匂いがクラーラから香る。
「クラーラ、すでに飲んでんじゃん」
「だって待てないんだもん」
ぷりんも紙コップを手にした。
他の学生たちも、紙コップ片手に集まり、机の回りが輪になった。
「じゃあ、クラーラの誕生日を祝って乾杯しまーす!」
「え?今日そういうパーティーなの?」
「違うやん。俺の虫歯が完治したお祝いやん!」
長身のアフリカ系の男子学生だ。似非関西弁のような喋り口でなんかいろいろ違和感ある。
ルパンのコスプレをしており、細い、ズボンのピタッとした脚がアニメそっくりだ。
「今日はハロウィンパーティーでしょ?」
「ハロウィンのとき乾杯って何イイマスカ?」
「何?」
ぷりんが理太郎の顔を見上げる。
「さぁ?」
「もう、なんでもいいよ!」
「かんぱーい!」
「「「かんぱーい!」」」
グダグダな感じで、紙コップを持った手が一つに集まった。
それからは、ガヤガヤとおしゃべりが始まった。
そして、いつも何か楽器の音がする。
テーブルの隣では、アフリカのルパンがサックスを吹いていた。
それに合わせ、クラーラが踊っている。
このカオスな感じが、意識高くない系音大生らしかった。
意識高い演奏家なら、コンクールに向けて練習しているだろうし、そもそも、こんな二流音楽大学に来ないだろう。
「赤ワインもあるよ。飲むー?」
ぷりんが1000円以下だと思われる安いワインの瓶の口を理太郎に傾けてきた。
「サンキュー」
差し出した紙コップに、とくとくとワインが注がれる。
「えっと、名前なんだっけ?伊藤くん?」
「福原だよ。一文字もかすってねーじゃん」
「あははっ」
「理太郎でいいよ」
「うん。下の名前は憶えてるよ。リーリーがよく話してるから」
「リーリーって上野動物園のパンダだろ。お前こそ、本名はなんだんだよ」
「え?ぷりんって本名じゃないんですか!?」
リーユーシェンが驚いた顔をする。
「本名だとしたら、かなりDQNネームだぞ」
「私、知ってるよ!」
遠くで踊っているクラーラの声が響く。よく通る声で、大して大声を出しているわけでもないのに、このうるさい空間ではっきり聞こえる。
「矢嶋てつ……」
「はい!ピザ食べる人!」
ぷりんが大声を出してそれを遮った。
「てつこか。それはちょっとダザいな」
「記憶しなくていいよ!」
ぷりんは、紙ざらに様々な種類のピザを乗せ、理太郎とリーユーシェンに差し出した。
お腹が減っていた理太郎は、さっそく1ピース掴むと頬張った。
「理太郎たちって、公園で二胡演奏してるんでしょ?」
「ん、あぁ。まだ、数回だけだけど」
「おもしろそうだよね!今度聞きに行きたい!なんで公園で演奏してるの?」
「んー……気持ちいいから?歩いてる人を立ち止まらせると、よし来た!って思う」
リーユーシェンが横から口を挟んだ。
「理太郎は演奏見に来てくれる女の子狙ってるからです」
「なんだ。モテたくてやってんの?」
「ちげーよ……」
図星だったのか、否定する声が小さい。
「で、あの子とは、進展したんですか?」
「とりあえず、LINEはゲットできたぜ」
「よかったですね」
「今度、私も聞きに行っていい?」
「おー」
ふと、テーブルを挟んだ向かいに、ぽつんと一人でワインを飲んでる女性が目についた。
オーディションのときにいた、バイオリニストの韓国人女性だ。
知り合いが少ない留学生に気を遣い、こういう機会があれば、誘っていたのだろうか。
机の向かいといっても、机が大きいため、おじゃべりする距離ではない。
みんなが騒いだりしている中で、一人真顔で場を持て余している姿は、近づきづらさを感じる。
ぷりんは話が一区切りつくと、自分の紙コップを持って、韓国人女性のところへ行き、なにか話始めた。
彼女はやっと少し表情が崩れる。
途切れ途切れで聞こえる声は、英語のようだった。
しばらく話していると、韓国人の女性はケースからバイオリンを取り出した。
ぷりんもギターを持つと、その場から離れ、何か弾き始めた。
「ぷりんちゃん、優しいよね」
近くにいた冴えない男子学生がぽつりとつぶやいた。
理太郎はこの男と、同じところ見てたのかと気づき、少し恥ずかしくなる。
「まぁ、そうだな」
なんと返していいかわからず、適当に返事をした。
「福原くん、こないだ村田先生のレッスンでまた怒らせたんでしょ?楽譜無視するって」
「なんで知ってんの?」
「同じクラスの子がしゃべってたの聞いたから」
「え?じゃあ、お前もピアノ専攻?」
「そうだよ。知らないの?今まで講義一緒のこと何度もあったのに」
「…………」
覚えていないということは、大した演奏するやつではないのだろう。
もともと他人に興味がなく、さらに男となっては、覚えてなくても無理はなかった。
「俺、斎藤和樹」
「うん、やっぱり、知らないわ」
「はぁー。福岡のコンクールで、3次予選まで残ったって、ちょっと有名になったんだけどな」
福岡のコンクールって、そんなすごい規模のコンクールだっけ?
なんか、こいつめんどくせーな。
理太郎は、「ふーん」と適当に返事をし、楽器を演奏してるメンバーを眺めた。
バイオリンの韓国人、たしかにうまい。
音一つ一つキレがよく、弓さばきが綺麗だった。
あと、腰使いがエロい。
ぷりんのギターは普通かな。
韓国人女性は演奏が終わると、さっさと楽器をしまい、帰ってしまった。
また、テーブルに戻ってきたぷりんに、リーユーシェンが話しかけた。
「ぷりんさんは、原宿育ちなんですか?」
「実は違うんだよ~。瀬戸内海のね、ちっちゃい島育ちなんだ。中学校、同学年私しかいなかったし、全校生徒5人だよ」
「ヤベー、くそ田舎じゃん」
「一番近いマック、車と船で2時間かかるもん。東京来て、ホント感動した。すぐコンサート行けたり、こうやって楽器の演奏生で聞ける機会たくさんあって、ホント楽しい!」
ぷりんはどことなく遠くを見るように、話しだした。
「私はね、普段、演奏や楽器が身近じゃない人に、音楽に触れる機会を作ってあげたいの」
「ホントにぷりんちゃんは優しいわー」
踊り疲れたのか、フラフラやってきたクラーラがぷりんを横から抱きしめた。
「クラーラも優しいよ」
ぷりんがクラーラの頭を撫でる。
ふっと一瞬、暗い目をしたのをリーユーシェンが気がついた。
クラーラは自分から話しはじめた。
「私の父はね、仕事関係で病んじゃったの。苦しい、辛いが口癖で、一日中ずっと言ってたわ。けれど、音楽を聞いているときだけは、気持ちが楽になるのか、落ち着いた顔をしているのよ。私は、音楽を勉強して、もっとお父さんを癒してあげれるようになりたいって思ってここに来たの」
「優しい」
ぷりんがもう一度、クラーラの頭を撫でた。
そのままぎゅーっと抱きしめ合う。
「ポゥ!」
隣でアフリカのルパンのマイケルジャクソンの踊りが始まった。
その光景に、テーブルに座っていた一同はぷっと噴出した。
「あいつは、闇は抱えてなさそうだな」
ルパンの格好したアフリカ人が、タンバリン片手にマイケルジャクソンを踊る光景はかなり面白い。
写真撮っちゃおーとぷりんはスマートフォンを向けた。
「けにやーん!こっち!」
ケニア出身で関西弁しゃべるからけにやんらしい。
ぷりんがやにやんに手を振ると、踊りながら近づいてきた。
「やだー!近づいてこないでー!写真だから」
「なんやなんや~」
「じゃ、あたしが動画撮ったげる」
クラーラもスマートフォンを取り出すと、カメラを向ける。
ぷにぷにの腕が、どーんと理太郎に当たった。
「おい、ちょっと狭い」
「ごめんねぇ。デブだから」
開き直った雰囲気が、おばさん感があった。
「困ったわ~。日本に来て、ごはんおいしすぎて、こんなんなっちゃったわ」
「女の子はぷにぷにしてるほうがちょうどいいよ」
ぼそっとサイトーがつぶやいた。
ぷりんが聞き返した。
「じゃあ、サイトーはクラーラがタイプなの?」
「え!え?」
ダッダーン!とドラムの音が聞こえてきた。
負けじと、ぷりんがサイトーの顔に詰め寄る。
「実は?」
「実は……」
「ぶっちゃけ?」
「ぶっちゃけ……」
机の下で脚がドラムのリズムに合わせ、動いてしまっている。
タララ……とサックスが鳴り始める。
ジャズの名曲『sing sing sing』
「ぶっちゃけ……」
やにやんのサックスがさらに、曲を盛り立てていく。
サイトーは、答えを言わず、演奏者不在のアップライトピアノに走っていくと、弾き始めた。
「あ、逃げた」
「なんだ、あいつ」
「私もー」
クラーラはそのやり取りに気づいてなかったのか、演奏の中に加わり、歌い出した。
「Sing sing sing sing!Ev'rybody start to sing」
よく響く、綺麗な声だ。
リーユーシェンもクスリと笑うと、自分の二胡をケースから取り出し、音楽に合わせ始めた。
理太郎は視界にクラシックギターが置いてあるのが見えた。
なんかやたらキラキラと光って見える気がする。
「このギター誰のだ?」
「私の」
ぷりんが答えた。
「ちょっと貸してくれ」
「理太郎、ギターも弾けるの!?」
「お遊び程度ならな」
理太郎は右手でギター、左手で椅子を持つと、セッション集団の中に入っていった。
イスを置き、座る。足を組み、ギターを乗せた。
数小節、音楽の集団とともにリズムを取ると、ジャンと音を鳴らし、仲間に入っていった。
ぷりんがセッションしている様子と、余っている楽器をくるりと見渡した。
「じゃぁ、あたしは、これ」
部屋の片隅で半分埃をかぶりそうになっていた黒いケースを手に取った。
中は金属の鍵盤楽器、グロッケンだ。
ドラム、サックス、ピアノ、ギター、グロッケン、二胡、クラーラの歌声の不思議なセッションがヒートアップしていく。
歌っていたクラーラがチラリと理太郎を見た。
ソロをくれるらしい。
理太郎は軽く頷く。
クラーラの歌とサックスの音が消え、ドラムの目立ちにくいバスドラムの低い音と、静かなピアノだけになる。
理太郎のソロが始まった。
ジャランと鳴ったかと思うと、クールなメロディーが理太郎の手によって奏でられた。
自分ですらその音色に聞き惚れていると、横からリーユーシェンにソロを取られた。
最初、ムッとした表情を見せるも、すぐに、すげーこの曲でそう弾くんだと心奪われる。
今までよく聞いた、古典的なメロディーとは違い、ジャズの雰囲気が出ている。
そうこうしているうちに、サイトーのピアノのソロが始まった。
それもまた、ドラムにソロを奪われ、また全員が音を奏で出した。
最後、全員でフィニッシュを決めると、それぞれが叫び出す。
「やべ、クソ楽しー!」
「やばーい!!」
「いぇーい!」
「サイコー!」
「今の動画撮っとけばよかったぁ」
「あっはっは」
みんな顔を見合せ、笑い合う。
音楽が好きなもの同士、最高にテンションの上がった時間を共有できた。
「よし!次!もう一曲行こうぜ!」
部屋の中でまだ楽器が鳴り出し、演奏が始まった。
理太郎はまたいつもの公園で二胡を弾く用意をしていた。
でも、今日隣にいるのは、リーユーシェンだけではない。
ぷりんとクラーラがいた。
ぷりんの今日の服装は、顔より大きなピンクのリポン、ピンクのカラーコンタクトに、飴玉柄のパーカー、パープルのホワホワしたショートスカート、白と黒のボーダーのタイツを履いている。
「ね、理太郎、リーユーシェン!公園で二胡弾いてるとこ、YouTubeにアップしてもいい?」
「別にいいけど」
「いいですよ」
「ありがと!大阪にいる友達が聞きたいって。それに、理太郎たちの演奏、もっといろんな人たちに聞いて欲しいんだよね」
ウキウキと撮影する角度を考えていたぷりんのスマートフォンに映った理太郎の顔は、やや冷めた笑いをしていた。
「リーユーシェンはともかく、俺のレベルじゃ誰も見んだろ」
「そんなことないよー。公園で弾いてるってのがおもしろいの!もしかしたら、この先、広告費でお金稼げるかもよ~」
「マジか。それはやってくれ」
急にキリッとした顔になる。
常時お金がないため、小遣い程度でも、お金がもらえるなら、それに越したことはない。
クラーラは電池駆動のキーボードを用意した。
二胡の音量の邪魔にならないように、特にアンプなどは用意せず、キーボードから直接出る音を使う予定だ。
「今日は私が伴奏入れてあげる」
「サンキュー」「ありがとうございます」
演奏が始まると、瞬く間に人が集まってきた。
すでに、ここで定期的に演奏していることを知っているお客さんは、わざわざ帰り道にこの公園を通って帰ってくれたりしている。
営業の30代っぽいサラリーマンの人、柴犬連れたおじいちゃん、いつも仲良く散歩に来る老夫婦。
今日も、様々な人たちが同じ時間を、同じ音を共有し、笑顔で帰っていった。
演奏を終え、理太郎たちは近くのファミレスでご飯を食べた。
海鮮丼を頬張りながら、理太郎がしみじみと言った。
「やっぱ二胡以外に楽器入ると、雰囲気出ていいな」
「でしょ?」
クラーラは大盛の竜田揚げ定食と、フライドポテトを口に放り込みながら、満足気に笑った。
「クラーラさんは、ピアノも弾くんですか?」
リーユーシェンは海鮮あんかけ焼きそばだ。
「ちょろっとね。でも、声楽が専門なの。ジャズ系歌うほうが好きだけど」
しゃべりながらも、どんどん竜田揚げが消えていく。圧巻だった。
「ぷりんちゃん、早く食べないと冷めちゃうよ」
ぷりんは、頼んだサンドイッチをほとんどお皿に残したまま、スマートフォンをいじっていた。
ニコニコしながら、顔を上げると、目の前の理太郎とリーユーシェンと目が合った。
「なんだ?」
「さっきの演奏の動画、もう100回再生されてる。いろんなコメントと来てるよ♪」
ぷりんはスマートフォンを向かいに座る理太郎とリーユーシェンのほうに向けた。
コメント欄には
『二胡の音 良い響き』
『うちの近くでも演奏して欲しい!』
『生の演奏聞きたいー』
とたくさん寄せられていた。
「「おぉー」」と理太郎とリーユーシェンは声を出して喜んだ。
ぷりんは嬉しそうに、やっとサンドイッチを手に取った。
「今度はちゃんと、動画編集して投稿したいなー。曲名テロップ入れたり」
「もっと見ていいか?」
「いいよ」
理太郎は、ぷりんのキャンディーの形をした、無駄に幅のとるスマートフォンケースごと手にとった。
リーユーシェンも覗き込む。
動画投稿者のコメント欄には
『音大生が公園で二胡を演奏しました。
恋 2:05
パプリカ 5:23
テルーの子守唄 10:15』
と丁寧に演奏曲のリストとが書いてあった。
スクロールすると、たくさんの日本語のコメントの中に
『日本人の二胡楽しそうです』
といった外国人の覚えたての日本語のようなものや
『真的好听呀……』(本当に最高です……)
『Beautiful』(美しい)
など、さまざまな言語のコメントもあった。
見入る理太郎たちに、ぷりんが嬉しそうに声をかけた。
「どう?すごいでしょ?」
「……あぁ。すっげー。これ、みんなお前の知り合いじゃねーよな?」
「違うよ!人づてとかでどんどん、再生回数が伸びてんの。理太郎とリーユーシェンの実力だよ」
「すげーじゃん、俺ら」
「ですね」
理太郎とリーユーシェンが顔を見合わせ、笑った。
「ぷりんさん、曲名、中国語訳でも書いときたいんですけど」
「うん。すぐだよ」
ぷりんはリーユーシェンに中国語を教えてもらいながら、コメントを追加していく。
理太郎が、ん?とリーユーシェンを見た。
「中国って、YouTube見れるのか?」
「建前は規制されてますが、みんな規制掻い潜って見てますよ。YouTubeも、Facebookも」
「さすが中国人……」
「ねぇ、ピザ追加していい?みんな食べる?」
クラーラは、メニュー片手にサンドイッチを頬張った。
「あたしは大丈夫。お腹いっぱい」
「僕も大丈夫です」
理太郎は自分のスマートフォンで、ぷりんのアップした動画を再生した。
イヤホン越しに音楽が流れる。
今日初めて弾いた二胡の二重奏とクラーラの伴奏が勝手に頭に再生させた。
それに、箏や笛、トライアングルなど勝手に追加されてく。
「理太郎くんは?」
「え、あぁ……」
「食べる?」
「食べる」
「じゃー、3枚頼むね」
クラーラは「すいませーん」と店中に響き渡るような美声で店員を呼ぶと、注文をした。
理太郎はスマートフォンから顔を上げ、イヤホンを外し、ぷりんを呼んだ。
「ぷりん、明日は撮影しなくていいから、お前、ギター弾いてくれよ」
「ギター?」
「ギターの伴奏でも弾いてみたい」
「うん、わかった。持ってくね」
「ギターもおもしろそうですね」
リーユーシェンも好奇心に満ちた顔で笑った。
「あと、他にもいろいろ入れたい楽器あるんだよなー」
「じゃあ、けにやんとサイトーくんにも来てもらおう!」
今日は雨だった。
雨が降ったら、さすがに公園で演奏はできない。
理太郎たちは練習室を借りて、セッションしていた。
けにやんとサイトーもいる。
ぷりんも自分のギターを持ってきていた。
「ぷりん、これ」
理太郎はぷりんに手書きの楽譜を渡した。
「すごーい。書いてきてくれたの?」
「あぁ。哲学の講義の時間に」
「ありがと」
ぷりんは、理太郎たちほど、耳がいいわけでも、即興で演奏できるセンスがわるわけでもなかった。
いきなり、伴奏してくれと言われたらできなかったが、楽譜があれば、演奏できる。
「ちょ、ちょっと、一人で練習していい?」
「うん。別に金取って演奏してるわけじゃねーし、間違えてもいいし」
「でも、なるべくがんばる」
ぷりんはこそっと、ベンチのすみに座ると、楽譜を見ながら流れを確認していいった。
けにやんのオーボエ、サイトーのキーボード、ぷりんのギター、クラーラの歌声、理太郎とリーユーシェンの二胡。
不思議な組み合わせの合奏に、理太郎は夢中になった。
数十練習し、他のメンバーが一息ついている間、理太郎は五線譜に何か走り書きしていた。
「何書いてるの?」
クラーラがおにぎりを食べながら覗きこむ。
「ん、あぁ、ここで、ピアノが、こう入るといいなとか、他に入れたい楽器のメロディーとか……」
「へぇー。アレンジが勝手に頭に流れてくるのね。才能だわー。うらやましい」
「なにこれ。早くやってみたいです」
リーユーシェンも楽譜を覗いてきた。
一瞬でメロディーを覚えてしまったのか、すぐ離れ、二胡を弾き出した。
それを理太郎が見つめながら、音色を聞き入った。
「……なるほど」
そして、また楽譜を見つめたり、書き込んだりしていた。
「けにやん、ここ、こういう感じで……」
「合点承知の助!」
「サイトーは……」
「うん」
理太郎が細かく指示を出して行く。
不思議と誰も嫌な顔せず、理太郎の要求に従っていった。
何度も止めては弾き直し、メロディーやリズムをアレンジし、いい感じの演奏へと仕上がっていった。
「こーゆーの、初めてやったけど、なんか楽しいね!」
ぷりんが今日演奏していた動画を見ながら、嬉しそうな顔で言った。
「うん。早く、お客さんの前で披露してみたいわ」
「きっと、喜んでもらえますよ」
「それより、もう遅いけど、帰らなくて大丈夫?」
「ハッ!!」
クラーラが時計を見ると、20時だった。
「やだー。どおりでお腹すくわけね」
「帰ろうか」
「じゃあ、俺もー」
ぷりんとクラーラ、けにやんが帰り支度をはじめた。
サイトーは門限があるからと、一番最初に帰ってった。
「理太郎は?」
「んー、俺はもうちょっと、残ってく」
理太郎は、まだ楽譜を見つめながら、考え事をしていた。
「んじゃ、お先―」
「さいなら~」
ぷりんたちが帰っていくと、理太郎が「よし」と言いながら、ペンを置いた。
「キリがつきましたか?」
「あぁ。んでも、他にもやってみたい曲が次々に浮かぶから困る」
広い練習室に理太郎とリーユーシェン二人きりになった。
リーユーシェンが理太郎の書いた楽譜を眺めながら言った。
「あ、久々に二胡、レッスンしてあげましょうか?」
「あぁ、そういや。最近みてもらってないな」
「さっきの演奏聞いてて、言いたいことが山ほどあったんです」
「こっわっ……。オネガイシマス。せんせー」
二胡を教わって約1ヶ月。
やっぱり、独学より、誰かに直接教えてもらうほうが、はるかにわかりやすいし、自分でも上達したと思う。
力の入れ方、呼吸の仕方、体の使い方、自分では気づけないところを、指摘してもらい、正しい見本を見せられ、教わってきた。
みっちり1時間、リーユーシェンに指導してもらい、今日の練習は終了となった。
時刻は21時。
外は冷え込んでいた。
片付けをしていると、リーユーシェンがぬいぐるみのようなものを渡してきた。
「あの、理太郎、これ、あげます」
ポケットモンスターのキャラクター、ホワイトキュレムだった。
「彼女といろいろ探してみました」
デフォルメされ、やや間抜けな顔のホワイトキュレムに、理太郎はうなだれる。
「ちげーんだよ……。ゲーム内でゲットしたかったんだよ……」
「ですよね」
「しかもこれ、ホワイトキュレム。俺がゲットしそこねたのはブラックキュレム!」
「違いましたか?」
ホワイトキュレムはブラックキュレムの色違いだ。
理太郎、もう一度、ホワイトキュレムのぬいぐるみを見つめると、ふふっと笑った。
「ありがとな」
リーユーシェンは、いつもの優しい表情で言った。
「理太郎、一緒に中国行きませんか?」
「え?」
「11月22日、開校記念日で休みになり、22、23、24と連休になります」
「え、そーだっけ?」
「理太郎、二胡弾く素質あります!先生に師事しないなんてもったいないです!やっぱり、習わなければ、上達できない領域もあると思います!私の子どものころ習っていた先生、上海にいます。一緒に遊びに行きませんか?」
中国の上海まで飛行機で3時間半、時差は1時間。3日あれば、まぁ、行ける距離だった。
「うちの大学じゃ、二胡まともに教えられるやつなんていないんだよなぁ」
「だから、中国、一緒に行きましょう!」
理太郎は即答できなかった。
その日は、特に予定はない。バイトのシフトはこれから出す。まぁ、土日入らないというのはひんしゅくを買うだろうが、しょうがない。その分、夜入れば、店長や同僚の機嫌は取れると思う。
迷っているのはそこじゃなかった。
別に、中国に恐怖心があるわけじゃない。
二胡をもっと上手くなりたかった。
リーユーシェンと弾いてるだけでは物足りなくなってきた。
理太郎はポツリとつぶやくように言った。
「……そうだな。ちょっと、行ってみてーな」
「やった!行きましょう!彼女にも、音大友達にも、理太郎のこと紹介していです!」
リーユーシェンは目を輝かせながら、嬉しさを隠すことなく表現した。
「さっそく航空チケット取りましょう!」
リーユーシェンはすぐさまスマートフォンを手に取ると、操作を始めた。
「俺、木曜の講義休んで4連休にするわ」
「え!?」
「お前は?」
「え!?」
「木曜は、2限目に哲学が……」
「じゃあ、休んでよし!」
「えぇ!?」
理太郎は久々に千葉の実家に帰った。
実家といっても、高校3年間過ごしただけで、故郷や実家というよりも、親が住んでる家兼物置みたいな感覚だった。
ずっと、外国を渡り歩いていた両親が、定住したい、マイホームが欲しいと、中古のちっちゃな物件をローンを組んで購入したものだった。
ちなみに、稼ぎが多いわけではないので、ローンを組んでしまった今では、貧乏暮らしだ。
そのため、理太郎は学費と家賃、光熱費以外払ってもらっていない。
バイトができるから、どうにかしろということらしい。
最寄りの駅から歩き、すぐに静かな住宅街になった。
別におしゃれでもなんでもない外観の家からは、サックスの音が聞こえる。
父の雅之は三味線奏者だというのに、実はサックスが一番好きだった。
それを理太郎は思春期のころはウケる(笑)と散々心の中でバカにしていた。
にも関わらず、自分も似たような境遇になりそうで、笑ってしまう。
鍵で玄関を開ける。
「ただいまー」
小さな声でつぶやきながら、靴を脱ぐ。
玄関には、男物の草履しか転がっていないので、母は外出中のようだ。
そういえば、車もなかった。
理太郎のだす物音で、雅之に気配が伝わったのか、それ以上サックスの音が聞こえることはなかった。
玄関に上がり、リビングの扉を開けた。
「理太郎、久しぶりだな。来るなら連絡してくれればいいのに」
サックスの姿形はなく、不自然にリビング前に突っ立った雅之が出迎えた。
理太郎によく似た顔立ちで背が高かった。
前に会ったときより、頭が少し物足りなくなってる気がする。
「パスポート取りに来ただけだから」
「どこ行くんだ?」
「んー、………アジア」
父親は理太郎が中国が嫌いなこと知っている。コンクールでもないのに、行くなんて言いたくなかった。
冷蔵庫を開け、中に常備されている麦茶をごくっと飲んだ。
その後ろを雅之は着いていきながら、質問責めする。
「アジアのどこだ?」
「……いろいろ」
「東南アジアか?腹痛には気を付けろよ」
「あぁ」
「水道水飲むなよ」
キッチンのカウンターに使ったコップをそのままに、廊下を歩く。
雅之はまだ着いてくる。
「正露丸持ってったほうがいいぞ」
「ん」
「友達と行くのか?友達できたのか?」
まだ何か言っている。
理太郎は無視して階段を上がっていった。
自分の部屋は、子どものころ、練習していた楽譜や教科書、ゲーム器などが適当に片付いていた。
机の引き出しを開けると、中学高校時代の学生手帳など、実家近くの病院の診察券など重要そうなものが入っていた。
その中に、青い手帳があった。
表紙には、国章であり、皇室の紋章である十六一重表菊が印刷されている。
パスポートだ。
20歳以下は5年ごとに更新しなければならないので、6歳のときに作って以来、計3冊もある。
パスポートをパラパラめくると、オーストリア、アメリカ、オーストラリア、中国、ブラジル。
さまざまな国のスタンプが押されている。
理太郎は住む場所を転々とするのは嫌いじゃなかった。
様々な国の言語や生活音、音楽に触れるのは、それはそれでおもしろかった。
中国本土には小学校5年に行ったっきり、一度も行っていない。
必要なのは、最後に取得した16歳のパスポート一冊でいいのだが、なんとなく、今までのパスポートもまとめて手に入れると鞄に入れた。
このパスポートも、来年で更新しなければならない。
「おーい!理太郎ー!」
父親が1階から叫んでる。
理太郎はもうもう一度部屋をぐるりを見渡し、鞄を持って階段を降りていった。
「理太郎ー!」
「なんだよ。うっせーな。聞こえてるよ」
「じゃあ、返事しろよ」
雅之の手にはお寿司のデリバリーのチラシが握られていた。
「今日、寿司でも取るか?母さん遅いんだ」
「寿司?うん、食べる」
「お姉ちゃんも、今日帰ってくるって、言ってたし、寿にするか?うわ、高いなぁ」
「俺は、まぐろとサーモンと蟹が入ってればなんでもいい」
雅之はメニュー表を見ながら、一人ブツブツと呟いていた。
「音大どうだ?楽しいか?」
「あぁ。まぁ、それなりに」
「ピアノの先生はいい人いたか?」
「いや。価値観押し付けてくるババアが担当で最悪」
「あっはっはっ!ピアノばっかり飽きるだろ」
「うん」
「三味線は弾いてるか?」
独り暮らしを始めるとき、雅之がお古の三味線をくれたのを思い出した。
部屋の片隅に起きっぱなしだ。
父に習い、一応弾けることは弾ける。
「三味線、音量がちいせーし、長音も出せないし、つまんね」
「それが三味線なんだよ」
「うん。だから、三味線つまらん」
「なんだお前、もっぺん言ってみろ!」
「んだよ」
玄関がまた開く音がした。
小さな足音が聞こえたのち、リビングのドアが開く。
「ちょっと、何喧嘩してんの?外まで丸聞こえなんだけど」
「あ、お帰り、お姉ちゃん。理太郎が三味線は音が小さいって言うんだ」
「そんなことで喧嘩してたの?」
理太郎の3才年上の姉、里美だ。
音大を卒業し、ピアニストをしながら、子どもにピアノを教えている。
「理太郎も、どーせひどい言い方したんでしょ?」
「別に」
「三味線をバカにしやがって!」
「あーもー、うぜーな。帰る」
「ちょっと理太郎!」
姉に呼び止められるが、理太郎は無視し、鞄を持って出ていった。
「もー、なんなの」
そして、予定していた日。
理太郎は無事、上海国際空港に降り立つことができた。
7年ぶり。少し、変わったかな。
父親たちの、演奏会に着いていく感じで、2、3回は来たことがあるはずだ。
はっきりと、どこが変わったか覚えてないが、自分の背がぐんと伸びたからか、周りの景色は少し小さい印象だ。
「彼女の家まではタクシーで行きましょう!」
ぼーっと眺める理太郎の隣にリーユーシェンが立った。
「ホントに俺もいいのか?別にホテルとか泊まるけど」
「彼女いいって言ってました!ホテルだと、お金かかりますし、二胡弾けないでしょう。マンション防音なので、弾き放題です!」
リーユーシェンは彼女に会えるのが相当楽しみなのか、飛行機に乗ったくらいから、ウキウキ、ソワソワで、いつも以上に笑顔がキラキラしていた。ちょっとウザい。
「理太郎!早く!」
久しぶりの景色を眺めていたため、歩く速さの遅い理太郎を、数メートル先を歩くリーユーシェンが呼ぶ。
「はいはい」
「ここです!」
「お、おぉ……すげー高そうな物件」
空港からタクシーで1時間半。
降りたのは、真新しい高層マンションのロータリーだった。
高級住宅街なのだろうか。
周りにも似たようなマンションが建ち並び、広い庭なのか、ほぼ公園のような芝生に木が等間隔で植えられている。
リーユーシェンについて、マンションの中へ入っていく。
大きな扉の横には、石でできた龍の彫刻が口を開けていた。
インターホンで彼女を呼び出す。
リーユーシェンが中国語で何かしゃべると、すーっと、自動ドアが開いた。
理太郎は、リーユーシェンの後を恐る恐る着いていく。
彼女の部屋は35階だった。
ピンポーンとチャイムを鳴らす。
すぐに扉が勢いよく開いた。
リーユーシェンが、目を細め、満面の笑みで両手を開く。
「欣怡(シィンイー)」
「子軒(ユーシェン)!」
叫びながら、女性が飛び出してきた。ばっと、リーユーシェンに抱きつく。勢いで、2、3歩よろめき、後ろにいた理太郎の足を踏んだ。
「いてっ……!」
「もぉぉぉおおおおお!!」
彼女はリーユーシェンの服の胸元を掴むと、前後にゆさゆさと揺すりながら、何か叫び続けた。
「もぉぉぉぉぉ!」
「シィンイー」
「もぉぉぉぉぉ!」
「ただいま」
「なんか、めっちゃ怒ってる……」
今度は何か叫びながら、リーユーシェンの胸を拳でどかどか殴っていく。
それでも、リーユーシェンは、嬉しそうに目を細めながら、笑っていた。
「お土産買ってきたよ。日本の化粧品。あと、クッキーも」
リーユーシェンが右手をわずかに上にあげる。
可愛らしい花模様の小さな紙袋を持っていた。
それに気づいた彼女は動きを止めた。ゆっくりと顔を上げる。
「会いたかった……」
「ごめんね。ただいま」
「うん」
アジア人の女性の平均身長と比べれば少し背が高く、スラッとした女性だった。
胸まで伸びたつやつやの黒い髪が綺麗だ。
やっと、後方にいた理太郎に気づくと、小さく笑った。
「劉 欣怡(リュウ シィンイー)です」
「福原理太郎です。お世話んなります」
「どうぞ」
「おぉー…すげー」
想像していたが、部屋の中はものすごく広かった。
テーブルやソファをどかせば、いつも騒いでいる連中たちと、楽器を演奏しながら、ドンチャン騒ぎできるほどだった。
ガラス張りになっており、町の景色を一望できる。
テレビの横には大型のスピーカーがあった。
自宅で高音質の音楽を聴けるなんて羨ましすぎる。
リビングの四隅には、アップライトピアノが一台置かれていた。
ここに一人で住んでるとか、やはり中国の富裕層は格が違う。
リーユーシェンは荷物を下ろすなり、二胡をケースから取り出した。
「シィンイー!君に聞いて欲しいんだ!二胡!」
リュウシィンイーはカウンタータイプのキッチンでお茶を淹れていた。
手を止めることなく、アルトの色っぽい声が響いた。
「フライトで疲れただろうから、休んでからで……」
「今、君に聞いて欲しいんだ!」
「…………わかった」
リーユーシェンの強い眼差しに、リュウシィンイーはお茶の用意していた手を止め、彼氏の前に歩いてきた。
「理太郎!お願いします!」
「あ、あぁ」
伴奏をお願いされており、日本でもなんどが合わせてきた。
理太郎は適当なところに荷物を置き、部屋の片隅のアップライトピアノに歩いていった。
「ピアノ、借りるね」
ユーシェンは焦る気持ちを抑え、チューニングをする。
理太郎も、軽く音を出し、確かめた。
不思議だ。この二人を見てまだ数分しか経ってないのに、お遊びで付き合ってるわけじゃない、本当に愛し合っている二人だとわかる。
それを羨ましいというより、遠い、別世界の存在に感じる。
リーユーシェンが理太郎を見た。強く、頷く。理太郎も小さく頷き返した。
そして、ユーシェンはシィンイーを見た。
大好きな彼女は、優しく微笑んでくれた。
目を閉じる。理太郎のゆったりとした優しいピアノが流れた。
ユーシェンの彼女のためだけの演奏が始まった。
『女人花』
シィンイーの好きな曲だ。
女性を花に例えた、私を見つけて欲しいと、誰かを恋焦がれるような切なくもある曲だ。
ゆったりとした音の響き一つ、一つが、心にそのまま溶け込み、じーんと馴染んでいくようなそんな演奏だった。
聞いているだけで、優しい気持ちになる。
そういえば、出会ったころもこの曲を弾いていたっけ。
付き合ってからも、弾いてと頼む度に、笑顔でうんとうなずき、弾いてくれた。
忙しくて会えない日。
聞きたくなるけど、聞いたら余計寂しくなるなら我慢してた。
それでも、勝手に頭の中にユーシェンの二胡が流れてくる。
だから、この曲を聞くと、嬉しくもなるし、優しくもなれるし、切なくもなる。
もうこの曲はあなた以外の演奏では聞けないよ。
今日は一段と、優しい演奏。
やっと聞けたね。
やがて曲が終わると、シィンイーは小さく涙を拭った。
ユーシェンも目が潤んでいる気がする。
「素敵な音。私、ユーシェンの二胡大好きだよ」
「ごめんね。シィンイー」
ユーシェンは二胡を置き、シィンイーを抱きしめた。
あったかい。
あぁ、このまま、溶けて、一つになっちゃえばいいのに……。
しばらく、抱き合っていた。
その間、理太郎はピアノの椅子に座ったまま、なるべく気配を消していた。
やがて、離れると、ユーシェンが嬉しそうに言った。
「理太郎のおかげで弾けるようになったんだよ」
「そうなのか!?」
急に振られ、想像以上に驚いた声が出てしまった。
「ありがとう。福原くん」
リュウシィンイーが振り返り、お礼を言った。
「いや、別に、俺、なんもしてねーけど」
「謙虚ですねぇ」
「いや、マジで」
ユーシェンはソファに座る彼女の前に立ち膝をつき、優しい顔で見つめた。
「シィンイー、俺、将来、君と結婚したいと思ってる。でも、二胡の演奏家にもなりたいんだ」
「うん」
「君の両親が音楽家なんかって反対してるのは、しょうがないと思う。だから、二胡の演奏家として、いっぱい稼いで、認められるよう、立派な演奏者になるよ。もう少し、待っててくれる?」
「うん。ちょっとだけだよ」
シィンイーは意地悪っぽく笑った。
「私は、二胡を弾くユーシェンがカッコよくて大好きなの。これ以上、カッコ悪くなったら、許さないからね!」
「はい!」
リーユーシェンの運転で、二胡の先生のところへ向かった。
車内のいたるところにVとWのロゴマークがある。フォルクスワーゲンだ。
これもなかなか高そうな車だった。
助手席の皮のシートで寛ぎながら、理太郎がつぶやいた。
「彼女、ツンデレ系かぁー。いーなー」
「ツンデレってなんですか?」
リーユーシェンがハンドルを握りながら、聞き返す。
「んー、ツンツンしてるのに、たまにデレるみたいな?」
「よくわかりませんが……」
「かわいいよな」
「は?」
普段の彼からは考えられないようなキツイは?が返ってきた。怖くて見れないが多分睨んでる。ヤバイ。焦る。
「いや、別に、狙ってるとかそういうんじゃなくて、いい子だなって単純に思っただけ。褒めたんだよ!」
「そうなんですよぉ。いい子なんですよ。シィンイー」
またノロケた顔に戻った。
ほっと安心すると、慌てて話題を代える。
「これ、お前の車?」
「違いますよ。彼女のです」
「彼女って、大学生なのか?」
「はい。そうですけど、株とかやる投資家でもあります。この車もマンションも、親に買ってもらったんじゃなくて、自分で稼いだお金です」
「すっげー。じゃあ、結婚しても、お前が稼がなくてもいんじゃね?」
「まぁ、そーなんですけどね。カッコつかないじゃないですか」
「まぁな」
男なら、妻に養われ、自分は好きなことしてるなんて、カッコ悪いと思うのは、理太郎も男なのでよくわかった。
リーユーシェンがチラリと時計を見た。
「少し飛ばします」
さっきから、飛ばしていると思ったが、またさらにスピードが上がった。
リーユーシェンの穏やかな性格から予想できない運転に少し、ヒヤリとしたものを感じた。
郊外から外れ、30分ほどで、少し田舎っぽい雰囲気の場所にきた。
たまに民家、たまに畑というような景色だ。
やがて、バカでかい庭にぽつんと一軒家が建っていた。
築50年くらいは経っているだろうか。
庭を5匹の犬が走り回っている。
目につくだけで、猫が7匹、日向ぼっこしていた。
鶏が一羽走りまわっている。
庭の外れには時期外れになるきゅうりが植えられて、干からびていた。
竹馬や縄跳び、キックボードやボールなど子どもの遊び道具が、小屋の下置かれている。
リーユーシェンは車を庭の適当なところに停めた。
すぐに10歳くらいの子どもが数人、走ってきた。
「にーに!」
「リーユーシェン!」
車を降りたリーユーシェンの腰に抱きつく。
「お土産は?コアラのマーチ!」
「はい」
理太郎が日本のゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったバカでかいコアラのマーチの箱を車から出した。
その大きさに子どもたちは大興奮する。
「ぎゃーーー!!!」
子どもたちは絶叫し、コアラのマーチの箱をぶんどると、家のほうへ走っていった。
一人だけ、女の子が立ち止まると、振り返った。
「謝謝!」
それだけ叫ぶと、コアラのマーチへ走って行った。
「元気いいなぁ」
「お前の弟?」
「まさか!先生になついてる子どもたちですよ」
「へー」
リーユーシェンと共に、二胡のケースを手に取ると、家へ歩き出した。
「このへんは、貧しい家もあって、遅くまで共働きで、子どもが寂しい思いしてるので、先生の家が遊び場になってるんです」
家の中からは子どもたちの楽しそうな声が響いてくる。
「先生は動物好きで、子どもが好きで、二胡がめちゃくちゃうまいんです!」
先生の話をするリーユーシェンの顔は嬉しそうだった。
部屋の中も古民家風といった感じだった。
しかし、汚さは感じず、大切に使われてのがわかった。
入り口入ってすぐには、理太郎の腰ほどの高さのある、やたら装飾が細かいツボが置かれていた。
子どもがぶつかったのか、一部が割れてなくなっている。
一人のふくよかな婦人が出迎えた。
この人も優しそうな雰囲気だった。
「おかえり。リーユーシェン」
「ただいま。王 媛(ワン イェン)さん。日本でできた友人、連れてきましたよ。」
リーユーシェンが理太郎を示した。
「どうも。お邪魔します」
「どうぞ」
婦人が中へと案内してくれた。
中から子どもたちの歓声が聞こえた。
「いっぱい!」
「先生!コアラのマーチ!」
「おいしい?おいしい?」
「リーユーシェンが持ってきてくれたの!」
リビングのような部屋には、コアラのマーチを嬉しそうに食べている子どもたちがいた。
二胡、琴、笛、ピアノなど、様々な楽器や楽譜、ドラえもんらしきキャラクターのぬいぐるみが置かれていた。
理太郎のよく知るドラえもんより、鼻の下が長い気がする。
部屋の奥のイスに、一人のおじいさんが座っていた。
あごから伸びた白い髭は胸まで伸びている。
理太郎が思わず呟いた。
「仙人……」
もぐもぐと口が動いている。
近くに立っていた女の子が仙人の口に、コアラのマーチを運んだ。
あーむ、と食べた。
「中国に2年いたが、仙人に会うのは初めてだ……」
「人ですよ」
リーユーシェンが笑った。
「年齢不明、二胡の達人、王鵬芳(ワン フォンファン)先生です!」
先生は表情一つ変えず、コアラのマーチをもぐもぐ、ゆっくりと咀嚼していた。
一見、無表情で何を考えてるのかわからず怖い印象だ。
しかし、子どもたちは、先生に何か言いに行っては、またバタバタ走りだし、慕われているようだった。
不思議な人だ。
でも、ただならぬオーラを同じ音楽家として、理太郎は感じ取っていた。
姿勢を正し、仙人をしっかり見つめた。
「福原理太郎です!二胡を教えてください!」
仙人は微動だにせず、理太郎を見つめ続けた。
「…………」
それに、理太郎は焦る。
しばらく、理太郎と仙人の間に沈黙が流れたのち、リーユーシェンあっ!と声を出した。
「理太郎の発音が下手で聞き取れないようです」
「ンなんだよっ……!」
リーユーシェンが理太郎の言ったことを綺麗な中国語で訳すと、仙人はうんと大きくうなずいた。
ゆっくり、理太郎を見た。
「聞かせておくれ」
「はいっ!」
柄にもなく、大きな声で返事をしてしまった。
仙人から少し離れたところに椅子を置き、座る。
ケースから二胡を出し、体に乗せた。
周りの子どもたちは、不思議と静かになり、理太郎を見つめた。
軽く音を出し、チューニングをする。
汗がじわりと額に滲んだ。
手が強ばる。
久々に緊張していた。
けどこの緊張感、嫌いじゃない。
仙人に、目でチューニングが終わったことを告げる。大きく頷き返してくれた。
理太郎はすぅーと息を大きく吐くと、左指で弦押し、右腕で弓を引いた。
一音の美しい音が響く。
『雨碎江南』
南の方で、優しい雨が降っているという意味だ。
今、外は晴れているけれど、この仙人先生の家の優しい雰囲気から、自然とこの曲を弾いてみたいと思った。
曲が終わった。
理太郎は恐る恐る仙人を見た。
目を閉じ、耳を傾けていた仙人はゆっくりと目を開けた。
口元は髭であまりよく見えないが、目を細め、笑っているようだ。
「青い林檎」
「ん?」
仙人の言ってる意味がわからず、理太郎はリーユーシェンの顔を見た。
リーユーシェンも少し悩みながら答えた。
「100点満点中60点くらい……ってことですかね?」
「お、おー?褒められてる!?」
「はい!どちらかといえば!」
仙人は、低い声でゆっくりとしゃべり出した。
「実に優しい、愛のこもった演奏だった。これから何色にも代わる不思議な木の実だ」
「あざっす!あの!俺に二胡を教えていただけないですか!?」
「いいだろう」
「よっしゃ!」
理太郎は大きくガッツポーズをした。
仙人は部屋の棚に置かれていた自らの二胡を取った。
「着いてきなさい」
奥の部屋へと入っていく。
リーユーシェンと子どもたちは笑って、理太郎を見送った。
「休憩、どうですかー?」
婦人がお茶を入れ、奥の部屋の扉を叩いた。
仙人が出てきて続いて理太郎も出てきた。
妙に真剣な顔つきで、先ほど教えられたことを頭に記憶しようとしているようだった。
「理太郎、お茶」
「あぁ、サンキュー」
リーユーシェンがお茶とお皿に乗った桃まんをくれた。
仙人が席に着くと、子どもたちがわらわらとその周りにあつまり、おしゃべりが始まった。
リーユーシェンが理太郎の隣にそっと座った。
「どうでした?」
「……すげー。勉強になる」
「ね、目からウコロですよね!」
「つーか、先生の演奏がすげーわ。なんつーか。二胡が魔道具みてー。音色聞くと、なんか魔法がかかったみたいになる」
「ですよね!不思議ですよね!」
しゃべる理太郎たちの周りに、子どもたちが集まってきた。
坊主頭の少年が理太郎の顔を見た、
「ねー、ねー、お前、どこから来たの!?」
「日本」
「遠いな!」
「泳いできた」
「嘘だろー」
「嘘だよ」
あははっと笑いが起きる。
「お前、中国語下手だな!」
「何言ってるのか、たまにわかんない!」
飛行機乗ったあたりから薄々感じていたが、上海の人には理太郎の中国語は発音が下手かつ、ものすごい訛って聞こえるらしい。
リーユーシェンは優しいので今まで一生懸命聞いてくれていたようだった。
「うっせーな。クソガキ。俺の言うことわかんないかもしんねーけど、お前らの言ってること、ほぼほぼ俺わかってるからな」
理太郎は口の悪い少年の頭をぐりぐりの撫でた。
「なんて?なんて?」
「広州訛り?」
今まで静かに桃まんを食べていた先生が口を開いた。
騒がしくしていた子どもたちが一斉に静かになる。
「ちゃんと聞いてあげなさい。そしたらなんて言ってるかわかるだろう?私も、お前たちの演奏がどんなにへたくそでも最後まで聞くよ」
「はい!」
子どもがもう一度、理太郎のところへ集まってきた。
「もう一度言え!」
理太郎はくすりと笑った。
チラリと転がっているドラえもんを見て、ゆっくり話した。
「どらえもん好きか?」
「もう一度!」
「どらえもん、好き?」
「嫌いだ!あんなの!」
理太郎は思わず噴き出した。
「あんな便利な道具、あるわけないもん!」
「そうだな。別に俺も好きになった記憶はねーし。のび太見てるとムカつくよな」
「それより、NARUTOだろ!」
NARUTOに日本の忍者アニメだ。
子どもたちは手で、術を出す動きをしてお互い遊び始めた。
「くらえ!螺旋丸(らせんがん)の術!」
「ぐはぁ……」
なぜか術をかけられたリーユーシェンは一瞬机につっぷしたが、すぐに起き上がり、桃まんを食べ始めた。
「くらえ!千鳥!」
「あだっ!」
今度は理太郎によくわからない術がかけられた。
先生に師事する時間はあっという間に終わり、またリーユーシェンの車で帰った。
助手席に座る理太郎は、めずらしく、にこにこしていた。
「どうでしたか?」
「楽しかった、かな」
「それは、よかったです」
「なんか先生のイメージ違った。
楽器教えてる先生って、その楽器のことしか頭になくて、厳しくてって感じのやつしか知らなかったけど……」
理太郎は、幼いころから音楽の英才教育を受けたわけではなかった。
ただ、親が音楽をやっていたから、楽器に触れ、
たまたまピアノはちょうどいい伴奏になるし、楽譜を読めるようになるのにちょうどいい楽器だから、暇潰し感覚で長年習っていただけだった。
しかし、音大には、親に、先生に、遊ぶ時間を奪われ、厳しく教え続けられている学生がごまんといた。
リーユーシェンも、おそらく、その中の一人なんだろう。
その生活を聞くたびに、そんなクソみたいな境遇に生まれなくてよかったと心底安堵していた。
それと引き換えに、今の理太郎にあるのは、中途半端な音楽の知識と、技術と、執着心だけだった。
リーユーシェンも満足そうに笑った。
「先生の教え方すごくいいですよね?私は目からウロコでした。
小さい頃から二胡弾いてて、何度もやめたい思ったけど、先生に出会って、また二胡が楽しくなりました」
「おぅ。なんつーか、プレッシャーとか感じず、単純に二胡楽しめる時間だった」
「明日も行けますよ」
「楽しみだ。また、あのガキにお菓子でも買ってくか」
「そうしましょう」
「ん?どこだ?ここ」
リーユーシェンが車を停めたのは、とある飲食店の駐車場だった。
「理太郎の歓迎会です。私の音大友達が理太郎に会いたいそうです」
ザ・中華という店構えだった。
店内も赤や暖色を基調に、高そうなシャンデリアや龍の絵、ツボや花が飾られている。
店内の奥にはすでに、10数人の学生が集まっていた。
リュウシィンイーの姿もある。
リーユーシェンたちに気づくと、こっちに手を振ってくれた。
「理太郎、僕の音大友達です」
「わぁ!日本人だ!」
みんな笑顔で出迎えてくれた。
自分と似たような顔つき、年齢。
しかし、富裕層そうっぽい育ちのよさそうな雰囲気がよくわかった。
「わざわざ、歓迎会、ありがとう。福原理太郎です」
なぜだか、少し緊張してたどたどしい中国語になってしまった。
まわりで聞いていた友達たちはうん、うんとうなづいてくれたので、なんとか通じたようだった。
「うちの親が経営する店で、今日は貸し切りだから、思いっきり飲もう!」
その声をきっかけにたくさんの中華料理やお酒が運ばれてきた。
リーユーシェンが段ボール箱をテーブルに置いた。
ぷりんが中国といえば、ぱんだ。ぱんだならさくさくぱんだがいいのではと大袋をドン・キホーテで大量に買ってきてくれていた。ぱんだの顔したクッキーだ。
「これ、日本の友人たちがお土産をくれたんです!」
「きゃー!かわいいー!」
女子学生たちはこぞって袋を開けると、スマートフォンで写真を撮り始めた。
「福原さん、何飲みますか?」
「え、あーじゃあ、紹興酒」
「福原さん、焼売食べる?」
「うん」
瞬く間に理太郎の周りにお酒と料理が並び、人が集まってきた。
リーユーシェンはちゃっかり彼女と別のテーブルに座り、ゆっくり食事を始めていた。
「ねぇ、ねぇ、日本の音大って入るの難しい?」
「一日どのくらい練習してる?」
「先生たくさんいる?」
たくさんの中国語に、理太郎は答えていく。
日本の音大のこと。日本の文化のこと。
日本に行ってみたいけど、おすすめは?
何を食べといたらいいかな?
たくさんの他愛のない話が尽きなかった。
リーユーシェンの友人たちだからなのか、みんな一様に穏やかな印象だった。
次第にそこかしこで、中国人の友人同士がしゃべりはじめ、理太郎の周りはやっと静かになった。
別に嫌だったわけではないが、少しほっとしながら、もう一度、箸をとった。
一人の女の子が近づいてきたかと思うと、少し、恥ずかしそうに、ゆっくり話始めた。
「リタロサン、ワタシ、ニホンゴ、ベンキョウしてます。イッパイ、話したい、デス」
目を見て、健気に日本語をしゃべろうとしている様子が可愛かった。
小柄で、ボブくらいの長さの黒髪。地味な雰囲気だけど、色白で可愛い系だった。
理太郎もゆっくり、日本語で質問した。
「日本語、上手だね。名前は?」
「閆 依依(ヤン イーイー)です」
「可愛い音だね」
中国語の発音は、なんか可愛い。
イーイーは少し照れながら笑った。
「……アリガトウゴザイマス」
「日本語、どうやって勉強してるの?」
「えっと、アニメや漫画デス」
「あははっ。何が好きなの?」
「今ハマってるノハ、『鬼滅の刃』デス」
理太郎の目がキラっと輝いた。声が大きくなる。
「マジ?アニメ見た?オープニングもいいけど、効果音がめちゃくちゃいいんだよ、あれ!」
「デスヨネ!最高デス!」
理太郎は日常的にアニメを見るほどオタクではなかったが、日本の音大友達から「鬼滅の刃、おもしろい。効果音めっちゃいい」と勧められ、飽きっぽい性格のわりに、アニメを視聴していた。
思いがけない理太郎の反応にヤンイーイーも目を輝せる。
「那田蜘蛛山(なたぐもやま)で、富岡義勇(とみおか ぎゆう)が父蜘蛛を切ったあとの、静かなオーボエがめちゃくちゃよかった!戦闘シーンだから、もっと激しい効果音になりがちなのに、そーゆー表現の仕方があんのかってマジ、ビビった」
「あそこ、イイデスヨネ!」
「あと、やっぱ、炭次郎(たんじろう)と累(るい)の戦ってるとこ!優しい系の、しかも、声の入った曲入れるとは……マジびっくりした」
「あのシーン、泣きマシタ」
「うん。俺も久々になんかぐっときた。さすが梶浦由記さんと椎名豪さんだわ」
「音楽担当している人ですか?」
「うん。梶浦さんの作曲したので、他にも好きなのいっぱいあって……」
「例えば」と言おうとしたところで、後ろにリーユーシェンとリュウシィンイーがやってきた。
「理太郎、アニオタだったんですか?」
「いや、別にオタクってほどじゃねーけど」
理太郎は、リーユーシェンのグラスが烏龍茶なのに気づいた。
「お前、飲まねーの?」
「あはは……。俺、禁酒中だから……」
「なんで?」
隣のシィンイーが大きくため息をついた。
「ユーシェン、酒癖、すっごい悪いの。叫ぶわ、暴れるわで、次大きなコンクールで優勝するまでおあずけ」
「へー。意外」
なぜか、この話になり、周りに人が集まり始めた。
一人の男子学生が思い出し笑いを始めた。
「こないだなんか、路上で全裸になって、看板に話しかけてたよ」
「あった!あった!」
「お店で突然犬の真似始めたとき、もうどうしようかと思って……」
「あれね。もう言葉も通じないし、置いて帰ろうとしたよね」
リーユーシェンは頭を抱えて俯いていた。
みんなもそれぞれ思い出し、爆笑している。
「じゃあ、これ、リーユーシェン以外で飲もう!」
どんとテーブルに酒瓶が置かれた。中にヘビがいる。
「うえぇぇ……」
理太郎は素直に気持ち悪がった。
「飲んでみ!精力つくよ!」
「いや、ついても、相手がいないんだよ……」
小さなグラスに数センチ、蛇酒が注がれた。
理太郎が嫌な顔してグラスを見ていると、すっと、冷たい手が理太郎からグラスを奪い取った。
「じゃ、私が飲む」
理太郎に妖艶に微笑む女性。
赤いワンピースに、豊満なバストとヒップ、化粧も濃く、やや派手な身なりだった。
グラスを傾け、少し飲んだ。
「んー!まずい!!はい、次は君の番」
まだ数ミリお酒の残されたグラスを理太郎に差し出した。
グラスには、リップの後が軽く残っている。それに気づいた女性は声に出して笑った。
「あはっ。これだと間接キスになっちゃうね」
理太郎はグラスを持つ女性の手ごと、掴むと、ぐびっと飲んだ。
「ぐほぉ……!!」
「えー、そこまでまずい?」
「……かーっ!まずいっつーか、すっげー強いな、この酒」
喉がカッカッと熱くなったかと思うと、全身がどんどん熱くなる。
女性は顔の高さまで瓶を持ち上げ、傾けるようにしてラベルを眺めた。
「45度だって」
「うわ……!」
「じゃあ、お口直し。美味しいお酒、飲も」
女性は別の酒瓶を理太郎のグラスにとくとく注いだ。
「おいおい、曹 妮(ツァオ ニー)、あんま強いのばっか飲ませるなよ」
後ろから、男子学生が声をかけるが、ツァオニーと呼ばれた女性はクスリと笑うだけだった。
「はい」
「サンキュー」
理太郎は注がれた酒を半分ほど飲んだ。
「あ、うまっ」
ツァオニーが、理太郎の耳元で囁いた。
「ね、今晩うちに泊まりに来ない?あの二人のとこじゃ気まずいでしょ?」
「……マジ?んー、でも朝早くから、また先生のとこに練習みてもらいに行くしなぁ……」
「私が起こしてあげる」
香水の匂いが香り、もう一度、理太郎は隣の女性を眺めた。
全く、何の楽器を演奏しているのか検討がつかない。
今、演奏家として音大で学んでいるわけではないのかもしれないが、それでも、昔ピアノを弾いていたとか何かしらやっているのが、音大生だ。
そして、それは案外雰囲気でわかる。
しかし、目の前のスタイル抜群の女性は、ちょっと別世界の人に見えるというか、独自の雰囲気を持っていた。
ツァオニーはもっと理太郎に近づき、体を寄せる。
「ねぇ、福原くん。うちおいでよ」
それって、そーゆーことだよな?
でも、ぶっちゃけ疲れたし、眠いし、腹いっぱいだし。
若干、胃もたれもしかけてる。
油っこい料理ばっかり。
理太郎が突然立ち上がった。
勢いで、椅子がバーンと倒れ、音を立てた。
「理太郎、大丈夫?」
驚いた顔でリーユーシェンが理太郎の肩に手を載せた。
周りも物音で注目していた。
「りた……」
顔を覗きこもうとしたとき、どんと押され、理太郎はそのままどかどかと歩き、店の外へ出た。
「理太郎?」
店を出てすぐの道端の側溝にうずくまった。
「おえええええええええ!!!」
「吐いてる!」
リーユーシェンが青ざめ、理太郎の背中をさする。
様子を見に来た友人たちに叫んだ。
「シィンイー!水!」
友人たちが、バタバタと動きだした。
目を覚ますと、ベッドの上だった。
だんだんと、目が慣れてくると、リュウシィンイーの家だということがわかった。
なんでここにいんだ……?
どうやってきた?
全く覚えていない。
時計と見ると、夜中の3時24分。
「いってぇ……!」
頭がズキズキする。
久々に飲みすぎてしまった。
ハッと部屋の中をキョロキョロする。
ベットの足元に二胡のケースが置いてあった。
急いで、二胡のケースを開け、中身を確認する。
自分が手入れをして、しまった状態から変わっていなかった。
サイドテーブルには、スマートフォンと財布が置いてあった。
財布の中身を確認する。
なけなしの1万円札は入ったままだ。
運転免許証も、健康保険証もいつもの位置にきちんと入っている。
「っはぁー……」
安堵と同時に、ぽいっと財布をベッドの上に放り投げた。
そのままベットに仰向けで倒れる。
あほくさ。
変な心配しすぎた自分に、小さく息を吐きながら笑った。
「のど、湧いたな……」
理太郎は部屋を出ると、キッチンへ向かった。
静かだ。リーユーシェンもリュウシィンイーも寝ているのだろうか。
なるべく静かに、廊下を歩く。
「ぁ……ん……」
女性の、吐息のような声が聞こえる。
反射的に、理太郎は呼吸を含むすべての動きを止めた。
「ん……ん……」
明かりのついたキッチンから、2つの影が動いているのが見えた。
「シィンイー……」
「……ユーシェン」
これはもしかしなくとも、あれ中だ。
まずい。
理太郎は細心の注意を払い、物音一つ立てないように、引き返した。
ドン!
棚に体が当たり、上に飾られていた変な顔のアヒルの置物が落ちた。
今まで生きてきた中で一番の反射神経を使い、床にダイブし、落ちるギリギリでキャッチした。
耳を澄ませる。
「えー、もう、またぁ?」
「久しぶりだから」
どうやら、理太郎には気づいていないようだ。
安堵ではぁぁぁと大きく息を吐く。
なんで、キッチンでヤってんだよ。
お前らの部屋もダブルベッドもあるっつってたじゃん。
床の冷たさが、焦った体に心地よかった。
朝。
廊下の床で、理太郎がアヒルを抱えて寝ていた。
「なんで理太郎、こんなとこで寝てるんですか?」
「酔っ払いすぎ、あはは」
リュウシィンイーも笑っていた。
「ん、……あ?」
その声に理太郎も目を覚ます。
体が痛い。
「大丈夫ですか?酔っ払いすぎですよ」
リーユーシェンとリュウシィンイーが笑っている。
「朝ごはん食べに行きますよ」
「お、おぉ……」
中国では、出かけるついでに屋台で朝ご飯を食べるのが定番だった。
二人はすでに出かける用意ができているようだった。
「その前にシャワー、浴びていい?」
中国の屋台は本当に充実していた。
初めてくると、目移りて、何を食べようかなかなか決まらなさそうだったが、時間もないため、リーユーシェンに勧められた店を選んだ。
肉まんを頬張りながら、理太郎が気まずそうな顔で聞いた。
「俺、どーやって、家まで帰った?」
ユーシェンとシィンイーはくくくっと笑いを堪えた。
「俺と、友達で車に引きずって乗せて、車からマンションへも引きずって来たよ」
「どーりで、シャワー浴びたときに、痣だらけだと思ったわ」
「福原くん、背高いからね」
「全裸になったり、犬になったりはしてないよな?」
「ふふっ。してないよ」
「やっちまったなぁ……」
「大丈夫だよ。あの子たち、ユーシェンの奇行で慣れてるから。福原くんの嘔吐くらいじゃ誰も驚かないよ」
「シィンイー」
リーユーシェンが涙目でシィンイーを見つめた。
その日も午前中から、先生のところで指導を受けた。
高齢ということもあり、何時間もみっちり理太郎を指導できず、途中休憩を挟み、夕方前には帰った。
それでも、理太郎は、リュウシィンイーの家に着くと、部屋を借り、また二胡の練習を始めた。
部屋をノックする音がすると、ドアが開き、リーユーシェンが顔を出した。
「理太郎、そろそろごはん食べに行く?」
「あー、今、大丈夫。弾いてたい」
理太郎はほとんど楽譜から顔を離さず、二胡を抱えたまま言った。
「彼女と二人で行ってこいよ。帰りに、なんか買ってきて」
「うん。わかった。リビングのテーブルに乗ってる月餅食べていいから」
「サンキュー」
リーユーシェンは静かにドアを閉めようとした瞬間、「あ!」と理太郎の声が聞こえてきた。
何事かと、ドアを開けると、目を丸くした理太郎がこっちを見ていた。
「コンクール、応募しとくの忘れてたわ」
「え!?大丈夫なんですか!?」
「わからん。クソ怒られそー……。まぁ、過ぎたことはしょーがねーか」
理太郎は、あっさり自己完結すると、また二胡の練習を始めた。
リーユーシェンは小さく笑いながら、静かにドアを閉めた。
玄関の近くでは、すでに出かける用意をしたシィンイーが待っていた。
今日は青いワンピースだった。
「理太郎、練習してるって」
「すごいがんばってるね」
「ピアノのコンクール応募し忘れるほどね(笑)」
「えー、大丈夫なの?」
「いいみたい。俺も負けられないよ」
リーユーシェンの顔を見て、彼女は嬉しそうに笑った。
あっという間に予定していた3日が過ぎた。
日本に帰るとき、空港まで、リーユーシェンの友達たちが見送りに来てくれた。
理太郎は罰の悪い顔で、まず始めに謝った。
「こないだは大惨事になって、悪かったな」
「あははっ!リーユーシェンに比べたらかわいいもんだよ」
「そうそう!」
ここまでネタにされてるのを見ると、怖いもの見たさで、酔った彼を見てみたくなった。
「これ、お土産だよ!日本の友達にもあげて!」
大きな紙袋を渡してくれた。
中には、不細工な顔したコアラのマーチっぽいお菓子やたけのこの里が入っていた。
「サンキュー!こんなにいいのか!?」
「うん!また中国来てね!」
「てゆーか、今度は日本に行ってもいい?」
「おう。案内してやるよ」
ヤンイーイーが、理太郎を見上げ、キラキラした顔でみつめた。
「カラオケ、連れてってください!」
「行こう」
「私、回転寿司行きたい!」
「回転寿司か。生魚食べれんの?」
「食べれない!」
あははっと笑いが起こる。
「リーユーシェンは?」
「あっち」
少し離れたところで、ユーシェンとシィンイーが立っていた。
彼女はうつむき、唇を噛んでいた。
なぜか理太郎まで、少し胸が痛んだ。
「ごめんね。またすぐ会いに行くから」
「……ちゃんと勉強してきてね」
「はい!」
大きな声で返事すると、やっと離れた。
理太郎たちは中国の友人たちに手を振ると、搭乗口に向かった。
飛行機の中で、自分の左の指をぼーっとみつめた。
人差し指と親指、こすり合わせてみる。
弦を押さえる手の皮が、少し厚くなった気がする。
「ピアノ弾くとき、違和感ありそーだな」
日本に戻ってからも、理太郎は、先生に教わったことを忘れぬよう、1日5時間は二胡の練習をした。
本業のはずのピアノは、ほとんどレッスン形式の講義でしか弾かなくなっていた。
案外、それは担当講師にはバレずに、むしろ「楽譜よく見て弾けてますね」と誉められるくらいで、笑いを堪えるのに大変だった。
音大生といえど、大学生なので、音楽系の科目の他に、教養科目を取らなければいけなかった。
そして、レポートの課題が定期的に出される。
TSUTAYAのバイトが終わり、家に帰った理太郎はノートパソコンに向かっていた。
Wordの書式に、とりあえず、名前と学籍番号を入力し、本文に"あ"と書いて後は白紙だった。
講義名は憲法。課題は『参考図書の中から気になる裁判を選び、気になる点、考察を述べよ』文字数約5000字。
……………………進まない。
理太郎はキーボードから手を離した。
お腹が空いた。
静かだな。
明日晴れるんだっけ?
どーでもいい独り言を頭の中につぶやく。
お腹が減って、肉まんを温めて食べた。
できたての小籠包は、肉汁がたっぷりでおいしかったな。
ふと、一緒に笑い、お酒を飲んだ中国の友人たちの顔が浮かぶ。
全然、嫌な思いしなかったな。
みんな親切だった。笑顔で自分を出迎えてくれた。
何だったんだ。あんときのデモはってくらい、違う人たちだった。
何だったんだ。マジで。
「…………」
テーブルの上に乗っていた指が、勝手にリズムを刻む。
頭の中に音楽が流れる。
理太郎は二胡を手にとり弾き始めた。
楽しくて、おもしろくて、踊るようなメロディー。
「うっせーんだよ!」
おっさんの怒鳴り声と共に、壁にドン!と何かぶつけられる音がした。
右隣の部屋だ。
忘れていた。このマンションは日本の安い、1Kのマンション。
音大生は、もっと防音の効いた部屋に入居することが多かったが、理太郎は苦学生なので、安いマンションだった。
楽器なんて、とても弾けない。
時計を見ると、夜中の2時過ぎていた。
はぁーと小さくため息を吐く。
二胡を置くと、代わりに五線譜のかかれたノートを広げ、ペンをとった。
練習室。
いつもリーユーシェンに二胡を習っている練習室ではなく、今日は少し広めの練習室を借りた。
理太郎が一人、二胡を片手に作曲していた。
何度も同じフレーズを弾き、首を傾げ、少し変えてまた弾いてみる。
テーブルの上にのった楽譜は、何度も書き直した跡があった。
バーンと勢いよく練習室のドアが開き、
なぜか息を切らしたリーユーシェンが入ってきた。
「理太郎!」
「おー」
「今度、中国で行われる二胡のコンクール、応募してきました!」
リーユーシェンの嬉しそうな顔を見て、理太郎もふっと笑った。
「大丈夫か?いきなり大舞台」
「大丈夫です!理太郎と二胡弾いていて、シィンイーに聞いてもらって、そう、確信しました!」
「いや、それは俺が下手だから、比較の問題で……」
「違いますよぉ!」
リーユーシェンはニコニコと歩いてきた。
「違います!」
念を押すように、リーユーシェンはもう一度言い直した。
リーユーシェンは鼻歌を歌いながら、二胡のケースを開けると、演奏する準備をはじめた。
それを、理太郎はチラリと見ると、低い小さい声で、五線譜のノートを見せた。
「コレ」
「はい」
「……俺が作った」
急いで書いた、乱暴で雑な楽譜だった。
楽譜の下のほうは、黄色いシミがあり、ほんのりカップラーメンの匂いがする。
リーユーシェンは、楽譜を目で追いながら、頭の中に曲を流した。
その顔を、理太郎は壁にもたれて座りながら、じーっと見ていた。
なんか、恥ずかしい。
その場でアレンジして演奏することは今までにあった。
実は、本格的にイチから作曲し、楽譜を書いて他人に見せるのは初めてだった。
リーユーシェンは頭の中で、最後まで奏で終わると、目を細め、ため息をもらすように笑った。
「いいですね。二胡、二重奏」
「マジで?」
「はい!さっそく弾いてみたいです!」
素直なリーユーシェンの喜びように、理太郎は心の中でガッツポーズする。
「私のことイメージして作ってくれたんですか?」
「お前の"演奏のっ"イメージな!んー、でも、まだ未完成」
「だって、二重奏ですから、自分一人じゃ、再現できないです」
リーユーシェンはふふふと笑う。
「すっごーい!」「おぉー!!」
練習室で、その曲を弾き終わると、ぷりん、クラーラ、けにやんに、サイトーが目を輝かせ、拍手をした。
さっき、講義が終わり、合流したばかりだった。
クラーラも目を丸くしている。
「この曲かっこいい!」
「それに、演奏自体めっちゃよくなったやん!」
「だろ?」
「たった3日行っただけなのに、その先生、魔法使い?」
「仙人」
「仙人!?」
「リーリーも、なんか変わった気がする」
「はい。彼女に会って、パワーもらいました!」
「てゆーか、この曲めっちゃ好きー!!なんて曲?」
「んー、曲名か。決めてないんだよなー」
「私がつけてあげようか?」
「いや、いい。曲名なんて、もっと仕上がってから、つける」
「あら、まだ完成じゃないの?仕上がるの楽しみね」
「あ、っで、さぁー」
理太郎はまた楽譜を手にした。
「ぷりん、ここで、こんな感じにしてくれるか?」
理太郎は楽譜のある一部分を指差した後、ぷりんからギターを受け取り、弾いてみせた。
「おっけー」
自分で修正したところを楽譜に書き込み直していく。
「んで、サイトーは……」
「はいはい」
今度はキーボードを弾くサイトーのところまで行くと、自ら鍵盤を押し、弾いていった。
「んー、こーじゃ、ねーか、違うか」
「ふーん。俺的には……」
サイトーと理太郎が何かやり取りが始まった。
なんか静かだなーと思っていると、少し、離れたところで、やにやんが理太郎から渡された楽譜片手に、黙々とオーボエを吹いていた。
しゃべってるより、楽器吹いてるほうが静かって、なんか不思議だ。
リーユーシェンがぷりんだけにつぶやいた。
「理太郎、やっぱり才能ありますね」
「うん。作曲する才能も、まとめる才能もある。うらやましいわー」
「ぷりんさんのマネジメント能力もすごいですよ。マメですし。Twitterで告知してくれたり、YouTubeアップしてくれたり、ありがとうございます」
「どういたしまして」
お互い深々と頭を下げ合った。
やがて、理太郎が「うん!こうだな!」とキーボードを弾きながら頷いた。
悩んでいたとこがやっと形になったらしい。
ぷりんが、みんなに声をかけた。
「ねぇ、ねぇ、今度は土日、公園でやってみようよ!普段、仕事とか、学校とかで、来れない人とか来てくれるかも!」
「そうしましょ!松田先生、生で聞いてみたいって言ってたから来てくれるかも!」
松田先生はクラーラ一押しの色黒でダンディーな先生だった。
「私は日曜日なら暇ですよ」
「私もー」
「俺も!」
ほとんどのメンバーが奇跡的に予定がなかった。
「私も!理太郎は?」
「えっと、21時からバイト」
「やるのは、昼間だから、ちょうどいいじゃない!」
瞬く間に、計画が決まった。
ぷりんが振り返った。
「この曲演奏しようね!」
「あ、うん、やりたい」
いつもの公園とはいえ、日曜日。この曲を人前で弾く。
理太郎は、ピリリと体に力が入った気がしたが、なんだか少し心地よかった。
計画が決まったその日に、ぷりんがTwitterで告知してくれた。
顔を覚えている常連さんから、見知らぬフォロワーにいたるまで、
『行きます!』
『楽しみ!』
『ありがとう!やっと生で聞ける!』
というメッセージがたくさん送られてきていた。
それは、日を追うごとに増えていった。
それをぷりんに教えられ、自分でも定期的に確認する度に、理太郎は少しピリピリとした緊張感と、早くやりたい!と気持ちが高ぶってきた。
日曜日当日はよく晴れた日だった。
風もない、比較的暖かい昼下がり。
理太郎たちが早めに来て準備しようとしていたところには、すでに数人の人がいた。
いつも柴犬を連れているおじいちゃんが理太郎たちを見かけると、声をかけてくれた。
「やぁ、今日も来たよ」
「ありがとうございます」
「花丸~。元気ー!?」
クラーラが柴犬の花丸に寄っていくと、わしゃわしゃ撫でた。
「ちょっと早かったかな」
「そうですね。Twitterで13時からやるって言ってあるんで、時間になったら、始めようかなと」
「んじゃぁ、もう一周してくるか」
おじいちゃんは花丸に話しかけると、くぅんと返事が返ってきた。
「いってらっしゃい。花丸ー」
クラーラが手を振ると、花丸はお尻をぷりぷりさせながら、公園をもう一回りしにいった。
「えへへ、楽しみだね」
「あぁ」
はやる気持ちを抑え、楽器を丁寧にチューニングしていく。
「福原くーん!見に来たよー!!」
常連の吉岡里帆似の女の子たちが来た。
今日はいつもの二人の他に5、6人女の子がいる。
みんな、美容やファッションにお金をかけているのがよくわかる、キラキラした女子大生だった。
理太郎が愛想よく出迎えた。
「わざわざサンキュー」
吉岡里帆似の子がチラリとぷりんたちを見た。
「今日は、人数多いね。他の楽器も加わるの?」
「うん。同じ音大のやつら」
「私も同じ大学の子に、声かけて一緒に来たよ。すごい演奏する音大生がいるって言って。頑張ってね」
吉岡里帆似の子たちは手を振って、理太郎たちから少し離れたところで、おしゃべりをして演奏が始まるのを待った。
何話してるのか、理太郎は気になってしょうがなく、チラチラ見ながら準備を進めていった。
「あ!ユナちゃん!」
クラーラが叫んだ先には韓国人のバイオリニスト、キム ユナがいた。
ひとりぼっちで、ぽつんと遠くから様子を伺うように立っていた。
「声かけといたの!」
クラーラは理太郎たちに振り返り、ウインクすると嬉しそうに走り寄った。
「ねぇ、あなたも一緒にセッションしましょう!」
「バイオリン、メンテナンス中で……」
よく見ると、いつも持ち運んでいるはずのバイオリンケースがなかった。
「あらぁ。残念」
「今日は聞くだけ」
「楽しんでってね」
自分を見ていたユナと理太郎は目が合った。
こういうとき、どうしていいかわからず、一瞬固まったのち、僅かに会釈した。
ユナからも小さな会釈が返ってくる。
「はーい、ちょっとー、一回みんな楽器持って立ってみてー」
ぷりんがメンバーに声をかけた。
ぷりんのとなりには、女の子がipad片手に立っていた。
「今日は、りんちゃんが撮影してくれるから」
「お願いしまーす!」
それぞれ、楽器を持つと、適当な立ち位置についた。
カメラで撮影するポイントを確認する。
そうこうしているうちに、たくさんの人が集まり出した。
花丸とおじいちゃんも戻ってきた。
いつもの常連さんに混じり、学生や社会人らしき人もたくさんいる。
クラーライチ押しの松田先生も来てくれた。
ぷりんがこそっと理太郎に囁いた。
「やっぱ、いつもと見かけないような人もたくさん来てくれたね」
「あぁ。いろんな人に聞いて欲しいから、今日やってよかった」
理太郎がチラリと時計を見た。
「よし、そろそろ始めるか」
「うん!」「はい!」
理太郎たちはお客さんに軽く挨拶すると、演奏を始めた。
最初の方は肩慣らしの演奏。
そして、1曲終わるごとに女子大生たちメインの声援と、拍手が鳴った。
「楽器弾ける男の子ってかっこいいー!」
「ねー」
ぷりんが理太郎の顔を見ると、やっぱり調子乗った顔をしていた。
「福原さん!握手してください!」
人混みの中から、真面目そうな眼鏡の男の子が理太郎に手を伸ばした。
まだ中学生くらいだ。
今弾き終わった曲が始まる直前に、走ってきて、ずっと目を輝かせて聞いていたので、ちょっと目立っていた。
まっすぐな瞳に、最初は戸惑うも、理太郎は手を伸ばし、握手をした。
「あのっ、YouTubeいつも見てます!今日、川崎から来ました!どの曲もかっこよくて、大切に弾いてて、ホントすごいと思います!」
「サンキュー」
「あの、私も握手してください!」
今度は小学校5、6年生くらいの女の子が手を伸ばしてきた。
理太郎は、びっくりした顔で握手すると、すぐに「やった!」とぴょんぴょん飛びはねた。
その流れで、たくさんの人がこえをかけてくれた。
「いつも、素敵な演奏ありがとうございます!」
「仕事で結構嫌なことあるんだけど、演奏聞いて、忘れられてるよ」
「受験勉強また、頑張れそうです!ありがとうございます!」
「こ、こちらこそ、ありがとう、ございます……!」
たくさん声援を送ってくれる人たちに驚き、理太郎はぎこちなくお辞儀をした。
もう一度、お客さんを見渡す。
今まで演奏してきた中で一番たくさんの人が立ち止まり、自分の演奏を聞いてくれていた。
ぷりんがさっき、YouTubeのライブ配信を確認したところ、現在70人ほど視聴してくれているらしい。
体がゾクゾクする気がする。
「よし、アレ行こう」
理太郎がリーユーシェンたちの顔を見て言った。
みんな頷く。
理太郎はお客さんのほうを向くと、少し恥ずかしそうにアナウンスした。
「あ、えっと、次は、自分が作曲した曲です。曲名とか、決めてないんですけど……聞いてください」
またパチパチと小さな拍手が起きる。
メンバーが楽譜を準備できたのを確認し、演奏が始まった。
キレよく響く、二つの二胡の音。明るくてポップな曲の雰囲気。
理太郎とリーユーシェンの美しいハモリ。
今までの演奏は、「かっこいいね」とか「これ、何の曲だっけ?」とかお客さん同士、小さな声で話している雰囲気があったが、この曲が始まると、そういう人はいなくなった。
みんな、一心に、理太郎たちを見つめ、耳を澄まし、曲に聞き入っている。
理太郎は夢中で演奏し、仲間の音を聞き、あっという間に終わってしまった。
ふっと顔を上げると、拍手の波が押し寄せる。
「…………」
優しい拍手に包み込まれ、理太郎はしばし、呆然としてしまった。
今まで拍手を受けてきたことは何度となくあるけど、終わったら拍手するという形式的な感じの拍手ばかりだった。
こんな優しい拍手は初めてだった。
拍手って、こんなに気持ちいいものなんだ。
延々に鳴り続ける拍手の中、理太郎は、お客さんの顔を一人一人眺めた。
中学生の男の子。小さな女の子。柴犬連れたおじいちゃん。優しく微笑むおばさん。興奮してる女子大生。赤ちゃんを連れたお母さん。仕事帰りなのか作業着を着た人。30代っぽいラフな格好のお兄さん。バリバリ働いてそうな女性。車椅子の男性とそれを押す女性。
たくさんの人がいた。
リーユーシェンたちと目が合った。
一緒に演奏したやつらも、嬉しそうに笑っている。
「ありがとうございました!」
理太郎は柄にもなく、深々と綺麗な頭を下げた。
やがて日は傾き、寒くなってきた。冬の夕暮れは早い。
見ていたお客さんは、また一人、また一人と、軽くお辞儀をしながら、申し訳なさそうに帰っていった。
薄手のパーカーに、ショートパンツのぷりんがくしゅんとくしゃみをした。
「お前、薄着すぎ。今日はこんくらいにしとくか」
「そうですね」
聞いていただいていたお客さんに、改めてお礼を言った。
前までは、「また来るねー」と一言言い、すっと帰っていったお客さんも、今では、声をかけられ、しゃべりこんだりすることも増えた。
特にぷりんやリーユーシェンはそういうお客さんに丁寧に対応していた。
その間、クラーラとけにやんは小腹が空いたので何か食べ、サイトーはいち早く帰っていく。
理太郎は楽譜を見つめていることが多かった。
心地よい疲労感を感じつつ、理太郎は二胡をかかえ、公園のベンチに座り、ぼーっと景色を眺めた。
スマートフォンを取り出し、生配信していた今日の演奏を選んだ。
すでに、生配信は終わっていたが、閲覧者が2000人ほどになっていた。
コメント欄には、日本語の他にたくさんの中国語コメントがあった。
『你好~ 好听 很好~』(こんにちは~ いいですね~)
『你会被治愈』(癒されますね)
『好酷!』(かっこいい!)
『是最高音楽良音色感動』(最高の音色に感動してます)
『我想听现场音乐!』(生演奏聞いてみたい!)
お客さんはほとんど帰り、ぷりんとクラーラが、寒い寒いと言いながら、自動販売機に、あったかい飲み物を買いに向かった。
けにやんは師匠にレッスンがあるからと帰っていった。
隣にリーユーシェンが座った。
理太郎がぽつりと呟いた。
「お金もらってるわけでもないのに、拍手がもらえたら、嬉しくて、
お客さんもお金払ってるわけでもないのに、寒い中一生懸命聞いてくれる。なんかすげーな」
「そうですね。特に、今日は楽しかったです」
「うん。俺も」
背中から夕日がさしているのがわかる。
ということは、今見ている方角は東。
今いる東京から遥か先、富士山を始め、いくつかの山を越え、東シナ海を渡ったら、中国の上海があるはずだ。
そんなこと、今まで考えたこともなかったけど、地図上だとそうなる。
小さな茶色い鳥が数匹自由に飛んでいった。
「中国でも弾いてみてーな」
中国人相手に、自分の二胡の腕を披露し、どうだ?すごいだろ?と言いたいわけじゃない。
本場で勝負してみたいってのも、間違ってはないけど、ちょっと違う気がする。だったら、コンクールに応募すればいいだけだ。
でも、そういうことじゃない。
本当に、ただ、単純に、中国で、中国の人に、自分の二胡の演奏を聞いて欲しいと思った。
なんでだかよくわかんないけど。
「理太郎?」
座ったままの、理太郎にリーユーシェンが声をかけた。
理太郎は振り返る。
「もう一度、中国行きたい。中国の公園とかでも、弾いてみたい。日本人として」
理太郎が笑った。
「一緒に行かないか?」
「行く!!」
即答した。
「私も、中国の路上とかでやったことないからやってみたいです!理太郎が作曲した曲も聞いてもらいたい!行きましょう!理太郎!!」
「ちょっと、待ってー!何の話!?」
ぷりんたちが戻ってきて、理太郎たちに詰め寄った。
「何?どこ行くの!?」
寒いからと、いつものファミレスに移動した。
席に座り、注文をしたところで、さっそくさきほどの話を話し始めた。
「中国に行くの!?いいね!行きたい!」
「中国で演奏するの、おもしろそー」
ぷりんとクラーラは手をバタバタさせ、はしゃいだ。
「麻婆豆腐食べたーい!私たちも行っていい?」
「あー」
クラーラに中途半端な返事を理太郎は返した。
それを見て、ぷりんがはしゃぐのをおさえる。
「まー、男二人で行ったほうが身軽でいいかな?」
「んー、まあな」
理太郎がぽつりと返す。
小さい声だったが、ぷりんはそれだけで、自分が行きたいという主張をするのをやめた。
代わりに、ぷりんの頭の中では、理太郎たちが中国で演奏する演出やライブ配信のやり方など考えていた。
リーユーシェンがスマートフォンでスケジュールを調べ始めた。
「いつ行きますか!?旧正月始まる前がいいですよ!混みますから。今年は1月24日からです!」
「年末年始は航空チケット高くなるから、避けたほうがいいかも」
金を連想するキーワードを聞いて、理太郎は急いでスマートフォンを取り出し、操作を始めた。
「…………」
「理太郎?」
理太郎を見ると、自分のスマートフォンを見つめ、顔が凍りついていた。
「……ねぇ」
「は?」
「金がねぇ……」
理太郎からスマートフォンを渡され、画面を見つめた。
銀行口座の明細の画面で、残高がマイナスになっている。
「え?」
ぷりんが意味がわからず、もう一度画面を凝視した。
「フツーに明日生きる金もねぇ……」
「からあげ大盛りお待たせしましたー」
妙に明るいウェイトレスさんの声と共に、からあげの乗ったお皿がテーブルに置かれた。
クラーラはフォークで、からあげをぶっさした。