オーディションが終わっても、理太郎はリーユーシェンに二胡を教えてもらっていた。
10月も後半になり、日当たりのいいところの街路樹がだんだんと紅葉してきた。
日中の気温もさほど上がらず、過ごしやすい季節になった。
理太郎はなんとなく、散歩のように、いつもと違う道をゆっくり歩いた。
「いい天気デスねぇ」
リーユーシェンもそれに着いていく。

5分ほど歩くと、広葉樹がたくさんおいしげる大きな公園に着いた。
理太郎はこの公園が好きだった。
住宅街やビル群からは離れ、かといって、町から隔離されているような雰囲気はなく、人々の生きる気配も感じる。
木々のざわめき、鳥の鳴き声、子どもの笑い声、この公園があるから生まれる音が心地よかった。
「綺麗デスネー。街の中に、こんな自然がイッパイ」
「いいだろ?ここ」
理太郎はベンチに座った。リーユーシェンも隣に座る。
「あーぁ、今日までに哲学のレポートやんなきゃなんねー。めんどくせー」
「まだやってなかったんですね」
少し呆れた顔でリーユーシェンは言った。
提出日は確か明日のはずだった。
「理太郎、今週末の日曜日暇デスカ?」
「日曜?5時までバイトだな」
「ちょうどいいです!6時から留学生たちで、ジャパニーズ・ハロウィンパーティーするんですガ、理太郎も来ませんか?ウクライナとか、アフリカの子とか、来ます」
「ふーん。まー、暇だから行ってもいいかなー」
「場所、LINEしときます!」
リーユーシェンがスマートフォンを手に取って、操作を始めた。
理太郎はベンチの背にもたれ、ぼーっと公園を眺めていた。
目線の先には、子どもが3人、落ち葉を踏み鳴らしたり、上から舞い落としてキャッキャッと声を上げ、喜んでいる。
それを聞いてるだけで、なんだか心地いい。
人が生きている音というのは嫌いじゃない。
「あれから、二胡弾いてないのか?」
「……はい。毎日、手には取るんですけど……」
「よっぽど、彼女のこと好きなんだな」
理太郎にはわからない感情だった。
それほどまでに、誰かを好きになったり、思い詰めたことなんてなかった。
理太郎はおもむろに二胡をケースから取り出した。
軽くチューニングを済ませると、一曲、軽く弾き始めた。
それをリーユーシェンは、心地よさそうに聞いていた。
自分の膝の上に乗せた二胡のケースを撫でる。
「出して」と言われた気がして、静かにケースから出した。
嬉しそうな二胡はすんなりと自分の手に、体になじんだ。
理太郎の出す長音に合わせて、自分も腕を弾いてみた。
数音ズラし、音を鳴らした音は、理太郎の出す音と混じり合い、綺麗な和音になり、響いた。
こんなに綺麗な音、泣きなくなる。
「おおっ、いいじゃん。やっぱ、二胡のハモりって、綺麗だな」
「でも、ピタっとハモるように、音程合わせるの、難しいですね」
「それなんだよなー」
二胡は音程を安定させにくい楽器だった。
一人で弾いていれば、目立たないちょっとした狂いが、二胡が二つになると不協和音になるのはよくある話だった。
しかし、理太郎とリーユーシェンの音に、それはなかった。
ただ、長音を適当に伸ばしていただけだったが、自然とメロディーになっていった。
リーユーシェンも着いていく。
理太郎が笑って、リーユーシェンも笑い返した。
なんとなくならした音、リズム。
二胡は不思議な楽器だった。
人の歌う声に聞こえることもあれば、馬の鳴き声、鳥の鳴き声に似てるときもある。
ふざけて、弓で弦を擦るように、キュインと音を鳴らす。
キュインと、リーユーシェンも真似してきた。
キュ、キュと鳴らすとキュゥ、キュゥとちょっと違う鳴き声が返ってくる。
あ、これって、この曲のこのフレーズ……
そう思うより先に、手が動いていた。
『空山鳥語』
中国の広い、高い山々を、我が物顔で自由に鳥が飛びまわり、さえずる光景が目に浮かんだ。
キュッ、キューウという鳴き声が次第にメロディーになり、曲を作っていく。
理太郎とリーユーシェンの動きもシンクロしていく。
最後にキュインと高い声で鳴き、二人は動きを止めた。
「中国の山の鳥はこんな鳴き声なのか?」
「私、都会育ちだから、知りません」
「あー、北京ダック食いてーなぁー」
「ほら、あそこに鳩いますよ」
「あ?あんなの不味いだろ。ニワトリじゃねーと」
「彼女なら、捕まえてます」
目の前の鳩がパタパタと飛び立っていった。
その奥で、女子大生らしき子が二人、立ち止まって、こちらを見ているのが見えた。
一人は吉岡里帆似でかわいい顔だった。深い紅色のスカートが、紅葉した木々と相まってよく似合っていた。
手にタピオカミルクティーを持っている。
もう1人の女の子は、キリっとした瞳の色白美人な子だった。
理太郎とリーユーシェンと目が合うと、パチパチと拍手を送ってくれた。
「すごーい!」
「ねー!」
顔が好みだった、聞いてくれたのが嬉しかったのか、理太郎は柄にもなく、笑顔で女の子たちを手招きをした。
「もっとこっち、来ていいよ」
女の子たちは、そろそろと目の前まできた。
理太郎の猫かぶった様子に、リーユーシェンは若干、冷たい視線を送った。
なんだ、そんなしゃべり方もできるですね。
「何か弾いて欲しいのある?」
理太郎の問いに、女の子たちはお互い顔を見合せ、言っていいよとお互い譲り合った。
それでも、何も言わず、困ったように笑いながら、吉岡里帆似の子が申し訳なさそうに言った。
「その楽器の曲、よくわからなくて……」
「二胡っているんだよ。中国の楽器。別に二胡の曲じゃなくても弾けるよ」
それでもすぐに思いつかないのか、二人は困った顔で笑っているだけだった。
「んじゃ、これ」
理太郎は、また二胡を構えて弾き始めた。
今度は軽く、アップテンポで踊るようなメロディー。
「あ!知ってる!」
「パプリカ!」
米津玄師作曲。来年控える2020年東京五輪の応援ソングだ。
売れっ子のミュージシャンが作曲したこともあり、今の若い子なら、誰でも知っている。
女の子たちも曲に合わせて、体を揺らした。
理太郎が立ち上がった。
全身を使って演奏する。
腰が揺れ、手首、腕がなめらかにしなる。
弦を押さえる左指の細かな動き。
小さく微笑みながら、酔いしれた演奏に、色気すら感じる。
だけど、どこか優しい音。
二胡とイチャイチャしているようだった。
それほどまでに、二胡を楽しむ姿に、リーユーシェンは目が離せずにいた。
この曲は、リーユーシェンも知っている。
来年の五輪を盛り上げるため、日本のいたるところで流れている。
従来の応援ソングのような、派手さや壮大さとは違った、少しノスタルジックな曲。
子どもの頃、遊び場を提供してくれた山や川、草や木、虫や動物を思い出すような曲だった。
理太郎による二胡の演奏で、改めてメロディーラインの美しさに気づいた。
歌詞の『心遊ばせ あなたにとどけ』という部分、サビの終わりのフレーズを優しく弾き終わる。
女の子たちがパチパチと拍手を贈る。
満足気に笑うと、理太郎は、1つ、大きく息を吸い、今までの勢いのまま、2番を弾き始めた。
1番とは、ところどころ音が違い、これもまたいいなと聞き入る。
リーユーシェンは気がついたら、二胡を構えていた。
この曲は弾いたこともないし、理太郎が楽譜を見ているのも、見たことない。
たぶん、楽譜を買ったわけでもなく、持ち前の耳の良さと、作曲センスで弾いているんだろう。
リーユーシェンはスッと息を吸い、弓を弾いた。
Bメロに入るところが、綺麗にハモった。
理太郎が少し驚いたような顔で、リーユーシェンを見た。
意表をつけたのが嬉しくて、もっと弓が動く。
ハモらせ、ときに、違うメロディー。
あくまで理太郎を引き立たせる演奏に、
理太郎がリーユーシェンのほうを見て、おー、いいじゃんという表情を見せる。
それが嬉しくて、手が止まらなくなる。
遠くで、犬の散歩をしていたおじいちゃんが立ち止まっていた。
落ち葉で遊んでいた子どもが、音に気付いたのか、パプリカをあどけなく踊り出した。
ものすごく、平和な光景に思わず、笑みがこぼれる。
最後、理太郎がフィニッシュを決める。
「わぁー!」という女の子たちの歓声と拍手が鳴った。
理太郎は、その反応にへへっと嬉しそうに笑った。
「なんだ、弾けんじゃん」
理太郎は小さな声で呟きながら、リーユーシェンを肘で小突いた。
「二胡って、いい音だねー」
「癒されるー」
女の子二人は顔を見合せ、口々に感想を言い合った。
その後ろに、犬の散歩途中だったおじいちゃんも拍手を送ってくれていた。
理太郎とリーユーシェンは軽く会釈を返す。
「もっと弾いてー!」
「うん!弾いて弾いて」
「んーじゃあ……」
理太郎が軽く二胡を動かした。速いテンポで弾いたサビを聞いて、リーユーシェンはうなすく。
「あ、ガッキーですよね?」
ガッキーは曲名でもドラマのタイトルでもないが、ドラマの主人公の新垣結衣のことだ。
中国でもものすごい人気らしい。
「うん、それ。じゃ、いくぞ」
二人で同時に息を吸い、特徴的な前奏を弾き始めた。
星野源作曲の『恋』
大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』通称『逃げ恥』のエンディング曲だ。
女の子二人はまた楽しそうに、体を揺らしだした。
遠くのベンチで日向ぼっこしてたおばあちゃんが、ニコニコとこちらを見ている。
歩きながら、言い争いをしてた作業着を着た男性と、中年の男性が、口を動かすのをやめ、二胡の鳴るほうを見た。
外回りで疲れ果て、うなだれていたサラリーマンが顔を上げ、聞いている。
子どもたちが今度はガッキーの恋ダンスを真似て踊り出した。
その後ろでお母さんたちが、楽しそうに笑っている。
そうして、いつの間にか理太郎とリーユーシェンの周りには十数人の人だかりができた。

近くのマンションの一室で、車椅子に乗った初老の男性が、音色に耳を傾けていた。
「近くで、演奏しているのか?」
妻らしき女性が窓のところまで歩き、公園を覗いた。
「隣の公園で男の子が二人弾いてるよ」
「いい音色だな」
「そうだねぇ」
車椅子の男性と女性は、二人で窓際から二胡の音色を聞き入った。
男性がふと、妻を見上げた。
「母さんには手間をかけさせるが、よかったら、一緒に聞きに行かないか?」
「めずらしいじゃない。外に出たいなんて」
妻は嬉しそうに車椅子を押し始めた。

曲が終わり、また拍手が巻き起こる。
アップテンポの曲が終わり、理太郎の額はうっすら汗をかいていた。
でも、それが心地よかった。
理太郎たちは拍手を送ってくれる人たちに、順々に、軽く会釈をした。
理太郎はリーユーシェンをチラリと見ると、小さく下唇を噛んだ。
憎いほど、リーユーシェンの演奏が上手かった。
のびやかな長音はいつまでも響き、跳ねる音はかろやかに。
すべてが申し分ない演奏だった。
コンクールで優勝した経歴も、本気で二胡をやっていたことも、二胡が大好きなことも嘘じゃない。
お客さんの次は何が聞けるのかという期待した顔を見ると、理太郎はベンチに座った。
立ったままのリーユーシェンの背中をどーんと叩いた。
「次、こいつのソロ!」
「ソロ!?」
ソロと言われ、一人で立つ体に、ピリッと力が入った。
けれど、周りで聞いてくれていた人はみな、笑顔で待ってくれている。
「そうだな。ジブリとかどうだ?千と千尋の、あの日の川」
「はい。わかります」
車椅子の男性が近くまで辿り着き、止まったのを確認すると、顔を強ばらせながら、弓を構えた。
理太郎に勧めてくれた曲はよく知っている。
何度聞いたことだろうか。
作曲家の久石譲さんも大好きだ。
でも、今の自分に弾けるだろうか。
リーユーシェンは目を閉じ、すーっとゆっくり息を吐く。
そして、弓を動かした。
綺麗な音色が響いた。
寄り添ってくれるような、優しい音だ。
まるで呼吸するような二胡の音色。
速い曲とは違い、ゆったりとしたこの曲は、二胡独自の豊かな音の伸び、響きを存分に味わえる。
その音色に、まわりで見ていた人がみな、うっとりとした。
リーユーシェンのすぐ後ろで、、理太郎も曲に身を委ねていた。
目の前の二人の女の子は、目を閉じ、頭をメロディーに合わせて、ゆっくり動かしている。
映画『千と千尋の神隠し』の絵が浮かんでいるのだろうか。
リーユーシェンもこの映画は大好きだった。
小さい頃は家族とリビングで一緒に見た。
一人っ子の自分はいつも、お母さんとお父さんの真ん中。
大きくなったら、彼女と、ソファーにぴったり座り、体を寄せ合い、何度も見た。
いつも、優しい顔で自分に笑いかけてくれる彼女。

『千と千尋の神隠し』は、10歳の女の子、千尋が人間の住む世界とは別の世界に迷い込んでしまう話だ。
両親は豚にされ、新しく、千(せん)という名を名付けられ、神様たちが疲れを癒しにくる油屋(湯屋)で仕事をすることになる。
千尋だったころの記憶を忘れそうになったとき、ハクという男の子が千尋を連れ出した。
綺麗なつつじが咲く土手で、元気が出るようにと、まじないをかけたおにぎりを食べながら、辛いのを我慢していた千尋は、泣き出してしまう。
そんな千尋をハクは優しく慰め、励まし、背中を撫でていた。

ふいに目が滲んだ。
堪えるように遠くを見ると、おばあさんがそっと涙を拭っているのが見えた。
さっきまで、笑顔で体を動かしていた女の子たちも、切なそうな顔で、曲を聞き入っている。
自分の演奏を聴いてくれる人たちも同じ絵が頭に浮かんでいるのだろうか。自分と同じ絵が。
こんな風に、お客さんと気持ちを共有し、一緒に呼吸しているような演奏しているのは初めてだ。
リーユーシェンは引き終わると、ゆっくり弓を持つ右手を膝にのせ、顔を上げた。
お客さんと一緒にため息が漏れた。
「……はぁぁ…………」
目が合ったお客さんと笑い合ってしまった。
ぽつり、ぽつりとみんなが呟きながら、拍手を贈った。
「この曲好き」
「いいよねぇ」
「やばい、ちょっと泣いちゃったかも……」
「あははっ」
「はい、次!」
理太郎が、やや大きめの声で言った。
顔が笑っている。
「ねぇ!人生のメリーゴーランド弾いて。ハウルの」
マルチーズを連れていた一人のおばさんからリクエストがきた。
同じジブリの『ハウルの動く城』の曲だ。
「えっと……」
リーユーシェンはおばさんの言う曲がわからず、困った顔をしていると、理太郎が小さな声で歌った。いい声だった。
「あ、それですね」
リーユーシェンはまた、弓を構えた。
今度は、変な力なんて入ってない。
優雅で、楽し気なメロディーが始まった。
途中から理太郎も混ざる。
二胡という楽器も知らなかった女子大生
、散歩中だったおじいちゃんと柴犬、赤ちゃんを乗せたベビーカーとお母さん。
車椅子に乗った初老の男性とそれを押す奥さん。
様々な年齢、性別、格好をした人が、たまたま出会った音楽に足を止め、このひとときを楽しんだ。
やがて、空が夕焼け色に染まった。
理太郎はリーユーシェンはこの日、最後の曲を弾き終わった。
たくさんの温かい拍手が二人を包み込む。
理太郎とリーユーシェンは自然と顔を見合せ、笑い合った。
「楽しかったな!」
「はい!楽しかったデス!」