オーデイション当日。
大学内にある講堂でオーデイションは行われる。
様々な楽器を持った学生たちが、客席に座り、オーデイションが始まるのを待っていた。
ピアノなど、大きく、動かしづらい楽器は舞台上にすでに用意されていた。
音大生にとって、久村教授の演奏会に出られるというだけでも、名誉なことだ。しかし、学生たちにとって、一番の目的は、お客さんとして来る著名な演奏家、作曲家、番組プロデューサー、資産家などに自分を知ってもらうことだった。
「はぁー……」
リーユーシェンが浮かない顔で隣の理太郎に聞こえるように大きくため息を吐いた。
理太郎とオーディションの練習をしてきてから数日間、満足いく演奏はできなかった。
「ヤッパリ、辞退したほうがイイデスカネ?」
「…………」
「私ナンカガ、弾いてインでしょうか?」
「…………」
「理太郎」
「あ?」
理太郎がぼーっと見ていた先には、バイオリンを持った綺麗な女性が立っていた。キリっとした大きな瞳に、鼻筋の通ったかなりの美人だった。
「よくね?」
「ソーデスカ?」
「目立ちそうなのに、初めて見たな」
「あぁ、10月から来てる留学生ですよ。韓国人」
「なんだ、整形かよ」
理太郎は、とたんに顔を歪めた。
今度は小さな声で中国語が返ってきた。
「整形はなしですか?」
また中国語で返す。
「なしだろ」
「俺もなしです。胸もやってるんでしょうか?」
「やってるだろ。あれは」
「硬いんでしょうか?」
「どーなんだ?」
ただのオーディションだというのに、綺麗めなお高いワンピースを着ている。
体のラインが際立つデザインで、Eはありそうな胸と、くびれた腰、大きなお尻がエロかった。
「っで、なんで中国語なんだよ」
「え?」
アホな話をして、少し緊張が解れた。
「あっ」と声を上げると、思い出すように、リーユーシェンが鞄を漁りだした。
一枚の紙きれを理太郎に渡す。
「理太郎、プロフィールを書いて出しマス。あと、私の、日本語間違ってるところ、直してクダサイ」
「ほいよ」
理太郎は受け取ると、ペンを握った。
紙には、上のほうに、リーユーシェンの名前などが書かれている。
受賞歴欄には
『中国音楽国際コンクール 優勝』
『二胡国際コンクール 優勝』
『国際民族器楽比賽 金賞』
とたくさんの受賞歴が書かれていた。
その下の、コメント欄に
『日本が大好きです。日本で、たくさんの人を出会い、音楽を通し、仲良くなれたらいいと思います。』と書かれていた。
理太郎は、間違っている助詞の‘を’を‘に’直した。
それが、紙の上半分。
下半分には空欄の同じような項目のスペースがあった。
「ん?これ、俺も書くのか?」
「はい。伴奏者も書くそうです」
理太郎は雑な字で、自分の名前を書いていく。
経歴欄のところさしかかると、トントンとペン先の反対側で紙の上を叩いた。
必死に自分の経歴を思い出す。
『ピアノコンクール8位』と書いた。


開始時間遅れて、久村教授が入ってきた。
白髪のまじった頭と髭、丸メガネだが、目は鋭い。
久村が入ってきた瞬間、学生たちは姿勢を正し、空気がピリついた。
「はい。では、早速始めたいと思います。クジは引いているかな?」
講堂に入ったときに、ホワイトボードにクジを弾くようにと書いてあり、ティッシュの空き箱にクジが入っていた。
弾いた人から、ホワイトボードに、自分が何番か書いていく。
リーユーシェンたちの順番は最後だった。
「トップバッターの人」
「はい!」
威勢のいい声と共に、トランペットやトロンボーン、チューバなど金管楽器を持った学生が数人、ぞろぞろステージに上がった。
金管楽器のサークルの人たちだった。
楽しげなリズムで曲を演奏していく。
理太郎は、この曲いいじゃんと、笑顔で聞いていたが、隣のリーユーシェンはまた緊張した顔になり、他の学生の演奏など、頭に入っていないようだった。
次はは、理太郎が気にしていた綺麗な韓国人の女性がバイオリンを弾いた。
綺麗で、技術的にも素晴らしい演奏だったが、一本調子でイマイチつまんないなと理太郎は思った。


そして、この日の最後、リーユーシェンと理太郎の番になった。
「オネガイシマス」
舞台袖で、リーユーシェンが小さな声で理太郎にささやいた。
「おぅ」
短い返事が返ってくる。
そして、舞台に上がった。
理太郎はスタスタ歩くと、グランドピアノの譜面台にストンと楽譜を置いた。カチャカチャと椅子の高さを調整する。
小さいころから発表会なんて何度もやってきた。
いまさら、人前で演奏することに緊張なんてしない。
リーユーシェンは先ほど書いたプロフィールの紙を久村教授に提出すると、 大きくお辞儀をした。
今までの流れだと、舞台に上がったものは名前を名乗って、演奏を始めるのだが、リーユーシェンが緊張した顔をして固まっているので、久村教授が口を開いた。
「リ、えーっとユー、シェンくんかな?」
「ハイ!ヨロシクオネガイシマス!」
すでにピアノの椅子に座っていた理太郎がリーユーシェンに言った。
「イスは?別に使ってもいいんだぞ」
「あっ、はい……」
オロオロしていると、すでに弾き終わっていた女子学生がイスを一脚もってきてくれた。
アリガトウゴザイマスとぺこぺこお辞儀をする。
イスに座って、二胡を構えた。
その状態から弾けるのかというくらい固まっている。
伴奏者の理太郎を見ようともせず、どこを見てるのかわからないような、ある一点を睨み続けている。
「音は?」
「あっ……えっと……」
理太郎がピアノを優しくポーンと鳴らした。
リーユーシェンがそれに合わせ、二胡を鳴らした。
合ってるのか合ってないんかわからない。
理太郎を見ると、少し首を傾げ、小さく、人差し指を下に下げた。
適当にネジを回し、再度音を出すと、「いんじゃね?」という顔で理太郎が小さく頷いた。
リーユーシェンはもう一度、イスに座り直し、弓を構えた。
「いつでもどうぞ」
久村教授の声が聞こえた。
リーユーシェンは、はぁーと大きく息を吐くと、理太郎を見た。
理太郎が「いくぞ」と大きく頷いた。一呼吸置いた後、前奏が始まった。
いつものぶっきらぼうな様子からは想像もできない、優しい音楽が聞こえてきた。
リーユーシェンは不必要に二胡を握り直した。手が震えた。
集中できないどころか、呼吸が整わない。
出だし、入る前、呼吸のタイミング、力の入れ食い、わからない。
ギィと不快な音が鳴った。
それでもなんとか、右腕を押し、左指を動かし、今度は右腕を引いた。
違う。こんなの俺の音じゃない。
苦しい。
息ができない。
手が汗ばんでく。
身体が思うように動かない。
その様子に、久村教授をはじめ、客席で見ていた他の学生が不安そうな顔で、見つめていた。
ギィとまた不快な音が鳴る。弦が、弓が切れそうだ。
リーユーシェンは耐えられず、手を止めてしまった。
「不要停下来(やめるな!!)」
理太郎の声が聞こえた。
驚いて顔を見ると、にっと小さく笑った。
突然、ピアノの音が大きくなり、メロディラインを弾き始めた。
もともとの明るい、中華風の雰囲気を残しつつ、低音から高音まで幅広く手が動き、鍵盤の上を踊る。
あ、このアレンジ、いいな。とういか、もう、違う曲。
そう気づくと、リーユーシェンは肩の力がだんだん抜けて行くのがわかった。
理太郎の軽やかで踊っているようなピアノの音色が続いた。
リーユーシェンは一度、弓を持った右手を膝の上に乗せ、聞き入った。
心が落ち着いていく。
体の無駄な力抜けた。
理太郎の方を見ると、笑いながら、嬉しそうに、演奏していた。
これが、誰のための、何のオーディションなのか、もはやわからない。
ピアノの演奏を楽しみ、音色を味わっている理太郎は舞台の上で輝き、客席にいる学生たちを惹きつけている。
理太郎がこっちを見た。
「もうすぐ出番だぞ」と言っている。
ちゃらんと高音が鳴ると、リーユーシェンは息を吸い、二胡を鳴らした。
今度は綺麗な音色だった。
理太郎が目を細めてこっちを見た。
さっきよりも、理太郎の伴奏がよく聞こえる。
弓が自然と動いた。
理太郎の伴奏は、まるで勾配のキツい山道を、今にも立ち止まりそうなリーユーシェンの手を弾き、引っ張って、無理矢理歩いて、山を登っていく。
苦しいけど、今にも立ち止まりそうだけど、それでも、歩いてる。
もう限界と思ったとき、ピアノの音が強くなった。
ほんの数小節、響くピアノの音。
リーユーシェンは、はぁっと、息を吐く。
自然と、新鮮な空気が吸えた。
汗だくだった。
そしてまた、リーユーシェンの二胡が入る。
理太郎と一緒に、腕が大きく動く。
チラっと理太郎の顔を見た。
嬉しそうに笑った顔と目が合った。
「もっと行くぞ」そう言われた気がした。
はっはっと浅い呼吸をしながら、必死に腕、手、指、全身を動かす。
こんなフルマラソンみたいな演奏初めてだ。
でも、もう、長くはもたないデス、理太郎。
同時にフィニッシュを決める。
リーユーシェンは弓を持った手を右ひざの上に置いた。はぁーと息を吐き、やっと客席を見ようとした瞬間。
「あははっ!サイコー!」
後ろから理太郎の声が響いた。お腹を抱え、笑うと、嬉しそうにリーユーシェンのところまで歩いた。
大きな身振りで拍手している。それにつられるように、客席からも拍手が沸き起こった。
リーユーシェンははぁ、はぁと浅い呼吸をしながら、椅子に座ったまま、理太郎を見上げた。
どん!と背中を叩かれる。
「リーユーシェン!サイコー!」
「ぇへへっ」
声を出して、笑ってしまった。
客席の女子学生が数人、顔を見合せ、小さな声で感想を言い合っている。
「すごくない?」
「福原くん、なんかかっこよかった!」
「ねー!」
審査員である久村教授ただ一人が、難しい顔をして、机に肘をついていた。


「呼ばれてないグループは、不合格です」
「なんでだよ」
オーディションが終わり、その場で久村教授は、口頭で合格したグループ、個人を発表していった。
理太郎とリーユーシェンはそこには含まれておらず、理太郎はその場で文句を口にした。
あんなに客席は盛り上がっていたのに。
目の前には、合格した綺麗な韓国人のバイオリニストが済ました顔で立っていた。
合格したものに、リハーサル等などについて詳細を配った紙を配布し、解散となった。
久村教授が講堂を去り際、理太郎たちの横を通るとき、声をかけた。
とくに愛想よく笑うでもなく、淡々とした語り口だった。
「福原くん、リーくん、演奏はよかったよ。まさしく、演奏家の息づかいが聞こえるような演奏だった。けど、今回はそういう演奏会じゃないから。もっと余裕をもって演奏して欲しいんだよ」
「あ、ハイ、参加させてもらって、アリガトウゴザイマシタ!」
ぺこっとお辞儀をするリーユーシェンの隣で、理太郎は不満気な顔のままだった。
「あぁ、あと、伴奏のピアノのほうが目立ってなかったか?」
「……まぁ、そうでしたね」
理太郎は反論できないのか小さくつぶやいた。
「福原くん、君はもうちょっと丁寧に演奏するということも覚えなさい」
それだけ言うと、久村教授はスタスタと言ってしまった。
姿が見えなくなると、理太郎はぼやいた。
「くっそぉー、あのハゲ。偉そうに言いやがって」
「でも、よかったでデス。理太郎に、引っ張られてだけど、弾けました!」
リーユーシェンの顔を見ると、清々しい、さわやかな顔をしていた。
本当に気持ち良さそうだ。
「理太郎!ありがとう!」
「お、おぅ……。ただ弾いてやっただけだけどな」
「打ち上げ行きましょう!私の奢りです!」
「行く!」