練習室にまた二胡の音が響いていた。
理太郎が弾いている横で、リーユーシェンがイスに座り見ていた。
正直、誰にも習わず、数ヶ月でここまで二胡を上達させたことに驚く。
ピアノやバイオリンをやってきたため、楽器を演奏することには慣れてはいるはずだが、西洋の楽器とは、扱いが少し違うはずだ。
ところどころ拙さはあるものの、楽器をまるで自分の体の一部のように、一体となって音を奏でている。
リーユーシェン腕を出し、理太郎の動きを止めた。
「ん?」
「まずは棹(さお)、モチカタ」
リーユーシェンは自分の二胡を膝にのせ直し、左手を開いた。
「ココ、親指の付け根、しっかり当テル。付け根、手前側、回り込むヨニ」
「あぁ」
「弦、押さえカタ、指先で押さえるジャナク、第二関節から押さえ行く意識デ」
「はい」
さっきのピアノのレッスンとは比べものにならないほどしっかりした返事が返ってきた。
目付きもしっかりしている。
学びたいという意欲がひしひしと感じられ、こっち側が少したじろぎそうなくらいだ。
リーユーシェンは立ち上がり、理太郎の二胡に手を伸ばした。
弦を押さえると顔をしかめる。
「弦、強く張りすぎデハ?」
「そうか?」
「こんなニ力入れル?」
二胡の上にある糸巻きを数ミリ緩めた。
リーユーシェンは自分で押し、確かめると、理太郎に返した。
それを理太郎は押してみるが、気にくわなかったらしく、数センチ締め直した。
「うん。やっぱこんなもんかなー」
「あと、姿勢。理太郎、前のめりになりすぎでデス。もっと、胸を張ッテ。肩から右腕、動かしテ」
「ん」
理太郎が見つめる先には譜面台があり西洋風の楽譜が置いてあった。
誰もが楽譜と言われ想像するのは、五線譜に音符が並んで、cresc.(クレシェンド)やAndante(アンダンテ)などイタリア語がかいてあるあれだ。
しかし、二胡には二胡用の、全く異なる様式の楽譜がある。
それは、1、2、3、4、5と数字が横に並べらんだものだ。
数字は、弦を押さえるポジション、つまり、音の高さを表している。
そして、音の長さを表すのは、―(横棒)だ。
全音符なら、数字の隣に横棒3つ。
十六分音符なら、数字4つの下に横棒が二本。
ただ、長年ピアノをやってきた理太郎にとっては、五線譜の楽譜が読みやすかった。
それも、もともと耳がいいので、楽譜で一つ一つを音を追うというより、聞いて覚えたのを確認している程度だった。
リーユーシェンが楽譜を指さす。
「デハ、ココから弾いてクダサイ」
リーユーシェンの指導におもしろいほどに、理太郎は従い、すぐに自分のものにしていった。


理太郎の手が止まった。
「ドウシマシタ?」
「時間」
理太郎が時計を見ると、予め約束していた時間を3分過ぎていた。
「次、お前の練習時間」
「あ、ソウデシタ……」
リーユーシェンはポリポリと頭をかき、椅子から立ち上がった。
理太郎は自分の二胡を手入れし、ケースにしまう。
鞄から楽譜を出し、ピアノの譜面台に立てた。
オーディション用にリーユーシェンが選んだ曲だ。
イスに座り、高さを調節し、また座る。
肩慣らしのように、力を入れず、冒頭を弾き出した。
「あ?何してんだよ」
リーユーシェンは、二胡を持ったまま、突っ立っていた。
「チューニングしねーの?」
「あ、の……実は……練習しようとしたデスケド、できなくて……」
理太郎は手を休めず、適当に弾きながら、リーユーシェンの話を聞いていた。
「今日もできるか……」
やっと、手を止めた。
「弾けなかったら、弾けないでいいからよ」
「ハイ」
リーユーシェンは、イスに座った。
二胡の上のほうに、チューナーを挟み、チューニングする。
その様子を理太郎はピアノを弾きながら、チラリと見た。
リーユーシェンの二胡の糸巻きのあたりには龍の彫刻が施されている。
胴には二胡を作った人のサインや彫刻が見えた。
小さい楽器なので、それ以外はあまり目立ったところは見えないが、
きっと高級品だ。
自分の二胡なんかとは、音色は相当違うんだろう。
理太郎は密かに、リーユーシェンのお高い二胡と、それを鳴らす腕前に、どんな音が聞けるのかとわくわくしていた。
理太郎の二胡はTSUTAYAのバイトで貯めて買った50,000円の二胡だ。超がつくほどの安物。それでも、初心者の自分にはちょうどよかった。
若干、チューニングに手間取っているようだった。
チューニングとは音の高さを調節することだ。
演奏会でもない限り、ピアノは毎度毎度弾く前にチューニングはしないが、二胡は違った。
ちょっとしたことですぐ音程がズレる。
その間も流すように、理太郎はピアノを弾き続けた。
伴奏の楽譜は理太郎にとっては簡単なレベル。楽譜を見ながら、さらさら弾ける。それどころか、つまんねぇ伴奏だなとすら思う。
とりあえず、自分だけでの伴奏の練習は、いらなさそうだった。
あとはリーユーシェンの二胡と合わせる練習がどの程度必要かということだが……。
理太郎は椅子の上で硬直しているリーユーシェンを見た。
「終わったか?」
「ハイ」
「んじゃ、最初っから」
伴奏が先に入るので、理太郎が弾き始めた。
曲は『花好月圆』
花が美しく、月が丸いという意味で、夫婦の仲睦まじい様子を表している。
華やかで楽し気な曲で、リーユーシェンが得意な曲でもあった。
リーユーシェンの入るタイミングになる。
息を大きく吸い、左手で弦を抑え、右腕を動かした。
ギィ……と汚い音が鳴った。
なんで……。
左指は次の音に移り、今度は弓を引く。ギギギという不快な音が鳴った。
5小節ほど弾き進め、理太郎が手を止めて大きな声で笑った。
「あっはっはっはは!これはヤバイわ!」
「…………」
「二胡はじめてみましたのババアのレベル!」
「………………」
リーユーシェンは弓を持つ右手を膝にのせ、はぁーと大きくため息をついた。
歩いてきた理太郎に背中をどんっと叩かれる。
「力入りすぎなんだよ!」
「ワカッテル、けど、抜けないデス」
「じゃあ、いっぱい練習するしかねーな」
「力が入ると、練習ナラナイ」
こんなアドバイス、上級者のリーユーシェンに初心者の理太郎がする意味なんてなかった。
でも、思うように弾けないという意味は、ピアノを長年続けてきて、周りにも演奏家の多い理太郎にも何となくわかる。
「焦りすぎなんじゃねーの?」
リーユーシェンは二胡を抱き寄せ、ぽつりとつぶやいた。
「中国に彼女イル。会えなくてサビシイ言ってる。私もサビシイ」
「うん」
そっけない返事だったが、理太郎は楽譜に目をやるフリをしてちゃんと聞いていた。
「彼女ノ両親、挨拶シマシタ。音楽やってル知って、反対サレマシタ」
リーユーシェンの彼女は中国でも名だたる大企業の経営者だった。
一人娘の彼女は、それはそれは手厚く、お金をかけ、大切に育てられた。
彼女自身も、頭がよく、今では有名な大学に通っている。
将来的には、両親の経営する会社に、そう熱望されていた。
「彼女の両親に、何度も会いイキマシタ。でも、ダメ。音楽家なんて胡散臭いカラ」
「そうだな」
理太郎はふっと笑って素直に即答した。胡散臭いやつなんて、自分の両親をはじめ、ごまんと見てきた。
胡散臭い。変わり者。楽器を演奏するのに莫大なお金がかかるわりに、仕事があるかは別、将来は不安定。
それに、残念ながら自分も該当していると思い、自嘲してしまう。
「悩ミマシタ。二胡続けるか。諦めて、大学受け直して、フツーの人ナルカ。悩んでたら、二胡、弾けなくナッタ」
リーユーシェンは、あははっと力なく笑った。
「へぇ。そこまで悩むほど、彼女のこと好きなんだな」
「はい。大好きデス」
さっきまでの辛そうな顔から一転、とても幸せそうな顔で笑った。
頭の中は彼女のことでいっぱいになったらしい。
「理太郎は彼女イマスカ?」
「いない。1週間前にフられた」
「あら、傷心ですね。お気の毒様デス。どれくらい付き合ってたんですか?」
「んー、3か月?」
「……」
「ま、続いた方だな」
なぜかドヤ顔する理太郎。
この男の恋愛が上手くいかなさそうなのは、安易に想像できた。
理太郎は、イスから立つとぐーっと大きく背伸びをした。
「ま、俺も似たようなもんかもな」
練習室の窓から下を眺めれば、楽器を持ったたくさんの音大生が行き交っていた。
「音大のピアノ専攻に進んだものの、ピアニストになりたいわけじゃない。ピアノ専攻入って、半年で飽きたし。卒業したら、どうしたいとかないし。ぶっちゃけ、自分探し中って感じ?(笑)」
若干恥ずかしそうな表情を見せながらも、笑いかけられる。
なぜだか、ふっと体が軽くなった気がした。
「音楽に関わることはしてーんだけどなー」
理太郎は窓に手をつくと、腕を軽く伸ばした。チラリと時計を見る。
「もうちょい、やってみるか?」


その後、数十分、リーユーシェンは試みてみたものの、なかなかいい音は鳴らなかった。
理太郎のバイトの時間が迫ってきたため、二人は練習室を出た。
「あー!やっぱプロに直接指導受けると違うなぁー!」
理太郎はリーユーシェンにあれだけ事細かく指導を受けたのに、清々しい顔をしていた。
たった1時間の練習で、見違えるほどよい音色を出せるようになっていた。
「ワタシ、プロじゃないデスヨ」
「金もらって、演奏できるレベルなんだろ?」
「ま、まぁ、したとこはアリマスガ……」
そんなことより、自分が全く弾けなかった事実がのしかかってくる。
この先、どういう練習をしたらいいのか検討がつかなかった。
「腹減ったな。飯食いに行くか」
「ハイ」
リーユーシェンは理太郎について階段を降りていく。
ご機嫌な横顔に、ふと話しかけた。
「ナンデ、二胡好きデスカ?」
理太郎の口元と目元が弛んだ。
愛おしそうな、まるで彼女を語るような顔で話しだした。
「気まぐれなとこ。音程とるのが難しいからな。本当に繊細で、ちょっとのことで、音色がかわって、くるって、振り回されるのがいい。上等じゃん。合わせてやろうって気になる」
「そういうの、ナンテ言うか知ってマス」
「ん?」
「ドM」
「ちげーよ!」
理太郎は顔を赤くさせ、軽くリーユーシェンを睨んだ。
二人は、他愛もない話をしながら、いつもの定食屋に向かった。


あれから、理太郎の一日の中に、リーユーシェンに二胡を教わる時間と、オーディションの曲を練習する時間というのができた。
二胡を教わるのが楽しく、本業の音大の授業が煩わしいとさえ思うくらいだった。
今日もまた、40代の女性講師にマンツーマンでじっくり指導を受けた。
レッスンの終わり際、ピアノの横に立った女性講師に、強い口調で言われた。
「福原くん、このコンクール、応募しとくんだよ」
封筒を差し出される。中には応募用紙やらコンクールの概要やらの紙が入っていた。
「コンクールっすか!?無理ですよ」
「みんな、無理だと思ってもコンクール応募して、猛練習するんだよ!練習しないで何言ってるの!?はい」
封筒を押し付けられ、虫でも掴むように、コンクールの応募用紙を手に取った。
それをまた、見学していたリーユーシェン。
女性講師が部屋を出るのを、苦笑いして見送った。
「くっそ、あのババア。めんどくせーことやらせよーとしやがって……」
いなくなった途端、理太郎は悪態をついた。
「いい人だと思うデスケドネ。ちょっと指導の仕方ガ……あはは」
「別に、一音一音、合ってなくてもよくねー?」
また、レッスン中に勝手にアレンジしたのを指摘されたらしい。
「理太郎は楽譜通りに弾かないですが、アレンジ、いいと思いますよ。合奏でなければ、問題ないですよね」
「だから、俺は伴奏や合奏は嫌なんだよ」
「指揮者をやればいいじゃないですか。みんなが自分に従ってくれますよ」
「んな、難しいこと俺ができるかよ」
「そうですか?耳もいいですし、曲をこう弾きたいとかイメージが強いし、指揮者向きだと思いますよ」
「…………」
返事が返って来ないなぁと不審に思い、顔を覗きこむと、小さく笑っていた。
実は嬉しかったらしい。
指揮者は演奏の要でもある難しいポジションだった。
それができそうなんて言われて嬉しくないわけがない。
「ま、おしゃべりこんくらいにして、指導お願いします。せんせー」
「はい」
二人は二胡を出し、お互い向き合って座った。
たった30分のスキマ時間だったが、理太郎にとっては貴重で充実した時間だった。
あっという間に30分が経つと、リーユーシェンは申し訳なさそうに鞄を取った。
「すみません。私、講義があるので、今日はこれで」
「おう。サンキュー。俺はもうちょい弾いてく」
理太郎は一人、その場に残り、二胡を弾き続けた。
でも、ここで弾き続けられるのは、時間の問題だった。
もしかしたら、次のレッスンで学生が来るかもしれない。
そう思っていた矢先、部屋のドアが開いた。
眼鏡をかけた冷たそうな印象の男子学生。
理太郎と同じピアノ専攻で、理太郎の数少ない友達だった。
表情一つ変えず、理太郎の目の前まで歩いてきた。
「あ、次、お前、この部屋使う?」
「ピアニストなのに、なんで二胡弾いてる?」
いつものようにポーカーフェイスで、真っ直ぐに見つめてくる。
「え、あー。なんか好きだから」
理太郎の左手を取ると、眺めた。
「指の皮が厚くなる。やめとけ」
理太郎は、掴まれていた手を振り払った。
「別にぃ。そんくらいいいけど。厚くなるほど弾かねーし」
「遊んでる暇あるのか?最近コンクールにも出てないらしいじゃないか」
この男は理太郎と違い、コンクールの入賞者の常連で、ピアノ専攻でもおそらくトップの実力を誇る男だった。
その性格はとにかく真面目で、常にピアノに向き合い、真摯に練習を重ねてきた堅物男だ。
理太郎は勢いよく立ちあがると、声を荒げた。
「ったく、どいつもこいつも、バカの一つ覚えみたいにコンクール、コンクール言いやがって!俺が、コンクールなんか出ても、なんの実績も作れねぇんだよ!」
「それは……」
「お前ら、天才とは違うんだよ!」
理太郎は乱暴な言葉遣いのわりには丁寧に二胡をケースにしまい、さっさと行ってしまった。