翌日、理太郎は大講義室のイスに座り寝ていた。
形だけ出したペンとノートは、85分前に出したっきり、ピクリとも動いていない。
音大だって、普通の大学のように、教養と呼ばれる科目の講義を取らなければならない。
もともと勉強が嫌いな理太郎は、この類の講義が、猛烈にダルかった。
今も哲学の講義で、全く興味なく、おまけに担当の講師のおじいちゃんは、ボソボソと抑揚のない声でしゃべるだけで、理太郎はほとんど寝ていた。
そして、講義の終わり間際にに何故だかピクリと目が覚める。
プリントの束が、前の席や横から回ってきた。
理太郎もダルそうに、自分の分を取ると、隣の学生に残りを渡した。
見ると、レポートの課題の内容が書かれている。
寝ぼけた顔のまま、めんどくせーと心の中でつぶやくと、ろくに見ずに、鞄の中に押し込んだ。
いつの間にか、もう一人、丸メガネの男性教授が講義室の入り口の近くに立っていた。
久村教授。理太郎の所属する鍵盤楽器科の学科長で、ピアノ専攻の講義をいくつも担当している。
理太郎も何度か講義を受けたことがある。
哲学のおじいちゃん講師が、自分の資料をとんとんと机に落とし、揃えながら言った。
「あー、で、ついでに、久村教授からお知らせがあるようで、はい、どうぞ」
そういうと、久村教授に軽くお辞儀をし、講義室を出て行った。
久村教授は教卓の前に移動し、マイクを引き寄せた。
「久村です。えー、例年やってますが、『秋の夕べの会』というセミナーみたいなものを毎年私が主宰してます。駅前のグランドホテルでね、やってるんですけども。いろんな人が聞きにきますよ。それで、話の合間合間に、演奏してくれる人を募集してます。コンクール等で忙しいと思いますが、挑戦したいという方はオーディションしますんで。詳細、この紙に書いといたので、興味ある人は帰りに持ち帰ってください」
教卓に紙の束をおいて、久村教授は次があるのか、急いで出口に向かっていった。。
後ろからポンと肩を叩かれ、理太郎は振り返った。同じピアノ専攻の先輩だった。
「なぁ、福原、これ行っとけよ。お偉いさんとお知り合いになれるぞ」
「興味ないっすよ」
「人脈は作っといたほうがいいよ。何がきっかけで有名になるかはわからないからな」
「先輩は行くんですか?」
「俺はコンクール控えてんだよ」
たくさんの学生が、その紙を取りにぞろぞろと向かっていった。
コンクールがどうのこうの、先輩としゃべりながら、理太郎も立ち上がると、ゾロゾロと人に紛れ、出口へ向かった。
出口付近で待っていたのか、先輩の彼女らしき女性が、駆け寄ってきた。
「たーくんっ!」
「お待たせー」
女性は先輩の腕に自分の腕を絡めた。理太郎に軽く会釈してきたので、こちらもこくんと頭を下げた。
「じゃあな。福原」
「あーい」
自分と別の方向へ去って行く二人を少し眺めた。女性は少しぽっちゃり気味だ。俺はなしだなーと心の中でつぶやくと、理太郎も歩き出した。

ちょうど練習棟の横を通った。
防音になっているといっても、軽く楽器の音は聞こえる。
その中で、1階の一番端の部屋が静かなのに気づいた。
昨日は楽器を中途半端な形でしか触れなかったから、体がむずむずする。
時計を見る。バイトは15時から。その前に駅前の定食屋で昼メシを済ませたい。
今は12:23。腹は減ってるけど、少し、時間がある。
理太郎は練習棟へ向かおうと、歩き出した。
「よっ、福原」
練習棟の奥のから歩いてくる男子学生が、理太郎に手を振ってきた。
「おー」
たくさんの楽譜が入っているのか、いろいろなファイルや紙の束を抱え、さらに、ケースに入れたトランペットを肩にかけていた。
「すげー荷物だな」
「今週末、サークルの演奏会でさぁ。そうそう。福原、助っ人やってくんねー?」
この男子学生は『好きな曲弾こう!オーケストラサークル』というサークルの代表を務めている。
大学の講義や技術上達に縛られたような演奏ではなく、好きな曲を楽しく演奏しようというサークルだった。
理太郎は今までにも何度か助っ人をしていた。
「急に体調不良で休むやつでたんだよ。バイオリン」
「バイオリン???最近、あんま弾いてねーんだよな」
「え?じゃあ、それ……」
友人は理太郎の持っていたケースを指さした。大きな背中に隠れ、てっきり、バイオリンケースだと思ったが、形が少し違う気がする。
「それ、バイオリンじゃないなぁ……」
友人は少し後ろに回り込むように、じっくりケースを眺めた。
理太郎は当てられるかドキドキしながら、ケースなんかで何の楽器がわかるわけないと、済ました顔の演技をした。
「しゃみせん……でもないな、二胡、二胡だろ?」
「なんでわかるんだよ」
体に電撃が走ったらように熱くなった。まさか当たるとは。
「お前、二胡なんか弾いてんの?またマイナーな楽器手出したな」
「別にいいだろ」
「中国の楽器、いいよな。小籠包が食べたくなる」
中国の楽器と中華料理がどう結び付いたかわからないが、中国というひとくくりらしい。
理太郎は友人から視線を反らすと、ぼそっと呟いた。
「……中国とか関係ねぇよ。ただ、この音色が好きだから、弾いてるだけだ。で、さっきのバイオリンの話」
「あぁ、そうだった。別に大した演奏会じゃないし、大丈夫だ!今から、1日8時間練習すれば、間に合う!」
親指立てて、気持ちいいほどの笑顔の友人を軽く睨んだ。
「ふざけんな」
「いくらか出すからよ」
「……ったく」
確か、前も少ないが、いくらかくれた。さらに、この友人の実家は高級寿司店だった。前、ご馳走になったのは、鯖寿司だった気がする。
お金はないし、自分で料理するのはめんどくさい苦学生の理太郎にとって、それだけでも、有難い報酬だ。
「サンキュー。これ楽譜」
友人にコピーした紙の束を渡された。
中を見て、話を続けようとすると、友人は忙しそうに「じゃ、また詳しいことLINEに送っとくわ!」と足早に行ってしまった。


結局、友人に邪魔され、練習室に行くことは諦めた。
バイオリンは今日は家だし、小籠包とかいうから、空腹感にさらに加速がついた。
バイト前。駅前の、何年も続く、安い定食屋に来た。
木でできた立て付けの悪い、引き戸を開けると、大将の大きな声が出迎えてくれた。
「おう、音大の兄ちゃん。いらっしゃい」
「ちわっす」
音大と自分の住むアパートとバイト先の近くにあるこの定食屋は、多いときで週8来る。
大将の気もよくて、安くて、ボリュームもあり、うまい。お気に入りの店だ。そのため、大将ともすっかり顔馴染みだ。
「今日からカキフライ始めたんだよ!」
「んじゃ、それで」
「ほいよ」
店内はお昼時ということもあり、そこそこ混みあっていた。
学生と、サラリーマンのおっさんと、独り身っぽいじいさんがほとんどだ。
理太郎はよく座る。奥のカウンター席に荷物を置いた。
カウンターの向かいから大将が水の入ったコップと、おしぼりをもってきてくれた。
「後ろの楽器?」
「え、あ、……バイオリンっす。助っ人頼まれて」
「あははー!頑張れ!わけーんだから、なんでもできるぞ!」
理太郎は座ると、渡された楽譜をパラパラ見た。
曲ごとに、クリップで留められている。
『展覧会の絵』『運命』『怒りの日』『モルダウ』音大生なら誰でも知っている有名な曲だ。
普通の人でも、曲名はわからなくとも、きっとどこかで聞いたことがあるような曲だった。
その中で作曲者、オッフェンバックの『天国と地獄』の楽譜を選び、机に広げる。バイオリンが入る小節に視線を移した。
椅子に座り直し、少し背を丸めた。
包丁の音、鍋をコンロに置く音、揚げ物の音、キッチンタイマーの音、人の話し声、お茶碗を机に置く音、おっさんの咳払い、すべてが聞こえなくなると、理太郎の頭の中にバイオリンが鳴った。
メロディーが進むに連れて、理太郎の視線が楽譜を追う。
バイオリンのみの楽譜のはずだが、理太郎の頭の中には、トランペット、トライアングル、ティンパニー、他の楽器も鳴り響いた。
机の上に軽く置かれた右手。人差し指だけ、曲のテンポに合わせ、小さく机を叩いた。
学校の運動会や焦っている映像でよく使われるこの曲、激しく懸命に演奏する演奏家、一人一人の顔が思い浮かぶ。
「はい、お待たせ」
大将がカキフライ定食の乗ったお盆を理太郎のところへ持ってきた。それをきっかけに店内のザワついた音が蘇る。
「あざっす」
理太郎は、楽譜を手早く片付け、お盆を目の前に持ってくると、箸を手に取った。
カキフライにソースをつけ、頬張る。サクッとした衣のよい触感と、カキの味が口の中に染み渡った。
いつものように大盛りにしてもらったごはんを口に入れ、千切りキャベツもどんどん平らげる。
「大将、牡蛎めっちゃうまいっす!」
「そりゃよかった」
ふと、テレビの音が耳に入り、顔を上げた。
店の天井ギリギリのところに、木の板をただ切って、釘で打っただけの簡素な棚があった。
その上に小さなテレビが点いている。
ニュース番組がやっており、画面の中では、香港のデモを報道していた。
黒いマスクをした香港人の若者が傘を差し、歩いている。
それに香港警察が拳銃のようなものを向けていた。
香港では、逃亡犯条例に反対する香港人のデモに対し、政府は弾圧を強めていた。
テレビに見入り、箸で摘まみ上げていたカキフライがぽろりと落ちた。
「あ……」
一瞬、理太郎の見覚えのある建物が移った。
中学の3年間過ごしていた香港。日本人学校に通っていたため、香港人の知り合いというほどの知り合いはいないが、それでも、住んでいたため、多少は、愛着だってある。
日本語学校の先生だって、未だに香港に住んでいるかもしれない。
昨日、練習室に入ってきた中国人と話して、久しぶりに青島であったデモのことを思い出した。
けれど、それと香港のデモは大違いだ。
香港の若者は、自分たちの民主主義と未来を守るために戦っている。
自分は何もできないが、理太郎は心の中で応援していた。
がんばれ香港人。

店内には、理太郎以外、誰もテレビを見る人はいなかった。
日本人は政治に興味がない。
ギリギリ総理大臣の名前は言えるが、生活に直結する政策をしているはずの厚生労働大臣の名前は言えないだろう。
コロコロ代わるほうも悪いが。
自分たちの税金がどう使われているのかも興味なかった。
香港のデモ?怖いよねー。なんでデモしてるの?その程度。香港がどうなろうと、他人事だった。
目の前を生きるのに必死すぎるからかもしれない。
「あっ!」
画面が突然、屈強な男たちがボールを持って走り回っている映像に変わった。赤と白の横じまのユニフォーム。日本で開催されているラグビーワールドカップの映像だった。
振り替えると、大将がリモコンを押していた。
「日本がまさか決勝トーナメント進出とは、驚いたよなぁ!」
「あぁ!このオフロード鳥肌たったぜ」
大将に話しかけられたカウンターのおっちゃんも、興奮したように話す。
初めて日本で開催されたラグビーワールドカップ。
昨日、日本対スコットランド戦が行われ、盛り上がっていた。テレビはニュースのスタジオに切り替わり、決勝トーナメントに進んだチームを紹介していた。
『がんばれ!日本!』
スタジオでキャスターたちが声を揃えて声援を送ったのち、また画面が切り替わる。
一人の女性アナウンサーが真面目な顔で原稿を読んだ。
『中国人グループが詐欺を働いていた模様です。逮捕されたのは……』
「次はどことだっけ?」
「南アフリカ」
「勝てるかなー?」
「勝って欲しーねぇ。この勢いで」
大将とおっさんはすでに、テレビは見ていなかった。誰にも見られていないテレビはひたすら、ニュースの原稿を読み上げていく。
理太郎は、冷めかけた味噌汁を口に流し込んだ。


昼食が終わると、理太郎はTSUTAYAに行った。バイト先だ。
制服が青いエプロンで、めちゃくちゃ似合わないため、そこには不満があるが、仕事をしながら、最新のCDやマニアックなCDを見られるので、そこは気に入っていた。
おかげで、芝刈り機の音のCDをレンタルしてしまった。
しかも、深夜も営業してるTSUTAYAは時給もよく、理太郎に合っていた。別に男だし、夜遅く働いて帰っても誰も文句言わない。
今日も営業スマイルを意識するわけでもなく、いつも通りたんたんと、CDを並べていく。
軽い足音がし、人影が視界に入った。理太郎は、覇気のない声で、決まり文句を言う。
「いらっしゃいませー」
「コンニチハ!」
「あ……」
目の前にいたのは、丸顔で人懐っこい、優しい顔の、あの中国人留学生、リーユーシェンだった。
こないだ、とんでもなく性格悪い態度をとった手前、気まずい。
早く去れと念じていると、リーユーシェンは、理太郎に近づきながら、折りたたんだ紙を伸ばして、見せてきた。
「あの、この本を探しているんですが」
哲学の講義で配られたプリントだった。
哲学は、理太郎も受講しているので、このプリントは記憶にある。
そこには何冊か本のタイトルと、その本を読んで1万字程度のレポートを書くように書かれていた。
リーユーシェンが指差していたのは『これでよくわかるソクラテス』という本だった。
「あー、はい、はい」
理太郎は作業を中断し、歩き出した。
リーユーシェンがその後ろを着いていく。
哲学書コーナーの棚に着くと、迷いもなく一冊の本を手に取り、渡した。
これを聞かれるのは3回目だからだ。
「ほいよ」
「アリガトウゴザイマス」
ぺこりと丁寧なお辞儀をした。
リーユーシェンは本をパラパラとめくった。
びっしりとめんどくさそうな文章の日本語で埋まっている。
留学生にこの本を読ませ、一万字のレポートなんて酷じゃないのかと心配した。
ハッと我に返ったように、なんで心配してんだろと心の中でつぶやく。
目についた散らかされた本を整理した。
チラリとリーユーシェンの顔を見た。
なぜか、綺麗な姿勢で突っ立ったまま、理太郎を見ていた。
また目がキラキラしている。
「福原理太郎サン!オネガイあります!」
「なんだよ」
「私の伴奏、シテクレマセンカ!?」
「伴奏?なんの?」
「二胡デス!」
「……お前も二胡弾くんだな」
「ハイ。自慢デスガ、コンクール、何度も優勝シテル」
えへへと、ちょっと照れた感じで笑った。
なんとなくわかってた。こいつは、自分みたいにお遊びで楽器を演奏しているのではなく、本気で、何年も、音楽に時間を費やしてきたやつだ。
「久村教授のオーディション受けたいデス!」
「お前も、お偉いさんとパイプ作りたいわけね」
「ソウイウワケデハ……。ただ、弾くきっかけホシイ、だけ」
今まで、ニコニコと癒し系だったリーユーシェンの目が、どこか悲しそうな色にかわった。
しかし、理太郎はまだそんな些細なことに気づけるほど大人ではなかった。
「なんで俺……。ピアノ専攻、うまいやつ他にもいるから、紹介してやるよ」
「理太郎サンがイイデス!」
「え?俺?」
きょとんとした顔が妙に子どもっぽくおもしろい。
音大にいれば、伴奏を頼まれることは多々あり、今までも何度となくやってきたが、理太郎がいいと強く言われたのは初めてだった。
しかし、すぐに、そうか、中国語が通じるからかと、都合のよさに気づいた。
「お前、日本語うまいから、誰でも大丈夫だろ」
「そういう意味デハ……」
「どうせ、英語もしゃべれるんだろ?俺じゃなくても、大丈夫だ……」
「理太郎サンの演奏、私好きデス!迷いがなくて、素直!情熱的!たくさんのメッセージ感じル!」
直接的な言葉に固まる。こういうのは苦手だ。無理矢理ふっと笑った。
「そーかぁ?テキトーってみんなには言われるよ。ちゃんと楽譜見ろって。悪りーけど、俺、バイト中だから他当たってくれ」
遠くで、店長っぽい人が理太郎を呼んだ。
「福原くん!終わったら、ちょっと、こっち手伝ってくれる!?」
店長は脚立に乗り、宣伝のボードを天井からぶら下げようとしているが、届いていなかった。
「はーいっ!んじゃな」
理太郎はリーユーシェンをその場に残し、店長のほうへ歩いて行った。


ピアノ専攻の講義。
各担当教員によるレッスン形式の授業だった。
少し広めのレッスン室にはグランドピアノが2台置かれていた。
1台のピアノを理太郎が演奏していた。
その隣には担当の40代くらいの女性講師。
そして、部屋の片隅ではリーユーシェンがイスに座り、演奏を聞いていた。
日本の練習風景に興味があるので見学したいと申し出たところ、教員はあっさり見学を許可してくれた。
理太郎は最初こそ、ものすごい嫌な顔を浮かべたものの、諦め、いつものようにピアノを弾き出した。

曲はリストの『愛の夢』第3番。
ぶっきらぼうで言葉遣いの悪い理太郎からは考えられないような優しい演奏が始まった。
懇切丁寧というわけではないが、聞いているものの感情を無視しない、寄り添うような演奏だった。
理太郎はほとんど楽譜に目をくれることなく、指を動かしていく。
その表情は、どこかもの悲しい気で、苦しそうでもあった。

ふと、昨日の香港のデモの映像が蘇った。
いや、夏ぐらいから、ニュースで何度もデモの映像は見せられてきた。
もう4ヶ月目になるのだろうか。
記者に、絶対に民主を勝ち取ると決意を伝える横で、疲れ果て、座り込む香港の人が移る。
デモをやっているのは、若者が多かった。
高校生までいる。
立てこもった大学内では、もう食料が尽きたと訴える若者。
体育館で起き上がることのできない女子学生。
シャッターを閉めたままの店。
ゴミが散在する町。
迷い悩み、困り果てる行政長官。
階段の陰に寝転び、休むしかない警察官たち。
出口の見えない現状。
それでも負けず、戦う若者たち。
発砲を躊躇う警官。
緊張。悲壮。ため息。
疲弊した香港の苦しみがのし掛かってくるようだった。
少しでも、癒えて欲しい。
この音は届かないだろうか。

「福原くん、そこ、違う」
指導していた講師のキツイ言葉が演奏を止めた。
「……はーい」
せっかく盛り上がっていたところだったのに。
止めた講師を、リーユーシェンも軽く恨んだ。
「楽譜ちゃんと見て」
「はい」
「作曲した人に失礼じゃない」
「……はい」
理太郎はまるで棒読みのように返事を返すと、ただ、音符が散らばっただけの楽譜をぼーっと眺めていた。
その後も、何度か、講師に止められては、何か注意を受け、弾き直すことを繰り返した。
そうこうしているうちに、指導の時間は終わり、担当講師は次があるからを足早にレッスン室を出ていった。
理太郎は少し疲れた顔で、片付けを始めた。
そんな彼へ、リーユーシェンはニコニコした顔で歩み寄った。
「やはりピアノも、上手デスネ!情熱的!」
「どーも」
「誰ニ向けて弾いてたデスカ?」
「……別に。ねぇよ、そんなの」
そっけない態度だが、その顔に少しだけ照れが隠れていた。
音大に入り、周りは上手な演奏家で溢れている。
その中で、褒められる機会というのはなかなかなかった。
理太郎は鍵盤を丁寧にハンカチで拭くと、布を被せ、蓋を閉めた。
静かな部屋にリーユーシェンの声が響く。
「理太郎サン!お願いデス!伴奏、シテクダサイ!」
「だから、なんで俺……」
「理太郎サンなら、弾ける気がシマス!」
「ん?」
理太郎がピアノ全体に布を被せながら、少し、リーユーシェンを見た。
「実は、二胡弾けなくなった」
「なんで?」
「ワカラナイ。 いろいろ考えて、体ウゴカナイ。でも、理太郎サンなら、ヤレソウ」
「ジストニア?」
局所性ジストニアは演奏家の間でよく聞く、同じ動きを繰り返すことにより、体の一部が思うように動かなくなってしまう病気だ。
「チガウと思いマス。病院で検査しても、違いマシタ」
「そうか」
精神的なものだろうか。
理太郎も周りに演奏家がたくさんいるため、そうやって演奏できなくなる人を何人か見かけたことがある。
「ダカラ、諦めて、音楽のビジネス勉強するため、憧れの日本、留学シマシタ。でも、理太郎サンみて、また弾きたくナッタ」
理太郎は黙り込んだ。両手をポケットに入れ、脚を組み、壁にもたれた。蓋のしまったピアノを見つめる。
もともと整った顔立ちのせいで、何気ない仕草なのになんか様になる。
理太郎はそっぽを向いたまましゃべり出した。
「正直、別に伴奏ぐらいしてやってやってもいいけど……。……俺は、そのへんの日本人より、中国も、中国人も嫌いなんだよ。マジで。だから、中国人のお前の伴奏を俺がするのは……なんか、失礼だろ?」
リーユーシェンはぷふっと小さく息を吐きながら笑った。
「真面目デスネっ」
くくくっと声を押し殺しつつも、体を曲げて笑っている。
これって真面目って言うのか?と理太郎は首を傾げる。
何度も反らしてきた理太郎の目の前に、リーユーシェンがもう一度現れた。
「私のコト、中国人ワスレテ。一人のニンゲンだとオモテ。理太郎サンのことも、ソウ思うよスル。おもてなしシテ、影分身シテ、寿司握ってイワナイ」
「ぷっ、寿司なんか握ろうと思えば、誰でも握れるだろ」
「ソウナンデスカ?」
「米をギュッてして、ネタをポンって乗せるだけ」
理太郎が両手を動かし、適当に寿司職人の真似をした。
リーユーシェンでもわかる。絶対この動きは違う。
笑い合って、和やかな雰囲気になった。
今だ!とリーユーシェンは最後のひと押しのワードを言った。
「お金払いマス!」
お金という言葉に理太郎の体がピクっと音を立てて止まった。
「いくら?」
「え、えっと……ゴ」
「五万円?それくらい出してくれんだったら、やってもいいぜ!」
リーユーシェンは理太郎の気の変わりように驚いた。
しかし、ここで変にリアクションして、理太郎の機嫌を損ねたくないので、ぐっと堪える。こういうのは得意だった。
理太郎はニヤニヤした顔で言う。
「あと、オプション追加で」
「オプション?」
「俺がお前の二胡の伴奏やる代わりに、お前が俺に二胡教える」
「イイデスヨ!」
リーユーシェンがほっとしたように笑った。
正直、今は、二胡を弾くより、教えるほうが何十倍もできそうだった。
理太郎が、子どものように笑った。
「んじゃ、交渉成立だな!李子軒(リーユーシェン)」
綺麗な発音だった。
日本では名字だけで「リーさん」と呼ばれるときが多い。
中国では苗字で呼び合うことはほとんどないので、最初は違和感があったものの、慣れつつあった。
自分の名前を中国語の発音で、しかも、本物の発音に近い発音。
それで、下の名前まで呼ばれたのは、本当に久々だった。
「理太郎サン」
「理太郎でいいよ。長くて言いづらいだろ」
「ハイ!」
ハイと気持ちよく返事したわりに、少し頬赤らめて、視線を反らした。
「……中国では、下の名前、呼び捨てハ、夫婦か恋人だけデス」
「わかってるわ!日本では違うんだから別にいいだろ!意識すんなよな」
なぜか、理太郎まで少し顔が赤くなっていた。
部屋をノックする音と共に、次に部屋を使う学生が来てしまった。
理太郎たちはその足でさっそく、別の小さな練習室へと向かった。
今度はそれぞれの二胡を持って。