何かが自分を呼んだ気がした。脚が止まる。
周りを見渡すが、誰か知り合いが自分を呼んだわけではなかった。
けれど……あ、ほら、また、この音。
この音が自分を呼んでいる。
ここは都内の音楽大学。広い大学内では、常に何かの楽器の音が聞こえる。
10月も半ばになり、暑さが少し和らぎ、過ごしやすい日が増えた。
木曜日の現在時刻は午後2時すぎ。
心地よい風が、大学内の木々を揺らしていった。楽器が入った様々な形のケースを持つ音大生が横を通り過ぎていく。
飛行機の音、遠くの車のクラクション、風が木を揺らす音、学生の笑い声、ピアノの音、ティンパニーの音、ホルンの音。
そして、また、あの弦の鳴る音がする。
バイオリンのような凛とした音とは少し違う。柔らかく、深みがあり、円熟したような色気を感じる音色。東洋の音。二胡(にこ)だ。中国の伝統楽器で、二つの弦を持つことから、二胡という名前がついた。
哀愁を帯びたその音色は、人間の、特に女性の声に近い楽器とも言われている。そのためか、聞くとなぜか懐かしい気持ちになる。
ピアノやバイオリンなど、専門のコースがなく、演奏者人口が少ない異国の楽器である二胡の音色が聞けるのは珍しかった。
このメロディーは……『時の流れに身をまかせ』
台湾出身である歌手のテレサ・テンが、中国語だけでなく日本語でも歌っていた歌。約40年前に流行ったこの曲は、今でも中国や日本、アジア全域で愛されている。
テレサ・テンの綺麗な歌声と似た、ゆったりと優しい演奏だった。けれど、優しさの中で、少し緊張してるのがわかる。まるで、初デートを一生懸命エスコートしてるような感じ。時々、音の高さがズレでしまったり、伸ばし足らなかったり、少し拙さのある演奏だった。それでも、たまに、あ、ここ、いい。と感じる弾き方があり、ついつい聞き込んでしまう。
どこから聞こえているのだろうか。
誘われるように、その音色を探していると、一棟の練習棟にたどり着いた。防音の効いた小さな部屋がたくさんあり、中でいくらでも楽器の練習できる。
いくつかの部屋はドアがきちんと閉められ、中に人の気配がするが、その中の一つ、一番奥のドアが半開きだった。
練習棟の長い廊下に、二胡の音色が響く。
ドアには小さな窓があり、そこから、こっそりのぞいてみた。青年が一人、窓際に置いたイスに座り二胡を弾いていた。
小さな楽器の二胡が、ちょこんと青年の膝の上に乗っているのが、可愛らしかった。
堅い木を六角形に組んだ共鳴胴から、青年の頭の高さまで伸びた棹(さお)。本当に細くて、力を入れてしまうと折れてしまいそうだった。青年の左手は優しく、棹を撫でるように這うと、張られた弦を指で押さえる。
青年は集中していて、気持ちよさそうで、楽しそうな顔だった。
彼の動かす弓に従い、二本の弦と共に二胡は体を震わせ、音を響かせた。
青年が、弾いている自分の二胡に視線を落とした。まるで、「いい子だ」といでもいっているように、優しく微笑んだ。
拙いけれど、迷いのない音。
耳を傾けずにはいられない。
身を委ねたくなる優しい音。
なぜか、心くすぐられる。涙が出た。
二胡と戯れていた青年が、ふとドアのほうに視線を向け、目を見開いた。
目が合った。
顔が固まり、演奏も止まる。
「……………」
「……B、BRAVO!(ブ、ブラヴォー!)」
覗き見していた男子学生は拍手をし、叫んだ。
そのまま、恐る恐る部屋に入った。
青年は恥ずかしそうに、何もない壁のほうを見て、目を合わせようとしなかった。
けれど、大きな拍手に、満更でもなさそうな表情も、少し、見え隠れする。
「スバラシイデス!」
青年は片言の日本語を聞いたとたん、怪訝な顔にかわった。
「中国人?」
似た顔つきから日本人だと思っていたようだ。カタコトということは、日本以外。日本以外では、中国人の確率が高い。この学校は中国からの留学生は少なくない。
「ソウデス!ドア開いてて、聞いてシマイマシタ!」
「…………」
青年はさらに、気に入らなさそうな顔をし、小さく息を吐いた。
弦を左手で二胡本体とまとめて持つと、譜面台に乗っている、印刷しただけのペラペラな紙を意味もなく動かした。それは楽譜で、音符一つ一つの上に1,2,3と数字が書かかれていた。
「…………」
さっきまでの包み込むような優しい演奏からは想像できないような、拒絶的な態度だった。しかし、それに気づかない中国人留学生は、キラキラした笑顔で矢継ぎ早に質問していく。
「二胡好きデスカ!?」
「……嫌いじゃ、ない」
「中国の音楽、興味アルデスカ?」
「まぁな」
「わぁ、嬉しいデス!」
ボソボソと無愛想な返事だったが、中国人留学生はさらに目を輝かせる。気持ちが高ぶり思わず、中国語で質問してしまった。
「先生は?」
「独学」
ほとんど間がなく、中国語で返事が返ってきた。少し訛りは感じたものの、あまりにも自然で、留学生はそのまま中国語で続けた。
「独学?すごい!いつから弾いてるんですか?」
「んー、今年の春くらい?」
「最近じゃないですか!なのに、すごい弾けてますね!独学でこんなに弾けるなんてびっくりです!この曲、日本の人も知ってるんですね!私も大好きです!」
中国語がどんどん早口になっていく。嬉しそうにしゃべり続ける留学生に、青年は口を挟んだ。
「あー、いや、そんな早口で言われてもわかんねーし」
日本語だった。留学生はハッとしたように、また、覚えたての日本語に戻した。
「中国語デキル?」
「2年間中国、3年間香港に住んでたことがあるから。多少」
「名前はナンデスカ?」
少し、ためらうような間のあと、ぽつりとつぶやいた。
「………福原 理太郎(ふくはら りたろう)」
「フクハラ リタローさん!私、李 宇軒(リー ユーシェン)ってイイマス!ヨロシクオネガイシマス!」
満面の笑みで、リーユーシェンが笑った。理太郎はおぅと小さな声で返事を返した。
リーユーシェンは丸顔で、どちらかといえば幼そうな顔つきの、優しそうな雰囲気の青年だった。
一方、理太郎は愛想笑いの仕方もわからないような済ました顔の青年だった。少し長めの黒髪がよく似合っている。
「あ!名前!漢字でカイテ、クダサイ!」
リーユーシェンが鞄から、メモ帳のようなものとペンを出した。理太郎はふっと小さく笑うと、のろのろと受け取り、名前を書いた。
「俺、有名人でもなんでもないんだけど」
それほど、綺麗でもない普通の字。覗きこんだリーユーシェンは嬉しそうに頷くと、今度は自分がペンをとる。
「私ハ、コウ、書きマス」
同じ漢字だけど、日本の漢字とは少し違う雰囲気の文字が並んだ。中国では簡体字。
李宇軒の軒は正しくは、くるまへんが異なる。理太郎はそれをチラリと見ただけで視線を外した。
鞄を漁り、別の楽譜を取り出した。それでも、リーユーシェンはまた質問攻めを始める。
「中国ノ楽器、好きデスカ?」
「まぁ、嫌いではない」
「中国、ドコ住んでマシタ?」
「……………あー………」
やけに、雑で中途半端な返事だった。
明確な答えを言わないまま、理太郎は練習室の壁際にあるピアノの蓋を開けると、楽譜をパサッとたてた。
「悪いけど、俺、練習したいから」
こんな台詞、音大に入って初めて言った。
「ピアノも弾けるデスカ!?」
「あぁ。ピアノ専攻だからな」
今度はめんどくさそうな表情をモロに出した。
それでも、リーユーシェンは久々に中国語が話せる相手がいて嬉しかったのか、笑顔で理太郎の楽譜を見ながら言う。
「ピアノ、聞きたいデス!」
「え?」
不機嫌そうな強めの「え?」だった。さすがに、リーユーシェンは申し訳なさそうな顔になった。
「あ、スミマセン。二胡の音、ヒサシブリ、聞いた。嬉シカッタ。二胡好キな人いて、嬉しい。中国、好きデスカ?」
「…………」
数秒、視線を反らしたのち、理太郎が不敵に笑った。
さっきまでの二胡を演奏する精悍な表情から一転、半笑いで目の中はどこか睨んでいるような表情になる。一言で言ってしまえば、性格が悪そうな顔。
「親の都合で、アメリカ、オーストリア、ブラジル、タイ、ロシアいろんな国行ったり、住んだりしたけど、中国が一番最悪だな。大気汚染で町は煙だらけ。交通マナーは悪い。モノはポンコツ。パクリ製品ばっか。そこら中ゴミが散乱して、誰かいっつも怒鳴ってる。ほんと低レベルな国だったわ」
「…………」
リーユーシェンは突っ立ったまま理太郎を見ていた。一字一句理解できなくとも、言っていたことの大半はわかった。やがてリーユーシェンは苦笑いした。
「ハハハ、よく言われマス……」
理太郎は窓に寄りかかり、また不敵に笑った。窓から入る日の光が、理太郎の横顔を照らした。
「お前は覚えてる?2012年」
「えーっとぉ……」
「お前らバカみたいに反日デモしてただろ。あのとき、俺、中国にいたんだよ」
理太郎は中国人が嫌いだった。
うるさい、ガサツ、列に並ばない。ゴミはポイ捨てするし、すぐにパクる。
これが日本人の中国人に対するだいたいの印象。
中国人一人一人に会い、一緒の時間を過ごせば、そんな人ばかりではなく、いい人もいるのはわかるのだが、“中国人”とひとまとめしてしまうと、どうしても、悪いイメージが浮かばずにはいられない。
でも、理太郎には中国、中国人を決定的に嫌いになったきっかけがあった。
2012年(平成24年)、9月。
理太郎は親の仕事の都合で、中国にいた。8月に来たばかりだった。
父親は三味線奏者、母親は琴奏者だった。別に世界で名の知れた演奏家なわけでもなければ、代々続く、日本楽器の演奏者でもない。
たまたまその楽器に出会い、子どもたちを養うためにはお金が必要で、自分が仕事を得るには、日本文化を物珍しがってくれる海外で仕事をもらうのが手っ取り早かった。
そのときも、たまたま、中国で日本の伝統楽器を教えないかと仕事をもらったのだった。
住んでいたのは、山東省青島(サントンショウチンタオ)。
中国に進出した日本企業のがたくさんあり、理太郎は日本人学校に通うこともでき、日本人の友達もできた。
そして、9月10日。尖閣諸島が国有化された。
もともと、尖閣諸島は日本の領土で、個人の日本人が所有している島だった。それを日本政府が買い、国有化という形になったのだ。
しかし、その島は中国が領土として主張している島でもあった。これを中国メディアは大々的に報道し、尖閣諸島の特番がたくさん組まれた。それは国民にすぐに浸透し、すぐにデモが始まった。
理太郎は当時、小学5年生。
珍しくできた日本人の友達と公園で遊んでいた。
家族ともよく来る公園。ベンチに座り、遅れてやっと手に入れることができた任天堂のポケットモンスターブラック2を夢中でやっていた。
対峙するモンスターであるブラックキュレムにモンスターボールを投げる。
ブラックキュレムがモンスターボールに入ると、テロンテロンと音を出し、ボールが揺れる。すぐに、ポン!と音を出し、ボールからブラックキュレムが出てしまった。ちなみにボールは使い捨てだ。持ってるボールはあと一つ。理太郎はのけ反って叫んだ。
「あー!!くそー!!」
「まだゲットは無理でしょ。もっとゲージが赤いとこまでこなきゃ」
誰にでも明るく接する友人のノブくんが笑った。
ブラックキュレムはこのゲームのシリーズにおける伝説のポケモンだ。めちゃくちゃ強い。絶対にゲットしなくては。
ノブくんはすでにゲットし、ゲームをクリアしていた。
アドバイス通り、自分のポケモンであるミジュマルに攻撃をさせるすると、ブラックキュレムのヒットポイントであるゲージが赤くなり、そのままなくなった。
「あーー!!今度は死んだぁ!!」
また、理太郎が絶叫する。当たりどころがよかったのか、倒してしまった。こうなっては、ゲットはできない。
「手持ちのポケモンが悪いんだよ。眠らせるやつとかいないの?もっと前からやり直したら?」
「はー、めんどくせー」
理太郎はゲーム機本体の電源を切るとまた点けた。ブラックキュレムとバトルする前のセーブデータに戻り、もう一度チャレンジする。
「おっ、今度はイケそうじゃね?」
「逆にこっちがやられないようにしないと」
理太郎のミジュマルのゲージは、ブラックキュレムの攻撃により、どんどん下がっていく。赤くなりだした。
「やっべぇ……」
「理太郎!」
遠くから理太郎の母親が大声を上げ、走ってきた。それでも、理太郎は気にとめることなく、ゲーム機を睨んだままだ。
「なんでこんなとこでやってんの!?」
「ねーちゃん、練習するっつったから、ここで……」
「帰るよ!」
「ちょっと、待てよ!今ブラックキュレム、ゲットできるところ!」
母親がパシンと理太郎の手を掴み、引っぱった。はずみで、手からゲーム機が滑り落ちた。理太郎は手を伸ばす。
「あっ!」
「来た!早く!」
理太郎の母親は、それを許さず、手を引く。一緒に来ていたノブくんのお母さんも、ノブくんの背中を押し、足早に急いでいく。
「待って!ブラックキュレム!」
「そんなのいいから!早く!」
ゲーム機が地面に転がったまま、理太郎は引きずられていった。
ノブくんと一緒に、見覚えのないフォルクスワーゲンの車に乗せられる。
「何だよ!ゲーム落としてきちゃったじゃん!」
「静かに!日本語しゃべらないで!韓国人のフリして!」
母親が理太郎の口を塞いだ。ゲーム機を取りに戻ろうとしたが、母はそれを許さなかった。
車内で、ノブの母親と理太郎の母親の緊迫した声がした。
「私たち、ここにいて大丈夫?」
「でも、道、通れそうになくて……」
「やだ、あんなに、たくさん来た」
地響きのようなものと、大勢の人がなにか喚くような声が聞こえる。それはだんだんと大きくなり、こちらに近づいてくる。
たくさんの中国人がプラカードや横断幕のようなものを持ち、ぞろぞろと歩いてきた。鉄パイプを持った人までいる。彼らが持つ日の丸には、大きく×印が書かれていた。
「打倒小日本!小日本!」
「泥棒ー!」
「釣魚島(尖閣諸島の中国での呼び名)を返せー!」
なんだこいつら。
理太郎は目を見張った。不思議と恐怖心は感じなかった。それよりも、異物をおぞましく感じるような、気持ち悪い感覚。
尖閣諸島国有化をきっかけに、中国ではそこかしこで大規模なデモが行われていた。理太郎のいた青島も例外ではなかった。
日本企業の大手ショッピングモールのジャスコ、日産、トヨタの店舗が中国人によって破壊された。
窓ガラスは叩き壊され、商品は強奪された。
また、中国人の経営する日本料理店や、中国人の乗る日本車まで襲撃に遭っていた。
喚く集団は理太郎の落としたゲーム機の近くまできた。
その先に止めてあった日産の車を見つけると、わーと走り出した。
「あっ!」
集団は理太郎のゲーム機を何の躊躇もなく踏んでいった。
そして、日産のキューブをボコボコにしていった。
理太郎は車の窓からその光景を睨み、拳を握りしめた。爪が食い込む。
「あとちょっとでブラックキュレムできるところだったのに!ぜってー許さねぇ!中国人なんか大っ嫌いだ!!」
「ブラックキュレム、あとちょっとでゲットできるとこだったのに!!」
窓際で理太郎が地団駄を踏んだ。
まるで、小学5年生に戻ってしまったかのような振る舞いだった。
リーユーシェンは理太郎の話を黙って聞いていた。
「…………」
穴が空くほど、理太郎の顔を真顔で見つめていた。
そして、2、3歩歩き、理太郎に近づいた。
「な、なんだよっ……!」
理太郎は殴られるかと、一瞬身構えた。しかし、リーユーシェンの行動は予想と違っていた。深く、頭を下げた。
「……スミマセン」
「なんでお前が謝るんだよ。すぐ謝るなんで、中国人らしくねぇじゃん」
リーユーシェンはしゅんと、とても悲しそうな顔になった。
「ホントウにスミマセン」
「お前もデモに参加してたのかよ?」
「シテマセン!」
キリっと、強い眼差しで理太郎を見た。
とても嘘をついているようには見えない。
「でも、暴れる、ワルいコト。スミマセン」
「べ、別に……。お前は、そんな、悪いことしてねーんだし……。……立ち聞きは………ちょっと、恥ずかしかったけど……」
「それも、ゴメンナサイ」
「いいよ。そこまで謝んなくて」
あまりにも落ち込んだリーユーシェンの様子に、理太郎も少し言い過ぎたかと、今さら焦りだす。
二人はその場に固まったまま痛い沈黙が流れた。
ブーブーブー!!
突然、警報のような音が、部屋に備え付けてあるスピーカーから流れた。
二人はなんだ?と顔を上げる。すぐにアナウンスが入った。
「ただいまより、地震避難訓練を開始します。ただいまより、地震避難訓練を開始します。」
「はぁーー……」
なんだと言うように、理太郎は大きくため息を吐いた。
リーユーシェンは何かわからず、まだ焦った顔をしていた。
「Drilling.地震の避難訓練だとよ。そういや、そんなよーなこと、前に言ってたな」
アナウンスはまだ続いていた。
「貴重品を身に付け、ヘルメットを被り、グラウンドに出てください」
「ま、無視しときゃいんじゃね」
理太郎は全く従う気がないようで、ピアノの椅子に座った。
弾こうと手を伸ばした瞬間、練習室のドアがノックされた。
ヘルメット被った事務員の若い女性が顔を出した。
「はーい。まだ残ってる人ー。グラウンド行きますよー。」
「チッ……」
理太郎はピアノの蓋を閉め、楽譜を鞄に突っ込む。
二胡のケースを持つと、部屋の片隅にある小さな棚を見た。
消火器とヘルメットが一つずつ置かれていた。
理太郎はヘルメットをとると、リーユーシェンに渡した。
「ん」
「アリガトウゴザイマス」
リーユーシェンは笑って受けとると、ヘルメットを被り、律儀に顎紐を顎の下までぴっちり締めた。
「優しいデスネ」
「いや、俺、ヘルメット似合わねーから、被りたくないだけ」
二人は戸締まりを確認すると、部屋を出た。
グラウンドへの最短ルートを知っている理太郎に着いていく感じで、リーユーシェンが半歩後ろを歩いていった。
廊下の突き当たりで、エレベーターのボタンを押す。
他の練習室からも、チラホラ楽器を持った学生が出てきて、エレベーターの扉の前に集まりだした。
事務員のお姉さんの明るい声が廊下に響いた。
「災害のときはエレベーターは使っちゃだめですよー。いつ止まるかわかんないですからね。階段で行ってくださいねー」
「あー、めんどくせー」
理太郎は小さな声でぼやくと、階段へと向かった。
練習棟は5階建てだ。今いるのは5階。
理太郎たちは他の学生たちに混じって、階段を降りていった。
自分の楽器を抱えているのが、大多数だ。中には自分と同じくらいの大きさの楽器もある。
こんなんで非常事態時に逃げ切れるのだろうか。
小さなグラウンドというより、広場と呼んだほうが相応しい中庭の芝生は、学生でごった返していた。
こうやって、たくさんの人が集まると、理太郎は背が高いことがよくわかった。
180センチはあるだろうか。リーユーシェンは少し、羨ましそうに見上げた。
理太郎は不機嫌そうに、チラチラ周りを見渡していた。
さっさと終わって欲しい。
周りの学生も、次の講義がどうだとか、練習が、コンクールがとおしゃべりして、ザワついていた。
リーユーシェンが口を開けた。
「ワタシ、日本人、大好きデス。礼儀正しい、思いやり、真面目。学びタイことイッパイ」
理太郎が鼻で笑った。
「大抵の日本人は中国嫌いだと思うぞ」
周りはザワついているのに、理太郎の声はなぜかはっきりを聞こえた。
リーユーシェンは固まった。ショックとも、憤りをも思わせる顔で理太郎を見た。
「ナンデソンナコト言う?」
「ホントのことだからな。俺は嫌いだ。中国も、中国人も。ついでに韓国人も嫌い。……日本人も嫌いだけどな」
ザワつきが静かになったと思うと、遠くの方に副学長か事務長かわからないが、スーツを着たおじさんの姿が見えた。
理太郎もリーユーシェンも、周りの学生たちも黙った。
おじさんは拡声器で、避難訓練について、うんたらかんたらしゃべった。
「これで避難訓練は終了です」という一言で、学生たちはぞろぞろと移動を始めた。
理太郎が時計を見ると、次の講義の時間が迫っていた。
黙って講義室に向かおうとすると、リーユーシェンが大きな声で呼び止めた。
「福原理太郎サン!私は日本のこと大好きデス!」
突然なんだと対応に困ってると、リーユーシェンは満足そうな顔でスタスタ言ってしまった。
「なんだ?あれ」
翌日、理太郎は大講義室のイスに座り寝ていた。
形だけ出したペンとノートは、85分前に出したっきり、ピクリとも動いていない。
音大だって、普通の大学のように、教養と呼ばれる科目の講義を取らなければならない。
もともと勉強が嫌いな理太郎は、この類の講義が、猛烈にダルかった。
今も哲学の講義で、全く興味なく、おまけに担当の講師のおじいちゃんは、ボソボソと抑揚のない声でしゃべるだけで、理太郎はほとんど寝ていた。
そして、講義の終わり間際にに何故だかピクリと目が覚める。
プリントの束が、前の席や横から回ってきた。
理太郎もダルそうに、自分の分を取ると、隣の学生に残りを渡した。
見ると、レポートの課題の内容が書かれている。
寝ぼけた顔のまま、めんどくせーと心の中でつぶやくと、ろくに見ずに、鞄の中に押し込んだ。
いつの間にか、もう一人、丸メガネの男性教授が講義室の入り口の近くに立っていた。
久村教授。理太郎の所属する鍵盤楽器科の学科長で、ピアノ専攻の講義をいくつも担当している。
理太郎も何度か講義を受けたことがある。
哲学のおじいちゃん講師が、自分の資料をとんとんと机に落とし、揃えながら言った。
「あー、で、ついでに、久村教授からお知らせがあるようで、はい、どうぞ」
そういうと、久村教授に軽くお辞儀をし、講義室を出て行った。
久村教授は教卓の前に移動し、マイクを引き寄せた。
「久村です。えー、例年やってますが、『秋の夕べの会』というセミナーみたいなものを毎年私が主宰してます。駅前のグランドホテルでね、やってるんですけども。いろんな人が聞きにきますよ。それで、話の合間合間に、演奏してくれる人を募集してます。コンクール等で忙しいと思いますが、挑戦したいという方はオーディションしますんで。詳細、この紙に書いといたので、興味ある人は帰りに持ち帰ってください」
教卓に紙の束をおいて、久村教授は次があるのか、急いで出口に向かっていった。。
後ろからポンと肩を叩かれ、理太郎は振り返った。同じピアノ専攻の先輩だった。
「なぁ、福原、これ行っとけよ。お偉いさんとお知り合いになれるぞ」
「興味ないっすよ」
「人脈は作っといたほうがいいよ。何がきっかけで有名になるかはわからないからな」
「先輩は行くんですか?」
「俺はコンクール控えてんだよ」
たくさんの学生が、その紙を取りにぞろぞろと向かっていった。
コンクールがどうのこうの、先輩としゃべりながら、理太郎も立ち上がると、ゾロゾロと人に紛れ、出口へ向かった。
出口付近で待っていたのか、先輩の彼女らしき女性が、駆け寄ってきた。
「たーくんっ!」
「お待たせー」
女性は先輩の腕に自分の腕を絡めた。理太郎に軽く会釈してきたので、こちらもこくんと頭を下げた。
「じゃあな。福原」
「あーい」
自分と別の方向へ去って行く二人を少し眺めた。女性は少しぽっちゃり気味だ。俺はなしだなーと心の中でつぶやくと、理太郎も歩き出した。
ちょうど練習棟の横を通った。
防音になっているといっても、軽く楽器の音は聞こえる。
その中で、1階の一番端の部屋が静かなのに気づいた。
昨日は楽器を中途半端な形でしか触れなかったから、体がむずむずする。
時計を見る。バイトは15時から。その前に駅前の定食屋で昼メシを済ませたい。
今は12:23。腹は減ってるけど、少し、時間がある。
理太郎は練習棟へ向かおうと、歩き出した。
「よっ、福原」
練習棟の奥のから歩いてくる男子学生が、理太郎に手を振ってきた。
「おー」
たくさんの楽譜が入っているのか、いろいろなファイルや紙の束を抱え、さらに、ケースに入れたトランペットを肩にかけていた。
「すげー荷物だな」
「今週末、サークルの演奏会でさぁ。そうそう。福原、助っ人やってくんねー?」
この男子学生は『好きな曲弾こう!オーケストラサークル』というサークルの代表を務めている。
大学の講義や技術上達に縛られたような演奏ではなく、好きな曲を楽しく演奏しようというサークルだった。
理太郎は今までにも何度か助っ人をしていた。
「急に体調不良で休むやつでたんだよ。バイオリン」
「バイオリン???最近、あんま弾いてねーんだよな」
「え?じゃあ、それ……」
友人は理太郎の持っていたケースを指さした。大きな背中に隠れ、てっきり、バイオリンケースだと思ったが、形が少し違う気がする。
「それ、バイオリンじゃないなぁ……」
友人は少し後ろに回り込むように、じっくりケースを眺めた。
理太郎は当てられるかドキドキしながら、ケースなんかで何の楽器がわかるわけないと、済ました顔の演技をした。
「しゃみせん……でもないな、二胡、二胡だろ?」
「なんでわかるんだよ」
体に電撃が走ったらように熱くなった。まさか当たるとは。
「お前、二胡なんか弾いてんの?またマイナーな楽器手出したな」
「別にいいだろ」
「中国の楽器、いいよな。小籠包が食べたくなる」
中国の楽器と中華料理がどう結び付いたかわからないが、中国というひとくくりらしい。
理太郎は友人から視線を反らすと、ぼそっと呟いた。
「……中国とか関係ねぇよ。ただ、この音色が好きだから、弾いてるだけだ。で、さっきのバイオリンの話」
「あぁ、そうだった。別に大した演奏会じゃないし、大丈夫だ!今から、1日8時間練習すれば、間に合う!」
親指立てて、気持ちいいほどの笑顔の友人を軽く睨んだ。
「ふざけんな」
「いくらか出すからよ」
「……ったく」
確か、前も少ないが、いくらかくれた。さらに、この友人の実家は高級寿司店だった。前、ご馳走になったのは、鯖寿司だった気がする。
お金はないし、自分で料理するのはめんどくさい苦学生の理太郎にとって、それだけでも、有難い報酬だ。
「サンキュー。これ楽譜」
友人にコピーした紙の束を渡された。
中を見て、話を続けようとすると、友人は忙しそうに「じゃ、また詳しいことLINEに送っとくわ!」と足早に行ってしまった。
結局、友人に邪魔され、練習室に行くことは諦めた。
バイオリンは今日は家だし、小籠包とかいうから、空腹感にさらに加速がついた。
バイト前。駅前の、何年も続く、安い定食屋に来た。
木でできた立て付けの悪い、引き戸を開けると、大将の大きな声が出迎えてくれた。
「おう、音大の兄ちゃん。いらっしゃい」
「ちわっす」
音大と自分の住むアパートとバイト先の近くにあるこの定食屋は、多いときで週8来る。
大将の気もよくて、安くて、ボリュームもあり、うまい。お気に入りの店だ。そのため、大将ともすっかり顔馴染みだ。
「今日からカキフライ始めたんだよ!」
「んじゃ、それで」
「ほいよ」
店内はお昼時ということもあり、そこそこ混みあっていた。
学生と、サラリーマンのおっさんと、独り身っぽいじいさんがほとんどだ。
理太郎はよく座る。奥のカウンター席に荷物を置いた。
カウンターの向かいから大将が水の入ったコップと、おしぼりをもってきてくれた。
「後ろの楽器?」
「え、あ、……バイオリンっす。助っ人頼まれて」
「あははー!頑張れ!わけーんだから、なんでもできるぞ!」
理太郎は座ると、渡された楽譜をパラパラ見た。
曲ごとに、クリップで留められている。
『展覧会の絵』『運命』『怒りの日』『モルダウ』音大生なら誰でも知っている有名な曲だ。
普通の人でも、曲名はわからなくとも、きっとどこかで聞いたことがあるような曲だった。
その中で作曲者、オッフェンバックの『天国と地獄』の楽譜を選び、机に広げる。バイオリンが入る小節に視線を移した。
椅子に座り直し、少し背を丸めた。
包丁の音、鍋をコンロに置く音、揚げ物の音、キッチンタイマーの音、人の話し声、お茶碗を机に置く音、おっさんの咳払い、すべてが聞こえなくなると、理太郎の頭の中にバイオリンが鳴った。
メロディーが進むに連れて、理太郎の視線が楽譜を追う。
バイオリンのみの楽譜のはずだが、理太郎の頭の中には、トランペット、トライアングル、ティンパニー、他の楽器も鳴り響いた。
机の上に軽く置かれた右手。人差し指だけ、曲のテンポに合わせ、小さく机を叩いた。
学校の運動会や焦っている映像でよく使われるこの曲、激しく懸命に演奏する演奏家、一人一人の顔が思い浮かぶ。
「はい、お待たせ」
大将がカキフライ定食の乗ったお盆を理太郎のところへ持ってきた。それをきっかけに店内のザワついた音が蘇る。
「あざっす」
理太郎は、楽譜を手早く片付け、お盆を目の前に持ってくると、箸を手に取った。
カキフライにソースをつけ、頬張る。サクッとした衣のよい触感と、カキの味が口の中に染み渡った。
いつものように大盛りにしてもらったごはんを口に入れ、千切りキャベツもどんどん平らげる。
「大将、牡蛎めっちゃうまいっす!」
「そりゃよかった」
ふと、テレビの音が耳に入り、顔を上げた。
店の天井ギリギリのところに、木の板をただ切って、釘で打っただけの簡素な棚があった。
その上に小さなテレビが点いている。
ニュース番組がやっており、画面の中では、香港のデモを報道していた。
黒いマスクをした香港人の若者が傘を差し、歩いている。
それに香港警察が拳銃のようなものを向けていた。
香港では、逃亡犯条例に反対する香港人のデモに対し、政府は弾圧を強めていた。
テレビに見入り、箸で摘まみ上げていたカキフライがぽろりと落ちた。
「あ……」
一瞬、理太郎の見覚えのある建物が移った。
中学の3年間過ごしていた香港。日本人学校に通っていたため、香港人の知り合いというほどの知り合いはいないが、それでも、住んでいたため、多少は、愛着だってある。
日本語学校の先生だって、未だに香港に住んでいるかもしれない。
昨日、練習室に入ってきた中国人と話して、久しぶりに青島であったデモのことを思い出した。
けれど、それと香港のデモは大違いだ。
香港の若者は、自分たちの民主主義と未来を守るために戦っている。
自分は何もできないが、理太郎は心の中で応援していた。
がんばれ香港人。
店内には、理太郎以外、誰もテレビを見る人はいなかった。
日本人は政治に興味がない。
ギリギリ総理大臣の名前は言えるが、生活に直結する政策をしているはずの厚生労働大臣の名前は言えないだろう。
コロコロ代わるほうも悪いが。
自分たちの税金がどう使われているのかも興味なかった。
香港のデモ?怖いよねー。なんでデモしてるの?その程度。香港がどうなろうと、他人事だった。
目の前を生きるのに必死すぎるからかもしれない。
「あっ!」
画面が突然、屈強な男たちがボールを持って走り回っている映像に変わった。赤と白の横じまのユニフォーム。日本で開催されているラグビーワールドカップの映像だった。
振り替えると、大将がリモコンを押していた。
「日本がまさか決勝トーナメント進出とは、驚いたよなぁ!」
「あぁ!このオフロード鳥肌たったぜ」
大将に話しかけられたカウンターのおっちゃんも、興奮したように話す。
初めて日本で開催されたラグビーワールドカップ。
昨日、日本対スコットランド戦が行われ、盛り上がっていた。テレビはニュースのスタジオに切り替わり、決勝トーナメントに進んだチームを紹介していた。
『がんばれ!日本!』
スタジオでキャスターたちが声を揃えて声援を送ったのち、また画面が切り替わる。
一人の女性アナウンサーが真面目な顔で原稿を読んだ。
『中国人グループが詐欺を働いていた模様です。逮捕されたのは……』
「次はどことだっけ?」
「南アフリカ」
「勝てるかなー?」
「勝って欲しーねぇ。この勢いで」
大将とおっさんはすでに、テレビは見ていなかった。誰にも見られていないテレビはひたすら、ニュースの原稿を読み上げていく。
理太郎は、冷めかけた味噌汁を口に流し込んだ。
昼食が終わると、理太郎はTSUTAYAに行った。バイト先だ。
制服が青いエプロンで、めちゃくちゃ似合わないため、そこには不満があるが、仕事をしながら、最新のCDやマニアックなCDを見られるので、そこは気に入っていた。
おかげで、芝刈り機の音のCDをレンタルしてしまった。
しかも、深夜も営業してるTSUTAYAは時給もよく、理太郎に合っていた。別に男だし、夜遅く働いて帰っても誰も文句言わない。
今日も営業スマイルを意識するわけでもなく、いつも通りたんたんと、CDを並べていく。
軽い足音がし、人影が視界に入った。理太郎は、覇気のない声で、決まり文句を言う。
「いらっしゃいませー」
「コンニチハ!」
「あ……」
目の前にいたのは、丸顔で人懐っこい、優しい顔の、あの中国人留学生、リーユーシェンだった。
こないだ、とんでもなく性格悪い態度をとった手前、気まずい。
早く去れと念じていると、リーユーシェンは、理太郎に近づきながら、折りたたんだ紙を伸ばして、見せてきた。
「あの、この本を探しているんですが」
哲学の講義で配られたプリントだった。
哲学は、理太郎も受講しているので、このプリントは記憶にある。
そこには何冊か本のタイトルと、その本を読んで1万字程度のレポートを書くように書かれていた。
リーユーシェンが指差していたのは『これでよくわかるソクラテス』という本だった。
「あー、はい、はい」
理太郎は作業を中断し、歩き出した。
リーユーシェンがその後ろを着いていく。
哲学書コーナーの棚に着くと、迷いもなく一冊の本を手に取り、渡した。
これを聞かれるのは3回目だからだ。
「ほいよ」
「アリガトウゴザイマス」
ぺこりと丁寧なお辞儀をした。
リーユーシェンは本をパラパラとめくった。
びっしりとめんどくさそうな文章の日本語で埋まっている。
留学生にこの本を読ませ、一万字のレポートなんて酷じゃないのかと心配した。
ハッと我に返ったように、なんで心配してんだろと心の中でつぶやく。
目についた散らかされた本を整理した。
チラリとリーユーシェンの顔を見た。
なぜか、綺麗な姿勢で突っ立ったまま、理太郎を見ていた。
また目がキラキラしている。
「福原理太郎サン!オネガイあります!」
「なんだよ」
「私の伴奏、シテクレマセンカ!?」
「伴奏?なんの?」
「二胡デス!」
「……お前も二胡弾くんだな」
「ハイ。自慢デスガ、コンクール、何度も優勝シテル」
えへへと、ちょっと照れた感じで笑った。
なんとなくわかってた。こいつは、自分みたいにお遊びで楽器を演奏しているのではなく、本気で、何年も、音楽に時間を費やしてきたやつだ。
「久村教授のオーディション受けたいデス!」
「お前も、お偉いさんとパイプ作りたいわけね」
「ソウイウワケデハ……。ただ、弾くきっかけホシイ、だけ」
今まで、ニコニコと癒し系だったリーユーシェンの目が、どこか悲しそうな色にかわった。
しかし、理太郎はまだそんな些細なことに気づけるほど大人ではなかった。
「なんで俺……。ピアノ専攻、うまいやつ他にもいるから、紹介してやるよ」
「理太郎サンがイイデス!」
「え?俺?」
きょとんとした顔が妙に子どもっぽくおもしろい。
音大にいれば、伴奏を頼まれることは多々あり、今までも何度となくやってきたが、理太郎がいいと強く言われたのは初めてだった。
しかし、すぐに、そうか、中国語が通じるからかと、都合のよさに気づいた。
「お前、日本語うまいから、誰でも大丈夫だろ」
「そういう意味デハ……」
「どうせ、英語もしゃべれるんだろ?俺じゃなくても、大丈夫だ……」
「理太郎サンの演奏、私好きデス!迷いがなくて、素直!情熱的!たくさんのメッセージ感じル!」
直接的な言葉に固まる。こういうのは苦手だ。無理矢理ふっと笑った。
「そーかぁ?テキトーってみんなには言われるよ。ちゃんと楽譜見ろって。悪りーけど、俺、バイト中だから他当たってくれ」
遠くで、店長っぽい人が理太郎を呼んだ。
「福原くん!終わったら、ちょっと、こっち手伝ってくれる!?」
店長は脚立に乗り、宣伝のボードを天井からぶら下げようとしているが、届いていなかった。
「はーいっ!んじゃな」
理太郎はリーユーシェンをその場に残し、店長のほうへ歩いて行った。
ピアノ専攻の講義。
各担当教員によるレッスン形式の授業だった。
少し広めのレッスン室にはグランドピアノが2台置かれていた。
1台のピアノを理太郎が演奏していた。
その隣には担当の40代くらいの女性講師。
そして、部屋の片隅ではリーユーシェンがイスに座り、演奏を聞いていた。
日本の練習風景に興味があるので見学したいと申し出たところ、教員はあっさり見学を許可してくれた。
理太郎は最初こそ、ものすごい嫌な顔を浮かべたものの、諦め、いつものようにピアノを弾き出した。
曲はリストの『愛の夢』第3番。
ぶっきらぼうで言葉遣いの悪い理太郎からは考えられないような優しい演奏が始まった。
懇切丁寧というわけではないが、聞いているものの感情を無視しない、寄り添うような演奏だった。
理太郎はほとんど楽譜に目をくれることなく、指を動かしていく。
その表情は、どこかもの悲しい気で、苦しそうでもあった。
ふと、昨日の香港のデモの映像が蘇った。
いや、夏ぐらいから、ニュースで何度もデモの映像は見せられてきた。
もう4ヶ月目になるのだろうか。
記者に、絶対に民主を勝ち取ると決意を伝える横で、疲れ果て、座り込む香港の人が移る。
デモをやっているのは、若者が多かった。
高校生までいる。
立てこもった大学内では、もう食料が尽きたと訴える若者。
体育館で起き上がることのできない女子学生。
シャッターを閉めたままの店。
ゴミが散在する町。
迷い悩み、困り果てる行政長官。
階段の陰に寝転び、休むしかない警察官たち。
出口の見えない現状。
それでも負けず、戦う若者たち。
発砲を躊躇う警官。
緊張。悲壮。ため息。
疲弊した香港の苦しみがのし掛かってくるようだった。
少しでも、癒えて欲しい。
この音は届かないだろうか。
「福原くん、そこ、違う」
指導していた講師のキツイ言葉が演奏を止めた。
「……はーい」
せっかく盛り上がっていたところだったのに。
止めた講師を、リーユーシェンも軽く恨んだ。
「楽譜ちゃんと見て」
「はい」
「作曲した人に失礼じゃない」
「……はい」
理太郎はまるで棒読みのように返事を返すと、ただ、音符が散らばっただけの楽譜をぼーっと眺めていた。
その後も、何度か、講師に止められては、何か注意を受け、弾き直すことを繰り返した。
そうこうしているうちに、指導の時間は終わり、担当講師は次があるからを足早にレッスン室を出ていった。
理太郎は少し疲れた顔で、片付けを始めた。
そんな彼へ、リーユーシェンはニコニコした顔で歩み寄った。
「やはりピアノも、上手デスネ!情熱的!」
「どーも」
「誰ニ向けて弾いてたデスカ?」
「……別に。ねぇよ、そんなの」
そっけない態度だが、その顔に少しだけ照れが隠れていた。
音大に入り、周りは上手な演奏家で溢れている。
その中で、褒められる機会というのはなかなかなかった。
理太郎は鍵盤を丁寧にハンカチで拭くと、布を被せ、蓋を閉めた。
静かな部屋にリーユーシェンの声が響く。
「理太郎サン!お願いデス!伴奏、シテクダサイ!」
「だから、なんで俺……」
「理太郎サンなら、弾ける気がシマス!」
「ん?」
理太郎がピアノ全体に布を被せながら、少し、リーユーシェンを見た。
「実は、二胡弾けなくなった」
「なんで?」
「ワカラナイ。 いろいろ考えて、体ウゴカナイ。でも、理太郎サンなら、ヤレソウ」
「ジストニア?」
局所性ジストニアは演奏家の間でよく聞く、同じ動きを繰り返すことにより、体の一部が思うように動かなくなってしまう病気だ。
「チガウと思いマス。病院で検査しても、違いマシタ」
「そうか」
精神的なものだろうか。
理太郎も周りに演奏家がたくさんいるため、そうやって演奏できなくなる人を何人か見かけたことがある。
「ダカラ、諦めて、音楽のビジネス勉強するため、憧れの日本、留学シマシタ。でも、理太郎サンみて、また弾きたくナッタ」
理太郎は黙り込んだ。両手をポケットに入れ、脚を組み、壁にもたれた。蓋のしまったピアノを見つめる。
もともと整った顔立ちのせいで、何気ない仕草なのになんか様になる。
理太郎はそっぽを向いたまましゃべり出した。
「正直、別に伴奏ぐらいしてやってやってもいいけど……。……俺は、そのへんの日本人より、中国も、中国人も嫌いなんだよ。マジで。だから、中国人のお前の伴奏を俺がするのは……なんか、失礼だろ?」
リーユーシェンはぷふっと小さく息を吐きながら笑った。
「真面目デスネっ」
くくくっと声を押し殺しつつも、体を曲げて笑っている。
これって真面目って言うのか?と理太郎は首を傾げる。
何度も反らしてきた理太郎の目の前に、リーユーシェンがもう一度現れた。
「私のコト、中国人ワスレテ。一人のニンゲンだとオモテ。理太郎サンのことも、ソウ思うよスル。おもてなしシテ、影分身シテ、寿司握ってイワナイ」
「ぷっ、寿司なんか握ろうと思えば、誰でも握れるだろ」
「ソウナンデスカ?」
「米をギュッてして、ネタをポンって乗せるだけ」
理太郎が両手を動かし、適当に寿司職人の真似をした。
リーユーシェンでもわかる。絶対この動きは違う。
笑い合って、和やかな雰囲気になった。
今だ!とリーユーシェンは最後のひと押しのワードを言った。
「お金払いマス!」
お金という言葉に理太郎の体がピクっと音を立てて止まった。
「いくら?」
「え、えっと……ゴ」
「五万円?それくらい出してくれんだったら、やってもいいぜ!」
リーユーシェンは理太郎の気の変わりように驚いた。
しかし、ここで変にリアクションして、理太郎の機嫌を損ねたくないので、ぐっと堪える。こういうのは得意だった。
理太郎はニヤニヤした顔で言う。
「あと、オプション追加で」
「オプション?」
「俺がお前の二胡の伴奏やる代わりに、お前が俺に二胡教える」
「イイデスヨ!」
リーユーシェンがほっとしたように笑った。
正直、今は、二胡を弾くより、教えるほうが何十倍もできそうだった。
理太郎が、子どものように笑った。
「んじゃ、交渉成立だな!李子軒(リーユーシェン)」
綺麗な発音だった。
日本では名字だけで「リーさん」と呼ばれるときが多い。
中国では苗字で呼び合うことはほとんどないので、最初は違和感があったものの、慣れつつあった。
自分の名前を中国語の発音で、しかも、本物の発音に近い発音。
それで、下の名前まで呼ばれたのは、本当に久々だった。
「理太郎サン」
「理太郎でいいよ。長くて言いづらいだろ」
「ハイ!」
ハイと気持ちよく返事したわりに、少し頬赤らめて、視線を反らした。
「……中国では、下の名前、呼び捨てハ、夫婦か恋人だけデス」
「わかってるわ!日本では違うんだから別にいいだろ!意識すんなよな」
なぜか、理太郎まで少し顔が赤くなっていた。
部屋をノックする音と共に、次に部屋を使う学生が来てしまった。
理太郎たちはその足でさっそく、別の小さな練習室へと向かった。
今度はそれぞれの二胡を持って。
練習室にまた二胡の音が響いていた。
理太郎が弾いている横で、リーユーシェンがイスに座り見ていた。
正直、誰にも習わず、数ヶ月でここまで二胡を上達させたことに驚く。
ピアノやバイオリンをやってきたため、楽器を演奏することには慣れてはいるはずだが、西洋の楽器とは、扱いが少し違うはずだ。
ところどころ拙さはあるものの、楽器をまるで自分の体の一部のように、一体となって音を奏でている。
リーユーシェン腕を出し、理太郎の動きを止めた。
「ん?」
「まずは棹(さお)、モチカタ」
リーユーシェンは自分の二胡を膝にのせ直し、左手を開いた。
「ココ、親指の付け根、しっかり当テル。付け根、手前側、回り込むヨニ」
「あぁ」
「弦、押さえカタ、指先で押さえるジャナク、第二関節から押さえ行く意識デ」
「はい」
さっきのピアノのレッスンとは比べものにならないほどしっかりした返事が返ってきた。
目付きもしっかりしている。
学びたいという意欲がひしひしと感じられ、こっち側が少したじろぎそうなくらいだ。
リーユーシェンは立ち上がり、理太郎の二胡に手を伸ばした。
弦を押さえると顔をしかめる。
「弦、強く張りすぎデハ?」
「そうか?」
「こんなニ力入れル?」
二胡の上にある糸巻きを数ミリ緩めた。
リーユーシェンは自分で押し、確かめると、理太郎に返した。
それを理太郎は押してみるが、気にくわなかったらしく、数センチ締め直した。
「うん。やっぱこんなもんかなー」
「あと、姿勢。理太郎、前のめりになりすぎでデス。もっと、胸を張ッテ。肩から右腕、動かしテ」
「ん」
理太郎が見つめる先には譜面台があり西洋風の楽譜が置いてあった。
誰もが楽譜と言われ想像するのは、五線譜に音符が並んで、cresc.(クレシェンド)やAndante(アンダンテ)などイタリア語がかいてあるあれだ。
しかし、二胡には二胡用の、全く異なる様式の楽譜がある。
それは、1、2、3、4、5と数字が横に並べらんだものだ。
数字は、弦を押さえるポジション、つまり、音の高さを表している。
そして、音の長さを表すのは、―(横棒)だ。
全音符なら、数字の隣に横棒3つ。
十六分音符なら、数字4つの下に横棒が二本。
ただ、長年ピアノをやってきた理太郎にとっては、五線譜の楽譜が読みやすかった。
それも、もともと耳がいいので、楽譜で一つ一つを音を追うというより、聞いて覚えたのを確認している程度だった。
リーユーシェンが楽譜を指さす。
「デハ、ココから弾いてクダサイ」
リーユーシェンの指導におもしろいほどに、理太郎は従い、すぐに自分のものにしていった。
理太郎の手が止まった。
「ドウシマシタ?」
「時間」
理太郎が時計を見ると、予め約束していた時間を3分過ぎていた。
「次、お前の練習時間」
「あ、ソウデシタ……」
リーユーシェンはポリポリと頭をかき、椅子から立ち上がった。
理太郎は自分の二胡を手入れし、ケースにしまう。
鞄から楽譜を出し、ピアノの譜面台に立てた。
オーディション用にリーユーシェンが選んだ曲だ。
イスに座り、高さを調節し、また座る。
肩慣らしのように、力を入れず、冒頭を弾き出した。
「あ?何してんだよ」
リーユーシェンは、二胡を持ったまま、突っ立っていた。
「チューニングしねーの?」
「あ、の……実は……練習しようとしたデスケド、できなくて……」
理太郎は手を休めず、適当に弾きながら、リーユーシェンの話を聞いていた。
「今日もできるか……」
やっと、手を止めた。
「弾けなかったら、弾けないでいいからよ」
「ハイ」
リーユーシェンは、イスに座った。
二胡の上のほうに、チューナーを挟み、チューニングする。
その様子を理太郎はピアノを弾きながら、チラリと見た。
リーユーシェンの二胡の糸巻きのあたりには龍の彫刻が施されている。
胴には二胡を作った人のサインや彫刻が見えた。
小さい楽器なので、それ以外はあまり目立ったところは見えないが、
きっと高級品だ。
自分の二胡なんかとは、音色は相当違うんだろう。
理太郎は密かに、リーユーシェンのお高い二胡と、それを鳴らす腕前に、どんな音が聞けるのかとわくわくしていた。
理太郎の二胡はTSUTAYAのバイトで貯めて買った50,000円の二胡だ。超がつくほどの安物。それでも、初心者の自分にはちょうどよかった。
若干、チューニングに手間取っているようだった。
チューニングとは音の高さを調節することだ。
演奏会でもない限り、ピアノは毎度毎度弾く前にチューニングはしないが、二胡は違った。
ちょっとしたことですぐ音程がズレる。
その間も流すように、理太郎はピアノを弾き続けた。
伴奏の楽譜は理太郎にとっては簡単なレベル。楽譜を見ながら、さらさら弾ける。それどころか、つまんねぇ伴奏だなとすら思う。
とりあえず、自分だけでの伴奏の練習は、いらなさそうだった。
あとはリーユーシェンの二胡と合わせる練習がどの程度必要かということだが……。
理太郎は椅子の上で硬直しているリーユーシェンを見た。
「終わったか?」
「ハイ」
「んじゃ、最初っから」
伴奏が先に入るので、理太郎が弾き始めた。
曲は『花好月圆』
花が美しく、月が丸いという意味で、夫婦の仲睦まじい様子を表している。
華やかで楽し気な曲で、リーユーシェンが得意な曲でもあった。
リーユーシェンの入るタイミングになる。
息を大きく吸い、左手で弦を抑え、右腕を動かした。
ギィ……と汚い音が鳴った。
なんで……。
左指は次の音に移り、今度は弓を引く。ギギギという不快な音が鳴った。
5小節ほど弾き進め、理太郎が手を止めて大きな声で笑った。
「あっはっはっはは!これはヤバイわ!」
「…………」
「二胡はじめてみましたのババアのレベル!」
「………………」
リーユーシェンは弓を持つ右手を膝にのせ、はぁーと大きくため息をついた。
歩いてきた理太郎に背中をどんっと叩かれる。
「力入りすぎなんだよ!」
「ワカッテル、けど、抜けないデス」
「じゃあ、いっぱい練習するしかねーな」
「力が入ると、練習ナラナイ」
こんなアドバイス、上級者のリーユーシェンに初心者の理太郎がする意味なんてなかった。
でも、思うように弾けないという意味は、ピアノを長年続けてきて、周りにも演奏家の多い理太郎にも何となくわかる。
「焦りすぎなんじゃねーの?」
リーユーシェンは二胡を抱き寄せ、ぽつりとつぶやいた。
「中国に彼女イル。会えなくてサビシイ言ってる。私もサビシイ」
「うん」
そっけない返事だったが、理太郎は楽譜に目をやるフリをしてちゃんと聞いていた。
「彼女ノ両親、挨拶シマシタ。音楽やってル知って、反対サレマシタ」
リーユーシェンの彼女は中国でも名だたる大企業の経営者だった。
一人娘の彼女は、それはそれは手厚く、お金をかけ、大切に育てられた。
彼女自身も、頭がよく、今では有名な大学に通っている。
将来的には、両親の経営する会社に、そう熱望されていた。
「彼女の両親に、何度も会いイキマシタ。でも、ダメ。音楽家なんて胡散臭いカラ」
「そうだな」
理太郎はふっと笑って素直に即答した。胡散臭いやつなんて、自分の両親をはじめ、ごまんと見てきた。
胡散臭い。変わり者。楽器を演奏するのに莫大なお金がかかるわりに、仕事があるかは別、将来は不安定。
それに、残念ながら自分も該当していると思い、自嘲してしまう。
「悩ミマシタ。二胡続けるか。諦めて、大学受け直して、フツーの人ナルカ。悩んでたら、二胡、弾けなくナッタ」
リーユーシェンは、あははっと力なく笑った。
「へぇ。そこまで悩むほど、彼女のこと好きなんだな」
「はい。大好きデス」
さっきまでの辛そうな顔から一転、とても幸せそうな顔で笑った。
頭の中は彼女のことでいっぱいになったらしい。
「理太郎は彼女イマスカ?」
「いない。1週間前にフられた」
「あら、傷心ですね。お気の毒様デス。どれくらい付き合ってたんですか?」
「んー、3か月?」
「……」
「ま、続いた方だな」
なぜかドヤ顔する理太郎。
この男の恋愛が上手くいかなさそうなのは、安易に想像できた。
理太郎は、イスから立つとぐーっと大きく背伸びをした。
「ま、俺も似たようなもんかもな」
練習室の窓から下を眺めれば、楽器を持ったたくさんの音大生が行き交っていた。
「音大のピアノ専攻に進んだものの、ピアニストになりたいわけじゃない。ピアノ専攻入って、半年で飽きたし。卒業したら、どうしたいとかないし。ぶっちゃけ、自分探し中って感じ?(笑)」
若干恥ずかしそうな表情を見せながらも、笑いかけられる。
なぜだか、ふっと体が軽くなった気がした。
「音楽に関わることはしてーんだけどなー」
理太郎は窓に手をつくと、腕を軽く伸ばした。チラリと時計を見る。
「もうちょい、やってみるか?」
その後、数十分、リーユーシェンは試みてみたものの、なかなかいい音は鳴らなかった。
理太郎のバイトの時間が迫ってきたため、二人は練習室を出た。
「あー!やっぱプロに直接指導受けると違うなぁー!」
理太郎はリーユーシェンにあれだけ事細かく指導を受けたのに、清々しい顔をしていた。
たった1時間の練習で、見違えるほどよい音色を出せるようになっていた。
「ワタシ、プロじゃないデスヨ」
「金もらって、演奏できるレベルなんだろ?」
「ま、まぁ、したとこはアリマスガ……」
そんなことより、自分が全く弾けなかった事実がのしかかってくる。
この先、どういう練習をしたらいいのか検討がつかなかった。
「腹減ったな。飯食いに行くか」
「ハイ」
リーユーシェンは理太郎について階段を降りていく。
ご機嫌な横顔に、ふと話しかけた。
「ナンデ、二胡好きデスカ?」
理太郎の口元と目元が弛んだ。
愛おしそうな、まるで彼女を語るような顔で話しだした。
「気まぐれなとこ。音程とるのが難しいからな。本当に繊細で、ちょっとのことで、音色がかわって、くるって、振り回されるのがいい。上等じゃん。合わせてやろうって気になる」
「そういうの、ナンテ言うか知ってマス」
「ん?」
「ドM」
「ちげーよ!」
理太郎は顔を赤くさせ、軽くリーユーシェンを睨んだ。
二人は、他愛もない話をしながら、いつもの定食屋に向かった。
あれから、理太郎の一日の中に、リーユーシェンに二胡を教わる時間と、オーディションの曲を練習する時間というのができた。
二胡を教わるのが楽しく、本業の音大の授業が煩わしいとさえ思うくらいだった。
今日もまた、40代の女性講師にマンツーマンでじっくり指導を受けた。
レッスンの終わり際、ピアノの横に立った女性講師に、強い口調で言われた。
「福原くん、このコンクール、応募しとくんだよ」
封筒を差し出される。中には応募用紙やらコンクールの概要やらの紙が入っていた。
「コンクールっすか!?無理ですよ」
「みんな、無理だと思ってもコンクール応募して、猛練習するんだよ!練習しないで何言ってるの!?はい」
封筒を押し付けられ、虫でも掴むように、コンクールの応募用紙を手に取った。
それをまた、見学していたリーユーシェン。
女性講師が部屋を出るのを、苦笑いして見送った。
「くっそ、あのババア。めんどくせーことやらせよーとしやがって……」
いなくなった途端、理太郎は悪態をついた。
「いい人だと思うデスケドネ。ちょっと指導の仕方ガ……あはは」
「別に、一音一音、合ってなくてもよくねー?」
また、レッスン中に勝手にアレンジしたのを指摘されたらしい。
「理太郎は楽譜通りに弾かないですが、アレンジ、いいと思いますよ。合奏でなければ、問題ないですよね」
「だから、俺は伴奏や合奏は嫌なんだよ」
「指揮者をやればいいじゃないですか。みんなが自分に従ってくれますよ」
「んな、難しいこと俺ができるかよ」
「そうですか?耳もいいですし、曲をこう弾きたいとかイメージが強いし、指揮者向きだと思いますよ」
「…………」
返事が返って来ないなぁと不審に思い、顔を覗きこむと、小さく笑っていた。
実は嬉しかったらしい。
指揮者は演奏の要でもある難しいポジションだった。
それができそうなんて言われて嬉しくないわけがない。
「ま、おしゃべりこんくらいにして、指導お願いします。せんせー」
「はい」
二人は二胡を出し、お互い向き合って座った。
たった30分のスキマ時間だったが、理太郎にとっては貴重で充実した時間だった。
あっという間に30分が経つと、リーユーシェンは申し訳なさそうに鞄を取った。
「すみません。私、講義があるので、今日はこれで」
「おう。サンキュー。俺はもうちょい弾いてく」
理太郎は一人、その場に残り、二胡を弾き続けた。
でも、ここで弾き続けられるのは、時間の問題だった。
もしかしたら、次のレッスンで学生が来るかもしれない。
そう思っていた矢先、部屋のドアが開いた。
眼鏡をかけた冷たそうな印象の男子学生。
理太郎と同じピアノ専攻で、理太郎の数少ない友達だった。
表情一つ変えず、理太郎の目の前まで歩いてきた。
「あ、次、お前、この部屋使う?」
「ピアニストなのに、なんで二胡弾いてる?」
いつものようにポーカーフェイスで、真っ直ぐに見つめてくる。
「え、あー。なんか好きだから」
理太郎の左手を取ると、眺めた。
「指の皮が厚くなる。やめとけ」
理太郎は、掴まれていた手を振り払った。
「別にぃ。そんくらいいいけど。厚くなるほど弾かねーし」
「遊んでる暇あるのか?最近コンクールにも出てないらしいじゃないか」
この男は理太郎と違い、コンクールの入賞者の常連で、ピアノ専攻でもおそらくトップの実力を誇る男だった。
その性格はとにかく真面目で、常にピアノに向き合い、真摯に練習を重ねてきた堅物男だ。
理太郎は勢いよく立ちあがると、声を荒げた。
「ったく、どいつもこいつも、バカの一つ覚えみたいにコンクール、コンクール言いやがって!俺が、コンクールなんか出ても、なんの実績も作れねぇんだよ!」
「それは……」
「お前ら、天才とは違うんだよ!」
理太郎は乱暴な言葉遣いのわりには丁寧に二胡をケースにしまい、さっさと行ってしまった。
オーデイション当日。
大学内にある講堂でオーデイションは行われる。
様々な楽器を持った学生たちが、客席に座り、オーデイションが始まるのを待っていた。
ピアノなど、大きく、動かしづらい楽器は舞台上にすでに用意されていた。
音大生にとって、久村教授の演奏会に出られるというだけでも、名誉なことだ。しかし、学生たちにとって、一番の目的は、お客さんとして来る著名な演奏家、作曲家、番組プロデューサー、資産家などに自分を知ってもらうことだった。
「はぁー……」
リーユーシェンが浮かない顔で隣の理太郎に聞こえるように大きくため息を吐いた。
理太郎とオーディションの練習をしてきてから数日間、満足いく演奏はできなかった。
「ヤッパリ、辞退したほうがイイデスカネ?」
「…………」
「私ナンカガ、弾いてインでしょうか?」
「…………」
「理太郎」
「あ?」
理太郎がぼーっと見ていた先には、バイオリンを持った綺麗な女性が立っていた。キリっとした大きな瞳に、鼻筋の通ったかなりの美人だった。
「よくね?」
「ソーデスカ?」
「目立ちそうなのに、初めて見たな」
「あぁ、10月から来てる留学生ですよ。韓国人」
「なんだ、整形かよ」
理太郎は、とたんに顔を歪めた。
今度は小さな声で中国語が返ってきた。
「整形はなしですか?」
また中国語で返す。
「なしだろ」
「俺もなしです。胸もやってるんでしょうか?」
「やってるだろ。あれは」
「硬いんでしょうか?」
「どーなんだ?」
ただのオーディションだというのに、綺麗めなお高いワンピースを着ている。
体のラインが際立つデザインで、Eはありそうな胸と、くびれた腰、大きなお尻がエロかった。
「っで、なんで中国語なんだよ」
「え?」
アホな話をして、少し緊張が解れた。
「あっ」と声を上げると、思い出すように、リーユーシェンが鞄を漁りだした。
一枚の紙きれを理太郎に渡す。
「理太郎、プロフィールを書いて出しマス。あと、私の、日本語間違ってるところ、直してクダサイ」
「ほいよ」
理太郎は受け取ると、ペンを握った。
紙には、上のほうに、リーユーシェンの名前などが書かれている。
受賞歴欄には
『中国音楽国際コンクール 優勝』
『二胡国際コンクール 優勝』
『国際民族器楽比賽 金賞』
とたくさんの受賞歴が書かれていた。
その下の、コメント欄に
『日本が大好きです。日本で、たくさんの人を出会い、音楽を通し、仲良くなれたらいいと思います。』と書かれていた。
理太郎は、間違っている助詞の‘を’を‘に’直した。
それが、紙の上半分。
下半分には空欄の同じような項目のスペースがあった。
「ん?これ、俺も書くのか?」
「はい。伴奏者も書くそうです」
理太郎は雑な字で、自分の名前を書いていく。
経歴欄のところさしかかると、トントンとペン先の反対側で紙の上を叩いた。
必死に自分の経歴を思い出す。
『ピアノコンクール8位』と書いた。
開始時間遅れて、久村教授が入ってきた。
白髪のまじった頭と髭、丸メガネだが、目は鋭い。
久村が入ってきた瞬間、学生たちは姿勢を正し、空気がピリついた。
「はい。では、早速始めたいと思います。クジは引いているかな?」
講堂に入ったときに、ホワイトボードにクジを弾くようにと書いてあり、ティッシュの空き箱にクジが入っていた。
弾いた人から、ホワイトボードに、自分が何番か書いていく。
リーユーシェンたちの順番は最後だった。
「トップバッターの人」
「はい!」
威勢のいい声と共に、トランペットやトロンボーン、チューバなど金管楽器を持った学生が数人、ぞろぞろステージに上がった。
金管楽器のサークルの人たちだった。
楽しげなリズムで曲を演奏していく。
理太郎は、この曲いいじゃんと、笑顔で聞いていたが、隣のリーユーシェンはまた緊張した顔になり、他の学生の演奏など、頭に入っていないようだった。
次はは、理太郎が気にしていた綺麗な韓国人の女性がバイオリンを弾いた。
綺麗で、技術的にも素晴らしい演奏だったが、一本調子でイマイチつまんないなと理太郎は思った。
そして、この日の最後、リーユーシェンと理太郎の番になった。
「オネガイシマス」
舞台袖で、リーユーシェンが小さな声で理太郎にささやいた。
「おぅ」
短い返事が返ってくる。
そして、舞台に上がった。
理太郎はスタスタ歩くと、グランドピアノの譜面台にストンと楽譜を置いた。カチャカチャと椅子の高さを調整する。
小さいころから発表会なんて何度もやってきた。
いまさら、人前で演奏することに緊張なんてしない。
リーユーシェンは先ほど書いたプロフィールの紙を久村教授に提出すると、 大きくお辞儀をした。
今までの流れだと、舞台に上がったものは名前を名乗って、演奏を始めるのだが、リーユーシェンが緊張した顔をして固まっているので、久村教授が口を開いた。
「リ、えーっとユー、シェンくんかな?」
「ハイ!ヨロシクオネガイシマス!」
すでにピアノの椅子に座っていた理太郎がリーユーシェンに言った。
「イスは?別に使ってもいいんだぞ」
「あっ、はい……」
オロオロしていると、すでに弾き終わっていた女子学生がイスを一脚もってきてくれた。
アリガトウゴザイマスとぺこぺこお辞儀をする。
イスに座って、二胡を構えた。
その状態から弾けるのかというくらい固まっている。
伴奏者の理太郎を見ようともせず、どこを見てるのかわからないような、ある一点を睨み続けている。
「音は?」
「あっ……えっと……」
理太郎がピアノを優しくポーンと鳴らした。
リーユーシェンがそれに合わせ、二胡を鳴らした。
合ってるのか合ってないんかわからない。
理太郎を見ると、少し首を傾げ、小さく、人差し指を下に下げた。
適当にネジを回し、再度音を出すと、「いんじゃね?」という顔で理太郎が小さく頷いた。
リーユーシェンはもう一度、イスに座り直し、弓を構えた。
「いつでもどうぞ」
久村教授の声が聞こえた。
リーユーシェンは、はぁーと大きく息を吐くと、理太郎を見た。
理太郎が「いくぞ」と大きく頷いた。一呼吸置いた後、前奏が始まった。
いつものぶっきらぼうな様子からは想像もできない、優しい音楽が聞こえてきた。
リーユーシェンは不必要に二胡を握り直した。手が震えた。
集中できないどころか、呼吸が整わない。
出だし、入る前、呼吸のタイミング、力の入れ食い、わからない。
ギィと不快な音が鳴った。
それでもなんとか、右腕を押し、左指を動かし、今度は右腕を引いた。
違う。こんなの俺の音じゃない。
苦しい。
息ができない。
手が汗ばんでく。
身体が思うように動かない。
その様子に、久村教授をはじめ、客席で見ていた他の学生が不安そうな顔で、見つめていた。
ギィとまた不快な音が鳴る。弦が、弓が切れそうだ。
リーユーシェンは耐えられず、手を止めてしまった。
「不要停下来(やめるな!!)」
理太郎の声が聞こえた。
驚いて顔を見ると、にっと小さく笑った。
突然、ピアノの音が大きくなり、メロディラインを弾き始めた。
もともとの明るい、中華風の雰囲気を残しつつ、低音から高音まで幅広く手が動き、鍵盤の上を踊る。
あ、このアレンジ、いいな。とういか、もう、違う曲。
そう気づくと、リーユーシェンは肩の力がだんだん抜けて行くのがわかった。
理太郎の軽やかで踊っているようなピアノの音色が続いた。
リーユーシェンは一度、弓を持った右手を膝の上に乗せ、聞き入った。
心が落ち着いていく。
体の無駄な力抜けた。
理太郎の方を見ると、笑いながら、嬉しそうに、演奏していた。
これが、誰のための、何のオーディションなのか、もはやわからない。
ピアノの演奏を楽しみ、音色を味わっている理太郎は舞台の上で輝き、客席にいる学生たちを惹きつけている。
理太郎がこっちを見た。
「もうすぐ出番だぞ」と言っている。
ちゃらんと高音が鳴ると、リーユーシェンは息を吸い、二胡を鳴らした。
今度は綺麗な音色だった。
理太郎が目を細めてこっちを見た。
さっきよりも、理太郎の伴奏がよく聞こえる。
弓が自然と動いた。
理太郎の伴奏は、まるで勾配のキツい山道を、今にも立ち止まりそうなリーユーシェンの手を弾き、引っ張って、無理矢理歩いて、山を登っていく。
苦しいけど、今にも立ち止まりそうだけど、それでも、歩いてる。
もう限界と思ったとき、ピアノの音が強くなった。
ほんの数小節、響くピアノの音。
リーユーシェンは、はぁっと、息を吐く。
自然と、新鮮な空気が吸えた。
汗だくだった。
そしてまた、リーユーシェンの二胡が入る。
理太郎と一緒に、腕が大きく動く。
チラっと理太郎の顔を見た。
嬉しそうに笑った顔と目が合った。
「もっと行くぞ」そう言われた気がした。
はっはっと浅い呼吸をしながら、必死に腕、手、指、全身を動かす。
こんなフルマラソンみたいな演奏初めてだ。
でも、もう、長くはもたないデス、理太郎。
同時にフィニッシュを決める。
リーユーシェンは弓を持った手を右ひざの上に置いた。はぁーと息を吐き、やっと客席を見ようとした瞬間。
「あははっ!サイコー!」
後ろから理太郎の声が響いた。お腹を抱え、笑うと、嬉しそうにリーユーシェンのところまで歩いた。
大きな身振りで拍手している。それにつられるように、客席からも拍手が沸き起こった。
リーユーシェンははぁ、はぁと浅い呼吸をしながら、椅子に座ったまま、理太郎を見上げた。
どん!と背中を叩かれる。
「リーユーシェン!サイコー!」
「ぇへへっ」
声を出して、笑ってしまった。
客席の女子学生が数人、顔を見合せ、小さな声で感想を言い合っている。
「すごくない?」
「福原くん、なんかかっこよかった!」
「ねー!」
審査員である久村教授ただ一人が、難しい顔をして、机に肘をついていた。
「呼ばれてないグループは、不合格です」
「なんでだよ」
オーディションが終わり、その場で久村教授は、口頭で合格したグループ、個人を発表していった。
理太郎とリーユーシェンはそこには含まれておらず、理太郎はその場で文句を口にした。
あんなに客席は盛り上がっていたのに。
目の前には、合格した綺麗な韓国人のバイオリニストが済ました顔で立っていた。
合格したものに、リハーサル等などについて詳細を配った紙を配布し、解散となった。
久村教授が講堂を去り際、理太郎たちの横を通るとき、声をかけた。
とくに愛想よく笑うでもなく、淡々とした語り口だった。
「福原くん、リーくん、演奏はよかったよ。まさしく、演奏家の息づかいが聞こえるような演奏だった。けど、今回はそういう演奏会じゃないから。もっと余裕をもって演奏して欲しいんだよ」
「あ、ハイ、参加させてもらって、アリガトウゴザイマシタ!」
ぺこっとお辞儀をするリーユーシェンの隣で、理太郎は不満気な顔のままだった。
「あぁ、あと、伴奏のピアノのほうが目立ってなかったか?」
「……まぁ、そうでしたね」
理太郎は反論できないのか小さくつぶやいた。
「福原くん、君はもうちょっと丁寧に演奏するということも覚えなさい」
それだけ言うと、久村教授はスタスタと言ってしまった。
姿が見えなくなると、理太郎はぼやいた。
「くっそぉー、あのハゲ。偉そうに言いやがって」
「でも、よかったでデス。理太郎に、引っ張られてだけど、弾けました!」
リーユーシェンの顔を見ると、清々しい、さわやかな顔をしていた。
本当に気持ち良さそうだ。
「理太郎!ありがとう!」
「お、おぅ……。ただ弾いてやっただけだけどな」
「打ち上げ行きましょう!私の奢りです!」
「行く!」
オーディションが終わっても、理太郎はリーユーシェンに二胡を教えてもらっていた。
10月も後半になり、日当たりのいいところの街路樹がだんだんと紅葉してきた。
日中の気温もさほど上がらず、過ごしやすい季節になった。
理太郎はなんとなく、散歩のように、いつもと違う道をゆっくり歩いた。
「いい天気デスねぇ」
リーユーシェンもそれに着いていく。
5分ほど歩くと、広葉樹がたくさんおいしげる大きな公園に着いた。
理太郎はこの公園が好きだった。
住宅街やビル群からは離れ、かといって、町から隔離されているような雰囲気はなく、人々の生きる気配も感じる。
木々のざわめき、鳥の鳴き声、子どもの笑い声、この公園があるから生まれる音が心地よかった。
「綺麗デスネー。街の中に、こんな自然がイッパイ」
「いいだろ?ここ」
理太郎はベンチに座った。リーユーシェンも隣に座る。
「あーぁ、今日までに哲学のレポートやんなきゃなんねー。めんどくせー」
「まだやってなかったんですね」
少し呆れた顔でリーユーシェンは言った。
提出日は確か明日のはずだった。
「理太郎、今週末の日曜日暇デスカ?」
「日曜?5時までバイトだな」
「ちょうどいいです!6時から留学生たちで、ジャパニーズ・ハロウィンパーティーするんですガ、理太郎も来ませんか?ウクライナとか、アフリカの子とか、来ます」
「ふーん。まー、暇だから行ってもいいかなー」
「場所、LINEしときます!」
リーユーシェンがスマートフォンを手に取って、操作を始めた。
理太郎はベンチの背にもたれ、ぼーっと公園を眺めていた。
目線の先には、子どもが3人、落ち葉を踏み鳴らしたり、上から舞い落としてキャッキャッと声を上げ、喜んでいる。
それを聞いてるだけで、なんだか心地いい。
人が生きている音というのは嫌いじゃない。
「あれから、二胡弾いてないのか?」
「……はい。毎日、手には取るんですけど……」
「よっぽど、彼女のこと好きなんだな」
理太郎にはわからない感情だった。
それほどまでに、誰かを好きになったり、思い詰めたことなんてなかった。
理太郎はおもむろに二胡をケースから取り出した。
軽くチューニングを済ませると、一曲、軽く弾き始めた。
それをリーユーシェンは、心地よさそうに聞いていた。
自分の膝の上に乗せた二胡のケースを撫でる。
「出して」と言われた気がして、静かにケースから出した。
嬉しそうな二胡はすんなりと自分の手に、体になじんだ。
理太郎の出す長音に合わせて、自分も腕を弾いてみた。
数音ズラし、音を鳴らした音は、理太郎の出す音と混じり合い、綺麗な和音になり、響いた。
こんなに綺麗な音、泣きなくなる。
「おおっ、いいじゃん。やっぱ、二胡のハモりって、綺麗だな」
「でも、ピタっとハモるように、音程合わせるの、難しいですね」
「それなんだよなー」
二胡は音程を安定させにくい楽器だった。
一人で弾いていれば、目立たないちょっとした狂いが、二胡が二つになると不協和音になるのはよくある話だった。
しかし、理太郎とリーユーシェンの音に、それはなかった。
ただ、長音を適当に伸ばしていただけだったが、自然とメロディーになっていった。
リーユーシェンも着いていく。
理太郎が笑って、リーユーシェンも笑い返した。
なんとなくならした音、リズム。
二胡は不思議な楽器だった。
人の歌う声に聞こえることもあれば、馬の鳴き声、鳥の鳴き声に似てるときもある。
ふざけて、弓で弦を擦るように、キュインと音を鳴らす。
キュインと、リーユーシェンも真似してきた。
キュ、キュと鳴らすとキュゥ、キュゥとちょっと違う鳴き声が返ってくる。
あ、これって、この曲のこのフレーズ……
そう思うより先に、手が動いていた。
『空山鳥語』
中国の広い、高い山々を、我が物顔で自由に鳥が飛びまわり、さえずる光景が目に浮かんだ。
キュッ、キューウという鳴き声が次第にメロディーになり、曲を作っていく。
理太郎とリーユーシェンの動きもシンクロしていく。
最後にキュインと高い声で鳴き、二人は動きを止めた。
「中国の山の鳥はこんな鳴き声なのか?」
「私、都会育ちだから、知りません」
「あー、北京ダック食いてーなぁー」
「ほら、あそこに鳩いますよ」
「あ?あんなの不味いだろ。ニワトリじゃねーと」
「彼女なら、捕まえてます」
目の前の鳩がパタパタと飛び立っていった。
その奥で、女子大生らしき子が二人、立ち止まって、こちらを見ているのが見えた。
一人は吉岡里帆似でかわいい顔だった。深い紅色のスカートが、紅葉した木々と相まってよく似合っていた。
手にタピオカミルクティーを持っている。
もう1人の女の子は、キリっとした瞳の色白美人な子だった。
理太郎とリーユーシェンと目が合うと、パチパチと拍手を送ってくれた。
「すごーい!」
「ねー!」
顔が好みだった、聞いてくれたのが嬉しかったのか、理太郎は柄にもなく、笑顔で女の子たちを手招きをした。
「もっとこっち、来ていいよ」
女の子たちは、そろそろと目の前まできた。
理太郎の猫かぶった様子に、リーユーシェンは若干、冷たい視線を送った。
なんだ、そんなしゃべり方もできるですね。
「何か弾いて欲しいのある?」
理太郎の問いに、女の子たちはお互い顔を見合せ、言っていいよとお互い譲り合った。
それでも、何も言わず、困ったように笑いながら、吉岡里帆似の子が申し訳なさそうに言った。
「その楽器の曲、よくわからなくて……」
「二胡っているんだよ。中国の楽器。別に二胡の曲じゃなくても弾けるよ」
それでもすぐに思いつかないのか、二人は困った顔で笑っているだけだった。
「んじゃ、これ」
理太郎は、また二胡を構えて弾き始めた。
今度は軽く、アップテンポで踊るようなメロディー。
「あ!知ってる!」
「パプリカ!」
米津玄師作曲。来年控える2020年東京五輪の応援ソングだ。
売れっ子のミュージシャンが作曲したこともあり、今の若い子なら、誰でも知っている。
女の子たちも曲に合わせて、体を揺らした。
理太郎が立ち上がった。
全身を使って演奏する。
腰が揺れ、手首、腕がなめらかにしなる。
弦を押さえる左指の細かな動き。
小さく微笑みながら、酔いしれた演奏に、色気すら感じる。
だけど、どこか優しい音。
二胡とイチャイチャしているようだった。
それほどまでに、二胡を楽しむ姿に、リーユーシェンは目が離せずにいた。
この曲は、リーユーシェンも知っている。
来年の五輪を盛り上げるため、日本のいたるところで流れている。
従来の応援ソングのような、派手さや壮大さとは違った、少しノスタルジックな曲。
子どもの頃、遊び場を提供してくれた山や川、草や木、虫や動物を思い出すような曲だった。
理太郎による二胡の演奏で、改めてメロディーラインの美しさに気づいた。
歌詞の『心遊ばせ あなたにとどけ』という部分、サビの終わりのフレーズを優しく弾き終わる。
女の子たちがパチパチと拍手を贈る。
満足気に笑うと、理太郎は、1つ、大きく息を吸い、今までの勢いのまま、2番を弾き始めた。
1番とは、ところどころ音が違い、これもまたいいなと聞き入る。
リーユーシェンは気がついたら、二胡を構えていた。
この曲は弾いたこともないし、理太郎が楽譜を見ているのも、見たことない。
たぶん、楽譜を買ったわけでもなく、持ち前の耳の良さと、作曲センスで弾いているんだろう。
リーユーシェンはスッと息を吸い、弓を弾いた。
Bメロに入るところが、綺麗にハモった。
理太郎が少し驚いたような顔で、リーユーシェンを見た。
意表をつけたのが嬉しくて、もっと弓が動く。
ハモらせ、ときに、違うメロディー。
あくまで理太郎を引き立たせる演奏に、
理太郎がリーユーシェンのほうを見て、おー、いいじゃんという表情を見せる。
それが嬉しくて、手が止まらなくなる。
遠くで、犬の散歩をしていたおじいちゃんが立ち止まっていた。
落ち葉で遊んでいた子どもが、音に気付いたのか、パプリカをあどけなく踊り出した。
ものすごく、平和な光景に思わず、笑みがこぼれる。
最後、理太郎がフィニッシュを決める。
「わぁー!」という女の子たちの歓声と拍手が鳴った。
理太郎は、その反応にへへっと嬉しそうに笑った。
「なんだ、弾けんじゃん」
理太郎は小さな声で呟きながら、リーユーシェンを肘で小突いた。
「二胡って、いい音だねー」
「癒されるー」
女の子二人は顔を見合せ、口々に感想を言い合った。
その後ろに、犬の散歩途中だったおじいちゃんも拍手を送ってくれていた。
理太郎とリーユーシェンは軽く会釈を返す。
「もっと弾いてー!」
「うん!弾いて弾いて」
「んーじゃあ……」
理太郎が軽く二胡を動かした。速いテンポで弾いたサビを聞いて、リーユーシェンはうなすく。
「あ、ガッキーですよね?」
ガッキーは曲名でもドラマのタイトルでもないが、ドラマの主人公の新垣結衣のことだ。
中国でもものすごい人気らしい。
「うん、それ。じゃ、いくぞ」
二人で同時に息を吸い、特徴的な前奏を弾き始めた。
星野源作曲の『恋』
大ヒットしたドラマ『逃げるは恥だが役に立つ』通称『逃げ恥』のエンディング曲だ。
女の子二人はまた楽しそうに、体を揺らしだした。
遠くのベンチで日向ぼっこしてたおばあちゃんが、ニコニコとこちらを見ている。
歩きながら、言い争いをしてた作業着を着た男性と、中年の男性が、口を動かすのをやめ、二胡の鳴るほうを見た。
外回りで疲れ果て、うなだれていたサラリーマンが顔を上げ、聞いている。
子どもたちが今度はガッキーの恋ダンスを真似て踊り出した。
その後ろでお母さんたちが、楽しそうに笑っている。
そうして、いつの間にか理太郎とリーユーシェンの周りには十数人の人だかりができた。
近くのマンションの一室で、車椅子に乗った初老の男性が、音色に耳を傾けていた。
「近くで、演奏しているのか?」
妻らしき女性が窓のところまで歩き、公園を覗いた。
「隣の公園で男の子が二人弾いてるよ」
「いい音色だな」
「そうだねぇ」
車椅子の男性と女性は、二人で窓際から二胡の音色を聞き入った。
男性がふと、妻を見上げた。
「母さんには手間をかけさせるが、よかったら、一緒に聞きに行かないか?」
「めずらしいじゃない。外に出たいなんて」
妻は嬉しそうに車椅子を押し始めた。
曲が終わり、また拍手が巻き起こる。
アップテンポの曲が終わり、理太郎の額はうっすら汗をかいていた。
でも、それが心地よかった。
理太郎たちは拍手を送ってくれる人たちに、順々に、軽く会釈をした。
理太郎はリーユーシェンをチラリと見ると、小さく下唇を噛んだ。
憎いほど、リーユーシェンの演奏が上手かった。
のびやかな長音はいつまでも響き、跳ねる音はかろやかに。
すべてが申し分ない演奏だった。
コンクールで優勝した経歴も、本気で二胡をやっていたことも、二胡が大好きなことも嘘じゃない。
お客さんの次は何が聞けるのかという期待した顔を見ると、理太郎はベンチに座った。
立ったままのリーユーシェンの背中をどーんと叩いた。
「次、こいつのソロ!」
「ソロ!?」
ソロと言われ、一人で立つ体に、ピリッと力が入った。
けれど、周りで聞いてくれていた人はみな、笑顔で待ってくれている。
「そうだな。ジブリとかどうだ?千と千尋の、あの日の川」
「はい。わかります」
車椅子の男性が近くまで辿り着き、止まったのを確認すると、顔を強ばらせながら、弓を構えた。
理太郎に勧めてくれた曲はよく知っている。
何度聞いたことだろうか。
作曲家の久石譲さんも大好きだ。
でも、今の自分に弾けるだろうか。
リーユーシェンは目を閉じ、すーっとゆっくり息を吐く。
そして、弓を動かした。
綺麗な音色が響いた。
寄り添ってくれるような、優しい音だ。
まるで呼吸するような二胡の音色。
速い曲とは違い、ゆったりとしたこの曲は、二胡独自の豊かな音の伸び、響きを存分に味わえる。
その音色に、まわりで見ていた人がみな、うっとりとした。
リーユーシェンのすぐ後ろで、、理太郎も曲に身を委ねていた。
目の前の二人の女の子は、目を閉じ、頭をメロディーに合わせて、ゆっくり動かしている。
映画『千と千尋の神隠し』の絵が浮かんでいるのだろうか。
リーユーシェンもこの映画は大好きだった。
小さい頃は家族とリビングで一緒に見た。
一人っ子の自分はいつも、お母さんとお父さんの真ん中。
大きくなったら、彼女と、ソファーにぴったり座り、体を寄せ合い、何度も見た。
いつも、優しい顔で自分に笑いかけてくれる彼女。
『千と千尋の神隠し』は、10歳の女の子、千尋が人間の住む世界とは別の世界に迷い込んでしまう話だ。
両親は豚にされ、新しく、千(せん)という名を名付けられ、神様たちが疲れを癒しにくる油屋(湯屋)で仕事をすることになる。
千尋だったころの記憶を忘れそうになったとき、ハクという男の子が千尋を連れ出した。
綺麗なつつじが咲く土手で、元気が出るようにと、まじないをかけたおにぎりを食べながら、辛いのを我慢していた千尋は、泣き出してしまう。
そんな千尋をハクは優しく慰め、励まし、背中を撫でていた。
ふいに目が滲んだ。
堪えるように遠くを見ると、おばあさんがそっと涙を拭っているのが見えた。
さっきまで、笑顔で体を動かしていた女の子たちも、切なそうな顔で、曲を聞き入っている。
自分の演奏を聴いてくれる人たちも同じ絵が頭に浮かんでいるのだろうか。自分と同じ絵が。
こんな風に、お客さんと気持ちを共有し、一緒に呼吸しているような演奏しているのは初めてだ。
リーユーシェンは引き終わると、ゆっくり弓を持つ右手を膝にのせ、顔を上げた。
お客さんと一緒にため息が漏れた。
「……はぁぁ…………」
目が合ったお客さんと笑い合ってしまった。
ぽつり、ぽつりとみんなが呟きながら、拍手を贈った。
「この曲好き」
「いいよねぇ」
「やばい、ちょっと泣いちゃったかも……」
「あははっ」
「はい、次!」
理太郎が、やや大きめの声で言った。
顔が笑っている。
「ねぇ!人生のメリーゴーランド弾いて。ハウルの」
マルチーズを連れていた一人のおばさんからリクエストがきた。
同じジブリの『ハウルの動く城』の曲だ。
「えっと……」
リーユーシェンはおばさんの言う曲がわからず、困った顔をしていると、理太郎が小さな声で歌った。いい声だった。
「あ、それですね」
リーユーシェンはまた、弓を構えた。
今度は、変な力なんて入ってない。
優雅で、楽し気なメロディーが始まった。
途中から理太郎も混ざる。
二胡という楽器も知らなかった女子大生
、散歩中だったおじいちゃんと柴犬、赤ちゃんを乗せたベビーカーとお母さん。
車椅子に乗った初老の男性とそれを押す奥さん。
様々な年齢、性別、格好をした人が、たまたま出会った音楽に足を止め、このひとときを楽しんだ。
やがて、空が夕焼け色に染まった。
理太郎はリーユーシェンはこの日、最後の曲を弾き終わった。
たくさんの温かい拍手が二人を包み込む。
理太郎とリーユーシェンは自然と顔を見合せ、笑い合った。
「楽しかったな!」
「はい!楽しかったデス!」
楽し気なサックス、クラリネット、誰かの歌声が部屋から聞こえてくる。
ジャパニーズハロウィンパーティーが催されていた。
欧米の人からしたら、絶対違和感あるハロウィンパーティーだが、もはや、コスプレして騒ぐというのを受け入れてしまっているらしい。
比較的大きなこの部屋は、留学生たちが集まって、情報交換などするサークルの部室だ。
すでにケンタッキーやら、ピザ、餃子、クッキー、ポテトチップスなどお菓子が並べられ、10人ほどの学生が騒いでいた。
友達の少ない理太郎は、このような雰囲気の集まりは新入生歓迎会以来だった。
見るからに外国人っぽいアフリカ系の人、ブロンドのスラブ系の女性、同じアジアっぽい顔の子もいる。
そして、みんな一様になにかのコスプレをしている。
なかなかカオスだった。
「リーリー!遅いよー!」
理太郎とリーユーシェンが来たことに気づいた小柄な女の子が走ってきた。
青いワンピースに、白いエプロン。白と黒のボーダーのニーハイ。頭には黒い大きなリボン。アリスのコスプレだ。
頭は金髪で、目にはイエローっぽいカラコンが入っている。
金髪、この甘い高い声、理太郎は大学内で何度か見かけたのを覚えている。
ハロウィンじゃなくても、年がら年中変なカッコしてる子だ。
「すみません。二胡弾いてたら、時間忘れてました」
リーユーシェンがあははと笑った。
他の学生たちがワラワラとリーユーシェンの周りに集まってきた。
「リーユーシェン!いぇーい!」
謎のテンションでぽっちゃりした金髪の女性がお酒の入った紙コップを持ちながら、ぶつかってきた。
こっちの金髪は偽物ではなく、本物のブロンドのようだ。
「この子がウワサの相方?」
「はい。理太郎です」
金髪の女性が理太郎を見上げると1回頷いた。
なんだろうと思っていると、リーユーシェンが、その場にいる人を紹介し始めた。
「ウクライナからの留学生のクラーラさんです。お酒強いです」
「どーもぉ」
機嫌のよさそうな顔で、お辞儀をする。
黒い魔女のコスプレをしているが、ワンピースの袖から見える腕はムチムチだった。
「私、ぷりんだよ。リーリーと同じ音楽ビジネス科!」
アリス姿の女の子がふわふわと笑った。
「ぷりんさんには、本当にお世話になってます。英語が得意で、銀行とか役所とか行くとき、案内してもらって、丁寧に通訳してもらったり……」
リーユーシェンが仏でも拝むように、手を合わせた。
「あははー。お安いご用だよー」
「さぁ、乾杯しましょー!なんか持って!」
クラーラは、理太郎とリーユーシェンにスパークリングワインの入った紙コップをぐいっと押し付けた。
酒くさい匂いがクラーラから香る。
「クラーラ、すでに飲んでんじゃん」
「だって待てないんだもん」
ぷりんも紙コップを手にした。
他の学生たちも、紙コップ片手に集まり、机の回りが輪になった。
「じゃあ、クラーラの誕生日を祝って乾杯しまーす!」
「え?今日そういうパーティーなの?」
「違うやん。俺の虫歯が完治したお祝いやん!」
長身のアフリカ系の男子学生だ。似非関西弁のような喋り口でなんかいろいろ違和感ある。
ルパンのコスプレをしており、細い、ズボンのピタッとした脚がアニメそっくりだ。
「今日はハロウィンパーティーでしょ?」
「ハロウィンのとき乾杯って何イイマスカ?」
「何?」
ぷりんが理太郎の顔を見上げる。
「さぁ?」
「もう、なんでもいいよ!」
「かんぱーい!」
「「「かんぱーい!」」」
グダグダな感じで、紙コップを持った手が一つに集まった。
それからは、ガヤガヤとおしゃべりが始まった。
そして、いつも何か楽器の音がする。
テーブルの隣では、アフリカのルパンがサックスを吹いていた。
それに合わせ、クラーラが踊っている。
このカオスな感じが、意識高くない系音大生らしかった。
意識高い演奏家なら、コンクールに向けて練習しているだろうし、そもそも、こんな二流音楽大学に来ないだろう。
「赤ワインもあるよ。飲むー?」
ぷりんが1000円以下だと思われる安いワインの瓶の口を理太郎に傾けてきた。
「サンキュー」
差し出した紙コップに、とくとくとワインが注がれる。
「えっと、名前なんだっけ?伊藤くん?」
「福原だよ。一文字もかすってねーじゃん」
「あははっ」
「理太郎でいいよ」
「うん。下の名前は憶えてるよ。リーリーがよく話してるから」
「リーリーって上野動物園のパンダだろ。お前こそ、本名はなんだんだよ」
「え?ぷりんって本名じゃないんですか!?」
リーユーシェンが驚いた顔をする。
「本名だとしたら、かなりDQNネームだぞ」
「私、知ってるよ!」
遠くで踊っているクラーラの声が響く。よく通る声で、大して大声を出しているわけでもないのに、このうるさい空間ではっきり聞こえる。
「矢嶋てつ……」
「はい!ピザ食べる人!」
ぷりんが大声を出してそれを遮った。
「てつこか。それはちょっとダザいな」
「記憶しなくていいよ!」
ぷりんは、紙ざらに様々な種類のピザを乗せ、理太郎とリーユーシェンに差し出した。
お腹が減っていた理太郎は、さっそく1ピース掴むと頬張った。
「理太郎たちって、公園で二胡演奏してるんでしょ?」
「ん、あぁ。まだ、数回だけだけど」
「おもしろそうだよね!今度聞きに行きたい!なんで公園で演奏してるの?」
「んー……気持ちいいから?歩いてる人を立ち止まらせると、よし来た!って思う」
リーユーシェンが横から口を挟んだ。
「理太郎は演奏見に来てくれる女の子狙ってるからです」
「なんだ。モテたくてやってんの?」
「ちげーよ……」
図星だったのか、否定する声が小さい。
「で、あの子とは、進展したんですか?」
「とりあえず、LINEはゲットできたぜ」
「よかったですね」
「今度、私も聞きに行っていい?」
「おー」
ふと、テーブルを挟んだ向かいに、ぽつんと一人でワインを飲んでる女性が目についた。
オーディションのときにいた、バイオリニストの韓国人女性だ。
知り合いが少ない留学生に気を遣い、こういう機会があれば、誘っていたのだろうか。
机の向かいといっても、机が大きいため、おじゃべりする距離ではない。
みんなが騒いだりしている中で、一人真顔で場を持て余している姿は、近づきづらさを感じる。
ぷりんは話が一区切りつくと、自分の紙コップを持って、韓国人女性のところへ行き、なにか話始めた。
彼女はやっと少し表情が崩れる。
途切れ途切れで聞こえる声は、英語のようだった。
しばらく話していると、韓国人の女性はケースからバイオリンを取り出した。
ぷりんもギターを持つと、その場から離れ、何か弾き始めた。
「ぷりんちゃん、優しいよね」
近くにいた冴えない男子学生がぽつりとつぶやいた。
理太郎はこの男と、同じところ見てたのかと気づき、少し恥ずかしくなる。
「まぁ、そうだな」
なんと返していいかわからず、適当に返事をした。
「福原くん、こないだ村田先生のレッスンでまた怒らせたんでしょ?楽譜無視するって」
「なんで知ってんの?」
「同じクラスの子がしゃべってたの聞いたから」
「え?じゃあ、お前もピアノ専攻?」
「そうだよ。知らないの?今まで講義一緒のこと何度もあったのに」
「…………」
覚えていないということは、大した演奏するやつではないのだろう。
もともと他人に興味がなく、さらに男となっては、覚えてなくても無理はなかった。
「俺、斎藤和樹」
「うん、やっぱり、知らないわ」
「はぁー。福岡のコンクールで、3次予選まで残ったって、ちょっと有名になったんだけどな」
福岡のコンクールって、そんなすごい規模のコンクールだっけ?
なんか、こいつめんどくせーな。
理太郎は、「ふーん」と適当に返事をし、楽器を演奏してるメンバーを眺めた。
バイオリンの韓国人、たしかにうまい。
音一つ一つキレがよく、弓さばきが綺麗だった。
あと、腰使いがエロい。
ぷりんのギターは普通かな。
韓国人女性は演奏が終わると、さっさと楽器をしまい、帰ってしまった。
また、テーブルに戻ってきたぷりんに、リーユーシェンが話しかけた。
「ぷりんさんは、原宿育ちなんですか?」
「実は違うんだよ~。瀬戸内海のね、ちっちゃい島育ちなんだ。中学校、同学年私しかいなかったし、全校生徒5人だよ」
「ヤベー、くそ田舎じゃん」
「一番近いマック、車と船で2時間かかるもん。東京来て、ホント感動した。すぐコンサート行けたり、こうやって楽器の演奏生で聞ける機会たくさんあって、ホント楽しい!」
ぷりんはどことなく遠くを見るように、話しだした。
「私はね、普段、演奏や楽器が身近じゃない人に、音楽に触れる機会を作ってあげたいの」
「ホントにぷりんちゃんは優しいわー」
踊り疲れたのか、フラフラやってきたクラーラがぷりんを横から抱きしめた。
「クラーラも優しいよ」
ぷりんがクラーラの頭を撫でる。
ふっと一瞬、暗い目をしたのをリーユーシェンが気がついた。
クラーラは自分から話しはじめた。
「私の父はね、仕事関係で病んじゃったの。苦しい、辛いが口癖で、一日中ずっと言ってたわ。けれど、音楽を聞いているときだけは、気持ちが楽になるのか、落ち着いた顔をしているのよ。私は、音楽を勉強して、もっとお父さんを癒してあげれるようになりたいって思ってここに来たの」
「優しい」
ぷりんがもう一度、クラーラの頭を撫でた。
そのままぎゅーっと抱きしめ合う。
「ポゥ!」
隣でアフリカのルパンのマイケルジャクソンの踊りが始まった。
その光景に、テーブルに座っていた一同はぷっと噴出した。
「あいつは、闇は抱えてなさそうだな」
ルパンの格好したアフリカ人が、タンバリン片手にマイケルジャクソンを踊る光景はかなり面白い。
写真撮っちゃおーとぷりんはスマートフォンを向けた。
「けにやーん!こっち!」
ケニア出身で関西弁しゃべるからけにやんらしい。
ぷりんがやにやんに手を振ると、踊りながら近づいてきた。
「やだー!近づいてこないでー!写真だから」
「なんやなんや~」
「じゃ、あたしが動画撮ったげる」
クラーラもスマートフォンを取り出すと、カメラを向ける。
ぷにぷにの腕が、どーんと理太郎に当たった。
「おい、ちょっと狭い」
「ごめんねぇ。デブだから」
開き直った雰囲気が、おばさん感があった。
「困ったわ~。日本に来て、ごはんおいしすぎて、こんなんなっちゃったわ」
「女の子はぷにぷにしてるほうがちょうどいいよ」
ぼそっとサイトーがつぶやいた。
ぷりんが聞き返した。
「じゃあ、サイトーはクラーラがタイプなの?」
「え!え?」
ダッダーン!とドラムの音が聞こえてきた。
負けじと、ぷりんがサイトーの顔に詰め寄る。
「実は?」
「実は……」
「ぶっちゃけ?」
「ぶっちゃけ……」
机の下で脚がドラムのリズムに合わせ、動いてしまっている。
タララ……とサックスが鳴り始める。
ジャズの名曲『sing sing sing』
「ぶっちゃけ……」
やにやんのサックスがさらに、曲を盛り立てていく。
サイトーは、答えを言わず、演奏者不在のアップライトピアノに走っていくと、弾き始めた。
「あ、逃げた」
「なんだ、あいつ」
「私もー」
クラーラはそのやり取りに気づいてなかったのか、演奏の中に加わり、歌い出した。
「Sing sing sing sing!Ev'rybody start to sing」
よく響く、綺麗な声だ。
リーユーシェンもクスリと笑うと、自分の二胡をケースから取り出し、音楽に合わせ始めた。
理太郎は視界にクラシックギターが置いてあるのが見えた。
なんかやたらキラキラと光って見える気がする。
「このギター誰のだ?」
「私の」
ぷりんが答えた。
「ちょっと貸してくれ」
「理太郎、ギターも弾けるの!?」
「お遊び程度ならな」
理太郎は右手でギター、左手で椅子を持つと、セッション集団の中に入っていった。
イスを置き、座る。足を組み、ギターを乗せた。
数小節、音楽の集団とともにリズムを取ると、ジャンと音を鳴らし、仲間に入っていった。
ぷりんがセッションしている様子と、余っている楽器をくるりと見渡した。
「じゃぁ、あたしは、これ」
部屋の片隅で半分埃をかぶりそうになっていた黒いケースを手に取った。
中は金属の鍵盤楽器、グロッケンだ。
ドラム、サックス、ピアノ、ギター、グロッケン、二胡、クラーラの歌声の不思議なセッションがヒートアップしていく。
歌っていたクラーラがチラリと理太郎を見た。
ソロをくれるらしい。
理太郎は軽く頷く。
クラーラの歌とサックスの音が消え、ドラムの目立ちにくいバスドラムの低い音と、静かなピアノだけになる。
理太郎のソロが始まった。
ジャランと鳴ったかと思うと、クールなメロディーが理太郎の手によって奏でられた。
自分ですらその音色に聞き惚れていると、横からリーユーシェンにソロを取られた。
最初、ムッとした表情を見せるも、すぐに、すげーこの曲でそう弾くんだと心奪われる。
今までよく聞いた、古典的なメロディーとは違い、ジャズの雰囲気が出ている。
そうこうしているうちに、サイトーのピアノのソロが始まった。
それもまた、ドラムにソロを奪われ、また全員が音を奏で出した。
最後、全員でフィニッシュを決めると、それぞれが叫び出す。
「やべ、クソ楽しー!」
「やばーい!!」
「いぇーい!」
「サイコー!」
「今の動画撮っとけばよかったぁ」
「あっはっは」
みんな顔を見合せ、笑い合う。
音楽が好きなもの同士、最高にテンションの上がった時間を共有できた。
「よし!次!もう一曲行こうぜ!」
部屋の中でまだ楽器が鳴り出し、演奏が始まった。
理太郎はまたいつもの公園で二胡を弾く用意をしていた。
でも、今日隣にいるのは、リーユーシェンだけではない。
ぷりんとクラーラがいた。
ぷりんの今日の服装は、顔より大きなピンクのリポン、ピンクのカラーコンタクトに、飴玉柄のパーカー、パープルのホワホワしたショートスカート、白と黒のボーダーのタイツを履いている。
「ね、理太郎、リーユーシェン!公園で二胡弾いてるとこ、YouTubeにアップしてもいい?」
「別にいいけど」
「いいですよ」
「ありがと!大阪にいる友達が聞きたいって。それに、理太郎たちの演奏、もっといろんな人たちに聞いて欲しいんだよね」
ウキウキと撮影する角度を考えていたぷりんのスマートフォンに映った理太郎の顔は、やや冷めた笑いをしていた。
「リーユーシェンはともかく、俺のレベルじゃ誰も見んだろ」
「そんなことないよー。公園で弾いてるってのがおもしろいの!もしかしたら、この先、広告費でお金稼げるかもよ~」
「マジか。それはやってくれ」
急にキリッとした顔になる。
常時お金がないため、小遣い程度でも、お金がもらえるなら、それに越したことはない。
クラーラは電池駆動のキーボードを用意した。
二胡の音量の邪魔にならないように、特にアンプなどは用意せず、キーボードから直接出る音を使う予定だ。
「今日は私が伴奏入れてあげる」
「サンキュー」「ありがとうございます」
演奏が始まると、瞬く間に人が集まってきた。
すでに、ここで定期的に演奏していることを知っているお客さんは、わざわざ帰り道にこの公園を通って帰ってくれたりしている。
営業の30代っぽいサラリーマンの人、柴犬連れたおじいちゃん、いつも仲良く散歩に来る老夫婦。
今日も、様々な人たちが同じ時間を、同じ音を共有し、笑顔で帰っていった。
演奏を終え、理太郎たちは近くのファミレスでご飯を食べた。
海鮮丼を頬張りながら、理太郎がしみじみと言った。
「やっぱ二胡以外に楽器入ると、雰囲気出ていいな」
「でしょ?」
クラーラは大盛の竜田揚げ定食と、フライドポテトを口に放り込みながら、満足気に笑った。
「クラーラさんは、ピアノも弾くんですか?」
リーユーシェンは海鮮あんかけ焼きそばだ。
「ちょろっとね。でも、声楽が専門なの。ジャズ系歌うほうが好きだけど」
しゃべりながらも、どんどん竜田揚げが消えていく。圧巻だった。
「ぷりんちゃん、早く食べないと冷めちゃうよ」
ぷりんは、頼んだサンドイッチをほとんどお皿に残したまま、スマートフォンをいじっていた。
ニコニコしながら、顔を上げると、目の前の理太郎とリーユーシェンと目が合った。
「なんだ?」
「さっきの演奏の動画、もう100回再生されてる。いろんなコメントと来てるよ♪」
ぷりんはスマートフォンを向かいに座る理太郎とリーユーシェンのほうに向けた。
コメント欄には
『二胡の音 良い響き』
『うちの近くでも演奏して欲しい!』
『生の演奏聞きたいー』
とたくさん寄せられていた。
「「おぉー」」と理太郎とリーユーシェンは声を出して喜んだ。
ぷりんは嬉しそうに、やっとサンドイッチを手に取った。
「今度はちゃんと、動画編集して投稿したいなー。曲名テロップ入れたり」
「もっと見ていいか?」
「いいよ」
理太郎は、ぷりんのキャンディーの形をした、無駄に幅のとるスマートフォンケースごと手にとった。
リーユーシェンも覗き込む。
動画投稿者のコメント欄には
『音大生が公園で二胡を演奏しました。
恋 2:05
パプリカ 5:23
テルーの子守唄 10:15』
と丁寧に演奏曲のリストとが書いてあった。
スクロールすると、たくさんの日本語のコメントの中に
『日本人の二胡楽しそうです』
といった外国人の覚えたての日本語のようなものや
『真的好听呀……』(本当に最高です……)
『Beautiful』(美しい)
など、さまざまな言語のコメントもあった。
見入る理太郎たちに、ぷりんが嬉しそうに声をかけた。
「どう?すごいでしょ?」
「……あぁ。すっげー。これ、みんなお前の知り合いじゃねーよな?」
「違うよ!人づてとかでどんどん、再生回数が伸びてんの。理太郎とリーユーシェンの実力だよ」
「すげーじゃん、俺ら」
「ですね」
理太郎とリーユーシェンが顔を見合わせ、笑った。
「ぷりんさん、曲名、中国語訳でも書いときたいんですけど」
「うん。すぐだよ」
ぷりんはリーユーシェンに中国語を教えてもらいながら、コメントを追加していく。
理太郎が、ん?とリーユーシェンを見た。
「中国って、YouTube見れるのか?」
「建前は規制されてますが、みんな規制掻い潜って見てますよ。YouTubeも、Facebookも」
「さすが中国人……」
「ねぇ、ピザ追加していい?みんな食べる?」
クラーラは、メニュー片手にサンドイッチを頬張った。
「あたしは大丈夫。お腹いっぱい」
「僕も大丈夫です」
理太郎は自分のスマートフォンで、ぷりんのアップした動画を再生した。
イヤホン越しに音楽が流れる。
今日初めて弾いた二胡の二重奏とクラーラの伴奏が勝手に頭に再生させた。
それに、箏や笛、トライアングルなど勝手に追加されてく。
「理太郎くんは?」
「え、あぁ……」
「食べる?」
「食べる」
「じゃー、3枚頼むね」
クラーラは「すいませーん」と店中に響き渡るような美声で店員を呼ぶと、注文をした。
理太郎はスマートフォンから顔を上げ、イヤホンを外し、ぷりんを呼んだ。
「ぷりん、明日は撮影しなくていいから、お前、ギター弾いてくれよ」
「ギター?」
「ギターの伴奏でも弾いてみたい」
「うん、わかった。持ってくね」
「ギターもおもしろそうですね」
リーユーシェンも好奇心に満ちた顔で笑った。
「あと、他にもいろいろ入れたい楽器あるんだよなー」
「じゃあ、けにやんとサイトーくんにも来てもらおう!」
今日は雨だった。
雨が降ったら、さすがに公園で演奏はできない。
理太郎たちは練習室を借りて、セッションしていた。
けにやんとサイトーもいる。
ぷりんも自分のギターを持ってきていた。
「ぷりん、これ」
理太郎はぷりんに手書きの楽譜を渡した。
「すごーい。書いてきてくれたの?」
「あぁ。哲学の講義の時間に」
「ありがと」
ぷりんは、理太郎たちほど、耳がいいわけでも、即興で演奏できるセンスがわるわけでもなかった。
いきなり、伴奏してくれと言われたらできなかったが、楽譜があれば、演奏できる。
「ちょ、ちょっと、一人で練習していい?」
「うん。別に金取って演奏してるわけじゃねーし、間違えてもいいし」
「でも、なるべくがんばる」
ぷりんはこそっと、ベンチのすみに座ると、楽譜を見ながら流れを確認していいった。
けにやんのオーボエ、サイトーのキーボード、ぷりんのギター、クラーラの歌声、理太郎とリーユーシェンの二胡。
不思議な組み合わせの合奏に、理太郎は夢中になった。
数十練習し、他のメンバーが一息ついている間、理太郎は五線譜に何か走り書きしていた。
「何書いてるの?」
クラーラがおにぎりを食べながら覗きこむ。
「ん、あぁ、ここで、ピアノが、こう入るといいなとか、他に入れたい楽器のメロディーとか……」
「へぇー。アレンジが勝手に頭に流れてくるのね。才能だわー。うらやましい」
「なにこれ。早くやってみたいです」
リーユーシェンも楽譜を覗いてきた。
一瞬でメロディーを覚えてしまったのか、すぐ離れ、二胡を弾き出した。
それを理太郎が見つめながら、音色を聞き入った。
「……なるほど」
そして、また楽譜を見つめたり、書き込んだりしていた。
「けにやん、ここ、こういう感じで……」
「合点承知の助!」
「サイトーは……」
「うん」
理太郎が細かく指示を出して行く。
不思議と誰も嫌な顔せず、理太郎の要求に従っていった。
何度も止めては弾き直し、メロディーやリズムをアレンジし、いい感じの演奏へと仕上がっていった。
「こーゆーの、初めてやったけど、なんか楽しいね!」
ぷりんが今日演奏していた動画を見ながら、嬉しそうな顔で言った。
「うん。早く、お客さんの前で披露してみたいわ」
「きっと、喜んでもらえますよ」
「それより、もう遅いけど、帰らなくて大丈夫?」
「ハッ!!」
クラーラが時計を見ると、20時だった。
「やだー。どおりでお腹すくわけね」
「帰ろうか」
「じゃあ、俺もー」
ぷりんとクラーラ、けにやんが帰り支度をはじめた。
サイトーは門限があるからと、一番最初に帰ってった。
「理太郎は?」
「んー、俺はもうちょっと、残ってく」
理太郎は、まだ楽譜を見つめながら、考え事をしていた。
「んじゃ、お先―」
「さいなら~」
ぷりんたちが帰っていくと、理太郎が「よし」と言いながら、ペンを置いた。
「キリがつきましたか?」
「あぁ。んでも、他にもやってみたい曲が次々に浮かぶから困る」
広い練習室に理太郎とリーユーシェン二人きりになった。
リーユーシェンが理太郎の書いた楽譜を眺めながら言った。
「あ、久々に二胡、レッスンしてあげましょうか?」
「あぁ、そういや。最近みてもらってないな」
「さっきの演奏聞いてて、言いたいことが山ほどあったんです」
「こっわっ……。オネガイシマス。せんせー」
二胡を教わって約1ヶ月。
やっぱり、独学より、誰かに直接教えてもらうほうが、はるかにわかりやすいし、自分でも上達したと思う。
力の入れ方、呼吸の仕方、体の使い方、自分では気づけないところを、指摘してもらい、正しい見本を見せられ、教わってきた。
みっちり1時間、リーユーシェンに指導してもらい、今日の練習は終了となった。
時刻は21時。
外は冷え込んでいた。
片付けをしていると、リーユーシェンがぬいぐるみのようなものを渡してきた。
「あの、理太郎、これ、あげます」
ポケットモンスターのキャラクター、ホワイトキュレムだった。
「彼女といろいろ探してみました」
デフォルメされ、やや間抜けな顔のホワイトキュレムに、理太郎はうなだれる。
「ちげーんだよ……。ゲーム内でゲットしたかったんだよ……」
「ですよね」
「しかもこれ、ホワイトキュレム。俺がゲットしそこねたのはブラックキュレム!」
「違いましたか?」
ホワイトキュレムはブラックキュレムの色違いだ。
理太郎、もう一度、ホワイトキュレムのぬいぐるみを見つめると、ふふっと笑った。
「ありがとな」
リーユーシェンは、いつもの優しい表情で言った。
「理太郎、一緒に中国行きませんか?」
「え?」
「11月22日、開校記念日で休みになり、22、23、24と連休になります」
「え、そーだっけ?」
「理太郎、二胡弾く素質あります!先生に師事しないなんてもったいないです!やっぱり、習わなければ、上達できない領域もあると思います!私の子どものころ習っていた先生、上海にいます。一緒に遊びに行きませんか?」
中国の上海まで飛行機で3時間半、時差は1時間。3日あれば、まぁ、行ける距離だった。
「うちの大学じゃ、二胡まともに教えられるやつなんていないんだよなぁ」
「だから、中国、一緒に行きましょう!」
理太郎は即答できなかった。
その日は、特に予定はない。バイトのシフトはこれから出す。まぁ、土日入らないというのはひんしゅくを買うだろうが、しょうがない。その分、夜入れば、店長や同僚の機嫌は取れると思う。
迷っているのはそこじゃなかった。
別に、中国に恐怖心があるわけじゃない。
二胡をもっと上手くなりたかった。
リーユーシェンと弾いてるだけでは物足りなくなってきた。
理太郎はポツリとつぶやくように言った。
「……そうだな。ちょっと、行ってみてーな」
「やった!行きましょう!彼女にも、音大友達にも、理太郎のこと紹介していです!」
リーユーシェンは目を輝かせながら、嬉しさを隠すことなく表現した。
「さっそく航空チケット取りましょう!」
リーユーシェンはすぐさまスマートフォンを手に取ると、操作を始めた。
「俺、木曜の講義休んで4連休にするわ」
「え!?」
「お前は?」
「え!?」
「木曜は、2限目に哲学が……」
「じゃあ、休んでよし!」
「えぇ!?」
理太郎は久々に千葉の実家に帰った。
実家といっても、高校3年間過ごしただけで、故郷や実家というよりも、親が住んでる家兼物置みたいな感覚だった。
ずっと、外国を渡り歩いていた両親が、定住したい、マイホームが欲しいと、中古のちっちゃな物件をローンを組んで購入したものだった。
ちなみに、稼ぎが多いわけではないので、ローンを組んでしまった今では、貧乏暮らしだ。
そのため、理太郎は学費と家賃、光熱費以外払ってもらっていない。
バイトができるから、どうにかしろということらしい。
最寄りの駅から歩き、すぐに静かな住宅街になった。
別におしゃれでもなんでもない外観の家からは、サックスの音が聞こえる。
父の雅之は三味線奏者だというのに、実はサックスが一番好きだった。
それを理太郎は思春期のころはウケる(笑)と散々心の中でバカにしていた。
にも関わらず、自分も似たような境遇になりそうで、笑ってしまう。
鍵で玄関を開ける。
「ただいまー」
小さな声でつぶやきながら、靴を脱ぐ。
玄関には、男物の草履しか転がっていないので、母は外出中のようだ。
そういえば、車もなかった。
理太郎のだす物音で、雅之に気配が伝わったのか、それ以上サックスの音が聞こえることはなかった。
玄関に上がり、リビングの扉を開けた。
「理太郎、久しぶりだな。来るなら連絡してくれればいいのに」
サックスの姿形はなく、不自然にリビング前に突っ立った雅之が出迎えた。
理太郎によく似た顔立ちで背が高かった。
前に会ったときより、頭が少し物足りなくなってる気がする。
「パスポート取りに来ただけだから」
「どこ行くんだ?」
「んー、………アジア」
父親は理太郎が中国が嫌いなこと知っている。コンクールでもないのに、行くなんて言いたくなかった。
冷蔵庫を開け、中に常備されている麦茶をごくっと飲んだ。
その後ろを雅之は着いていきながら、質問責めする。
「アジアのどこだ?」
「……いろいろ」
「東南アジアか?腹痛には気を付けろよ」
「あぁ」
「水道水飲むなよ」
キッチンのカウンターに使ったコップをそのままに、廊下を歩く。
雅之はまだ着いてくる。
「正露丸持ってったほうがいいぞ」
「ん」
「友達と行くのか?友達できたのか?」
まだ何か言っている。
理太郎は無視して階段を上がっていった。
自分の部屋は、子どものころ、練習していた楽譜や教科書、ゲーム器などが適当に片付いていた。
机の引き出しを開けると、中学高校時代の学生手帳など、実家近くの病院の診察券など重要そうなものが入っていた。
その中に、青い手帳があった。
表紙には、国章であり、皇室の紋章である十六一重表菊が印刷されている。
パスポートだ。
20歳以下は5年ごとに更新しなければならないので、6歳のときに作って以来、計3冊もある。
パスポートをパラパラめくると、オーストリア、アメリカ、オーストラリア、中国、ブラジル。
さまざまな国のスタンプが押されている。
理太郎は住む場所を転々とするのは嫌いじゃなかった。
様々な国の言語や生活音、音楽に触れるのは、それはそれでおもしろかった。
中国本土には小学校5年に行ったっきり、一度も行っていない。
必要なのは、最後に取得した16歳のパスポート一冊でいいのだが、なんとなく、今までのパスポートもまとめて手に入れると鞄に入れた。
このパスポートも、来年で更新しなければならない。
「おーい!理太郎ー!」
父親が1階から叫んでる。
理太郎はもうもう一度部屋をぐるりを見渡し、鞄を持って階段を降りていった。
「理太郎ー!」
「なんだよ。うっせーな。聞こえてるよ」
「じゃあ、返事しろよ」
雅之の手にはお寿司のデリバリーのチラシが握られていた。
「今日、寿司でも取るか?母さん遅いんだ」
「寿司?うん、食べる」
「お姉ちゃんも、今日帰ってくるって、言ってたし、寿にするか?うわ、高いなぁ」
「俺は、まぐろとサーモンと蟹が入ってればなんでもいい」
雅之はメニュー表を見ながら、一人ブツブツと呟いていた。
「音大どうだ?楽しいか?」
「あぁ。まぁ、それなりに」
「ピアノの先生はいい人いたか?」
「いや。価値観押し付けてくるババアが担当で最悪」
「あっはっはっ!ピアノばっかり飽きるだろ」
「うん」
「三味線は弾いてるか?」
独り暮らしを始めるとき、雅之がお古の三味線をくれたのを思い出した。
部屋の片隅に起きっぱなしだ。
父に習い、一応弾けることは弾ける。
「三味線、音量がちいせーし、長音も出せないし、つまんね」
「それが三味線なんだよ」
「うん。だから、三味線つまらん」
「なんだお前、もっぺん言ってみろ!」
「んだよ」
玄関がまた開く音がした。
小さな足音が聞こえたのち、リビングのドアが開く。
「ちょっと、何喧嘩してんの?外まで丸聞こえなんだけど」
「あ、お帰り、お姉ちゃん。理太郎が三味線は音が小さいって言うんだ」
「そんなことで喧嘩してたの?」
理太郎の3才年上の姉、里美だ。
音大を卒業し、ピアニストをしながら、子どもにピアノを教えている。
「理太郎も、どーせひどい言い方したんでしょ?」
「別に」
「三味線をバカにしやがって!」
「あーもー、うぜーな。帰る」
「ちょっと理太郎!」
姉に呼び止められるが、理太郎は無視し、鞄を持って出ていった。
「もー、なんなの」