午前10:00。
昨日あれだけ遅くまで練習していたにも関わらず、みんな時間通りに来てくれた。
「おはよう」
後ろから声をかけられ、振り替えるとヤンイーイーが、笑顔で理太郎を見上げた。
いつも薄化粧のイーイーが、今日は濃いめの化粧で、綺麗だった。
ボブの髪は、コテで巻き、左サイドだけ編み込み、赤いリボンがついていた。
理太郎が無言で見つめるので、ヤンイーイーは視線を反らし、苦笑いした。
「化粧、濃い、かな……?」
「ううん。いいと思う」
もっと気のきいたことを言えればよかったが、それ以上言えなかった。
「よかった。リュウシィンイーがやってくれたの」
「本当はもっと可愛い服着せたかったけど、時間がなくて」
リュウシィンイーが軽く残念そうな顔した。
「私は目立たなくていんだよぉ」
しゃべりながら、歩いて大学近くの、演奏候補地に向かった。
場所は昨日、リーダー達が考えて、確保しといてくれたらしい。
「ここ、どうかな?」
ついた場所は、公園へと続く広場のようなところだった。
自転車くらいは通りそうだが、近くは車が通りそうになく、安全そうだった。
「住宅や騒音気にするような建物ないから、大丈夫だよ」
「たまに、音大生も演奏してるし、問題ないと思う」
「ありがとな」
周りには広葉樹が等間隔で植えられ、少し離れたところでは太極拳をしている人がいる。
「緑がいっぱいでいいねー。一度、こんなとこで演奏してみたかったんだぁ」
女の子が辺りを眺め、嬉しそうに言った。
「ここなら、100人くらい集まれるんじゃない?」
「100人も来るか……?」
理太郎が思わず言ってしまった。
「来るよ。だって、君たちの演奏、凄かったから!」
リーダーが自信満々に言った。

演奏の予定は13:00から。
予定では1時間、演奏するつもりだ。
19:00には空港に戻らなければならない。
今日中に日本に戻り、翌日1限目の講義に出席しなければ、理太郎は卒業が危ぶまれるレベルで単位が足らなかった。
演奏が始まるまでの数時間、中国の友人たちは、エレクトーンの用意や、理太郎たちの椅子の用意。
カメラの位置を決めたり、Web配信の確認など雑用を全てやってくれた。
その間、理太郎もリーユーシェンは大学の練習室で、最後の練習をしていた。

そして、12:30過ぎ。
セッティングがほとんど終わった。
理太郎は椅子やエレクトーンが並んだ今日のステージを見た。
心臓は痛いくらい、鳴っている。
理太郎たちはその傍ら、木の影の目立たないたころで、通りすぎる通行人に背を向け、待機していた。
薄手のダウンを羽織り、リュウシィンイーが買ってきてくれた肉まんを食べ、自前の二胡のチューニングを丁寧に行った。
あとは、告知していた時間を待つだけだった。
「やべー、緊張してきた!」
理太郎は貧乏揺すりをしながら、時たま、通行人をチラチラ見た。
それを見て、リーユーシェンがぷっと噴出す。
「理太郎が緊張してるの初めて見ました」
「え?あ?そうかぁ?」
「適度な緊張感はいいことです」
理太郎とは対照的に、リーユーシェンは落ち着いていた。
ゆったりとした気分で、パフォーマンスが始まるまでの待ち時間を楽しんでいるようだった。
「理太郎のくせにチキンだなー、もう」
理太郎のスマホからぷりんの声が聞こえた。
隣に置いておいたスマートフォンを理太郎は手にとり、画面を見た。
Skypeのテレビ電話の前で、日本に残してきた友人たちが勢揃いしていた。
一目でわかる、後ろに見えるファンシーでカラフルな部屋の様子はぷりんの家だ。
画面の大きいパソコンを前に、みんなが待ち構えていた。
東京の狭い1Kの部屋に、ぷりんに、クラーラ、サイトー。
「あれ、けにやんは?」
「今お腹痛いって、トイレだよー。もうちょっと待ってあげて」
「あと10秒」
「え!?もうそんな時間!?」
「嘘」
「だよねっ」
あははっと声を出して笑う。少し気が紛れた。
画面の中から、ジャーとトイレの水を流す音と「イタ!」と言っているような叫び声が聞こえてきた。
東京のトイレはけにやんには狭すぎる。
理太郎はもう一度、行き交う通行人を眺めた。
聞こえてくる言語は、遠くて聞き取れず、それで何人(なにじん)かはわからないのに、なんとなく中国人とわかるのは、口を大きく開け、一生懸命しゃべる様子からだ。
日本人は、口が小さくギリギリ聞こえるくらいの声量で話す。
どっちがいいのかはわからない。
「はぁー……」
緊張なのか、またため息が漏れてしまった。
リーユーシェンが、声をかける。
「大丈夫です。あんなにたくさん準備したんですから。曲順もある程度決めましたが、臨機応変にいきましょう」
「……そうだな」
「理太郎」
「ん?」
「理太郎の二胡の音色、すごく柔らかくて、優しくなりましたね」
「……そうかも」
中国の友人たちが集まってきた。
円陣のように、体を寄せ会う。
「そろそろ時間だよ」
「何かあれば、いくらでもフォローするから」
「サンキュー。頼もしいやつら」
「さぁ、始めましょう」
「あぁ。んじゃ、行ってくる」
理太郎はスマートフォン越しにぷりんたちに話しかけた。
「これ、よろしくな」
Skypeを繋げたまま、リーダーにスマートフォンを預けた。
リーダーは笑顔で受けとると、演奏に向かう理太郎の後ろ姿を映した。
「理太郎!リーユーシェン!がんばって!」
スマートフォンから、ぷりんたちの声援が理太郎たちに届いた。
理太郎とリーユーシェンはダウンを脱ぐと、それぞれ二胡を手にとった。

ぷりんのパソコンの画面が、生中継の映像に切り替わった。
人がチラホラ移る広場が見えた。
比較的静かで、多少の人ざわめきが聞こえる。
その画面の中にリーユーシェンが入ってきた。
黒のスラックスに、龍や花など中華風の模様が光沢ではいり、襟まで詰まっている黒のジャケット。
普段の優しげな雰囲気とはまた違ったキリッとした雰囲気だった。
その後ろを歩く、理太郎は袴姿だった。わざわざ弓道をやっていた友人に借りた袴。
上は白、下は黒のシンプルな色使い。羽織はない。
弓道も、剣道もしたことないくせに、なかなか着こなしていた。
そして、頭にはフルフェイスのヘルメットをしている。
ぷりんたちが大爆笑した。
「ぷっ、理太郎、ウケる!」
「不審者丸出しなんだけどっ!」
演奏者らしき二人が出てきたことに、その辺に座り、おしゃべりしていた大学生があっと、視線を向けた。
太極拳をしているおばあさんたちも動きを止めた。
やはり、理太郎の格好に笑っている。
リーユーシェンはステージの真ん中まで来ると、立ち止まった。お客さん側で、ぽつんと目の前に立って、待っていたシィンイーと笑い合う。
ステージの中心には2脚の背もたれのないイスが置かれ、リーユーシェンと理太郎はそれぞれ、そこに座った。
エレクトーンはその後ろにセッティングされ、すでに、ヤンイーイーが座って待機していた。
ツァオニーが、低くした譜面台に、二人名前の書いたスケッチブックを立てた。
習字が得意だという、ツァオニーが書いてくれたのだ。
綺麗な字で、『福原 浩太郎』と書いてある。
福原は中国のプロ卓球で活躍していた福原愛さんと同じ苗字。
〇太郎は、日本の男の子の、定番の名前だ。
漢字を使う中国人なら、日本語で読めなくとも、字面で日本人だとわかるだろう。
その隣に、譜面台がもう一つ用意されていた。こちらは曲名を出す予定だ。
その理太郎たちを真っ正面撮影するのは、ipadのカメラだ。
ぷりんが用意してくれたもので、日本でも使っていたカメラ。
今日も生配信され、映像は日本や中国でも見ることができる。
もう一台、リーダーの手に理太郎のスマホのカメラが起動していた。
こっちはSkypeでぷりんたちのスマートフォンと繋がっている。
今は理太郎の横顔を間近で撮している。
リーダーはちょこちょこカメラの撮す場所を替え、リーユーシェンを撮したり、お客さんを撮したりしていた。
さっそく、興味津々な目で学生グループが集まってきた。
理太郎たちの前に陣取ると、騒ぎ出す。
「何が始まるの?」
「和服着てる」
「あ、あれ名前見て。日本人だよ」
「ホントだ」
「変なカッコ」
「強盗でもするのかな?(笑)」
「二胡演奏するんじゃない?」
スマートフォンを取り出し、変なカッコして二胡を持つ理太郎たちを撮りだした。
今回の演奏も、勝手に撮って、拡散してもらうことも期待しているので、誰も止めようとはしなかった。
遠くから、おばあちゃんとおじいちゃん3、4人が見ていた。
少し怪しみ、少し面白がっているような不思議な表情をしている。
理太郎とリーユーシェンが誰かを探すようにキョロキョロ当たりを見渡した。
「もうすぐ来ると思う」
リュウシィンイーが小さな声で言うと、すぐに小さな子どもの騒ぐ声が聞こえた。
「先生!早く!」
「こっちだよ!!」
5、6人の子どもたちの集団に混じり、白い髭が蓄えられた老人とぽっちゃりした婦人が現れた。
「リーユーシェン!」
「見に来たよ!」
子どもたちの声に、リーユーシェンは笑って手を振って応えた。
適当なところに陣取ると座り込む。
理太郎が軽く、先生たちにお辞儀をすると、先生は小さく笑い、頷き返してくれた。
無事着けたことにホッとし、わざわざ見に来てくれたことに、緊張していた心がまた和んだ。
理太郎とリーユーシェンが椅子に座り、二胡を膝に乗せ、弓を取った。
後ろを振り替えると、ヤンイーイーが大きくうなずいた。
ipadで理太郎たちを撮影している男の子は、親指を立て、準備OK!と合図をくれた。
理太郎はリーユーシェンを見た。
笑顔で大きくうなずいてくれた。
準備は整った。
理太郎はふーっと息をゆっくり吐くと、弓を弦に当てた。
二胡独自の、コクのある、妖艶な音が響いた。
周りでザワついていた観客が静まり返り、二胡の音色に耳を傾けた。
理太郎の二胡一本の音色が、多くの通行人を振り返えらせた。
曲は『シルクロード』
ユーラシア大陸の砂漠を、ラクダに乗り、中国の長安を目指す光景が目に浮かぶようなゆったりとした曲だ。
二胡もまた、そのシルクロードを歩み、ペルシャより伝えられたと言われている。
長安へ伝えられたものは、さらに海を渡り、日本へも伝えられた。
「おぉー」
「すげー」
「うまいじゃん」
目の前の学生たちがお互い顔を見合わせ、小さな声で騒ぎ出した。
通り過ぎようとしていた通行人がチラホラ、集まってきた。
理太郎は一音、一音をいつも以上に丁寧に、確かめるように弾いていく。
綺麗な、混じり気のない音が響く。
いい子だ。今日は絶好調だな。
動きが固いのはむしろ、自分のほう。
体の力を抜くよう意識しながら、腕を、指を動かした。
1フレーズ終わると、リーユーシェンが音を重ねてきた。
キーボードの伴奏も加わる。
リーユーシェンと顔を見合せる。
気持ちいいハーモニー。
いい感じだ。
40代くらいの女性が一人、理太郎の目の前に立ち止まった。
二胡の音色にうっとりと、耳を傾けている。
その後ろでは女子高生が二人立ち止まった。
瞬く間に、10人、20人とお客さんが増えていった。
理太郎はフルフェイスのマスク越しから、お客さんである中国人を見ていた。
おそらく、みんな理太郎という名前と、和服から日本人だと気づいている。
だれも、石なんて持ってない。
ニヤニヤと笑いながら、自分を指さすものもいない。
笑ってるけど、そういう笑いじゃない。
喜んでくれているような笑顔。
友達同士、夫婦同士、顔を見合わせ、演奏を楽しんでくれている。

最後の一音がだんだんと消えていくようにして、曲が終わった。
たくさんの拍手が鳴り響いた。
フルフェイスのマスク越しで、ミュートされた拍手の音しか聞こえなかった。
理太郎は二胡を置いた。
「理太郎?」
リーユーシェンが、振り向くと、理太郎がフルフェイスのマスクを外していた。
さっきよりも、大きな拍手が響いた。
よく聞こえる。よく見える。
ほっと息が漏れた。
自分が相当滑稽な姿だったことを、小さく笑って誤魔化した。
それをバレないように、深くお辞儀をした。また拍手が鳴る。
髪をさっと整え、理太郎はもう一度二胡を手に取った。
「やっぱ音聞こえねぇわ」
「ですよね」
ふふっと笑い合うと、二人はまた、二胡を構えた。

2曲目に選んだのは『揚州小調』
明るく、優雅な曲だ。
ときに、リーユーシェンと掛け合うように、メロディーを紡いでいく。
お客さんの脚をだいぶ止めることができた。
生配信を見ている人も増えたようだ。
自分たちも、体が温まった。

次は、2000年代に流行った女子十二楽坊の『自由』だ。
本来、笛、琴、揚琴(ようきん)など、中国の民族楽器で構成されている曲だが、エレクトーンと二胡二台に、理太郎がアレンジした。
二胡とエレクトーンの掛け合い。
理太郎とリーユーシェンのユニゾンが力強い。
最後は二人で、キリっと弾き終わる。
一瞬の静寂の後、拍手が鳴り響いた。
リーユーシェンがキラキラした笑顔で、理太郎に目を合わせてきた。
「いいよぉ!いいよぉ!理太郎!お客さんの反応、めっちゃいいですよ!」
「よし、アレ行く!」
理太郎が立ち上がった。
イーイーの顔を見ると、理太郎が何を弾きたがってるのか、すぐにわかったようだ。
大きく頷く。
ツァオニーは次の曲をリーユーシェンに教えてもらうと、スケッチブックをめくった。
リーユーシェンは二胡をおき、しばらく休憩だ。

ヤンイーイーの伴奏が入る。
キレのいい理太郎の二胡が響いた。
バイオリニスト、葉加瀬太郎作曲の『情熱大陸』
理太郎の色気と、男性的な勢い、情熱的さが溢れ出る演奏だった。
「おー」とお客さんの声が上がる。
特に女性のウケがいい。
理太郎はその反応に、嬉しそうにニッと笑った。
リーユーシェンはお客さんの近くまで行くと、何かしゃべっていた。
また、たくさんの拍手が理太郎たちを包む。

気持ちが高ぶり、早く次の曲が弾きたくなる。
理太郎はヤンイーイーが視界に入るほど後ろへ下がり、次の曲を確認し合った。
目を合わせ、二人は同じタイミングで息を吸い、音を出した。
キレのいい、二胡の音が一気にお客さんを引き付ける。
「あっ!」一部だけ飛び上がって喜ぶ人たちがいた。
あれが中国のアニオタなのだろう。
曲はアニメ『艦これ』のエンディング『吹雪』
おそらく、原曲を知っている人は、この場には少ないはずだが、瞬く間に多くの人が目を輝かせ、心踊らせた。
「これこれ!」と興奮気味に友達と顔を見せ合う者。
アップテンポに頭を激しく動かしている者。
不恰好に、握った両手の拳を上下に振ってる者。
日本のネットカフェや自宅では、この生配信を、ヘッドフォンつけて、ノリノリで聞いてるオタクがたくさんいた。
気持ちよさそうな理太郎が眩しかった。
ヤンイーイーは置いていかれないように、必死に全身を使い、演奏する。
昨日、理太郎が自分に相談してきたのを思い出した。

「この『吹雪』って曲さ、第二次世界大戦中の戦艦を擬人化したアニメの曲なんだけど、演奏していいと思う?」
「大丈夫だと思いますよ。前、中国人のオタクたちが演奏してるときありましたが、普通に盛り上がってました。かっこいい曲だから、福原さんに是非弾いてほしいです!」
「オッケー」
「戦艦を擬人化って、発想がヤバいですよね!」
「だよな。日本人、ホント頭おかしいわ」

テンポや、使う楽器などたくさんのことを打ち合わせしたが、選曲についての相談はこれきりだった。
日本人にとってもメジャーではないこの曲だったが、一度聞くとメロディーが頭から離れない。
壮大な長音とピッと止める短音、テンポの速さ、力強さを必要とするこの曲は理太郎が弾くのが相応しいとさえ思ってしまう。
その伴奏をできることが、ヤンイーイーはめちゃくちゃ楽しかった。
2番に入り、理太郎は演奏しながら歩き出した。
どこへ行くのかと思いきや、エレクトーンの後ろ、イーイーの隣だった。
エレクトーンの椅子は横長で、人が二人座れるほどの広さだ。
理太郎は空いているところに、お尻を軽く乗せた。
イーイーは突然のその行動に、手と足は演奏を続けながらも、顔を赤くし、口を開け、驚いたように理太郎を見た。
理太郎はそれに、ふっと小さく笑うと、勢いのままに演奏を続ける。
なんで、こんな近くっ……!
別に音が聞こえないわけでも、なんでもない。
むしろ、こんな近くに寄られたら、必死すぎる顔や、汗かいてるの、バレちゃうかもしれない……!
でも、そんなこと気にしている暇はない。
理太郎の勢いにおいてかれないように、すぐ、楽譜に目を戻す。必死に指を動かし、足も動かした。
曲の後半、エレクトーンの和音が鳴る。
理太郎は止まる。何もかもが動けずにいる。
大きく息を吸ったヤンイーイーと理太郎の腕が勢いよく動き出した。
絶妙なタイミングでサビが入る。
目の前がピカッと光った気がした。
気がついたら、曲が終わっていた。
ヤンイーイーは肩で息をしていた。
生配信のチャットには
『サイコー!』
『かっけー!!!』
『ぷぎゃー!』
と怒涛のコメントが寄せられていた。

日本で理太郎たちが演奏していた公園。
そのベンチに座り、吉岡里帆似の女の子がスマートフォンで生配信を見ていた。
わん!という鳴き声に、顔を上げると、柴犬の花丸を連れたおじいさんがいた。
「あ、花丸と、おじいちゃん。今、福原くんたち、中国で演奏しますよ」
「映像見えるかい?このために、スマホとやらに買い替えたのに、見方がわからなくてね」
「どうぞ」
吉岡里帆似の女の子は、ベンチの隣を開け、おじいちゃんにスマートフォンを見せた。
「すごい頑張ってるね」
「はい。かっこいいです」

リーユーシェンが戻ってきた。
理太郎は一旦、二胡をおき、三味線を手にとった。
今日、理太郎が二胡以外に弾く唯一の楽器だ。
三味線は理太郎は苦手意識があるのか、譜面台と楽譜を用意した。
色ペンで、たくさんの注意書きの記号がかかれている。
イーイーが落ち着いたのを確認すると、伴奏に入ってもらう。
ヤンイーイーと盛り上がったアニメ『鬼滅の刃』のオープニング『グ蓮華(ぐれんげ)』
アップテンポでエネルギーを使う曲だ。
今まで、曲についていくのにいっぱいいっぱいだったヤンイーイーの表情が急に、気持ち良さそうな顔になった。
楽しそうに腕と脚を動かしている。
逆に理太郎が、とりおり苦しそうな表情を見せながらも、懸命に、手を、動かす。
一方、リーユーシェンは余裕そうな顔で、主旋律を弾いていく。
理太郎が小さなミスする度に、チラリと笑いながら見てくるので、悔しいが、今は弾くので精一杯だった。

理太郎の実家では、姉の里美がリビングのソファに座り、スマートフォンを眺めていた。
友達から、おもしろいパフォーマンスをしている音大生がいると、教えてもらって見てみたが、よく知った顔が、二胡を弾いて、そのあと、三味線を弾きだした。
離れたところで、爪を切っていた父の雅之に声をかけた。
「ねぇ、お父さん。理太郎によく似た人が中国で演奏してる」
「何言ってんだ。あいつは中国嫌いだから、人違いだろ」
「でも、二胡の他に、ほら、三味線も弾いてるよ」
「へっ!?」
驚き、爪切りを放り投げると、雅之は里美のスマートフォンの画面を見つめた。
老眼だったため、離す。
「……これ、俺のお古じゃないか」
三味線の撥(ばち)を当てる、胴。その側面、胴かけと呼ばれる部分が見覚えのある模様をしていた。
「二胡と合わせるのおもしろいね。隣の男の子と息ぴったり。あっ、失敗した」
「なんだあいつ、三味線は音が小さいから嫌いとか言ってたくせに……」
「理太郎、中国の、しかもこんなとこで演奏するなんて……」
里美はまたスマートフォンを眺めた。
雅之も画面を見るため、顔を寄せてきたので、体ごと反らした。
「もう、自分ので見て」

弾き終わり、ふぅと息をつく理太郎にリーユーシェンが笑った。
「アニソン、そんなに知らなかったんですけど、おもしろい曲いっぱいありますね!」
「あぁ。経済的にも一大ジャンルだからな」
「次は、俺の番です」
リーユーシェンが、軽く二胡を鳴らし、音を確かめた。
理太郎は楽器を置き、少し、離れたところに座った。
体が汗ばみ、息が上がった。
中国の友人が、すっと水の入ったペットボトルをさしだしてくれた。
「サンキュー」と受け取り、水を飲む。
思ったより喉が渇いていて、がぶがぶと半分ほど飲んでしまった。
次は、リーユーシェンがメインで演奏する。
実はこれ、めちゃくちゃ楽しみにしていた。
リーユーシェンの得意で大好きな曲『賽馬(さいま)』
草原を疾走する馬をイメージさせる曲だ。
二胡を練習し始める人が憧れる曲だが、アップテンポ、さらに、弦を押さえる手の動きが多彩で、難しい曲だった。
理太郎もこっそり練習してきたが、納得いく演奏になるには程遠かった。
リーユーシェンの二胡1本のゆったりとしたメロディーが響いた。
一呼吸すると、アップテンポのヤンイーイーの伴奏が加わる。
リーユーシェンの動きも突然速くなる。
まさしく、馬が駆け出した。
高速で動く右腕、左指をもろともせず、リーユーシェンは笑顔でめちゃくちゃ楽しそうに演奏していく。
今にも馬は飛んで行きそうなくらいだ。
理太郎は椅子に座ったまま、口を半開きで見ていた。
今の自分にはとても真似できない。
リュウシィンイーのほうを見ると、ユーシェンを一点に見つめ、頬を高揚され、目を輝かせていた。
うん、納得。これはカッコいいわ。
今までのこいつの演奏で一番いいかも。
最後には、馬の鳴き声のような音を弓を弦でこするように出し、フィニッシュした。
目の前で聞いていた、シィンイーが嬉しそうに拍手を送った。
「すげー……」
理太郎が放心状態のままこぼした。
やっぱこいつ、めちゃくちゃ二胡うまいじゃん。
リーユーシェンは満足気な様子で立ち上がると、拍手をするお客さんに軽くお辞儀を繰り返した。
そのまま後方の理太郎に振り返った。
理太郎もパチパチと拍手を贈る。

一旦、理太郎とリーユーシェンは集まり、曲のリストを手にした。
それには、理太郎が弾きたい曲が、ベストだと思う順番に列挙されていた。
「お客さんの声出てきたから、次、これ、弾きてーな」
ある一曲理太郎は指差す。
「うん。いいね!」
リーユーシェンも笑顔で笑った。
リーユーシェンは影で控えていた他のメンバーに伝えに言った。
少し離れて見守っていた、中国の友人たちが、各々、自分たちの楽器を持って現れた。
イーイーが前奏を弾き始める。
特徴的なメロディ。お客さんたちは、「あー」という顔をした。
『世界に一つだけの花』
2003年にリリースされた、日本の男性アイドルグループSMAPの代表曲。
「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞がよいと、大ヒットした曲だ。
それが国境を越え、中国でもたくさんの人たちに愛されている。
1フレーズ目を理太郎は椅子に座り、笑顔で弾き始めた。
リーユーシェンが横で手拍子を促すと、たくさんの人が手を叩き始めた。
お客さんの口が小さく動いているのがわかった。
歌詞を口ずさんでいるのだろう。
演奏を邪魔しないような小さな声だった。
1フレーズ終わると、今度はリーユーシェンの番だ。
理太郎は二胡を置き、手を叩いた。
Bメロに入ると、中国人の友達がフルートを吹き出す。
1フレーズ終わると、次のメロディーをオーボエが、次はバイオリンが、トランペットが、とどんどん交代していく。
サビに入ると、全員でメロディーラインを演奏した。
様々な楽器を演奏する中国の友人たちが、自分の周りに集まった。

生配信の視聴者はどんどん増えていく。
車イスの夫婦。
赤ちゃんを子育てしているお母さん。
引きこもりの中学生。
瀬戸内海の離島に住んでいるぷりんの友人、家族。
理太郎の通う音大の友達。
あの眼鏡でポーカーフェイスのピアノ専攻の友人も、黙って、スマートフォンを見つめていた。

「中国の友人のみなさん、ありがとう」
理太郎のスマホから、流暢な英語で、女の子の声が聞こえた。
持っていたリーダーはカメラを自分を撮すように切り替えた。
画面の中央では、ぷにんたちがいた。
「理太郎が中国で演奏できたのは、あなたたちのおかげです。ありがとうございます」
リーダーは小さく首を振った。
「彼が凄いんだよ。なんか、サポートせずにはいられなくなる」
「わかるー」
画面の中で、クラーラが言った。
「今度、セッションしようね!」
「もちろん!」
リーダーはまた、画面を理太郎たちに向けた。

どんどんと増えたお客さんが、ついに理太郎たちを260度くらいに取り囲んだ。
前の列の人は地面に座り込み、後ろの方の人は花壇のヘリに立ち、演奏を見ようとしていた。
小学生くらいの子どもや学生、おじいちゃん、おばあちゃんまでいる。
この場にざっと、300人くらいはいるだろうか。
日本でも、こんなに集まったことはなかった。
生配信の方は、閲覧数が500人を突破していた。
ついに最後の曲になった。
今まで、挨拶や曲の紹介など一切しゃべらず、二胡を弾き続けてきた理太郎が口を開けた。
「次が、最後の曲です。自分で作曲しました。聞いてください」
発音に心配してた中国語だったが、お客さんにはなんとか理解してもらえたようだった。
さらに期待に胸膨らませ、静まり返り、理太郎とリーユーシェンを見つめた。
その気持ちを受け取るように、理太郎はお客さんをゆったり眺めながら、隣にいるリーユーシェンにつぶやいた。
「この曲、ここで弾きたかったんだ」
「うん。この曲、大好きですよ」
リーユーシェンが理太郎見て笑っていた。
理太郎も笑い返す。
中国の友人たちも楽器を構える。
この曲は、こだわって、他の楽器も伴奏に加わってもらった。
理太郎は振り返り、楽器を構える友人たちを見た。
メインで伴奏してくれたヤンイーイー。
カメラを構えるリーダー。
スケッチブックを出してくれたツァオニー。
みんな、理太郎を応援する眼差しだ。
最後にチラリとリーダーの手にあるSkypeの画面を見る。
日本に残してきた友人たちとも目が合った。
やっぱり安心する。
あいつらとこの曲を弾き込んでこなければ、こんな大勢の前で演奏することは不可能だっただろう。
リーユーシェンと目が合った。
そもそも、こいつが俺の下手くそな二胡を盗み聞きしなければ、今こんなことしてないと思うと、笑える。
ホント、たまたまなんだ。
1度弾いてみたいなと思ってた楽器の一つで、たまたま安く手に入りそうだったから。
よかったよ。二胡弾いてみて。
理太郎は、二胡を構えた。

最後の曲は『宴』
久しぶりに中国を訪れ、二胡を習い、中国の友人たちと時を過ごした。
その興奮のまま、二胡を取り、作った。
ぷりんたちにもかっこいいと言ってもらえた曲。
気持ちが全部、なかなか形にならず、ギリギリまでここをこうしたいとアレンジを繰り返し、その度に、リーユーシェンとイーイーは「うん」と返事一つで覚え直してくれた。
やっと完成した。曲名もつけれた。
静まり返った冬の空の下、リーユーシェンの美しい音色が響いた。
そこに理太郎が重ねて言った。
溶け合うハーモニー。
その響きを、美しさを存分に味わうように、二人は音を繋いでいく。
メロディーラインをお互い追っていく。
リーユーシェンの二胡の音色は優しくて、濃厚だ。
理太郎の二胡の音色は、元気で、明朗で、遊びに誘ってくるような音だった。
アップテンポに変わった。
お互いがお互いにおいてかれるか!と腕を動かす。
「おぉー!」とお客さんが、小さく息を漏らす。
見ている方が、二人についていこうと、手を握り、呼吸が浅くなる。
今度は、スローテンポになり、急にエロチックな高音が響いた。
理太郎の滑らかに動く左指に合わせ、二胡が声をあげる。
それに、今後は、リーユーシェンがハモらせていく。
それがまた妖艶さを増した。
またアップテンポに。
また、理太郎とリーユーシェンの腕が激しく動いた。
やばい!くそ楽しい!
二人同士に、フィニッシュした。
腕が同じ形で止まる。
お客さんも呼吸が止まる。
一瞬、時間が止まった。

それを解かすような温かい拍手が鳴り響いた。
理太郎はそれが聞こえて、心まで届いて、やっと、肩から力を抜き、腕を下ろすことができた。
顔を上げ、目を開ける。
たくさんの中国の人が一自分たちに温かい拍手を贈ってくれていた。
一瞬、目の前が滲んだ。

なんだ、おんなじじゃん。

日本で送ってもらったたくさんの拍手と一緒だった。
リーユーシェンも、うっすら汗をかき、口で浅く呼吸をしながら、嬉しそうに理太郎を見て笑った。
たぶん、自分も同じ顔してる。

ぷりんの家では、みんなが号泣していた。
「うぇーん……。理太郎、リーユーシェン、よかったよー!」
「感動した!感動した!」
「あー!俺も混ざりてぇー!」
「二人だけずるいー!」
ティッシュを大量に掴みとると、鼻水を拭いた。
中国の人たちの拍手がスピーカーから聞こえてくる。

理太郎は、弓を左手でひとまとめにして持つと姿勢を正し、囲むように密集したお客さんを見渡した。
たくさんの人が一生懸命拍手を送ってくれている。
笑顔の人。感動して涙拭いている人。隣の友達と興奮気味にしゃべる人。
嬉しい。気持ちいい。やった……!
観客に向かって叫んだ。
「謝謝(シェイシェ)!ありがとうございました!」
深くお辞儀をする。
拍手が延々と理太郎とリーユーシェンを包み込んでいた。