理太郎はまたいつもの公園で二胡を弾く用意をしていた。
でも、今日隣にいるのは、リーユーシェンだけではない。
ぷりんとクラーラがいた。
ぷりんの今日の服装は、顔より大きなピンクのリポン、ピンクのカラーコンタクトに、飴玉柄のパーカー、パープルのホワホワしたショートスカート、白と黒のボーダーのタイツを履いている。
「ね、理太郎、リーユーシェン!公園で二胡弾いてるとこ、YouTubeにアップしてもいい?」
「別にいいけど」
「いいですよ」
「ありがと!大阪にいる友達が聞きたいって。それに、理太郎たちの演奏、もっといろんな人たちに聞いて欲しいんだよね」
ウキウキと撮影する角度を考えていたぷりんのスマートフォンに映った理太郎の顔は、やや冷めた笑いをしていた。
「リーユーシェンはともかく、俺のレベルじゃ誰も見んだろ」
「そんなことないよー。公園で弾いてるってのがおもしろいの!もしかしたら、この先、広告費でお金稼げるかもよ~」
「マジか。それはやってくれ」
急にキリッとした顔になる。
常時お金がないため、小遣い程度でも、お金がもらえるなら、それに越したことはない。
クラーラは電池駆動のキーボードを用意した。
二胡の音量の邪魔にならないように、特にアンプなどは用意せず、キーボードから直接出る音を使う予定だ。
「今日は私が伴奏入れてあげる」
「サンキュー」「ありがとうございます」
演奏が始まると、瞬く間に人が集まってきた。
すでに、ここで定期的に演奏していることを知っているお客さんは、わざわざ帰り道にこの公園を通って帰ってくれたりしている。
営業の30代っぽいサラリーマンの人、柴犬連れたおじいちゃん、いつも仲良く散歩に来る老夫婦。
今日も、様々な人たちが同じ時間を、同じ音を共有し、笑顔で帰っていった。

演奏を終え、理太郎たちは近くのファミレスでご飯を食べた。
海鮮丼を頬張りながら、理太郎がしみじみと言った。
「やっぱ二胡以外に楽器入ると、雰囲気出ていいな」
「でしょ?」
クラーラは大盛の竜田揚げ定食と、フライドポテトを口に放り込みながら、満足気に笑った。
「クラーラさんは、ピアノも弾くんですか?」
リーユーシェンは海鮮あんかけ焼きそばだ。
「ちょろっとね。でも、声楽が専門なの。ジャズ系歌うほうが好きだけど」
しゃべりながらも、どんどん竜田揚げが消えていく。圧巻だった。
「ぷりんちゃん、早く食べないと冷めちゃうよ」
ぷりんは、頼んだサンドイッチをほとんどお皿に残したまま、スマートフォンをいじっていた。
ニコニコしながら、顔を上げると、目の前の理太郎とリーユーシェンと目が合った。
「なんだ?」
「さっきの演奏の動画、もう100回再生されてる。いろんなコメントと来てるよ♪」
ぷりんはスマートフォンを向かいに座る理太郎とリーユーシェンのほうに向けた。
コメント欄には
『二胡の音 良い響き』
『うちの近くでも演奏して欲しい!』
『生の演奏聞きたいー』
とたくさん寄せられていた。
「「おぉー」」と理太郎とリーユーシェンは声を出して喜んだ。
ぷりんは嬉しそうに、やっとサンドイッチを手に取った。
「今度はちゃんと、動画編集して投稿したいなー。曲名テロップ入れたり」
「もっと見ていいか?」
「いいよ」
理太郎は、ぷりんのキャンディーの形をした、無駄に幅のとるスマートフォンケースごと手にとった。
リーユーシェンも覗き込む。
動画投稿者のコメント欄には
『音大生が公園で二胡を演奏しました。
恋 2:05
パプリカ 5:23
テルーの子守唄 10:15』
と丁寧に演奏曲のリストとが書いてあった。
スクロールすると、たくさんの日本語のコメントの中に
『日本人の二胡楽しそうです』
といった外国人の覚えたての日本語のようなものや
『真的好听呀……』(本当に最高です……)
『Beautiful』(美しい)
など、さまざまな言語のコメントもあった。
見入る理太郎たちに、ぷりんが嬉しそうに声をかけた。
「どう?すごいでしょ?」
「……あぁ。すっげー。これ、みんなお前の知り合いじゃねーよな?」
「違うよ!人づてとかでどんどん、再生回数が伸びてんの。理太郎とリーユーシェンの実力だよ」
「すげーじゃん、俺ら」
「ですね」
理太郎とリーユーシェンが顔を見合わせ、笑った。
「ぷりんさん、曲名、中国語訳でも書いときたいんですけど」
「うん。すぐだよ」
ぷりんはリーユーシェンに中国語を教えてもらいながら、コメントを追加していく。
理太郎が、ん?とリーユーシェンを見た。
「中国って、YouTube見れるのか?」
「建前は規制されてますが、みんな規制掻い潜って見てますよ。YouTubeも、Facebookも」
「さすが中国人……」
「ねぇ、ピザ追加していい?みんな食べる?」
クラーラは、メニュー片手にサンドイッチを頬張った。
「あたしは大丈夫。お腹いっぱい」
「僕も大丈夫です」
理太郎は自分のスマートフォンで、ぷりんのアップした動画を再生した。
イヤホン越しに音楽が流れる。
今日初めて弾いた二胡の二重奏とクラーラの伴奏が勝手に頭に再生させた。
それに、箏や笛、トライアングルなど勝手に追加されてく。
「理太郎くんは?」
「え、あぁ……」
「食べる?」
「食べる」
「じゃー、3枚頼むね」
クラーラは「すいませーん」と店中に響き渡るような美声で店員を呼ぶと、注文をした。
理太郎はスマートフォンから顔を上げ、イヤホンを外し、ぷりんを呼んだ。
「ぷりん、明日は撮影しなくていいから、お前、ギター弾いてくれよ」
「ギター?」
「ギターの伴奏でも弾いてみたい」
「うん、わかった。持ってくね」
「ギターもおもしろそうですね」
リーユーシェンも好奇心に満ちた顔で笑った。
「あと、他にもいろいろ入れたい楽器あるんだよなー」
「じゃあ、けにやんとサイトーくんにも来てもらおう!」

今日は雨だった。
雨が降ったら、さすがに公園で演奏はできない。
理太郎たちは練習室を借りて、セッションしていた。
けにやんとサイトーもいる。
ぷりんも自分のギターを持ってきていた。
「ぷりん、これ」
理太郎はぷりんに手書きの楽譜を渡した。
「すごーい。書いてきてくれたの?」
「あぁ。哲学の講義の時間に」
「ありがと」
ぷりんは、理太郎たちほど、耳がいいわけでも、即興で演奏できるセンスがわるわけでもなかった。
いきなり、伴奏してくれと言われたらできなかったが、楽譜があれば、演奏できる。
「ちょ、ちょっと、一人で練習していい?」
「うん。別に金取って演奏してるわけじゃねーし、間違えてもいいし」
「でも、なるべくがんばる」
ぷりんはこそっと、ベンチのすみに座ると、楽譜を見ながら流れを確認していいった。
けにやんのオーボエ、サイトーのキーボード、ぷりんのギター、クラーラの歌声、理太郎とリーユーシェンの二胡。
不思議な組み合わせの合奏に、理太郎は夢中になった。
数十練習し、他のメンバーが一息ついている間、理太郎は五線譜に何か走り書きしていた。
「何書いてるの?」
クラーラがおにぎりを食べながら覗きこむ。
「ん、あぁ、ここで、ピアノが、こう入るといいなとか、他に入れたい楽器のメロディーとか……」
「へぇー。アレンジが勝手に頭に流れてくるのね。才能だわー。うらやましい」
「なにこれ。早くやってみたいです」
リーユーシェンも楽譜を覗いてきた。
一瞬でメロディーを覚えてしまったのか、すぐ離れ、二胡を弾き出した。
それを理太郎が見つめながら、音色を聞き入った。
「……なるほど」
そして、また楽譜を見つめたり、書き込んだりしていた。
「けにやん、ここ、こういう感じで……」
「合点承知の助!」
「サイトーは……」
「うん」
理太郎が細かく指示を出して行く。
不思議と誰も嫌な顔せず、理太郎の要求に従っていった。
何度も止めては弾き直し、メロディーやリズムをアレンジし、いい感じの演奏へと仕上がっていった。
「こーゆーの、初めてやったけど、なんか楽しいね!」
ぷりんが今日演奏していた動画を見ながら、嬉しそうな顔で言った。
「うん。早く、お客さんの前で披露してみたいわ」
「きっと、喜んでもらえますよ」
「それより、もう遅いけど、帰らなくて大丈夫?」
「ハッ!!」
クラーラが時計を見ると、20時だった。
「やだー。どおりでお腹すくわけね」
「帰ろうか」
「じゃあ、俺もー」
ぷりんとクラーラ、けにやんが帰り支度をはじめた。
サイトーは門限があるからと、一番最初に帰ってった。
「理太郎は?」
「んー、俺はもうちょっと、残ってく」
理太郎は、まだ楽譜を見つめながら、考え事をしていた。
「んじゃ、お先―」
「さいなら~」
ぷりんたちが帰っていくと、理太郎が「よし」と言いながら、ペンを置いた。
「キリがつきましたか?」
「あぁ。んでも、他にもやってみたい曲が次々に浮かぶから困る」
広い練習室に理太郎とリーユーシェン二人きりになった。
リーユーシェンが理太郎の書いた楽譜を眺めながら言った。
「あ、久々に二胡、レッスンしてあげましょうか?」
「あぁ、そういや。最近みてもらってないな」
「さっきの演奏聞いてて、言いたいことが山ほどあったんです」
「こっわっ……。オネガイシマス。せんせー」
二胡を教わって約1ヶ月。
やっぱり、独学より、誰かに直接教えてもらうほうが、はるかにわかりやすいし、自分でも上達したと思う。
力の入れ方、呼吸の仕方、体の使い方、自分では気づけないところを、指摘してもらい、正しい見本を見せられ、教わってきた。

みっちり1時間、リーユーシェンに指導してもらい、今日の練習は終了となった。
時刻は21時。
外は冷え込んでいた。
片付けをしていると、リーユーシェンがぬいぐるみのようなものを渡してきた。
「あの、理太郎、これ、あげます」
ポケットモンスターのキャラクター、ホワイトキュレムだった。
「彼女といろいろ探してみました」
デフォルメされ、やや間抜けな顔のホワイトキュレムに、理太郎はうなだれる。
「ちげーんだよ……。ゲーム内でゲットしたかったんだよ……」
「ですよね」
「しかもこれ、ホワイトキュレム。俺がゲットしそこねたのはブラックキュレム!」
「違いましたか?」
ホワイトキュレムはブラックキュレムの色違いだ。
理太郎、もう一度、ホワイトキュレムのぬいぐるみを見つめると、ふふっと笑った。
「ありがとな」
リーユーシェンは、いつもの優しい表情で言った。
「理太郎、一緒に中国行きませんか?」
「え?」
「11月22日、開校記念日で休みになり、22、23、24と連休になります」
「え、そーだっけ?」
「理太郎、二胡弾く素質あります!先生に師事しないなんてもったいないです!やっぱり、習わなければ、上達できない領域もあると思います!私の子どものころ習っていた先生、上海にいます。一緒に遊びに行きませんか?」
中国の上海まで飛行機で3時間半、時差は1時間。3日あれば、まぁ、行ける距離だった。
「うちの大学じゃ、二胡まともに教えられるやつなんていないんだよなぁ」
「だから、中国、一緒に行きましょう!」
理太郎は即答できなかった。
その日は、特に予定はない。バイトのシフトはこれから出す。まぁ、土日入らないというのはひんしゅくを買うだろうが、しょうがない。その分、夜入れば、店長や同僚の機嫌は取れると思う。
迷っているのはそこじゃなかった。
別に、中国に恐怖心があるわけじゃない。
二胡をもっと上手くなりたかった。
リーユーシェンと弾いてるだけでは物足りなくなってきた。
理太郎はポツリとつぶやくように言った。
「……そうだな。ちょっと、行ってみてーな」
「やった!行きましょう!彼女にも、音大友達にも、理太郎のこと紹介していです!」
リーユーシェンは目を輝かせながら、嬉しさを隠すことなく表現した。
「さっそく航空チケット取りましょう!」
リーユーシェンはすぐさまスマートフォンを手に取ると、操作を始めた。
「俺、木曜の講義休んで4連休にするわ」
「え!?」
「お前は?」
「え!?」
「木曜は、2限目に哲学が……」
「じゃあ、休んでよし!」
「えぇ!?」


理太郎は久々に千葉の実家に帰った。
実家といっても、高校3年間過ごしただけで、故郷や実家というよりも、親が住んでる家兼物置みたいな感覚だった。
ずっと、外国を渡り歩いていた両親が、定住したい、マイホームが欲しいと、中古のちっちゃな物件をローンを組んで購入したものだった。
ちなみに、稼ぎが多いわけではないので、ローンを組んでしまった今では、貧乏暮らしだ。
そのため、理太郎は学費と家賃、光熱費以外払ってもらっていない。
バイトができるから、どうにかしろということらしい。
最寄りの駅から歩き、すぐに静かな住宅街になった。
別におしゃれでもなんでもない外観の家からは、サックスの音が聞こえる。
父の雅之は三味線奏者だというのに、実はサックスが一番好きだった。
それを理太郎は思春期のころはウケる(笑)と散々心の中でバカにしていた。
にも関わらず、自分も似たような境遇になりそうで、笑ってしまう。
鍵で玄関を開ける。
「ただいまー」
小さな声でつぶやきながら、靴を脱ぐ。
玄関には、男物の草履しか転がっていないので、母は外出中のようだ。
そういえば、車もなかった。
理太郎のだす物音で、雅之に気配が伝わったのか、それ以上サックスの音が聞こえることはなかった。
玄関に上がり、リビングの扉を開けた。
「理太郎、久しぶりだな。来るなら連絡してくれればいいのに」
サックスの姿形はなく、不自然にリビング前に突っ立った雅之が出迎えた。
理太郎によく似た顔立ちで背が高かった。
前に会ったときより、頭が少し物足りなくなってる気がする。
「パスポート取りに来ただけだから」
「どこ行くんだ?」
「んー、………アジア」
父親は理太郎が中国が嫌いなこと知っている。コンクールでもないのに、行くなんて言いたくなかった。
冷蔵庫を開け、中に常備されている麦茶をごくっと飲んだ。
その後ろを雅之は着いていきながら、質問責めする。
「アジアのどこだ?」
「……いろいろ」
「東南アジアか?腹痛には気を付けろよ」
「あぁ」
「水道水飲むなよ」
キッチンのカウンターに使ったコップをそのままに、廊下を歩く。
雅之はまだ着いてくる。
「正露丸持ってったほうがいいぞ」
「ん」
「友達と行くのか?友達できたのか?」
まだ何か言っている。
理太郎は無視して階段を上がっていった。
自分の部屋は、子どものころ、練習していた楽譜や教科書、ゲーム器などが適当に片付いていた。
机の引き出しを開けると、中学高校時代の学生手帳など、実家近くの病院の診察券など重要そうなものが入っていた。
その中に、青い手帳があった。
表紙には、国章であり、皇室の紋章である十六一重表菊が印刷されている。
パスポートだ。
20歳以下は5年ごとに更新しなければならないので、6歳のときに作って以来、計3冊もある。
パスポートをパラパラめくると、オーストリア、アメリカ、オーストラリア、中国、ブラジル。
さまざまな国のスタンプが押されている。
理太郎は住む場所を転々とするのは嫌いじゃなかった。
様々な国の言語や生活音、音楽に触れるのは、それはそれでおもしろかった。
中国本土には小学校5年に行ったっきり、一度も行っていない。
必要なのは、最後に取得した16歳のパスポート一冊でいいのだが、なんとなく、今までのパスポートもまとめて手に入れると鞄に入れた。
このパスポートも、来年で更新しなければならない。
「おーい!理太郎ー!」
父親が1階から叫んでる。
理太郎はもうもう一度部屋をぐるりを見渡し、鞄を持って階段を降りていった。
「理太郎ー!」
「なんだよ。うっせーな。聞こえてるよ」
「じゃあ、返事しろよ」
雅之の手にはお寿司のデリバリーのチラシが握られていた。
「今日、寿司でも取るか?母さん遅いんだ」
「寿司?うん、食べる」
「お姉ちゃんも、今日帰ってくるって、言ってたし、寿にするか?うわ、高いなぁ」
「俺は、まぐろとサーモンと蟹が入ってればなんでもいい」
雅之はメニュー表を見ながら、一人ブツブツと呟いていた。
「音大どうだ?楽しいか?」
「あぁ。まぁ、それなりに」
「ピアノの先生はいい人いたか?」
「いや。価値観押し付けてくるババアが担当で最悪」
「あっはっはっ!ピアノばっかり飽きるだろ」
「うん」
「三味線は弾いてるか?」
独り暮らしを始めるとき、雅之がお古の三味線をくれたのを思い出した。
部屋の片隅に起きっぱなしだ。
父に習い、一応弾けることは弾ける。
「三味線、音量がちいせーし、長音も出せないし、つまんね」
「それが三味線なんだよ」
「うん。だから、三味線つまらん」
「なんだお前、もっぺん言ってみろ!」
「んだよ」
玄関がまた開く音がした。
小さな足音が聞こえたのち、リビングのドアが開く。
「ちょっと、何喧嘩してんの?外まで丸聞こえなんだけど」
「あ、お帰り、お姉ちゃん。理太郎が三味線は音が小さいって言うんだ」
「そんなことで喧嘩してたの?」
理太郎の3才年上の姉、里美だ。
音大を卒業し、ピアニストをしながら、子どもにピアノを教えている。
「理太郎も、どーせひどい言い方したんでしょ?」
「別に」
「三味線をバカにしやがって!」
「あーもー、うぜーな。帰る」
「ちょっと理太郎!」
姉に呼び止められるが、理太郎は無視し、鞄を持って出ていった。
「もー、なんなの」
そして、予定していた日。
理太郎は無事、上海国際空港に降り立つことができた。
7年ぶり。少し、変わったかな。
父親たちの、演奏会に着いていく感じで、2、3回は来たことがあるはずだ。
はっきりと、どこが変わったか覚えてないが、自分の背がぐんと伸びたからか、周りの景色は少し小さい印象だ。
「彼女の家まではタクシーで行きましょう!」
ぼーっと眺める理太郎の隣にリーユーシェンが立った。
「ホントに俺もいいのか?別にホテルとか泊まるけど」
「彼女いいって言ってました!ホテルだと、お金かかりますし、二胡弾けないでしょう。マンション防音なので、弾き放題です!」
リーユーシェンは彼女に会えるのが相当楽しみなのか、飛行機に乗ったくらいから、ウキウキ、ソワソワで、いつも以上に笑顔がキラキラしていた。ちょっとウザい。
「理太郎!早く!」
久しぶりの景色を眺めていたため、歩く速さの遅い理太郎を、数メートル先を歩くリーユーシェンが呼ぶ。
「はいはい」


「ここです!」
「お、おぉ……すげー高そうな物件」
空港からタクシーで1時間半。
降りたのは、真新しい高層マンションのロータリーだった。
高級住宅街なのだろうか。
周りにも似たようなマンションが建ち並び、広い庭なのか、ほぼ公園のような芝生に木が等間隔で植えられている。
リーユーシェンについて、マンションの中へ入っていく。
大きな扉の横には、石でできた龍の彫刻が口を開けていた。
インターホンで彼女を呼び出す。
リーユーシェンが中国語で何かしゃべると、すーっと、自動ドアが開いた。
理太郎は、リーユーシェンの後を恐る恐る着いていく。
彼女の部屋は35階だった。
ピンポーンとチャイムを鳴らす。
すぐに扉が勢いよく開いた。
リーユーシェンが、目を細め、満面の笑みで両手を開く。
「欣怡(シィンイー)」
「子軒(ユーシェン)!」
叫びながら、女性が飛び出してきた。ばっと、リーユーシェンに抱きつく。勢いで、2、3歩よろめき、後ろにいた理太郎の足を踏んだ。
「いてっ……!」
「もぉぉぉおおおおお!!」
彼女はリーユーシェンの服の胸元を掴むと、前後にゆさゆさと揺すりながら、何か叫び続けた。
「もぉぉぉぉぉ!」
「シィンイー」
「もぉぉぉぉぉ!」
「ただいま」
「なんか、めっちゃ怒ってる……」
今度は何か叫びながら、リーユーシェンの胸を拳でどかどか殴っていく。
それでも、リーユーシェンは、嬉しそうに目を細めながら、笑っていた。
「お土産買ってきたよ。日本の化粧品。あと、クッキーも」
リーユーシェンが右手をわずかに上にあげる。
可愛らしい花模様の小さな紙袋を持っていた。
それに気づいた彼女は動きを止めた。ゆっくりと顔を上げる。
「会いたかった……」
「ごめんね。ただいま」
「うん」
アジア人の女性の平均身長と比べれば少し背が高く、スラッとした女性だった。
胸まで伸びたつやつやの黒い髪が綺麗だ。
やっと、後方にいた理太郎に気づくと、小さく笑った。
「劉 欣怡(リュウ シィンイー)です」
「福原理太郎です。お世話んなります」
「どうぞ」


「おぉー…すげー」
想像していたが、部屋の中はものすごく広かった。
テーブルやソファをどかせば、いつも騒いでいる連中たちと、楽器を演奏しながら、ドンチャン騒ぎできるほどだった。
ガラス張りになっており、町の景色を一望できる。
テレビの横には大型のスピーカーがあった。
自宅で高音質の音楽を聴けるなんて羨ましすぎる。
リビングの四隅には、アップライトピアノが一台置かれていた。
ここに一人で住んでるとか、やはり中国の富裕層は格が違う。
リーユーシェンは荷物を下ろすなり、二胡をケースから取り出した。
「シィンイー!君に聞いて欲しいんだ!二胡!」
リュウシィンイーはカウンタータイプのキッチンでお茶を淹れていた。
手を止めることなく、アルトの色っぽい声が響いた。
「フライトで疲れただろうから、休んでからで……」
「今、君に聞いて欲しいんだ!」
「…………わかった」
リーユーシェンの強い眼差しに、リュウシィンイーはお茶の用意していた手を止め、彼氏の前に歩いてきた。
「理太郎!お願いします!」
「あ、あぁ」
伴奏をお願いされており、日本でもなんどが合わせてきた。
理太郎は適当なところに荷物を置き、部屋の片隅のアップライトピアノに歩いていった。
「ピアノ、借りるね」
ユーシェンは焦る気持ちを抑え、チューニングをする。
理太郎も、軽く音を出し、確かめた。
不思議だ。この二人を見てまだ数分しか経ってないのに、お遊びで付き合ってるわけじゃない、本当に愛し合っている二人だとわかる。
それを羨ましいというより、遠い、別世界の存在に感じる。
リーユーシェンが理太郎を見た。強く、頷く。理太郎も小さく頷き返した。
そして、ユーシェンはシィンイーを見た。
大好きな彼女は、優しく微笑んでくれた。
目を閉じる。理太郎のゆったりとした優しいピアノが流れた。
ユーシェンの彼女のためだけの演奏が始まった。
『女人花』
シィンイーの好きな曲だ。
女性を花に例えた、私を見つけて欲しいと、誰かを恋焦がれるような切なくもある曲だ。
ゆったりとした音の響き一つ、一つが、心にそのまま溶け込み、じーんと馴染んでいくようなそんな演奏だった。
聞いているだけで、優しい気持ちになる。
そういえば、出会ったころもこの曲を弾いていたっけ。
付き合ってからも、弾いてと頼む度に、笑顔でうんとうなずき、弾いてくれた。
忙しくて会えない日。
聞きたくなるけど、聞いたら余計寂しくなるなら我慢してた。
それでも、勝手に頭の中にユーシェンの二胡が流れてくる。
だから、この曲を聞くと、嬉しくもなるし、優しくもなれるし、切なくもなる。
もうこの曲はあなた以外の演奏では聞けないよ。
今日は一段と、優しい演奏。
やっと聞けたね。
やがて曲が終わると、シィンイーは小さく涙を拭った。
ユーシェンも目が潤んでいる気がする。
「素敵な音。私、ユーシェンの二胡大好きだよ」
「ごめんね。シィンイー」
ユーシェンは二胡を置き、シィンイーを抱きしめた。
あったかい。
あぁ、このまま、溶けて、一つになっちゃえばいいのに……。
しばらく、抱き合っていた。
その間、理太郎はピアノの椅子に座ったまま、なるべく気配を消していた。
やがて、離れると、ユーシェンが嬉しそうに言った。
「理太郎のおかげで弾けるようになったんだよ」
「そうなのか!?」
急に振られ、想像以上に驚いた声が出てしまった。
「ありがとう。福原くん」
リュウシィンイーが振り返り、お礼を言った。
「いや、別に、俺、なんもしてねーけど」
「謙虚ですねぇ」
「いや、マジで」
ユーシェンはソファに座る彼女の前に立ち膝をつき、優しい顔で見つめた。
「シィンイー、俺、将来、君と結婚したいと思ってる。でも、二胡の演奏家にもなりたいんだ」
「うん」
「君の両親が音楽家なんかって反対してるのは、しょうがないと思う。だから、二胡の演奏家として、いっぱい稼いで、認められるよう、立派な演奏者になるよ。もう少し、待っててくれる?」
「うん。ちょっとだけだよ」
シィンイーは意地悪っぽく笑った。
「私は、二胡を弾くユーシェンがカッコよくて大好きなの。これ以上、カッコ悪くなったら、許さないからね!」
「はい!」
リーユーシェンの運転で、二胡の先生のところへ向かった。
車内のいたるところにVとWのロゴマークがある。フォルクスワーゲンだ。
これもなかなか高そうな車だった。
助手席の皮のシートで寛ぎながら、理太郎がつぶやいた。
「彼女、ツンデレ系かぁー。いーなー」
「ツンデレってなんですか?」
リーユーシェンがハンドルを握りながら、聞き返す。
「んー、ツンツンしてるのに、たまにデレるみたいな?」
「よくわかりませんが……」
「かわいいよな」
「は?」
普段の彼からは考えられないようなキツイは?が返ってきた。怖くて見れないが多分睨んでる。ヤバイ。焦る。
「いや、別に、狙ってるとかそういうんじゃなくて、いい子だなって単純に思っただけ。褒めたんだよ!」
「そうなんですよぉ。いい子なんですよ。シィンイー」
またノロケた顔に戻った。
ほっと安心すると、慌てて話題を代える。
「これ、お前の車?」
「違いますよ。彼女のです」
「彼女って、大学生なのか?」
「はい。そうですけど、株とかやる投資家でもあります。この車もマンションも、親に買ってもらったんじゃなくて、自分で稼いだお金です」
「すっげー。じゃあ、結婚しても、お前が稼がなくてもいんじゃね?」
「まぁ、そーなんですけどね。カッコつかないじゃないですか」
「まぁな」
男なら、妻に養われ、自分は好きなことしてるなんて、カッコ悪いと思うのは、理太郎も男なのでよくわかった。
リーユーシェンがチラリと時計を見た。
「少し飛ばします」
さっきから、飛ばしていると思ったが、またさらにスピードが上がった。
リーユーシェンの穏やかな性格から予想できない運転に少し、ヒヤリとしたものを感じた。
郊外から外れ、30分ほどで、少し田舎っぽい雰囲気の場所にきた。
たまに民家、たまに畑というような景色だ。
やがて、バカでかい庭にぽつんと一軒家が建っていた。
築50年くらいは経っているだろうか。
庭を5匹の犬が走り回っている。
目につくだけで、猫が7匹、日向ぼっこしていた。
鶏が一羽走りまわっている。
庭の外れには時期外れになるきゅうりが植えられて、干からびていた。
竹馬や縄跳び、キックボードやボールなど子どもの遊び道具が、小屋の下置かれている。
リーユーシェンは車を庭の適当なところに停めた。
すぐに10歳くらいの子どもが数人、走ってきた。
「にーに!」
「リーユーシェン!」
車を降りたリーユーシェンの腰に抱きつく。
「お土産は?コアラのマーチ!」
「はい」
理太郎が日本のゲームセンターのUFOキャッチャーで取ったバカでかいコアラのマーチの箱を車から出した。
その大きさに子どもたちは大興奮する。
「ぎゃーーー!!!」
子どもたちは絶叫し、コアラのマーチの箱をぶんどると、家のほうへ走っていった。
一人だけ、女の子が立ち止まると、振り返った。
「謝謝!」
それだけ叫ぶと、コアラのマーチへ走って行った。
「元気いいなぁ」
「お前の弟?」
「まさか!先生になついてる子どもたちですよ」
「へー」
リーユーシェンと共に、二胡のケースを手に取ると、家へ歩き出した。
「このへんは、貧しい家もあって、遅くまで共働きで、子どもが寂しい思いしてるので、先生の家が遊び場になってるんです」
家の中からは子どもたちの楽しそうな声が響いてくる。
「先生は動物好きで、子どもが好きで、二胡がめちゃくちゃうまいんです!」
先生の話をするリーユーシェンの顔は嬉しそうだった。
部屋の中も古民家風といった感じだった。
しかし、汚さは感じず、大切に使われてのがわかった。
入り口入ってすぐには、理太郎の腰ほどの高さのある、やたら装飾が細かいツボが置かれていた。
子どもがぶつかったのか、一部が割れてなくなっている。
一人のふくよかな婦人が出迎えた。
この人も優しそうな雰囲気だった。
「おかえり。リーユーシェン」
「ただいま。王 媛(ワン イェン)さん。日本でできた友人、連れてきましたよ。」
リーユーシェンが理太郎を示した。
「どうも。お邪魔します」
「どうぞ」
婦人が中へと案内してくれた。
中から子どもたちの歓声が聞こえた。
「いっぱい!」
「先生!コアラのマーチ!」
「おいしい?おいしい?」
「リーユーシェンが持ってきてくれたの!」
リビングのような部屋には、コアラのマーチを嬉しそうに食べている子どもたちがいた。
二胡、琴、笛、ピアノなど、様々な楽器や楽譜、ドラえもんらしきキャラクターのぬいぐるみが置かれていた。
理太郎のよく知るドラえもんより、鼻の下が長い気がする。
部屋の奥のイスに、一人のおじいさんが座っていた。
あごから伸びた白い髭は胸まで伸びている。
理太郎が思わず呟いた。
「仙人……」
もぐもぐと口が動いている。
近くに立っていた女の子が仙人の口に、コアラのマーチを運んだ。
あーむ、と食べた。
「中国に2年いたが、仙人に会うのは初めてだ……」
「人ですよ」
リーユーシェンが笑った。
「年齢不明、二胡の達人、王鵬芳(ワン フォンファン)先生です!」
先生は表情一つ変えず、コアラのマーチをもぐもぐ、ゆっくりと咀嚼していた。
一見、無表情で何を考えてるのかわからず怖い印象だ。
しかし、子どもたちは、先生に何か言いに行っては、またバタバタ走りだし、慕われているようだった。
不思議な人だ。
でも、ただならぬオーラを同じ音楽家として、理太郎は感じ取っていた。
姿勢を正し、仙人をしっかり見つめた。
「福原理太郎です!二胡を教えてください!」
仙人は微動だにせず、理太郎を見つめ続けた。
「…………」
それに、理太郎は焦る。
しばらく、理太郎と仙人の間に沈黙が流れたのち、リーユーシェンあっ!と声を出した。
「理太郎の発音が下手で聞き取れないようです」
「ンなんだよっ……!」
リーユーシェンが理太郎の言ったことを綺麗な中国語で訳すと、仙人はうんと大きくうなずいた。
ゆっくり、理太郎を見た。
「聞かせておくれ」
「はいっ!」
柄にもなく、大きな声で返事をしてしまった。
仙人から少し離れたところに椅子を置き、座る。
ケースから二胡を出し、体に乗せた。
周りの子どもたちは、不思議と静かになり、理太郎を見つめた。
軽く音を出し、チューニングをする。
汗がじわりと額に滲んだ。
手が強ばる。
久々に緊張していた。
けどこの緊張感、嫌いじゃない。
仙人に、目でチューニングが終わったことを告げる。大きく頷き返してくれた。
理太郎はすぅーと息を大きく吐くと、左指で弦押し、右腕で弓を引いた。
一音の美しい音が響く。
『雨碎江南』
南の方で、優しい雨が降っているという意味だ。
今、外は晴れているけれど、この仙人先生の家の優しい雰囲気から、自然とこの曲を弾いてみたいと思った。
曲が終わった。
理太郎は恐る恐る仙人を見た。
目を閉じ、耳を傾けていた仙人はゆっくりと目を開けた。
口元は髭であまりよく見えないが、目を細め、笑っているようだ。
「青い林檎」
「ん?」
仙人の言ってる意味がわからず、理太郎はリーユーシェンの顔を見た。
リーユーシェンも少し悩みながら答えた。
「100点満点中60点くらい……ってことですかね?」
「お、おー?褒められてる!?」
「はい!どちらかといえば!」
仙人は、低い声でゆっくりとしゃべり出した。
「実に優しい、愛のこもった演奏だった。これから何色にも代わる不思議な木の実だ」
「あざっす!あの!俺に二胡を教えていただけないですか!?」
「いいだろう」
「よっしゃ!」
理太郎は大きくガッツポーズをした。
仙人は部屋の棚に置かれていた自らの二胡を取った。
「着いてきなさい」
奥の部屋へと入っていく。
リーユーシェンと子どもたちは笑って、理太郎を見送った。


「休憩、どうですかー?」
婦人がお茶を入れ、奥の部屋の扉を叩いた。
仙人が出てきて続いて理太郎も出てきた。
妙に真剣な顔つきで、先ほど教えられたことを頭に記憶しようとしているようだった。
「理太郎、お茶」
「あぁ、サンキュー」
リーユーシェンがお茶とお皿に乗った桃まんをくれた。
仙人が席に着くと、子どもたちがわらわらとその周りにあつまり、おしゃべりが始まった。
リーユーシェンが理太郎の隣にそっと座った。
「どうでした?」
「……すげー。勉強になる」
「ね、目からウコロですよね!」
「つーか、先生の演奏がすげーわ。なんつーか。二胡が魔道具みてー。音色聞くと、なんか魔法がかかったみたいになる」
「ですよね!不思議ですよね!」
しゃべる理太郎たちの周りに、子どもたちが集まってきた。
坊主頭の少年が理太郎の顔を見た、
「ねー、ねー、お前、どこから来たの!?」
「日本」
「遠いな!」
「泳いできた」
「嘘だろー」
「嘘だよ」
あははっと笑いが起きる。
「お前、中国語下手だな!」
「何言ってるのか、たまにわかんない!」
飛行機乗ったあたりから薄々感じていたが、上海の人には理太郎の中国語は発音が下手かつ、ものすごい訛って聞こえるらしい。
リーユーシェンは優しいので今まで一生懸命聞いてくれていたようだった。
「うっせーな。クソガキ。俺の言うことわかんないかもしんねーけど、お前らの言ってること、ほぼほぼ俺わかってるからな」
理太郎は口の悪い少年の頭をぐりぐりの撫でた。
「なんて?なんて?」
「広州訛り?」
今まで静かに桃まんを食べていた先生が口を開いた。
騒がしくしていた子どもたちが一斉に静かになる。
「ちゃんと聞いてあげなさい。そしたらなんて言ってるかわかるだろう?私も、お前たちの演奏がどんなにへたくそでも最後まで聞くよ」
「はい!」
子どもがもう一度、理太郎のところへ集まってきた。
「もう一度言え!」
理太郎はくすりと笑った。
チラリと転がっているドラえもんを見て、ゆっくり話した。
「どらえもん好きか?」
「もう一度!」
「どらえもん、好き?」
「嫌いだ!あんなの!」
理太郎は思わず噴き出した。
「あんな便利な道具、あるわけないもん!」
「そうだな。別に俺も好きになった記憶はねーし。のび太見てるとムカつくよな」
「それより、NARUTOだろ!」
NARUTOに日本の忍者アニメだ。
子どもたちは手で、術を出す動きをしてお互い遊び始めた。
「くらえ!螺旋丸(らせんがん)の術!」
「ぐはぁ……」
なぜか術をかけられたリーユーシェンは一瞬机につっぷしたが、すぐに起き上がり、桃まんを食べ始めた。
「くらえ!千鳥!」
「あだっ!」
今度は理太郎によくわからない術がかけられた。


先生に師事する時間はあっという間に終わり、またリーユーシェンの車で帰った。
助手席に座る理太郎は、めずらしく、にこにこしていた。
「どうでしたか?」
「楽しかった、かな」
「それは、よかったです」
「なんか先生のイメージ違った。
楽器教えてる先生って、その楽器のことしか頭になくて、厳しくてって感じのやつしか知らなかったけど……」
理太郎は、幼いころから音楽の英才教育を受けたわけではなかった。
ただ、親が音楽をやっていたから、楽器に触れ、
たまたまピアノはちょうどいい伴奏になるし、楽譜を読めるようになるのにちょうどいい楽器だから、暇潰し感覚で長年習っていただけだった。
しかし、音大には、親に、先生に、遊ぶ時間を奪われ、厳しく教え続けられている学生がごまんといた。
リーユーシェンも、おそらく、その中の一人なんだろう。
その生活を聞くたびに、そんなクソみたいな境遇に生まれなくてよかったと心底安堵していた。
それと引き換えに、今の理太郎にあるのは、中途半端な音楽の知識と、技術と、執着心だけだった。
リーユーシェンも満足そうに笑った。
「先生の教え方すごくいいですよね?私は目からウロコでした。
小さい頃から二胡弾いてて、何度もやめたい思ったけど、先生に出会って、また二胡が楽しくなりました」
「おぅ。なんつーか、プレッシャーとか感じず、単純に二胡楽しめる時間だった」
「明日も行けますよ」
「楽しみだ。また、あのガキにお菓子でも買ってくか」
「そうしましょう」
「ん?どこだ?ここ」
リーユーシェンが車を停めたのは、とある飲食店の駐車場だった。
「理太郎の歓迎会です。私の音大友達が理太郎に会いたいそうです」
ザ・中華という店構えだった。
店内も赤や暖色を基調に、高そうなシャンデリアや龍の絵、ツボや花が飾られている。
店内の奥にはすでに、10数人の学生が集まっていた。
リュウシィンイーの姿もある。
リーユーシェンたちに気づくと、こっちに手を振ってくれた。
「理太郎、僕の音大友達です」
「わぁ!日本人だ!」
みんな笑顔で出迎えてくれた。
自分と似たような顔つき、年齢。
しかし、富裕層そうっぽい育ちのよさそうな雰囲気がよくわかった。
「わざわざ、歓迎会、ありがとう。福原理太郎です」
なぜだか、少し緊張してたどたどしい中国語になってしまった。
まわりで聞いていた友達たちはうん、うんとうなづいてくれたので、なんとか通じたようだった。
「うちの親が経営する店で、今日は貸し切りだから、思いっきり飲もう!」
その声をきっかけにたくさんの中華料理やお酒が運ばれてきた。
リーユーシェンが段ボール箱をテーブルに置いた。
ぷりんが中国といえば、ぱんだ。ぱんだならさくさくぱんだがいいのではと大袋をドン・キホーテで大量に買ってきてくれていた。ぱんだの顔したクッキーだ。
「これ、日本の友人たちがお土産をくれたんです!」
「きゃー!かわいいー!」
女子学生たちはこぞって袋を開けると、スマートフォンで写真を撮り始めた。
「福原さん、何飲みますか?」
「え、あーじゃあ、紹興酒」
「福原さん、焼売食べる?」
「うん」
瞬く間に理太郎の周りにお酒と料理が並び、人が集まってきた。
リーユーシェンはちゃっかり彼女と別のテーブルに座り、ゆっくり食事を始めていた。
「ねぇ、ねぇ、日本の音大って入るの難しい?」
「一日どのくらい練習してる?」
「先生たくさんいる?」
たくさんの中国語に、理太郎は答えていく。
日本の音大のこと。日本の文化のこと。
日本に行ってみたいけど、おすすめは?
何を食べといたらいいかな?
たくさんの他愛のない話が尽きなかった。
リーユーシェンの友人たちだからなのか、みんな一様に穏やかな印象だった。
次第にそこかしこで、中国人の友人同士がしゃべりはじめ、理太郎の周りはやっと静かになった。
別に嫌だったわけではないが、少しほっとしながら、もう一度、箸をとった。
一人の女の子が近づいてきたかと思うと、少し、恥ずかしそうに、ゆっくり話始めた。
「リタロサン、ワタシ、ニホンゴ、ベンキョウしてます。イッパイ、話したい、デス」
目を見て、健気に日本語をしゃべろうとしている様子が可愛かった。
小柄で、ボブくらいの長さの黒髪。地味な雰囲気だけど、色白で可愛い系だった。
理太郎もゆっくり、日本語で質問した。
「日本語、上手だね。名前は?」
「閆 依依(ヤン イーイー)です」
「可愛い音だね」
中国語の発音は、なんか可愛い。
イーイーは少し照れながら笑った。
「……アリガトウゴザイマス」
「日本語、どうやって勉強してるの?」
「えっと、アニメや漫画デス」
「あははっ。何が好きなの?」
「今ハマってるノハ、『鬼滅の刃』デス」
理太郎の目がキラっと輝いた。声が大きくなる。
「マジ?アニメ見た?オープニングもいいけど、効果音がめちゃくちゃいいんだよ、あれ!」
「デスヨネ!最高デス!」
理太郎は日常的にアニメを見るほどオタクではなかったが、日本の音大友達から「鬼滅の刃、おもしろい。効果音めっちゃいい」と勧められ、飽きっぽい性格のわりに、アニメを視聴していた。
思いがけない理太郎の反応にヤンイーイーも目を輝せる。
「那田蜘蛛山(なたぐもやま)で、富岡義勇(とみおか ぎゆう)が父蜘蛛を切ったあとの、静かなオーボエがめちゃくちゃよかった!戦闘シーンだから、もっと激しい効果音になりがちなのに、そーゆー表現の仕方があんのかってマジ、ビビった」
「あそこ、イイデスヨネ!」
「あと、やっぱ、炭次郎(たんじろう)と累(るい)の戦ってるとこ!優しい系の、しかも、声の入った曲入れるとは……マジびっくりした」
「あのシーン、泣きマシタ」
「うん。俺も久々になんかぐっときた。さすが梶浦由記さんと椎名豪さんだわ」
「音楽担当している人ですか?」
「うん。梶浦さんの作曲したので、他にも好きなのいっぱいあって……」
「例えば」と言おうとしたところで、後ろにリーユーシェンとリュウシィンイーがやってきた。
「理太郎、アニオタだったんですか?」
「いや、別にオタクってほどじゃねーけど」
理太郎は、リーユーシェンのグラスが烏龍茶なのに気づいた。
「お前、飲まねーの?」
「あはは……。俺、禁酒中だから……」
「なんで?」
隣のシィンイーが大きくため息をついた。
「ユーシェン、酒癖、すっごい悪いの。叫ぶわ、暴れるわで、次大きなコンクールで優勝するまでおあずけ」
「へー。意外」
なぜか、この話になり、周りに人が集まり始めた。
一人の男子学生が思い出し笑いを始めた。
「こないだなんか、路上で全裸になって、看板に話しかけてたよ」
「あった!あった!」
「お店で突然犬の真似始めたとき、もうどうしようかと思って……」
「あれね。もう言葉も通じないし、置いて帰ろうとしたよね」
リーユーシェンは頭を抱えて俯いていた。
みんなもそれぞれ思い出し、爆笑している。
「じゃあ、これ、リーユーシェン以外で飲もう!」
どんとテーブルに酒瓶が置かれた。中にヘビがいる。
「うえぇぇ……」
理太郎は素直に気持ち悪がった。
「飲んでみ!精力つくよ!」
「いや、ついても、相手がいないんだよ……」
小さなグラスに数センチ、蛇酒が注がれた。
理太郎が嫌な顔してグラスを見ていると、すっと、冷たい手が理太郎からグラスを奪い取った。
「じゃ、私が飲む」
理太郎に妖艶に微笑む女性。
赤いワンピースに、豊満なバストとヒップ、化粧も濃く、やや派手な身なりだった。
グラスを傾け、少し飲んだ。
「んー!まずい!!はい、次は君の番」
まだ数ミリお酒の残されたグラスを理太郎に差し出した。
グラスには、リップの後が軽く残っている。それに気づいた女性は声に出して笑った。
「あはっ。これだと間接キスになっちゃうね」
理太郎はグラスを持つ女性の手ごと、掴むと、ぐびっと飲んだ。
「ぐほぉ……!!」
「えー、そこまでまずい?」
「……かーっ!まずいっつーか、すっげー強いな、この酒」
喉がカッカッと熱くなったかと思うと、全身がどんどん熱くなる。
女性は顔の高さまで瓶を持ち上げ、傾けるようにしてラベルを眺めた。
「45度だって」
「うわ……!」
「じゃあ、お口直し。美味しいお酒、飲も」
女性は別の酒瓶を理太郎のグラスにとくとく注いだ。
「おいおい、曹 妮(ツァオ ニー)、あんま強いのばっか飲ませるなよ」
後ろから、男子学生が声をかけるが、ツァオニーと呼ばれた女性はクスリと笑うだけだった。
「はい」
「サンキュー」
理太郎は注がれた酒を半分ほど飲んだ。
「あ、うまっ」
ツァオニーが、理太郎の耳元で囁いた。
「ね、今晩うちに泊まりに来ない?あの二人のとこじゃ気まずいでしょ?」
「……マジ?んー、でも朝早くから、また先生のとこに練習みてもらいに行くしなぁ……」
「私が起こしてあげる」
香水の匂いが香り、もう一度、理太郎は隣の女性を眺めた。
全く、何の楽器を演奏しているのか検討がつかない。
今、演奏家として音大で学んでいるわけではないのかもしれないが、それでも、昔ピアノを弾いていたとか何かしらやっているのが、音大生だ。
そして、それは案外雰囲気でわかる。
しかし、目の前のスタイル抜群の女性は、ちょっと別世界の人に見えるというか、独自の雰囲気を持っていた。
ツァオニーはもっと理太郎に近づき、体を寄せる。
「ねぇ、福原くん。うちおいでよ」
それって、そーゆーことだよな?
でも、ぶっちゃけ疲れたし、眠いし、腹いっぱいだし。
若干、胃もたれもしかけてる。
油っこい料理ばっかり。
理太郎が突然立ち上がった。
勢いで、椅子がバーンと倒れ、音を立てた。
「理太郎、大丈夫?」
驚いた顔でリーユーシェンが理太郎の肩に手を載せた。
周りも物音で注目していた。
「りた……」
顔を覗きこもうとしたとき、どんと押され、理太郎はそのままどかどかと歩き、店の外へ出た。
「理太郎?」
店を出てすぐの道端の側溝にうずくまった。
「おえええええええええ!!!」
「吐いてる!」
リーユーシェンが青ざめ、理太郎の背中をさする。
様子を見に来た友人たちに叫んだ。
「シィンイー!水!」
友人たちが、バタバタと動きだした。


目を覚ますと、ベッドの上だった。
だんだんと、目が慣れてくると、リュウシィンイーの家だということがわかった。
なんでここにいんだ……?
どうやってきた?
全く覚えていない。
時計と見ると、夜中の3時24分。
「いってぇ……!」
頭がズキズキする。
久々に飲みすぎてしまった。
ハッと部屋の中をキョロキョロする。
ベットの足元に二胡のケースが置いてあった。
急いで、二胡のケースを開け、中身を確認する。
自分が手入れをして、しまった状態から変わっていなかった。
サイドテーブルには、スマートフォンと財布が置いてあった。
財布の中身を確認する。
なけなしの1万円札は入ったままだ。
運転免許証も、健康保険証もいつもの位置にきちんと入っている。
「っはぁー……」
安堵と同時に、ぽいっと財布をベッドの上に放り投げた。
そのままベットに仰向けで倒れる。
あほくさ。
変な心配しすぎた自分に、小さく息を吐きながら笑った。
「のど、湧いたな……」
理太郎は部屋を出ると、キッチンへ向かった。
静かだ。リーユーシェンもリュウシィンイーも寝ているのだろうか。
なるべく静かに、廊下を歩く。
「ぁ……ん……」
女性の、吐息のような声が聞こえる。
反射的に、理太郎は呼吸を含むすべての動きを止めた。
「ん……ん……」
明かりのついたキッチンから、2つの影が動いているのが見えた。
「シィンイー……」
「……ユーシェン」
これはもしかしなくとも、あれ中だ。
まずい。
理太郎は細心の注意を払い、物音一つ立てないように、引き返した。
ドン!
棚に体が当たり、上に飾られていた変な顔のアヒルの置物が落ちた。
今まで生きてきた中で一番の反射神経を使い、床にダイブし、落ちるギリギリでキャッチした。
耳を澄ませる。
「えー、もう、またぁ?」
「久しぶりだから」
どうやら、理太郎には気づいていないようだ。
安堵ではぁぁぁと大きく息を吐く。
なんで、キッチンでヤってんだよ。
お前らの部屋もダブルベッドもあるっつってたじゃん。
床の冷たさが、焦った体に心地よかった。


朝。
廊下の床で、理太郎がアヒルを抱えて寝ていた。
「なんで理太郎、こんなとこで寝てるんですか?」
「酔っ払いすぎ、あはは」
リュウシィンイーも笑っていた。
「ん、……あ?」
その声に理太郎も目を覚ます。
体が痛い。
「大丈夫ですか?酔っ払いすぎですよ」
リーユーシェンとリュウシィンイーが笑っている。
「朝ごはん食べに行きますよ」
「お、おぉ……」
中国では、出かけるついでに屋台で朝ご飯を食べるのが定番だった。
二人はすでに出かける用意ができているようだった。
「その前にシャワー、浴びていい?」

中国の屋台は本当に充実していた。
初めてくると、目移りて、何を食べようかなかなか決まらなさそうだったが、時間もないため、リーユーシェンに勧められた店を選んだ。
肉まんを頬張りながら、理太郎が気まずそうな顔で聞いた。
「俺、どーやって、家まで帰った?」
ユーシェンとシィンイーはくくくっと笑いを堪えた。
「俺と、友達で車に引きずって乗せて、車からマンションへも引きずって来たよ」
「どーりで、シャワー浴びたときに、痣だらけだと思ったわ」
「福原くん、背高いからね」
「全裸になったり、犬になったりはしてないよな?」
「ふふっ。してないよ」
「やっちまったなぁ……」
「大丈夫だよ。あの子たち、ユーシェンの奇行で慣れてるから。福原くんの嘔吐くらいじゃ誰も驚かないよ」
「シィンイー」
リーユーシェンが涙目でシィンイーを見つめた。


その日も午前中から、先生のところで指導を受けた。
高齢ということもあり、何時間もみっちり理太郎を指導できず、途中休憩を挟み、夕方前には帰った。
それでも、理太郎は、リュウシィンイーの家に着くと、部屋を借り、また二胡の練習を始めた。


部屋をノックする音がすると、ドアが開き、リーユーシェンが顔を出した。
「理太郎、そろそろごはん食べに行く?」
「あー、今、大丈夫。弾いてたい」
理太郎はほとんど楽譜から顔を離さず、二胡を抱えたまま言った。
「彼女と二人で行ってこいよ。帰りに、なんか買ってきて」
「うん。わかった。リビングのテーブルに乗ってる月餅食べていいから」
「サンキュー」
リーユーシェンは静かにドアを閉めようとした瞬間、「あ!」と理太郎の声が聞こえてきた。
何事かと、ドアを開けると、目を丸くした理太郎がこっちを見ていた。
「コンクール、応募しとくの忘れてたわ」
「え!?大丈夫なんですか!?」
「わからん。クソ怒られそー……。まぁ、過ぎたことはしょーがねーか」
理太郎は、あっさり自己完結すると、また二胡の練習を始めた。
リーユーシェンは小さく笑いながら、静かにドアを閉めた。
玄関の近くでは、すでに出かける用意をしたシィンイーが待っていた。
今日は青いワンピースだった。
「理太郎、練習してるって」
「すごいがんばってるね」
「ピアノのコンクール応募し忘れるほどね(笑)」
「えー、大丈夫なの?」
「いいみたい。俺も負けられないよ」
リーユーシェンの顔を見て、彼女は嬉しそうに笑った。


あっという間に予定していた3日が過ぎた。
日本に帰るとき、空港まで、リーユーシェンの友達たちが見送りに来てくれた。
理太郎は罰の悪い顔で、まず始めに謝った。
「こないだは大惨事になって、悪かったな」
「あははっ!リーユーシェンに比べたらかわいいもんだよ」
「そうそう!」
ここまでネタにされてるのを見ると、怖いもの見たさで、酔った彼を見てみたくなった。
「これ、お土産だよ!日本の友達にもあげて!」
大きな紙袋を渡してくれた。
中には、不細工な顔したコアラのマーチっぽいお菓子やたけのこの里が入っていた。
「サンキュー!こんなにいいのか!?」
「うん!また中国来てね!」
「てゆーか、今度は日本に行ってもいい?」
「おう。案内してやるよ」
ヤンイーイーが、理太郎を見上げ、キラキラした顔でみつめた。
「カラオケ、連れてってください!」
「行こう」
「私、回転寿司行きたい!」
「回転寿司か。生魚食べれんの?」
「食べれない!」
あははっと笑いが起こる。
「リーユーシェンは?」
「あっち」
少し離れたところで、ユーシェンとシィンイーが立っていた。
彼女はうつむき、唇を噛んでいた。
なぜか理太郎まで、少し胸が痛んだ。
「ごめんね。またすぐ会いに行くから」
「……ちゃんと勉強してきてね」
「はい!」
大きな声で返事すると、やっと離れた。
理太郎たちは中国の友人たちに手を振ると、搭乗口に向かった。
飛行機の中で、自分の左の指をぼーっとみつめた。
人差し指と親指、こすり合わせてみる。
弦を押さえる手の皮が、少し厚くなった気がする。
「ピアノ弾くとき、違和感ありそーだな」
日本に戻ってからも、理太郎は、先生に教わったことを忘れぬよう、1日5時間は二胡の練習をした。
本業のはずのピアノは、ほとんどレッスン形式の講義でしか弾かなくなっていた。
案外、それは担当講師にはバレずに、むしろ「楽譜よく見て弾けてますね」と誉められるくらいで、笑いを堪えるのに大変だった。
音大生といえど、大学生なので、音楽系の科目の他に、教養科目を取らなければいけなかった。
そして、レポートの課題が定期的に出される。
TSUTAYAのバイトが終わり、家に帰った理太郎はノートパソコンに向かっていた。
Wordの書式に、とりあえず、名前と学籍番号を入力し、本文に"あ"と書いて後は白紙だった。
講義名は憲法。課題は『参考図書の中から気になる裁判を選び、気になる点、考察を述べよ』文字数約5000字。
……………………進まない。
理太郎はキーボードから手を離した。
お腹が空いた。
静かだな。
明日晴れるんだっけ?
どーでもいい独り言を頭の中につぶやく。
お腹が減って、肉まんを温めて食べた。
できたての小籠包は、肉汁がたっぷりでおいしかったな。
ふと、一緒に笑い、お酒を飲んだ中国の友人たちの顔が浮かぶ。
全然、嫌な思いしなかったな。
みんな親切だった。笑顔で自分を出迎えてくれた。
何だったんだ。あんときのデモはってくらい、違う人たちだった。
何だったんだ。マジで。
「…………」
テーブルの上に乗っていた指が、勝手にリズムを刻む。
頭の中に音楽が流れる。
理太郎は二胡を手にとり弾き始めた。
楽しくて、おもしろくて、踊るようなメロディー。
「うっせーんだよ!」
おっさんの怒鳴り声と共に、壁にドン!と何かぶつけられる音がした。
右隣の部屋だ。
忘れていた。このマンションは日本の安い、1Kのマンション。
音大生は、もっと防音の効いた部屋に入居することが多かったが、理太郎は苦学生なので、安いマンションだった。
楽器なんて、とても弾けない。
時計を見ると、夜中の2時過ぎていた。
はぁーと小さくため息を吐く。
二胡を置くと、代わりに五線譜のかかれたノートを広げ、ペンをとった。


練習室。
いつもリーユーシェンに二胡を習っている練習室ではなく、今日は少し広めの練習室を借りた。
理太郎が一人、二胡を片手に作曲していた。
何度も同じフレーズを弾き、首を傾げ、少し変えてまた弾いてみる。
テーブルの上にのった楽譜は、何度も書き直した跡があった。
バーンと勢いよく練習室のドアが開き、
なぜか息を切らしたリーユーシェンが入ってきた。
「理太郎!」
「おー」
「今度、中国で行われる二胡のコンクール、応募してきました!」
リーユーシェンの嬉しそうな顔を見て、理太郎もふっと笑った。
「大丈夫か?いきなり大舞台」
「大丈夫です!理太郎と二胡弾いていて、シィンイーに聞いてもらって、そう、確信しました!」
「いや、それは俺が下手だから、比較の問題で……」
「違いますよぉ!」
リーユーシェンはニコニコと歩いてきた。
「違います!」
念を押すように、リーユーシェンはもう一度言い直した。
リーユーシェンは鼻歌を歌いながら、二胡のケースを開けると、演奏する準備をはじめた。
それを、理太郎はチラリと見ると、低い小さい声で、五線譜のノートを見せた。
「コレ」
「はい」
「……俺が作った」
急いで書いた、乱暴で雑な楽譜だった。
楽譜の下のほうは、黄色いシミがあり、ほんのりカップラーメンの匂いがする。
リーユーシェンは、楽譜を目で追いながら、頭の中に曲を流した。
その顔を、理太郎は壁にもたれて座りながら、じーっと見ていた。
なんか、恥ずかしい。
その場でアレンジして演奏することは今までにあった。
実は、本格的にイチから作曲し、楽譜を書いて他人に見せるのは初めてだった。
リーユーシェンは頭の中で、最後まで奏で終わると、目を細め、ため息をもらすように笑った。
「いいですね。二胡、二重奏」
「マジで?」
「はい!さっそく弾いてみたいです!」
素直なリーユーシェンの喜びように、理太郎は心の中でガッツポーズする。
「私のことイメージして作ってくれたんですか?」
「お前の"演奏のっ"イメージな!んー、でも、まだ未完成」
「だって、二重奏ですから、自分一人じゃ、再現できないです」
リーユーシェンはふふふと笑う。

「すっごーい!」「おぉー!!」
練習室で、その曲を弾き終わると、ぷりん、クラーラ、けにやんに、サイトーが目を輝かせ、拍手をした。
さっき、講義が終わり、合流したばかりだった。
クラーラも目を丸くしている。
「この曲かっこいい!」
「それに、演奏自体めっちゃよくなったやん!」
「だろ?」
「たった3日行っただけなのに、その先生、魔法使い?」
「仙人」
「仙人!?」
「リーリーも、なんか変わった気がする」
「はい。彼女に会って、パワーもらいました!」
「てゆーか、この曲めっちゃ好きー!!なんて曲?」
「んー、曲名か。決めてないんだよなー」
「私がつけてあげようか?」
「いや、いい。曲名なんて、もっと仕上がってから、つける」
「あら、まだ完成じゃないの?仕上がるの楽しみね」
「あ、っで、さぁー」
理太郎はまた楽譜を手にした。
「ぷりん、ここで、こんな感じにしてくれるか?」
理太郎は楽譜のある一部分を指差した後、ぷりんからギターを受け取り、弾いてみせた。
「おっけー」
自分で修正したところを楽譜に書き込み直していく。
「んで、サイトーは……」
「はいはい」
今度はキーボードを弾くサイトーのところまで行くと、自ら鍵盤を押し、弾いていった。
「んー、こーじゃ、ねーか、違うか」
「ふーん。俺的には……」
サイトーと理太郎が何かやり取りが始まった。
なんか静かだなーと思っていると、少し、離れたところで、やにやんが理太郎から渡された楽譜片手に、黙々とオーボエを吹いていた。
しゃべってるより、楽器吹いてるほうが静かって、なんか不思議だ。
リーユーシェンがぷりんだけにつぶやいた。
「理太郎、やっぱり才能ありますね」
「うん。作曲する才能も、まとめる才能もある。うらやましいわー」
「ぷりんさんのマネジメント能力もすごいですよ。マメですし。Twitterで告知してくれたり、YouTubeアップしてくれたり、ありがとうございます」
「どういたしまして」
お互い深々と頭を下げ合った。
やがて、理太郎が「うん!こうだな!」とキーボードを弾きながら頷いた。
悩んでいたとこがやっと形になったらしい。
ぷりんが、みんなに声をかけた。
「ねぇ、ねぇ、今度は土日、公園でやってみようよ!普段、仕事とか、学校とかで、来れない人とか来てくれるかも!」
「そうしましょ!松田先生、生で聞いてみたいって言ってたから来てくれるかも!」
松田先生はクラーラ一押しの色黒でダンディーな先生だった。
「私は日曜日なら暇ですよ」
「私もー」
「俺も!」
ほとんどのメンバーが奇跡的に予定がなかった。
「私も!理太郎は?」
「えっと、21時からバイト」
「やるのは、昼間だから、ちょうどいいじゃない!」
瞬く間に、計画が決まった。
ぷりんが振り返った。
「この曲演奏しようね!」
「あ、うん、やりたい」
いつもの公園とはいえ、日曜日。この曲を人前で弾く。
理太郎は、ピリリと体に力が入った気がしたが、なんだか少し心地よかった。
計画が決まったその日に、ぷりんがTwitterで告知してくれた。
顔を覚えている常連さんから、見知らぬフォロワーにいたるまで、
『行きます!』
『楽しみ!』
『ありがとう!やっと生で聞ける!』
というメッセージがたくさん送られてきていた。
それは、日を追うごとに増えていった。
それをぷりんに教えられ、自分でも定期的に確認する度に、理太郎は少しピリピリとした緊張感と、早くやりたい!と気持ちが高ぶってきた。
日曜日当日はよく晴れた日だった。
風もない、比較的暖かい昼下がり。
理太郎たちが早めに来て準備しようとしていたところには、すでに数人の人がいた。
いつも柴犬を連れているおじいちゃんが理太郎たちを見かけると、声をかけてくれた。
「やぁ、今日も来たよ」
「ありがとうございます」
「花丸~。元気ー!?」
クラーラが柴犬の花丸に寄っていくと、わしゃわしゃ撫でた。
「ちょっと早かったかな」
「そうですね。Twitterで13時からやるって言ってあるんで、時間になったら、始めようかなと」
「んじゃぁ、もう一周してくるか」
おじいちゃんは花丸に話しかけると、くぅんと返事が返ってきた。
「いってらっしゃい。花丸ー」
クラーラが手を振ると、花丸はお尻をぷりぷりさせながら、公園をもう一回りしにいった。
「えへへ、楽しみだね」
「あぁ」
はやる気持ちを抑え、楽器を丁寧にチューニングしていく。
「福原くーん!見に来たよー!!」
常連の吉岡里帆似の女の子たちが来た。
今日はいつもの二人の他に5、6人女の子がいる。
みんな、美容やファッションにお金をかけているのがよくわかる、キラキラした女子大生だった。
理太郎が愛想よく出迎えた。
「わざわざサンキュー」
吉岡里帆似の子がチラリとぷりんたちを見た。
「今日は、人数多いね。他の楽器も加わるの?」
「うん。同じ音大のやつら」
「私も同じ大学の子に、声かけて一緒に来たよ。すごい演奏する音大生がいるって言って。頑張ってね」
吉岡里帆似の子たちは手を振って、理太郎たちから少し離れたところで、おしゃべりをして演奏が始まるのを待った。
何話してるのか、理太郎は気になってしょうがなく、チラチラ見ながら準備を進めていった。
「あ!ユナちゃん!」
クラーラが叫んだ先には韓国人のバイオリニスト、キム ユナがいた。
ひとりぼっちで、ぽつんと遠くから様子を伺うように立っていた。
「声かけといたの!」
クラーラは理太郎たちに振り返り、ウインクすると嬉しそうに走り寄った。
「ねぇ、あなたも一緒にセッションしましょう!」
「バイオリン、メンテナンス中で……」
よく見ると、いつも持ち運んでいるはずのバイオリンケースがなかった。
「あらぁ。残念」
「今日は聞くだけ」
「楽しんでってね」
自分を見ていたユナと理太郎は目が合った。
こういうとき、どうしていいかわからず、一瞬固まったのち、僅かに会釈した。
ユナからも小さな会釈が返ってくる。
「はーい、ちょっとー、一回みんな楽器持って立ってみてー」
ぷりんがメンバーに声をかけた。
ぷりんのとなりには、女の子がipad片手に立っていた。
「今日は、りんちゃんが撮影してくれるから」
「お願いしまーす!」
それぞれ、楽器を持つと、適当な立ち位置についた。
カメラで撮影するポイントを確認する。
そうこうしているうちに、たくさんの人が集まり出した。
花丸とおじいちゃんも戻ってきた。
いつもの常連さんに混じり、学生や社会人らしき人もたくさんいる。
クラーライチ押しの松田先生も来てくれた。
ぷりんがこそっと理太郎に囁いた。
「やっぱ、いつもと見かけないような人もたくさん来てくれたね」
「あぁ。いろんな人に聞いて欲しいから、今日やってよかった」
理太郎がチラリと時計を見た。
「よし、そろそろ始めるか」
「うん!」「はい!」
理太郎たちはお客さんに軽く挨拶すると、演奏を始めた。
最初の方は肩慣らしの演奏。
そして、1曲終わるごとに女子大生たちメインの声援と、拍手が鳴った。
「楽器弾ける男の子ってかっこいいー!」
「ねー」
ぷりんが理太郎の顔を見ると、やっぱり調子乗った顔をしていた。
「福原さん!握手してください!」
人混みの中から、真面目そうな眼鏡の男の子が理太郎に手を伸ばした。
まだ中学生くらいだ。
今弾き終わった曲が始まる直前に、走ってきて、ずっと目を輝かせて聞いていたので、ちょっと目立っていた。
まっすぐな瞳に、最初は戸惑うも、理太郎は手を伸ばし、握手をした。
「あのっ、YouTubeいつも見てます!今日、川崎から来ました!どの曲もかっこよくて、大切に弾いてて、ホントすごいと思います!」
「サンキュー」
「あの、私も握手してください!」
今度は小学校5、6年生くらいの女の子が手を伸ばしてきた。
理太郎は、びっくりした顔で握手すると、すぐに「やった!」とぴょんぴょん飛びはねた。
その流れで、たくさんの人がこえをかけてくれた。
「いつも、素敵な演奏ありがとうございます!」
「仕事で結構嫌なことあるんだけど、演奏聞いて、忘れられてるよ」
「受験勉強また、頑張れそうです!ありがとうございます!」
「こ、こちらこそ、ありがとう、ございます……!」
たくさん声援を送ってくれる人たちに驚き、理太郎はぎこちなくお辞儀をした。
もう一度、お客さんを見渡す。
今まで演奏してきた中で一番たくさんの人が立ち止まり、自分の演奏を聞いてくれていた。
ぷりんがさっき、YouTubeのライブ配信を確認したところ、現在70人ほど視聴してくれているらしい。
体がゾクゾクする気がする。
「よし、アレ行こう」
理太郎がリーユーシェンたちの顔を見て言った。
みんな頷く。
理太郎はお客さんのほうを向くと、少し恥ずかしそうにアナウンスした。
「あ、えっと、次は、自分が作曲した曲です。曲名とか、決めてないんですけど……聞いてください」
またパチパチと小さな拍手が起きる。
メンバーが楽譜を準備できたのを確認し、演奏が始まった。
キレよく響く、二つの二胡の音。明るくてポップな曲の雰囲気。
理太郎とリーユーシェンの美しいハモリ。
今までの演奏は、「かっこいいね」とか「これ、何の曲だっけ?」とかお客さん同士、小さな声で話している雰囲気があったが、この曲が始まると、そういう人はいなくなった。
みんな、一心に、理太郎たちを見つめ、耳を澄まし、曲に聞き入っている。
理太郎は夢中で演奏し、仲間の音を聞き、あっという間に終わってしまった。
ふっと顔を上げると、拍手の波が押し寄せる。
「…………」
優しい拍手に包み込まれ、理太郎はしばし、呆然としてしまった。
今まで拍手を受けてきたことは何度となくあるけど、終わったら拍手するという形式的な感じの拍手ばかりだった。
こんな優しい拍手は初めてだった。
拍手って、こんなに気持ちいいものなんだ。
延々に鳴り続ける拍手の中、理太郎は、お客さんの顔を一人一人眺めた。
中学生の男の子。小さな女の子。柴犬連れたおじいちゃん。優しく微笑むおばさん。興奮してる女子大生。赤ちゃんを連れたお母さん。仕事帰りなのか作業着を着た人。30代っぽいラフな格好のお兄さん。バリバリ働いてそうな女性。車椅子の男性とそれを押す女性。
たくさんの人がいた。
リーユーシェンたちと目が合った。
一緒に演奏したやつらも、嬉しそうに笑っている。
「ありがとうございました!」
理太郎は柄にもなく、深々と綺麗な頭を下げた。

やがて日は傾き、寒くなってきた。冬の夕暮れは早い。
見ていたお客さんは、また一人、また一人と、軽くお辞儀をしながら、申し訳なさそうに帰っていった。
薄手のパーカーに、ショートパンツのぷりんがくしゅんとくしゃみをした。
「お前、薄着すぎ。今日はこんくらいにしとくか」
「そうですね」
聞いていただいていたお客さんに、改めてお礼を言った。
前までは、「また来るねー」と一言言い、すっと帰っていったお客さんも、今では、声をかけられ、しゃべりこんだりすることも増えた。
特にぷりんやリーユーシェンはそういうお客さんに丁寧に対応していた。
その間、クラーラとけにやんは小腹が空いたので何か食べ、サイトーはいち早く帰っていく。
理太郎は楽譜を見つめていることが多かった。

心地よい疲労感を感じつつ、理太郎は二胡をかかえ、公園のベンチに座り、ぼーっと景色を眺めた。
スマートフォンを取り出し、生配信していた今日の演奏を選んだ。
すでに、生配信は終わっていたが、閲覧者が2000人ほどになっていた。
コメント欄には、日本語の他にたくさんの中国語コメントがあった。
『你好~ 好听 很好~』(こんにちは~ いいですね~)
『你会被治愈』(癒されますね)
『好酷!』(かっこいい!)
『是最高音楽良音色感動』(最高の音色に感動してます)
『我想听现场音乐!』(生演奏聞いてみたい!)
お客さんはほとんど帰り、ぷりんとクラーラが、寒い寒いと言いながら、自動販売機に、あったかい飲み物を買いに向かった。
けにやんは師匠にレッスンがあるからと帰っていった。
隣にリーユーシェンが座った。
理太郎がぽつりと呟いた。
「お金もらってるわけでもないのに、拍手がもらえたら、嬉しくて、
お客さんもお金払ってるわけでもないのに、寒い中一生懸命聞いてくれる。なんかすげーな」
「そうですね。特に、今日は楽しかったです」
「うん。俺も」
背中から夕日がさしているのがわかる。
ということは、今見ている方角は東。
今いる東京から遥か先、富士山を始め、いくつかの山を越え、東シナ海を渡ったら、中国の上海があるはずだ。
そんなこと、今まで考えたこともなかったけど、地図上だとそうなる。
小さな茶色い鳥が数匹自由に飛んでいった。
「中国でも弾いてみてーな」
中国人相手に、自分の二胡の腕を披露し、どうだ?すごいだろ?と言いたいわけじゃない。
本場で勝負してみたいってのも、間違ってはないけど、ちょっと違う気がする。だったら、コンクールに応募すればいいだけだ。
でも、そういうことじゃない。
本当に、ただ、単純に、中国で、中国の人に、自分の二胡の演奏を聞いて欲しいと思った。
なんでだかよくわかんないけど。
「理太郎?」
座ったままの、理太郎にリーユーシェンが声をかけた。
理太郎は振り返る。
「もう一度、中国行きたい。中国の公園とかでも、弾いてみたい。日本人として」
理太郎が笑った。
「一緒に行かないか?」
「行く!!」
即答した。
「私も、中国の路上とかでやったことないからやってみたいです!理太郎が作曲した曲も聞いてもらいたい!行きましょう!理太郎!!」
「ちょっと、待ってー!何の話!?」
ぷりんたちが戻ってきて、理太郎たちに詰め寄った。
「何?どこ行くの!?」

寒いからと、いつものファミレスに移動した。
席に座り、注文をしたところで、さっそくさきほどの話を話し始めた。
「中国に行くの!?いいね!行きたい!」
「中国で演奏するの、おもしろそー」
ぷりんとクラーラは手をバタバタさせ、はしゃいだ。
「麻婆豆腐食べたーい!私たちも行っていい?」
「あー」
クラーラに中途半端な返事を理太郎は返した。
それを見て、ぷりんがはしゃぐのをおさえる。
「まー、男二人で行ったほうが身軽でいいかな?」
「んー、まあな」
理太郎がぽつりと返す。
小さい声だったが、ぷりんはそれだけで、自分が行きたいという主張をするのをやめた。
代わりに、ぷりんの頭の中では、理太郎たちが中国で演奏する演出やライブ配信のやり方など考えていた。
リーユーシェンがスマートフォンでスケジュールを調べ始めた。
「いつ行きますか!?旧正月始まる前がいいですよ!混みますから。今年は1月24日からです!」
「年末年始は航空チケット高くなるから、避けたほうがいいかも」
金を連想するキーワードを聞いて、理太郎は急いでスマートフォンを取り出し、操作を始めた。
「…………」
「理太郎?」
理太郎を見ると、自分のスマートフォンを見つめ、顔が凍りついていた。
「……ねぇ」
「は?」
「金がねぇ……」
理太郎からスマートフォンを渡され、画面を見つめた。
銀行口座の明細の画面で、残高がマイナスになっている。
「え?」
ぷりんが意味がわからず、もう一度画面を凝視した。
「フツーに明日生きる金もねぇ……」
「からあげ大盛りお待たせしましたー」
妙に明るいウェイトレスさんの声と共に、からあげの乗ったお皿がテーブルに置かれた。
クラーラはフォークで、からあげをぶっさした。
翌日は、お昼の時間から集まった。
理太郎の行きつけの定食屋だ。
12月後半になると、冬休みになるはずだったが、集中講義があったり、TSUTAYAのバイトが棚卸しで休めなかったり、リーユーシェンがイベント手伝ったりと、中国へ行ける日は限られていた。
「行けるのは12月21日から22日まで。たった2日……?」
「弾丸だね」
「でも、早い時期に行っとくのがいいと思うよ。特に理太郎は。2月、3月になって、単位がどうのこうの騒ぎだすと思うから」
「で、水道代払えた?」
「あ、あぁ、なんとか……。でも、ガス代は払えんかったから、昨日は水のシャワーだったわ」
「え!?」「ヤバ」「真冬に真水とか……」「死ぬよ」
「それが、最後のほうは温かく感じるんだよな。不思議」
「仕送りとかしてもらってないの?」
「いや、してもらってるんだけどさ、生活費の口座と光熱費、カードの引き落としの口座、一緒だったから……」
「ちゃんと、計画的に使わなきゃ」
「今日はあと500円で生きる」
「500円……」
「親からお小遣い前借りできないの?」
「親父と喧嘩してさぁ」
「この年で、喧嘩するようなことある?」
「はい。もやし炒め定食ね」
大将が理太郎のまえに、お盆を置いた。
もやし炒め定食。このお店で一番安い定食だ。
もやしなんて、俺一度も頼まずに終わるなと思っていたが、ついにその日がきた。
理太郎は待ちきれないように、口に放り込んだ。
「うまっ!この店なんでもうまいな!」
サービスで大盛りにしてくれたご飯をどんどんつめこむ。
クラーラは大盛りからあげ定食を頬張りながら、口を尖らせた。
「ねー、ねー、ホントに私たち着いてっちゃダメなの?おもしろそうなのに!」
リーユーシェンが理太郎の顔を横目で見た。
理太郎は真顔でもやし定食を食べながら答えた。
「……んー。まずは、二人で行くわ」
「えー、なんでー?」
声が大きくなるクラーラをぷりんがなだめた。
「まぁ、いいじゃん。まずは理太郎とリーリーに下見してきてもらって、しっかり準備して次は私たちも行こう!」
「そうね!中華料理たくさん食べて太っても大丈夫なように、痩せとかなきゃ!」
クラーラはまた唐揚げにかぶりついた。
ぷりんがホッとしたように息を吐くと、今度は理太郎を見た。
「で、問題は旅費だよ」
「うん」
「工面できそうなの?」
「15日にバイト代入るから、それで……。あー、でも、滞納してる水道代の引き落としもあるし、連休中国行ってバイト入れなかったから、いつもより少ねーかも……」
頭抱える理太郎に、けろっとした顔でリーユーシェンが言った。
「旅費くらい、僕が出しましょうか?」
ぷりんとクラーラが身を乗り出した。
「それはダメ!」
「理太郎にお金貸したら、今後もタカってくるに決まってるよ!」
理太郎は頬杖をつきながら言った。
「しかも、お前の金じゃなくて、親の金だろー」
「はい」
「いーなー。ボンボンは……」
理太郎はスケジュール帳を睨んだ。
「とにかく、バイトを入れるだけ入れて……」
「でも、二胡の練習もしたいでしょ?」
「うん」
理太郎が真剣な顔でぷりんを見つめた。
「それに、今までみたいに公園で演奏も続けたい」
「でしょ?闇雲にバイト入れて、節約するんじゃなくってさ……」
ぷりんは鞄からノートとペンを出した。
「バイトの時給は?」
「基本、1,013円で、22:00以降は1,266円」
「うん」
ぷりんは理太郎のスケジュール帳のバイトが入っている時間を計算し、数字をノートに記入していった。
「っで、毎月の支出は?」
「え、わからん。基本的に、このカードで支払ってんだけど……」
理太郎がスマートフォンをクレジットカードの利用明細の画面にして、なんの躊躇もなくぷりんに見せた。
「うーん。これに、学食や定食屋で食べた食費が追加されるわけね」
ぷりんは自分のスマートフォンの電卓機能でざっと計算していく。
その間、理太郎は思わずクラーラのから揚げを睨んでしまった。
「なぁ、1コくれ」
「やだ」
「理太郎、僕のアジフライ一個あげます」
「サンキュー」
リーユーシェンに分け与えてもらったアジフライをおかずに、ぷりんの残した白いごはんを頬張った。
「できた!光熱費、通信費の支出と、バイト代の差額で、バイトは最低、これくらい入っとけばいいと思う」
「おぉー!サンキュー!すげーなお前」
「時間がないんだし、ちゃんと計画的にやらなきゃ」
「ぷりんさんは理太郎のお母さんですね」
リーユーシェンがほっこりした顔で言った。
「え!?それは嫌」

その日は、お昼すぎから、公園で演奏を始めることになった。
講義が終わったけにやんとサイトーも合流した。
セッティングや肩慣らしていると、ぷりんが鞄から何か取り出した。
「あと、もう1コ、いいこと思いついたんだ」
理太郎たちが立っている前に、譜面台をお客さんの方に向けて立て、そこにスケッチブックが乗せた。
『中国に演奏しに行きます。資金が足らないので、募金してください』
と書かれていた。
その下には、籐の籠が置かれた。花柄の布が引かれて、リボンがついている。
「乞食作戦!」
ぷりんが笑いながら言った。
そして、この乞食作戦は案外うまいこといった。
演奏を見に来てくれた人が、財布をかき回しチャリンと数百円籠に入れていってくれた。
「ありがとうございます」
理太郎たちが演奏しながら、お礼を言っていく。
おじいちゃんやおばあちゃんは少しばかり多めのお金を入れてくれた。
「ありがとうございます」
「ありがとうございます!」
曲が終わると、改めてお辞儀をし、お礼を言う。
散歩中のおばあちゃんが話しかけてきた。
「中国行くの?」
「はい。バイトしてるんですけど、旅費もなくて……」
「がんばってね。おにぎり食べる?」
「食べます!」
おばあちゃんが鞄から、アルミホイルに包まれたおにぎりをくれた。
理太郎は有難く受け取り、アルミホイルを剥くと、おにぎりにかぶりついた。梅のおにぎりだった。
「いーなー」
クラーラが羨ましそうな顔をしたので、リーユーシェンが鞄から、どらやきを出した。
「クラーラさん、食べますか?」
「食べる!」
「じゃあ、ちょっと休憩~。トイレ~」
けにやんがお手洗いに向かった。
リーユーシェンは他のメンバーにもどらやきを配ると、みんな一息ついた。
おにぎり食べ終わった理太郎は、どらやきにまで手を伸ばす。
「たった数百円でも、ありがたいぜ」
「細かいお金、ある程度溜まったら、銀行に入金したら?」
「入金ってどうやってやんだ?」
「え!?」
「銀行の窓口にお金と通帳持ってけばやってくれるよ。ATMでもできるけど」
「へー。入金したことねーから」
「まぁね。お金は出ていく一方だよね」
「クレジットカード引き落とししてる口座に振り込んどけば、両替しなくても、中国で使えるじゃん」
「はい。そうします」
ぷりんも、スマートフォン片手に、どらやきを食べた。
「あ、そうだ。水曜日、青山に演奏に演奏しに行かない?」
「なんで青山?」
「Twitterのメッセージにあったんだけど、青山に住んでる人がいて、子どもが小さいから、遠出しにくいんだって」
「青山くらいなら、頑張れるよね」
「そうだな。いいじゃん青山」
理太郎も笑った。
「じゃあ、青山で弾きますって告知しちゃうよ」

当日、青山の公園には、赤ちゃんをベビーカーに乗せた30代くらいの女性がいた。
少し疲れ、不安そうな顔だった彼女は、楽器を持った学生を見つけると、ハッとしたように顔を上げた。
ぷりんが声をかけた。
「あなたがナツハさんですか?」
「はい」
「いつも、動画見てくださって、ありがとうございます!」
リーユーシェンが綺麗なお辞儀し、他のメンバーもバラバラにお辞儀をした。
「今日はわざわざ、こんなところまで来てくれてありがとう」
「いえいえ、案外近かったです」
ベビーカーに乗っている赤ちゃんは、何が気に入らないのか、泣き続けていた。
ナツハさんは、子どもを抱きかかえると困った顔で笑った。
「ごめんね……うるさくて……」
全く気にする様子もなく、理太郎が赤ちゃんに笑いかけた。
「赤ちゃん、泣いてても大丈夫ですよ。演奏してる間にきっと、寝ちゃうと思います」
理太郎たちはすぐに、楽器を用意すると、演奏を始めた。
思った通り、理太郎たちの演奏で赤ちゃんはすぐ寝てしまった。
瞬く間に、演奏を聞きにきた人だかりができ、たくさんの人がお金を入れてくれた。

「素敵な演奏でした。本当にありがとう」
演奏を終えると、ナツハさんから、5000円札を差し出された。
「え!?こんなに!?」
「うん。もらって。赤ちゃん泣きっぱなしで、移動するのも億劫で、ずっと家に籠ってたの……。でも、生の演奏聞けて、楽しくって、また子育てがんばれそう。今日は本当にありがとう」
女性の顔からは、最初に出会ったときの疲れたような雰囲気は消えていた。
「また、来ます!」
理太郎は、なんの計画性もないまま、そう答えていた。
ナツハさんは嬉しそうに笑うと、子どもをベビーカーに乗せて、自宅へと帰っていった。
「ね、早くご飯食べに行こう。お腹すいちゃったぁ」
すっかり片付けを終えたクラーラが、大きなお腹を押さえて、本当に悲しそうな顔をしていた。
見渡せば、おしゃれなお店が立ち並び、一度行ってみたい気になるが、今は理太郎が節約中のため、しぶしぶマクドナルドに入った。
理太郎とクラーラが注文している間、リーユーシェンとぷりんは今日のお金の計算をした。
100円玉や500円玉が多い中、チラホラ1000円札もあった。
トレーに大量にハンバーガーを乗せた理太郎たちが戻ってくると、ぷりんが嬉しそうに報告した。
「今日は、なんと、50,560円!」
「おぉ!すっげぇ!たった1時間演奏しただけで。こんなに……!?さすがセレブの町、青山」
理太郎たちはハンバーガーをかぶりつきながら、目の前に置かれたお金をまじまじと眺めた。
ぷりんはマックシェイクのバニラにストローを指しながら言った。
「でも、あのお母さん、すごく喜んでくれてよかったね」
「赤ちゃんがいると、外出しづらいんだな」
「そうだよ」
初めて知ったという顔で理太郎が言った。
「まだ2、3か月だと、授乳間隔短かったり、ずっと泣いてたりで、外出面倒なんだよ。でも、ずっと家に赤ちゃんと二人っきりってのも息が詰まるし……」
「へー」
「ぷりんさん詳しいですね」
「お前、子どもいんの?実は俺よりこっこー年上だった?」
「いとこんトコに1歳児がいるから、たまに話聞くの」
ぷりんは、チーズバーガーを手に取ったまま、口をつけず、少し真剣な眼差しで言った。
「TwitterやYouTubeのコメント見ると、そういう人いっぱいいるよ。生の演奏聞いてみたいけど、聞けない人。怪我してたり、介護してたり、過疎地に住んでたり……」
「あと、お金なかったりね」
「いろんな人がいるんだな」
理太郎が妙に真剣な表情で、言葉を受け取っていた。
ぷりんが少し物悲しそうにつぶやいた。
「YouTubeで手軽にいろんな音楽聞けるのもいいけど、やっぱり生演奏が一番だよね。島の人に聞かせたいな」
「私はお父さんに聞かせたいわ」
クラーラも一瞬、悲しそうな目をしたが、すぐに、目の前のトレーに3つもハンバーガーがのっているのに気づいた。
「ぷりんちゃん、このてりやきバーガーもらっていい?」
クラーラが本日4つ目のハンバーガーに手を伸ばした。
「ダメ!」


12月も中旬になり、ますます寒さが厳しくなってきた。
それでも、晴れて風の強くないときにはたくさんの人がさんぽやランニングに、公園を訪れていた。
有難いことに、常連のお客さんはコートに帽子、カイロ持参で、しっかりと防寒対策をして見に来てくれている。
今日も、子どもが独立したくらいの女性や、犬の散歩に来た高齢の男性、学生がチラホラ聞きにきてくれた。
今日は、他のメンバーは講義やレポート提出があるとかで、久しぶりに、理太郎とリーユーシェン、二人だけでの演奏だった。
お客さんは数人だったが、その分、たくさんおしゃべりしながら、リクエストしてくれた曲をその場で演奏してみたり、二胡という楽器について紹介したりと、お客さんと近い距離でふれ合うことができた。
リーユーシェンがお手洗いにと、姿を消した。
それに気づいた上品なマダム二人が、こそこそっと理太郎のところに寄ってきた。
週1程度で、聞いてくれる常連さんだった。
「福原くん、中国で演奏するの?」
「はい。今ここでやってるみたいに、中国の路上とかでも、やってみたいなって」
マダム二人は、ほんの一瞬、顔を見合わせた。
ベージュの上品なコートを来たマダムが少し、言いづらそうに切り出した。
「大丈夫?気をつけてね」
「え、あー、はい」
「石とか……投げられないかしら」
「日本人が二胡なんか弾いてんじゃねぇって」
「……やっぱ、そう思います?」
理太郎は苦笑いしながら言った。
なんとなく思ってた。だから他のやつらを連れて行くのはノリ気じゃなかった。
「まあね、最近の若い子はそうじゃないと思うけど……」
「まあ、いろんな人がいるから……」
マダムたちは強く止めたり、はっきりした言葉で表現しなかったが、息子ほどの年齢の理太郎が心配で仕方がないようだった。
振り返らずも、リーユーシェンが帰ってくる気配に気づくと、ブランド物の鞄から、ブランド物の財布を取り出した。
「じゃあ、はい」
マダムは、一万円札一枚取り出すと、理太郎に手渡してくれた。
それを見たもう一人のマダムも、同じように一万円札を渡す。
理太郎の手に2枚の一万円札が握られた。久しぶりに見る福沢諭吉だ。
「え!?こんなにも、いいんですか!?」
「なにかあるかもしれないから」
「旦那には内緒ね」
「ありがとうございます!!」
「頑張ってね」
「はい!!」
リーユーシェンが戻ってくると、理太郎の手の中にあるものを見て、目を丸めた。
「こんなにも……!?」
黒いコートのマダムがリーユーシェンの腕をぽんと叩いた。
「リーくんの分も入ってるからね!」
「これで、頑張ったご褒美においしいものでも食べてね!」
「すいませんっ!こんなにっ!」
「いいの。じゃ、私たちはこれで……」
「ありがとうございます!」
去っていくマダムたちに、リーユーシェンは綺麗なお辞儀をして見送った。
ティポンという通知音が鳴った。
理太郎がスマートフォンを取り出すと、公園でよく演奏を聞いてくれていた吉岡里帆似の女の子からLINEが来ていた。
でも、よく見ると、3日前から未読のメッセージがあった。
『理太郎くん!最近既読にならないね。どうかしたの?』
『体調崩したとかじゃないといいけど…』
『心配』
『なんで返事してくれないの?』
『あの女の子と一緒にいるの?』
『ふざけんな』
あの吉岡里帆似の可愛らしい女の子が、こんな言葉遣いをするなんて衝撃だった。
「くっそぉー……。あとちょっとで付き合えるかと思ったのに、なんなんだよ」
理太郎はスマホを握りこんだ。
ぶっちゃけ、中国へ行く準備やバイト、曲を仕上げるのに夢中になり、返事をしていなかった。
「3日放置しただけで、勝手にキレんなよな。女ってホントめんどくせーな」
リーユーシェンは相変わらず笑顔で、二胡の手入れをしながら言った。
「女性はそういうものです。諦めましょう」
「お前の彼女は、頭よさそうだからいいよな」
「頭はいいですが、感情をコントロールできるかは別ですよ。女性は感情的な生き物ですから」
「悟ってんなぁ……」
理太郎は目を細め感心する。リーユーシェンが菩薩に見える。


中国へ経つ前日、12月20日。
今日は早めに公園での演奏を切り上げた。
ファミレスで理太郎たちが腹ごなしをしている間、ぷりんとクラーラがお金を計算してくれた。
「できた!」
「今日は2,536円!今までの合計で……」
「ドゥルルルルルル……」
隣でけにやんがドラム音を口で鳴らしている。
「ジャジャーン!」
「55,623円です!」
「おぉー!すげー!」
全員でパチパチと拍手をした。
発表したぷりんは、嬉しそうに計算したスマートフォンを眺めた。
「すっげー、俺のクソみたいな演奏でも、こんなになるんだな」
理太郎は目をキラキラさせ、ぷりんが記録してくれていた今までの金額を眺めた。
「みんな、理太郎を応援してるんだよ」
「こりゃ失敗できねーなぁ。プレッシャー……」
「明日何時の飛行機だっけ?」
「8時」
「早っ!起きれる?」
「がんばる」
ぷりんがかばんからごそごそ何かだした。
ごまたまごだった。
「これ、中国でリーユーシェンの友達に、いろいろ手伝ってもらうんでしょ?これ、お土産というかお礼!あとこれ、カメラね。撮って欲しい位置とか書いたの一緒にしてあるから!」
「サンキュー……」
理太郎がなんかソワソワし出した。
心なしか、顔が赤らんでいる気がする。
「……あ、ありがとな。俺の、行くの、手伝ってくれて……」
ボソボソした声だったが、なんとか聞こえたようだった。
みんな、くすっと吹き出しそうなのを堪え、顔を見合せた。
「手伝ってるの、楽しかったよ!演奏、楽しみにしてるから!」
「寝坊しないでね!!」
予定していた12月21日。
理太郎は寝坊せず、無事飛行機に乗り、中国に着くことができた。
上海は、東京より少し暖かかった。
空港から出ると、リーユーシェンの後について電車に乗った。
着いたのはリーユーシェンが所属する大学だった。
校内はとてつもなく広かった。
大きめの練習室に案内される。
重い防音のドアを開けると、
以前、中国に来たときに、理太郎の歓迎会を開いてくれたリーユーシェンの友達たちが出迎えてくれた。
事前に、リーユーシェンが連絡してくれたため、理太郎の今回の旅の目的を把握していた。
「久しぶり!」
「中国で演奏するんだって!?」
「そのために、お金貯めたりしたって聞いたよ!」
「すごいよね!来てくれてありがとう!」
リーユーシェンが笑った。
「伴奏とか、いろいろ手伝ってくれるそうです」
「あ、あぁ、あはは……」
聞き取れないレベルの早口で、中国人の友達の圧に押され、理太郎は歯切れの悪い返事をし、苦笑いした。
「俺、そんな二胡がうまいわけじゃねーし。そんな派手に手伝ってもらっても、盛り上げられるかわかんねっつーか……」
リーユーシェンに強めの力で、両肩を叩かれる。日本語で叫ばれた。
「大丈夫です!盛り上がります!!」
「大丈夫だよ!!」
「一緒に頑張ろうよ!!」
「そんな心配そうな顔すんなって!」
リーユーシェンの友人たちも口々に何か叫びだした。
さすがに、こんな同時に何人もしゃべられると、何を言っているかわからない。
お、おぉと中途半端な返事をする。
その様子にやっと、友人たちはしゃべるのをやめた。
恰幅のよい男子学生がゆっくりとしゃべった。
「俺らは、投稿された理太郎たちの日本での演奏、ずっと見てたんだ。成功する、誰もがそう思ってる。協力させてくれ」
「……サンキュー」
それ以上、気の効いた言葉が思いつかず、理太郎は、小さくお辞儀した。
リーユーシェンが時計をチラリと見た。
「時間がありません!さっそく練習しましょう!」
「あぁ」
恰幅のよい男子学生が、また声をかけた。
さっきから、他の学生たちからリーダーというあだ名で呼ばれていた。
「伴奏を、俺らでやりたいと思ってるんだけど、どうかな?」
「あぁ、それは、あったら有難いな」
「ただね、俺らのメンバーの中では伝統楽器みたいな琵琶や揚琴(ようきん)、笛とかを専門的にやってる人はいないんだよね」
「あ、それは大丈夫。伝統音楽っぽい雰囲気じゃない曲もたくさん用意してるから」
少し話し合った結果、練習時間が少ないため、基本的にはエレクトーン一台が伴奏に入ることになった。
練習時間に余裕があれば、曲によっては、他の楽器も入れてみる予定だ。
エレクトーンは一台で音階を出すはもちろん、ドラム音なども出すことができる万能な電子楽器だ。
「エレクトーンうまい子いるんだよ」
みんなが見つめる視線の先には、ヤンイーイーがいた。
理太郎とアニメのBGMで盛り上がった彼女は、音大でエレクトーンを勉強していた。
すこし、緊張した表情だ。
「あの、できるだけがんばるね!」
「よろしくお願いします!」
理太郎が声を張り上げ、お辞儀をした。
その声量に若干驚きながら、両手を握ってもう一度、理太郎を見上げた。
「あんまり、即興とかは得意じゃないけど……できるだけがんばるから!」
「ありがとう!」
まっすぐ見つめる黒い瞳に、勢いで抱きしめそうになるが、なんとかどどめ、理太郎はさっそく鞄を漁った。
たくさんの楽譜の束をヤンイーイーに渡す。
少し驚いた表情をしている。
「これ、全部やれって言ってるわけじゃないからね!」
「う、うん!」
「この中で、エレクトーンの伴奏を入れたい曲の優先順位をつけたら?」
後ろからリーダーが楽譜を覗き込んだ。
「そうだな!つーか、演奏したい曲もまだ確定できてねーし。曲順も決めなきゃな!」
若干、興奮気味の理太郎にリーユーシェンが声をかけた。
「理太郎、落ち着いて。暫定でいいので、ある程度決めましょう。ちなみに、途中で俺のソロの曲欲しいです」
「お、おぉー……」
自信と余裕を感じる表情に、理太郎だけでなく、まわりの友人たちまで、感嘆の声を上げた。
そして、数分時間をもらい、曲順とエレクトーンの伴奏が欲しい優先曲の順位をつけた。
弾きたい曲が山ほどあり、実際、理太郎はまだ迷っていた。
ヤンイーイーが楽譜を手にとり、立ち上がった。
「えっと、二胡と合わせる前に、少し、練習していいかな?」
「うん」
「30分くらい。隣の部屋でやってるね」
そういうなり、イーイーは隣の練習室へと向かった。
今度は、2、3人の男子学生が立ち上がる。
「じゃあ、俺らで昼飯買ってくるよ」
「なんか、食べたいのある?」
「えっと、肉まん的なの」
「俺、マンゴーラッシーが飲みたいです」
リーユーシェンのピンポイントの要求に、友人は軽く顔をしかめる。
「マンゴーラッシー!?」
「福原くんは?」
「米系でっ!」
「りょーかい」
今度は女子学生が二人立ち上がった。
「じゃあ、私たちでイーイーが見やすいように楽譜整えてくるね!」
「画用紙、いっぱい余ってるから、それに貼ろう!」
「福原くんたちは?いる?」
「俺は大丈夫。ほとんど頭入ってるから」
「俺も」
「了解」
リュウシィンイーが、ツァオニーに声をかけた。
「じゃあ、私たちは、中国語で出すタイトルとか用意しよう」
「簡単な曲紹介も入れたいね」
リーユーシェンの友人たちは、瞬く間に役割分担をし、それぞれ動きだした。
「他にも、やって欲しい雑用あったら、遠慮なく言ってね」
リュウシィンイーが理太郎に小さく笑った。
もうありがとうございますしか言えず、各々動き出してくれた友人たちにお礼を言いまくった。
その熱量と行動力に理太郎は若干、圧倒される。
「みんな、やる気満々だね。じゃら、俺らは、預かったカメラの使い方確認したり、配信テストしてみるから」
リーダーを含む3人の男の子が、ぷりんが用意してくれた機材の入った鞄を取った。
「なにかわかんなかったら、カメラの持ち主のぷりんってやつが対応するから、電話してみてくれ!英語はペラペラなはずだから」
「OK!」
残された理太郎にリーユーシェンが声をかけた。
「理太郎」
慌てたように振り返ってしまった。
「俺らはどうする?二人で合わせる?」
「……んー、そうだな」

ランチタイム。
買ってきてもらった屋台の食べ物をならんだ。
リーユーシェンは買ってきたマンゴーラッシーを満足気に飲んでいた。
食べながら、軽い打ち合わせをする。
リーダーが理太郎に声をかけた。
「案外、どの曲も完成度高いね。もうちょっと、楽器増やしてみる?」
「あー、そうだな。後半に弾きたい曲で増やしたいの、ある」
「じゃあ、みんな昼メシ終わって、みんな落ち着いたら、確認してみようか」
「あぁ、ありがとな」
ボソッと要望を伝えると、リーダーを中心とした人たちが、段取りをしてくれたり、アドバイスをしてくれたりしてくれた。
今までの人生の中で、理太郎は一番お礼を言っている気がした。
まだ名前も覚えれてない男の子が、理太郎に声をかけた。
「あ、そうだ。友達に見に来るように誘っとくね!」
「まぁ、でも、いいよ。そんなに知り合い誘わなくて」
「なんで?」
「まぁ、なんだ。あんま、知り合いとか、サクラとかじゃなくて、たまたまその場に通りかかった人をさ、いいな、聞いてみたいなって足を止めさせてみたいんだよなー」
理太郎の発言に、一瞬周りのみんなは固まった。
しかし、すぐにおぉーと声が巻き上がった。
「かっこいー!」
「自信満々だな!」
「いや、まぁ、そうなったら、いいなって話!」
理太郎は、思いの外、反応が大きかったため、恥ずかしそうに頭をかいた。
「始めて30分経っても、誰も立ち止まらなかったら、サクラ呼んでくれ」

理太郎は手早く食べ終わり、楽器を手にし、チラっと隣の部屋を覗いた。
ヤンイーイーがエレクトーンに向かい、必死に練習していた。
理太郎が部屋に入ってきたことも気づいていない。
理太郎は邪魔しちゃ悪いかなと思いつつ、近寄っていった。
「どう?」
「わっ、理太郎くんっ」
イーイーは目を丸め、手を止めた。
「驚かしてごめん。お昼ごはん、ちゃんと食べた?」
「うん。食べたよ。あ、えっと……このアレンジ、すっごいかっこいいね!」
イーイーが楽譜を指さした。理太郎がアレンジした一曲だ。
「サンキュー。弾きづらいとことかない?」
「ううん!ないよ!他の曲も、みんな弾きやすい!
ただ、テンポが速い曲は、まだ指がついていかなくて……」
「どころどころ、手抜いてもらってもいいし」
「やれるだけやるよ!あったほうが、絶対かっこいいし!」
理太郎が楽譜を覗き込んだ。
「この曲、一回弾いてみてくれる?」
「うん!」
自分も椅子に座り、二胡を構えた。
「いくよ」
ヤンイーイーは一生懸命演奏を始めた。
ほとんどの曲は二胡の前に自分の前奏から始まる。
前奏がつまづくなんてことの絶対にないよう、細心の注意を払って演奏しなければいけない。
やや固い、ヤンイーイーのエレクトーンに乗って、理太郎の柔らかい二胡の音色が入ってきた。
ヤンイーイーは、一瞬、体がふわりと飛んでいきそうになるが、こらえ、鍵盤を強く推した。
もっと、二胡の邪魔にならないように弾きたいのに、体が緊張してしまう。
1フレーズ弾くと、理太郎が声をかけた。
「あ、一回いい?」
「うん」
ピタっと演奏を止める。
理太郎が経つと、ヤンイーイーのほうへ歩いてきた。
「あ、そこ、違ったなー」
理太郎の長い腕が、ヤンイーイーのすぐ目の前を通り、左腕近くの鍵盤を押した。
音が鳴る。自分の心臓の音かと思った。
顔が近い。自分のすぐ右上にある。
理太郎の低い男性的な声が耳元で響いた。
「こんな感じでやってもらっていい?」
「……え?あ、うん!」
理太郎がきょとんとした顔で見てきた。ふっと笑う。
「少し、休憩しようか。デザートにシュークリーム買ったって言ってたけど、食べた?」
「あ、ううん。まだ……」
「食べといでよ。その間に楽譜書き直しておく」
「ありがとう。助かる」
イーイーは顔を赤くさせたまま、立ち上がると、隣の部屋へ急いで走っていった。


夜2時。
当たりは真っ暗になっていた。
微かに星空が見える。
「あーーーーーー!!練習足らなーい!」
誰かが叫んだ。
広い大学構内に響き渡る。
最後まで残ってた理太郎、リーユーシェン、ヤンイーイーをはじめ、数人の学生たちがぞろぞろと出てきた。
不安と疲労が入り交じった顔のヤンイーイーを理太郎が覗きこんだ。
「大丈夫か?ぶっ続けでやったから、だいぶ疲れたよな?」
「う、うん。でも、楽しかったよ!明日が楽しみで今日は寝れなさそう」
「俺も。家どこ?遠い?」
メガネをかけた男子学生が振り替える。
「あ、俺、バイクで来てるから、送ってくよ」
「え!?じゃー俺は!?」
隣でひょろっとした男の子が声を上げた。
「お前は走って帰れ」
ガーン!という顔をして、さっそく走るようにストレッチを始めた。
なんか懐かしいやり取りに少し、体がほころぶ。
理太郎はもう一度、空を見上げた。
青い夜空が広がっていた。
気分が高揚して、眠気も疲労も全く感じてなかった。
「明日か……」
結局、バタバタして、ぷりんたちに連絡できていなかった。
こんな時間にLINEでも送ったら、怒られるかな。
「んじゃ、俺らここで」
駐輪場に行くというメンバーが振り返った。
「あぁ、明日、よろしくな」
「がんばろうな!」
午前10:00。
昨日あれだけ遅くまで練習していたにも関わらず、みんな時間通りに来てくれた。
「おはよう」
後ろから声をかけられ、振り替えるとヤンイーイーが、笑顔で理太郎を見上げた。
いつも薄化粧のイーイーが、今日は濃いめの化粧で、綺麗だった。
ボブの髪は、コテで巻き、左サイドだけ編み込み、赤いリボンがついていた。
理太郎が無言で見つめるので、ヤンイーイーは視線を反らし、苦笑いした。
「化粧、濃い、かな……?」
「ううん。いいと思う」
もっと気のきいたことを言えればよかったが、それ以上言えなかった。
「よかった。リュウシィンイーがやってくれたの」
「本当はもっと可愛い服着せたかったけど、時間がなくて」
リュウシィンイーが軽く残念そうな顔した。
「私は目立たなくていんだよぉ」
しゃべりながら、歩いて大学近くの、演奏候補地に向かった。
場所は昨日、リーダー達が考えて、確保しといてくれたらしい。
「ここ、どうかな?」
ついた場所は、公園へと続く広場のようなところだった。
自転車くらいは通りそうだが、近くは車が通りそうになく、安全そうだった。
「住宅や騒音気にするような建物ないから、大丈夫だよ」
「たまに、音大生も演奏してるし、問題ないと思う」
「ありがとな」
周りには広葉樹が等間隔で植えられ、少し離れたところでは太極拳をしている人がいる。
「緑がいっぱいでいいねー。一度、こんなとこで演奏してみたかったんだぁ」
女の子が辺りを眺め、嬉しそうに言った。
「ここなら、100人くらい集まれるんじゃない?」
「100人も来るか……?」
理太郎が思わず言ってしまった。
「来るよ。だって、君たちの演奏、凄かったから!」
リーダーが自信満々に言った。

演奏の予定は13:00から。
予定では1時間、演奏するつもりだ。
19:00には空港に戻らなければならない。
今日中に日本に戻り、翌日1限目の講義に出席しなければ、理太郎は卒業が危ぶまれるレベルで単位が足らなかった。
演奏が始まるまでの数時間、中国の友人たちは、エレクトーンの用意や、理太郎たちの椅子の用意。
カメラの位置を決めたり、Web配信の確認など雑用を全てやってくれた。
その間、理太郎もリーユーシェンは大学の練習室で、最後の練習をしていた。

そして、12:30過ぎ。
セッティングがほとんど終わった。
理太郎は椅子やエレクトーンが並んだ今日のステージを見た。
心臓は痛いくらい、鳴っている。
理太郎たちはその傍ら、木の影の目立たないたころで、通りすぎる通行人に背を向け、待機していた。
薄手のダウンを羽織り、リュウシィンイーが買ってきてくれた肉まんを食べ、自前の二胡のチューニングを丁寧に行った。
あとは、告知していた時間を待つだけだった。
「やべー、緊張してきた!」
理太郎は貧乏揺すりをしながら、時たま、通行人をチラチラ見た。
それを見て、リーユーシェンがぷっと噴出す。
「理太郎が緊張してるの初めて見ました」
「え?あ?そうかぁ?」
「適度な緊張感はいいことです」
理太郎とは対照的に、リーユーシェンは落ち着いていた。
ゆったりとした気分で、パフォーマンスが始まるまでの待ち時間を楽しんでいるようだった。
「理太郎のくせにチキンだなー、もう」
理太郎のスマホからぷりんの声が聞こえた。
隣に置いておいたスマートフォンを理太郎は手にとり、画面を見た。
Skypeのテレビ電話の前で、日本に残してきた友人たちが勢揃いしていた。
一目でわかる、後ろに見えるファンシーでカラフルな部屋の様子はぷりんの家だ。
画面の大きいパソコンを前に、みんなが待ち構えていた。
東京の狭い1Kの部屋に、ぷりんに、クラーラ、サイトー。
「あれ、けにやんは?」
「今お腹痛いって、トイレだよー。もうちょっと待ってあげて」
「あと10秒」
「え!?もうそんな時間!?」
「嘘」
「だよねっ」
あははっと声を出して笑う。少し気が紛れた。
画面の中から、ジャーとトイレの水を流す音と「イタ!」と言っているような叫び声が聞こえてきた。
東京のトイレはけにやんには狭すぎる。
理太郎はもう一度、行き交う通行人を眺めた。
聞こえてくる言語は、遠くて聞き取れず、それで何人(なにじん)かはわからないのに、なんとなく中国人とわかるのは、口を大きく開け、一生懸命しゃべる様子からだ。
日本人は、口が小さくギリギリ聞こえるくらいの声量で話す。
どっちがいいのかはわからない。
「はぁー……」
緊張なのか、またため息が漏れてしまった。
リーユーシェンが、声をかける。
「大丈夫です。あんなにたくさん準備したんですから。曲順もある程度決めましたが、臨機応変にいきましょう」
「……そうだな」
「理太郎」
「ん?」
「理太郎の二胡の音色、すごく柔らかくて、優しくなりましたね」
「……そうかも」
中国の友人たちが集まってきた。
円陣のように、体を寄せ会う。
「そろそろ時間だよ」
「何かあれば、いくらでもフォローするから」
「サンキュー。頼もしいやつら」
「さぁ、始めましょう」
「あぁ。んじゃ、行ってくる」
理太郎はスマートフォン越しにぷりんたちに話しかけた。
「これ、よろしくな」
Skypeを繋げたまま、リーダーにスマートフォンを預けた。
リーダーは笑顔で受けとると、演奏に向かう理太郎の後ろ姿を映した。
「理太郎!リーユーシェン!がんばって!」
スマートフォンから、ぷりんたちの声援が理太郎たちに届いた。
理太郎とリーユーシェンはダウンを脱ぐと、それぞれ二胡を手にとった。

ぷりんのパソコンの画面が、生中継の映像に切り替わった。
人がチラホラ移る広場が見えた。
比較的静かで、多少の人ざわめきが聞こえる。
その画面の中にリーユーシェンが入ってきた。
黒のスラックスに、龍や花など中華風の模様が光沢ではいり、襟まで詰まっている黒のジャケット。
普段の優しげな雰囲気とはまた違ったキリッとした雰囲気だった。
その後ろを歩く、理太郎は袴姿だった。わざわざ弓道をやっていた友人に借りた袴。
上は白、下は黒のシンプルな色使い。羽織はない。
弓道も、剣道もしたことないくせに、なかなか着こなしていた。
そして、頭にはフルフェイスのヘルメットをしている。
ぷりんたちが大爆笑した。
「ぷっ、理太郎、ウケる!」
「不審者丸出しなんだけどっ!」
演奏者らしき二人が出てきたことに、その辺に座り、おしゃべりしていた大学生があっと、視線を向けた。
太極拳をしているおばあさんたちも動きを止めた。
やはり、理太郎の格好に笑っている。
リーユーシェンはステージの真ん中まで来ると、立ち止まった。お客さん側で、ぽつんと目の前に立って、待っていたシィンイーと笑い合う。
ステージの中心には2脚の背もたれのないイスが置かれ、リーユーシェンと理太郎はそれぞれ、そこに座った。
エレクトーンはその後ろにセッティングされ、すでに、ヤンイーイーが座って待機していた。
ツァオニーが、低くした譜面台に、二人名前の書いたスケッチブックを立てた。
習字が得意だという、ツァオニーが書いてくれたのだ。
綺麗な字で、『福原 浩太郎』と書いてある。
福原は中国のプロ卓球で活躍していた福原愛さんと同じ苗字。
〇太郎は、日本の男の子の、定番の名前だ。
漢字を使う中国人なら、日本語で読めなくとも、字面で日本人だとわかるだろう。
その隣に、譜面台がもう一つ用意されていた。こちらは曲名を出す予定だ。
その理太郎たちを真っ正面撮影するのは、ipadのカメラだ。
ぷりんが用意してくれたもので、日本でも使っていたカメラ。
今日も生配信され、映像は日本や中国でも見ることができる。
もう一台、リーダーの手に理太郎のスマホのカメラが起動していた。
こっちはSkypeでぷりんたちのスマートフォンと繋がっている。
今は理太郎の横顔を間近で撮している。
リーダーはちょこちょこカメラの撮す場所を替え、リーユーシェンを撮したり、お客さんを撮したりしていた。
さっそく、興味津々な目で学生グループが集まってきた。
理太郎たちの前に陣取ると、騒ぎ出す。
「何が始まるの?」
「和服着てる」
「あ、あれ名前見て。日本人だよ」
「ホントだ」
「変なカッコ」
「強盗でもするのかな?(笑)」
「二胡演奏するんじゃない?」
スマートフォンを取り出し、変なカッコして二胡を持つ理太郎たちを撮りだした。
今回の演奏も、勝手に撮って、拡散してもらうことも期待しているので、誰も止めようとはしなかった。
遠くから、おばあちゃんとおじいちゃん3、4人が見ていた。
少し怪しみ、少し面白がっているような不思議な表情をしている。
理太郎とリーユーシェンが誰かを探すようにキョロキョロ当たりを見渡した。
「もうすぐ来ると思う」
リュウシィンイーが小さな声で言うと、すぐに小さな子どもの騒ぐ声が聞こえた。
「先生!早く!」
「こっちだよ!!」
5、6人の子どもたちの集団に混じり、白い髭が蓄えられた老人とぽっちゃりした婦人が現れた。
「リーユーシェン!」
「見に来たよ!」
子どもたちの声に、リーユーシェンは笑って手を振って応えた。
適当なところに陣取ると座り込む。
理太郎が軽く、先生たちにお辞儀をすると、先生は小さく笑い、頷き返してくれた。
無事着けたことにホッとし、わざわざ見に来てくれたことに、緊張していた心がまた和んだ。
理太郎とリーユーシェンが椅子に座り、二胡を膝に乗せ、弓を取った。
後ろを振り替えると、ヤンイーイーが大きくうなずいた。
ipadで理太郎たちを撮影している男の子は、親指を立て、準備OK!と合図をくれた。
理太郎はリーユーシェンを見た。
笑顔で大きくうなずいてくれた。
準備は整った。
理太郎はふーっと息をゆっくり吐くと、弓を弦に当てた。
二胡独自の、コクのある、妖艶な音が響いた。
周りでザワついていた観客が静まり返り、二胡の音色に耳を傾けた。
理太郎の二胡一本の音色が、多くの通行人を振り返えらせた。
曲は『シルクロード』
ユーラシア大陸の砂漠を、ラクダに乗り、中国の長安を目指す光景が目に浮かぶようなゆったりとした曲だ。
二胡もまた、そのシルクロードを歩み、ペルシャより伝えられたと言われている。
長安へ伝えられたものは、さらに海を渡り、日本へも伝えられた。
「おぉー」
「すげー」
「うまいじゃん」
目の前の学生たちがお互い顔を見合わせ、小さな声で騒ぎ出した。
通り過ぎようとしていた通行人がチラホラ、集まってきた。
理太郎は一音、一音をいつも以上に丁寧に、確かめるように弾いていく。
綺麗な、混じり気のない音が響く。
いい子だ。今日は絶好調だな。
動きが固いのはむしろ、自分のほう。
体の力を抜くよう意識しながら、腕を、指を動かした。
1フレーズ終わると、リーユーシェンが音を重ねてきた。
キーボードの伴奏も加わる。
リーユーシェンと顔を見合せる。
気持ちいいハーモニー。
いい感じだ。
40代くらいの女性が一人、理太郎の目の前に立ち止まった。
二胡の音色にうっとりと、耳を傾けている。
その後ろでは女子高生が二人立ち止まった。
瞬く間に、10人、20人とお客さんが増えていった。
理太郎はフルフェイスのマスク越しから、お客さんである中国人を見ていた。
おそらく、みんな理太郎という名前と、和服から日本人だと気づいている。
だれも、石なんて持ってない。
ニヤニヤと笑いながら、自分を指さすものもいない。
笑ってるけど、そういう笑いじゃない。
喜んでくれているような笑顔。
友達同士、夫婦同士、顔を見合わせ、演奏を楽しんでくれている。

最後の一音がだんだんと消えていくようにして、曲が終わった。
たくさんの拍手が鳴り響いた。
フルフェイスのマスク越しで、ミュートされた拍手の音しか聞こえなかった。
理太郎は二胡を置いた。
「理太郎?」
リーユーシェンが、振り向くと、理太郎がフルフェイスのマスクを外していた。
さっきよりも、大きな拍手が響いた。
よく聞こえる。よく見える。
ほっと息が漏れた。
自分が相当滑稽な姿だったことを、小さく笑って誤魔化した。
それをバレないように、深くお辞儀をした。また拍手が鳴る。
髪をさっと整え、理太郎はもう一度二胡を手に取った。
「やっぱ音聞こえねぇわ」
「ですよね」
ふふっと笑い合うと、二人はまた、二胡を構えた。

2曲目に選んだのは『揚州小調』
明るく、優雅な曲だ。
ときに、リーユーシェンと掛け合うように、メロディーを紡いでいく。
お客さんの脚をだいぶ止めることができた。
生配信を見ている人も増えたようだ。
自分たちも、体が温まった。

次は、2000年代に流行った女子十二楽坊の『自由』だ。
本来、笛、琴、揚琴(ようきん)など、中国の民族楽器で構成されている曲だが、エレクトーンと二胡二台に、理太郎がアレンジした。
二胡とエレクトーンの掛け合い。
理太郎とリーユーシェンのユニゾンが力強い。
最後は二人で、キリっと弾き終わる。
一瞬の静寂の後、拍手が鳴り響いた。
リーユーシェンがキラキラした笑顔で、理太郎に目を合わせてきた。
「いいよぉ!いいよぉ!理太郎!お客さんの反応、めっちゃいいですよ!」
「よし、アレ行く!」
理太郎が立ち上がった。
イーイーの顔を見ると、理太郎が何を弾きたがってるのか、すぐにわかったようだ。
大きく頷く。
ツァオニーは次の曲をリーユーシェンに教えてもらうと、スケッチブックをめくった。
リーユーシェンは二胡をおき、しばらく休憩だ。

ヤンイーイーの伴奏が入る。
キレのいい理太郎の二胡が響いた。
バイオリニスト、葉加瀬太郎作曲の『情熱大陸』
理太郎の色気と、男性的な勢い、情熱的さが溢れ出る演奏だった。
「おー」とお客さんの声が上がる。
特に女性のウケがいい。
理太郎はその反応に、嬉しそうにニッと笑った。
リーユーシェンはお客さんの近くまで行くと、何かしゃべっていた。
また、たくさんの拍手が理太郎たちを包む。

気持ちが高ぶり、早く次の曲が弾きたくなる。
理太郎はヤンイーイーが視界に入るほど後ろへ下がり、次の曲を確認し合った。
目を合わせ、二人は同じタイミングで息を吸い、音を出した。
キレのいい、二胡の音が一気にお客さんを引き付ける。
「あっ!」一部だけ飛び上がって喜ぶ人たちがいた。
あれが中国のアニオタなのだろう。
曲はアニメ『艦これ』のエンディング『吹雪』
おそらく、原曲を知っている人は、この場には少ないはずだが、瞬く間に多くの人が目を輝かせ、心踊らせた。
「これこれ!」と興奮気味に友達と顔を見せ合う者。
アップテンポに頭を激しく動かしている者。
不恰好に、握った両手の拳を上下に振ってる者。
日本のネットカフェや自宅では、この生配信を、ヘッドフォンつけて、ノリノリで聞いてるオタクがたくさんいた。
気持ちよさそうな理太郎が眩しかった。
ヤンイーイーは置いていかれないように、必死に全身を使い、演奏する。
昨日、理太郎が自分に相談してきたのを思い出した。

「この『吹雪』って曲さ、第二次世界大戦中の戦艦を擬人化したアニメの曲なんだけど、演奏していいと思う?」
「大丈夫だと思いますよ。前、中国人のオタクたちが演奏してるときありましたが、普通に盛り上がってました。かっこいい曲だから、福原さんに是非弾いてほしいです!」
「オッケー」
「戦艦を擬人化って、発想がヤバいですよね!」
「だよな。日本人、ホント頭おかしいわ」

テンポや、使う楽器などたくさんのことを打ち合わせしたが、選曲についての相談はこれきりだった。
日本人にとってもメジャーではないこの曲だったが、一度聞くとメロディーが頭から離れない。
壮大な長音とピッと止める短音、テンポの速さ、力強さを必要とするこの曲は理太郎が弾くのが相応しいとさえ思ってしまう。
その伴奏をできることが、ヤンイーイーはめちゃくちゃ楽しかった。
2番に入り、理太郎は演奏しながら歩き出した。
どこへ行くのかと思いきや、エレクトーンの後ろ、イーイーの隣だった。
エレクトーンの椅子は横長で、人が二人座れるほどの広さだ。
理太郎は空いているところに、お尻を軽く乗せた。
イーイーは突然のその行動に、手と足は演奏を続けながらも、顔を赤くし、口を開け、驚いたように理太郎を見た。
理太郎はそれに、ふっと小さく笑うと、勢いのままに演奏を続ける。
なんで、こんな近くっ……!
別に音が聞こえないわけでも、なんでもない。
むしろ、こんな近くに寄られたら、必死すぎる顔や、汗かいてるの、バレちゃうかもしれない……!
でも、そんなこと気にしている暇はない。
理太郎の勢いにおいてかれないように、すぐ、楽譜に目を戻す。必死に指を動かし、足も動かした。
曲の後半、エレクトーンの和音が鳴る。
理太郎は止まる。何もかもが動けずにいる。
大きく息を吸ったヤンイーイーと理太郎の腕が勢いよく動き出した。
絶妙なタイミングでサビが入る。
目の前がピカッと光った気がした。
気がついたら、曲が終わっていた。
ヤンイーイーは肩で息をしていた。
生配信のチャットには
『サイコー!』
『かっけー!!!』
『ぷぎゃー!』
と怒涛のコメントが寄せられていた。

日本で理太郎たちが演奏していた公園。
そのベンチに座り、吉岡里帆似の女の子がスマートフォンで生配信を見ていた。
わん!という鳴き声に、顔を上げると、柴犬の花丸を連れたおじいさんがいた。
「あ、花丸と、おじいちゃん。今、福原くんたち、中国で演奏しますよ」
「映像見えるかい?このために、スマホとやらに買い替えたのに、見方がわからなくてね」
「どうぞ」
吉岡里帆似の女の子は、ベンチの隣を開け、おじいちゃんにスマートフォンを見せた。
「すごい頑張ってるね」
「はい。かっこいいです」

リーユーシェンが戻ってきた。
理太郎は一旦、二胡をおき、三味線を手にとった。
今日、理太郎が二胡以外に弾く唯一の楽器だ。
三味線は理太郎は苦手意識があるのか、譜面台と楽譜を用意した。
色ペンで、たくさんの注意書きの記号がかかれている。
イーイーが落ち着いたのを確認すると、伴奏に入ってもらう。
ヤンイーイーと盛り上がったアニメ『鬼滅の刃』のオープニング『グ蓮華(ぐれんげ)』
アップテンポでエネルギーを使う曲だ。
今まで、曲についていくのにいっぱいいっぱいだったヤンイーイーの表情が急に、気持ち良さそうな顔になった。
楽しそうに腕と脚を動かしている。
逆に理太郎が、とりおり苦しそうな表情を見せながらも、懸命に、手を、動かす。
一方、リーユーシェンは余裕そうな顔で、主旋律を弾いていく。
理太郎が小さなミスする度に、チラリと笑いながら見てくるので、悔しいが、今は弾くので精一杯だった。

理太郎の実家では、姉の里美がリビングのソファに座り、スマートフォンを眺めていた。
友達から、おもしろいパフォーマンスをしている音大生がいると、教えてもらって見てみたが、よく知った顔が、二胡を弾いて、そのあと、三味線を弾きだした。
離れたところで、爪を切っていた父の雅之に声をかけた。
「ねぇ、お父さん。理太郎によく似た人が中国で演奏してる」
「何言ってんだ。あいつは中国嫌いだから、人違いだろ」
「でも、二胡の他に、ほら、三味線も弾いてるよ」
「へっ!?」
驚き、爪切りを放り投げると、雅之は里美のスマートフォンの画面を見つめた。
老眼だったため、離す。
「……これ、俺のお古じゃないか」
三味線の撥(ばち)を当てる、胴。その側面、胴かけと呼ばれる部分が見覚えのある模様をしていた。
「二胡と合わせるのおもしろいね。隣の男の子と息ぴったり。あっ、失敗した」
「なんだあいつ、三味線は音が小さいから嫌いとか言ってたくせに……」
「理太郎、中国の、しかもこんなとこで演奏するなんて……」
里美はまたスマートフォンを眺めた。
雅之も画面を見るため、顔を寄せてきたので、体ごと反らした。
「もう、自分ので見て」

弾き終わり、ふぅと息をつく理太郎にリーユーシェンが笑った。
「アニソン、そんなに知らなかったんですけど、おもしろい曲いっぱいありますね!」
「あぁ。経済的にも一大ジャンルだからな」
「次は、俺の番です」
リーユーシェンが、軽く二胡を鳴らし、音を確かめた。
理太郎は楽器を置き、少し、離れたところに座った。
体が汗ばみ、息が上がった。
中国の友人が、すっと水の入ったペットボトルをさしだしてくれた。
「サンキュー」と受け取り、水を飲む。
思ったより喉が渇いていて、がぶがぶと半分ほど飲んでしまった。
次は、リーユーシェンがメインで演奏する。
実はこれ、めちゃくちゃ楽しみにしていた。
リーユーシェンの得意で大好きな曲『賽馬(さいま)』
草原を疾走する馬をイメージさせる曲だ。
二胡を練習し始める人が憧れる曲だが、アップテンポ、さらに、弦を押さえる手の動きが多彩で、難しい曲だった。
理太郎もこっそり練習してきたが、納得いく演奏になるには程遠かった。
リーユーシェンの二胡1本のゆったりとしたメロディーが響いた。
一呼吸すると、アップテンポのヤンイーイーの伴奏が加わる。
リーユーシェンの動きも突然速くなる。
まさしく、馬が駆け出した。
高速で動く右腕、左指をもろともせず、リーユーシェンは笑顔でめちゃくちゃ楽しそうに演奏していく。
今にも馬は飛んで行きそうなくらいだ。
理太郎は椅子に座ったまま、口を半開きで見ていた。
今の自分にはとても真似できない。
リュウシィンイーのほうを見ると、ユーシェンを一点に見つめ、頬を高揚され、目を輝かせていた。
うん、納得。これはカッコいいわ。
今までのこいつの演奏で一番いいかも。
最後には、馬の鳴き声のような音を弓を弦でこするように出し、フィニッシュした。
目の前で聞いていた、シィンイーが嬉しそうに拍手を送った。
「すげー……」
理太郎が放心状態のままこぼした。
やっぱこいつ、めちゃくちゃ二胡うまいじゃん。
リーユーシェンは満足気な様子で立ち上がると、拍手をするお客さんに軽くお辞儀を繰り返した。
そのまま後方の理太郎に振り返った。
理太郎もパチパチと拍手を贈る。

一旦、理太郎とリーユーシェンは集まり、曲のリストを手にした。
それには、理太郎が弾きたい曲が、ベストだと思う順番に列挙されていた。
「お客さんの声出てきたから、次、これ、弾きてーな」
ある一曲理太郎は指差す。
「うん。いいね!」
リーユーシェンも笑顔で笑った。
リーユーシェンは影で控えていた他のメンバーに伝えに言った。
少し離れて見守っていた、中国の友人たちが、各々、自分たちの楽器を持って現れた。
イーイーが前奏を弾き始める。
特徴的なメロディ。お客さんたちは、「あー」という顔をした。
『世界に一つだけの花』
2003年にリリースされた、日本の男性アイドルグループSMAPの代表曲。
「NO.1にならなくてもいい もともと特別なOnly one」という歌詞がよいと、大ヒットした曲だ。
それが国境を越え、中国でもたくさんの人たちに愛されている。
1フレーズ目を理太郎は椅子に座り、笑顔で弾き始めた。
リーユーシェンが横で手拍子を促すと、たくさんの人が手を叩き始めた。
お客さんの口が小さく動いているのがわかった。
歌詞を口ずさんでいるのだろう。
演奏を邪魔しないような小さな声だった。
1フレーズ終わると、今度はリーユーシェンの番だ。
理太郎は二胡を置き、手を叩いた。
Bメロに入ると、中国人の友達がフルートを吹き出す。
1フレーズ終わると、次のメロディーをオーボエが、次はバイオリンが、トランペットが、とどんどん交代していく。
サビに入ると、全員でメロディーラインを演奏した。
様々な楽器を演奏する中国の友人たちが、自分の周りに集まった。

生配信の視聴者はどんどん増えていく。
車イスの夫婦。
赤ちゃんを子育てしているお母さん。
引きこもりの中学生。
瀬戸内海の離島に住んでいるぷりんの友人、家族。
理太郎の通う音大の友達。
あの眼鏡でポーカーフェイスのピアノ専攻の友人も、黙って、スマートフォンを見つめていた。

「中国の友人のみなさん、ありがとう」
理太郎のスマホから、流暢な英語で、女の子の声が聞こえた。
持っていたリーダーはカメラを自分を撮すように切り替えた。
画面の中央では、ぷにんたちがいた。
「理太郎が中国で演奏できたのは、あなたたちのおかげです。ありがとうございます」
リーダーは小さく首を振った。
「彼が凄いんだよ。なんか、サポートせずにはいられなくなる」
「わかるー」
画面の中で、クラーラが言った。
「今度、セッションしようね!」
「もちろん!」
リーダーはまた、画面を理太郎たちに向けた。

どんどんと増えたお客さんが、ついに理太郎たちを260度くらいに取り囲んだ。
前の列の人は地面に座り込み、後ろの方の人は花壇のヘリに立ち、演奏を見ようとしていた。
小学生くらいの子どもや学生、おじいちゃん、おばあちゃんまでいる。
この場にざっと、300人くらいはいるだろうか。
日本でも、こんなに集まったことはなかった。
生配信の方は、閲覧数が500人を突破していた。
ついに最後の曲になった。
今まで、挨拶や曲の紹介など一切しゃべらず、二胡を弾き続けてきた理太郎が口を開けた。
「次が、最後の曲です。自分で作曲しました。聞いてください」
発音に心配してた中国語だったが、お客さんにはなんとか理解してもらえたようだった。
さらに期待に胸膨らませ、静まり返り、理太郎とリーユーシェンを見つめた。
その気持ちを受け取るように、理太郎はお客さんをゆったり眺めながら、隣にいるリーユーシェンにつぶやいた。
「この曲、ここで弾きたかったんだ」
「うん。この曲、大好きですよ」
リーユーシェンが理太郎見て笑っていた。
理太郎も笑い返す。
中国の友人たちも楽器を構える。
この曲は、こだわって、他の楽器も伴奏に加わってもらった。
理太郎は振り返り、楽器を構える友人たちを見た。
メインで伴奏してくれたヤンイーイー。
カメラを構えるリーダー。
スケッチブックを出してくれたツァオニー。
みんな、理太郎を応援する眼差しだ。
最後にチラリとリーダーの手にあるSkypeの画面を見る。
日本に残してきた友人たちとも目が合った。
やっぱり安心する。
あいつらとこの曲を弾き込んでこなければ、こんな大勢の前で演奏することは不可能だっただろう。
リーユーシェンと目が合った。
そもそも、こいつが俺の下手くそな二胡を盗み聞きしなければ、今こんなことしてないと思うと、笑える。
ホント、たまたまなんだ。
1度弾いてみたいなと思ってた楽器の一つで、たまたま安く手に入りそうだったから。
よかったよ。二胡弾いてみて。
理太郎は、二胡を構えた。

最後の曲は『宴』
久しぶりに中国を訪れ、二胡を習い、中国の友人たちと時を過ごした。
その興奮のまま、二胡を取り、作った。
ぷりんたちにもかっこいいと言ってもらえた曲。
気持ちが全部、なかなか形にならず、ギリギリまでここをこうしたいとアレンジを繰り返し、その度に、リーユーシェンとイーイーは「うん」と返事一つで覚え直してくれた。
やっと完成した。曲名もつけれた。
静まり返った冬の空の下、リーユーシェンの美しい音色が響いた。
そこに理太郎が重ねて言った。
溶け合うハーモニー。
その響きを、美しさを存分に味わうように、二人は音を繋いでいく。
メロディーラインをお互い追っていく。
リーユーシェンの二胡の音色は優しくて、濃厚だ。
理太郎の二胡の音色は、元気で、明朗で、遊びに誘ってくるような音だった。
アップテンポに変わった。
お互いがお互いにおいてかれるか!と腕を動かす。
「おぉー!」とお客さんが、小さく息を漏らす。
見ている方が、二人についていこうと、手を握り、呼吸が浅くなる。
今度は、スローテンポになり、急にエロチックな高音が響いた。
理太郎の滑らかに動く左指に合わせ、二胡が声をあげる。
それに、今後は、リーユーシェンがハモらせていく。
それがまた妖艶さを増した。
またアップテンポに。
また、理太郎とリーユーシェンの腕が激しく動いた。
やばい!くそ楽しい!
二人同士に、フィニッシュした。
腕が同じ形で止まる。
お客さんも呼吸が止まる。
一瞬、時間が止まった。

それを解かすような温かい拍手が鳴り響いた。
理太郎はそれが聞こえて、心まで届いて、やっと、肩から力を抜き、腕を下ろすことができた。
顔を上げ、目を開ける。
たくさんの中国の人が一自分たちに温かい拍手を贈ってくれていた。
一瞬、目の前が滲んだ。

なんだ、おんなじじゃん。

日本で送ってもらったたくさんの拍手と一緒だった。
リーユーシェンも、うっすら汗をかき、口で浅く呼吸をしながら、嬉しそうに理太郎を見て笑った。
たぶん、自分も同じ顔してる。

ぷりんの家では、みんなが号泣していた。
「うぇーん……。理太郎、リーユーシェン、よかったよー!」
「感動した!感動した!」
「あー!俺も混ざりてぇー!」
「二人だけずるいー!」
ティッシュを大量に掴みとると、鼻水を拭いた。
中国の人たちの拍手がスピーカーから聞こえてくる。

理太郎は、弓を左手でひとまとめにして持つと姿勢を正し、囲むように密集したお客さんを見渡した。
たくさんの人が一生懸命拍手を送ってくれている。
笑顔の人。感動して涙拭いている人。隣の友達と興奮気味にしゃべる人。
嬉しい。気持ちいい。やった……!
観客に向かって叫んだ。
「謝謝(シェイシェ)!ありがとうございました!」
深くお辞儀をする。
拍手が延々と理太郎とリーユーシェンを包み込んでいた。
翌日、講義が終わった理太郎はすぐに、いつもみんなが集まる練習室に向かった。
ドアを開けると、いつものメンバーがノートパソコンを取り囲み、昨日の録画を見ていた。
リーユーシェンの姿もある。
理太郎に気づくと、メンバーたちは立ち上がり、理太郎を笑顔で出迎えた。
「おかえりー!」
「感動したよー!」
「大成功だったね!」
「よかったやん!」
「すごい盛り上がったね」
普段、人を誉めなさそうなサイトーまで、明るい言葉をくれた。
「あぁ。すっげー楽しかった!」
理太郎がドヤ顔で自慢気に笑った。
部屋の奥に進み、鞄と二胡を置いた理太郎に、ぷりんが詰め寄った。
「ねぇ、約束覚えてる?今度は私たちも一緒に演奏するって」
「あぁ、覚えてるよ」
理太郎は鞄から、印刷した楽譜を引っ張り出し、ぷりんに渡した。
「何?これ」
「新曲」
「はやっ!」
「帰りの飛行機の中で考えてた」
他のメンバーも楽譜を覗きこむ。
「二胡に、ドラムに、サックス、キーボード、グロッケン……」
「チェロ、ギター……めちゃめちゃ楽器あるじゃん」
あははっと理太郎は笑った。楽譜を読んで行くと、この後、さらに楽器が増える。
「だから、お前らの力借りたいなって」
理太郎は少し、視線を泳がせ、照れながら話しだした。
「考えたんだけどさぁ……なんか、今、なんとなーく集まって、演奏してるじゃん?」
「うん」
「これから、もっと、こういうの続けていきたいなって思ってて……その、ちゃんとグループ名的なの決めて、やってきたいなって……。で、もっと曲作って、お前らと完成させて、お客さんに届けたい。普段、音楽に触れる機会が少ない人に、音楽、届けられるようなことをしていきたい……から……」
「うん」
「で?」
「……で、一緒に、俺と、マジで、活動してしかないか……?」
「やりたい!」
「いいねぇ!」
「楽しそう!」
「楽団結成?かっこいい!」
ぷりんたちは顔を見合わせ、喜んだ。
理太郎は、ホッとしたように、息をついた。
全身暑い。
ぷりんが言った。
「じゃあ、じゃあ、理太郎が団長だね!」
「団長?」
「だって、楽団のトップは団長でしょ?」
「だんちょ!」
「だんちょ!」
けにやんやクラーラが音の響きを楽しむように、何度も叫んだ。
「じゃあ、副団長はお前だな!」
理太郎がリーユーシェンを指さす。
「私ですか?やります!」
「ね、ね、サークルとして、申請しよう!」
「じゃあ、写真撮らなきゃ……」
「プロフィール写真的な?」
「そうそう!」
「その前に名前じゃない!?」
「名前かぁ……」
「ワールドワイドなのがいいんじゃない?」
「どんなんや(笑)」
「あと、撮影用のいいカメラも欲しくない?」
これからの活動を楽しそうに話す友人たちに、理太郎は視線を向けた。
「ありがとな」
照れた素振りもなく、落ち着いた顔で、その場の全員に聞こえるような声だった。
一瞬、みんな驚いた顔をして、理太郎を見つめたのち、ぷりんが嬉しそうに笑った。
「なんだ、素直にお礼言えるんじゃん」
「成長したわね」
「いや、今までも、お礼くらいちゃんと言ってただろ」
「かるーく、流されるようにしか言われてない気がする……」
「そんなことねーよ……感謝してるよ、いっぱい……」
また少しごにょごにょと口ごもらせる。
「じゃー、その気持ちは今後の行動と結果で、見させてもらいましょうか」
クラーラがムフフと笑う。
「おう、もちろんだ」
「楽しみねー」
「期待してまーす」
みんなが楽しそうに笑った。
リーユーシェンと目が合った。自分と同じように笑っていた。
「楽しくなりそうですね」
「だな!」



【400字程度のあらすじ】
音大生の理太郎は、中国の伝統楽器である二胡(にこ)の音色に魅せられ、こっそり音大の練習室で弾いていた。
それを中国からの留学生、リーユーシェンに聞かれてしまう。
リーユーシェンは二胡奏者ということもあり、友好的に話しかけるが、理太郎は中国も、中国人も嫌いだと言い放つ。

大学の教授が企画したオーディションをきっかけに、二人は次第に仲良くなった。
二人は公園で、二胡を演奏するようになる。
たまたま公園にいた人がお客さんになり、自分たちの演奏を楽しんでもらえていると感じる理太郎たち。
演奏を動画サイトに投稿すれば、中国の人からも、たくさんのコメントが寄せられた。
理太郎は嫌いだったはずの中国でも、二胡を演奏してみたいと思うようになる。
日本や中国の友人たちに応援され、中国の公園での演奏が実現した。
最後に、自分の作曲した曲をリーユーシェンと共に弾ききった。
そのときもらった拍手は、日本でもらった拍手と同じだった。

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