そして、予定していた日。
理太郎は無事、上海国際空港に降り立つことができた。
7年ぶり。少し、変わったかな。
父親たちの、演奏会に着いていく感じで、2、3回は来たことがあるはずだ。
はっきりと、どこが変わったか覚えてないが、自分の背がぐんと伸びたからか、周りの景色は少し小さい印象だ。
「彼女の家まではタクシーで行きましょう!」
ぼーっと眺める理太郎の隣にリーユーシェンが立った。
「ホントに俺もいいのか?別にホテルとか泊まるけど」
「彼女いいって言ってました!ホテルだと、お金かかりますし、二胡弾けないでしょう。マンション防音なので、弾き放題です!」
リーユーシェンは彼女に会えるのが相当楽しみなのか、飛行機に乗ったくらいから、ウキウキ、ソワソワで、いつも以上に笑顔がキラキラしていた。ちょっとウザい。
「理太郎!早く!」
久しぶりの景色を眺めていたため、歩く速さの遅い理太郎を、数メートル先を歩くリーユーシェンが呼ぶ。
「はいはい」


「ここです!」
「お、おぉ……すげー高そうな物件」
空港からタクシーで1時間半。
降りたのは、真新しい高層マンションのロータリーだった。
高級住宅街なのだろうか。
周りにも似たようなマンションが建ち並び、広い庭なのか、ほぼ公園のような芝生に木が等間隔で植えられている。
リーユーシェンについて、マンションの中へ入っていく。
大きな扉の横には、石でできた龍の彫刻が口を開けていた。
インターホンで彼女を呼び出す。
リーユーシェンが中国語で何かしゃべると、すーっと、自動ドアが開いた。
理太郎は、リーユーシェンの後を恐る恐る着いていく。
彼女の部屋は35階だった。
ピンポーンとチャイムを鳴らす。
すぐに扉が勢いよく開いた。
リーユーシェンが、目を細め、満面の笑みで両手を開く。
「欣怡(シィンイー)」
「子軒(ユーシェン)!」
叫びながら、女性が飛び出してきた。ばっと、リーユーシェンに抱きつく。勢いで、2、3歩よろめき、後ろにいた理太郎の足を踏んだ。
「いてっ……!」
「もぉぉぉおおおおお!!」
彼女はリーユーシェンの服の胸元を掴むと、前後にゆさゆさと揺すりながら、何か叫び続けた。
「もぉぉぉぉぉ!」
「シィンイー」
「もぉぉぉぉぉ!」
「ただいま」
「なんか、めっちゃ怒ってる……」
今度は何か叫びながら、リーユーシェンの胸を拳でどかどか殴っていく。
それでも、リーユーシェンは、嬉しそうに目を細めながら、笑っていた。
「お土産買ってきたよ。日本の化粧品。あと、クッキーも」
リーユーシェンが右手をわずかに上にあげる。
可愛らしい花模様の小さな紙袋を持っていた。
それに気づいた彼女は動きを止めた。ゆっくりと顔を上げる。
「会いたかった……」
「ごめんね。ただいま」
「うん」
アジア人の女性の平均身長と比べれば少し背が高く、スラッとした女性だった。
胸まで伸びたつやつやの黒い髪が綺麗だ。
やっと、後方にいた理太郎に気づくと、小さく笑った。
「劉 欣怡(リュウ シィンイー)です」
「福原理太郎です。お世話んなります」
「どうぞ」


「おぉー…すげー」
想像していたが、部屋の中はものすごく広かった。
テーブルやソファをどかせば、いつも騒いでいる連中たちと、楽器を演奏しながら、ドンチャン騒ぎできるほどだった。
ガラス張りになっており、町の景色を一望できる。
テレビの横には大型のスピーカーがあった。
自宅で高音質の音楽を聴けるなんて羨ましすぎる。
リビングの四隅には、アップライトピアノが一台置かれていた。
ここに一人で住んでるとか、やはり中国の富裕層は格が違う。
リーユーシェンは荷物を下ろすなり、二胡をケースから取り出した。
「シィンイー!君に聞いて欲しいんだ!二胡!」
リュウシィンイーはカウンタータイプのキッチンでお茶を淹れていた。
手を止めることなく、アルトの色っぽい声が響いた。
「フライトで疲れただろうから、休んでからで……」
「今、君に聞いて欲しいんだ!」
「…………わかった」
リーユーシェンの強い眼差しに、リュウシィンイーはお茶の用意していた手を止め、彼氏の前に歩いてきた。
「理太郎!お願いします!」
「あ、あぁ」
伴奏をお願いされており、日本でもなんどが合わせてきた。
理太郎は適当なところに荷物を置き、部屋の片隅のアップライトピアノに歩いていった。
「ピアノ、借りるね」
ユーシェンは焦る気持ちを抑え、チューニングをする。
理太郎も、軽く音を出し、確かめた。
不思議だ。この二人を見てまだ数分しか経ってないのに、お遊びで付き合ってるわけじゃない、本当に愛し合っている二人だとわかる。
それを羨ましいというより、遠い、別世界の存在に感じる。
リーユーシェンが理太郎を見た。強く、頷く。理太郎も小さく頷き返した。
そして、ユーシェンはシィンイーを見た。
大好きな彼女は、優しく微笑んでくれた。
目を閉じる。理太郎のゆったりとした優しいピアノが流れた。
ユーシェンの彼女のためだけの演奏が始まった。
『女人花』
シィンイーの好きな曲だ。
女性を花に例えた、私を見つけて欲しいと、誰かを恋焦がれるような切なくもある曲だ。
ゆったりとした音の響き一つ、一つが、心にそのまま溶け込み、じーんと馴染んでいくようなそんな演奏だった。
聞いているだけで、優しい気持ちになる。
そういえば、出会ったころもこの曲を弾いていたっけ。
付き合ってからも、弾いてと頼む度に、笑顔でうんとうなずき、弾いてくれた。
忙しくて会えない日。
聞きたくなるけど、聞いたら余計寂しくなるなら我慢してた。
それでも、勝手に頭の中にユーシェンの二胡が流れてくる。
だから、この曲を聞くと、嬉しくもなるし、優しくもなれるし、切なくもなる。
もうこの曲はあなた以外の演奏では聞けないよ。
今日は一段と、優しい演奏。
やっと聞けたね。
やがて曲が終わると、シィンイーは小さく涙を拭った。
ユーシェンも目が潤んでいる気がする。
「素敵な音。私、ユーシェンの二胡大好きだよ」
「ごめんね。シィンイー」
ユーシェンは二胡を置き、シィンイーを抱きしめた。
あったかい。
あぁ、このまま、溶けて、一つになっちゃえばいいのに……。
しばらく、抱き合っていた。
その間、理太郎はピアノの椅子に座ったまま、なるべく気配を消していた。
やがて、離れると、ユーシェンが嬉しそうに言った。
「理太郎のおかげで弾けるようになったんだよ」
「そうなのか!?」
急に振られ、想像以上に驚いた声が出てしまった。
「ありがとう。福原くん」
リュウシィンイーが振り返り、お礼を言った。
「いや、別に、俺、なんもしてねーけど」
「謙虚ですねぇ」
「いや、マジで」
ユーシェンはソファに座る彼女の前に立ち膝をつき、優しい顔で見つめた。
「シィンイー、俺、将来、君と結婚したいと思ってる。でも、二胡の演奏家にもなりたいんだ」
「うん」
「君の両親が音楽家なんかって反対してるのは、しょうがないと思う。だから、二胡の演奏家として、いっぱい稼いで、認められるよう、立派な演奏者になるよ。もう少し、待っててくれる?」
「うん。ちょっとだけだよ」
シィンイーは意地悪っぽく笑った。
「私は、二胡を弾くユーシェンがカッコよくて大好きなの。これ以上、カッコ悪くなったら、許さないからね!」
「はい!」