新幹線の乗り場で、空気を切り裂く列車の突風が渉と綾乃を出迎える。髪の毛を思うがままにもてあそんで過ぎ去っていった。綾乃は渉に背を向けて髪の毛を整え直した。
 行き先は大阪で、遊園地で遊ぶことになった。しかも二日間にわたって行く。美奈には「いきなり遊園地行くの? 普通にご飯行くとかじゃなくて」って驚かれた。「乗り物の待ち時間とかの沈黙とか耐えられる?」とも付け加えていた。綾乃もそう思ったけど、もう行くことになった。
 経緯はこんな感じ。綾乃が「ホルモンが食べたい」と、その場の閃きで言った。「なら大阪とかどうかな」って、渉がそう漏らした。綾乃が続けて、「それなら大阪にある遊園地も行きたい」って。泊まりになるけど、別々に部屋を取ればいいかなって思ったから別に気にしなかった。渉さんも「行ったことがないから行ってみたい」と言ってくれた。今日と明日二日間遊園地で遊んで、夜ご飯はホルモンとかお好み焼とかを食べる予定。ホテルは西九条駅付近のビジネスホテルを予約した。泊まることができればどこでも良かった。
 綾乃が顔をゆっくり動かして隣に今ある渉の姿を確認する。綾乃は、一目惚れなんてありえないって思っていたけど、あり得るんだ。今こうして肩を並べる事実が綾乃を包む。まるで不可思議な世界を綱渡りしているような感覚だった。緊張が慎重に綱の上を行き、隣にいる渉の姿を捉えている。どんなに綱の上が怖くても、綾乃はここにいることを選択する。
 綾乃と渉はまずホテルに立ち寄って、各自荷物を預けて、目的地である遊園地に向かった。
 最寄駅から数分歩くと、渉が目を輝かせて声を出した。初めて異世界に足を踏み入れた子供のように胸を踊ろらせる。綾乃は渉から放たれる喜びのオーラを感じて頬が緩む。本当に初めての遊園地なのか。
「絶叫系とか乗れますか?」
「……大丈夫です。でもあんまり怖いやつは分からない」
 こういう場所が初めてならそういう答えになるだろう。
「そうなんですか? 高いところとか苦手ですか?」
「そんな感じかな。でも……今日はせっかくだから乗りたいです」
 入場券を買って中に入る。来場客のテンションを最高潮まで上げる音楽、壮大なスクリーンの中に飛び込んだような圧倒的な開放感。ジェットコースターから乗客の声が空で散っていく。
 渉は体を上下に跳ねさせた。「早く行こう」
「はい」
 綾乃はピンポン球が山を描くように跳ねて、駆け足になった渉の変化に目を大きくして戸惑いつつも、初めてのお出かけで沈黙にならずにうまく滑り出したことに安堵も引き連れてついていく。
「最初、何に乗りますか?」
「これはどうですか?」
 入場ゲート付近に置いてあった地図を取り出して、綾乃が指をさした。ここの遊園地で有名なアトラクションだ。
「これって怖くないですか?」
 高い場所にあったテンションを下げて、渉が聞いた。
「大丈夫ですよ。他のに比べたら、全然易しいです」
「なら乗りたいです」
 渉は息を放ちながら安堵の笑顔を見せてテンションをさっきまでの位置に戻した。
 地図に沿って歩いていく。今日は平日だからそんなに待たなくていいだろう。実際にアトラクションの入り口の前で確認すると一時間程度だった。
「結構待つね」
「全然ですよ。混んでる時は二、三時間とか普通に待ちますから」
「そんなに」
 綾乃が渉の表情を見ると、冷静ないつもの渉に変わっていた。初めての乗り物に不安が滲み出る。胸に手を当てて渉の人生のビートを確認しながら自分を落ち着かせる。待ち時間も不安と期待の両方を持ち合わせて乗車口まで歩いた。
 実際に乗った後、渉は不安だった仕事の面接をやりこなして、やり切ったような表情と、一瞬にして駆け抜けた楽しい時間を噛みしめた表情で「楽しかった」と言った。「あとでまた乗りたい」ってボディタッチしてきたから相当楽しかったみたいだ。
 綾乃は驚きの表情を見せながらも、渉にボディタッチをしてもらったことに頬を緩ませた。
「いいですよ。また乗りましょうか」
 アトラクションを背に、綾乃はそう反応した。
「目をつぶってしまったから、次は開けられるようにしたいな」
「そうなんですね。できるといいですね」
 綾乃は柔らかく微笑んだ。渉のはしゃぐ姿が嬉しいんだ。
「はい。次はどこに行きますか?」
 地図を開いて次の場所は探す。地図の表紙にある期間限定で行われているアトラクションが目についた。
「これはどうですか?」
「いいですね!」
 渉と綾は、アトラクションで漏れ伝わる悲鳴をあとにして次のアトラクションへと歩き出す。
「期間限定だから絶対面白いよね」
 遊園地側の宣伝文句に心を弾ませて渉は早歩きになる。
「はい……渉さん、早いですよ……」
「ごめんなさい」
 頭をかいて渉は言った。少し大人の顔を出してテンションをコントロールする。
「いいですよ。気持ちはわかります」
 こんなにはしゃいでくれてるなら連れてきた甲斐があったと、綾乃は思った。美奈の指摘もあっていきなりの遊園地に後ろめたい気持ちもないわけではなかったけど、渉の楽し気な姿に綾乃は前向きな気持ちになれた。理解は得られるかどうかは別にして、周りにも、いきなりの遊園地を勧めてみてもいいかもしれない。美奈にもいい報告ができそう。
 次のアトラクションは期間限定ということもあって待ち時間も長かった。
「やっぱりみんな乗りたいよね」
 渉は綾乃から聞いていた待ち時間の現実を目の当たりしてそう呟いた。
「待てそうですか?」
 待ち時間の長さに引いたのかと思って、綾乃は渉の胸中を確認する。
「乗りたいです」
 ショルダーストラップを握りしめて、わくわくを抑えつつも渉は即答した。
 
 数分間のアトラクションの旅を終えると、お互いに感想を伝え合う。
「楽しかったですね。でも少し怖かった」
 変な汗を額に添えて渉は言った。
「怖かった……少し汗ばんでますね、大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
 渉は気丈に振る舞いながらも汗を綾乃に隠すように吹きさった。
「お昼ご飯、食べますか?」
「いいですね。休憩しながら次の準備ができるね」
「はい」
 和食のお店で空腹を満たすと、次はショーを観に行くことにした。渉の様子から乗り物のアトラクションよりは、心にのしかかる負担が少ないと思って綾乃が提案した。渉も乗り気で即答した。
「観たいです」
 ショーの会場に着くと、ここにも大勢の人だかり。
 客席へのドアが解放されると、列を形成していたお客さんが雪崩のように客席に流れ込む。席が埋まっていく人々に急かされながら綾乃と渉は二人の居場所を求める。決して近くないが、落ち着いて楽しむには問題ない席が目に飛び込んできた。ショーの最中に水しぶきが客席にも入ってくるから、遠くにいた方がいいって綾乃は思っていたから、渉をコントロールしながら席を確保した。
 十分後にショーの幕がきって落とされた。大きな船が扉の奥から水上に放たれる。
「うわ!」
 身を退けぞって渉はそう発した。役者のセリフや動きに注視しながらストーリーラインに手を絡めてついていく。目を座らせ、膝の上に両手を置いて視線を固定している。
 大きな炎と水しぶき、役者の地声が耳に突き刺さる。それをものともせずに渉は渉でこのショーの世界にいながら別世界で足音を奏でる。
 綾乃が不意に渉を斜め後ろから捉える。あの時の渉がいた。登場人物の気持ちを殴り書きするように描写していたあの時の渉が。殺気もあって表情から怒りさえも感じる。釘付けになった視線は今どこにあるんだ。
 このショーの中の世界にいるんだ。何か感じるものが渉の中にあったのかもしれない、渉の個性をも混ぜ合わせてまた一つ、物語の完結へひたすら走っている。視線は一ミリもブレない。
 綾乃の気持ちを包囲した渉の姿だった。これほど至近距離で見ると、身を退けぞってしまいそうだった。でも綾乃はそこにいる。綾乃の頬が緩んで渉に見惚れてしまう。ショーで発せられる物音は、綾乃を正気に戻す術は残っているだろうか。
「すごいおもしろかった」
ショーの終了を告げるアナウンスが流れると渉がそう言った。同じ体勢を維持していたから、身体をポキポキと音を立てながらほぐしてから、綾乃と目を合わせた。
「え、あ、終わり、終わりましたね」
 綾乃は咄嗟に言葉を並べた。会議中にいきなり上司に意見を求められたときのように、俊敏に顔を左右上下に振り回しながら。そんな綾乃を見て、渉は息を吹きながら笑みを見せた。
「こんな迫力のあるショーだと思わなかった。ビックリしました」
 目を十二分に光らせて渉はショーの感想を述べた。
「ですね……」
 笑顔を急造させた。渉に見惚れてしまっていたことは、渉には気付かれていないようだ。
 美奈がそばにいたら絶対に笑い堪えながらイタズラな目で私をさらに窮屈にしただろう。
「大丈夫ですか?」
 綾乃の顔を覗き込んで、渉は気遣った。
「大丈夫です……すごく、集中してましたね」
「はい。なんかすごい引き込まれました。水が爆発したり、火が起こったりしてビックリしたけど、すごい良かった」
 腕組みをしてショーのあらすじを歩く渉。次作の構想の足音を聞くことができたのか、頷きながら振り返った。でも確か、二作目はないんだ。
「良いですね。私も来るたびに見てますよ」
「そうなんだ。じゃあ、もう慣れちゃったか」
「いえ。大好きだから何回見ても大丈夫です」
 高速で手を横に振りながら綾乃は否定した。
「ありがとう。こんな良いショーに連れてきてくれて」
「私も一緒に来れて嬉しいです。次はどうしますか?」
 時刻は昼の一時過ぎ。お昼ご飯の風景が頭に浮かぶ。今はどこも混んでるから先に済ませておいて良かった。
 綾乃はまた地図を取り出して、指で別のジェットコースターを示した。出入り口の付近にある長いレールで描かれた地上を駆け抜けるアトラクション。ショーで少し気持ちに余裕があるのか、渉はすぐさま立ち上がって、「乗りたいです」と言った。
「じゃあ、行きましょうか」
 次なる入り口に向かって歩幅を合わせる。
「仕事はどうですか?」
 楽しんでいる途中に、仕事の話はどうかと思った渉だったが、聞いて綾乃の反応を見た。
「頑張ってますよ。渉さんにも励ましてもらったし」
 ポジティブな答えだったから渉は安堵した。
「良かった。前向きに頑張ってるんですね」
「はい。不安だったけど、教育係って肩書がついたから逆にしっかりしなきゃって思って。自然と背筋が伸びました。自分のした経験を自分なりに伝えればいいって思ってやってます。実際、上司にもそうやって言われました」
 綾乃もどこか割り切りができて、細かい事は気にしないことにしたようだ。
 そう思い直してくれたのなら、渉も、初対面でも気持ちを言葉にして良かったと思った。
 お目当てのジェットコースターのそばに来た。待ち時間はだいたい五十分ぐらい。
「これって、結構、怖いですか?」
 悲鳴が空で散っていく様を見て渉がそう言った。レールの上を容赦なく行くジェットコースターは、また悲鳴をかき集めて散り、渉たちの視界から消えてなくなった。
「そんなこともないですよ。もうひとつのジェットコースターとかに比べたら、全然いけると思いますよ。見てたら……緊張してきました?」
 綾乃が渉のテンションのギャップを感じてそう聞いた。今なら並んだばかりだから引き返せる。無理に乗ることもない。
「ああ……少しだけ。初めて乗るから……どんな感じか掴めなくて」
 今までのジェットコースターやアトラクションの反応を見ると相当怖いのかもしれない。
「どうしますか? 戻ってもいいですよ。他にも落ち着いて参加できるアトラクションもありますし」
「いや……乗りたいです」
 渉は覚悟が決まったのか、さっきよりは顔色がよくなったけど不安は完全には消えていない。
「無理しないでください。もし難しいなら言ってくださいね」
「ああ、ありがとう」
 恐怖と好奇心に腕を組まれているような状態だった。好奇心が勝って列に残ることを選択した。
 待ち時間の五十分というのはあくまでも目安で、待ってみると三十分ほどで乗り場の近くまで来た。他の乗客はこのスリルを楽しんでいる。渉もそうすればいい。でも手が震えてくる。それを必死に隠して平静を装う。綾乃も少し緊張してきているようだ。
「いってらっしゃい」
 係員が営業か本物か定かでない笑顔で、綾乃たちの前にいる乗客を乗せて、数分間の空の旅へと送り出す。
「こんな、感じなんだね……」
 気を紛らわすために渉は綾乃に話しかけた。
「はい。もうすぐですよ」
 順番が来た。前から四番目の列に乗り込んだ。渉は一番前じゃなくて安堵する。少しだけ額に汗が見え始める。それでも渉は、何も言わずにいつもの自分を演じる。
「汗かいてますけど、本当に大丈夫ですか?」
 ひとつひとつ音を奏でて体が安全バーで固定される。
「大丈夫大丈夫……」
 さりげなく渉自身でも安全バーに触れて確認する。
 いよいよ動き出す。全ての安全を確認する係員の真剣な眼差し。それから渉たちを見送る笑顔に変わる。明らかに自然な笑顔ではない。絵で無理に描いたようだ。でもそんなこと見破っている場合じゃない。
 ジェットコースターはローマ字のLを作って急上昇する。乗客のエッジの効いた悲鳴が円型のトンネルで響き渡る。隣の綾乃も声を上げている。
 渉は自分を落ち着かせるので必死だった。自分で自分を暗闇の世界へ導く。引き返すこともできたのに、ここにいることを選択したのは渉だ。もう乗り切るしかない。ここまで来ている。
 渉は思いっきり目を閉じた。もう二度と開かないようにしっかりと強く。気は確かなのか、安全バーから手を離して待ってましたと言わんばかりに、転落の時を待つ前列の乗客を、微かに開いた渉の視界が捉えた。横目には同じ体勢で待つ綾乃の姿もあった。
 ジェットコースターの最高到達点に駆け上がった。
 また目を思いっきり閉じた。誰かに刃物を振りおろされた時、渉はこうなるのだろう。体の震えは全速力で進むジェットコースターで完全にごまかされている。次に急カーブを描く。渉は安全バーを頼りに短い空の旅の終焉を心待ちにする。急に止まったから飛ばされそうになった。それでも安全バーに制止されて渉はただ放心状態で佇む。綾乃の髪の毛もくしゃくしゃになった。それを直しながら綾乃は渉を見た。徐行運転に変わったジェットコースターを頼りに、渉は落ち着きを必死にかき集めて、最後は笑顔の係員のお帰りなさいで幕を閉じた。今回の笑顔はさっきより自然に見えた。
「渉さん、安全バーが上がりますよ」
「……」
「怖かったですか? 大丈夫ですか?」
 綾乃は反応がない渉に再度話しかけた。
「怖かった……」
 脱力した状態で渉はポツンとつぶやいた。
「思ったより怖かったみたいですね」
 綾乃は渉の背中を小さくさする。
 渉の額に滲んだ汗は風で消し去られたようだ。
 ジェットコースターから降りて、前の乗客の流れに沿って地上へ降りた。
「これは、もうやめておいた方がいいですよね?」
 渉に無理をさせてしまった感が、綾乃をぎこちなくさせた。
「ああ、いや、大丈夫……もしまた乗りたかったら、言ってください」
 渉は頭を横に振った。綾乃のぎこちなさを振り払うようだった。
「本当ですか?」
「はい……あんなに高かったんだなって、思いました」
 そう言いながら空を見上げた渉の視線を追う綾乃。
「お腹すいたから、少し、何か食べませんか?」
 何か不都合なものを覆い隠して話題を変えるネタがあった。渉は迷わずそれを手にして綾乃に見せた。
「私も同じこと考えてました!」

 今日は閉園は19:00だった。平日だから夜のパレードも開催されない。調べて見たら明日もその予定はないみたいだ。
「今日は一緒に来てくれてありがとう。すごく楽しかった」
 退場ゲートへ足を向けて、一日の記憶をたどりながら渉が言う。綾乃は晴れやか表情で語る渉の脳内を見てみたくなった。自然に喜びや楽しさを分けてもらえそうだ。パレードはなかったけど、その言葉が一瞬にして綾乃の気持ちを軽くした。
「私もです。なんか、久しぶりに心から笑えた感じです」
 素直に感想が言えるっていいな、と感じながら綾乃が言った。クライエントさんにぶちまける社交辞令はもうたくさんだ。これからはありのままの自分を出して、クライエントと向き合えばいい。
「また明日も遊べると思うと、またワクワクしてくる」
 一日遊んでいて疲れているはずなのに、渉がピョンピョンと跳ねる。縄跳びができるんじゃないかと、綾乃は心の中で思った。
「私もです。なんか……」
「何ですか?」
 言葉を詰まらせる綾乃を見つめた。
「自分の気持ちを素直に伝えるって大事ですね。楽しいとか嬉しいとか。今日の渉さんを見ててそう思いました」
 しみじみと語る綾乃を見て、どこか窮屈な自分を抱えながら歩いている綾乃が渉の目の前に現れた。どれが本当の自分か分からなくなった人が、久しぶりに忘れていた自分に再会したようだった。雑踏の中に置き忘れてきたものを見つけたのかもしれない。遊園地から見える無数の光を見つめて、そんなことを語る綾乃から、どこか哀愁を感じた。
「はい……こんな楽しい場所があるのに、僕は来たことなかったんですね」
「そうですよ。絶対にもったいないです」
 あとひと押しで商品を買ってくれそうなクライエントを励ますように綾乃が言った。でも綾乃は心から言っているんだろう。渉はビジネスライクを感じることなく言葉を受け取った。
「本当だね……この後、ホルモン食べるんですよね?」
「はい。鶴橋駅の近くにあるのでいきましょう!」
「行こう!」

 ホルモンの店は鶴橋駅の目と鼻の先にあった。でもお店が小さすぎて見つけるのに少し苦労した。昔からある歴史の長いお店っていう感想だった。見かけの割には内装はきれいで、工事現場のおじさんや、チャラそうなお兄ちゃんたちがいそうな感じで綾乃は入店するのが怖かった。タバコの煙と焼肉の匂いが混ざったかすかなスモークが漂う。煙取りがフル稼働していてもこんな感じだった。店員さんにお願いして、タバコを吸っているお客さんから離れていて、換気扇がよく効いているカウンター席に案内してもらった。
 ホルモンが炭の真上にある網に横たわる。脂身が炭の炎を刺激すると、大きな火をあげて熱を伝える。
「ここの店はどうやって見つけたの? 有名な場所?」
「インターネットで検索したらここが出てきて。なんか、適当でごめんなさい」
 申し訳なさに笑顔を添える綾乃。適当な女って思われたかなって、綾乃は思った。
「探してくれてありがとう。なんか美味しそうだね」
 他のお客さんが頬張るホルモンを見て渉はそう言った。
 綾乃の適当女疑惑のリスクとの闘争が終わった。渉が勝負をドローにしてくれた。
「ありがとうございます」
「実は、僕、ホルモン食べたことなくて」
 遊園地に続いてホルモンも初めて。焼肉屋に行く機会は人生の中であっただろうけど、食べる機会がなかったのか。それとも苦手で食べられないのか。綾乃が食べたいって言ったから無理に付き合ってくれたのか。
「そうなんですか? 食べられますか?」
「大丈夫。食べてみたかったから、何も言わなかったんです」
「ああ……そうだったんですね」
「楽しみにしてる」
 二人は相談した結果、ホルモンのバジル、カルビ、塩タン、上ミノのたれ、サラダとご飯を頼んだ。
「渉さん、みてください」
 綾乃はスマホを見せた。渉の映った写真だった。ギフトショップから出てきた渉を撮影したもので、真新しい何かを見るような表情で、遊園地のグッズを眺めていた。
 見知らぬ人に好意を持ったり、盗撮したり、綾乃は、私って『ヤバイ』かもって思った。言い訳させてもらえるとしたら、たまたまだったということだ。
「いつの間に撮ってたんだね」
「ごめんなさい」
「いいですよ」
「この写真がなんか好きで」
 照れくさそうに綾乃は言った。
「なんで?」
「自然な笑顔だから、渉さんが」
「楽しかったからね」
 今日一日の出来事の一部分を抽出して、渉は手に取った。
「私、今はやってないんですけど、写真を撮るのが好きで」
 ホルモンの真実を打ち明けてくれたから綾乃も語り始める。特に隠す必要性は全くなかったけど。
「そうなの? 通りでなんかうまく撮れてると思った」
 渉が気付かなかったのが一番の要因だけど、「ありがとうございます。一眼レフのカメラとか持ってるんですけど、クローゼットにしまったままになってます」と言った。
「そうなんだ。なんで写真が好きなの?」
「なんで……人の写真を撮るのが好きです。それも「写真を撮るよ」って言って構えて撮る写真じゃなくて、自然な人々の姿っていうか」
 綾乃なりの写真のビジョンを描く。
「いいね。今はやってないんだよね?」
「そうですね。撮りたいっていう写真がなくて。自然な人の姿って撮るのが難しいし、そういう姿って、みんななかなか見せないなって……」
 心を開いてくれない人が多いって、暗に言っているようだった。綾乃も容易に人に心を開くことはしないから、気持ちは分かるだろう。
「そうなんだ。それにこだわらずに、とりあえず撮ってみたらどうですか? もしかしたら、案外いいものが撮れるかもしれないよ」
「そうですね」
 忙しさを言い訳にしてクローゼットにしまったままになった一眼レフのカメラが不憫に思えてきた。
 そこに注文したお肉が運び込まれてきた。
「先に塩タンから焼きますね」
渉はトングを手にして網に塩タンを乗せた。
「はい、お願いします……塩タンは食べたことありますよね?」
 気になって綾乃が質問した。これも初めてなのかなって、好奇心が湧いた。
「……初めて。今日は初めてのことが多いね」
 苦笑しながら渉がそう言った。
「ですね」
「もしよかったら、僕が塩タンを焼いているところ、撮ってもいいよ」
「え?」
 なんで焼いている姿をって、綾乃は心中で突っ込んだ。
「いや、それも人の自然な姿かなって……そんなの好んで撮る人はいないか……」
 渉は自分で突っ込んで完結させようとした。
「ああ、いいかもしれないですね」
 綾乃は渉に背中を押される形でカメラを起動させた。渉はカメラの方を見ることなく、火に炙られて小さくなっていく塩タンをぼんやりと見つめて、カメラのシャッター音が響くのを待った。
 渉、トング、七輪の上の塩タン、微かにさまよう煙をスクリーンに収めて撮影した。
 渉は写真を見て、「いいね。でも僕も自然な感じなら、綾乃さんの理想の写真に近かったかもね」
 綾乃は首を振って、「そんなことないです。ありがとうございます」
 渉はそれに笑って応えた。
「綾乃さんは、プライベートの方は、どうなんですか?」
「えっ……ああ、いないですよ。いたら、あの、渉さんと二人で来ないですよ」
 綾乃がしどろもどろしながら否定した。それにこの質問にどういう意味があるのか気になった。渉も綾乃を恋愛対象として見てくれているのか。
「それもそうだね」
 頷いて綾乃を肯定した。
「結構、長くいないです。大学二年生のときはいましたけど、それっきりです」
「そうなんだ。社会人の生活もだんだん慣れてきて、恋愛に前向きに慣れる頃かもね、綾乃さんは」
「ですかね……渉さんも、いらっしゃらなかったですよね?」
 いないって聞いたが、そのあとできているかもしれないから確認を取った。渉も彼女がいたら来ないだろう。渉がそういう人だと綾乃は信じたい。
「いないですよ。恋愛はなかなか難しいかもしれないですね」
「どうしてですか?」
「……なんていうか、僕と付き合っても、おもしろくないかなって」
 自嘲気味に渉が言った。恋愛と次回作の時だけ、ネガティブな渉が出て来るようだ。
「そんなことないと思いますけど。渉さんみたいな落ち着いた雰囲気が好きな人もいると思いますよ」
 綾乃は大人しい方だから、おもしろいというよりも落ち着いて安心できる人がいい。
 渉は焼きあがった塩タンを二切れ綾乃の取り皿に置いた。さらにカルビを灼熱地獄の真上に置く。
「ありがとうございます」
 綾乃はそうお礼を言ってレモンを手にする。
「色々と……制限っていうか……」
 渉はそう呟いた。小粒のような声でよく聞こえなかったけど、綾乃は制限という言葉は耳に残していた。
「なんて言ったらいいか分からないけど、僕と付き合っても窮屈かなって……」
「……」
 キョトンとしてしまった綾乃。無理もない。『制限』も『窮屈』の意味も、頭の中で消化されない。全く何を言っているか分からなかった。
 渉は無理に笑顔を見せる。ネガティブすぎて引かれてると思ったのだろう。
「なんか笑えるね。僕が書いた本は賞をもらえたのに、実際はすごくつらまないから」
「そんなこと思わないです」
 ただ言葉の意味が分からないだけだ。辞書に頼ったら、綾乃が合点のいく答えはあるだろうか。
「……」
「何か……あったんですか?」
 渉は黙って俯いた。口に出すのも嫌な出来事が今、渉にまとわりついているのかもしれない。知り合ったばかりの人に伝えるには勇気がいることなのか。知り合いにはなったけど、深い関係ではない。本の作者と読者。紙切れでつながっている関係だ。
「……何もないですよ」
「そうなんですね……すいません、なんか変なこと聞いて」
「全然。僕がすごくネガティブだから。カルビも焼きあがってきたから食べましょう」
「そうですね」
 いいところに煙は目の前に広がっている。それでネガティブな何かを包んで見えなくしてしまえばいい。

 綾乃と渉が炭や焼肉の匂いを撒き散らしながら歩く。でも見渡せば至る所に焼肉、お好み焼きなどのお店が密集しているから二人の匂いなど気にならないだろう。
「ホルモン、美味しかったね。噛み締めた時に脂が広がる感じが癖になるね」
 渉がホルモンの感触を振り返って言った。
「はい」
 綾乃も共感して笑顔を見せた。
「今まで食べたことなかったけど、こんな美味しいものがあるんだって思った。こんなこと言ったら大袈裟だけど、夢のような一日だった。何度も言うけど、連れてきてくれてありがとう」
「私も楽しかったです。明日また遊園地に行けるから楽しみですね……あの、渉さん……気になってたんですけど……」
 渉と目を合わせずに綾乃が、勿体ぶるように話を切り出した。噛んでもかみ切れないホルモンのように、ただ今ある状況を飲み込めばいいだけかもしれない。でもかみ切れずにただ佇んでいる。
「何ですか?」
「渉さんって……なんか全てにおいて、控えめって言うか……女性の好みとかもあまりないって……こだわりがなくてどんな相手でも受け入れてくれる人だって捉えればいいんでしょうけど、何かあったのかなって……」
 渉をチラッと見ると、真剣な眼差しを綾乃に向けながら耳を傾ける渉がいた。思い切って聞いたはいいけど、すこい失礼なこと聞いてるかもしれないという意識がよぎって落ち着きがなくなった。それをかき消すように、「それがありのままの渉さんなら、全然いいんですけど、あの、気になって……」
 綾乃は俯いてしまった。
 渉は別に怒っているわけではなかった。でもそういう雰囲気が伝わっているのも事実だった。無言でただ聞いていたら、綾乃も『怒っている』と勘違いしてしまうだろう。
「綾乃さんの言うこと、分かります。たしかにネガティブかもね。もちろん、付き合ってきた人もいたけど、なかなか続かなかったから……やれることも限られてるっていうか……」
 「限られている」という言葉。制限をただ言い換えただけだ。遠回りすぎて何も入ってこない。うまくかわされてる感が、まだまだ二人の間に距離を感じさせた。
「やれることですか? それはどういう意味ですか?」
「……やったことがないことが多いし、あの、初めてのこととか緊張するんですよね」
「ああ……」
 その場ではそう言った綾乃だったけど、意味は消化されなかった。小説の二作目や、人との交際関係、初めてのこと。記念すべき一作目の『心づくし』を書いていたあの時の生き生きとした渉が影を潜めている。他のことを語る渉は自信が全くない感じだった。美奈は『つまらない』って思っていた。綾乃も渉さんへの思い入れがなかったら、美奈と同じ印象を持ったかもしれない。
「なんかつまらないね。ごめんね」
 綾乃の考えていたことが透き通って見えたのか渉がそう言った。
「ああ、そんなこと思ってないです。人それぞれだから」
 早口で言葉を返す。図星だったことがバレてしまった感じだった。手を振って早口で否定すればするほどドツボにハマってしまう。
「ううん。実際、そう言われたこともあるんです。普通はそうだと思う。だから、全然気にしてないから大丈夫ですよ」
 心ない言葉にも気丈に振る舞っているようで、渉が寂しそうに綾乃に目に映った。
「ああ……酷いこと言う人もいるんですね」
 綾乃もそう感じたけど、口にするのは良くない。渉にその言葉を浴びせた人の気持ちを代弁してみると、「ネガティブさについていけなくなった」ということだろうか。
「実際そうだから、何も言えなかった……」
「だから、本を書き始めたって感じですか?」
 綾乃が核心をつくように言った。それが彼の真意なら綾乃も納得ができた。渉だからこそできることなら、何でもいい。それがたまたま渉にとって小説を書くことだったんだろうか。
「……そうかもしれない。僕もこういうことができるんだぞってこと、証明したかったのかもね」
 渉はそう言ったけど、そっくりそのまま重なり合う答えではないかもしれない。出だしの数秒の沈黙で、綾乃はそう悟った。またもう一度裏を返せば、真意が書いてあるかもしれない。
「へぇーすごい! じゃあ、二作目も頑張りましょうよ。渉さんの個性を表現する場だからこそ」
 何度も聞いてしつこいかもしれない。でも綾乃は渉に書いて欲しい。
「ううん……」
 神妙な顔で渉が言う。まるで触れられたくない過去の傷をえぐられるように目線が下がっていく。
「なんで、ですか……」
 横を向くと渉が消えた。さっきまで話していた渉の姿ない。足元から何かが聞こえてくる。「うぅぅ……」というハギレの悪い音。渉がしゃがみ込んでいる。
 突然のことで目を丸くして綾乃は、「え? 渉さん、大丈夫ですか?」
 渉の体を痙攣している。こんな小刻みに体を揺らせられるものなのか。
 綾乃はパニック状態で、「どうしたんですか?」、「大丈夫ですか?」と繰り返している。
 歯をくいしばって悶絶する渉が手探りで何かを掴もうとしている。渉が背負っているリュックサックに綾乃は視線をやる。
「中ですか?」
 渉の背中からリュックサックを外して中を探る。もしかしたら薬か何かが眠っているのかもしれない。息の根を止めてとにかく渉が求めている何かを探す。中のサイドポケットに食料保存用のジッパーに入った錠剤が綾乃の目に映り込んだ。これだと思って素早くファスナーを開ける。周囲に人が集まってきた野次馬に目もくれず、「これ?」と聞いた。
「救急車呼びます!」
 野次馬の中からそう聞こえてきた。人々の気配を今更気づいた綾乃は、人だかりに驚きつつも「はい」と言った。薬を握りしめるも飲むのは難しい。綾乃は渉の手から錠剤を引き抜いて、一錠を渉の口に預けた。水が必要だと思って周囲の自販機を探す。今日遊園地の自販機で買ったお茶を思い出す。バッグから取り出して渉の口に注ぎ込む。でもうまくいかず仰向けに寝転ばせて錠剤を体内へ送り込む。
 運動不足で綾乃はすぐに「はぁはぁ」という音を響かせながら渉の反応を待った。ただ待っているこの時間が嫌だった。渉の手を握って赤と白の助け舟をひたすら待った。