渉と別れた後、中目黒駅のホームで菊名方面行きの電車を待っている。あれから一時間ほど話した後、カフェを出た。綾乃は休みだけど、渉は明日も朝番だったからやむなくおひらきになった。別れ際に、何かを思い出したかのようにスマホを取り出して、連絡先を交換した。 
 「これからも、ブログ更新してくださいね」とも伝えた。
 渉も「せっかく出会えたからまた会いましょう」って伝えた。その言葉が嬉しくて今も綾乃はニヤニヤしていた。
 綾乃の無料通信アプリが、五件のメッセージを受け取っていた。その一人は、美奈からだった。今ある私の表情を見たら、上手く話せたことを理解してもらえるだろうし、意地悪で『顔、キモいよ』って言われるかもしれない。メッセージを確認すると、
「まだ話してる? あんまりニヤニヤしないようにね」
 こうやって言われることを綾乃も想定していたけど、意外にも言葉は柔らかくてビックリだった。嬉しさを真っ先に伝えたくてウズウズした綾乃は、無料通信アプリで電話をする。
「もしもーし」
「美奈、会ってきたよ」
 ゆっくりと綾乃は言った。どこか達成感をも感じる。
「やったじゃん。で、どんな人だった?」
 はじめての小学校の感想を尋ねるかのように、美奈が言う。綾乃から電話してきたことを考えると、いい話ができたって思ったんだろう。
「すごく優しい感じの人だった。なんていうか、私が思った通りの感じっていうか」
「良かったね。小説家と保険会社社員の恋愛って素敵。今や時の人だから、春井さんは」
「春井俊太っていうのはペンネームなんだって。本当の名前は渉さんっていうんだって」
「へぇーそうなんだ。詳しいね」 
「さっき聞いてきたからね」
「すごい。大騒ぎとかにならなかった?」
「そういえば、ならなかったね」
 今考えたら、あのメガネは春井俊太なりの変装だったのかもしれない。そんなことに気にかけている余裕がなかったっていうのが綾乃の本音だった。
「連絡先とか……聞いたの?」
 今回の会合を評価するものさしだ。
 美奈がサラッと言わなかったのは、綾乃が聞けてないと思ったからだろう。だから綾乃は自信を持って、「聞いた。でも自分から送れないから待ってみる」
「はぁ? 送らないの? せっかく聞いたのに? いい口実があるじゃん! 今日のお礼!」
「じゃあ……それで送ってみる」
「いい子いい子。また詳しく聞かせてね。今度、私にも会わせてよ」
 目の前に綾乃がいたら、美奈は髪の毛を撫でてあげていただろう。
「えっ? なんで?」
 声の調子を変えた綾乃。
「なんでって? いいじゃん。絶対にとらないから」
「怪しいな。なんか企んでそう」
 今日の会合に同席するとまで提案してくれた美奈だ。綾乃が疑っても仕方ないだろう。
「ないない。彼氏できたからさ」
「えっ?! そうなの? いつ?」
「先週ぐらい。ほら、前に言ってた人」
「もう付き合ったんだ。早くない?」
「間なんてもたせても意味ないよ」
 確かに、と思いながら頷く。でも綾乃はもっと時間が要るタイプだ。慎重すぎて脈なしのレッテルを渡されて終了が多かった。
「でも、急にそんな雰囲気になる?」
 綾乃の記憶探してもそんな経験はない。マジで恋愛経験が少ない。
「なるよ。人によるけどさ。渉さんは、そんな空気あった?」
「あったかどうかなんて覚えてない」
 話すのに必死だった。
「そうか。とにかく、お礼のライン入れときなよ」
「分かりました」
 とりあえず綾乃は渉に無料通信アプリでメッセージを送った。『明日は仕事だ』って言っていたから、既読や返信はすぐには来ないだろう。
 奇跡のような一日。今まで知らなかった新しい何かに触れて、ワクワクする。この一冊の本が繋げてくれたんだ。大事そうに胸の中で本を抱きしめた。

 自宅ドアを開けた。渉が部屋の電気をつけると鍵を灰皿の上に乗せる。タバコは吸わないけど、小物入れとして使っている。
 今日は久しぶりにたくさん話した。時間を忘れて話してた感がある。人と話し込むことなんてよくあるわけじゃないから、喉がカラカラだ。水で喉を潤した。
 作品をたくさん褒めてもらった。ひとつひとつ手にとってくれたことが渉を笑顔にさせた。ブログでも本に対して前向きな言葉をもらったけど、直接、聞けるのは嬉しい。もちろん、後ろ向きな言葉もたくさんある。青臭いとかその他色々。否定されていい気持ちってわけではないけど、そういう評価がある中で、「良かった」という言葉はモチベーションになる。
 本の存在価値が渉の存在価値になるんだ。
 渉は自分の胸を触れる。心臓に異常はない。今、確かに動いている。それを聞くたびに安堵する。明日またちゃんと目覚めて、中村渉として生きていたい。
 綾乃のメッセージに目を通す。
 このまま仲良くなっていいかどうか。『これからも連絡取りたい』って言ったけど、消えてしまうかもしれない。そうなれば、下手に仲を深めることはしない方がいい。
 ただ嬉しかったんだ。ただ、綾乃がかけてくれた言葉が今も胸の中で光を放っているんだ。