オフィスにある時計が午後七時を指した。それを一瞥した綾乃は静かに帰る用意をする。
 今から春井俊太に会いに行く。でもあんまり実感がなかった。春井俊太の本が世に出回ってからの今日まで綾乃を取り巻く状況は驚くほど変わった。恍惚の世界に足を踏み入れて、抜け出せないでいるような感覚だった。
 恍惚の世界でも綾乃は目を見開いて現実を垣間見る。これは現実だ。本当に八時になれば、春井俊太に会うことができる。こんなに生き生きした綾乃は久しぶりだった。
 バッグの中から顔を出す本に目をやる。これに出会えて本当に良かった。これがなかったから、今でも後ろ向きに歩いていたような気がする。綾乃はそう思いながら、バッグのファスナーを閉めた。
「綾乃、もうそろそろ行った方がいいんじゃない?」
 どこかからかうように言う美奈。
「そうだね」
 今はからかわれても笑って許してあげられる。
「向こうに行って場慣れしておいたら。行きつけだけど、時間が近づいてくると胸の鼓動とか聞こえてきそうだよね」
「それは大丈夫かな。あそこは私の憩いの場所だから」
 意外にも、全然緊張していない。綾乃は余裕の表情だった。どこか自信に満ち溢れた堂々としたものだった。
「本当? とにかくいつもの素直な綾乃で会ってきてね」
 美奈は笑顔でそう言った。
「ありがとう。お疲れ様」
 そう言って営業部の入り口を跨いだ。もう少しで会社内から出られるけど、間違っても会社の携帯は鳴らないでほしい。今あるすべてに水を刺さないでほしい。とにかく会社から早く出たくて早足になる。
 無事にオフィスを出たけど、夜はまだまだ肌寒い。街灯に埋もれた交差点を行く。肌寒さとカフェへの距離が縮まるにつれて綾乃にふりかかる緊張が身体を震わす。さっきまで余裕は見えない場所にいる。見てるだけだった人と話ができる。緊張が瞬く間に広がっていった。今から行きつけのカフェに行くのに。しかも仕事帰りに。嬉しいはずなのに頭がおかしくなりそうだった。このままちゃんとカフェにたどり着けるだろうか。
 たまらずスマホを取り出して美奈を呼び出す。
「どうしたの?」
 美奈はもしもしも言わずにそう言った。どこか予測してたみたいで驚きの様子はなかった。美奈もちょうど会社を出たところで、特に予定がなかったからどこかでご飯を食べて帰ろうかなって思っていたところだった。
「もう、頭、おかしくなりそう」
「憩いの場所だから大丈夫なんじゃなかったの?」
 美奈が笑ってそう言う。綾乃の言動と真逆だからそう言われるのも当然だった。
「そのつもりだったけど……」
 綾乃は緊張に声量を吸い取られるように声が小さくなった。
「今どこにいるの?」
「カトリーナの近く……ちゃんと行けるか心配になったから」
「しっかりしてよ」
 小さくため息をついて美奈は、消えてなくなった余裕を取り戻させるために綾乃を叱咤した。
「だってさ、すごい人見知りなの」
 子供が開き直って言い訳するようだった。
「とりあえず、着くまで話してようよ。せっかくのチャンス逃されても困るから。そのことを後からグチグチ言ってそうだから。ウザくてしょうがない!」
「そんな言い方……」
 今の綾乃には厳しい言葉たちだった。
「これで行く気になった?」
 美奈は急に口調を柔らかくして言った。ここまで言わないと綾乃は色々言い訳をしてカトリーナに行かないと踏んだんだろう。
「行く。そこまで言われたら行くしかない」
 語気を強めて綾乃は返事を返した。
「いい報告待ってまーす」
 出番はもう終わったと悟った美奈は電話を切った。
 綾乃の視界内にもうカフェは入っている。胸に手を抑えて自分を落ち着かせる。鼓動が聞こえる。今、確かに生きている。
 カフェの前で足をとめた。綾乃はゆっくりとドアを開けて中を確認する。ハイテクのスローモーションカメラで誰かが綾乃を撮影しているかのようだった。
 渉がいるかどうか。まだ約束の三十分前だからいないと思った。
 いつもの店員さんに会釈される。綾乃もペコっと頭を下げる。普段なら嬉しいけど、今日はなぜか恥ずかしい。何気なく通い始めた頃で、常連の二文字が綾乃を意識させた時に戻ったようだった。
 春井俊太と話してる時は絶対に話しかけないでほしい。
 注文したドリンクをもらって二名がけの席に着く。なるべく春井俊太が探しやすい場所に座る。ドアが開くたびに外の風が入ってくるから少し寒いかもしれない。美奈に言われた通り、場慣れしといたほうがいいからそんなことは気にしない。とりあえずリラックスしようと壁に背中を預ける。
 会ったら聞いてみたいことはたくさんある。
 どうやって話を思いついたのか。
 体験談なのか。
 小説のヒロインの子は実在したのか。
 何をしてる人なのか。
 いつからここで書いてるのか。
 外を見つめてる時、どんなことを考えているのか。
 最後の質問は「じろじろ見ていました」って言ってるようなものだ。聞けたら聞きたいという意識に変えた。
 いつも春井俊太が座っている席を見つめる。今は他のお客さんが座っている。その人も参考書をそばに置いて、勉強している。何かに熱中している人に縁がある席なのかもしれない。
 手鏡を出して自分の顔を確認する。『ひどい顔』って思って化粧室へかけこむ。もうすぐ来るかもしれないのに化粧室でくすぶっててすれ違ったら嫌だった。素早くメイクを直して出勤前の綾乃に戻る。化粧室を出て、周囲を見渡しながら歩く。春井俊太らしき人はいなかった。少し安堵して再び、席に腰をおろす。
 今更だけど、綾乃はなんて彼に話を切り出したらいいか。綾乃は顔を知っているからいいけど、相手は知らない。どういう反応が一番自然なのか分からなかった。そう考えていると緊張がさらに増してくる。寒さに凍えているかのように体を揺らす。揺れで頭も混乱してくる。
 今の綾乃に自然さを求めるのは酷だった。
 とっさに春井俊太の書籍を取り出す。文を読んでいれば、落ち着くだろうか。本の中で好きな箇所がある。

「こんな私でも、友達でいてくれたり、変だって思わずに仲良くしてくれたりする子たちがいるから。その人たちを自分なりに大切にしていこうって。なかなか人と仲良くなれなかった時に、そう思った」

 春井俊太が描き出した『心づくし』の世界の一部だった。主人公の深沢宏紀に好意を持つ永井未砂が、人間関係で悩んでいた頃のことを話した時のセリフだ。
 これはすごく共感できた。綾乃もシャイで友達はできにくいタイプだから、今つながっている人を大事したい。未砂は明るいタイプだからすべてが同じにはならないけど、彼女と向いている方向は同じだった。

「私のことは気にしないで。とりあえず、優しくしてあげようと思って。何の役にも立てないのは分かってる。分かってるけど、宏紀が泣いているのにただ見ているだけなんて私にはできない」

 次は三角関係に巻き込まれた宏紀に未砂がかけた言葉だった。前日に喧嘩とまではいかないけど、言い合いになった翌日に、こんなことが言えるなんて。好きだとしても綾乃には難しい言葉だって思った。普通ならもう相手にしないでおこうって思うかもしれない。作り話だって言ったらそれまでだけど、綾乃は、まだ本気で、人を好きなったことがないのかもしれないって、読んだ時に感じた。そういう人がこの世に一人でもいる未砂が羨ましかった。
「すいません」
 綾乃は本に気を取られていた視線を上へあげる。
 白のYシャツに黒のカーディガンを羽織って、ショルダーバッグをかけている。韓国の人がよくかけている黒縁の大きなレンズのメガネをかけていた。春井俊太こと、中村渉だった。
 綾乃は思わず立ち上がって何かを言った。多分「はい」だ。
「あやさんですか?」
 少しゆっくりとした口調で話す渉。
「そうです。春井さんですよね?」
「あ、はい」
 渉はペンネームだからどう反応しようか困った。春井さんなんて数えるぐらいしか呼ばれてない。最後に呼ばれたのはいつだっただろうか。
「ここ座ってもいいですか?」
「もちろんです。おかけください」
 会社のクライエントとの会合のようなフォーマルな感じだ。敬語を使っている方が心地いい。
「ありがとうございます。結構、待ちましたか?」
 肩からショルダーバックを外して、渉は腰を下ろした。それを見て、綾乃も腰を下ろした。
「いえいえ、全然待ってないですよ」
 綾乃は手を横に動かして早口で言った。
 渉は安堵して、「良かった。いつもコメント頂いて、ありがとうございます」と言って笑顔を見せた。
 それを見た瞬間に綾乃は胸を強く打たれたような衝撃だった。いつか見せてくれた横顔の笑顔を思い出させた。綾乃も笑顔を返して、
「いえ。いつも楽しみにしてました、春井さんの更新」
 話題を振ってくれた渉に感謝した。話の切り出し方で緊張の渦の中で右往左往していた自分が、綾乃は馬鹿らしくなった。
「ああ、ペンネームしか知らないよね……本当の名前は、中村渉っていうんです」
 会社の名刺を見せてそう言った。
「本名じゃないんですね?」
「はい」
「わたるさん、ですね。私は綾乃です」
「あやのさんって言うんですね」
「はい」
 沈黙になってお互いに目を合わせる。小さなホコリが落ちても聞こえそうだった。周囲にお客さんがいて沈黙なんてあり得ないのに。お互いに気まずさで笑みがこぼれる。とにかく何か話さなくちゃ、と思えば思うほど言葉がでない。今の綾乃の脳内辞書は真っ白だ。
「僕、ドリンク買ってきますね」
 沈黙は渉のドリンクオーダーで切り裂かれた。
「あ、はい」
 初めて渉が眼鏡をかけている姿を見た。列に並ぶ渉を見つめる。なんかすごく優しそうで安心した。綾乃が想像してた人と違う場合だってある。そうだとしたら今までの『緊張』とか『虚しい気持ち』ってなにってなるだろうから。
 オレンジジュースを手にした渉はショルダーバッグを足元に置いた。
「オレンジジュース、かわいいですね」
 大人の飲むオレンジジュースに助けられて、綾乃に言葉を誘発させた。
「そう? コーヒー、あんまり飲まなくて」
 恥ずかしそうに渉はオレンジジュースにささるストローを見つめた。
「全然、いいと思いますよ」
 慌てて綾乃はフォローを入れた。渉はただ笑って綾乃を見た。
「よく、ここに来るんですよね?」
 渉は見慣れているであろうカフェを再度見渡して綾乃に問いかけた。
「はい。仕事の休憩中とか、仕事帰りに来ます。ここが好きで、憩いの場所みたいな感じですね」
「分かります」
 渉はそう言って、うんうんとうなずいて綾乃に相槌打った。
「はい。だからいつもここに来ちゃうんです……」
 変な間ができたからまたお互いに笑う。
 美奈がいたらもっとすべてスムーズなんだろう。美奈で思い出した。本だ。本のこと。本のことを聞けばいい。
「ここで、あの、本を書いてたんですよね?」
 知っていることを改めて聞いている綾乃は、自分自身がおかしく感じた。誰よりもここで熱心に描いていたことを承知している。
「はい。長い時は二時間とかいる時もあって。あそこの席に座って」
 渉は後ろを振り返ってそう言った。
 よく知ってる。書いてる姿を見ていたから。
「そうなんですね……実は……渉さんがここで本を書いてるの、知ってました」
 自然な言葉を探すより、素直に話した方がいいって思った綾乃は正直に伝えた。それが緊張を少し和らげた。
「そうなんだ。お互いここに来てたら見たことあるよね。なんか恥ずかしいな……」
 恥ずかしさを笑顔で覆い隠す渉。
 それに綾乃は白い歯を見せた。もっと言うと綾乃が渉を知っていたという事実を、変に解釈されなかったことにも胸を撫で下ろした。
「いつもここに座ってたから、渉さんがあそこに座ってるとよく見えるんです」
 渉が振り返ると、いつもの指定席が目に入った。
「あの……なんか、なんていうか……」
 綾乃が次の言葉を切り出すまでは良かったけど、表現の仕方が分からず言葉は行き場を失っている。
 渉を褒めたい気持ちと、マジマジ見ていたことを隠したい気持ちが交錯する。
「なんか、とても熱中してる感じで……あの、真剣に何かに取り組んでるんだなって、思いました」
 綾乃なりに素早く頭を回転させて導き出した表現だった。
「確かに、書いてる時は周囲があまり見えてないかもしれない。話しかけられても気づかないかもね」
 渉は過去の自分を回想しながら言った。彼が思っている以上に、集中力が湧き出ていたことにビックリした。
「それだけ、集中してたってことですね」
 綾乃は渉が恥ずかしさを隠しているように見えたようで、一言で上手くまとめあげた。
「ありがとうございます。そんな風に言ってくれて」
「いえいえ。本、読みましたよ。心づくし」
 綾乃はカバンから本を取り出す。表紙を眺めた。渉との会合を実現させた本だ。感謝の眼差しが本に注がれる。
「ありがとうございます。恥ずかしいんですけど、どうでしたか?」
 渉は後悔した。本人を目の前にして感想を聞くなんて、当たり障りのないことしか言わないと、相場は決まっている。それが影響して決まりの悪い表情を見せた。
「良かったです。未砂がとてもいいなって。共感できる部分もあって。逆に、私にはこういうことはできないなとか、言えないなとか、色々考えました。あれだけ人を好きになったからできることかもしれないって、思いました。この話は、体験談ですか?」
 スラスラと言葉が並んだ自分自身に違和感を感じつつも、綾乃はさらに突っ込む。
「半々ですね。設定を借りて、状況は自分で作ったみたいな感じで。僕のこと知ってる人は、分かるかもしれないです」
「えーすごい。未砂は、実在した子なんですか?」
「未砂は僕が作ったキャラです。あんな子、実際はいないと思います。でも、そういう子がこの世界に一人でも存在していてほしいって、思ったんです。所詮は作り話ですけど」
 綾乃は頷きながら聞いていた。
「私は、未砂は色々なことを乗り越えて、人の痛みが分かったり、人を想えるようになったじゃないかなって。すごい良かったですよ」
「ありがとう。本当に嬉しいです。正直、生ゆるい話とか、面白くもなんともないとか、色々ブログに書かれたりもしたんだけど、未砂がちゃんと人として認めてもらえて、すごく嬉しいです。書いて良かったです」
 感慨深げに渉は語った。
 肯定も否定もどちらも受け止めた渉の心の窓を、綾乃は見たような気がした。書き上げた本は世間に良くも悪くも晒されて、心ないコメントもあったかもしれない。だから、綾乃の評価を噛み締めているんだ。もちろん、本を新人文学大賞に応募した時点で覚悟はあったかもしれないが、渉の心の強さを知った。
「いえいえ。私も『変わるきっかけになるかも』って思って。私、保険会社で営業してるんですけど……」
 渉はじっと綾乃を見つめた。
「仕事が忙しくて、人に構ってる余裕もなくて、だんだん人から遠ざかってるなって。ましてや人を好きになったり、悩んだりとかそういうのもなくて。毎日苦しくて、辞めたいなって、ふと思うこともあるので」
 三年間で蓄積されたものを押し出すように、綾乃は漏らした。
 渉は顔を縦に小さく動かしながら、「忙しいみたいですね。社会人になってからの二、三年って、何もできないよね。普段はカフェで働いてるんだけど、僕も最初は辛かった。さっき見せたのは、仕事の名札です」
 再び、渉は名札を綾乃に見せた。
「そうなんですね。どこのカフェですか?」
「リンクカフェです」
「あそこで働いてるんですか? クライエントさんとよく行ってました」
 声を張り上げると同時に目を丸くした綾乃。小さな世界で生きていることを綾乃は実感しているだろう。
「そうなの? いつもありがとうございます」
 軽く渉は頭を下げた。
「いえ……」
 綾乃はクライエントとここに来るのが嫌で、渉が勤めているカフェに行ってたから複雑な気持ちだった。仕事専用のレッテルを今すぐ剥がしたいだろう。もっと言うと、行ったことがあるのに渉に気付かなかった綾乃は、全力で自分を責めた。責められる綾乃ができる言い訳があるとすれば、『仕事で余裕がなかった』ということだ。
「ウインナーコーヒー、よく頼みますよ」
 仕事専用のカフェでウインナーコーヒーを頼むのかって、渉に突っ込まれるかと思ったけど、渉は、「美味しいね、あれ」と言った。
「ですね……カフェが好きなんですね、渉さんは」
「そういうわけでもなくて……自分にもちゃんとこなせる仕事を見つけようって。自分でも無理なくできて、できれば人とも接したくて。だからこの仕事にしたんだ」
 カフェにこだわりがあったわけではないみたいだ。
「渉さんなら、なんでもちゃんとやれそうですけどね」
「どうだろう……なんか自信なかったんだ」
 社交辞令のように受け取ったのか、渉は少し素っ気なかった。
「そうなんですね。でも渉さん、雰囲気が優しいからお客さんも落ち着いて過ごせそうですね」
 素っ気ない雰囲気を間近で感じた綾乃は、すかさずフォローに入った。こういうのは、仕事の時で慣れてしまっているみたいだ。
「ありがとうございます」
 どこかネガティブな渉。小説を書いてる時とは裏腹に、寂しそうに仕事のこと語る渉が気になった。小説と向き合っている時は、しっかり自分を持てるのかもしれない。弱い自分を被せて見えないようにしてくれるんだろう。
「二作目とかは、考えてるんですか?」
「え?」
 落としていた視線を上げた渉。
 綾乃はまた少しだけネガティブなオーラを渉から受け取った。
「二作目です。構想とか、なんでもいいんですけど、プランはあるんですか?」
「考えてないですね」
 即答だった。綾乃はどこか確固たる意志のようなものも感じた。
「そうなんですね……私、個人的にはもっと渉さんの作品読みたいなって思います」
 伝えていいかどうか、綾乃も迷ったけど、どこか笑顔を作るように言った。渉の気持ちを翻意させようとしているようで、後ろめたかった。『否定されてる』って思っていなかったら、綾乃としてはベストだ。
「うん……これは、記者会見でも言ったんだけど、これが最初で最後になるって」
 キリッとした眼差しが綾乃に届いた。本を認められた時の、柔らかい表情が嘘のように。
「心づくしは、渾身の一作って、感じなんですか?」
「そう……ですね。もちろん、中途半端な気持ちで書いてないし、自分なりに思いを込めて書いたけど、これが最後かな」
「そうなんですね。でも、私は……渉さんの作品もっと読みたいです」
「ああ……」
 渉は笑ってくれたけど、心には響いていない感じだった。
 綾乃は、小説を書いている時の渉の真剣な感じが好きだ。それに加えて、この包み込むような穏和な感じ。渉を構成する半分が見られなくなってしまうのが、寂しくて仕方なかった。
「こんなこと言うと、少し変なんですけど、渉さんが外を見ながら何か、こう……考えてる様子がすごくいいなって。何かに夢中になって、釘付けになってる感じが」
「そんな時あった?」
 渉にとっては、無意識の出来事だったみたいだ。小説を書く上での自然な行動だった。自然だったからこそ、綾乃の気持ちを掴んだんだ。
「ありました……あの、何回もあったわけじゃないですよ」
 『あの』から、早口でまくし立てるように綾乃は言った。じろじろ見ていた疑惑が、綾乃の頭を通り過ぎてぎこちなくさせた。
 その様子を見て、渉は頬を緩めた。
「あの、渉さんのこと、よく見かけたから」
 変に思われるのが嫌で、また早口で言い訳がましくなる。美奈に聞かれてたらいじられそうで、周囲にいなくてよかったと、綾乃は思った。
「多分、考え事してたんだと思う。言葉が浮かばない時とか、この次のシーンはどうしようかなって」
「すごい」
「何にも気を遣わずに考えられる場所が、カフェの外に広がる景色だったんだと思う」
 深い意味はなくても、絵になる姿だった。客観的に見れるように、スケッチして渉にプレゼントしたいぐらいだった。
「そうなんですね」
「ありがとう、聞いてくれて。そんな一面が僕にあったんですね」
「いえいえ」
「休みの日とかは、何してるの?」
「最近は、家事をやったり、寝たりしてますね。ごめんなさい、つまらないですね」
 綾乃は思わず自嘲してしまった。友達がいないわけではないけど、だいたい周囲の友達は彼氏がいるから一人になってしまう。
「ううん。僕もそんな感じです。でも、それが一番いい休日ですね」
「ですね。ああ、やだな」と綾乃はため息をついた。それに続けて、「新人の子と一緒に外回りにいかないといけないんですよ。三年目だけど、そんな腕があるわけでもないのに教育係なんて……」
「すごいですね。期待されてる」
 渉は笑顔でそう言った。
「そんなそんな。人がいないんです。嫌すぎて逃げ出したい気持ちです」
「大変な仕事なんですね」
「自分で決めて入ったんですけど、なかなかうまくいかないことも多くて……」
 表情が暗くなっていく綾乃。渉と会っている時の話題じゃなかった。
「綾乃さん」
 渉は綾乃の視線を上げさせた。
「はい」
「初対面でこんなこと言うのは失礼かもしれないですけど……」
 渉は俯き加減になっていた顔を上げて微笑んだ。
 綾乃は言葉を待つ。何か言いにくいことなのか。
「そんなネガティブに考えないで、頑張ってみてください。会社の人も、綾乃さんだったらできるって、大丈夫だって思ったから任せようっていうことになったんだと思うから。人がいないとか、そういうことじゃないと思って。綾乃さんがマジで嫌じゃなかったら、頑張ってほしいなって。諦めないでって言うか、なんていうか、綾乃さんならできると思うから」
 長々と話す自分がおかしくて無理に渉は笑っていた。会社の上司でもないのに、出過ぎたことを言ってしまったって思っているんだろう。
 綾乃はただ、渉からの励ましを真面目に聞き、綾乃は「はい、ありがとうございます」と言った。
 受け入れてくれた綾乃を見て、自然な笑みで渉は出迎えた。嫌な道を無理やり歩ませるわけではない。可能性があるならやってほしい。ただそれだけなんだろう。
「なんか、元気出てきました。プレッシャーで死にそうだけど、とりあえず、頑張ってみます。苦しくなったら、またその時考えます」
「はい。前向きに行きましょう」
「ですね」
 心からの笑顔が綾乃を出迎える。好意のある人に言われれば、こうなるだろう。
 渉も同じように表情を返してくれる。
 お互いを励まし合う渉と綾乃。
 こんなに落ち着けて、幸せになれるカフェ。
 カフェの窓越しに映る自分を綾乃は眺めた。渉と映る姿を残しておきたくなった。