綾乃が誰にも邪魔されずにスマホと向き合う。今は誰にも話しかけられたくない。今誰が訪ねてきても応対不可能だ。仕事の電話でさえ、『すいません、気づきませんでした』って言うつもりだ。
綾乃が春井俊太こと、中村渉の個人ブログを閲覧している。衝撃の記者会見から四ヶ月。迷わず本を手にした綾乃は購入して隙間時間を利用して、文章を一つ一つ抜き出して読んだ。小説の最後のページに、個人ブログのアドレスを見つけた。綾乃はすぐにそこへアクセスをしてブログを読み始めた。彼の他愛もない日常や、作品についての思いなどを綴ったもので誰でも閲覧できるようになっている。
渉は週に二、三回、ブログをアップしている。最初はブログへのコメントが多く寄せられたが、ほとんどは彼を知る友達だった。渉は誰か分からず思い出すのに苦労した子もいた。
まだ初めての作品で、本がたくさんの人に行き渡ったわけではないからブログへの関心やコメントもだんだん数を減らし、今は比較的穏やかなブログ運営になっている。最初はコメントすべてに返信をしていたが、今はすべてにはしていない。コメントをもらえるのは嬉しいけど、身が持たない。でも渉は時間が許す限りコメントを丁寧に身を乗り出して読んでいる。
綾乃はブログのURLの下に春井俊太のSNSのアカウントのリンクを目にした。「遊びに来てくださいね」という誘い文句も添えられていた。同じSNSのアカウント持っていた綾乃は迷わずクイックした。春井俊太の投稿だけでなく、ダイレクトメールで直接やり取りすることもできる。でも口を紡いで手を止めた。
「いきなりメッセージを送って、大丈夫かな……」
綾乃はそう独り言を言った。美奈がいたらここまで踏み込んでおいて、立ち止まっている綾乃にイライラしそうだった。体を少しだけ震わせながら、文字の記入欄を見つめる。ここにチャンスが転がっているんだ。それを拾わずに素通りするつもりなのか。ゆっくりと春井俊太への挨拶文を打ち始めた。息をプツプツ切れてしまう。ただ、文章を書いているだけだ。
書き上げた文章を眺める。特に何の変哲もない文章だ。でも綾乃にとっては、SNS上ではあるけど、ファーストコンタクトになる。投稿の部分を軽い弾くようにタップした。『ここまで書いたならいいか』って勢いに身に任せた行動だった。
「こんにちは。あやと言います。突然、DMしてすいません。本の感想をお伝えしたくてメッセージを送りました。登場人物の気持ちが上手く描かれていて引き込まれました。またブログとか書いてくださいね。楽しみにしています」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。またSNSに投稿したり、ブログをアップするので遊びに来てください」
「こんにちは。あやです。楽しみにしています。あの、答えられる範囲で大丈夫なんですけど、いつもはどこで書いてるんですか?」
綾乃は知っているけど、春井俊太の口から聞きたくてそう聞いてみた。春井俊太が確実にカフェで見かける人だって確信もできる。仕事も同じで、なんでも確認だから。
「メッセージ、ありがとうございます。いつもは自分の好きなカフェで書いてます。たまに家で書きますけど、家だといい言葉とかが思い浮かべなくて。だからカフェに行きます。そこがオシャレですごくいいんですよ」
「そうなんですね。好きな場所で書くと言葉が出てくるんですね。もし、差し支えがなかったら、そのカフェってどこにあるか教えて頂けませんか? 私もオシャレな……」
綾乃が言葉を詰まらせる。勢いで聞けるけど、変な風に取られるかもしれない。SNSのやりとりを見ても、悪い人ではないと思う。でも実際違ったら怖い気持ちもある。色々と犯罪が多いのもそういう迷いにつながった。でもここで立ち止まったら何も起こらない。こんなチャンスは二度と現れないと思った方がいい。綾乃は自分自身を説得した。
「私もオシャレなカフェが好きなので、教えていただけませんか?」
『もういいや』っていう投げやりな感じで投稿をクリックした。
もし差し支えがあるなら遠回しに書いてくるだろう。もしそれでダメなら仕方ない。何もせずに諦めるよりはいいから。こうやって時の人と、SNSを通してではあるけど、話ができているから後悔はしないと綾乃は思った。
「あやさんもオシャレなカフェが好きなんですね。いいですよ。中目黒にある『カトリーナ』というカフェです。もし良かったら行ってみてください」
核心部分が重なった。綾乃の目に緑色の淡い光がともる。
やっぱり綾乃が見かけるあの人は春井俊太だったと確信した。
カフェのことはもしかしたらは渉よりもよく知っているかもしれない。
次はそれが綾乃にとってもお気に入りかを伝えるかどうか迷ってキーボードに指を置いたままだ。
知らないふりをして、『今度行ってみます』と伝えるか。それで次に見かけた時に、思い切って声をかける。緊張にただ支配されて何もできないだろうと、脳裏であたふたする綾乃を描き出した。
それとも、知っていることを伝えて、ブログのやり取りを続けるか。それで自然な流れで、「もしご迷惑でなければ、そこのカフェでお話ししませんか?」と提案してみる。
さぁ、綾乃の答えは?
「そこで書いてるんですか? 私もそこよく行きますよ。オシャレで可愛いので私も大好きです」
迷ったけど、素直に伝えた。後者の方が自然な綾乃を見せることができる。それが決め手になった。ここで嘘を並べる理由がないっていうのが綾乃の判断だ。自分の行いが正しいと綾乃の脳に何度も反芻して刷り込んだ。
「ええ? 同じカフェが好きなんて偶然ですね。見かけたことあったかもしれないね」
何回もある。一心不乱に書いている姿を見てきた。それが綾乃にはすごく魅力的に感じた。生き生きとしたあの姿を。春井俊太の世界に自然と引き込まれていったんだ。
「見かけたかもしれないですね」
その先の言葉が打ち込まれずそのままになった。書きたい言葉はある。
「もし良かったら一緒にお茶しませんか?」って。
いくら恋愛に奥手とはいえ、ここで何も言わないのはよくない。綾乃も承知しているけど、キーボードを打つ手はまたもストップした。息を飲んで騒ぎ出す鼓動を聞きながらパソコン画面を見つめた。
目の前にあるチャンスをただ見つめて、それで満足するわけがない。
「もし時間が合えば、カトリーナでお茶できたらいいですね」
春井俊太から言ってきた。心が躍った。思わず手が動いて無我夢中で短い文を打ち出した。ゆっくり大事に、『投稿』をクリックした。
「はい。是非」
綾乃はしばらく放心状態になった。
春井俊太に会えるという異次元の世界のような気持ちと、マジでストーカーみたいで怖いっていう綾乃の暗い部分を見つめる異質な気持ちが交錯して交わる。
スマホ画面に反射した自分の表情を意味もなく見つめていた。
「あやさん、今日カフェに行く予定なんですけど、もしよろしければお茶しませんか?」
このメッセージをもらった日。綾乃は仕事のトラブルでブログを閲覧できずにいた。なんとか事なきを終えて、自宅に戻ったら疲れ切って寝てしまった。綾乃のミスではない。新人のミスだけど、監督していたのは教育係の綾乃だったから対応に追われた。勘弁してほしい。だから教育係なんてやりたくなかったって、心の中で綾乃は繰り返した。
「綾乃って本当バカ。チャンス逃しちゃった」
美奈に責められた。仕事だから仕方ないなんて割り切れなかった。仕事に阻まれるのが一番腑に落ちない。
「最悪。あの日に限ってトラブルなんて」
綾乃は体を揺さぶりながらぶつけようのない怒りを表現する。何をしても今ある現実は変わらないのが悔しい。
「今からでもいいから送りなよ。『仕事でトラブルがあってすぐに返信できなくてごめんなさい。別の日ではどうですか?』って」
美奈の言葉がぐちゃぐちゃになった綾乃の気持ちを整えてくれた。すぐにスマホを取り出して手を動かす。美奈は恋愛の上司みたいだった。
「こんばんは。昨日は返信できなくてごめんなさい。仕事でブログ見れませんでした。またカフェに行く機会ありますか? 私も是非お話ししたいです」
「そうだったんですね。気にしないでくださいね。また行く機会あると思います。お気に入りのカフェなので。僕があやさんの予定に合わせた方がいいですね。都合のいい日ありますか?」
「本当ですか? ありがとうございます。手帳が会社に置いてあるので明日連絡します」
返信をしてくれるのが早い。だから美奈もいる場所でこのメッセージを受け取った。二人でハイタッチをした。
綾乃は翌日、仕事のスケジュールを確認して渉に連絡を入れた。渉の返信を待っていられなかったというのが、綾乃の本心だ。その後、渉からも連絡が入った。
Xデーは明後日金曜日の午後八時に決まった。でも急にクライエントと予定が入るかもしれないから時間を遅くしてもらった。急な要望や出来事にも落ち着いて対応していくのがプロの営業だよって人事の人に言われたからそうした。春井俊太と会う日に、バタバタしたくない。
綾乃の心が上下に揺れながら躍っている。
明後日金曜日の午後八時に、カトリーナに集合!
綾乃が春井俊太こと、中村渉の個人ブログを閲覧している。衝撃の記者会見から四ヶ月。迷わず本を手にした綾乃は購入して隙間時間を利用して、文章を一つ一つ抜き出して読んだ。小説の最後のページに、個人ブログのアドレスを見つけた。綾乃はすぐにそこへアクセスをしてブログを読み始めた。彼の他愛もない日常や、作品についての思いなどを綴ったもので誰でも閲覧できるようになっている。
渉は週に二、三回、ブログをアップしている。最初はブログへのコメントが多く寄せられたが、ほとんどは彼を知る友達だった。渉は誰か分からず思い出すのに苦労した子もいた。
まだ初めての作品で、本がたくさんの人に行き渡ったわけではないからブログへの関心やコメントもだんだん数を減らし、今は比較的穏やかなブログ運営になっている。最初はコメントすべてに返信をしていたが、今はすべてにはしていない。コメントをもらえるのは嬉しいけど、身が持たない。でも渉は時間が許す限りコメントを丁寧に身を乗り出して読んでいる。
綾乃はブログのURLの下に春井俊太のSNSのアカウントのリンクを目にした。「遊びに来てくださいね」という誘い文句も添えられていた。同じSNSのアカウント持っていた綾乃は迷わずクイックした。春井俊太の投稿だけでなく、ダイレクトメールで直接やり取りすることもできる。でも口を紡いで手を止めた。
「いきなりメッセージを送って、大丈夫かな……」
綾乃はそう独り言を言った。美奈がいたらここまで踏み込んでおいて、立ち止まっている綾乃にイライラしそうだった。体を少しだけ震わせながら、文字の記入欄を見つめる。ここにチャンスが転がっているんだ。それを拾わずに素通りするつもりなのか。ゆっくりと春井俊太への挨拶文を打ち始めた。息をプツプツ切れてしまう。ただ、文章を書いているだけだ。
書き上げた文章を眺める。特に何の変哲もない文章だ。でも綾乃にとっては、SNS上ではあるけど、ファーストコンタクトになる。投稿の部分を軽い弾くようにタップした。『ここまで書いたならいいか』って勢いに身に任せた行動だった。
「こんにちは。あやと言います。突然、DMしてすいません。本の感想をお伝えしたくてメッセージを送りました。登場人物の気持ちが上手く描かれていて引き込まれました。またブログとか書いてくださいね。楽しみにしています」
「ありがとうございます。すごく嬉しいです。またSNSに投稿したり、ブログをアップするので遊びに来てください」
「こんにちは。あやです。楽しみにしています。あの、答えられる範囲で大丈夫なんですけど、いつもはどこで書いてるんですか?」
綾乃は知っているけど、春井俊太の口から聞きたくてそう聞いてみた。春井俊太が確実にカフェで見かける人だって確信もできる。仕事も同じで、なんでも確認だから。
「メッセージ、ありがとうございます。いつもは自分の好きなカフェで書いてます。たまに家で書きますけど、家だといい言葉とかが思い浮かべなくて。だからカフェに行きます。そこがオシャレですごくいいんですよ」
「そうなんですね。好きな場所で書くと言葉が出てくるんですね。もし、差し支えがなかったら、そのカフェってどこにあるか教えて頂けませんか? 私もオシャレな……」
綾乃が言葉を詰まらせる。勢いで聞けるけど、変な風に取られるかもしれない。SNSのやりとりを見ても、悪い人ではないと思う。でも実際違ったら怖い気持ちもある。色々と犯罪が多いのもそういう迷いにつながった。でもここで立ち止まったら何も起こらない。こんなチャンスは二度と現れないと思った方がいい。綾乃は自分自身を説得した。
「私もオシャレなカフェが好きなので、教えていただけませんか?」
『もういいや』っていう投げやりな感じで投稿をクリックした。
もし差し支えがあるなら遠回しに書いてくるだろう。もしそれでダメなら仕方ない。何もせずに諦めるよりはいいから。こうやって時の人と、SNSを通してではあるけど、話ができているから後悔はしないと綾乃は思った。
「あやさんもオシャレなカフェが好きなんですね。いいですよ。中目黒にある『カトリーナ』というカフェです。もし良かったら行ってみてください」
核心部分が重なった。綾乃の目に緑色の淡い光がともる。
やっぱり綾乃が見かけるあの人は春井俊太だったと確信した。
カフェのことはもしかしたらは渉よりもよく知っているかもしれない。
次はそれが綾乃にとってもお気に入りかを伝えるかどうか迷ってキーボードに指を置いたままだ。
知らないふりをして、『今度行ってみます』と伝えるか。それで次に見かけた時に、思い切って声をかける。緊張にただ支配されて何もできないだろうと、脳裏であたふたする綾乃を描き出した。
それとも、知っていることを伝えて、ブログのやり取りを続けるか。それで自然な流れで、「もしご迷惑でなければ、そこのカフェでお話ししませんか?」と提案してみる。
さぁ、綾乃の答えは?
「そこで書いてるんですか? 私もそこよく行きますよ。オシャレで可愛いので私も大好きです」
迷ったけど、素直に伝えた。後者の方が自然な綾乃を見せることができる。それが決め手になった。ここで嘘を並べる理由がないっていうのが綾乃の判断だ。自分の行いが正しいと綾乃の脳に何度も反芻して刷り込んだ。
「ええ? 同じカフェが好きなんて偶然ですね。見かけたことあったかもしれないね」
何回もある。一心不乱に書いている姿を見てきた。それが綾乃にはすごく魅力的に感じた。生き生きとしたあの姿を。春井俊太の世界に自然と引き込まれていったんだ。
「見かけたかもしれないですね」
その先の言葉が打ち込まれずそのままになった。書きたい言葉はある。
「もし良かったら一緒にお茶しませんか?」って。
いくら恋愛に奥手とはいえ、ここで何も言わないのはよくない。綾乃も承知しているけど、キーボードを打つ手はまたもストップした。息を飲んで騒ぎ出す鼓動を聞きながらパソコン画面を見つめた。
目の前にあるチャンスをただ見つめて、それで満足するわけがない。
「もし時間が合えば、カトリーナでお茶できたらいいですね」
春井俊太から言ってきた。心が躍った。思わず手が動いて無我夢中で短い文を打ち出した。ゆっくり大事に、『投稿』をクリックした。
「はい。是非」
綾乃はしばらく放心状態になった。
春井俊太に会えるという異次元の世界のような気持ちと、マジでストーカーみたいで怖いっていう綾乃の暗い部分を見つめる異質な気持ちが交錯して交わる。
スマホ画面に反射した自分の表情を意味もなく見つめていた。
「あやさん、今日カフェに行く予定なんですけど、もしよろしければお茶しませんか?」
このメッセージをもらった日。綾乃は仕事のトラブルでブログを閲覧できずにいた。なんとか事なきを終えて、自宅に戻ったら疲れ切って寝てしまった。綾乃のミスではない。新人のミスだけど、監督していたのは教育係の綾乃だったから対応に追われた。勘弁してほしい。だから教育係なんてやりたくなかったって、心の中で綾乃は繰り返した。
「綾乃って本当バカ。チャンス逃しちゃった」
美奈に責められた。仕事だから仕方ないなんて割り切れなかった。仕事に阻まれるのが一番腑に落ちない。
「最悪。あの日に限ってトラブルなんて」
綾乃は体を揺さぶりながらぶつけようのない怒りを表現する。何をしても今ある現実は変わらないのが悔しい。
「今からでもいいから送りなよ。『仕事でトラブルがあってすぐに返信できなくてごめんなさい。別の日ではどうですか?』って」
美奈の言葉がぐちゃぐちゃになった綾乃の気持ちを整えてくれた。すぐにスマホを取り出して手を動かす。美奈は恋愛の上司みたいだった。
「こんばんは。昨日は返信できなくてごめんなさい。仕事でブログ見れませんでした。またカフェに行く機会ありますか? 私も是非お話ししたいです」
「そうだったんですね。気にしないでくださいね。また行く機会あると思います。お気に入りのカフェなので。僕があやさんの予定に合わせた方がいいですね。都合のいい日ありますか?」
「本当ですか? ありがとうございます。手帳が会社に置いてあるので明日連絡します」
返信をしてくれるのが早い。だから美奈もいる場所でこのメッセージを受け取った。二人でハイタッチをした。
綾乃は翌日、仕事のスケジュールを確認して渉に連絡を入れた。渉の返信を待っていられなかったというのが、綾乃の本心だ。その後、渉からも連絡が入った。
Xデーは明後日金曜日の午後八時に決まった。でも急にクライエントと予定が入るかもしれないから時間を遅くしてもらった。急な要望や出来事にも落ち着いて対応していくのがプロの営業だよって人事の人に言われたからそうした。春井俊太と会う日に、バタバタしたくない。
綾乃の心が上下に揺れながら躍っている。
明後日金曜日の午後八時に、カトリーナに集合!