「いらっしゃいませ」
 渉はいつもようにお客さんを出迎える。列が外にまではみ出しているのを見て、簡易メニューを手にフロアに出た。すると、最近見慣れた顔があった。それはここの常連さんではないけど、よく見慣れている。
 笑顔を見せる私服姿の綾乃だったけど、緊張感を漂わせながら少し硬い笑顔だった。
「綾乃さん」
「こんにちは。混んでますね」
 綾乃は周囲を見渡して言った。
「そうだね。店内で過ごす予定?」
「ああ……そうですね……」
 今はタイミングが良くないと思ったのか、お茶を濁した。綾乃は長く話したい様子だった。
「そっか、じゃあ、先に席を確保した方がいいね。奥の方が空いてますよ」
「はい。ありがとうございます」
 綾乃はコーヒーを手にして、店内で席に着くと渉と目が合わないように座った。渉が働いている姿をじろじろ見るのが恥ずかしかった。「だったら来るなよ」って思われるかもしれないが、居ても立ってもいられなかった。
 渉も恥ずかしいのか、忙しさが少しずつひいてきたのか、バックルームに戻っていった。
 数十分経過すると、渉が再び店内に出てきた。綾乃は目が合うと、渉から目を逸らした。渉も、どこかよそよそしい振る舞いを肌で感じているだろうか。
「綾乃さん」
「はい」
 渉は自分と距離を詰められていくにつれて小さくなっていく綾乃を見た。
「お店に来てくれたの、初めてですよね?」
「はい……」
「どうかしましたか?」
 渉も変な空気を交わりながら綾乃と過ごすのは嫌なんだろう、ストレートに聞いた。
「あの……」
 綾乃はバックから手紙を入れる封筒を出した。
 渉が手に取ってみると、中には少し厚めの紙が入っている。
「写真?」
 笑みをこぼしている綾乃だけど、渉と目を合わせられないでいる。
 取り出して眺めてみると、食パンを両頬に持っている若い男の子が、変顔にも似た面白い表情を作って写っている。変顔というか、路頭に迷った青年なす術もなく高らかに叫んでいるような感じだ。服装は制服姿ではなさそうだけど、学生が着ているようなビジネスシャツのように見える。襟がボタンでしめられるようになっている。
「これって、どう解釈したらいい?」
 その真相を知っているのは綾乃だけだ。渉は迷わず聞いた。
「……あの、現実と、妄想の狭間ってことです……」
「左手の食パンが現実で、右手のパンが妄想ってことかな?」
 俯いたまま頷いた綾乃。
 笑みを見せて渉は「なるほどね」
 さっきから綾乃は何度も息を吹きながら笑っている。写真で自分を表現したのは、すごく恥ずかしいみたいだ。
「なんか、現実と妄想にはさまれたサンドウィッチ彼氏みたいな感じだね」
 渉なりに、この写真の感想を述べた。綾乃が表現したかったものときれいに重なり合うかどうかは定かではないけど、おそらく近いものだと、渉は思っている」
「それ、面白いですね」
 渉の目を見て綾乃はようやく自然な笑みを見せた。渉の描写は、間違っていなかったようだ。
「ね」
「抽象的な写真だったから、伝わってよかった」
「この男の子は誰なの?」
「今年入社した新卒の男の子です。小織君って言うんです。頼んだら、背広とネクタイ脱いでやってくれました」
 その時の様子はおかしいようで、綾乃は口を押さえて笑っている。
「この食パンもわざわざ用意してくれたの?」
「はい……二枚入りのあるじゃないですか? それを取り出して……小織君が二つとも食べてくれました」
「そうなんだ」とお客さんが周囲にいるからだろうか、渉は綾乃を真似るように口を押さえた。綾乃の写真と、まさかの行動だったからギャップにもやられている。
「綾乃さん、新卒の子に、すごいパワハラだね」
「ですね……『なんでそんなこと?』って、聞かれましたけど、『とにかくお願い』って、無理やりさせちゃいました」
 上司に怒られるかもしれないって、綾乃は考えていた。でもそんなに苦痛を受けるような指示はしていないと、自分を正当化している。コーヒーか何かを奢ってあげればいい。
「綾乃さん、思い付きました」
 指をパチンと鳴らして、渉は綾乃に視線を送る。
「えっ?」
「左手の現実の食パン、右手に妄想……毎晩見る夢の世界の食パンにはさまれた、彼氏。名付けて、『サンドウィッチ彼氏』だ。新作のタイトルこれにするよ」
 全ての線が上手くつながった渉の閃いた瞬間だった。
「すごい! それいいですね!」
 思わず綾乃は立ち上がって、渉の手を取った。
「うん。ありがとう、綾乃さん」
「はい」
 今頃、渉の手に触れたことを自覚した綾乃は、「ごめんなさい」と呟いた。
「綾乃さんのおかげで、タイトルが生まれた」

 快晴の空がどことなくたくましく感じる。今はここに佇んで、できるだけ太陽の光を浴びようと思う。
 昨夜、綾乃は自分の部屋で号泣していた。本当に渉を失ってしまうかもしれないっていう現実と曖昧さが綾乃を襲った。先が見えない中で時を過ごすのは辛い。それは渉が一番感じているだろう。だから本を書きたくても、ペンを握ることは容易ではなかった。
 号泣したせいで腫れあがった目元を化粧でごまかした。最後かもしれないのに、こんな変な顔を見せられなかった。気付かれてしまったら、何か冗談を言って笑い飛ばそうと思っている。ここまで生きてきて良かったって思ってくれたらそれでいい。渉を失いたくないけど、覚悟はしないといけないみたいだ。渉にいる周囲の人たちも、みんな同じことを考えているだろう。
 渉が書いた本を見つめる。何度、この本を取り出して表紙を見つめたことか。渉のことを助けてあげて欲しい。何を言っても無理だけど、お祈りはしておく。この本にはまだ見ぬ力があると思っているから。綾乃が想像している以上に凄まじい力があると。笑われてしまうと思うけど、そう思っている。
 病院に入ると、渉のお母さんの姿が映った。病院の中央にある大きな円形をソファがあり、そこでポツリと手元を見つめている。
 今日は渉の手術の日だ。今日で全てが決まってしまうということだ。可能性は低いらしい。渉がそう話して以来、そういう話はしていない。今はそんなことより、今を楽しんで、今できることをやっていくほうが、渉の笑顔が見れると思った。
 お母さんは前に綾乃の前で覚悟を話していたけど、そんなことできるわけない。今もどこかでなんとかなるって信じていると思う。綾乃もそのうちの一人だ。
「お母さん」
 顔を上げて少し作り笑いをしたお母さん。知らない人に声をかけられたという意識があったのだろう。
「ああ、あなた、綾乃さんね」
 いつもより化粧が濃いから綾乃を認知するのに時間がかかったか。
「はい。お久しぶりです」
「渉の手術で来てくれたの?」
「そうです……すいません、本当はご家族の方と一緒に過ごすほうがいいって思ったんですけど」
「いいのよ。渉のために来てくれてるんだから。私は親として嬉しい。来てくれてありがとう。渉と話したい? 手術までまだ時間があるから話してきたら」
「いいですか?」
「せっかく来たのに話せないで終わるなんて嫌でしょ? あの子、もうこれで最後かもしれないでしょ」
 お母さんが笑ってそう言う。その笑みに隠れて、「最後」なんて言葉を口にする辛さが存在する。
「はい……」
 せっかく会いにきたのに、綾乃は最後という言葉に怖気付いてきた。胸に手を抑える。胸の鼓動を聞きながら目を閉じた。お母さんの前で泣くことはしないでおきたい。綾乃以上に辛い時間なのに、易々と涙をこぼすのは、何か違う気がした。
 目を閉じたまま、綾乃は深々とお母さんに頭を下げた。

 お母さんに連れられて綾乃は渉の病室を訪ねた。ベッドに腰掛けて外を向いている渉がいた。窓から浴びせられる太陽光線が渉の姿を恍惚にしている。最後を迎える人はこういう感じなのか。
 渉は誰かの気配を感じたのか、静かに綾乃たちの方を振り向いた。
 綾乃は渉と目を合わせる。でも綾乃は暗い顔をしない方がいいって思って、柔らかく微笑んだ。
「綾乃さん、来てくれたわよ」
「綾乃さん」
「渉さん、こんにちは」
「こんにちわ。ここ座ってください」
 渉は綾乃に簡易椅子を差し出した。
「ありがとうございます」
「ありがとう、来てくれて」
「いえ。今日はとりあえず、サヨナラは言わないから」
「……」
 突然話し始めた。もう変な前振りなんて要らない。綾乃に伝えられることは全て伝えておきたい。時間はそんなに残されていないだろう。
「最後まで生きたいって、願いながら手術を受けます。それでどうなるわけでもないと思うけど、その思いはここにとどめておこうと思ってる」
「はい。また戻ってきてくれるって信じてます」
 感慨深く頷くと同時に俯いたまま戻ってこない渉。手術前で、不安が広がってきたのか。
 綾乃が渉の背中に手を添える。せめてこうしていたいだけ。お母さんが近くにいるのに、少し違和感があったが、今は気にしない。こんな一面、綾乃の片隅にもあったんだって、内心びっくりしているかもしれない。
 お母さんも渉の手を握って、渉に寄り添う。
 渉がゆっくり顔を上げて綾乃を見た。
「綾乃さん、前に、私は変わったって言ってましたよね?」
「はい」
「でも僕は、綾乃さん以上に変わったと思う。勝ち負けをするわけじゃないけどね」
「私のが変わりましたよ、渉さんに負けないぐらい」
「いや、違うね……僕の方が変わった」
 こうしていると本当に渉は死ぬんだろうかと、疑ってしまう。この状況で、渉と冗談を言えるようになったのは、綾乃の成長かもしれない。
「綾乃さん、『サンドウィッチ彼氏』、できましたよ」
 綾乃は目を潤ませる。
「渉さんは本当にすごい!」
 小さく拍手をしながら、綾乃は渉の執筆を労った。

 三月の末。中目黒駅を降りて緩やかに流れる川をたどっていくと、いくつもの桜が立ち並んでいる。両端のストリートには人と店しかない。でも綾乃はなんとか歩いていける。桜は満開とまではいかないけど、まだ見るに足るレベルだ。でもそんなことは気にしない。そんなこと、別にどうでもいい。ただそこに存在しているだけでみんなを幸せにできるから。
 交通規制がひかれ、警察官が声を張り上げて注意喚起をしている。人々はスマホやカメラを手に、スクリーンに写り込む桜と人を交えてシャッターを押す。綾乃もカバンにカメラを忍ばせて、来たる最高のタイミングを見計らっている。
 綾乃がしばらく歩いていくと、一人の男性が桜を見つめている。他にも男性がたくさん歩いているけど、彼の姿はどこか異彩を放っている。僕を見つけて欲しいってアピールしているみたいだった。
 カメラを取り出して、桜に手を伸ばして触れようとしている男性をカメラ越しに捉える。それは決して幻ではない。ちゃんときっくり姿が描かれている。迷わずシャッターを押した。もう一枚。そしてもう一枚。
 ここに今、彼は存在しているんだ。そんな彼を見つめる綾乃。今、どんな気持ちなんだろう。
 多分、こう思っているだろう。

「また今年も桜が見られるなんて思わなかった。別に満開じゃなくてもいい」

 男性は視線を感じたのか綾乃の方を見た。
「渉さん」
 人混みをくぐり抜けた綾乃の声は渉にも響いてくる。渉は少年のような笑顔を見せる。そして大きく綾乃に手を振る。 綾乃が駆け足で歩み寄る。そんなに急がなくていい。渉もちゃんと歩み寄れるから。

「僕も、綾乃さんが好きです。人を好きになるって、素敵なことですね」

 渉はそう長々と呟いた。綾乃には、たぶん聞こえていないだろう。
 聞こえてなくても大丈夫。まだ時間はあるから。
 急がなくてもゆっくり、確実に綾乃に伝えればいい。