綾乃が渉への気持ちを告白してから、意外にも話が盛り上がった。本当に他愛もない話。渉も笑顔を見せて普通にしていたから綾乃もそれに合わせて普通にしていた。伝えても意味がなかったかもしれないけど、後悔はなかった。今のうちに言っておかないと、渉が死を迎えてからでは遅いから。
支払いを済ませて店を出ると、寒さはレストランに入った時よりも増していた。
渉はジーンズのポケットに手を入れた。綾乃は上着のボタンを閉めて腕組みをして熱をこもらせる。
「家はどこなんですか?」
「すぐ近くですよ」
渉がある家の方向を指して言う。
「じゃあ、そこまで一緒に行きます」
「いいよ。遠回りになるから」
「気にしないでください。私にも、この辺を散策させてくださいよ」
綾乃が渉と歩幅を合わせて歩く。
しばらく黙ったままだった。レストランで盛り上がった時のことが嘘のように。特に話すことがなければ、別に話さなくていい。ただこうやって歩いているだけでも、綾乃は幸福だった。
渉は普通にしていてくれたけど、気まずくて仕方なかったかもしれない。答えようのない綾乃の告白に、ただ戸惑うだかりだっただろう。
「ここです」
最近できたばかりのきれいなアパートだった。築年数は二、三年といったところか。家のそばに自転車が置いてあった。都内に住んでいると車はあまり必要ないけど、体のことを考えて自転車を使っているのかもしれない。
「渉」
どこからか声がした。しかも渉のことを呼び捨てで。でも嫌な感じはなく、すごく温かみのある声だった。
呼ばれた本人と綾乃は後ろを振り返った。
六十代ぐらいの女性が、渉に無理やり袋に入った何かを渡してきた。
「ああ、ありがとう」
渉も抵抗もせずに素直に受け取って、少しだけ中身を覗き込んだ。
「これで良かった?」
女性は早口で渉に尋ねた。この場をすぐにでも後にしたいのか、尋常じゃないほどソワソワしている。もちろん綾乃とは、一切視線を合わせないでいる。目を丸くしている暇もないまま、綾乃は二人のやりとりを見つめている。
「うん。中、上がっていく?」
「ううん。お邪魔みたいだから帰るわよ」
綾乃が固まっている様子を見て渉は、「お母さんです」と言った。
穏やかで優しそうなお母さんだった。
遊園地の一件があるから、綾乃は後ろめたさを感じていたけど、「こんばんは、坂本と申します」と言って頭を下げた。
「こんばんは。私、もう行くわね」
綾乃にそう返すと、足早にその場を去った。
「気を付けてね」
お母さんは後ろを振り向かず、手だけ振ってそのまま歩いていく。
「お母さんが来てたって言ってましたね」
「うん。頻繁にではないけど、様子を見に来てくれるんだ」
「そうなんですね」
お母さんはまだ綾乃の視界に届く範囲にいる。今行けば、少し会話ができるかもしれない。
「送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「いえ。おやすみなさい」
渉を見送った瞬間に駆け足で、綾乃はお母さんの足跡を追う。
のんびり屋のお母さんみたいで早く歩くこともなく、一つ一つ確認するように歩いていく。だから駆け足じゃなくても綾乃は悠々追いつくことができそうだ。
『遊園地のこと』と『渉のお母さん』という肩書きが綾乃の心音を激しく動かす。真面目な表情か、少し頬を緩めた表情かどちらがいいか。真剣な話なら真面目な顔か。でも初対面でそんな真面目な表情だと相手も警戒する。仕事なら間違いなく後者を選んでいた。今回もそれがいいかもしれない。
「すいません」
お母さんが振り返った。
綾乃は頬を緩めることはできたけどぎこちなかった。お母さんは笑顔で綾乃を迎え入れて、「はい」と言った。
「あの、少しお話しさせていただいてもいいですか? 歩きながらで大丈夫です」
「何かしら? さかもとさん、だったわよね?」
「はい……」
「さかもと……あやのさん?」
話す速度を緩めて確認するようにお母さんは聞いた。
フルネームを知られていた綾乃は背筋に嫌な汗をかいている。遊園地のことを知っているんだ。発作のことを咎められると思って少し身構えてしまう。でも、綾乃も責任を感じているから覚悟を決める。
「そうです……」
「あなたがあやのさんだったのね。そうじゃないかなって、思ってたんだけど、どこか失礼かなって思ってね」
温和な声でスラスラと言葉を並べた。驚きの表情を隠せないでいたけど、とにかくお母さんのペースに乗っかった。
「いえ、そんな」
「本のこと、すごい褒めてもらったって喜んでたわ」
渉が本を手に、お母さんにカフェでの出来事を語っていたようだ。渉の笑顔を思い出しながら、お母さんは笑みを見せた。
「そのことお話ししてたんですね?」
徐々に後ろめたさは消えて、まともにお母さんと向き合うことができた。
「そうよ。声かけてくれてありがとう。あんな笑顔を見せることもあるんだって思ったわよ。大賞を取った時は、まだ信じられなかったみたいで硬くなってたけど、読者から直接聞く声は、格別だったみたいね」
「そうなんですね。本当に良かったです」
綾乃も笑顔を見せた。
「最初は、みんな口を揃えて大賞なんて取れるわけがないって。この本が売れない時代で。一次選考だけでも通過すればいいんじゃないって。それでもやりたいことだったからって言って書き続けて。取れたって聞いた時、腰抜かしたわよ」
当時のことを振り返って、息子の偉業を誇らしげに語るお母さん。綾乃は微笑ましくて、頬は緩んだままだった。
「そうなんですね。びっくりしますよね。でも渉さん、本当にすごいです」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
すごいフレンドリーに話してくれるお母さんに合わせて話したけど、こんなに自然に話してくれるとは想像していなかった。綾乃はお母さんからの批判の言葉を受け入れる覚悟は決めていたけど、そんな心配はいらないみたいだ。
お母さんは、遊園地での出来事を知っているはずだ。綾乃に言いたいこともあるはずだ。でも友好的な感じが逆に怖かった。内なる思いを抱えているかもしれない。
「お母さん、あの、遊園地でのことを、謝罪したいと思いまして」
綾乃は緩ましていた頬を戻して毅然した表情に変えた。
「ああ、渉の発作のこと?」
特に気にかけていないようだった。慣れているのか、ただ楽天的なお母さんなのか。
「はい。私が遊園地に行きたいって言ったんです。その時は、病気のこと知らなくて……本当に申し訳ありませんでした」
綾乃は深々と頭下げた。気にしていない感じだけど、そうではないと固く信じていた綾乃は頭を下げたままだった。自分の息子のことで、しかも命に関わることだから、そんな簡単に流せるはずがない。
「いいわよ、気にしないで。不安ならあの子がちゃんと言うべきだったの。『病気を抱えてる』って。知らなかったなら仕方ないじゃない」
「そうかもしれないですけど……」
「私ね、あやのさんに感謝してるの」
綾乃は言葉を失った。あまりにも意外な台詞だった。そんな台詞、綾乃の台本には書いていなかった。
「遊園地に連れてってくれて。私は病気のことが心配で連れてってあげられなかったから。行っても、一人で見ているなんて、そんなかわいそうなことできなかったし」
お母さんもそばでどんな言葉をかけたらいいか分からないだろう。乗せてあげるとも渉に言ってあげられない。
「そうだったんですね」
そう言うしかなかった。綾乃はただお母さんの言葉を受け入れるしかない。
「だから気にしないで」
お母さんは綾乃の肩をポンポンと叩いてそう言った。
「ありがとう、ございます……」
綾乃は涙が溢れた。一つ間違えば死んでいたかもしれない。医学知識なんてないからすぐ死に結びつけてしまう。大切な渉だからなおさらだ。
「いいのよ。あの子の為に泣いてくれる人がいるって、親として嬉しいわ」
「もう、渉さん、先は短いんですか?」
お母さんに聞かずに主治医に聞くべきだ。渉は次で終わりだって言っているけど、綾乃は信じたくない。
「どうだろう。それは分からない。次の手術がかなり難しいものみたいだから。渉は次で終わりだって心を決めてるみたいだけど、分からない」
お母さんは綾乃にハンカチを差し出した。それで綾乃の涙を拭き取る。こんな辛い話をしているのに、綾乃に気を遣えるなんて。真実の優しさに触れているようだった。
「もちろん、私もこのまま、渉が病気とうまく付き合いながら生きててほしい。生きててほしい。小説なんてどうでもよかった。別に大賞なんて取らなくても。普通に生きててくれれば」
綾乃には重要だった。でもこれが親としての本心だった。
「そんなみんなに支持されるような本なんて書かなくてもいい。立派になんてならなくていいから。ただ、普通に生きていてほしい」
「……」
ただ頷いて聞いている綾乃。
「ごめんね。こんなこと聞かされても困るわね」
お母さんは無言だった綾乃を気遣ってそう言った。
「いえ」
必死で首を横に振る。
「そう思ってても、私たちも覚悟を決めなきゃいけない時が来るかもね。嫌でも全てを受け入れる時が」
お母さんも心の片隅で覚悟を決め始めてるのかもしれない。穏和な表情と涙の裏に据え付け始めた覚悟。もうそういう時期に来ているっていうことなのか。
「渉もどれだけ生きられるのかは分からないけど、渉のこと、これからもよろしくね。図々しいお願いなのはわかってるのよ。でもあの子は幸せだと思うから」
綾乃はお母さんを直視して、力を込めて「はい」と答えた。
「じゃあ、またどこかで」
お母さんは綾乃にハンカチを預けたまま、その場を去っていく。
涙目でお母さんを見つめる。背中から強さを感じる。人を許すこと。今あるすべてを受け入れること。そしてこれから生きていくこと。
お母さんがゆっくりと振り返った。
「さっきは、どうでもいいって言ったけど、やっぱり本は私の宝物だった。二作目のこと、聞いてくれてありがとう」
お母さんが、なぜそのことを言ったのかよく分からなかった。
もう一度、渉に書く意欲を与えてほしいってことか。
「好きって言ったの?」
会社のラウンジで美奈が綾乃に聞き返した。
「うん。渉さんは何も言わなかったけど、伝えるだけ伝えた。最近、なんかもういいやって思ってやけくそになってるみたいで、渉さんの前だと素直になれるんだ」
「うん……何も言えないだろうね」
美奈にはどこか吹っ切れたような感じが綾乃から見てとれた。でも女子が『やけくそ』はないだろうと美奈は思った。でも美奈は、『今までの殻を破って、新しい綾乃と向き合うことができている』と捉えようと思った。
「でもすごいじゃん。渉さんのこと、それだけ本気だったんだね」
「渉を目の前にして、後悔はしたくないなって。ただそれだけ」
「正直言うと、綾乃から渉さんの存在を知った時、『おいおい、どういう方向に行くんだよ』って思ってた。やばいんじゃないかなって」
ストーカーみたいに思っていたんだろう。無理もない。綾乃自身、そう感じていたから。
「やっぱりそう思うよね」
「ごめんね。否定するつもりはなかったんだけど、綾乃が心配だったから」
美奈には珍しく綾乃に気を遣ってくれている感じだった。
「それが普通だと思う」
「このことで改めて気づいた。綾乃は、ほんの小さな可能性でも信じることができる強い人なんだって。私はそう思い直した。それが仕事にも生かせればいいね、小織君の教育係さん」
プレッシャーは感じずに、綾乃なりに先輩ズラすればいい。今はそんな気持ちだった。
渉のアパートの前。
仕事帰りで渉のアパートの最寄駅で打ち合わせがあったから寄ってみた。渉に連絡したらまだ勤務中で、電話に出れたのは奇跡だったらしい。「今日は帰りが遅くなるから会えないかもしれない」と渉は言っていたけど、綾乃は「どこかで待ってます」と言った。それを聞いた渉は「なら少しだけ話そうか」と言ってくれた。
でもまだまだ時間がかかりそうだったから、綾乃は近くで暇をつぶそうと思った。
綾乃はこの前行ったファミレスでコーヒーを頼んだ。カバンの中にある本と目が合って不意に取り出した。
本を読む時、一度目はなかなか文章を手に取って読むことができない。先が気になってしまって要点だけを拾って読んでしまうからだ。二回、三回読んでいくことでゆっくりと本の魅力に気が付いていく。
でもこの本は、一度しか読んでいないのに、主人公の気持ちが印象に残った。春井俊太こと、中村渉が書いたからだって言ってしまえば、それまでだけど。
この本の不思議。綾乃がこの本に出会った意味は何だろう。
何も知らなかった渉と知り合いになった。綾乃の心を蝕んでいた閉塞感を解き放ってくれた。驚くほど謙虚で、優しい渉がいた。その彼にますます惹かれていった。彼の病気を知ってもまた会いたい。気持ちを伝えても意味がない。この先、彼が死んでしまうなら。でもそれでも会いたいと思った。まだどこかで渉が生きられるんじゃないかって思っているんだろう。医学的知識は何もないが、どこかそう強く信じてる。素人だからできることかもしれない。ただ渉が好きで、何も考えずに突っ走ってる中高生みたいだった。
「今、仕事終わりました。家の前で待っててくれてる感じですか?」
綾乃は渉からのメッセージを無料通信アプリで確認した。
ボーッと考え事をしていたのでコーヒーに手をつけてなかった。冷めたコーヒーを一口飲む。時間が経って苦味が増しておいしくないけど、そんなことはどうでもいい。
「お疲れ様です。今から家に向かいますね」
支払いを済ませて外に出る。渉も自宅に向かっている途中だろうから急がなくていい。
「分かりました。心配だから中のエレベーターの近くで待っていてください。変な人に声をかけられるかもしれないから」
「分かりました。ゆっくり来てください」
緊張するかと思ったけど、そうでもなかった。渉の家の中で、初めて会った時に触れた香りがある。この匂いに包まれている時はなんかテンションが上がる。
綾乃はダイニングテーブルに座って部屋を見渡している。結構広くてびっくりした。広々とした空間の方が落ち着く人なのかもしれない。
渉がキッチンで、昨夜作り置きしておいたパスタを解凍している。微かに漂ってくる匂いに誘われて、綾乃は渉のそばに着いた。電子レンジのスポットライトに当たったパスタを見て、綾乃は「美味しそう」と呟いた。夜はそれほど食べないけど、見ていたらお腹が空いてきた。
「夕食、食べてないですか?」
渉が目を輝かせてパスタを見ていた綾乃に言った。もう一人分用意してくれるのだろうか。
「食べましたよ。でも普通に美味しそうだなって」
「そうなんだ。少し食べますか?」
渉が食器棚からもう一枚お皿を出そうしている。
「ああ……じゃあ、少し頂きます」
特にダイエットもしていないし、渉がそう勧めてくれるならと思って、綾乃は言葉に甘えておいた。
渉はもう一枚のお皿を電子レンジの隣に置いた。
「あのデスクで書いてたんですか? 小説を自宅で書くときは」
部屋の隅にあるデスクがある。部屋は整理整頓されているのにデスクだけ異様に散らかっている。デスクのそばには専門知識が書いてある本が積んであって、パソコンがあり、ルーズリーフが二、三枚乱雑に置いてある。紙に構想を映し出していたようだ。
「よく分かったね」
「はい。あそこだけ色々な資料があって、何か調べながら書いてたのかなって」
「そうそう。綾乃さんには、何でも分かるみたいだね」
じろじろと人の部屋を見ていたのが見え見えだった。でもそのことはもう気にしない。ただ、綾乃は目に付いたからそう思っただけだし、小さな事で気にするのが、バカらしくなってきた。
「分かりますよ」
綾乃はおどけながらも胸を張って言った。渉とは真面目な話をしてしまいがちだから、少し楽しくしたい。
「渉さん、すごく勉強してあの本を書いたんですね」
「分からないことは調べないと書けないから。本当のことを言うと、ちゃんと体験した方がいいんだけどね」
執筆している時に、渉は自分自身の経験のなさを嘆いた。妄想だけで書いても、いいものは生まれないのか。
「渉さん、二作目書きましょう。みんなに読んでもらいましょうよ」
言葉が自然と出てきた。綾乃はまさか台詞を覚えていたわけではないだろう。
「……結構時間もかかるし、労力がかかるから」
やっぱり気が乗らない感じだ。普通に生活しているように見えても、体はもう死に向かっているのか。自分の体のことは渉がよく分かっているはずだ。
「後悔して欲しくないんです」
会うたびにこのことの話をしているから、渉もしつこいなって思っているだろう。でもそれは表情に出ないから綾乃は繰り返す。
「私、写真を撮ろうと思ってるんです」
「写真?」
辻褄が合わないのか、渉はキョトンとした表情を見せた。そんな渉は放っておいて、真摯に真意を伝えればいい。
「渉さんが書く本に、ふさわしい写真を。例えば、二作目の構想を聞いて、それで、どこかで写真を撮るんです。そこから想像が膨らめばいいなって、思って……」
「なるほど」
とりあえず辻褄は合った。でも声に力がない。とりあえずそう言ったっていう感じだ。
「そんな写真だけで、何の役にも立たないかもしれないけど、やってみたくて」
いつになく話をどんどん前に押していく綾乃がいる。行き当たりばったりで言っているんじゃないんだ。
「前に、写真を撮るのが好きって言ってたね」
「はい。それで、そう思いついて」
「ありがとう。そこまで言ってくれて……」
渉は笑みを見せる。でも言葉は消えていく。踏ん切りがつかない理由は何か。書いている時は、自分で居られるって言っていたのに。
「やっぱり気が進まないですか?」
沈黙を破って渉に聞いた。「後悔して欲しくない」、「次作を書いて欲しい」っていう気持ちは嘘じゃないけど、綾乃には分からない何かがあるかもしれない。でもそこで引いてはダメだ。最後まで思いは伝えたい。
「渉さんが、渉さんらしく居られるなら、私は書いて欲しい」
「ありがとう。でも、僕がこの世にいる間に書き切れるかどうか。中途半端なまま終わらせるなら、それはしないほうがいい。ていうのは、主人公や出てくる登場人物の言葉を最後まで伝えきれないから。気持ちを抱えたまま終わっていくのは嫌なんだ」
「……」
アマチュアではあるけど、作家としてのこだわりが見えた気がした。綾乃が考えている以上に、作品を書くということは責任があるんだ。
「書いている途中で、みんなが何も言えなくなるなんて辛い。それこそ後悔してしまう」
「私は、生み出そうしている人たちがいるのに、それが存在しないで終わるのも嫌です。もしできるなら、私が書いてもいい。渉さんの思いを受け取って、私が書いてもいいです……もちろん、渉さんみたいに上手にかけないと思いますけど……」
綾乃自身も自分が暴走していることに気付いている。それでも書いて欲しいということを伝えたい。
渉は少し涙目になっていた。
「ありがとう。もし書くなら、下手な作品は書けないね。写真まで撮ってもらうのに」
「それは書くってことですか?」
渉の気持ちを確認する。強引にならないようにしたい。
「未砂や主人公の気持ちを手に取って読んでくれた人からの言葉だから」
涙目の渉を前にして、先に綾乃が涙をこぼした。ようやく気持ちが届いたんだと。
「渉さんの気持ちが固まれば、私も覚悟を決めて写真が撮れます」
背筋が成長するように伸びていく。それをふつふつと感じながら綾乃は渉を見つめた。渉もとてつもないプレッシャーを感じながら書くんだ。心臓に負担がかからない程度に書けばいい。渉のペースで納得のいく形であればなんでもいい。精神的につらいなら、綾乃が手を差し伸べられる。
「綾乃さん、聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「どうして僕のそばにいてくれるんですか? もしかしたら本当に死んでしまうかもしれない。どうして僕に付き合ってくれるのかなって……」
渉は、もし自分の病気が原因で、綾乃を縛り付けているなら離れてもいいっていうことを言いたかった。それを知って、気を遣って一緒にいるなら無理はさせたくない。綾乃ならそうするんじゃないかって思ったのだろう。
「好きだからですよ。それにたとえ病気のことを知らなかったとしても、一緒にいたいって思ったと思います」
渉は頷いて綾乃の言葉を受け取った。
「ありがとう」
綾乃は笑って応えた。
「実は、書きたい話はいくつかあったんだ」
隠していた本音だった。口に出して書きたくなったら、良くないって思っていたのだろうか。二度と解けない氷のように、もう書かないと心に決めていたから。
「すごい! どんな話なんですか?」
渉は二人分のパスタをお皿に乗せて、テーブルまで運んで座った。綾乃はルーズリーフとペンを、渉の手元に置いた。フォークじゃなくてルーズリーフとペンを。
「高校生の恋愛コメディーみたいな感じ」
照れくさそうに渉は言った。
「そうなんですか?」
目を丸くして綾乃がそう言った。渉のラブコメディーが想像つかなかった。どんな内容でも、心が温まる作品になればいい。
「変かな?」
「全然! なんか、渉さんは真面目な話を書きそうな感じだったから、すごい意外だっただけです。ラブコメディー見てみたいです」
「『心づくし』が真面目な感じだから、逆にそういうのも挑戦したいなって」
渉が目を輝かせて話す。綾乃が見たかったのはこの笑顔だった。書きたい気持ちは溢れるほど持っていたけど、自分の気持ちを押し殺していたから辛かったと思う。死を受け入れる、無理だって諦めるのはまだ早い。ここに渉は存在している。だから渉には悔いなく生きてほしい。
「高校生の気持ちとか、思い出さないといけないですね」
「そういうことになるね」
今、高校生の子と関わるのは稀なことだ。会ってもカフェで接客する時に話すぐらいだ。
でもカフェでの様子を観察することはできるかもしれない。
「私にできることがあったら、言ってくださいね」
高校生の時のピュアな気持ちが、綾乃に残っているだろうか。でも大丈夫。他にも何か役に立てることはあるはずだから。社会にもまれた心でも、後ろめたさを感じることはない。
「うん。それは心強い。多分、たくさん聞くと思うよ」
「なんでも聞いてください……」
綾乃の言葉の語尾がだんだん小さくなっていく。「なんでも」という言葉にプレッシャーを感じた。
「本当に、聞いていいですか?」
「……はい」
覚悟を決めて、綾乃はそう言った。
渉のまぶしい笑顔がここにある。そしてそれを見つめる綾乃の姿。
どんなにまぶしくても、目を閉じてしまいそうでも、綾乃はここにいる。
今、渉は渉のすべてで、新作を書き始めるんだ。
「何かヒントってありますか?」
綾乃が身を乗り出して聞く。何かを作り出すということが、こんなにわくわくするなんて、綾乃は思ってもみなかっただろう。
綾乃と渉のいきつけのカフェで、渉の新作の構想を固めている。
「ヒントか……二つの顔を持つ女の子の間で、揺れる男子高生って感じにしたいな」
綾乃は口を紡いで考えてみる。ラブコメディーだけど、『二つの顔を持つ』という言葉で立ち止まった。渉の意図は何だろう。恋愛の話でおもしろいけど、サスペンス要素があるということだろうか。渉が目の前に出したキーワードで思考を巡らせる。
「ラブコメディーだからそんなシリアスな『二つの顔』じゃないんだけど、その狭間で迷走する男子高校生の日々みたいな」
ヒントがどんどん出てきて、綾乃の思考に光が差し込んでくる。それに加えて、生き生きとした渉を見ているのも微笑ましかった。
「シリアスじゃない二つの顔か……」
それを写真にする……面白い構想だけど、それをうまく描写した写真が撮れるだろうか。
「渉さんの本にふさわしい写真を撮る」
綾乃はこう豪語した。
渉のヒントで思考に光が差し込んだはずだった。でも突き抜けてどこかへ行ってしまって立ち止まってしまった。渉から目を逸らして渉がいつも座っていた席を見つめる。しばらく考えていると、視線がどこにあるのか分からなくなった。
「難しい題材かもしれないね……」
綾乃の様子を伺い見て、渉はそう言った。
「いえ……私の想像力が足らないだけです……」
苦笑した綾乃。渉に新作を書くようにあれだけ勧めていたのが少し恥ずかしくなってきた。物語を考えるのは面白いけど、簡単じゃない。考えればわかることだった。自分の感情にただ身を任せて走り続けた綾乃が際立ってきて、恥ずかしさの水かさが増して渉の顔が見られなくなった。後悔してほしくないって言えば、聞こえはいいかもしれない。書くのは渉だ。あまりにも無神経な発言だった。
「そんなことないですよ。僕もしっかりした構想をお伝えする前に綾乃さんに考えさせてるから、そうなってしまいますよ」
そう渉は笑って見せた。
新作を書くことを決めて、どこか渉から『変な意地』みたいなものが取れて、体の重みが減って軽くなったような気がした。
「ごめんなさい……」
後ろめたさのあまり、謝罪の言葉が滑り落ちた。
「……」
渉は何も言わず、綾乃の真意を待った。
「なんか、何もできないのに、えらっそうに……」
「いや、そんなことないよ。まだ構想練っている段階だから、こんなものですよ。一度考えがまとまれば、その後は早いと思う。だからそんなこと言わないでください」
渉がそう言うならと思って、綾乃は頷いて言葉をそのまま飲み込んだ。
「感謝してますよ。あの、綾乃さんが言わなかったら、『心づくし』で僕の作家としての道は確実に途絶えていたから。だから、そんなこと言わないでください」
渉に仕事のことで励まされた時のように、やると決めたら綾乃なりに頑張ればいいだけの話だ。
「分かりました」
綾乃は笑顔を取り戻した。
「手助けをしようって言う気持ちが嬉しい。軽い気持ちで、写真を撮ってみてください。楽しみにしています」
渉が何かを書き進める。構想を破裂しないように大事に膨らませていく。
「現実と、妄想の狭間で揺れる男子高校生……」
「現実と妄想……」
綾乃とともに構想を考えた日の夜。
デスクに向かって、パソコンを触ると見せかけてうたた寝をしている渉。それでも自然に閉じる前に、渉はせっせと出だしの文章を書きだした。
『ここに桜がある。俺はただそれを見つめている。
きっと楽しい高校生活になる。いや、そうなるようにすればいい。
出来立てのかわいい彼女が俺のそばにいて、腕を組んでくれる。
俺は彼女が大好きだ。彼女も、俺のことが好き……だと、思う……たぶん……』
渉はゆっくり目を開けた。
まだタイトルはない。いくつかアイデアはあるけど、渉がじっと見つめられるものはなかった。ただ話の内容が膨らんでくる。それを整理して道筋を立てるんだ。
綾乃の期待をも背負って書く。どんなことがあっても形にして見せる。
そんな覚悟を噛みしめている。それほどプレッシャーでもない。これが最後になるかもしれないから、ただ楽しんで書くんだ。その方が、いい作品ができるような気がする。プレッシャーに埋没されて、書き急いで書いたセリフを登場人物に言葉を託しても、気持ちがセリフから滑り落ちてそのままになる。楽しもう。
タイトルも決まらないけど、ただひたすら書いていこう。
支払いを済ませて店を出ると、寒さはレストランに入った時よりも増していた。
渉はジーンズのポケットに手を入れた。綾乃は上着のボタンを閉めて腕組みをして熱をこもらせる。
「家はどこなんですか?」
「すぐ近くですよ」
渉がある家の方向を指して言う。
「じゃあ、そこまで一緒に行きます」
「いいよ。遠回りになるから」
「気にしないでください。私にも、この辺を散策させてくださいよ」
綾乃が渉と歩幅を合わせて歩く。
しばらく黙ったままだった。レストランで盛り上がった時のことが嘘のように。特に話すことがなければ、別に話さなくていい。ただこうやって歩いているだけでも、綾乃は幸福だった。
渉は普通にしていてくれたけど、気まずくて仕方なかったかもしれない。答えようのない綾乃の告白に、ただ戸惑うだかりだっただろう。
「ここです」
最近できたばかりのきれいなアパートだった。築年数は二、三年といったところか。家のそばに自転車が置いてあった。都内に住んでいると車はあまり必要ないけど、体のことを考えて自転車を使っているのかもしれない。
「渉」
どこからか声がした。しかも渉のことを呼び捨てで。でも嫌な感じはなく、すごく温かみのある声だった。
呼ばれた本人と綾乃は後ろを振り返った。
六十代ぐらいの女性が、渉に無理やり袋に入った何かを渡してきた。
「ああ、ありがとう」
渉も抵抗もせずに素直に受け取って、少しだけ中身を覗き込んだ。
「これで良かった?」
女性は早口で渉に尋ねた。この場をすぐにでも後にしたいのか、尋常じゃないほどソワソワしている。もちろん綾乃とは、一切視線を合わせないでいる。目を丸くしている暇もないまま、綾乃は二人のやりとりを見つめている。
「うん。中、上がっていく?」
「ううん。お邪魔みたいだから帰るわよ」
綾乃が固まっている様子を見て渉は、「お母さんです」と言った。
穏やかで優しそうなお母さんだった。
遊園地の一件があるから、綾乃は後ろめたさを感じていたけど、「こんばんは、坂本と申します」と言って頭を下げた。
「こんばんは。私、もう行くわね」
綾乃にそう返すと、足早にその場を去った。
「気を付けてね」
お母さんは後ろを振り向かず、手だけ振ってそのまま歩いていく。
「お母さんが来てたって言ってましたね」
「うん。頻繁にではないけど、様子を見に来てくれるんだ」
「そうなんですね」
お母さんはまだ綾乃の視界に届く範囲にいる。今行けば、少し会話ができるかもしれない。
「送ってくれてありがとう。気をつけてね」
「いえ。おやすみなさい」
渉を見送った瞬間に駆け足で、綾乃はお母さんの足跡を追う。
のんびり屋のお母さんみたいで早く歩くこともなく、一つ一つ確認するように歩いていく。だから駆け足じゃなくても綾乃は悠々追いつくことができそうだ。
『遊園地のこと』と『渉のお母さん』という肩書きが綾乃の心音を激しく動かす。真面目な表情か、少し頬を緩めた表情かどちらがいいか。真剣な話なら真面目な顔か。でも初対面でそんな真面目な表情だと相手も警戒する。仕事なら間違いなく後者を選んでいた。今回もそれがいいかもしれない。
「すいません」
お母さんが振り返った。
綾乃は頬を緩めることはできたけどぎこちなかった。お母さんは笑顔で綾乃を迎え入れて、「はい」と言った。
「あの、少しお話しさせていただいてもいいですか? 歩きながらで大丈夫です」
「何かしら? さかもとさん、だったわよね?」
「はい……」
「さかもと……あやのさん?」
話す速度を緩めて確認するようにお母さんは聞いた。
フルネームを知られていた綾乃は背筋に嫌な汗をかいている。遊園地のことを知っているんだ。発作のことを咎められると思って少し身構えてしまう。でも、綾乃も責任を感じているから覚悟を決める。
「そうです……」
「あなたがあやのさんだったのね。そうじゃないかなって、思ってたんだけど、どこか失礼かなって思ってね」
温和な声でスラスラと言葉を並べた。驚きの表情を隠せないでいたけど、とにかくお母さんのペースに乗っかった。
「いえ、そんな」
「本のこと、すごい褒めてもらったって喜んでたわ」
渉が本を手に、お母さんにカフェでの出来事を語っていたようだ。渉の笑顔を思い出しながら、お母さんは笑みを見せた。
「そのことお話ししてたんですね?」
徐々に後ろめたさは消えて、まともにお母さんと向き合うことができた。
「そうよ。声かけてくれてありがとう。あんな笑顔を見せることもあるんだって思ったわよ。大賞を取った時は、まだ信じられなかったみたいで硬くなってたけど、読者から直接聞く声は、格別だったみたいね」
「そうなんですね。本当に良かったです」
綾乃も笑顔を見せた。
「最初は、みんな口を揃えて大賞なんて取れるわけがないって。この本が売れない時代で。一次選考だけでも通過すればいいんじゃないって。それでもやりたいことだったからって言って書き続けて。取れたって聞いた時、腰抜かしたわよ」
当時のことを振り返って、息子の偉業を誇らしげに語るお母さん。綾乃は微笑ましくて、頬は緩んだままだった。
「そうなんですね。びっくりしますよね。でも渉さん、本当にすごいです」
「ありがとう。そう言ってもらえると嬉しいわ」
すごいフレンドリーに話してくれるお母さんに合わせて話したけど、こんなに自然に話してくれるとは想像していなかった。綾乃はお母さんからの批判の言葉を受け入れる覚悟は決めていたけど、そんな心配はいらないみたいだ。
お母さんは、遊園地での出来事を知っているはずだ。綾乃に言いたいこともあるはずだ。でも友好的な感じが逆に怖かった。内なる思いを抱えているかもしれない。
「お母さん、あの、遊園地でのことを、謝罪したいと思いまして」
綾乃は緩ましていた頬を戻して毅然した表情に変えた。
「ああ、渉の発作のこと?」
特に気にかけていないようだった。慣れているのか、ただ楽天的なお母さんなのか。
「はい。私が遊園地に行きたいって言ったんです。その時は、病気のこと知らなくて……本当に申し訳ありませんでした」
綾乃は深々と頭下げた。気にしていない感じだけど、そうではないと固く信じていた綾乃は頭を下げたままだった。自分の息子のことで、しかも命に関わることだから、そんな簡単に流せるはずがない。
「いいわよ、気にしないで。不安ならあの子がちゃんと言うべきだったの。『病気を抱えてる』って。知らなかったなら仕方ないじゃない」
「そうかもしれないですけど……」
「私ね、あやのさんに感謝してるの」
綾乃は言葉を失った。あまりにも意外な台詞だった。そんな台詞、綾乃の台本には書いていなかった。
「遊園地に連れてってくれて。私は病気のことが心配で連れてってあげられなかったから。行っても、一人で見ているなんて、そんなかわいそうなことできなかったし」
お母さんもそばでどんな言葉をかけたらいいか分からないだろう。乗せてあげるとも渉に言ってあげられない。
「そうだったんですね」
そう言うしかなかった。綾乃はただお母さんの言葉を受け入れるしかない。
「だから気にしないで」
お母さんは綾乃の肩をポンポンと叩いてそう言った。
「ありがとう、ございます……」
綾乃は涙が溢れた。一つ間違えば死んでいたかもしれない。医学知識なんてないからすぐ死に結びつけてしまう。大切な渉だからなおさらだ。
「いいのよ。あの子の為に泣いてくれる人がいるって、親として嬉しいわ」
「もう、渉さん、先は短いんですか?」
お母さんに聞かずに主治医に聞くべきだ。渉は次で終わりだって言っているけど、綾乃は信じたくない。
「どうだろう。それは分からない。次の手術がかなり難しいものみたいだから。渉は次で終わりだって心を決めてるみたいだけど、分からない」
お母さんは綾乃にハンカチを差し出した。それで綾乃の涙を拭き取る。こんな辛い話をしているのに、綾乃に気を遣えるなんて。真実の優しさに触れているようだった。
「もちろん、私もこのまま、渉が病気とうまく付き合いながら生きててほしい。生きててほしい。小説なんてどうでもよかった。別に大賞なんて取らなくても。普通に生きててくれれば」
綾乃には重要だった。でもこれが親としての本心だった。
「そんなみんなに支持されるような本なんて書かなくてもいい。立派になんてならなくていいから。ただ、普通に生きていてほしい」
「……」
ただ頷いて聞いている綾乃。
「ごめんね。こんなこと聞かされても困るわね」
お母さんは無言だった綾乃を気遣ってそう言った。
「いえ」
必死で首を横に振る。
「そう思ってても、私たちも覚悟を決めなきゃいけない時が来るかもね。嫌でも全てを受け入れる時が」
お母さんも心の片隅で覚悟を決め始めてるのかもしれない。穏和な表情と涙の裏に据え付け始めた覚悟。もうそういう時期に来ているっていうことなのか。
「渉もどれだけ生きられるのかは分からないけど、渉のこと、これからもよろしくね。図々しいお願いなのはわかってるのよ。でもあの子は幸せだと思うから」
綾乃はお母さんを直視して、力を込めて「はい」と答えた。
「じゃあ、またどこかで」
お母さんは綾乃にハンカチを預けたまま、その場を去っていく。
涙目でお母さんを見つめる。背中から強さを感じる。人を許すこと。今あるすべてを受け入れること。そしてこれから生きていくこと。
お母さんがゆっくりと振り返った。
「さっきは、どうでもいいって言ったけど、やっぱり本は私の宝物だった。二作目のこと、聞いてくれてありがとう」
お母さんが、なぜそのことを言ったのかよく分からなかった。
もう一度、渉に書く意欲を与えてほしいってことか。
「好きって言ったの?」
会社のラウンジで美奈が綾乃に聞き返した。
「うん。渉さんは何も言わなかったけど、伝えるだけ伝えた。最近、なんかもういいやって思ってやけくそになってるみたいで、渉さんの前だと素直になれるんだ」
「うん……何も言えないだろうね」
美奈にはどこか吹っ切れたような感じが綾乃から見てとれた。でも女子が『やけくそ』はないだろうと美奈は思った。でも美奈は、『今までの殻を破って、新しい綾乃と向き合うことができている』と捉えようと思った。
「でもすごいじゃん。渉さんのこと、それだけ本気だったんだね」
「渉を目の前にして、後悔はしたくないなって。ただそれだけ」
「正直言うと、綾乃から渉さんの存在を知った時、『おいおい、どういう方向に行くんだよ』って思ってた。やばいんじゃないかなって」
ストーカーみたいに思っていたんだろう。無理もない。綾乃自身、そう感じていたから。
「やっぱりそう思うよね」
「ごめんね。否定するつもりはなかったんだけど、綾乃が心配だったから」
美奈には珍しく綾乃に気を遣ってくれている感じだった。
「それが普通だと思う」
「このことで改めて気づいた。綾乃は、ほんの小さな可能性でも信じることができる強い人なんだって。私はそう思い直した。それが仕事にも生かせればいいね、小織君の教育係さん」
プレッシャーは感じずに、綾乃なりに先輩ズラすればいい。今はそんな気持ちだった。
渉のアパートの前。
仕事帰りで渉のアパートの最寄駅で打ち合わせがあったから寄ってみた。渉に連絡したらまだ勤務中で、電話に出れたのは奇跡だったらしい。「今日は帰りが遅くなるから会えないかもしれない」と渉は言っていたけど、綾乃は「どこかで待ってます」と言った。それを聞いた渉は「なら少しだけ話そうか」と言ってくれた。
でもまだまだ時間がかかりそうだったから、綾乃は近くで暇をつぶそうと思った。
綾乃はこの前行ったファミレスでコーヒーを頼んだ。カバンの中にある本と目が合って不意に取り出した。
本を読む時、一度目はなかなか文章を手に取って読むことができない。先が気になってしまって要点だけを拾って読んでしまうからだ。二回、三回読んでいくことでゆっくりと本の魅力に気が付いていく。
でもこの本は、一度しか読んでいないのに、主人公の気持ちが印象に残った。春井俊太こと、中村渉が書いたからだって言ってしまえば、それまでだけど。
この本の不思議。綾乃がこの本に出会った意味は何だろう。
何も知らなかった渉と知り合いになった。綾乃の心を蝕んでいた閉塞感を解き放ってくれた。驚くほど謙虚で、優しい渉がいた。その彼にますます惹かれていった。彼の病気を知ってもまた会いたい。気持ちを伝えても意味がない。この先、彼が死んでしまうなら。でもそれでも会いたいと思った。まだどこかで渉が生きられるんじゃないかって思っているんだろう。医学的知識は何もないが、どこかそう強く信じてる。素人だからできることかもしれない。ただ渉が好きで、何も考えずに突っ走ってる中高生みたいだった。
「今、仕事終わりました。家の前で待っててくれてる感じですか?」
綾乃は渉からのメッセージを無料通信アプリで確認した。
ボーッと考え事をしていたのでコーヒーに手をつけてなかった。冷めたコーヒーを一口飲む。時間が経って苦味が増しておいしくないけど、そんなことはどうでもいい。
「お疲れ様です。今から家に向かいますね」
支払いを済ませて外に出る。渉も自宅に向かっている途中だろうから急がなくていい。
「分かりました。心配だから中のエレベーターの近くで待っていてください。変な人に声をかけられるかもしれないから」
「分かりました。ゆっくり来てください」
緊張するかと思ったけど、そうでもなかった。渉の家の中で、初めて会った時に触れた香りがある。この匂いに包まれている時はなんかテンションが上がる。
綾乃はダイニングテーブルに座って部屋を見渡している。結構広くてびっくりした。広々とした空間の方が落ち着く人なのかもしれない。
渉がキッチンで、昨夜作り置きしておいたパスタを解凍している。微かに漂ってくる匂いに誘われて、綾乃は渉のそばに着いた。電子レンジのスポットライトに当たったパスタを見て、綾乃は「美味しそう」と呟いた。夜はそれほど食べないけど、見ていたらお腹が空いてきた。
「夕食、食べてないですか?」
渉が目を輝かせてパスタを見ていた綾乃に言った。もう一人分用意してくれるのだろうか。
「食べましたよ。でも普通に美味しそうだなって」
「そうなんだ。少し食べますか?」
渉が食器棚からもう一枚お皿を出そうしている。
「ああ……じゃあ、少し頂きます」
特にダイエットもしていないし、渉がそう勧めてくれるならと思って、綾乃は言葉に甘えておいた。
渉はもう一枚のお皿を電子レンジの隣に置いた。
「あのデスクで書いてたんですか? 小説を自宅で書くときは」
部屋の隅にあるデスクがある。部屋は整理整頓されているのにデスクだけ異様に散らかっている。デスクのそばには専門知識が書いてある本が積んであって、パソコンがあり、ルーズリーフが二、三枚乱雑に置いてある。紙に構想を映し出していたようだ。
「よく分かったね」
「はい。あそこだけ色々な資料があって、何か調べながら書いてたのかなって」
「そうそう。綾乃さんには、何でも分かるみたいだね」
じろじろと人の部屋を見ていたのが見え見えだった。でもそのことはもう気にしない。ただ、綾乃は目に付いたからそう思っただけだし、小さな事で気にするのが、バカらしくなってきた。
「分かりますよ」
綾乃はおどけながらも胸を張って言った。渉とは真面目な話をしてしまいがちだから、少し楽しくしたい。
「渉さん、すごく勉強してあの本を書いたんですね」
「分からないことは調べないと書けないから。本当のことを言うと、ちゃんと体験した方がいいんだけどね」
執筆している時に、渉は自分自身の経験のなさを嘆いた。妄想だけで書いても、いいものは生まれないのか。
「渉さん、二作目書きましょう。みんなに読んでもらいましょうよ」
言葉が自然と出てきた。綾乃はまさか台詞を覚えていたわけではないだろう。
「……結構時間もかかるし、労力がかかるから」
やっぱり気が乗らない感じだ。普通に生活しているように見えても、体はもう死に向かっているのか。自分の体のことは渉がよく分かっているはずだ。
「後悔して欲しくないんです」
会うたびにこのことの話をしているから、渉もしつこいなって思っているだろう。でもそれは表情に出ないから綾乃は繰り返す。
「私、写真を撮ろうと思ってるんです」
「写真?」
辻褄が合わないのか、渉はキョトンとした表情を見せた。そんな渉は放っておいて、真摯に真意を伝えればいい。
「渉さんが書く本に、ふさわしい写真を。例えば、二作目の構想を聞いて、それで、どこかで写真を撮るんです。そこから想像が膨らめばいいなって、思って……」
「なるほど」
とりあえず辻褄は合った。でも声に力がない。とりあえずそう言ったっていう感じだ。
「そんな写真だけで、何の役にも立たないかもしれないけど、やってみたくて」
いつになく話をどんどん前に押していく綾乃がいる。行き当たりばったりで言っているんじゃないんだ。
「前に、写真を撮るのが好きって言ってたね」
「はい。それで、そう思いついて」
「ありがとう。そこまで言ってくれて……」
渉は笑みを見せる。でも言葉は消えていく。踏ん切りがつかない理由は何か。書いている時は、自分で居られるって言っていたのに。
「やっぱり気が進まないですか?」
沈黙を破って渉に聞いた。「後悔して欲しくない」、「次作を書いて欲しい」っていう気持ちは嘘じゃないけど、綾乃には分からない何かがあるかもしれない。でもそこで引いてはダメだ。最後まで思いは伝えたい。
「渉さんが、渉さんらしく居られるなら、私は書いて欲しい」
「ありがとう。でも、僕がこの世にいる間に書き切れるかどうか。中途半端なまま終わらせるなら、それはしないほうがいい。ていうのは、主人公や出てくる登場人物の言葉を最後まで伝えきれないから。気持ちを抱えたまま終わっていくのは嫌なんだ」
「……」
アマチュアではあるけど、作家としてのこだわりが見えた気がした。綾乃が考えている以上に、作品を書くということは責任があるんだ。
「書いている途中で、みんなが何も言えなくなるなんて辛い。それこそ後悔してしまう」
「私は、生み出そうしている人たちがいるのに、それが存在しないで終わるのも嫌です。もしできるなら、私が書いてもいい。渉さんの思いを受け取って、私が書いてもいいです……もちろん、渉さんみたいに上手にかけないと思いますけど……」
綾乃自身も自分が暴走していることに気付いている。それでも書いて欲しいということを伝えたい。
渉は少し涙目になっていた。
「ありがとう。もし書くなら、下手な作品は書けないね。写真まで撮ってもらうのに」
「それは書くってことですか?」
渉の気持ちを確認する。強引にならないようにしたい。
「未砂や主人公の気持ちを手に取って読んでくれた人からの言葉だから」
涙目の渉を前にして、先に綾乃が涙をこぼした。ようやく気持ちが届いたんだと。
「渉さんの気持ちが固まれば、私も覚悟を決めて写真が撮れます」
背筋が成長するように伸びていく。それをふつふつと感じながら綾乃は渉を見つめた。渉もとてつもないプレッシャーを感じながら書くんだ。心臓に負担がかからない程度に書けばいい。渉のペースで納得のいく形であればなんでもいい。精神的につらいなら、綾乃が手を差し伸べられる。
「綾乃さん、聞きたいことがあるんだけど」
「何ですか?」
「どうして僕のそばにいてくれるんですか? もしかしたら本当に死んでしまうかもしれない。どうして僕に付き合ってくれるのかなって……」
渉は、もし自分の病気が原因で、綾乃を縛り付けているなら離れてもいいっていうことを言いたかった。それを知って、気を遣って一緒にいるなら無理はさせたくない。綾乃ならそうするんじゃないかって思ったのだろう。
「好きだからですよ。それにたとえ病気のことを知らなかったとしても、一緒にいたいって思ったと思います」
渉は頷いて綾乃の言葉を受け取った。
「ありがとう」
綾乃は笑って応えた。
「実は、書きたい話はいくつかあったんだ」
隠していた本音だった。口に出して書きたくなったら、良くないって思っていたのだろうか。二度と解けない氷のように、もう書かないと心に決めていたから。
「すごい! どんな話なんですか?」
渉は二人分のパスタをお皿に乗せて、テーブルまで運んで座った。綾乃はルーズリーフとペンを、渉の手元に置いた。フォークじゃなくてルーズリーフとペンを。
「高校生の恋愛コメディーみたいな感じ」
照れくさそうに渉は言った。
「そうなんですか?」
目を丸くして綾乃がそう言った。渉のラブコメディーが想像つかなかった。どんな内容でも、心が温まる作品になればいい。
「変かな?」
「全然! なんか、渉さんは真面目な話を書きそうな感じだったから、すごい意外だっただけです。ラブコメディー見てみたいです」
「『心づくし』が真面目な感じだから、逆にそういうのも挑戦したいなって」
渉が目を輝かせて話す。綾乃が見たかったのはこの笑顔だった。書きたい気持ちは溢れるほど持っていたけど、自分の気持ちを押し殺していたから辛かったと思う。死を受け入れる、無理だって諦めるのはまだ早い。ここに渉は存在している。だから渉には悔いなく生きてほしい。
「高校生の気持ちとか、思い出さないといけないですね」
「そういうことになるね」
今、高校生の子と関わるのは稀なことだ。会ってもカフェで接客する時に話すぐらいだ。
でもカフェでの様子を観察することはできるかもしれない。
「私にできることがあったら、言ってくださいね」
高校生の時のピュアな気持ちが、綾乃に残っているだろうか。でも大丈夫。他にも何か役に立てることはあるはずだから。社会にもまれた心でも、後ろめたさを感じることはない。
「うん。それは心強い。多分、たくさん聞くと思うよ」
「なんでも聞いてください……」
綾乃の言葉の語尾がだんだん小さくなっていく。「なんでも」という言葉にプレッシャーを感じた。
「本当に、聞いていいですか?」
「……はい」
覚悟を決めて、綾乃はそう言った。
渉のまぶしい笑顔がここにある。そしてそれを見つめる綾乃の姿。
どんなにまぶしくても、目を閉じてしまいそうでも、綾乃はここにいる。
今、渉は渉のすべてで、新作を書き始めるんだ。
「何かヒントってありますか?」
綾乃が身を乗り出して聞く。何かを作り出すということが、こんなにわくわくするなんて、綾乃は思ってもみなかっただろう。
綾乃と渉のいきつけのカフェで、渉の新作の構想を固めている。
「ヒントか……二つの顔を持つ女の子の間で、揺れる男子高生って感じにしたいな」
綾乃は口を紡いで考えてみる。ラブコメディーだけど、『二つの顔を持つ』という言葉で立ち止まった。渉の意図は何だろう。恋愛の話でおもしろいけど、サスペンス要素があるということだろうか。渉が目の前に出したキーワードで思考を巡らせる。
「ラブコメディーだからそんなシリアスな『二つの顔』じゃないんだけど、その狭間で迷走する男子高校生の日々みたいな」
ヒントがどんどん出てきて、綾乃の思考に光が差し込んでくる。それに加えて、生き生きとした渉を見ているのも微笑ましかった。
「シリアスじゃない二つの顔か……」
それを写真にする……面白い構想だけど、それをうまく描写した写真が撮れるだろうか。
「渉さんの本にふさわしい写真を撮る」
綾乃はこう豪語した。
渉のヒントで思考に光が差し込んだはずだった。でも突き抜けてどこかへ行ってしまって立ち止まってしまった。渉から目を逸らして渉がいつも座っていた席を見つめる。しばらく考えていると、視線がどこにあるのか分からなくなった。
「難しい題材かもしれないね……」
綾乃の様子を伺い見て、渉はそう言った。
「いえ……私の想像力が足らないだけです……」
苦笑した綾乃。渉に新作を書くようにあれだけ勧めていたのが少し恥ずかしくなってきた。物語を考えるのは面白いけど、簡単じゃない。考えればわかることだった。自分の感情にただ身を任せて走り続けた綾乃が際立ってきて、恥ずかしさの水かさが増して渉の顔が見られなくなった。後悔してほしくないって言えば、聞こえはいいかもしれない。書くのは渉だ。あまりにも無神経な発言だった。
「そんなことないですよ。僕もしっかりした構想をお伝えする前に綾乃さんに考えさせてるから、そうなってしまいますよ」
そう渉は笑って見せた。
新作を書くことを決めて、どこか渉から『変な意地』みたいなものが取れて、体の重みが減って軽くなったような気がした。
「ごめんなさい……」
後ろめたさのあまり、謝罪の言葉が滑り落ちた。
「……」
渉は何も言わず、綾乃の真意を待った。
「なんか、何もできないのに、えらっそうに……」
「いや、そんなことないよ。まだ構想練っている段階だから、こんなものですよ。一度考えがまとまれば、その後は早いと思う。だからそんなこと言わないでください」
渉がそう言うならと思って、綾乃は頷いて言葉をそのまま飲み込んだ。
「感謝してますよ。あの、綾乃さんが言わなかったら、『心づくし』で僕の作家としての道は確実に途絶えていたから。だから、そんなこと言わないでください」
渉に仕事のことで励まされた時のように、やると決めたら綾乃なりに頑張ればいいだけの話だ。
「分かりました」
綾乃は笑顔を取り戻した。
「手助けをしようって言う気持ちが嬉しい。軽い気持ちで、写真を撮ってみてください。楽しみにしています」
渉が何かを書き進める。構想を破裂しないように大事に膨らませていく。
「現実と、妄想の狭間で揺れる男子高校生……」
「現実と妄想……」
綾乃とともに構想を考えた日の夜。
デスクに向かって、パソコンを触ると見せかけてうたた寝をしている渉。それでも自然に閉じる前に、渉はせっせと出だしの文章を書きだした。
『ここに桜がある。俺はただそれを見つめている。
きっと楽しい高校生活になる。いや、そうなるようにすればいい。
出来立てのかわいい彼女が俺のそばにいて、腕を組んでくれる。
俺は彼女が大好きだ。彼女も、俺のことが好き……だと、思う……たぶん……』
渉はゆっくり目を開けた。
まだタイトルはない。いくつかアイデアはあるけど、渉がじっと見つめられるものはなかった。ただ話の内容が膨らんでくる。それを整理して道筋を立てるんだ。
綾乃の期待をも背負って書く。どんなことがあっても形にして見せる。
そんな覚悟を噛みしめている。それほどプレッシャーでもない。これが最後になるかもしれないから、ただ楽しんで書くんだ。その方が、いい作品ができるような気がする。プレッシャーに埋没されて、書き急いで書いたセリフを登場人物に言葉を託しても、気持ちがセリフから滑り落ちてそのままになる。楽しもう。
タイトルも決まらないけど、ただひたすら書いていこう。