渉の真実を知ってから三日が経った。罪悪感と受け止め難い現実が綾乃を翻弄していた。でも仕事はしないといけない。新人の子にも気を遣わせることになるからいつもと同じように振る舞うんだ。綾乃は今や、教育係なんだ。
 遊園地に行ってから渉との連絡は途絶えている。送ろうと思ったけど、なかなか気が進まなくてそのままになっている。今何を話しても謝ることしかできない。渉と出かけられると思って舞い上がってしまった自分が恥ずかしい気持ちもあった。
 いきなり遊園地に行っていいことはない。特に渉の場合はよくなかった。
 渉は渉で、綾乃を傷つけてしまったことを気にしているのかもしれない。急に発作が起こることも想定していたはずだから。
 それでも来てくれたのはなんでだろう。
 初めてだったからか。少年のようにはしゃぐ渉からは、そうとしか思えなかった。
 でも渉は、『綾乃と行きたかった』と言った。責任を感じる綾乃に気を遣ってくれたんだろう。一緒に行けたのは嬉しかったけど、何の前触れもない発作は最後に強烈な苦みを残していった。ニュースでよく目にする台風の爪痕。まさにこのことを言うんだと、綾乃は思い知った。
 渉のことを考えるとボーッとしてしまう。視界は何を捉えているのか分からない。
「坂本さん?」
 綾乃と渉のいきつけのカフェで、新卒社員の小織拓也が綾乃に話しかけた。視線がどこにあるのか見当がつかなったから、目の前で手を振って綾乃の意識を確認した。
「ああ」
 綾乃は素っ頓狂な声をあげた。新卒の子の前で恥ずかしい。
「大丈夫ですか? 少し、お疲れですね」
「大丈夫、ごめんね。田中さんの契約の話だよね?」
 綾乃は背筋を正す。
「はい」
「今回は見てて。私がどういう流れで話しているか勉強してね」
「はい」
 威勢のいい声で言った。『私の流れを見て』と言ったけど、すごく自信があるわけではない。でも予想だにしないことを言われておどおどするのだけはやめよう。先輩らしく。きっとプレッシャーのかかる場面で仕事をするともっと成長するはずだ。何か集中できることがあれば、渉のことを一時的に雲隠れさせることができるだろう。
 渉の言葉を思い出す。

「綾乃さんならできるって思ったから任せられたんだと思う」

 渉がそう言ってくれたからグチグチ文句も言わずにこの仕事に取り組めている。もう先が短いって思っている渉がいる。せっかく成長するチャンスがあるのに、やらずに終わってしまったり、中途半端にやっていく綾乃が許せなかったんだろう。渉にはそのチャンスさえもない。もうすぐ死んでしまう。この世に存在しないと、そういう機会さえもない。『だからチャンスがあるうちは頑張ろう』というメッセージだったんだ。
 初対面の綾乃に、その言葉を手渡した。わざわざ顔を俯かせて、窮屈な思いをしてまで伝えなくてもいいことだ。だからとても感謝している。
 誰かのスマホのバイブが鳴る。すぐに綾乃は会社のスマホを手に取る。でも振動していない。
「小織君の?」
「いえ、僕のじゃないです」
 揺れていたのは綾乃のスマホだった。
「私のか」
 液晶画面には渉の名前が出た。
「ごめん、資料確認してて」
 スマホの振動を通話ボタンでなだめる前に綾乃は外に駆け出る。どういう感じで電話に出たらいいだろうか。何もなかったかのように話せばいいのか。体調を気遣ってあげればいいのか。スマホが自分で振動を収める前に、通話ボタンを滑らせた。
「もしもし」
 子供に話しかけるようにゆっくり諭すように電話に出た。
「あ、もしもし、綾乃さん?」
「はい……」
 瞬く間に緊張が広がり、喉が乾いてくる。さっきまで飲んでいたカフェオレはどこに置いてきた。
「今、話せますか?」
「はい」
「この間のこと、またちゃんと謝ろうと思って。もし気にしてたら、申し訳ないなって」
 優しい声に凛々しさをのせたような締まった声だった。誠実さが伝わってくる。
「あ……気にしてました。大丈夫かなって」
 正直に言いすぎただろうか。でもここで嘘をつく必要もない。
「そうだよね……」
 渉が電話越しで苦笑しているのが綾乃は想像できた。
「何回か連絡しようと思ってたけど、なかなかできなかったです。体調は大丈夫ですか?」
「大丈夫です。本当にたまたまあのタイミングで発作が出ただけだから、気にしないでね」
 本当か嘘か分からないけど、渉はそう言った。
「良かった……また会えますか?」
 会うことがいいことなのか分からなかったけど、綾乃の感情が勝った。
「はい、僕も会いたいです」
 渉も会っていいのかどうかは分からなかったが、そうすぐに返事をした。綾乃がそう言ってくれるなら会いたい。前の彼女は病気のことが荷が重くて、連絡しても返ってくることはなかった。それは自然なことかもしれない。正直、「綾乃が会いたい」と言ってくれたのも不思議だ。渉を相手にしてもこれと言って得をすることはないのに、突き放そうとしない。重かったらはじき返していいんだ。
「今夜は、どうですか?」
 急な予定だけど、早く会いたかった。渉の優しい表情が見たかった。
「いいですよ。八時ぐらいになるけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。今日はお仕事ですか?」
「今日はお休みです」
「なら、渉さんの家の近くで会いましょうか? それなら心臓に負担はかからないですよね?」
 近くならすぐに戻って休めると思って、綾乃はそう提案した。それが本当に渉の負担を軽減できるかはわからない。素人が提案する処方箋は渉にはどう映るのか。
「ありがとう、気遣ってくれて」
「いえ。また何かあった時に、どうしたらいいか教えてくれませんか? また前のようなことがあったら、どうしたらいいか分かるので」
「……」
 病気のことを受け入れてくれている。渉は嬉しい気持ちと申し訳ない気持ちが入り混じる。面倒なことに付き合わせてしまう。綾乃の人の良さにつけ込んでいる感が渉を心を揺さぶっている。
「渉さん」
 この沈黙を嫌ったのか綾乃は電話越しで殻を破った。
「はい」
「色々、考えてしまってますか?」
 顔は見えないけど、綾乃が渉の顔色を窺う。
「いや、そんなことないですよ」
 綾乃の言う通りだが、綾乃がそう言ってくれているのに覆いかぶせて否定するのはいかがなものか。素直に綾乃の言葉を飲み込めばいいのか。
「もし、渉さんが負担なら、今日はやめておきます」
 言葉を詰まらせている渉から、乗り気じゃないかもって思った。もしかしたら、遊園地もホルモンも断れなかったのかもしれない。
「負担じゃないです。会いたいですよ」
 後ろめたさで物事を決めない。会いたいか会いたくないか。
「じゃあ、今夜、会いましょう」
「はい」
「今、新人の子と、打ち合わせてしているので、そろそろ戻りますね」
 渉が会うことに、再び難色を示さないうちに会話を終わらせる。綾乃のわがままかもしれないけど、渉に会いたい。
「分かった。忙しい中、話してくれてありがとう」
 電話を切ると、綾乃は一時的な不安を押し出した。渉と疎遠になることはしたくなかった。せっかく舞い降りたチャンス。前と比べて少したくましくなったかも。

 夜はまだまだ寒い。朝晩は冷えるからもう一枚羽織れるものを持ってきて良かった。
 集合時間十分前に、渉の自宅から近いレストランに到着した綾乃は周囲を見渡している。この辺で渉はいつも生活しているんだ。家がどれか分からないけど、なんかいい街並みだった。
 お出迎えの鐘を鳴らして店内へ入った。お昼以来、何も食べてないからハンバーグのいい匂いが綾乃の食欲を刺激した。
「後からもう一人来ます」
 店員さんにそう伝えると角の四名席に案内された。渉は何か食べるだろうか。食べるなら渉と一緒に頼めばいい。食べないなら今から食べておいてしまいたいぐらいお腹が空いている。料理の写真が上手に撮られているから尚更お腹の虫が泣く。綾乃も食べ物の写真を撮ることはあるけど、ここまできれいには撮れない。
 お店の鐘が再び店内に響く。渉が周囲を見渡して綾乃のありかを探す。綾乃と目が合うと表情を明るくして、店員さんに少し頭を下げて歩き始めた。
「お待たせしました」
「いいですよ。私も今来ましたから」
 どこか出かけていたのかジーンズにグレイとパープルのボーダーのパーカーを羽織ってなんともカジュアルだった。どこかに出かけていたんだろうか。
「今日はどこか出かけてたんですか? なんかラフな感じですね」
「はい。母が来てたので」
「そうなんですね」
 お母さんと聞いてドキッとした。綾乃が遊園地に連れていったから発作が起きたことは知っているだろう。もちろん知らなかったことだが、心臓発作を引き起こしてしまったことには変わりはない。お母さんにも直接謝りたい気持ちもある。
 でもその一方で、渉の核心部分を知ることができてよかったとも思っている。おそらく渉の心臓病は、渉のすべての言動を操っていた。渉の言葉の真意が理解できる。
 最初になんて切り出そうか。「会いたい」って綾乃から言ったものの、何を話したらいいか分からなかった。発作のことを謝るのももうくどい感じがある。渉は「大丈夫」って言うに決まってる。
「綾乃さん、心配かけてごめんなさい」
「えっ?」
 綾乃は話の糸口を模索していたから変な声を出してしまった。
「せっかく楽しい旅行になるはずだったのに……病院までついてきてくれて」
「いえ。なんていうか、私は知ることができて良かったです。色々な意味で。渉さんが言ってたことが徐々に理解できるようになってきたので。あの時、だからこういう風に言ってたんだなとか。『自分を受け入れてくれる人なら誰でもいい』って。『特こだわりはない』とか……」
 渉は黙ったままだった。どう反応してしていいか分からない感じか。
「渉さんが受ける手術って、難しいんですよね?」
 病室で聞いた時は受け止められなかったけど、今は受け入れる覚悟を添えている。 
「うまくいく可能性は低いって。奇跡でも起こらない限りは」
 目を合わせず渉は言葉を返した。綾乃はブレずに渉を見つめた。
「手術をしなかったらどうなるんですか?」
「病気が悪くなるだけだから、いつかは受けないといけないって」
「そうなんですか……」
「うん……何か食べますか?」
 綾乃はチーズインハンバーグ、渉はうどんを注文した。
「生まれてからずっとこの病気と付き合ってきて、なんか今になって踏ん切りがついてきて。もういいかなって」
 渉の心の奥底で眠っていた言葉のような気がした。
「……どういう意味ですか?」
「周囲の人は、『辛いかもしれないけど、もう少し頑張ってみよう』って言うんです。でも一体、何を頑張ったらいいか分からなくなってきて」
 綾乃も同じセリフを脳裏のどこかに置いていた。取り出していたら、すぐに姿が見えないように隠しただろう。
「もちろん生きていたい。このまま何も変わらず。みんなとも変わらず会って、楽しく過ごしたいけど、生きたい生きたいって、言い続けて治療し続けるのも……結構つらくて」
 渉の気持ちを理解しようと努めるけど、それはできない。理解したら、渉は死んでもいいっていうことになる。
 本当に渉は死んでしまうかもしれない。でも渉の胸の内を聞くと、これが真実なんだろう。
「僕はすごく運が良かった。心臓病を持ちながらもここまで働くことができて、店長もやらせてもらって。それで見たこともない世界も見ることができたから」
 人生の終焉をいつ迎えてもいいというような口ぶりだった。手術が迫り寄るにつれて、心の整理をし始めているんだ。
「小説のことですか?」
 渉は小さく頷いて、「普通の人だったらありえない体験だった。病気があったから自分でできることを探した結果が小説を書くことだった。本当に書いて良かった……綾乃さんと……」
「渉さん……」
 綾乃は流暢に話す渉を制止した。もう聞いていられなくなってきた。そんなこと、口が裂けても言わないで欲しい。
「渉さんは、もう、諦めてる感じなんですか?」
「……」
 口を閉ざして渉は俯いた。また『頑張ろう』って、易々と言われるのも、辛いのかもしれない。
「私、仕事頑張れてるのって、渉さんのおかげなんです。私、自分で変わったなって思うんです。私のこと励ましてくれましたよね? 覚えてますか?」
 渉のことを何も知らなかった綾乃が、渉と初めて会って話した時のことだ。「逃げ出したい」と悩める心中を吐露した。
「渉さんが励ましてくれたから、もう少し頑張ろうって思ったのに。渉さんは諦めるんですか? 私には諦めるなって言ってたじゃないですか……」
 綾乃と渉の『頑張る』は意味が違う。それは分かっている。
「もしも可能性があるなら、諦めないでください。私は何もできないけど、生きていてほしいんです」
 綾乃自身も、勝手なことを言い並べているのは分かっている。
「みんなそう言ってくれる。それも嬉しいんだけど、何を頑張ればいいのかわからない……」
 その通りかもしれない。頑張っても無理なものは無理だ。変えられないものに、『頑張って』と言われてもそこに佇むしかないんだ。何かを変えたくてもできないもどかしさだ。
「ごめんなさい……勝手なこと言って」
 さっきまでの強気で渉に素直な気持ちを伝えていた綾乃はどこへいったのか、頭が自然に下がっていった。
「綾乃さんが謝ることじゃないよ」
「ただ、想像したくなくて。渉さんがいないなんて……せっかく、渉さんのこと分かり始めたのに……」
 その先の言葉はどうしよう。
 渉が近い将来、死んでしまうなら伝えた方がいいか。
 でも渉は告白されても困るだけ。何もできない。綾乃の気持ちに応えることもできない。
 もし応えてくれたとしても、死の直前に渉を本気にさせてしまって、綾乃との死別が辛くなるだけだ。
 自分のことは別にどうでもいいって思えるぐらい人を好きになったのに、伝えられずに終わっていくなんて。
「ありがとう、そう言ってくれて。綾乃さんの気遣いが嬉しいです」
 綾乃に違和感が広がる。『気遣い』っていう言葉につまずいた。気遣いじゃない。気遣いだけのことなら、遊園地のことで懲りて、もう連絡はしなかったはずだ。好意を寄せられているという意識はないみたいだ。当然かもしれない。自分を好きになる人なんていない。もうすぐ死を迎えるかもしれない人に。渉はそう思って生きてきたんだ。謙虚さが目立った渉の言葉の裏に、自分は理想を語れる人間じゃないっていう意識が常に存在していたのかもしれない。
「気遣いじゃ……ないです」
 綾乃は少し語気を強めた。
「私、渉さんのことずっと好きでした。初めてあのカフェで会うずっと前から。驚くかもしれないですけど……」
「……」
「渉さんが、何かを一生懸命書いてるの、知ってたんです。いつも渉さんのこと見かけてたから。真剣に何かに向かっていく姿が私の中で印象に残って。自分でも、何も知らない人なのに好きっていう感情はおかしいって思ったけど、いつもあそこに行くたびに、渉さんが気になって。今日もいるかなって。すごい人見知りだから何もできなかったですけど……」
「……」
「こういうこと言われて迷惑なのは分かってますけど、私は気遣いで言ってるんじゃないです」
「……」
「だから、渉さんが書いた本に、出会えて良かったって思ってるんです。この本がなかったら、私は渉さんとこうやって話をすることはなかったから」
 渉のリアクションがないけど、綾乃は何も言われなくていいと思っている。渉がどうしたらいいか分からないのは分かるから。
そこへご飯が来た。この雰囲気のかき消すためにも、ひたすら食べよう。