何もなければ綾乃と渉は、今頃ホテルでくつろいでいただろう。渉が胸を抱えて苦しみ出した場所から近くにある病院で、綾乃は渉の無事を祈りながら体を丸めて、医師や看護師さんから吉報を待っている。
突然苦しみ始めて、何が何だか分からないまま、あの時起こった全てを綾乃は受け入れた。薬に詳しいわけじゃないけど、なにか重い病気の薬のような感じがした。
どこか悪いのかもしれない。
あの時、周囲に人がいてよかった。救急車のことなんて考えもつかないぐらい訳が分からなくて、錠剤か何かを探す渉に圧倒された。すぐに救急車の対応をしてくれた人に感謝しないといけない。仕事でも何か突然違うことを言われるとあたふたしてしまう。それをあの場面でも露呈してしまった形だ。
看護師が治療室から出てきた。
「大丈夫ですか?」
綾乃は藁にもすがる思いで看護師に問いかけた。
「大丈夫です。もう少し待っていてください」
今は綾乃にかまっている暇はないのだろう、足早にその場を去っていく。
その言葉に安堵して、体に宿る全ての力が抜け落ちたかのように長椅子に身を任せた。ただ待っていればいい。命に別状はないようだ。
看護師の言葉をそのまま受け止めて時を刻む。何も分からなかった数分前よりは、気持ちが楽になった。でも不安が取り除かれたことで、どっと疲れが押し寄せてきた。今日という一日はもうすぐ終わりを告げる。朝から遊んでいたんだから仕方ない。もうそんなに若くもないし、体がすごく強いわけでもない。二十五歳でこんなこと言ってたら、この先どうするのって年上の誰かに言われそうだった。
渉の元気な姿を、早く見せて欲しかった。
疲れが抜け落ちた綾乃は静かに目を開けた。
コンタクトをしたまま寝てしまったから目の前がよく見える。静かに身体を起こすと、カーテンの隙間から漏れでるかすかな光が綾乃の目元を照らした。何度も瞬きをしてコンタクトに潤いを与える。早くコンタクトを外してメガネに変えないと目に悪いけど、綾乃のバッグがどこにあるか分からない。昨夜ここに自ら来て、眠りについた記憶はない。誰かに運ばれたのかもしれない。
ベッドを出てカーテンを少し開けると、綾乃が寝ていたベッドにもたれかかるようにカバンが置いてあった。なんかその姿が妙にかわいい。誰か意中の人にもたれかかって甘えているようだった。視線を上げると患者用のガウンに身にまとった渉が眠っていた。
「はっ!」
咄嗟にそう声をあげて口を手で押さえた。安らかに眠る渉が逆に心配で、
「ちゃんと生きてるよね?」
と小さく呟いた。
ベッドの側にある時計が六時半を伝える。心臓が動いているか確かめようにも、渉に触れるのが怖い。名前を呼んで起こすのも気が引ける。寝顔が美しすぎてこのまま見ていたい気持ちもある。この状況の意味を理解したくて病室を静かに出て、病院関係者の人に容態を確認することにした。
初めて来た病院だが、案内表示がわかりやすいから難なく看護師たちが集まるナースステーションを見つけることができた。ここの病院の内装を担当した人は、センスがあると勝手に想像した。
昨夜、「大丈夫です。もう少し待っていてください」と、早口で足早に去っていった看護師がいた。
「あ、起きてきた」
看護師は廊下まで出てきて綾乃を迎える。腕をさすってくれた。
「あの、渉さんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。心配しないで」
メガネをかけて、明るめの茶色の長い髪の毛。ベテランの看護師で、相手を不安にさせないハキハキとした感じが綾乃に好印象を残した。渉の無事も確認できたから体内に充満していたモヤモヤが消えてなくなった。
「良かった……」
綾乃はその場で体を低くした。
「大丈夫?」
素早く看護師は綾乃を支えた。華奢な体格でも体のどこを支えれば安定するのか知っているからか、悠々としている。
「渉さん、どこか悪いんですか?」
飼い主に餌を懇願する猫のように訊ねた。
「そうね……私たちの口からは言えないの。個人情報だから。今は大丈夫だから安心して」
「……」
今は、という発言がひっかかる。どこかに持病を抱えているということか。突然、発作が起こる。常備薬を持っていた。重い病気なのか。嫌な妄想を展開していく。
昨日は遊園地で楽しいひと時を過ごした。そして夜には綾乃が希望したホルモンを食べた。どこか負担がかかってしまって昨日ような発作が起こってしまったのかもしれない。
ナースステーションを離れる。
少ない情報と看護師の言葉を脳裏で行き来させながら歩いていると、病院内で迷子になってしまった。来た道をまた戻って、一夜を過ごした病室へとたどり着いた。
静かに引き戸を開けた。渉はまだ眠りの世界で過ごしている。
瞬きをするとコンタクトレンズが取れかかって目に手をやる。このままはめていると良くないと思った綾乃は、入室してもたれかかるカバンを音を立てることなく持ち上げて病室を後にした。
化粧室でコンタクトレンズを取り出すと、昨日滞在予定だったホテルにもお詫びの電話を入れないといけないと思った。別々に取った部屋が無駄になってしまった。
目の洗浄液を頼りに爽快感を与えた。ついでに髪の毛も直していく。こんな状況とは言え、渉に変な格好は見せたくない。昨夜、シャワーを浴びれなかったから不快感が残るけど、我慢することにした。夏の時期じゃなかったこと不幸中の幸いだ。
病室の前に来ると、中の灯りがついていた。素早くドアを引くと、上体を起こした渉がいた。ゆっくり綾乃と視線を合わせて、渉は少し微笑んだ。寝起きのはずなのに渉はすごく美しい姿勢と乱れのない髪型だった。渉は嬉しくないだろうが、病院のガウンもよく似合っている。
「渉さん、大丈夫ですか?」
微笑んでくれた渉をよそに、近くに駆け寄っていく。
「うん。今日も遊園地に行く予定だったのにごめんね」
「そんなこと全然いいですけど……」
聞きたいことはある。でも聞いていいかどうかは分からない。
「ずっとここにいてくれたんだよね? ありがとう」
「いえ……渉さん……どこか、悪いんですか?」
渉は口を紡いで視線を落とした。
明かせない何かがあるのは確かだ。
「何もなければ、いいんです。大丈夫みたいだし。ただ、渉さんが心配で……」
静かに頷く渉。綾乃の言葉に気持ちが揺らいだのか、何か覚悟が決まったかのような張りがどこからか垣間見えた。
「実は僕、心臓病を患ってて。その発作が昨日出たんだ」
「……」
言葉がなかった。
遊園地で初めてのジェットコースターに乗り、ホルモンも初めて食べたって言っていた。心臓に負担がかかってしまったんだと、綾乃は思った。一歩間違えれば死に追いやっていたかもしれない。心臓に良い影響がないことぐらい素人考えでも分かる。電撃が走るように身震いがした。
「ごめんね、言ってなくて」
横に首を振る綾乃は、「本当に……ごめんなさい。昨日、色々乗ったからですよね?」
「違うよ。こういうこと普通にあるの。行けて楽しかったから。綾乃さんが言わなかったら、行くことはなかった。今日も楽しみにしてたから」
綾乃は涙をこらえようとしたけど無理だった。綾乃を庇う渉の優しさと、こんなことがあっても気丈に振る舞える強さが綾乃を圧倒した。
「だから気にしないで」
看護師が支えてくれた時に触れてきた時と同じ場所を、渉はポンポンと触れた。
「心臓病があったから、今まで行けなかったんですか?」
涙を拭きながら綾乃はそう聞いた。それでも流れ落ちてくる。
「行っても見てるだけだったから。でも、乗ってみたくて。綾乃さんと」
昔話に登場する渉。乗りたくて羨ましそうにみる反面、恐怖で見ているだけだった渉のもどかしさを知る。お母さんに声をかけられながらその場を凌いだシーンは、さらに綾乃の涙腺を刺激した。
「ホルモンも脂っこいから?」
もしかしたら、ホルモンも知らず知らずのうちに敬遠していたかもしれない。
「噛みきれなくて飲み込めないのが怖くて。だけど美味しかった。今まで食べてこなかった自分がバカだと思った。結構後悔したよ」
渉は笑い飛ばす。綾乃の罪悪感を一秒でも早く払拭したい。
綾乃は涙目で少し笑った。それが見えた渉も胸をなでおろす。
「だから……本も?」
綾乃が本を取り出す。渉と結びつけたこの本を。
「だからあんなに一心不乱に書けたのかもしれないね。やりたいことだったから、とにかくやりたかったんだ」
カフェでの渉の姿が綾乃の視界にいる。綾乃を虜にしたあの姿が。
「本を書いてる時、自分自身でいられるんです。病気のことも忘れて。現実逃避ってやつかもしれない。前に付き合ってた彼女が、映画の完成披露試写会に連れてってくれて、それで僕も、良い作品が書けたらなって。それと同時に、自分が生きた証を残そうと思って。こんな奴いたなって思ってもらえたら嬉しい。この本の中の登場人物も、僕が命を吹き込んであげないと、いないのと同じだから。それじゃあ、かわいそうでしょ?」
生きた証。際立って光っている。それを残すために渉は全身全霊でこの本に向き合ったんだ。作り話だが渉が作り出した本の登場人物にも、生きた証を残そうとしたのか。
「渉さん、もう長くないってことですか? なんか、もうすぐ……」
綾乃は言葉を詰まらせた。口にしていい言葉なのか。渉に渡していい言葉なのか。
「自分ではもうそんなに長くないって思ってる」
綾乃の言葉に書き足すように渉は答えた。
「生まれつき心臓が良くなくて、今までずっと治療してきて、これから難しい手術を受けるんだ。成功する可能性は極めて低いって。そういう日がいつか来るって、そう思ってる」
綾乃の心の器が窮屈になる。これ以上受け止めきれる空きスペースなんてない。小さく横に首を振って恐怖を振り払おうとする。渉を喪失する恐怖が執拗に綾乃の周囲を取り巻く。
それと同時に、渉が見せたぎこちない笑みや控えな立ち振る舞いが、今ようやく一つの場所に集まってきた。
「どのぐらいなんですか?」
「今年の一二月に手術があるんだ。それでダメだったら、それで終わりだと思う」
「他に助かる方法は……あるんですか?」
「ないと思う。あったらもう提案してくれてると思う」
「……」
心の器はもうすでにパンパンで胸がはちきれそうだ。
この胸の苦しさは昨日の渉と同じなんだろうか。いや段違いなんだろう。
突然苦しみ始めて、何が何だか分からないまま、あの時起こった全てを綾乃は受け入れた。薬に詳しいわけじゃないけど、なにか重い病気の薬のような感じがした。
どこか悪いのかもしれない。
あの時、周囲に人がいてよかった。救急車のことなんて考えもつかないぐらい訳が分からなくて、錠剤か何かを探す渉に圧倒された。すぐに救急車の対応をしてくれた人に感謝しないといけない。仕事でも何か突然違うことを言われるとあたふたしてしまう。それをあの場面でも露呈してしまった形だ。
看護師が治療室から出てきた。
「大丈夫ですか?」
綾乃は藁にもすがる思いで看護師に問いかけた。
「大丈夫です。もう少し待っていてください」
今は綾乃にかまっている暇はないのだろう、足早にその場を去っていく。
その言葉に安堵して、体に宿る全ての力が抜け落ちたかのように長椅子に身を任せた。ただ待っていればいい。命に別状はないようだ。
看護師の言葉をそのまま受け止めて時を刻む。何も分からなかった数分前よりは、気持ちが楽になった。でも不安が取り除かれたことで、どっと疲れが押し寄せてきた。今日という一日はもうすぐ終わりを告げる。朝から遊んでいたんだから仕方ない。もうそんなに若くもないし、体がすごく強いわけでもない。二十五歳でこんなこと言ってたら、この先どうするのって年上の誰かに言われそうだった。
渉の元気な姿を、早く見せて欲しかった。
疲れが抜け落ちた綾乃は静かに目を開けた。
コンタクトをしたまま寝てしまったから目の前がよく見える。静かに身体を起こすと、カーテンの隙間から漏れでるかすかな光が綾乃の目元を照らした。何度も瞬きをしてコンタクトに潤いを与える。早くコンタクトを外してメガネに変えないと目に悪いけど、綾乃のバッグがどこにあるか分からない。昨夜ここに自ら来て、眠りについた記憶はない。誰かに運ばれたのかもしれない。
ベッドを出てカーテンを少し開けると、綾乃が寝ていたベッドにもたれかかるようにカバンが置いてあった。なんかその姿が妙にかわいい。誰か意中の人にもたれかかって甘えているようだった。視線を上げると患者用のガウンに身にまとった渉が眠っていた。
「はっ!」
咄嗟にそう声をあげて口を手で押さえた。安らかに眠る渉が逆に心配で、
「ちゃんと生きてるよね?」
と小さく呟いた。
ベッドの側にある時計が六時半を伝える。心臓が動いているか確かめようにも、渉に触れるのが怖い。名前を呼んで起こすのも気が引ける。寝顔が美しすぎてこのまま見ていたい気持ちもある。この状況の意味を理解したくて病室を静かに出て、病院関係者の人に容態を確認することにした。
初めて来た病院だが、案内表示がわかりやすいから難なく看護師たちが集まるナースステーションを見つけることができた。ここの病院の内装を担当した人は、センスがあると勝手に想像した。
昨夜、「大丈夫です。もう少し待っていてください」と、早口で足早に去っていった看護師がいた。
「あ、起きてきた」
看護師は廊下まで出てきて綾乃を迎える。腕をさすってくれた。
「あの、渉さんは大丈夫なんですか?」
「大丈夫よ。心配しないで」
メガネをかけて、明るめの茶色の長い髪の毛。ベテランの看護師で、相手を不安にさせないハキハキとした感じが綾乃に好印象を残した。渉の無事も確認できたから体内に充満していたモヤモヤが消えてなくなった。
「良かった……」
綾乃はその場で体を低くした。
「大丈夫?」
素早く看護師は綾乃を支えた。華奢な体格でも体のどこを支えれば安定するのか知っているからか、悠々としている。
「渉さん、どこか悪いんですか?」
飼い主に餌を懇願する猫のように訊ねた。
「そうね……私たちの口からは言えないの。個人情報だから。今は大丈夫だから安心して」
「……」
今は、という発言がひっかかる。どこかに持病を抱えているということか。突然、発作が起こる。常備薬を持っていた。重い病気なのか。嫌な妄想を展開していく。
昨日は遊園地で楽しいひと時を過ごした。そして夜には綾乃が希望したホルモンを食べた。どこか負担がかかってしまって昨日ような発作が起こってしまったのかもしれない。
ナースステーションを離れる。
少ない情報と看護師の言葉を脳裏で行き来させながら歩いていると、病院内で迷子になってしまった。来た道をまた戻って、一夜を過ごした病室へとたどり着いた。
静かに引き戸を開けた。渉はまだ眠りの世界で過ごしている。
瞬きをするとコンタクトレンズが取れかかって目に手をやる。このままはめていると良くないと思った綾乃は、入室してもたれかかるカバンを音を立てることなく持ち上げて病室を後にした。
化粧室でコンタクトレンズを取り出すと、昨日滞在予定だったホテルにもお詫びの電話を入れないといけないと思った。別々に取った部屋が無駄になってしまった。
目の洗浄液を頼りに爽快感を与えた。ついでに髪の毛も直していく。こんな状況とは言え、渉に変な格好は見せたくない。昨夜、シャワーを浴びれなかったから不快感が残るけど、我慢することにした。夏の時期じゃなかったこと不幸中の幸いだ。
病室の前に来ると、中の灯りがついていた。素早くドアを引くと、上体を起こした渉がいた。ゆっくり綾乃と視線を合わせて、渉は少し微笑んだ。寝起きのはずなのに渉はすごく美しい姿勢と乱れのない髪型だった。渉は嬉しくないだろうが、病院のガウンもよく似合っている。
「渉さん、大丈夫ですか?」
微笑んでくれた渉をよそに、近くに駆け寄っていく。
「うん。今日も遊園地に行く予定だったのにごめんね」
「そんなこと全然いいですけど……」
聞きたいことはある。でも聞いていいかどうかは分からない。
「ずっとここにいてくれたんだよね? ありがとう」
「いえ……渉さん……どこか、悪いんですか?」
渉は口を紡いで視線を落とした。
明かせない何かがあるのは確かだ。
「何もなければ、いいんです。大丈夫みたいだし。ただ、渉さんが心配で……」
静かに頷く渉。綾乃の言葉に気持ちが揺らいだのか、何か覚悟が決まったかのような張りがどこからか垣間見えた。
「実は僕、心臓病を患ってて。その発作が昨日出たんだ」
「……」
言葉がなかった。
遊園地で初めてのジェットコースターに乗り、ホルモンも初めて食べたって言っていた。心臓に負担がかかってしまったんだと、綾乃は思った。一歩間違えれば死に追いやっていたかもしれない。心臓に良い影響がないことぐらい素人考えでも分かる。電撃が走るように身震いがした。
「ごめんね、言ってなくて」
横に首を振る綾乃は、「本当に……ごめんなさい。昨日、色々乗ったからですよね?」
「違うよ。こういうこと普通にあるの。行けて楽しかったから。綾乃さんが言わなかったら、行くことはなかった。今日も楽しみにしてたから」
綾乃は涙をこらえようとしたけど無理だった。綾乃を庇う渉の優しさと、こんなことがあっても気丈に振る舞える強さが綾乃を圧倒した。
「だから気にしないで」
看護師が支えてくれた時に触れてきた時と同じ場所を、渉はポンポンと触れた。
「心臓病があったから、今まで行けなかったんですか?」
涙を拭きながら綾乃はそう聞いた。それでも流れ落ちてくる。
「行っても見てるだけだったから。でも、乗ってみたくて。綾乃さんと」
昔話に登場する渉。乗りたくて羨ましそうにみる反面、恐怖で見ているだけだった渉のもどかしさを知る。お母さんに声をかけられながらその場を凌いだシーンは、さらに綾乃の涙腺を刺激した。
「ホルモンも脂っこいから?」
もしかしたら、ホルモンも知らず知らずのうちに敬遠していたかもしれない。
「噛みきれなくて飲み込めないのが怖くて。だけど美味しかった。今まで食べてこなかった自分がバカだと思った。結構後悔したよ」
渉は笑い飛ばす。綾乃の罪悪感を一秒でも早く払拭したい。
綾乃は涙目で少し笑った。それが見えた渉も胸をなでおろす。
「だから……本も?」
綾乃が本を取り出す。渉と結びつけたこの本を。
「だからあんなに一心不乱に書けたのかもしれないね。やりたいことだったから、とにかくやりたかったんだ」
カフェでの渉の姿が綾乃の視界にいる。綾乃を虜にしたあの姿が。
「本を書いてる時、自分自身でいられるんです。病気のことも忘れて。現実逃避ってやつかもしれない。前に付き合ってた彼女が、映画の完成披露試写会に連れてってくれて、それで僕も、良い作品が書けたらなって。それと同時に、自分が生きた証を残そうと思って。こんな奴いたなって思ってもらえたら嬉しい。この本の中の登場人物も、僕が命を吹き込んであげないと、いないのと同じだから。それじゃあ、かわいそうでしょ?」
生きた証。際立って光っている。それを残すために渉は全身全霊でこの本に向き合ったんだ。作り話だが渉が作り出した本の登場人物にも、生きた証を残そうとしたのか。
「渉さん、もう長くないってことですか? なんか、もうすぐ……」
綾乃は言葉を詰まらせた。口にしていい言葉なのか。渉に渡していい言葉なのか。
「自分ではもうそんなに長くないって思ってる」
綾乃の言葉に書き足すように渉は答えた。
「生まれつき心臓が良くなくて、今までずっと治療してきて、これから難しい手術を受けるんだ。成功する可能性は極めて低いって。そういう日がいつか来るって、そう思ってる」
綾乃の心の器が窮屈になる。これ以上受け止めきれる空きスペースなんてない。小さく横に首を振って恐怖を振り払おうとする。渉を喪失する恐怖が執拗に綾乃の周囲を取り巻く。
それと同時に、渉が見せたぎこちない笑みや控えな立ち振る舞いが、今ようやく一つの場所に集まってきた。
「どのぐらいなんですか?」
「今年の一二月に手術があるんだ。それでダメだったら、それで終わりだと思う」
「他に助かる方法は……あるんですか?」
「ないと思う。あったらもう提案してくれてると思う」
「……」
心の器はもうすでにパンパンで胸がはちきれそうだ。
この胸の苦しさは昨日の渉と同じなんだろうか。いや段違いなんだろう。


