彼は先々の未来を見つめる。
 それは長い道のりではないかもしれない。
 だから、ただ今を大切に生きていくんだ。

 グラスについた汗が流れる。契約が決まりそうなクライエントとの会合を終えて、行きつけのカフェで一人の女性が休息の時を過ごす。彼女の名前は坂本綾乃。小柄でスレンダー。肩ぐらいまであるダークブラウンの髪の毛を七三で分けている。保険会社の営業の仕事をしていて入社して三年目になる。先輩からは『ふわふわしてる感じだよね』って言われる。だから綾乃みたいなおっとり系が営業の仕事なんて務まるのかって思ってたらしいけど、なんとか今も続けている。
 ここに入社したのは会社説明会で話をした人材開発部の人が、綾乃の中で妙に印象に残って、話をしていくうちに興味が湧いていった。その人も七年のキャリアを経て人事部へと異動になった。綾乃と同じで小柄だったけど、すごくかっこ良くて、こういう女性になりたいと綾乃は思った。さらに『努力して慣れれば大丈夫』と言ってくれたからエントリーを決断した。
 でも全然慣れない。同じことをしていればいいっていう仕事でもないし、話し方を考えないといけないから骨を折る。うまくいかない時も沢山あって今までにも何度も辞めようと思った。でもまた就活するのも面倒だから今もだらだらと続けている。今年からは新卒で入ってきた子と一緒に仕事をさせられる予定だから背筋がいつもより伸びている。これからはもっと責任を負わされることになるし、後輩も助けていかないといけないから半端ないプレッシャー。
 綾乃がいる行きつけのカフェは中目黒駅の近くにあり、『カトリーナ』というお店だ。クライエントとの打ち合わせなどには使ったりはしない。ここはあくまでリラックスする場所と決めている。仕事の話をここでしたくないから。数回程度、ここに流れで来てしまったこともあるけど、意図しては絶対に来ない。大学生の時に友達とよく来ていて、二、三時間ぐらい騒いでいたから楽しかった印象が残っている。だから仕事でのプレッシャー、緊張、上司への作り笑顔でカフェを塗り替えられたくない。
 中に入ると若い黒エプロンをしたお兄さんかお姉さんが出迎えてくれる。顔を覚えられているから最初はすごく恥ずかしかったけど、もう慣れて会話をするぐらいになっている。
 入って左側に行くと、大きな長テーブルが置かれたカウンター席があり、十数名ほどが囲みながら休息が取れる。壁際にまた一人用のカウンター席が七席ある。右側には二名がけのテーブル席が七席並んでいる。さらにその奥には大きめの三、四名がけのテーブルが二つある。
 アイスカフェオレをストローで吸い上げる。右側にある二名がけ席で壁にもたれる。スマホをいじるわけでもなく、ただカウンター方向を眺めながら静かに時を過ごしている。いつもの同じ景色だけど、おそらく飽きることはないだろう。
 今日も、あの人を見かけるかもしれない。綾乃はそんな期待を抱きながら目を少しだけ光らせている。
 あの人のことは何も知らない。名前も年齢も何もかも。ただここでよく見かけるだけで話したことは一度もない。綾乃と同い年か年上ぐらいの男性で、ボルドー、ネイビー、ないしは黒のチェックシャツにいつもの黒のカーディガンを羽織っている。顔はいつもの横顔しか分からない。少しクセのある黒のショートヘアで、耳元にかかるかかからないかの長さ。口元にある小さなホクロが目につく。
 あの人はカウンター席でタブレットを手に一生懸命何かを書き出している。一心不乱に息の根を止めることなく。そして彼のタイミングで顔を上げる。それでじっと外の景色を眺めて視線がブレなくなる。たまに殺気を感じるくらい何かに集中している。そして再び、何かを書き始める。
 綾乃は彼に好意を寄せている。でも何も知らない。だから好意ではないかもしれない。興味というか好奇心があると表現する方がパズルはうまくはまる。どこか彼を意識してしまっている。大学生の頃に、接触回数が多い人ほど、好意を持ちやすくなるという話を講義で聞いたことがある。もしかしたらそれなのかもしれない。意識するようになった時期は覚えていないけど、社会人になってからだということは確かだった。知らぬ間に意識するようになった。
 綾乃は店内に誰かが入ってくるたびに人を一人一人確認する。ふと自分のことを客観視した時、マジでヤバイって思った。ストーカーの女みたい。何も知らない相手を探しているんだ。だからこのことは本当に親しい人にしか明かしていない。でもそんないやらしい意味はない。
 数回、目が合ったことがある。綾乃がじろじろ見ていたのが原因で、あの人は頬を緩めて笑みを返してくれた。綾乃は恥ずかしくて目を逸らしたけど、優しそうな人柄が十二分に伝わってくるような純粋な笑みだったからドキッとした。また恐る恐る、あの人に目を移すと、真剣な表情で何を書き出していた。笑みはつかの間の休息だったのか。
 何をそんなに一生懸命書いてるんだろう。
 外を眺めている時、何を考えてるんだろう。
 どんな人なんだろう。

 仕事の休憩中、同期で、デスクが隣の仲の良い笠原美奈とここのカフェを訪れた時のこと。
「気になる人?」
 美奈が声を張ってそう反応した。綾乃は美奈に声のボリュームを下げて欲しかった。
「えっ? うん……」
「誰? 会社の人?」
 身を乗り出して美奈が興味津々で聞いてくる。会社の人ならおもしろいって思ってるかもしれない。綾乃を冷やかす気満々だった。
「違う……言うの変かなって思うんだけど……」
「うん。誰々? 早く言ってよ」
 体を小刻みに揺らしながら綾乃の反応を待っている。
「その人のこと、何も知らない」
「どういうこと?」
 表情を変えずに美奈が言う。
「何も知らない。名前も何も」
 意味が入ってこない美奈は、一つ一つ言葉を組み立てて答えを導き出そうとする。答えにたどり着いたのか綾乃と目を合わせてこう問いかけた。綾乃は一瞬だけ合わせて、すぐに俯いた。
「一目惚れみたいな感じ?」
「そんな感じかな……」
 美奈は笑いもせずに真剣に聞いていた。それで、「じゃあ、まずは知り合いになるところから始めるって感じだね」と、さらりと言った。変だともストーカーだとも言わずに、綾乃の言うことを受け入れてくれた。
 俯いていた綾乃は美奈の顔を見て、小さく頷いた。
 綾乃はあの人のことを話していく。美奈も綾乃とカフェを訪れていたから見たことがあるかもしれないって思って過去の記憶を探しに行く。でもだいたい壁の方を向いて話していたから覚えていなかった。当然だ。その人を眺めたくてカウンター方向に座っていたのはいつも綾乃だったから。
 「どういうところに惹かれていったの?」って聞かれたけど綾乃自身もよく分からなかった。綾乃は「明確な理由なんて、人を好きになるのにない」と思っている。でも強いて言うなら彼の優しい雰囲気かもしれない。綾乃の心を突き動かす何かを彼は持っていた。どこか羨ましい感じもある。何かに全力で取り組めるものが、あの人にはある。生き生きとしていて、それに加えて優しい雰囲気を醸し出しているから妙に気になっていった。

 来るかも分からない相手を探しながら、綾乃はここに座っている。
 お客さんと予定がない限り、何をしててもいいからいつまでもここに座っていたい気持ちだった。話せるようになって、彼のことを知りたい。とても不思議な感覚を自覚しながらも、そういう気持ちだった。
 でも話す機会なんてない。自分から話しかけるなんて絶対無理だから。営業の仕事をしてるけど、すごい人見知りで簡単に人に対してオープンになれない。だから口数も多くない。その方が、「余計なことを言って失敗はしないから逆にいいかもね」って、人材開発の人に言われた。
 こんな性格だから恋愛経験も少ない。大学生の時に一人いたけど、それ以来いない。奥手だから仲良くなるまでに時間がかかるから、相手に脈がないって思われて離れていかれるケースがほとんどだった。それで仕事も辞めようかなって思ってるから今の気分は全然晴れなかった。だから、何も知らない人が気になるのかもしれない。
 これが、今ある綾乃のすべて。