「ハナコ、経理のいまの仕事好きだろ? 社内恋愛とか別に禁止されてるわけじゃねぇけど、俺のせいで居心地悪くなったら可哀想だからな。だからそういうのすっ飛ばして、いきなり結婚の方がいいと思ってさ」
そんなふうに始まった笹木の話は、長かった。
だから先に結婚資金を貯めようと思った。
そのために自転車で通勤し、残業も嫌がらずにやった。
そしてもう少しで目標額に届きそうなのだと言う。できれば年末年始の休みの間に羽菜子の両親に会って、結婚の了解を得たいのだと。
唯一の心配は、羽菜子に男ができることだったが、小心者の羽菜子がナンパするとかナンパされる心配はないと自信満々に言ってのけ、アンテナを張り巡らせ羽菜子を狙いそうな男には釘を刺しておいたとも言った。
「クギ?」
「ああ、何人かな。『ハナコのこと、どう思ってんスか?』って聞いて、『俺、あいつの保護者なんで困るんでよねー』って言ってやるんだよ」
その何人かが誰にしろ、笹木の勘違いにさぞかし戸惑ったことだろう。
なんだか代わりに自分が謝って歩きたいような気もするが、それにしても相変わらずの笹木の自由ぶりにやっぱり笑ってしまう。
でも彼はこう見えてとても優秀で、社内での評価が高い。
なにしろ羽菜子は経理にいるのだ。彼が同期の中で最も昇給していることも知っている。
「ってことで、あとはハナコに言うだけだったんだ。どうだ? 結婚。俺としようぜ」
――俺としようぜ。
羽菜子の読むファンタジーは恋愛物ではないが、それでも『結婚。俺としようぜ』なんて気軽に言い出すヒーローはいない。
「なぁ、どうなんだよ」
「――うん。わかった」
そんな可愛くない返事をするヒロインもいない。
でも、それが羽菜子の精一杯だった。
だって、頭の中はぐちゃぐちゃで胸はドキドキだし、頬は熱いし、笹木はニコニコしながら覗き込むようにジッと見つめるし、もう何て答えていいか本当にわからなかった。
「ハナコ。お前、ほんと可愛いよな」
「へっ?」
素っ頓狂な声が出た。
「ほら、そうやって真っ赤になるとか、まじ可愛い」
笹木は横からギュウギュウと羽菜子を抱きしめる。
「や、やめてよ、熱上がっちゃう」
「おっと、それは大変だ」
慌てて離れたものの、笹木の話は止まらない。
「俺、うれしかったんだぁー。お前が自分から言ってくれたこと。うれしくって昨日さ、実はうちの課長に報告したんだよ。俺そろそろ結婚しちゃうかもってな。ま、お前に言ってないから、相手はまだ内緒にしといたけど」
なんだか気恥ずかしくて、羽菜子はまたリゾットに目を落としスプーンで掬う。
「美味いか?」
「うん、とっても美味しい。食べてみる?」
アーンと開けた笹木の口にリゾットを流し込む。
「どう?」
「美味いな、冷めてるけど」
――あはは、そりゃそうだ。
「静かな店だったでしょ」
「ああ、やけに静かな店ですねって言ったら笑ってたな。九時以降は賑やかですって言ってたぞ」
あのマスターに持ち帰り料理の注文をしたり、そんなことをはっきり言う客は笹木くらいだろう。
マスターと彼とのやりとりを想像して、笑ってしまう。
「今度、ふたりでいらしてくださいってさ」
こんな自由人がいたら、常連の女性たちが戸惑ってしまうに違いない。
だからディナータイムはいままで通りひとりで行こうと、羽菜子は思う。
昨日応援してくれた彼女に、負けなかったと報告もしなければいけないし。
笹木は自由人なりに、店の空気を読んだのかもしれない。
「一緒に行こうな、九時過ぎに」
そう言ってニッと笑った。
「うん」
クリスマスイブのマスターの選択ミスの映写会。
お土産にくれたケーキ。
――マスターは魔法使い?
美味しいごはんと幸せを運んでくれる『執事のシャルール』
『またのお越しをお待ちしております』
マスターの穏やかで優しい笑みがリゾットの湯気に浮かんだ気がした。
- 終 -*
毎日同じことの繰り返し。
引っ込み思案で地味なOL、田中羽菜子には唯一の楽しみがある。
路地裏のレストランバー
『執事のシャルール』
そこには、執事のような風貌の無口なマスターがいて、
とても美味しいおすすめディナーがある。
クリスマスイブの夜、
羽菜子は、店に招待された。
その日から運命の歯車が大きく軋み始める。
「俺んちすぐそこだし、泊まって行けよ」
まるで、同性の友人にでも言うように、笹木はさらりと言った。
たとえ一夜という短い時間でもいい。
羽菜子は幸せを掴むため、勇気を出す。
あくる日から羽菜子は、悪質な噂に悩まされる。
それでも『執事のシャルール』のマスターや常連客の女性に励まされ、戦う決意をする。
羽菜子はひとりじゃなかった。
彼女を守る経理課の仲間がいた。
そして笹木も。
羽菜子に残ったのは、優しい皆の心と、彼と、
『執事のシャルール』の美味しい食事だった。