実際彼はバンドマンなわけではない。
スリムなパンツを履く理由はちゃんとあって、通勤がバイクだからだという。バイクというのは自動二輪のことではなくロードバイクという種類の自転車のことらしいが、普通の形のスラックスだとどうしても裾が邪魔になるとかなんとか。

羽菜子は胸の内でため息をつく。
――いいなぁ、自由で。


思えば入社式から彼はそうだった。

たまたま羽菜子の隣に座った彼は、ひとりだけ緊張感がなく、背中を丸めてぼんやりと椅子に座っていた。
目元が髪でよく見えなかったが、寝ていたらしい。
全てが終わったあと、むっくりと羽菜子を振り返ってこう言った。

『なぁ、なにか覚えておいたほうがいいようなこと、言ってたか?』

話はしたくなかったが、絡まれても困るので、羽菜子は真顔で答えた。
『――具体的な話は、特にありませんでした』

『ふぅーん。シャチョーはなんだって?』

『隙間はどこにでもある。うちのような小さな商社だからこそできることがあるはずだ。私たちでは予想もできなかった新しい発想や視点で君たちが見つけ出すものがなんなのか、期待している。そんな感じの話だったと思います』

羽菜子がそう答えると、フッと頬をあげて白い歯を見せながらハハッと笑った彼は、
『俺は情報システム課の笹木遊』

そう言って右手を出してきた。